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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「お金の時代」が終わる

楽太郎です。

夏至から始まった「覚醒」のフェーズは、どうやら23日の処暑にクライマックスを迎え、今は別のシークエンスに移行しつつあるのを感じます。
私はこれまで知的追求と「日月神示」を中心とした周知に並々ならぬ情熱が向かっていたのですが、このエネルギーがカチッと切り替わった瞬間から、頭が創作に向かうようになってきました。

しばらく、絵を描きたくても違うテーマの事柄を優先しなくてはいけない状況が続いていました。
それはそれで「こういう時期なんだな」と思って割り切っていたのですが、これまでは「理論」の段階を突き詰めるターンから、「実践」という具体化のフェーズが始まったのだろうと感じています。

勢い余って「日月神示解説」というサイトまで立ち上げて運営を始めてしまいましたが、ここ数日で何となく一区切りついた感覚もあり、もしこれが「型」を出す初期段階なのだとしたら、より型を固めるための現実化を進めていくことになるような気がします。

周りを見回す限り、日本人は「ヤバいヤバい」と言いながら、のほほんとしているように見えます。
実際、どう事を起こして良いか見えず、また何かをやろうにも巨大権力に頭を押さえつけられている状況では、何事も無駄になる可能性も高く、あえてここで「何もしない」というのも意外と賢い選択かもしれないと思うようになりました。

人々が「昨日やっていたことを今日やるだけ」という感じに見えなくもないですが、実際のところ大変だった昨日を今日繰り返すだけでも十分大変であり、そのことだけで手一杯でも不思議ではありません。
私としては、もう少し変化の姿勢を見せて欲しいと思うところでもありますが、人様のことは人様に任せて、私は私のやるべきことをやっていくしかありません。

今の世界のどこを見回しても、おおよそ殆どの人が権力の座にしがみついて全く放そうとしない、頑固なお偉いさんに心底ウンザリしながら、同時にどうしようもないことも知っていて、何とか状況が変わるまで耐え抜こうとしているように見えます。

日本は言わずもがな、海の向こうのお国でもそうで、貧困化が進む世代的コア層がかつての社会に戻そうと右傾化して担ぎ上げた大統領が、どこよりも左傾化した上に肝心のマニフェストを放り出して、世にエゴと混沌を撒き散らしています。
これはどこの国にも共通して見られ、選挙で世を変えることを志した人々が、むしろ自分たちが選んだリーダーに真逆の目に遭わされては絶望に陥っています。

これらの現象が、どこの国でも型に嵌めたように同時に起こっているのを見て不思議に思うのですが、奇特にも日月神示をよく読んでいる者からすれば、「選挙制度という幻想」を引き剥がすためのシークエンスに入っているとしか思えないのです。
そして、「暴走する権力者」という構図は、殆ど全ての人々がどうにもならないことに気づく瞬間まで加速し、民主主義も社会主義も絵に描いた餅に過ぎなかったことに、いずれ気がつくことになるのだろうと思います。

これまでの世界がどういう形に見えたとしても、少数の選民的集団が考えて実行する枠組みに主導権があり、その中で全てが仕組まれて機能していたことを、後になって初めて知るのでしょう。
自分たちが隠れ蓑とする「民衆」の力が世を形作っているように見せるカラクリも、だんだん明らかとなって来るはずです。

先日、「今のハイテクバブルは崩壊するのではないか」と持って回ったような話題がマスコミに出始めた話をしましたが、先日NVIDIAの第二四半期決算が予想を下回った、というニュースも出ました。
また政府主導で半導体装置大手、Intelの国有事業化が始まっており、それに連動して同社の将来性が危惧されています。
私は以前から未曾有のバブル崩壊と経済破綻が起こると警告していますが、おそらく震源地はここです。
というより、「バブル崩壊」はずっと前から仕組まれていて、実はいつトリガーを引くかというタイミングにありました。

トランプ大統領が当選した昨年11月当たりに、銀行ターム融資プログラム(BTFP)という銀行救済制度の融資残高がゼロになるように設定したのは、トランプ氏と骨肉の争いを続ける連邦準備制度(FRB)のパウエル議長です。
アメリカは大手銀行を始め、年々含み損が増大して青色吐息の状況であり、FRBがその延命治療を施さなくては中小の銀行から連鎖破綻が起こる恐れがあります。

そもそも、その金融危機もパウエル氏が「レポ取引」という銀行への優遇制度を2019年に引き締めを行ったことに端を発します。
この話を経済に疎いトランプ大統領が側近に耳打ちされたとしたら、「アメリカの金融が潰れそうなのはジェローム(パウエル)、あいつが悪い」と短絡的に思ってもおかしくありません。

実際に大して間違いではないのですが、2020年辺りでFRBが失策したのは確かであり、この実態こそズブの素人である私ですら知っていることですから、プロ中のプロのエコノミストが無知なはずがありません。
この金融危機を予め予期している機関投資家などの大手資本は、その経済的皺寄せを個人投資家に押しつけるべく、最近までバブルの雰囲気を伸ばすに伸ばし、バブルを煽るに煽ってきたのです。
その兆候は、大手投資会社バークシャー・ハサウェイを率いるウォーレン・バフェット氏の動向を見れば明らかであり、彼は今年12月をもって引退することを宣言しています。

そして、Broombergなどのプロパガンダメディアが「そろそろバブル、危ないんじゃない?」と煽り出したのは、「危険は一応知らせた」というマスコミの自己保身的アリバイ作りであって、それは金融業界の偉い人たちが逃避するための準備完了を告げるものでしょう。
金融市場は以前から着々とバブル崩壊の準備をしていて、その罪状を一身に担うことになるのはNVIDIAのCEOであるジェンスン・ファン氏だと思います。

また、その共犯の槍玉に挙げられるのが、非営利企業のCEOでありながら100万ドルの高級外車を乗り回すOpenAIのサム・アルトマン氏を始め、ビッグテックらAIブームの恩恵に預かった頭取の面々でしょう。
経済崩壊の原因を作った張本人こそウォール街の住人ですが、テック企業を悪役にしてスケープゴートにしつつ、もう既に彼らの手仕舞いは済んでおり、これからは悠々自適な隠居生活が待っているのだと思います。

おそらくその後、アメリカは景気後退を避けられず、失策続きのトランプ政権は中間選挙で大敗するでしょう。
そのシナリオも民主党が大統領選中に用意したものでしょうが、そのタイミングを利用してリベラル派が意気揚々と浮上してくるはずです。
それはトランプ大統領の懸念事項であり予想しうることで、大して混乱もしていないカリフォルニア州に州兵を送り込むことすら辞さない、強情なプレジデントの気概によっては、下手すると内戦に突入するかもしれません。

私は、そのままアメリカは国家解体に進むと考えており、実際にあれほど根深い問題を抱え、社会構造として袋小路に陥っている状態を鑑みれば、一度ガラガラポンをした方が手っ取り早く、人間が大地を有効利用できることにいずれ気がつくでしょう。
それを見て、決して我が国もアメリカを指差して笑える状況にありません。
アメリカ51番目の州である「日本州」ですから、アメリカの国家崩壊の憂き目を見ることになるのは確実です。

だから私は一刻も早く、大暴落間違いない米国債を大量に売り浴びせ、円高還元を行い日本一人勝ちの状況にすれば良いと思いますが、残念ながら80年かけて魂を抜かれた日本人にそれは不可能でしょう。
ただ、既存の経済の枠組みが崩壊するということは、ただでさえ円安と物価高でスタグフレーションに陥りつつある(実は既に陥っている)日本人の生活形態が変わってきたように、社会の仕組みも自然と変貌していくことになると思います。

既に低成長経済が板についたフランスやドイツは、ゴチャゴチャした余剰な道路網を再整備し、解放した土地を緑化させたりしています。
人口動態を見ても、文明的視点、技術発展の視点から捉えても、日本も必然的にそうなっていくと思います。
EUは「緑の党」という環境カルトの政党が躍進しており、土地の緑化はその一環だとしても、使用頻度の低いインフラを維持する合理性はやはり見直される必要があります。

既に昭和遺産とも呼べるバブル期の廃墟に見られるように、解体する費用すら捻出できず風化に任せている建物や土地は山ほどあります。こういった構築物は今後増えていく一方であり、人々は市街地に集まりながらも都市計画は次第にミニマム化していくはずです。

日月神示をここで持ち出すならば、それが「金で治めて金で潰す」という神々のシナリオをなぞることになると思います。
我が国ならず、世界中で生成AIやEVや自然エネルギーのような出口のない技術にしか発展を見出せない現実は、人類が必要な技術開発をあらかた終えてしまったことを意味しています。

これまで、経済発展と成長があったからこそ、市井の人々には「社会的成功」がビジョンとなり、自分の人生の大切な時間を投げ売ってでも「お金」を手に入れようとしてきました。
しかし、飽和しきった後の時代にあっては、人々がごく少数の「お金持ち」になるために過酷極まる競争に駆り立てられるよりは、多少お金に窮屈しても自分の自由や、快適な生活を優先するような精神風土になっていくのではないでしょうか。

むしろ、神示ではそういう時代を形容して「天地がひっくり返る」と喩えているのかもしれません。
今、世でお金と権力と名声を振り回して下々を従えている成功者が、「資本」という力を引き剥がされた時、その行いの程度によっては人々に裁かれる瞬間が来るでしょう。
多くの人々が「お金」に対する信頼を失えば失うほど、彼らお金持ちに対する憧れは薄れていき、それならば自分の手元や足元にある自由を大事にして生きていこうと、そう思うはずです。

その時、決してお金や成功目当てに生きるのではなく、自分の権利や自立心を大切にするからこそ、これまで社会で浮上できなかった人々の生き方が「理想」とされていくと思います。
むしろ今、地面の泥を舐めているような人ほど脚光を浴びる時代が来るとしたら、それこそまさに「天地がひっくり返る」という形容が相応しいのでしょう。

俯瞰すると、日本が貧しくなって民族的自尊心を失くしていったのも、2000年を皮切りにした「グローバリズム」の到来にあったように感じます。
グローバリズムというのは、所詮は欧米に有利な条件で欧米のやり方で欧米の仕組みを使い、欧米のモデルに追従し欧米の一部に組み込まれる仕組みだったのです。

日本は、本質的な技術開発や需要を掘り起こすのが得意な国民性を持っています。
漫画・アニメなどの二次元産業は日本が誇る産業文化ですが、「クールジャパン」として海外に持て囃されて以降、広告業界と海外資本に寄生されて残念な業界になってしまいましたが、数々の電化製品も食品製造技術も観光産業も、日本人だからこそ発展してきた分野です。

日月神示的に言うと、「外国は外国のやり方、日本は日本のやり方」なのです。
日本のやり方を捨ててグローバル化に邁進した企業が、人々から本当に信頼されるビジネスを展開している企業に見えるでしょうか。
あえて企業名は出しませんが、CEOが海外出身の人になった企業ほど本質的な部分を捨ててしまったように思えます。
そして日本企業としての個性や良さを失い、金策で勝とうとする海外企業と横並びの存在となってしまいました。

日月神様のような説明の仕方をすれば、外国のビジネスは外側「◯」を整えて、その仕組みを循環させることで発展させるのは、非常に得意です。
それに反して、日本は基礎研究からしっかり行い、実体のある需要を捉えるような基本「・」を中心としたビジネスの方が上手くいきやすいのです。
グローバル企業は、欧米に合わせて「◯」に特化した組織形態となり、どちらかと言えば日本企業は基本を取り入れた「◉(◯の中に・が入っている)」性質をもち、それゆえに高度経済成長時には他国の技術を凌駕したのだと思います。

しかし、「お金が第一」となり、いかに需要を捉えても儲けが出なければ事業をする価値がない、と判断する現在の我が国のやり方は、完全に中身を失い「◯(形骸)化」しています。
もうこの際、グローバリズムは肌に合わないことがわかったのだから、無理に衰退する諸外国に合わさず、日本人は日本人のやり方に戻っていくべきではないでしょうか。
おそらく、外国の「成功モデル」の崩壊は、自動的に日本の独自技術や伝統文化の見直しに繋がっていくはずです。

大量生産・大量消費の時代に一旦区切りがつくことで、人々がイヤイヤながらお金のために時間を費やすような働き方ではなく、もっと市民の需要に応えるような、実体のある商業取引に焦点が当たっていくでしょう。
だから工業生産も、次第に低コストかつ高付加価値を目指すようになり、手工業や伝統工芸が伸びることも予想されます。
やはり、巨大企業が高性能製品を大量生産するよりも、質の高い製品を持続的に製造する方が経済効率が遥かに良く、環境への配慮もあるからです。

そこにおいて、地味に工業の下支えをしてきた町工場も再評価されていくでしょうし、着々と技術を育ててきた企業や職人は報われていくと思います。
私の業界の話をしてしまえば、「AIがあれば才能も努力もいらない」とタカを括っていた人たちを尻目に、きちんと才能と知識と感性を磨いてきた人ほど、その技術が改めて認められていくでしょう。

手間味噌ですが、私はそうなることを予見していたからこそ、生成AIを使うことを避けながら、マンパワーにこだわり地道な努力を続けてきたのです。
私は直感的に数年前から現行システムの矛盾と行き詰まりを感じ取っていて、近い将来に色々とやり尽くした結果、昔のやり方が最も合理的だったことに気づいて「元の鞘に収まる」のではないかと考えていました。
ここ数十年、理不尽な形で「金儲け」という巨大な仕組みに振り回され、抑圧されてきた人々や物事が再評価される時、そのきっかけが商業主義の崩壊にあるという皮肉は、むしろ最初から宿命づけられたものだったのかもしれません。

私は、このまま日本が脱落したままで、後は滅んでいく一方だとは全く思いません。

ただし、あまりにも人々がチャンスを袖にするようなら、自分たちでこの最大の幸運と繁栄を取り戻すきっかけを逃すことになりかねないと思います。
ゆえに、その選択はこれからの時代を動かしていく私たち次第です。
日本は日本のやり方で、日本人が日本人に合うやり方を少しずつ思い出していけば、日本はおそらく文化的、文明的な面で世界をリードする国となれるはずです。

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AIの時代は来ない。

楽太郎です。

最近、本ブログでは「反米」的な言説が多くなっていますが、我が国が終戦から80年という節目を迎え、欧米の文明的衰退と混乱を目の当たりにしながら、日に日に行き詰まりを感じる私たちが「このままで良いのだろうか?」と考える風潮を持ち始めているのも、何となく反映しているのかもしれません。

当のアメリカは中国に尻尾を振りながらロシアを支援するインドを牽制し、EUに喧嘩を売りながら韓国は見捨て、イスラエルを無償支援しながらウクライナに譲歩を迫るという意味のわからない不確実性を撒き散らしています。
俯瞰してみるとアメリカは「第三の社会主義帝国」という振る舞いを隠そうとしていないようにも見えます。
私は中国もロシアも実はアメリカとは対立しておらず、構造的に同根なのではないかと以前から仮説を立てていたのですが、まさか目に見える形になって出てくるとは思いませんでした。

本日付のBloombergに、政権ベタ寄りの提灯記事ばかりの同社のコンテンツの中で、珍しく骨太のコラムが掲載されました。

トランプ氏が突き進む米経済自滅の道 | Bloomberg

「このコラムの内容は、必ずしも編集部やブルームバーグ・エル・ピー、オーナーらの意見を反映するものではありません」と但し書きがあるあたり、「編集としては内心こう思っているけど、さすがに社の本音と言う訳にはいかない」という口惜しさが滲み出ているように感じます。
ただ申し訳ないですが、AIの規制緩和やイノベーションの推進は、債務超過の危機にある米国政府がハイテクバブルを利用して外国から投資を呼び込むための方便であり、トランプ大統領の方針を総括すると360°悪手です。

今の新聞業界は、日本でも凋落が激しいですがアメリカも例外ではなく、この30年で新聞社の人員が4分の1になったというデータがあります。
確かに、ネットニュースさえあれば紙の新聞は翌日になれば「新聞紙」として使う以外の用途がなくなり、経済効率的に良いとは言えません。
この業界も人員不足で取材なども踏み込んで行わず、またファクトチェックする余裕もないのでしょう。

ネットニュースはサブスクなどを展開していますが、マイクロペイメントにすればもっと記事単価の収益は上がるのに、全体的に高価格帯のサブスクを一般化しようとするため、ニュースに高い月額を払える比較的裕福な層と、無料の粗雑なネットニュースを見るだけの貧困的一般層の間に情報格差が起きていると言われます。

これが俗に言う「ペイウォール」という情報障壁で、優良かつ正確性の高い情報は高額サブスクが払える層は享受しやすいですが、朝食のメニューすら変えることもままならない人々は、無料で手に入る多くの偽情報や扇情的なデマを含む劣悪な情報ばかりを取得してしまう傾向にあります。
客観的なデータや観測に基づく情報に触れている人々はそのデマゴーグを見抜けますが、情報弱者はその情報リソースにアクセスする手段が物理的に限られているため、両者の意思疎通や情報共有は必然的に難しくなります。

私は、この情報格差がアメリカならず我が国に蔓延する社会的分断に繋がっているのではないかと考えています。
少なくとも世の中を俯瞰的に見るためには、リソースのある情報に接する必要がありますが、元々エビデンスのある情報とデマゴーグの区別がつかないような情報弱者は、その情報価値に気づくことすらできません。

私はこれはかなり由々しき問題で、良質な情報に触れる機会の多い人が成功したり出世するのは当たり前で、情報格差は労働環境や経済的な格差にも繋がっているのではないかと思います。

さて、今回の話題はそこではなくて、同Bloombergの本日配信の記事がツッコミ所満載だったので、そのことに触れたいと思います。

AIが企業を脅かす時代ついに | Bloomberg

この記事、そのまま読んでも何となく文脈が噛み合っていないように感じるのですが、よく読んでみると「AIが盛り上がりすぎて従来企業が倒産しまくっている」という内容の記事ではありません。
逆に「今のところ、チャットボットや、ソフトウエアのコード作成や複雑な質問への回答、写真や動画の生成が可能な「エージェント」と呼ばれるAIの普及が原因で破綻した企業はほとんどない」と書いてあります。

読み進めると、テクノロジー関連企業の三社、容易なUI操作でWEBサイトが作れるWIX、写真や画像素材のライセンス販売をしているシャッターストック、デジタル画像処理ソフトの老舗Abobeが株価を30%近く落としている、という内容から「AIがハイテク分野の代替を始めたからテクノロジー企業が苦戦を強いられている」と言いたいようです。

しかし、この記事の文章のおかしさの原因は、これらの株価下落に喘いでいる三社が「AIによる経済活動の代替」との因果関係を説明していないことにあります。
順を追ってみると、WIXのようなサービスが行うWEBコーディングは、生成AIがあればあっさり作れてしまいますし、WIXのようなノンコードのサイト作成と同様のサービスは我が国にもあります。
生成AIで無限にフェイクサイトが作れる時代に、サイトのテンプレート加工を促すサービスが脅威に晒されるのは当たり前のことで、競合他社が乱立する業界なら将来性が危ぶまれるのも納得できます。

画像素材を提供するシャッターストックですが、近年Windowsですら標準搭載されている画像生成AIを通せば、画像素材にライセンス料を払わなくても無料で使えます。
しかし、画像生成AIは「LAION-5B」という児童ポルノも犯罪写真も著作権のある芸術作品も一絡げにぶち込んだ58億トークンのデータベースを元に出力されているもので、存在そのものが「合法的」かは未だに議論があります。

Adobeのフォトストックもそうですが、こういう投稿型の共有サービスはAI生成画像も大量に含んでおり、そもそもコンテンツ素材のライセンス販売サービスは投稿者にロイヤリティを還元するものですから、画像生成AIを使用した全く素人のユーザーがロイヤリティ収入目当てに大量投稿します。
しかし、画像生成AIは誰でも無料同然で素材が作れてしまうので、わざわざ共有サービスに課金して素材のライセンス料を支払う必要性が相対的に薄れます。

ただ、先に述べたように画像生成AIの非合法性は徐々に認知が広まりつつあり、企業が自信を持って世に出せるコンテンツでは既になくなっています。
記事本文に「コカコーラ社がCMに生成AIを使っている」という例が示されてますが、著作権の文化的世紀末と化した我が国でさえ、生成AIを使ったプロモーションは炎上しています。
ホワイト企業としては「弊社は権利尊重を第一とし、生成作品は受け付けておりません」とキッパリ言えば立場を守れるのでしょうが、こういった投稿共有サービスは生成作品の投稿を推奨していたりします。

そしてAdobeですが、言わずもがなデジタル画像処理ソフトの老舗であり、現役のイラストレーターやクリエイターにとっては主力のアプリを提供しています。
しかし、近年は権利関係で言えば完全に黒に近い画像生成AIをソフトに実装し、それだけでなくサブスクを高額化したことでユーザーから大顰蹙を買っています。
上記にあるように、画像生成AIのデータベース自体が58億枚と呼ばれる無許諾の著作物が蓄積されただけのプールであり、その中には個人の肖像や児童ポルノ(SCAM)、リアル犯罪写真も大量に混じっています。

これほど問題を内在する機能をクリエイター向けに実装しながら、実はアプリを長年使ってきたクリエイター自身の作品も生成AIのデータベースに利用されている可能性が極めて高く、挙げ句の果てにサブスクも高額化したらユーザーに愛想を尽かされるのは当然です。
記事では「Photoshopを使うようなクリエイターがAIに代替されているからだ」と言いたげですが、実は生成AIを批判しクリエイターの保護と文化の発展への寄与を表明したProcreateと、日本のデジタル作画環境の柱となっているCELCYSは順調に株価も利益も伸ばしています。

冒頭に「AIで潰れた企業はない」と書いていますが、実は生成AIの登場でクリエイターの商業活動が業界的に苦しくなったのは確かです。
ただ、クリエイティブ業界がAIによって致命的な代替が行われている事実はありません。
むしろ、消費者がプロの作ったコンテンツではなく第三者による権利面に配慮しないAI生成物を享受し始めたことへの倫理的配慮のなさや悪用の方が、クリエイターの絶望感に繋がっています。

自分たちが努力して積み上げたコンテンツが生成AIを通しただけで著作権フリーとなり、クリエイターの作品データを無許諾で生成AIに投入して作成した「LoRA」というAIモデルは、クリエイターや演者の作風を再現したものであり、それが大量頒布され第三者が収益を得ている実態があります。
そして、LoRAに対し拒否を表明している作者本人になりすまして第三者が商売をしたり、クリエイター本人に送りつけて心理的外傷を与えるケースも頻発しています。

これはクリエイターだけの問題ではなく、俳優や声優などの演者、それだけでなくネット上にある一般人の自撮りなども収集され、ディープフェイクや詐欺に悪用されるケースが続発しています。
生成AIは権利以外の面でも、犯罪を助長する目的に広く使われているのが現状です。

話を戻すと、これら三社の株価下落は「AIによるテクノロジーの代替」というよりは生成AIをサービスに取り込んだゆえの失敗と生成AIサービスとの競合によってもたらされたと考える方が自然であり、この記事はその裏側と紐付けられていません。
また、後半の「ガードナーの収益低下」について、ガードナーは経済トレンドの分析を担う企業であり、NFTやメタバースの凋落と生成AIのハイプ(誇大宣伝)と行き詰まりも以前から予見していて、AIを推進する側からすると叩いておきたい相手でもあるのでしょう。

Bloombergは政府の提灯記事ばかり出す新聞社ですから、AI推進に全面的に舵を切っているトランプ政権に矛盾する記事を出すわけにはいきません。
本文の一番最後に教育系サービスを展開する「デュオリンゴ」が好調である旨が述べられていますが、高度な情報分析を得意としながら数式計算もアルファベットの綴りもわからなくなるLLM型の生成AIが、医療や教育分野での確実性が早くから疑問視されており、教育分野でのAI活用は限定的というのが実情です。
ゆえに、教育系サービスが限定的に生成AIを活用しながら、マンパワーの分野で成績を上げるというのは今の趨勢に矛盾しません。

だから最初から最後までこの記事が何となく奥歯にものが挟まった言い方なのは、「生成AIは正直全く脅威ではないけど、米国を支える株式バブルを煽るために恐怖に訴えてでもテック業界への援護射撃がしたい」という気持ちの現れなのだと思います。

今日のBloombergの記事もツッコミ所満載だったので面白く読ませて頂いたのですが、せっかくなので「本当にAIの時代は来るのか」について書いてみたいと思います。

上でも言及しているのですが、生成AIの根本的な問題はハルシネーション(幻覚の発症による錯乱)や熱暴走だけでなく、データベース上の権利的問題もあります。
そもそも、生成AIは世界中のインターネット網にある情報を権利関係なくBOTによって収集して、その蓄積データを「Google検索がサイトを探す」ような形で素材となる学習データを再構成します。
冷静にシステムとして見れば単なるデータのコラージュをしているに過ぎず、どこにも自意識が芽生える要素がないように思えます。

子供ですら、「1たす1は2」という概念法則を一度理解してしまえば、3685+874も時間をかければ正確に解けます。
しかし、AIは方程式をしっかりフレームで確立する必要があり、たまに間違うことも大目に見た上で、間違っていたら確認してフィードバックを返さなければなりません。
そのデータベースも、「最適解の多数決」によって出力するので本質的には衆愚政治に近く、哲人政治が人徳と真理に近い概念を用いて指揮するのとは違います。

しかし、実際にChatGPTなどでうまくプロンプトを打てば、たまにはプロのお笑い芸人より面白いことの一つや二つは言ってくれます。
この部分だけを拾えば、「生成AIの方が人間より高度なものを生み出せる」と言えなくもありません。
ただお笑い芸人は10のうち7くらい面白いことを言わなければ食べていけないでしょうが、生成AIに面白いことを言わせようとして、その試行回数と成功の比率をお笑い芸人と比べてみて、10回試行させたら7回は笑える出力結果を出すようでなくてはなりません。

けれども、往々にしてベンチマーク50%水準の生成AIが70%成功するのを当てにするのもおかしな話です。
生成AIという技術はかなり粗雑で、権利面だけでなく性能の面でも及第点とは言いにくいですが、経済効率もあまり良くありません。
生成AIは試行のたびに膨大な処理を行うため、かなりの電力を消費します。
Microsoftは、生成AIがデータセンターで使う電力供給のために、かつて放射能漏れ事故を巻き起こしたスリーマイル原発の再稼働に全面協力しています。
一応付記しておきますが、スリーマイル原発は未だに通常稼働しており、廃炉になったわけではありません。

生成AIを走らせるためのデータセンターは膨大なエネルギーを使うため、装置の発熱が凄まじく冷却に大量の水と電力を使います。
だから、データセンター周りの水資源の枯渇や汚染など、自然環境への悪影響はぼちぼち出始めています。
これだけエネルギー効率も経済効率も悪い上、権利面や安全面でもリスクが高く、しかも産業としてトントンの収益か赤字にしかなっていないのが生成AI分野なのです。

しかしEV然り、政府が大量に補助金を出すような国家事業は、産業としては赤字でも政府が資金を注入するうちはバブリーな分野となってしまいます。
イーロン・マスク率いるテスラも、米国や中国の行政支援なしに業績を上げることはできず、企業として万年赤字体質でも潰れないのは、各国の政府や軍が血税で彼らの延命をしているからです。

マスクは現在、買収したTwitterを生成AIの巨大な実験場にしてしまいましたが、彼のAIへの熱量は凄まじいようです。
今なお続くマグニフィセント7を中核とする第二次ハイテクバブルは、別名「AIバブル」とも呼ばれます。
しかし、実は2022年に一旦「AIバブル」は弾けていて、ビッグテックの株価が一斉に落ち込んだほぼ1年後に、OpenAIが「ChatGPT」をリリースして表向きに今回のバブルが始まったことになっています。

2022年のAIバブル崩壊時には、自動車の自律走行技術に対する失望感と、EV市場の翳りもありました。
AppleもMicrosoftもAlphabetも、マイナーアップデートの製品をドヤ顔で出すパターンに投資家もウンザリしていた時期でした。
その頃、OpenAIの開発や企業幹部からは倫理面や安全性に問題があると提起されていながら、その首脳陣をクビにして無理矢理GPTをリリースしたのが当CEOのサム・アルトマンです。

タイミング的に、外国からの投資がなければ終わるアメリカの危機的な金融業界が、10年来維持してきたバブルの息を吹き返させ、全世界から投資を呼び込むのに「生成AI」は多少荒削りだが金融商品には売ってつけだったのでしょう。
その流れは今も続き、産業分野としては赤字傾向でも「AI革命」の名の下に「来年になればAGIが完成し、世界は変わる」と喧伝し続けても一応は希望の眼差しを集めることができます。
しかし、AI研究の学術分野で生成AIの開発フレームからAGIが派生する可能性はほぼないとされ、しかもAGIは基礎研究分野で未だ実証されてはいないのです。

だから私は、生成AIの実態は近いうちにNVIDIAの粉飾決算もろとも白日の元に晒され、廃墟化する分野だと確信しているのですが、AGIに関しては未知数が大きすぎて何とも言えません。

「もうすぐ実現する」と言っても、100年前から期待されているような立体映像も空飛ぶ車もまだまだですし、私の子供の頃は「もうすぐリニアが走り回るだろう」と言われていましたが、政治的ゴタゴタのせいで 21世紀が四半世紀を過ぎてもあと10年は無理そうです。
理論は出来ても、実証化して製品化するまでどれくらい掛かるのかは誰にもわかりません。
AGIという空想上の技術革新が起こればAI革命はないとは言い切れませんが、そもそも「意識」というのは理論化できるものなのでしょうか。

一応付け加えておくと、「生成AI」と「AI」は似て非なる技術で、生成AIは検索エンジンとシステムが似ていますが、AIが本来の自律思考を目指すタイプの技術です。
通常のAIに関しては、先進国は人手不足で代替技術の需要は高いですし、一般的に技術革新がこのまま進みAIによる労働力の代替は進むと考えられています。
ただ、「AIロボットが労働者を代替する」という議論にも、私は疑問があります。

我が国でも少子高齢化の煽りを受け、これほど人材不足が叫ばれ外国人労働者として移民を推進しているのに、AIロボットの普及をあまり見かけません。
かつて窓口に置かれていた「ペッパー君」は姿を消し、今では地方の倉庫に大量に眠っていると言いますが、今こそペッパー君を再稼働させて低価格帯で業務対応させれば良いと思います。

なぜそれができないかに、AIロボットが人間の労働力を代替し得ない理由があります。

ペッパー君が再度市場に投入できないのは、電子制御環境が古いソフトウェアのため動かせないのもあるのでしょうが、それはペッパー君を保有する企業が無理に機体を引っ張り出しても利益にならないと踏んでいるからでしょう。
AIロボットは戦闘機並みの精密機器の集まりですから、部品一つ破損しても修理には専門技術や産業インフラが必要で、その維持にも高いコストがかかります。
20世紀末に登場したロボット犬の「AIBO」も、故障部品の代替を行うにも古い部品を再生産することが技術的に不可能なため、廃番のAIBOは修理するのも困難だと言います。

つまり、AIロボットが高度になればなるほど、製造元の企業は修理環境を維持しなくてはならず、その供給体制には莫大なコストがかかります。
しかも、サプライチェーンが何らかのアクシデントや社会情勢などで遮断されれば、供給網に致命的な影響を受ける可能性があります。
近年の不確実性の高い国際状況、各国の経済的混乱を背景に、複雑な機構を持つAIロボットを維持管理する方法はかなり限られてきます。

ゆえに、私はペッパー君の製造コストが何十分の一に下がり、二足歩行どころか料理までこなすようになっても、そのサービスの維持に現実的ではないほどのコストがかかるため、結局は人間を安い賃金でこき使った方が合理的という結論に達すると思います。
しかも、仮にヒューマノイドが人間の雑務全般をこなして社会全体の労働負荷を減らすにしても、結果的に社会全体のGDPを押し下げることになるはずです。

まずヒューマノイドの製造と管理運営にかかる労働生産性は、提供企業が担うことになります。
その結果、ヒューマノイドが行った生産価値は企業に転嫁される形となり、労働者はヒューマノイドが差し引くGDPの分だけ生産性を向上させる必要があり、自分たちの労働単価を上げつつ還元させながら、ヒューマノイド提供企業に対して税金のようにリース代を払い続けなければなりません。

この構造を解決するには、国家が公益事業としてヒューマノイドを生産、維持管理を全面的に担いサプライチェーンを国内に整備し、どこでも均等に無償配備していくべきでしょう。
しかし、庁舎のプロジェクトマッピングですら何十%も中抜きされる公共事業において、その社会インフラが公平であり続ける保証はどこにもありません。
おそらく、監督官庁がずさんな運営を黙認しながら、製品レベルで中抜きによる劣化が進み、国家負担が増大して維持が不可能になるのではないでしょうか。

そもそも、「人間が遊んで暮らして、AIロボットだけが働く世界」というのは可能なのでしょうか。

よく近未来は「ベーシックインカム」で誰もが無収入で暮らせるようになる、という話を聞きますが、経済学ではベーシックインカムの理論は未だ学術的に確立されていません。
早い話がベーシックインカムとは、別の説明の仕方をした「共産主義」のようにしか思えないのですが、仮にそれで最低限の生活ができるとしましょう。

ヒューマノイドが農業や工業生産を実施するのですから、誰かが監督しなければなりません。
そうでなくてもヒューマノイドは精密機械ですから、細かいメンテナンスや修理が必要になります。
その保守や監督はAIが全てできれば良いのですが、部品のライン生産も滞りなく行われ、しっかり末端まで流通し続けなければ、すぐに動かない機体だらけになります。

それを監視する人間がどうしても必要になるということは、ヒューマノイドを統括する人間が遊んで暮らしている人間を支配するのと同じ構図になるのです。
「その管理者はしっかりした良い人だから安心だ」と言ったところで、自分たち以外に遊んで暮らしている人間しかいない社会で、きちんと働いている自分たちを差し置いて、遊んで暮らしている彼らの意見に耳を傾ける必要がどこにあるのでしょうか。

私は、この図式は0.1%の超富裕層が50%の中間層以下の総資産を上回る格差社会の現代以上に、歪な社会を作り出すのではないかと思います。

そもそも、寝ててもロボットが口にステーキを運んでくれるような世界において、その人間という存在は一体何様なのでしょうか。
その世界において人間が「奉仕される一方の神様」であるとしたら、地上はきちんと労働し社会基盤を支えるロボットたちが「人間」の立場となり、地上の主役は果たしてどちらなのか、それは一目瞭然です。

今はシンギュラリティだなんだとAIが恐ろしいという風潮がありますが、本当に恐ろしいのは従順なAIが地上を支配した先の世界です。
学びもせず努力もせず、フラフラ遊んでいるだけの人類を見て、果たして知能を持ったAIに存在価値を疑問視される瞬間がないと言い切れるのでしょうか。
だから私は、AIロボットが完全に人間の労働力を代替する日というのは、人類の終焉に直結すると思います。

私はAIが主役になる時代は何百年先か人類消滅までないと思っていて、その論拠はAIが人間を本質的に代替したら人間の存在価値そのものが消え去るからです。
だから、現実的にはAIの部分利用とか制限付きの利用に収まっていくと考えていて、それは今のアームロボットが行っているような、機能特化型のAIロボットが正確に単純作業をこなすのが最適解になっていくと思います。

ぶっちゃけ、それ以外に人間の労働者とAIロボットが持続可能的に共存するビジョンはあるのでしょうか。
下手に高性能であればむしろコストが上昇し、部品製造企業が一社潰れるだけで供給網が途絶えます。
残念ながら、人間を倫理面での限界までこき使った方が合理的なのが経済というものです。
人間の代わりにヒューマノイドを使うくらいなら、ヒューマノイドの代わりに人間を使った方がいい、という結論に結局のところ辿り着くと思います。
だから、今のAIブームも落とし所は一つしかないような気がします。

私はAI自体を否定したいわけではなく、人々がAIに幻想を抱きすぎていることを指摘したいだけで、私自身はAIにあまり忌避感はありませんし、むしろドラクエの戦闘システムから馴染んできた世代です。
生成AIに関しては、産業基盤がアンモラルだから評価していないだけであり、AIを普及する側に人間としてのモラルや合理性が欠けていることが問題だと思います。
銃器を簡単に保持してはならず、核開発が国際問題になるのは「持たせると危険」な人々がいるからです。

今のAI技術はそうなりつつあるというか、もう既になっています。
人々は異口同音に「これからはAIの時代になる」と言いますが、生成AIの画期的利用について未だ思い至らず、その権利面や社会上の問題には見て見ぬふりをします。
「それは問題がある」と言いながら、次々と発生する悪用を止める術を誰も思いつきません。

だから私は、昨今のAIブームは些か冷ややかな眼差しを向けているのです。

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「悪を抱き参らせる」

楽太郎です。

以前の記事でも書きましたが、あれから「悪霊に遭遇する夢」を毎晩見続けており、深層心理的にはかなり参ってきているのではないかとすら感じます。
私の平常心としてすこぶる機嫌が良いわりには、身体のコリは酷いし寝苦しいため体調はあまり良くありません。

こういった憑依現象は正直、私が使命感を持ってやっていることと無関係ではないように感じます。
私の巡りもあるのでしょうが、私の霊性と行動の変化に合わせて向こうも変化しているので、やはり狙いは私への妨害なのだと思います。

ここ最近、神様と繋がりにくいのも邪気のせいだと感じますし、瀬織津姫様のご神気が遠すぎていつもの調子も出ません。
こうして不快感極まると、自分の心からも邪気が湧き上がってきます。
その邪気がさらに邪気を呼ぶので、この悪循環を断つにはどこかでやり方を変えなければいけません。

毎晩うなされるのも常に霊障を感じるのも、正直「もう勘弁してくれ」と思います。
私の魂を引き摺り降ろしたいのはわかるのですが、彼ら邪気側からすれば私の意志を今更変えることは不可能なのです。
だから無意味な抵抗だと思いますし、私も彼らの存在を気にしたくはありません。
しかしこうもまとわり憑かれると、さすがに私もイライラしてきます。

ただ、そうして腹を立てると彼らの思う壺なので、非常に難しいのです。
私があまりに不快なので「ぶっ潰してやる」という気持ちで払おうとしても、その破壊的意志がまた邪気を呼ぶというトリックが発動してしまいます。
だからずっと同じところをグルグル回っているというか、この負のループから抜け出す道筋がなかなか見えてきませんでした。

私は常日頃から日月神示に書かれている「善と悪の融合(あなない)」を真理だと思ってますし、その考えもブログに綴ってきました。
そうは言っても、という感じで邪気を前にして大人を貫くのも限界があったのです。
自分の考えというのは、忍耐力が底をついた瞬間から外れやすくなってしまうものです。
ではどうしたら良いのかと、日月神示には悪を憎み滅ぼそうとするのは悪そのものであり、「悪を抱き参らせる」ことが善に至る道であると説きます。
その方法として、「悪を導くことである」とあります。

全ての人間の魂は、大神から分かれ出たものであるがゆえに「神」と言っても差し支えありません。
その神が闇に染まるのは決して「堕落」のみを意味するのではなく、自らの意思で闇を選択したとも言えます。
神示には、「悪には悪の喜びがあり弥栄がある」と書かれています。
即ち、彼らの性格の悪さは自分たちで肯定する性質のものであり、そこで生じる憎悪や闘争も破壊も、彼らにとってみれば「喜びそのもの」です。

神示の霊界解説の中では、彼ら闇の者は自分たちが善であると信じており悪だとは思っていないそうです。
それはあたかも、環境保護団体からすれば捕鯨行為は万死に値する一方、日本人は余すところなく鯨を食べて再利用する産業文化が根付いていたので、その利益相反が起こっているようなものかもしれません。
日本人からすれば、反捕鯨団体の言い分も理解はできますが、一方的なやり方で全てを否定されるのも困るのです。

だからそこには「お互い様」という側面があり、相対するからこそ相反するのであり、ここで互いに衝突するからどちらか一方が潰れるまでやらなくてはならなくなります。
それに相互理解は最短の道だとしても、おそらく互いにそれを強要させるのは不可能です。
ではどうすれば良いかというと、第一に「棲み分け」ですが、それでも利益相反が起こるから衝突が生じます。

私の場合は、無闇に人を陥れて無知蒙昧の状態にして苦しめるような存在は忌むべきものであり、それが世に隆盛しているから問題視しています。
しかし神に仇なす存在の側としては、人間を啓蒙されると居場所や存在価値を失ってしまうのです。
彼らからして見れば人間が無知蒙昧であってくれた方が活動しやすく、光の存在やライトワークを行うような人間こそ「悪」なのです。

「善と悪のあなない」には、まずここを押さえておく必要があります。
私たちがいくら絶対善だと思っていても、彼らからすると悪なのであれば「絶対」ではないのです。
ならばどうすれば良いかと言うと、こちらの言い分としては「善」に向かうのが大いなる意志であり、善に向かうことで結果的に全員がWINWINになれるから弥栄えると考えています。

だから「善」のメリットを知るのはこちら側であり、ゆえにまず善のメリットを悪の側にプレゼンする必要があります。
そして、善のメリットを悪に提供する責任も、実は善の側にあるのだと思います。
だから「悪を導く」というのは、善のメリットを悪の側に提示しながら、彼らが悪を行う自由を奪うことではなく、善と悪を選択する機会を与えることです。

結局、そこで「悪はやっぱり最高だ」と思うのも彼らの意志であり、「今までのやり方はちょっと」と思うのも彼らの自由なのです。
そこで善を押しつければ、返って善は悪になってしまいます。
人間はこれまで、こういう考えで相反する勢力を力で服従させてきました。
ゆえに悪を滅ぼそうとすれば、ますます悪は増えて広がっていったのです。

この視点で見れば、なぜこうも人権や人命を無視した勢力が蔓延り、「我良し」の世界になっているかがわかってきます。
善の側が「絶対善」の元に悪を善に染めようとする時、「悪側の善」を力でねじ伏せることで善側に悪が宿るのです。
その力の衝突にこそ真の悪があり、相反を相対にする融和の力こそが「真の善」なのだと思います。

そのため、真の平和や善なる世界に向かうためにまず必要なのは、強制しようとする意志を捨てることです。
誰もが自らの自由を保証され、尊重される権利を有するからこそ、善でも悪でも強者でも弱者でも、言い分と意志決定権は必ずあります。
そこをまず認め、自らの責任を果たした上で相手に委ねる、そして相手側の責任はきっちり取らせる、これこそが和合であり「あなない=助け合い」になるのだと思います。

この考えこそ、実は「大和魂」そのものなのではないでしょうか。
「やまと」という言葉は、「山の戸(麓)」という説もあるのですが、奈良地方にある「敷島のやはと」が語源という説があります。
「やはと」とは「穏やかな所」を意味し、「やは」は「やわら(柔)」と同じ語根と言われています。

「柔よく剛を制す」とありますが、日本の国技である柔道は、決して相手の身体を破壊するために編み出されたものではありません。
柔道で一本を取られたとしても怪我一つないように、穏やかに決着がつけば済むことなら互いに傷つけ合わないことが賢明です。

どうも邪馬台国の統治の時代は、諸国の豪族とも婚姻関係や互恵関係を結ぶことで連携を強化してきた痕跡が見られます。
日本の前身たる「ヤマト」に「大和魂」を見るのならば、それは身を挺して忠義を尽くす「侍」の魂にあるというよりは、互いに譲歩し合うような心にこそ宿っているのかもしれません。

だから悪霊も邪気も、それを発しながら人を不愉快にさせたり犯罪を犯すような人に対しても、一旦は湧き上がる感情を抑える必要があります。
そして自分の正論がただ相手を傷つけるだけではないか、正論を押しつけて溜飲を下げたい心が自分にはないか、一先ず考えてみるべきなのです。
相手には相手の言い分があり、やり方や信念があり、こちらからすればいくら合理的と思えないにしても、「こうすれば良くなる」ということを指し示すのは、相手の道を変えようとする側にあるのだと思います。

それが「悪を抱き参らせる」ために打つべき手であり、それ以上は相手の領分なのではないでしょうか。

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今の世をどう考えるか

楽太郎です。

最近また、世の雰囲気が変わり、感覚としては「邪気の異様な停滞感」と表現できます。
これまでは日によって邪気が高まる日が多かったのですが、猛暑日が続き人々も元気を無くしていくのと連動して、邪気も暴れ回る余裕がなくなってきたように思います。

これは人々が酷暑と物価高に伴う不況化と共に外出が減ったことで、内省に向かうようになったのと関係があるのではないでしょうか。
以前、「大難シナリオ」が「小難シナリオ」に切り替わったことで、多くの人々が「覚醒への道」を選択したのだと書きましたが、その潮流が徐々に具体化しつつあるのだと思います。

この数日のブログの記事もおそらくその波動に引っ張られていて、「知らせること」にお役目があったのだと思います。
私としては絵や漫画を描いている方がよっぽど性分にあったミッションになるとは思うのですが、神様のご計画にとって、今まさに重要なテーマは私の感覚とは異なるということなのでしょう。

この流れを俯瞰してみると、このブログをどれほどの人が本気でご覧になってるかは正直微妙だと思っているのですが、霊的な観点で言えば例え一人であっても伝える価値はあり、その対象者は神々のプロジェクトの中で私と同じチームに属するのだろうと思います。
別に私のことを特別な風に言いたいわけではないのですが、日月神示では「型」を実地に行い見せていく人が必要であり、「59の身魂」があれば岩戸開きの仕組みは成就すると書かれています。

最初に3人がいて、その下に7人が集まり、その7人が7人に教えを伝えると、岩戸開きに必要な「59柱」が揃うと神示にはあります。
もし私がその一柱なのだとしたら、私の文章をきちんと読んで下さる人が最大7名いれば、私はきちんとお役目を果たしたことになるのではないでしょうか。

だからもう、これは数とかいう問題ではなく「役割の重さ」だと言っても良いかもしれません。
それは目に見えてわかるものではないので、損得勘定では決して拾いきれないものでしょう。
だから私は、黙々と自分のお役目を果たすしかありません。

おそらく現在、世界を巡る霊的なターンがクライマックスを迎えつつあるのだと思います。
世の邪気が弱体化しつつある背景には、トランプ大統領が不確実性を世界にバラ撒いてくれるおかげで、拝金主義的世界を維持しようとしてきた勢力が心理的にも立場的にも揺さぶりを受けています。
トランプ氏自身は確信犯なのか天然なのかはわかりませんが、神がかり的な悪手を駆使して敵も味方も不確実性の渦の中に引きずり込んでいきます。

私はある意味、神様の密命を確実に実行しようとしているのがトランプ氏だと思います。
ただ、実際そこに悪魔的意図があったとしても、神のシナリオ通りの使命を果たすべく動いているのではないでしょうか。

ゆえに、これまでの世界を覆う邪気の根源であった「神に仇なす者たち」の波動は、ここに来て押されつつあるように思います。

私の話をすると、波長の高まりと共に憑依は実感しにくくなっており、感じにくいだけで霊障はあって体感とのギャップに戸惑っています。
最近「なんかやたら首が回りにくい」と思っていたのですが、さすがに寝つけないくらいの肩凝りなど今までにはありませんでした。
肩凝りをいくらマッサージなどで解してもどうにもならず、それに疑問を感じないほど憑依が気にならなくなっていました。

その反動か、就寝中にやたら生々しい感情を持つ死霊に襲われる夢を何度か見るようになって、そこで初めて「憑依だ」と気づくのです。
これはこれで結構深刻で、気づかないうちに感情面が霊障に犯されてしまう危険性すらあります。
憑依は放置すればするほど中に入り込まれるので、「感じにくくなった」ことをそのまま喜ぶわけにはいかないのです。

これらの憑依体は、性質を観察する上ではやはり生前の感情が抜け切っていない不浄霊だと思います。
ただ「不浄霊=悪霊」ではなく、生前の執着や苦悩が抜け切らない以上は、やはりその霊たちも苦しいのです。
だから下手に追い払おうとする前に、一先ず「苦しみを抱えている霊たちである」と認識する必要があります。

そして、これらの霊が憑依から解けるということは、ある意味満足したとも納得したとも取れるのです。
そうやって執着が緩めば一足は浄化が進んだことを意味し、彼らはそれだけ「上(霊界)」に近づいていくのでしょう。
ゆえに、憑依は浄化した数だけ魂を救っていることになります。

私は以前、こう言った不浄霊との因縁を断つために「幽界との霊線(エーテルコード)を切断する必要がある」と書きました。
しかし、どうやら「感情」というものは霊界の低い階層と構造的に結びついているもので、私が考える一時的な霊界の準備場である「幽界」の定義には当て嵌まらないことに気づきました。
日月神示の「幽界」は私が以前解説した構造とは若干ズレがあって、霊界の中間層以下の下層と準備場的階層をひっくるめて「幽界」と定義しているようです。

反対に、神示では霊界の中間層以上を「神界」とし、「天国」と「霊国」に分けています。
この構造の方がやはり説明はしやすいのかもしれず、今後の解説の仕方も考え直そうかと思っています。

私たちが感情を抱く時、愛や友情などの「良い感情」を持つ時は高い階層の霊界に、憎しみや嫌悪などの「悪い感情」を持つ時は低い階層の霊界(幽界)に繋がるため、感情自体を霊界と切り離すことはできないようです。
だから霊線を何とかするというより、そもそも感情の接続する波長域を変えることしかできないのです。

ならば、悪感情は持たないに越したことはなく、悪感情があるから邪気を呼び込み、邪気が不浄霊や悪霊を呼び込むのであり、「悪感情を捨て去る」のがスピリチュアリズムにおいて自己浄化の基本中の基本であることに変わりはないのです。

ただ一言申すならば、この世界のために働こうとする時、具に世の動向をよく観察し、批判的精神を行動に移して実践するには「悪感情」というのはどうしても避けられません。
自分も世界も平和であることを望むあまり、「善も悪も全て肯定されるべき、世は全て事もなし」と、事勿れ的な平和を選択したら何もする必要がなくなります。
「何かを変えよう」と思うからこそ使命感が燃えるのであって、仮にニコニコしながら平和を祈っていたら世の中が上手くいくなら、今の世界は既に天国のようになっているはずです。

ただ、その向上心の中で生まれる「醜さへの反感情」や「不条理への悲しみ」は、避けて通れないながらも絶えず整理していく必要があります。
そこで、怒りや悲しみを心の中に押し込めたり、蓋をし続ければいずれ「邪気」となっていきます。
その悪感情がやがて霊界の低い階層とバッチリ波長が合うことで、災いを呼んでしまうのです。

私たち人間は「悪を憎む心」があるからこそ、不平等や理不尽な出来事があれば変えようとする意志が働きます。
そのモチベーションは大事なのですが、そもそも「悪」とは「必要悪」であり宇宙の摂理の中では役割があるからこそ存在しています。
地球に重力があるように、「悪」というものが「善」なる力を妨害するからこそ、「善」はますます「善」に向かう力を強めます。
反対に、世界に「善」だけあっても「悪」という根拠がなければフワフワした動機となり、善に向かう力は弱まっていくはずです。

地球には引力が働いているからこそ自分の体重で地に足をつけることができ、自由に空を飛び回れないからこそ自らを顧みて移動手段をあれこれ考えます。
病気になるから健康に気を遣い、先が見えないから未来を憂慮し、いずれ年老いて死ぬから時間や人生が大切になります。
そして、「悪」を行う者がいるから身を守る術を覚え、悪を蔓延らせないために社会を守ろうという意志が働くのです。

善と悪のどちらかが消滅しては善も悪も成立せず、善と悪が共存するがゆえに善に向かうのです。
これが神示に語られる「善と悪とのあなない(和合)」であり、哲学的に言えば止揚(アウフヘーベン)です。

宇宙における熱力学第二法則、いわゆるエントロピーが働く法則自体を最悪だとか、憎む人はいません。
エネルギーが大から小へ向かうエントロピーがこの世界に外すことのできない大法則だからであり、もし「悪」の働きもそうなのだとしたら、とりあえず法則として「あるもの」と考えるべきです。

私たちは寒くなったら火を炊きますし、ぬるい水に氷を入れたら冷たい水が飲めるのも知っています。
ゆえに、世の中が悪くなれば良くしようとするのも風呂を沸かし直すのと同じ原理です。
そこに悪感情があるかないかではなく、淡々と対応すれば良い話のはずです。

従って、「悪なんてこの世に存在しない」というのは間違いで、「悪も良いものだから何もする必要がない」というのも間違いです。
「善悪の定義はそれぞれ」というのは半分正解で、善悪の価値判断は人間に備わった認知機能なので外すことができないため、善悪の定義はやはり一定量存在します。
それゆえ、全てが平和的肯定感に満ち溢れていたら理想状態と考えるのは危険で、そういう平和ボケが支配しているのが今の日本なのではないでしょうか。

この世の「悪」は想像以上に根深く、その闇深さは人間の心を容易く沈めることのできるものです。
人間が起こす非道や凄惨な行いは、悪感情云々ではなく生理的な絶望感さえも引き起こします。
それでも「悪はこの世に必要である」と結論を保ち続けるのは、正直言ってかなりの覚悟が必要です。

しかし、エントロピーや重力という反作用があるから成り立つこの宇宙は、「全く別の性質のもの」が存在するからこそ相反し、相反する力によってお互いが高め合っていきます。
日月神示には、その二つの働きこそが「歓喜」をもたらすのであり、その相剋にも歓喜があると説きます。

この境地は、我々人間にはなかなか辿り着けるものではないかもしれません。
これこそ「神の意識」ゆえに立てる見解であり、人間には遠く及ばないものだからこそ、その境地は人間が神に向かうための「反作用」の一部と呼べるのかも知れません。
神示に「神は人を求め、人は神を求める」とありますが、神になれるはずのない人間があえて神の元に歩みを進めるこの道こそ、「神の道=神道」なのではないでしょうか。

だからこそ、神道には教義も経典も存在せず、むしろ「存在する必要がない」のだと思います。
人間は自分たちが進む道がマニュアルになければ不安になり、ルール通りに行動したいと思ってしまう生き物です。
しかし、教科書が存在しないからこそ理論を固め、応用的思考を駆使することが重要になり、その自立した思想性こそが個の確立と自由となるのです。

これから社会や国家をどうしていくかを考える時、人々は確固たる権威が存在し教科書通りの回答が用意されていないと何も決められません。
「右派か左派か」「保守かリベラルか」「アメリカか中国か」で争っている現代の二者択一は、おそらくどちらも間違っています。
かと言って右に傾いた中道でも左に傾いた中道でもなく、真上にある中道こそが唯一の正解だと思います。

そこには「太陽」があり、太陽を司る神がいて、その神格こそ日本の国家神道を統べる「天照大御神」であらせられます。
そして、その権威は「天日月大神」となられる国常立尊こと素戔嗚命が担っていくと「日月神示」では語られています。
おそらく、これからの新しい時代の「型」はそこから始まり、その型が未来永劫の繁栄をもたらす「ミロクの世」の元になっていくのだと思います。

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アメリカが崩壊する理由

楽太郎です。

今月1日、アメリカの7月期雇用統計が発表され、弱含みの結果だった上に3ヶ月通しての約26万人の下方修正が加わり、米国債市場で2年短期債が急伸しました。

米雇用統計で債権相場に転機-Bloomberg

少し解説をすると、国債は最長30年までの利回りを保証する融資を募るものですが、国家が発行するものゆえに信頼性が高く、ゆえに「リスクオフ資産」と呼ばれます。
対して株式は企業が発行するものなので、倒産や損失があれば値減りするものであり、利回りが高い分リスクは高いため「リスクオン資産」と呼ばれます。

米雇用統計の悪材料は投資家のリスクを嫌う傾向が反映し、その日は株式の全面安になる一方、国債のリスクオフを後押しして2年短期債が大量に買われました。
国債も需要と供給の関係にあるので、短期債が大量に買われたことで利回りは25bp(0.25%)下落しました。
本文にある「スティープ化」とは、短期債の利回りは下がった一方、長期債の利回りは依然高い状態となります。
通常、スティープ化が起こる主な原因は「景気回復期待」と「インフレ期待」があり、今回は雇用統計悪化を受けて反動だったため、明らかに「インフレ期待=物価高の加速」を懸念しての動きだったことになります。

このニュース記事一本で突っ込み所満載と言っては何ですが、そもそも「米雇用統計」は算出方法に関して、兼業(掛け持ち)労働者の採用を新規としてカウントし、就労努力を行わない失業者をカウントしていないと言われています。
つまり、これだけでも統計としての信頼性は低いのに、毎回発表後には「下方修正」なるデータの訂正が行われ、公的発表と考えるにはあまりに杜撰な出来である反面、投資市場はこのデータを元に先行きを決めるため、リアルタイムで採用する意義すら疑うレベルなのです。

ゆえに、アメリカ経済は改竄されたデータ以上に悲惨な実態である可能性が高く、それでも好調な株式市場はかなり「浮足立っている」気配すらあります。
この発表を受けたトランプ大統領はブチ切れ、労働統計局のマッケンターファー局長を即座に解任しました。
ただ、BLSの統計の修正は常習犯であり、今始まったことではありません。
トランプ大統領の怒りは統計値が悪かったことの言いがかりのような気がしますが、仮にそうであるとしたら即座に統計局の責任者がクビになるなどどこの共産国家か、と思います。

現在、トランプ大統領がFRB(連邦準備制度)のパウエル議長に「利下げしろ」と圧力をかけていますが、そもそも国債の利回りが高いということは国債価格が低いためで、なぜ国債価格が下がり続けているかというと、アメリカの国家としての将来性が危ぶまれているからです。
今年9兆ドル近い債務を償還しなければならない上、トランプ大統領が世界中に「相互関税」と称し、アメリカから高圧的に言い値で関税をかける一方、輸出国側はアメリカに関税を課すと許さんというジャイアンも驚く態度で関税交渉を行っているため、「不確実性が高い」と世界中の投資家たちに思われています。

そのため、米国債市場はリスクが高い長期債の利回りは高くなる一方、米国政府が万が一「債権を踏み倒す」懸念から投資が抑制され、国債価格は下がり続けています。
国債のスティープ化は、長期債が値上がりするので債権市場にとっては健全化が加速することを意味しますが、去年8月まで米国債は2年以上「逆イールド」の状態でした。

本来、融資の貸し手、債権の買い手側からすれば債権を何十年も保有するのは、それだけ待てば高い利子を得られるからです。
一方、融資の受け手、債権の売り手側は長期に渡って利子の保証をしなければならないことになり、長期の見通しと返済努力が必要になります。
「順イールド」というのは、債権を購入すれば待っただけ高い利子を貰えるという金融的取引としては当たり前のことなのですが、短期の間に債権を持っていた方が利回りが高くなるのが「逆イールド」です。

即ち逆イールドは長期債よりも短期債の利回りの方が高くなってしまう現象なのですが、実は最近までは逆イールドの状態の方がアメリカ政府にとっては好条件だったのです。
なぜならアメリカは2020年のコロナショック以降、総債務額が13兆ドルに達しており、長期債の利払い総額は比例して高くなるからです。
しかし2024年8月を以て国債レートが順イールドになったため、今年7兆ドルの償還期限を迎えるアメリカ政府にとっては泣きっ面に蜂なのです。

2022年7月から2024年の8月までの「780日間」が逆イールドの状態でしたが、実は経済学の世界では逆イールドから順イールドとなった数年後に「大暴落」が起こるという定石があります。
1928年から始まった約700日間の逆イールドの後、世界恐慌に至る米国大不況が始まりました。

1974年からの約500日は「長期スタグフレーション」の時代の始まりであり、1998年からの約300日は「ドットコムバブル崩壊」、2006年からの約550日は「国際金融危機」に繋がります。
これらは逆イールドの規模というより、「期間の長さ」がその後の経済崩壊に影響するというデータがあります。
このジンクスに従えば、2022年からの約800日は過去最長であり、もし定石通りなら経済にもたらす悪影響は過去最大レベルです。

なぜ逆イールドから順イールドに転換した後に経済崩壊が起こるかについて、今のところ確固たる学説はないようです。
おそらく、逆イールド時の債権の売り手は短期債のやり繰りは何とかできても小規模で資本的体力のない企業が多いため、長期債の利払い時に高利回りだと負担額も多くなり、そのまま債務不履行になってしまうのではないでしょうか。
経済理論に従えば、アメリカ経済は法則通りに崩壊の憂き目に遭うのは避けられないように思えますが、ここからは更に深掘りしてみます。

現在、トランプ大統領は経済音痴なりに国債価格が低いのは問題だと認識しているようですが、法則的に考えればアメリカが多額の財政赤字を軽減するためには、国債が高くなれば支払う利回りも低く抑えられます。
だから7兆ドルという債務返済を何とかやり繰りするために、FRBのパウエル議長に「利下げをしろ=国債価格を上げろ」と叱責しているのだと思います。
しかし、そもそも国債価格が下がり続けるのはアメリカの国家的信用がガタ落ちしているからであり、トランプ大統領がアメリカ経済を立て直すために粘れば粘るほど国際的評価は下がり、国債価格もそれに連動してしまいます。

これまでは、米国債価格は下がっても外国の投資家は米国株に逃げ込めたのです。
少なくとも「解放の日」の4月までの時点では、国債が下がっても株式に、株式が下がったら国債にと逃げ道があったのは、基軸通貨としての米ドル指数がバランサーの役割を果たしていたからです。
大抵の外国人投資家は自国通貨や対ドルで安価な通貨で米ドルを借りる、いわゆる「キャリートレード」を使って米国債や米国株に当てていました。
しかし、今はアメリカの信用不安が広がるせいでドルは下落基調にあり、投資家がただでさえ米国債を保有していても配当率はマイナスなのに、それに輪をかけてドルまで値下がりしたら二重の損失になってしまいます。

よく経済学を勉強している投資家は、アメリカに教科書通りの「資本逃避」が起きていることを知っています。
そして「ドル」を基軸通貨とする不安は「金」のレートを押し上げ、それに比例してドルは下落基調にあります。
だから投資家たちは隙あらば手仕舞いしたいでしょうが、とりあえずまだ米国株はバブル景気なので株式一本に賭けている状況です。

しかし、この米国株も実に怪しい代物でS&P500の時価総額の50%以上がMicrosoft、AppleやNVIDIAなどのマグニフィセント7が担っています。
現在は「AIブーム」の真っ最中ですが、あれほど喧伝した生成AIは全世界で権利問題を発生させ、裁判所ですら持て余すほどの法的闘争が起きていながら、時代の申し子たるOpenAIは営利企業への転換も図れないほどの大赤字企業です。

その望みの綱である「AGI」は未だ理論的に実証されておらず、AI研究者の7割以上が「生成AIの開発フレームでは実現しない」と回答しています。
つまり、生成AIはいくら無尽蔵に開発費を使ったとしても、AGIに化けるのはポケモンのピッピがハピナスになるくらい無理筋の話なのです。

その上、AIブームでほぼ一人勝ちの様相を呈しているNVIDIAは、取引成立した瞬間に利益として計上するくらいガバガバの会計処理をしていながら、粉飾決算や取引企業との循環取引を行っている疑惑が常に付き纏っています。
そもそも、NVIDIAの得意先の企業はキャッシュフローが伸び悩んでいる割に営業キャッシュは大幅に上昇しており、各企業はそれをデータセンター建設に関わる設備投資だと述べていますが、実際にビッグテックの営業利益を見るとほぼ生成AIに係る収益は見られず、既存のクラウド事業や広告収入、Eコマース事業だったりします。

つまり、AIブームは投資を呼び込む最高の花形ではあるものの、実際に内容が伴う部分は一つもないのが現状です。
その実態は大したホワイトカラーの削減にも至らず、たかだか著作権や人権を素通りして出力するだけのアプリであり、革命的技術であるAGIには全く繋がらないばかりか「まだAI革命は始まったばかりだ」と言い続けなければ赤字の言い訳もできないような泡沫産業に過ぎません。

まあ、生成AIに関しては濃密な記事が10本くらい書けるのですが、とりあえずここまでにしておきます。

しかし、特に成長産業もなく工業もサービスも伸び代のないアメリカにとって、国際的にイニシアティブを取れるのはデジタル産業と軍需と製薬くらいです。
そして、アメリカという国は1947年の「ロビイング規制法」以来、逆に政治家への贈収賄が合法化され、大企業になるほどR&D投資で新技術を開発するよりも政治家に賄賂を渡して制度を企業に有利になるように変えさせた方が手堅いため、資本力が高ければ高いほどシェアの維持が強権的になるのです。

古くは自動車産業、金融業、製薬産業、今ではデジタル通信産業が当て嵌まります。
新興企業の斬新なサービスは有力寡占企業が敢えて潰しにかかるか、早いうちに買収して自社サービスに組み込むことで、自社のシェアは脅威に晒されず容易に権勢を維持できるわけです。
ゆえに、赤字財政が跳ね上がり債務の償還すら覚束ないアメリカ政府が外国から投資を募るためには、嘘をついてでも株式を盛り上げなければならず、それを担うマグニフィセント7にとって「AI」というのは過去の成功体験を匂わせる、夢の投資先には売ってつけの金融商品だったのです。

ただ米国株を代表するS&P500の絶好調にもカラクリがあって、FRBがマネーサプライを過剰供給して株価指数を右肩上がりに見せかけ、実は全体的な貨幣供給量は戦後ずっと頭打ちなのです。
また、企業の大量自社株買いによる相場操縦、ETF(上場投資信託)やオプション取引を使った評価額の水増しによって、いかにも飛ぶ鳥を落とすように見えるように粉飾されています。
第一、企業のCEOが大量に自社株を保有することは決算や業績見通しや新製品発表を自ら知っていながら売り抜いたり買い越したりできるのは、どう見てもインサイダーを免れないものであり、売却益が公然と発表されるのもおかしな話です。
また、トランプ大統領が関税に関してSNSで仄めかすたびに株式市場は動くので、まるで一国の宰相がインサイダーをしているようなものです。

アメリカ株式市場の時価総額に貢献する企業には更に問題があります。
軍事用生成AIを開発するパランティアは現在、世界の時価総額上昇率で群を抜いている企業ですが、この企業の開発するアプリはイスラエル軍がパレスチナやイランなどの敵対国家の要人を暗殺するための用途に用いられ、同社はAmazonとGoogleが提携しています。
つまりイスラエルのガザ侵攻や近隣の中東諸国に仕掛けている戦争の裏で、アメリカのテック企業が参画しており、言ってみれば戦争犯罪に加担しているも同様です。
大手メディアではイスラエル軍の凄惨極まるパレスチナ一般市民への虐殺は報じられませんが、仮にイスラエルという国家の威信が失墜すれば、現在進行中の戦争犯罪が炙り出されることでしょう。

そしてイスラエルが戦争に使う兵器のほとんどは、アメリカ国防省がほぼ無償で供与しています。
トランプが大見栄を切った来年度の予算案は、社会保障費が大幅にカットされた割には国防費は増額になっており、どうやらイスラエル系と軍需産業のロビイストが結託して動いているようです。
これにアメリカ国民はもっと怒るべきだと思うのですが、現在のアメリカは日本以上に弱肉強食の世界なので、道理も民主主義も通用しないのでしょう。

こうして国家的に戦争犯罪に加担する一方、イスラエルには戦闘機を丸ごと横流ししても、ロシアの侵攻を受けているウクライナにはミサイル一発出し惜しむのがアメリカという国です。
このあからさまな態度は、全世界から冷ややかな眼差しで見られているのをトランプ大統領は気づいているのでしょうか。

上記のように、米国債の信用低下とドルの下落基調には密接な関係があり、マグニフィセント7が牽引する半導体デジタル産業だけが唯一外貨を呼び込む手段になっています。
国際的評価を下げないようにするためには、米国経済に見通しがあるように見せたいため、雇用統計すら帳尻を合わせている可能性が高いのです。
それでも米国経済の復活のために関税を敷いて製造業を国内に呼び戻そうにも、労働単価を発展途上国並みに下げなければ国際競争力で敗北する可能性があり、労働者の総収入が下がれば不況はさらに加速するでしょう。

その上、トランプ大統領が世界に対して喧嘩腰で押しつける関税も各国が米国製品の代替を行えば済む話であり、米国に輸出しなくても他国で利益が出るならばアメリカ以外の国と取引すれば良いだけで、結果的に国内輸入品の値上がりの割を食うのは米国民です。
輸入品に需要があるのは、国内生産では同じレベルのものが作れないからであり、業界的には国内生産にするより安上がりだから輸入を行うのです。
ゆえに、輸入品が高額になれば庶民はますます物価高に悩まされることになり、景気後退が深刻になり輸入品が真っ先に買い控えられたとしたら、関税収入も相関的に下がります。
その悪循環は米国経済にいずれトドメを刺すことになり、また債務額に対する関税収入で得られる資本の比率は微々たるもので、関税で財政赤字を補填するなど夢物語なのです。

経済浮上の成果が出なけば全世界から総スカンを食らうだけであり、国際的な信用の低下は国債安・ドル安・株安のトリプル安に向かっていくことでしょう。
つまり、どういう手を打ってもアメリカ経済は景気後退の局面を避けられず、国内情勢の危機的な状況はさらに危険な情勢に至る可能性が高いのです。

最後に、今週にアメリカ政府が新規国債、1250億ドルを発行するというニュースをご紹介します。

米国債を待ち受ける1250億ドル大規模入札

上記でも解説したように、米国債も需要と供給の経済原理に漏れることはないため、国債を大量発行すれば国債は安くなり、利回りは高くなります。
これはトランプ大統領がFRBを脅して政策金利を操作しまくったとしても、決して思い通りにはならないでしょう。
これだけ大量の国債を発行するということは借金をするのと同じですから、いつかは利息を払わなければいけなくなります。

アメリカ政府が今年支払う債務は約7兆ドルですが、来年には6兆ドル、再来年は4兆ドルです。
今でも自転車操業のような国家運営なのに、毎年膨れ上がる財政赤字を加味してもこの状態が続くとは思えません。
トランプ大統領の経済政策の肝である予算の削減は絵に描いた餅で終わりましたし、大幅減税策は国家の税収には結びつかないため財政赤字に寄与はしても景気浮上に貢献するかはわかりません。

どうもトランプ大統領は本気で狂っている演技をして、確信犯的にアメリカ経済を沈没させようと努力しているのではないか、と思える瞬間すらあります。
実際はどうであれ、トランプ大統領が頑張れば頑張るほど確実にアメリカ経済を袋小路に追い込んで行ってしまうのです。

心配なのは、「合衆国第51番目の州」である日本です。
日本は米国債を15%近く保有しており、その総額は1兆800億ドルとされています。
このままでは米国債の大暴落に巻き込まれるのは目に見えており、しかもアメリカの経済崩壊の尻拭いは日銀の悪意ある円安政策でジリ貧になった日本国民が肩代わりすることになるでしょう。

日本円の国際的な実質価格は対ドル70円前後と言われており、政府と日銀はこれを半値にする努力を30年以上続けてきました。
円安傾向は国内の金融業界と輸出系企業を優遇し、一般国民は慢性化するデフレとグローバル化に伴う外資の流入によって年々貧しくなっていきました。
しかし、売却した米国債を円に変えて円高に転嫁させれば、日本の一般国民はあるべき生活水準に戻ることができるのです。

しかし、このままではアメリカと無意味に心中する可能性が極めて高く、それはさすがにごめん被ります。
日本は今まさに率先して米国債を売り払うべきであり、戦後80年の間に我が国が受けた負のカルマを、その一手だけで米国に返済させることができるのです。
アメリカという欺瞞と謀略に満ちた国家と手を切ることができるならば、日本は憲法レベルから見直す機会を得られるでしょう。

是非とも「ベルリンの壁」をたった一人で崩壊させた東ドイツのシャボフスキーのようなうっかりさんが、奇跡を起こして日本の救世主になってくれないかなと思ったりもします。

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死にゆくインターネット

楽太郎です。

今、個人サイトを3つ制作していますが、そのうち1つは完成しつつあります。
ただ、このサイトは「保管庫」あるいは「ポートフォリオ」みたいな形で使おうと考えており、実際にコンテンツで集客するには長い道のりがあると思います。
いくつか自作品の宣伝手段は考えていますが、多くの人が採用するような正攻法は採用しないつもりです。

SNSや投稿サイトなどを使えば良いのでしょうが、敢えて独自路線でやっていこうと思います。

私はこれからインターネットの世界は様変わりすると考えていて、つまり「崩壊」を予感しています。
「タダほど怖いものはない」という言葉がありますが、「タダ」であるからこそ立ち行かなくなっていくと考えていて、そう予想する以上は通常の手法を使わないつもりです。
今回は愚痴も含みますが、その話をします。

地上波のTVは、基本的に無料です。
無料だからこそ視聴率が軒並み20%台という時代があって、つまり人口で言えば2500万人ほどが同じ番組を見ていました。
今ではYouTube100万再生で「大バズり」という世の中ですから、メディアの規模が違います。
無料放送だからCMを挟みますが、国民の5分の1が見るCMが効果絶大でないはずはなく、費用対効果は絶大だったでしょう。

もちろんTVはつけたら時間の許す限りタダで流れるものだからこそ、国民にプロパガンダや価値観を意図的に植えつけるにはうってつけの政治装置でした。
ワイドショーやニュースで政権や政治を批判すれば、お茶の間の国民は「その通りだな」と思ったことでしょう。
同様に社会的な流行も雰囲気も、TVを中心としたマスコミが作り出す趨勢が猛威を振るう時代が続きました。

今やTVすら家に置かない家庭も増え、端末さえあればほぼ無料の「インターネット」に接続すれば、AppleやGoogleやAmazonのロゴは必ず目にすることになります。
多くの人々は、アメリカ合衆国の有数のホワイト企業がまさかコンプライアンスを自らかなぐり捨て、サービスをわざと改悪するなどあり得ないと考えるはずです。

こんな記事が、イギリスの経済誌「エコノミスト」に掲載されました。

AI is killing the web.

要約すると、生成AIコンテンツの増加により現在ネットの検索トラフィック数、つまり検索をかけてサイトを経由する数が15%減少しているそうです。
要するに、ChatGPTなどがWEBをクローリングしてサイト上の情報を拾ってアプリ内で再構成するため、実際に記事元のサイトを訪問する回数が激減しているのです。

WEBサイトの運営は主に、アフィリエイトや広告枠を出すことで資金を得ています。
しかし、ユーザーがサイトを訪問せずに欲しい情報が手に入れられたら、わざわざ検索してサイトを見に行く必要がありません。
コンテンツ提供者は、言い方は悪いですが内容は盗まれるけれど、対価も得られないどころかクローリングBOTをブロックする手段が限られており、しかも対策に自ら資金を投じなければなりません。
その上、訪問数が減ればアフィリエイト収入や広告費も減少し、サイト運営は難しくなります。

今のTVはハードディスクに録画して後で見る人が増えたので、CMはほぼスキップすると思います。
スポンサー側はCMを見てもらうために番組に資金を提供しているので、物理的にCMが見られなければスポンサーになる意味が殆どありません。
同様に、インターネットにおいてもWEB広告が消費者にアプローチできなければ、出稿する意味もあまりなくなります。

だいぶ前ですが、iPhoneのOSに「広告非表示機能」がつきました。
私たちはアプリを使うにしても、邪魔な広告を見ないようにするためにサブスクに入会するほど、広告を「悪者」のように見てしまう習慣がつきました。
確かにネット上の広告は大きすぎる上に多すぎるので、若干悪質性すら感じるようになって久しいです。
だからユーザーは、不快な広告を見ないためのサービスすら求めるようになってきました。

まるで広告が「人質」のようになったことで、広告を出稿する企業は大した費用対効果を生んでいないのではないでしょうか。
WEB広告を出すにはGoogleなどのアフィリエイトに登録すれば手早いですが、やはりGoogleに手数料を支払う必要があります。
しかし、サイトに広告を出してもAIが要約するからサイトへのトラフィックは減り、そもそもネットに広告を出せば邪魔者扱いされてまともに見てもらえません。
けれど、インターネットを広告塗れにして広告に対する相対価値を低下させたのも、AIBOTを走らせながら物理トラフィックを減少させているのもGoogleであり、広告主はそれでも同社にみかじめ料を支払ってWEB広告を出しているのです。

私はこの状況を俯瞰すると、「まんまとやられたな」と思います。
そもそもGoogleは2000年代初め、検索能力の精度が高くアプリとして軽快だったために、検索エンジンを備えたChromeはブラウザとして人気になりました。
当時のインターネットは「フリーミアム」の楽園だったので、有志が作った無料のアプリが豊富でした。
しかし時は経ち、かつてのベンチャーが今は業界の寡占企業となり、大企業となったが故に殆どのアプリが課金制になりました。

それらのテック企業がやっていくには、アプリの無料部分を制限して完全版に課金させるか、広告主からスポンサードを貰いながら「広告を悪者」にして非表示機能をプレミアムでつけるのがフォーマットになっています。
けれど、アプリ開発は一度完成してしまえば、追加機能を作らない限りはシステムの保守さえしていれば良くなるので、やることが限られてきます。
それゆえ、MicrosoftのWindowsでも GoogleのYouTubeもAppleのiTunesも、歳末の道路工事のようにやる必要のない改悪を続けるせいで、どんどん利便性が悪くなってきています。

けれども、ビッグテックにでもなってしまえば競合他社は簡単に捻り潰せるか買収できてしまうので、後はユーザーにサービスの代替を許さなければシェアを確保できてしまいます。
アメリカとEUがIT面で仲が悪いのも、ビッグテックがEU圏内のIT企業を軒並み駆逐してしまうからです。
日本にITが育たないのは別の理由があるのですが、日本のITはシリコンバレーの背中を見ているために追従しかできない体質でもあるのです。

従って、現在のインターネットはほぼアメリカという国家の独壇場であり、それに対抗して中国は自国の通信網を完全に遮断していますが、やっていることはシリコンバレーと同じです。
インターネットは、もはやフロンティアではなくビッグテックの「帝国」の支配下にあります。
私たちは米国製のOSによってWEBに接続し、米国製の検索システムを使い、米国有利のデジタル環境を甘んじて受け入れています。
日本は毎年莫大なデジタル赤字を抱えていますが、誰も問題にしようとはしません。

私たち日本人は、IT革命を経験する際に「無料の便利さ」を堪能しました。
しかし、コストが低くリスクも小さくビジネスチャンスが大きいからと群がったのは良いものの、今では営業するにも作業するにも調べるにも交流するにも広告するにもアメリカのテック企業のサービスに依存せざるを得ません。
大抵の日本人はそれで困らないのでしょうが、これらのテック企業の行いを果たしてどこまで看過できるのでしょうか。

少し前に、SNSのBlueskyで画像処理ソフトを提供する Adobeがアカウントを創設した時、なぜかそのまま炎上するという騒ぎになったそうです。
 Adobeは画像生成AIをサービスに組み込んだ分、サブスクを高額化したために、長年支持してきたユーザーからの顰蹙を買っています。
イラストレーターとしてやってきた私からすると「まさかあのAdobeが」という印象です。
クリエイターのためのツールを提供して手堅い実績を積んできた企業が、クリエイターの著作物を一方的に学習して出力するだけの機能のために、クリエイターに経済的圧力をかけるなど想像もできませんでした。

今のデジタル環境に詳しい方なら眉唾には思われないでしょうが、MicrosoftもGoogleもAppleもMetaもいつまでユーザーフレンドリーな環境を維持するかは不透明な状況です。
 Adobeの手のひら返しのように、業界標準を作っているような企業にやられると手も足も出せません。
すでにGoogle検索はスポンサードのサイトが上位に張り付き、アフィリエイト率の高いサイトが優先的に表示され、ヒット数の少ない個人サイトは殆ど引っかかりません。

余談ですが、本ブログのようなブログサービスが検索に乗るためには最低3か月、通常半年は更新を続けなければなりません。
けれど検索にスポンサードを払って検索上位に張り付いているサイトは、そんな地味な努力をしません。
ゆえに、生きた情報を更新し続けるようなブログは、現在のインターネットにおいては隅に追いやられています。

徐々に、「インターネット」は死に体になりつつあるのです。

今では生成AIで作られたコンテンツが氾濫し、個人の生の仕事は埋もれる傾向にあります。
人々は殆ど自分の使うSNSのタイムラインしか見なくなり、WEB検索機能に関しては冒頭にお話した通りで、そのアルゴリズムも寡占企業のブラックボックスにあります。
おそらく、新しいWEBメディアが誕生するくらいでしか開拓できる要素は残されていません。

そして生成AIによる偽サイトやディープフェイク、身元不明のコンテンツの氾濫によって正しい情報へのアクセスが困難になりつつあります。
上記リンクの記事では、Googleが「WEB全体のトラフィックは増えている」と言っていますが、正確性の高い良質なサイトへの物理アクセスが減少していることが問題なのです。
私は近い将来、ビッグテックの悪政に耐えうる者だけがインターネットを使う時代が来るのではないかと懸念しており、デジタルから離れる流れも起きてくるのではないかと感じます。

私はこれから事業を進めていく中で、デジタルの世界にどれほど可能性があるかについては懐疑的です。
しかし実地のビジネスの世界こそ飽和しきっている上に押し寄せる不況の波、どう打って出るか悩ましい部分があります。
デジタルはコストが低いからこそ進出しやすいけれど進める道が限られている中、それでも毒を皿まで食うのか、毒を食らわず草を食うのか、究極の選択が迫られています。

私が自分で作品を作らなくても無料で見られる作品は山ほどありますし、それこそイラストなどは生成AIでタグ打ちすれば好みのものが出力されます。
この「何をやっても無駄」感のある状況の中で、自分がしたい生き方を叶えるには、多少不利だとわかっていても進まなければなりません。

世の中を見ればわかるように、改めて群がるような需要はあまりなく、モノやサービスが飽和しているからこそ、「需要のために働く」のではなく「お金を稼ぐために働く」という目的にすり替わっている部分もあります。
世が差し迫ってくると、お金を稼ぐのも困難になるためできるだけ労せずに利益にあり着こうとし始めます。
そうして公的資金や公共事業、有力企業の傘下に入ってお零れに預かることが一種のハックとなっていきます。

経済は右肩下がりになっていくのに、企業業績を維持するためには無理に利益を作らなければいけません。
高齢の従業員がどんどん離脱していく中で若者はなかなか入ってこないために、わざわざ外国人を呼び込んで今のやり方を続けているのが日本企業です。
儲からなければ畳むしかないのが資本主義の世界なのですが、そうすると暮らしていけなくなるから需要を創出し続けなければなりません。
走るために走らなければいけない」状況にありながら、それにも限界があります。

私の漫画やイラストを稼業にしたい思惑だって、需要があるからやっているわけではなく、供給を成り立たせるために消費者を探しているのです。
この歪な取引関係の中で、敢えて打って出ていくのも自分の我儘であることは承知していますが、理想を叶えるためには無謀でもやっていかねばなりません。

だから、これまでの「当たり前」の方法を取っていけば、確実に浮上するのは不可能でしょう。
それゆえ、着想のレベルから斬新でなければならず、手段も特殊でなければなりません。
プラットフォームに最適化された立ち回りをこなせる自信がないなら、既存の方法でやるのは難しいと考えて良いと思います。

どうやって行けば良いのか悩むこともありますし、時に「もっと世の中が壊れてくれた方が動きやすい」と思うのは本音なのですが、世の不幸を待っているのは不健全です。
とは言え、おそらく私の予想通りになっていくでしょう。

新しい何かを始める時というのは、既存のものを壊して無理に進まなくてはならない、というイメージがあります。
しかし、草の根も生えないほどビッチリと塗り固められた土壌で、個人が壊せる範囲は微々たるものです。
ただ、これから起こるのは巨大構築物の自壊であり、待っていれば自然に崩れていくはずです。

私はその合間を縫って進めば良いだけで、自ら巨大な壁を打ち壊して進む必要はありません。
その知恵を働かせた方が、身体を張るより何倍も上手くいくでしょう。

私はデジタル環境に慣れきっていますし、MicrosoftのSurfaceを使って制作しているので、正直言ってデジタルの世界がおかしくなっていくのは心苦しいのです。
けれどアメリカという国家が信用を失う日は近く、同国の中枢にある企業体がいつまで行儀良くしているかについて、私には不信感しかありません。
だからこそニュートラルにものを考え、臨機応変にことに当たっていくつもりです。

そのやり方は自分で考えなければいけませんし、上手くいく保証は皆無です。
けれども、そこから挑んでいかなければ道が開けないことを覚悟しています。

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何者にもならない

楽太郎です。

今朝、散歩中に喉が渇いたので自販機に寄ろうとしたところ、女子高生が立ち止まってジュースを買い始めました。
私はそれを斜め後ろから見て、気づかれないといいなと思いました。
何故なら、彼女から見れば中年男性が自分を眺めているように見えるかも知れないと思ったからです。

それは自意識過剰なのだと思いますが、今の私が中年でいかにも怪しく見られそうだ、という認識から生まれる不安ではないことに、しばらくして気づきました。
私が子供や少年少女を見て、特に年頃の女の子に対して自分があたかも汚れた存在で、何となく自分をモンスターのように感じるのは、今に始まったことではありません。
よく考えれば10代の頃から変わらない感覚で、「自分が汚れた存在である」という認識が心に染みついているからこそ、その後の人生は「汚れ」に塗れることで汚れを克服しようとしてきたように思うのです。

それは、おそらく私が人間としてこの世に生まれ落ちた時にできた、魂と肉体との何らかのズレなのでしょう。
「自分と他の人たちは何となく違う気がする」という肌感覚は、どこの集団に属しても何をしていても、何となくガラス越しに眺めているような違和感に繋がっていました。
その不一致感を埋め合わせたくて、何でも必死に取り組んできたし、過剰適応のような状態はいつも上手くいかない原因にもなっていたのです。

先日、私はようやくLINEのアカウントを削除することが出来ました。
30年来の友人がいたのですが、どうもこれから繋がって行けそうにないと判断し、過去の禊をするつもりで全ての交友関係も同時に断つことにしました。
私も人間ですから、胸が痛まないわけではないですし、そこまで思い切る必要があるかとは思いました。

けれど過去の記憶を引き継ぎ、これまでの自分と繋がり続けることは、過去に囚われることと同じかもしれない、と考えました。
意を決して前に進むためには、過去に後ろ髪を引かれるような思いが強すぎるのです。
古い友人も、またいつか会える日を楽しみにしてましたが、そんな日を待つ月日がそのまま立ち止まる時間になるとしたら、いっそのこと振り切ってしまおうと思ったのです。

自分の半生を思い返すと、バカなことばかりやってきたと思いますし、色々な人に迷惑をかけてきました。
それに関して全く弁解の余地はないのですが、自分がそれだけバカだったからこそ、ここまで生暖かい目で適度に突き放して見てくれた人たちに対して、感謝の気持ちが湧いてくるのです。

私は確かにロクなことはして来なかったのですが、それでも痛い目を見て思い知り、物分かりが良くなる程度には賢くもなれました。
自分が何となく「他人と違う」という感覚は、どれだけ経験を積み重ねても結局は変わらず、そんな自分を受け止めることでしか真っ直ぐに生きられないことも、十分理解することが出来ました。
それが分かるまでは痛い目を見続けるしかなかったのですが、これまでの半生は私がこの答えに辿り着くことに意義があったのだと思います。

今思えば、私は自分ではない「何者か」になろうとし、誰かのようになれたら上手く生きられるような気がしていました。
自分に対する劣等感は、誰かの上位に立つことで埋め合わせようとし、それも何者かになれたら優秀であると認められ、自信を持って生きられるのではないかと思っていたのです。

けれど、私がなりたい「誰か」という虚像を追い求めたところでしっくり来る自分には出会えず、努力をして優秀さを認められようとしたところで、自分が心から欲しいものを手に入れることは出来ませんでした。
結局、自分はどこへ行っても自分で、いくら他人になり変わろうとしても自分のままで、もし自分が自分であることに納得が行く瞬間があれば、その場で自分探しの旅が終わってしまうことを、身をもって知ることができたのです。

ただ、この「自分ではない何者かになりたい」という不足感は、私が生まれた時からある不満とはどうしても思えません。
この日本という社会で育っていく中で、「人間は常に何者かにならなくてはいけない」という強迫観念がありはしないでしょうか。
事あるごとに他人と比べられ品評されるのが当たり前で、誰に憧れて誰のようになりたいかを問われ、その存在に近づくことを同じくらいの年頃の子たちと競わされてきました。

それで「できる」とか「できない」とか勝手にラベリングするのは、決まって偉い大人たちでした。
子供はそれに従うべき存在で、そういう型に嵌るべき生き物であるかのように扱われてきました。
けれど、大人になった今冷静に思い返してみると、そんな大人たちの思惑などたかが知れていて、きちんとした哲学があった訳でもないでしょう。

その仕組みがあまりにも当たり前に機能するからこそ、優劣というレッテルがあたかも真実であるように見え、その評価軸が人々の人生を振り分けてきたのです。
そうして「何者かにならなければ価値がない」という思い込みは、想像以上に人々の心に影響を及ぼしてきたように思います。

私が小学生の頃、事あるごとに嫌がらせをしてくる男の子がいました。
彼とは仲良しのつもりでいたのですが、何故こんな意地悪ばかりしてくるのか不思議でした。

ある時、先生の前で私へのイジメを見られたその子は、目の前で先生から咎めを受けました。
「何でこういうことをするの」と先生が問い質した時、その子は「絵がうまいのがずるいと思ったから」と言って泣き始めました。
私はそれからいい歳になるまで、その涙の理由がわかりませんでした。

私は確かに子供の頃から絵を描くのが得意でしたが、それは単に好きで毎日絵を描いていたからです。
当時思ったのは、「絵を描けばうまくなるのだから、描けばいいのに」という感想しかありませんでした。
けれど、後々に「努力はしたくないけど結果は欲しい」「打ち込めるほど好きになれるものがない」ことで、他人に嫉妬するタイプの人がいることを知りました。

彼とは中学まで一緒だったのですが、卒業文集に「将来は画家になりたい」と書いていましたが、ただの一度も彼が絵を描いている話も聞いたことはないし、彼の描いた絵を見たこともありませんでした。
彼のその後の人生はわかりませんが、「絵を描く才能」に対する憧れの感情を、憧れのままに終わらせないで大人になれたことを願うばかりです。

今でも考えるのは、憧れるのなら憧れに近づく努力をするべきだし、ただし憧れの存在に近づいても他人そのものにはなれないのだから、どこかで自分に納得して落ち着けばいいと、それだけのことです。
けれど、一生をかけてもこの結論に辿り着けない人はいます。
憧れている何者かになれないなら、何か他人にマウントを取れるようなステータスを身につけて、あわよくばそれで満足できると錯覚する人もいます。

「何者かになりたい」という憧れと、「何者かにならなければならない」という強迫観念は、結局は「自分はこのままではダメだ」という感情の裏返しです。
その不安感も、自分が素の状態で生きてありのままに認められない不満から生まれていて、人々が予め与えられた条件を満たせなければ社会的報酬を得られない仕組みにあります。
だから人間は、自分自身として生きていくために「自分以外の何者かにならなければいけない」という条件を満たすために長い旅を始めるのです。

その歪んだ探究は、「何者かである者への嫉妬」という形でも現れます。
有名人や才能ある人の隙をついて、叩けるならば叩きたいという感情も実はここにあります。
自分が自分として確立され、その自分自身に満足していれば他人はわりとどうでも良く、どんな優秀な人であろうと条件が合えば協力し合えるような、そんな感覚になるはずです。

けれど、「才能がある」とか「優秀である」というだけで、他人に嫉妬し怒りを晴らすために一方的に攻撃する、その心理が健康的と言えるのでしょうか。
しかし、今の日本人にこういう人が多いのは、この学歴社会や勝ち負けの仕組みがあまりに歪だったからこそ、不健全な価値観が現象化しているだけのように思えます。

そもそも、「何者かにならなければいけない」という観念そのものが正しいのでしょうか。

小学生の頃に「エジソンのようになりたい」と学校で思わされたとしても、正直に発明王を目指す人はたぶんいません。
けれど「年収1千万円のインフルエンサーになりたい」とか「フォロワー10万人の絵師になりたい」と思う時は、大抵はモデルが実在します。
それが真実の姿はともかく、その人の真似をして同じようになろうとし、自分の形がなくても理想が叶えられたら満足する、そんな気さえしてしまうのです。

けれど、結局はどこまで行っても自分は自分で、自分が自分である延長にしか自分の幸せは存在しません。
それなのに、自分ではない誰かになれた方が幸せになりそうな気がするのは、本当の自分が見えていないからではないでしょうか。

私たちは常に比較されすぎて、「どれだけ比較されようと肯定するしかない自分」を見つけるまでになかなか至れません
今の世の中は特に失敗も許されず、最短最速の結果を求められ、しかもその最適解がフォーマットとして既に出来上がっています。
ヨーイドンで走り始めた1回目のレースで勝負がついてしまうような世の中で、どうやって自分を見つけろと言うのでしょうか。

私は、誰もが「何者かになろうとしなくていい」し、何者にもならない自分を見つけるために、あらゆる経験や失敗が許されるべきではないかと思います。
実はそんな世の中の方が、人間はおおらかに他人の失敗を認められますし、「お互い様」と言える空気になるはずです。
人生において結果を残すような人間になろうとし、それを強迫観念として抱いているからこそ、人生に失敗が許されず、何も持たない自分の劣等感から他人に嫉妬する心も生まれるのです。

右を見ても左を見ても同じゴールを目指している競争相手しかいない世界は、とんでもなく窮屈です。
しかしこれまでの世は、残念ながらそういう方向に向かい続けていました。
人々がもっと人間らしくのびのびと生きるには、常に他人と比較されなければ生きる価値が見出せない空気は障害にしかならないと思います。
そもそも人は社会の歯車として作られるのではなく、誰しもが幸せを願われて生まれてくる大切な命です。

祝福されて生まれてきたからこそ、当たり前のように幸せになれるのが自然な社会のあり方です。
それなのに、数値化されたステータスで選別され、工業製品にも似たラインで一生が決まるのは、どう考えてもおかしいのです。
ただ実際にそうであっても、人間の一生や幸福はその仕組みの中で完結するわけではありません。

いくら自分の生まれや育ちが気に入らなくても、いつでも幸せになろうとすることはできます。
仮に社会という工場の中で溢れた部品だとしても、自分という存在はそれだけで完成されているのです。
どれだけ未熟でもポンコツでも、完成品は完成品であり、その性能はともかく完全に機能はするのだから、それで自信を持って生きればいいのです。

私はこの半生を通じて、自分はやはり不良品だと思いますし、ポンコツすぎて色々な人に迷惑をかけたことに反省もします。
ただ、その不足感も世が世なら問題にならず、私が受けたような迷惑すら物ともせず、「お互い様」と言い合えるような雰囲気になっているはずです。
それが失敗を許されず、責任を押しつけ呪いを掛け合うような時代は、そろそろ終わりにするべきなのではないでしょうか。

私は散々痛い目を見た分、人様の失敗には寛容な方です。
私が目にする大抵の失敗は、大なり小なり私も経験してきたからです。
だからいつまでも失敗を責める気はありませんし、反省して出直す分には見守るつもりです。

それは何より、これからを生きる若い人や子供たちに窮屈な思いをさせたくないからです。
失敗もしていいし、どんどん苦い経験もしていって欲しいのです。
失敗もしたことないような綺麗な人生の中では、他人をおおらかに許すことなど到底できません。

私はこれから、改まって「何者か」になることもなろうとすることもないでしょう。
ただし、自分自身でありながらこの社会に生きられるような、誰かの役に立つ落とし所を見つけて行きたいと思います。
そしてあわよくば、私の歩んできた道を同じように歩いてくる若い人たちに、声を掛けられるくらいの人間になりたいと思います。

その時に掛ける言葉は、すでに用意しています。

「何者かにならなくていい、自分であれ」と。

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Blue Jet

楽太郎です。

藤巻亮太さんのアルバム「北極星」の中に「Blue Jet」という曲があります。
この曲は、かつて宮沢賢治が志した現代版の「雨ニモマケズ」ではないかと思います。

「人は通らない
それでも構わない
ただここに生きて
橋を架けてゆく」

藤巻亮太さんは人気ロックバンド「レミオロメン」のギターボーカルをしていたアーティストです。
藤巻さんの曲は文学性が高く、レミオロメンの頃から一貫して情緒の大切さを表現し、前向きに生きる人々を応援し続けています。
この「北極星」というアルバムはオーケストラを使った曲が多く、特に硬派なコンセプトで作られているように思います。

「Blue Jet」という曲は、誰に見向きされなくても、それゆえに自由を背にして突き進め、というメッセージが込められています。
これが「雨ニモマケズ」だと思うのは、「木偶の棒」と呼ばれ嘲られても信念の赴くままに生きる芯の強さに美を見る感覚と、同じ思想を感じるからです。

私は常々、「見向きもされないな」と思いながらやってますが、決して腐っているわけではありません。
けれども、薄っすら「何にもならないかもしれない」という不安はあり、それでも辞めることができないのは、愚直に信念を追い求める私自身が嫌いではないからかもしれません。
そして、やる必要もなく例え求められなくてもやらざるを得ない、どうしても表現を止めることができない私という存在がいて、それはあたかも飛行機が飛ぶしかないように、当たり前のことをしているだけだったりします。

「Blue Jet」は、空を行く飛行機は何にもない虚空を飛ぶわけではなく、虚無のような広がりを行くことに自由があるのだ、と歌います。
私はこの曲のメッセージを理解した時、レミオロメンの後期の名曲「アイランド」での迷いを突き抜けて、藤巻さんは悟りの境地に入られたのだなと思いました。

世間は、人が見向きもしなければ無駄なことをやっているように思いますし、何にでも利益がついて回らなければやる価値はないと思います。
確かに経済活動という側面で見ればそうなのですが、この社会を成り立たせるにはそれだけで足りません。

需要と供給の枠を超えて必要なものは世の中にあって、誰も知らず目に入りにくいものによって支えられていることはたくさんあります。
その価値は先入観では計り知れず、場合によっては「いらないもの」とされ、隅に追いやられてしまうことすらあります。

私は、皆がスポットライトの方しか見ないからこそ、日陰や闇の中に一粒の光を見つけて、その輝きに目を奪われる行為を愛するのです。
それは例え儚くても光は光であり、作られた電気の明かりではなくて、人が心から放つ生命の光こそ私は美しいと感じます。

けれどそれに気づく人はなかなかいなくて、その寂しさに青い空を見る、それが「Blue Jet」に歌われている景色なのかもしれません。





以前、「素直に生きる」という記事の中で、「再び自分の感情に向き合って創作することを許された」と書きました。

それまでの神様の導きがある種、時期的なものであったことを勘違いをしていたのだと思います。
神様は基本的に人を縛ったり「こうしなければならない」という強制をあまりなさらないように思います。
私はもう「昔の作品に取り掛かれることはないのだろうな」と思い込んでいたのですが、「どうしてもやりたいこと」に限っては、自分の心に嘘をついて止め置くくらいならむしろやりなさい、ということなのだと思います。

最近はフィジカルなパワーの高まりと共に、霊障も落ち着いてきました。

近頃の憑依は祝詞やお経のもつ神性のパワーが通じず、自分の霊力で抑え込むしかありません。
よく「警察が来ようがビビらない」タイプの方がおられますが、そういう人たちに理詰めや宥め聞かせる手口は殆ど通用しません。
そういうタイプには腕っぷしをみせて手出しできないようにするのが最も効率的です。
この構図は、この世でもあの世でも変わりないのかもしれません。

ただ、こういったタイプの邪気を呼ぶのは、私の心にも同じ性質があるからです。
その禍々しい感情に蓋をしながら、蓋をしていたこと自体を忘れがちになります。
この世界を見る上で感じる「悲しみ」の奥に沸々と煮えたぎる怒りがあっても、沸騰して蓋から溢れ出てくるまで鍋が煮えていることに気がつきません。

この世に蔓延る欺瞞や暴力や搾取、それを嘲る人々、私はその闇を照らせるほど強い光を持っていません。
そこで湧き上がる怒りを浄化するほどの力もなく、自分の中に塞いでしまった負の感情は、自ら闇を招く原因となっていました。
結局一旦は蓋を開けてそれを出してみるしかなく、よく冷ました上で灰汁も取り除いていかなければなりません。

その感情は、やはり「表現」するしかないのです。

私は特に、日常生活の中で本音を話せる人は誰一人おらず、世に思うことや自分の感情を誰かと分かち合う機会は殆どありません。
けれど、私は一介のクリエイターであり、誰が目の前にいなくても「人に語る」ことはできます。
それが例え壁打ちだとしても、私の心は押さえ込んでいた感情を「作品」という形に昇華することが可能で、それによって心は浄化されるのです。

闇というものは、ただ光を照らしただけで自ずと消えていくものではなく、闇を分かち光へ導いてあげなければずっと澱んだままです。
闇を照らすには頭ごなしに光を当てるだけではダメで、闇によって闇を宥めて闇の内側を拓かせることから始まります。
毒を持って毒を制することがあるように、水に油を注いでも意味をなさないこともあります。

だからこそ、素直に「それ」を表現することにしました。

それは血生臭く、禍々しい闇の部分です。
しかし、それはある種この世界の真実の姿でもあり、光に照らされた部分だけを眺めても見えてこない部分です。
光は常に明るい方だけに差すわけではなく、遍く闇にも向けられます。

だからこそ、「綺麗事」の偽りを破った先に本当の綺麗事は存在するのだと思います。
何となく矛盾しているように思えますが、善も悪も表裏一体だからこそ、表だけ裏だけ存在する方が歪な世界になってしまいます。
世界を「白」一色で染めようとした今の世を見て、それでも眉唾に思えるでしょうか。

この作品は、いずれ漫画という形式でどこかに出そうと思いますが、おそらく別名義になるでしょうし、本ブログでは全く触れないと思います。
それでも、もしどこかでお見かけしたなら、そっと閉じて記憶を水に流して欲しいと思います。

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「勝ち」に行く

楽太郎です。

7月の満月から一夜明けて、邪気が引き潮のように一斉に引いたのを感じます。
体調も取り戻し、やはり満月の影響は効果覿面に現れるのだなと改めて思いました。

先日はかなり邪気に滅入られて、一時的に「神も仏も信じられない」感覚に陥っていました。
この世界はやはり、神秘など存在せず人間がこのまま欲望のままに地球を支配し続け、いずれ滅ぶに違いないと、かなりネガティブな気持ちになりました。

どこを見渡しても、人々は誰もが変化を期待しながら、変わるつもりも変えるつもりもないことは薄々わかるからです。
世の中が勝手に良い方に変わって欲しいと願いながら、自分自身を見つめ反省し、過ちを手放して生き直す覚悟が、人々にそれほどあるとは思えません。

けれど、おそらく夏至以降、神々の選択では「大難」ルートの世界線から「小難」ルートに切り替わった気がします。
数ヶ月前の私は、国内情勢はさらに破綻し、その上大災害も起きて食糧難の時代となり、人々は木の皮まで食べるようになると本気で思っていました。
しかし今の私は、確かに世の中はすこぶる悪いのだけど、皆がそこそこ生活を保ちながら目に見えるところを少しずつ良くしていくような、そんな未来に思えるのです。
だから、不思議と未来に対する不安は「抱けない」のです。

というのも、未来が明るい方に向かうのは決まっているので、それまでに闇が濃い時もあるのだろうな、という印象に近いです。
なぜこんなにも人々が変わろうとする意思を見せないのに、世の中が良い方向に動くと感じるのかと言えば、おそらく「覚醒」の道を選んだ人々の総量が神々の予想値よりも多かったのを、私が感じ取っているからかもしれません。

おそらく、想定通りならすでに現7月時点では相当悪いことばかり起きていて、大難ルート一直線だったのかもしれません。
しかし、良い意味で予測が外れたことで、多くの人々がコツコツ世を良くしていく流れに変わったのだと思います。
「日月神示」では、神々が手を入れるならばすぐにでも元の泥海に返すことはできるのだけど、そうはしたくないから大難を小難にする努力をしてくれと、日月の神様は口酸っぱく忠告するのです。

私は昨日、あまりに気分が最悪なので雨の中を歩きに行きました。
その時も人々の波長と噛み合って本当に居た堪れなくなったのですが、その時は「人間など滅べばいい」とまで思いました。

私は自分の中に、闇がものすごい勢いで湧き上がるのを感じました。
これまで、波長を高くするためには闇を消え去らねばならないと考え、負の感情を抑制してきました。
しかし、それは単に怒りに蓋をしているだけに過ぎず、その怒りを浄化しないまま上っ面で波長が高いように思い込んでも、腹の底ではマグマのように煮えたぎっていたのです。

これは「スピリチュアリストあるある」の一つで、闇と向き合わないからこそ浄化された光の部分だけを自分のうちに見ることができ、自分があたかも闇がないように感じる、という錯覚が起こります。
真の波長の高さというのは、いかなる低い波長もカバーする寛容さがあって、「低い波長は許されない」と思っているうちは低い波長域にあるのです。

大事なのはこの波長の低い部分、醜い闇の部分をしっかり見て、その醜さに目を逸らさずにきちんと向き合い続けることです。
私はこの闇の部分を押さえ込みすぎることで、自分自身のエネルギーの循環そのものに影響がありました。
負の感情を持たないようにする努力は、自分の感情を胸に押さえ込むことに繋がっていたのです。

だから感情を自分の中で手に取り出して一旦見つめることは、自己浄化への第一歩です。
闇は表に出さなければ良いだけの話で、自分の内に止めて浄化するつもりであればその方が健康的です。
私は時々、煮ても焼いても食えない人間という存在がひどくもどかしくなり、憎たらしくなることもあります。

私がこの世界が変わることを願うからこそ、「変わる必要がない」と思う人々の意思と拮抗します。
彼らの選択自体が間違っているわけではないのも、重々承知しています。
時代がずっと良ければ、私も何の疑問もなくのらりくらりと生きていたでしょうし、目を向けるものが違うだけで彼らは今でも満足しているのかもしれません。

しかし、巨大なものがより巨大になるためにより巨大になっていくだけの世の中というのは、漂っている小さいものは巨大なものに飲まれていくか、滅ぼされていくしかありません。
この世の中に固定化した「勝ち組負け組」という短絡的な社会構造は、勝ち組の傘の下にしか人権はなく、その傘の下では負け組同士の競争しかありません。
勝ち組は「どうやったら勝ち組になれるか」というハックを有償で提供し、勝ち組に上がってくる負け組だけが救われる世界にしているのです。

私はそれがひっくり返るのを望んでいて、このままでは世はどんどん悪化するばかりだと思うからこそ、変革を願うのです。
しかし、冷静になって考えれば、私がそうなる世界を望むと同時に、神様が世界を変えて下さると信じすぎている私に気づきます。
仮に神様が私の予期しない世の中にしようとして、私の望み通りに世界がひっくり返らないとしたら、私はそれで諦めて「負け組」に甘んじて死んでいくのだろうかと。

神様が世の中をひっくり返すのを待っているだけで、もしひっくり返らなければそれで終わるつもりなのか。
その時、自分は何もしなくて良いのか?

そう考えた時、世の中がひっくり返らないなら自分がひっくり返せばいいじゃないか、と思いました。
「他力本願」というのは仏教の奥義でもあるのですが、自力で最善を尽くして天命を待つのが他力の意味です。
神様がやらなければ諦めて終わるだけなら、自分でやり切ってみる価値はあると思うのです。

この地上がこれまで幽界的な存在に支配されていたのは、人間が「欲望」というエネルギーに親和性が高く、欲望はすぐに物質に対するアプローチに変わるため、これまでの世は即物的にならざるを得ませんでした。
即ち、人間が何かしらの力でエネルギーを具現化するから現実の事象は起こるわけで、誰かがその力を地上に降さなければ妄想で終わっているのです。

この物質次元は「形にしたもの勝ち」の世界で、良くも悪くも実行力のある人間が力を持ちます。
神様がそうしてもらいたくないと思っておられたとしても、人間が気まぐれで神社に火を放てば神社は燃えてしまいます。
この世界において、物質化する主体があるからこそ現象が先立つのです。

「世の中が変わってくれたら」と思うだけなら、「別に変わらなくていい」と己の既得権益をせっせと再生産し続けるパワーには勝てません。
だとしたら、それを上回るパワーをこの地上で顕現しなければならないのだと思います。

それを「自分は大河の一滴だ」と過小評価して、最初から小さくまとまるつもりなら、最後までその程度のことしかできないでしょう。
自分なんか、自分ごときが、と思ううちは、自分の底力も真の実力も眠ったままです。
自分を過小評価せず、かと言って過大評価もせず、とは言え志を大きくやるのは難しいのですが、その豪胆さがなければ化け物のような胆力で勝ち上がってきた人々に太刀打ちすることはできません。

優しく心ある人ほど、人に遠慮して譲ってきた人も多かったはずです。
今までの時代で勝ち上がる人というのは、利益のために平気で人を切れぬようでは浮上できないことを知る人たちだったのです。
だからこそ本当に善良な人ほど良いように使われ、虐げられたまま浮上することが難しい世の中でした。

私は即物主義の権化のような会社にいたせいで、心を病み一時は障害者になりました。
それでもお金が必要だったので、就労移行支援を受けて社会復帰を目指しました。
その時に出会った障害を持つ人々、特に精神病を患っている人たちは皆繊細で、心根が優しくて頭が良い人たちばかりでした。
それゆえ、彼らの心の傷の深さも感じ取れました。

彼らの中には、以前の私のように命を断とうとした人もいたかもしれません。
私はあの頃出会った人々が今は幸せであることを願いながら、私や彼らが体験したように、こんな不条理な世界で一人として不幸になる人を生み出したくないと思うのです。
そして、そんな人生をこれから生きる子供たちに辿って欲しくありません。

自分一人がただ落ちぶれて死ぬだけだと思っていたら、私はこれほど本気にはなれなかったでしょう。
それではダメだと思うから行動を起こし始めたのであり、自分よりも大切なものがあるからこそ、ここまで戦う決意でやってきたのです。

「勝ち負けが大事なのではない」というのは、無抵抗平和主義者が生み出した美辞麗句です。
結局は勝ち組に好き放題やられて、負け組が挑戦できないようになっている社会だからこそ、欺瞞が蔓延る今の状況があるのです。
勝ち負けも大事だし、成功も失敗も大事だし、利益も損失も大事です。
小綺麗にまとまっていれば美しい世の中とするのは所詮錯覚であり、その錯視を利用して利得に繋げる者もどこかにいるのです。
いい加減、そのレトリックは見抜けるようにならなければいけません。

幸いにも、おそらく思っているよりも多くの日本人が、覚醒の道を選びました。
これから起こることは、確かに最悪に見えるかもしれませんが本当の意味で最悪ではないはずです。
よもや、その中で気づいて動く日本人が増えれば、自ずと世の中は変わっていくはずです。

神様は、少し先の未来にそれを見届けられたのかもしれません。
だからこうして神様は、私たちを陰ながら後押しして下さるのだと思います。

「日本人よ、今こそ立ち上がれ」と。

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寄辺なき時代に

楽太郎です。

昨夜、ほぼ思いつきで「7月の満月について」という記事を書きました。
その記事を投稿して寝ようとする直前、家の前を誰かが徘徊するような気配がして、玄関から外を見ても誰もいませんでした。
私は嫌な感じがしたので、念のため魔除けとして破魔矢を窓側に向けて寝ました。

それから夢を見ました。
私はどこかのお店の中にいるのですが、人語を話すツキノワグマが店の入り口のガラス戸に体当たりしていて、私は熊が店に入らないようにドアをずっと閉めて押し出していました。
ツキノワグマは、私の胸元程度の大きさもないため簡単に押し返せたのですが、その形相は血眼だったのを覚えています。

朝、変な夢を見たなと思い時計を見ると、5時をちょっと過ぎた当たりでした。
そう言えば天体的に満月はその時間付近だったので、昨日の記事との脈絡を考えたら一応説明はつく気がしました。
昨夜は満月による浄化の強い日だったため、逆に言えば邪気が最も暴走する日でした。

人間の集合意識は現在、これまでの時代を作り出してきた物質主義者と彼らをサポートする存在の支配下にあります。
彼らは彼らなりの正義を実現するために「神に仇をなしてきた」のです。
その彼らにとっての脅威は、神の意思を地上に降ろし地球意識と結びついた人々そのものにあります。

私が「精神界」と呼ぶ新しい時代の気場からエネルギーを地上に降ろし、地球意識を体現する人々の行動によって古い時代の気場は取り払われていくからです。
従って、彼らが血眼で攻撃をしたい相手は自ずと決まってきます。
今の世を支配する者たちは、自分たちの代替となる勢力を生み出したくはないはずです。

私はだいぶ以前から彼らの波長とぶつかり合ってきたのは本ブログで書いていますが、夢の中でガラス戸に必死に体当たりしても押し戻されてしまう彼らは、確かに私にとって恐怖そのものであるにしても、もはやぶつかってくる以外に何もできなくなりつつあるのです。

私は最近、この仇なす者たちが愚直に同じ手口で同じことを繰り返すだけのように感じ、「他の方法がもはや思いつかないのでは?」と考えるようになっていました。
まるで、今の人々が昔のやり方をひたすら踏襲するしかないように、彼らも無駄だとわかっていながらその方法以外の道筋を取ることができないように見えるのです。
それが哀れに思えるからと気を緩めるつもりはないのですが、どうも彼らが追い込まれているのは実感を持って認識してしまうのです。

起きて家の外を見回すと、やはり満月の日で雨天もあってか邪気が蔓延しているように感じました。
それにしては邪気が強すぎるし、不可思議に気場も荒れていると思いました。
毎朝、神棚をお祀りする際に祓いを行うのですが、今朝に限っては「日本のためにお祓いをしなければならない」という妙な緊張を感じて、気づけば1時間以上は祝詞を奏上し続けていました。

さすがに集中力も切れたので奏上をやめると、まるで冬山にいたかのように身体が冷え切っていました。
今日は比較的涼しいのでエアコンを止めて閉め切っていたので、これも不思議な感じがしました。
色々と妙なことが起きているのを感じながら、熱いお風呂にしばらく浸かりました。

ここまでは、今朝起こった奇妙な出来事の話です。
全てを俯瞰的に説明する文脈はあるのでしょうが、私にはまだ点と点が繋がっていません。
ただ、おそらく人世の気場というものは、かなり凄惨な状況になりつつあるのかもしれません。

確かに、夏至を経由してからのエネルギーの変化は凄まじいものがあります。
私自身は神様も邪気の存在も忘れるくらい身体のエネルギーが高まり、多動とパッションをコントロールするのが難しいほどです。
人々がどんな状況か観察しようにも猛暑がきつすぎて通行人を見ることも稀なのですが、何万人もいる街なのにそれほど人が住んでいるように見えないほど静まり返っており、私との温度差を感じます。

ふとすれ違う人たちを見れば、相変わらず楽しそうに生きているようには伺えます。
ただもはやエネルギーの種類が私とは違うというか、全く同じ人間なのに別の世界の住人のように感じるのです。
彼らの波長が云々という話ではなく、行動を引っ張ってくる原動力、言わば考え方や価値観から始まり習慣や生き方に至るまで、まるっきり別の力で動いているように見えます。

それは私と彼らの間の優劣とかそういうものではなく、「違う文化圏で生きている人々」という認識に近いです。
同じ日本人で同じ生活様式で暮らしながら、まるで他国の人みたいに感じるようになってしまいました。
確かに私は社会に生きる人間として浮いてますし、どちらかと言えば不適合者の部類に入るのですが、それに劣等感があるからではありません。

私以外の人々はきちんと組織などで働いていますし、例えやりたくなくても社会に求められる義務を果たしています。
それは大変立派なことだと思いますが、お金を得るための労働をするだけで精一杯のようにも見えます。
また、「昨日やっていたことを明日もやり続ける」ために今を頑張って生きているように思えます。
それ以外の生き方を選ぶのは確かに難しい世の中ですが、まるで不安から逃れるために「昨日までのこと」にしがみついているように見えてしまいます。

これまで積み重ねて来たことだから、それが現実だからと明日も同じことを繰り返せるように今を必死にやり繰りし続けることは、いずれその積み重ねが崩れた時に何をしたら良いのかわからなくなるのではないでしょうか。
将来が不安で、今の世に疑問が多く考えたくない理由もわかりますが、そうして今までのやり方に固執することで安堵を得ようとするのは、結局は問題を先送りにし続けているだけです。

もし私たちがこれからどうするか考える時、「絶対」と思われていた権威が失墜していく時代にあって、安心できる寄辺もない不確定性の高い世の中で、どうすれば幸せに生きられるのかを自分の中に求めていく必要があります。
「こうすれば一生安泰」のような社会のセオリーのようなものは、全ての面で今後揺さぶられていくでしょう。
またそう言った安全地帯は誰もが求めるので、結局は椅子取りゲームになってしまい、おそらく大した安心も得られません。

そんな状況の中で、例えフワフワと漂っていても芯が通っているような、そんな自由な生き方だけが自信に繋がり、あらゆるステータスも決して保障にはならないという覚悟は、確固とした生き方を後押しするはずです。
そうして「自分が何をやりたいのか、何をして生きるべきか」を考える時、自分自身を見つめる難しさや不安から逃げていては、いつまで経っても道筋は見つかりません。

人間は変化を恐れますし、自分自身を見つめることも苦手です。
だからと言って、外側だけに安心を求め続ける限り、自分の生き方はずっと見つからないのです。

この社会で生きる上で「お金」という問題をどうするかに関しては、私自身も言えた口ではなく、今も喫緊の課題であり続けます。
しかし、例え今の世が飽和仕切って雁字搦めの状況でも、どこかに突破口はあるはずなのです。
そして世の中が少しずつ崩れていく中にあって、その隙間に入り込んで広げていくこともできるはずです。

その方法は、既存の常識やセオリーに囚われているうちは、全く見当が取れないかもしれません。
だからこそ、自分自身を見つめていく中でそのアイデアが自分の個性に宿っていることを知り、それを掘り起こして道具に使っていけば良いのです。
誰かの批判や揶揄を気にしているうちは覚束ないでしょうが、そんな自分に自信を持った時に真のオリジナリティを発揮して突き進んでいけるのだと思います。

今、その実践が人々に求められています。
誰かや既存の何かに頼るのではなく、自分自身の内側に信じるものを求め、不安や迷いを振り払って独自の道を切り開く生き方が求められています。
それは確かに難しいかもしれませんが、そのために新しい地球意識の気場が開かれており、そのエネルギーに触れるために目に見えない世界と調和していくことも大切です。

もし自分自身を見つめるだけでは何も見えないのなら、手を合わせてご先祖様や神様にお祈りしてみるのも良いかもしれません。
目に見えない守護者たちは、きっとそんな私たちを応援してくださるはずです。
未来は、常に挑戦する人々に委ねられてきたのですから。

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素直に生きる

楽太郎です。

今朝、お風呂に入った時に鏡を見て、酷い顔だと思いました。
確かに昨夜は寝苦しくて何度か起きたのですが、寝たにしては目の周りが真っ黒でした。
こういう状態を見ると、とても自分自身の浄化が進んでいるようには見えません。

心に現れる霊障は、ほぼ無くなりました。
それでも尚感じる胸の痛みの原因がわからず、このモヤモヤが邪気を呼んでいる気がしていました。
この痛みは、湧き上がる感情を抑え込んでいたために起こるものだと気づいた時から、これまでのように必死に前に進もうとせず、自分の足元をきちんと見て歩こうと決めました。

今、制作中の「HARAEDO」ですが、若干方針の変更を考えています。
これまでは1ページないし2ページで1話完結としてきたのですが、あのお試し感は取っ払って完全なストーリーにしたいと思っています。
漫画という形式にも見直すつもりで、別のメディアでの展開を考えています。

漫画というのは、大抵8ページ以上ないと一つの話になりません。
ストーリー漫画はさらに長期のスパンが必要で、一人の作家が数ヶ月や数年を費やしてやる大作業となり、その制作環境を整えるために出版社を通して「連載」という形を取ることになります。

しかし、出版事業における漫画は商業的な成果を上げることが前提になるため、作品の完成度云々とは別の軸での結果を求められます。
編集者も頭を垂れるような大御所ならどんな原稿も通るのでしょうが、自分のやりたいことを出版の世界でやり続けるにはリスクを伴います。
「漫画家は連載してこそ一人前」という考えはその通りだと思いますが、自分が描きたい漫画を描くためなら出版社とのコネが必須なわけではないと思います。

私が考えているのは、漫画を描いて生活が成り立つなら一つの成功と言えるので、その程度にマネタイズできれば問題ないということです。
その方法はさて置き、自分が描きたい漫画はシノゴの言わずに描きたいなら描けばいいだけの話で、出版や商業に関してはまた別の話です。

最近の漫画は特に絵で魅せなくてはならないため、どうしても1話あたりの情報量は削られます。
制作コストと費用対効果を考えた時、「漫画」の持つ情報量に関するハードルをどう埋め合わせるか、それには「文章」と「演出」という形式的な補完によって可能になるのではないかと考えています。

それで、表現形式に関しては色々と実験をしている最中です。
あと、私の描く瀬織津姫命が何となく内観しながら感じる瀬織津姫様と、印象に違いが出てきました。
「HARAEDO」の瀬織津姫様はキャリアウーマン、という感じでしっかりした印象の女性です。
しかし、私が感じる瀬織津姫様はもっと華奢というか、可憐な印象を抱くのです。

デザイン云々のレベルの話ではなく、「瀬織津姫命」というキャラクターを描く時のイメージで、瀬織津姫様は思っているよりずっと少女性があるというか、もう少し儚い印象の神様ではないかと私は感じています。
あえて表現するなら、「透明感」だと思います。

その部分で、より自分の直感に合わせるように再構成していく必要があるように思います。
他の祓戸三神に関しては、むしろ三女神が漫画的な少女性が高く、従来の瀬織津姫命が格段に大人っぽい印象すらあったので、釣り合いが取れるかもしれません。
それをすると、ますます「プリキュア」っぽくなるのですが…

さて、スピリチュアルな話に戻します。
こうして自分を改めて見つめることで、前に進む道筋を知ることもできます。
これまで私の感じる波長には、神様からのもの、昔馴染みの小我のもの、霊的な自分としての魂、憑依体による波長が混在していました。
それらが全く異なる性質の波動ゆえに、私はよく混乱し自分を見失いがちでした。

今も尚、そのエネルギーが交錯して優先順位がわからなくなります。
湧き上がる感情が自分のものなのか誰かのものなのか、その感情を受け入れることは是なのか非なのか、心の中で取捨選択をすることすら難しいものです。

ただし、これらの感情は手放しや前に進むために邪魔になることの方が多かったのです。
神様の意志を実行し自分のやるべきことを実践する時、湧き上がる感情は手放しの対象ですらありました。
だから、基本的に感情は抑圧してしまうものであり、下手に情緒に流されると間違った因縁を招いてしまう恐れもあったからです。

特に私の場合は憑依によってあらぬ方向に引き摺り込まれる危険があったので、余計に感情を押し殺す必要がありました。
慈悲や愛着を感じるからと言って、良い人のように振る舞えばますます雁字搦めになって行ったでしょう。
そうしないために、私はわざと愛情を抑えていましたし、神様からも距離を取るように促され続けてきました。

それは今まで「自分の心を守るため」に仕方なかったと思います。
心を自分の制御下で死守しておかなければ、闇のものにいつ取り込まれてもおかしくなかったからです。
しかし、それはそれで自分の魂のエネルギーを抑圧していることになるため、苦しみを伴い肉体的な痛みにも跳ね返り、むしろ邪気を呼び込む原因にすらなりました。

その魂のエネルギーの正負の反転は、幽界との霊線を繋げ「魔」を呼び寄せる邪気にもなっていたのだと思います。
この波動の強さこそ、人間の魂が大神の「分身霊」であることの証左かもしれません。
これは私だけが特別な魂という訳でなく、誰しもが神の分身なのだから同じ仕組みであるはずです。

「祟り」という言葉があります。
これはある霊能者に教えて頂いたのですが、「祟り」とは「神(示+申)が出る」と書き、「神が守護から離れる」ことを意味するそうです。
逆に「崇める」とは「山に宗(たっとぶ)」と書きます。
日本人は古来より神々を山にお祀りしてきましたし、神を「尊ぶ」ことが「崇める」ことに繋がって来ました。

しかし、私たち日本人は神を崇めることを忘れ、それどころか信仰そのものを鼻で笑う風潮になってしまいました。
では、崇められなくなった神はどうするのかと言うと、「祟り」ます。
神が祀ることをしなくなった人間から離れる時、人間が生きながら負う罪穢れによって邪気や禍事を引き寄せ、その災いから守られなくなってしまうのです。

そうなった人間は陰気をまとい運気も下がり、自分自身が邪気を放って禍事をもたらすようになります。
これは神社仏閣に鎮座する神々を疎かにして起こることだけでなく、人間の心の奥深くにいる「分身霊」を粗末にすることで祟られることもあるのです。

人間は少し気が病むと誰かを攻撃して憂さ晴らししたり、気休めのポルノで自分を慰め、薬やアルコールに頼って気分を誤魔化そうとします。
しかし、その繰り返しでは自らの魂を裏切り続けることになり、いずれ自分自身という神に見放されていきます。
そうして自分が自分を守らなくなった時、「自分が自分自身に祟る」という禍事が発生するのです。

よく考えれば、あらゆる病気が生活習慣から起こるように、自分を偽り裏切り続ければ心身に現象として現れるのは、実際に認められることです。
私も、他人を道具としか思っていない上司の下で働いていた時も、金儲けのことしか考えないような会社に所属していた時も、「お金が必要」だからと無理に従い、自分の心を押し殺すうちに病気になっていきました。

自分自身の心に蓋をして否定し続ければ、いつか自分自身に祟られるのも無理はないのです。
だからこそ、自分自身を正しく「崇める」必要があるのです。
それは自分を神だと思い上がることではなく、「自分自身を祀ろうこと」即ち自分の心や身体を大事にして、素直に生きるということです。

これは生きる上で基本中の基本でありながら、なかなかできることではありません。
身体に良くないとわかっていても、嗜好品は摂りたくなりますし、やめられない癖もあります。
かと言って、無理にやめることを強制しても自分自身に反することになります。
この匙加減がわかるようになるのは、なかなか難しいものです。

しかし、「自分に素直になる」こと以上に自分を祀ろう、即ち自分を尊ぶことはなく、大事に思うからこそやるべきことが決まっていきます。
私たちは長らくこの感覚を忘れ、「こうしなければいけない世の中だから」「みんなこれをやっているから」「あの偉い人がこう言っていたから」と、自分以外のものを最優先にしてしまいます。

それは、自分以外の存在を祀ろうことであり、自分の神を崇めずに外の神を崇めることです。
その状態では、自分自身という「神」に裏切られるような出来事に見舞われるのも当然の話です。

私は自分の不調を通して、このことをよく理解しました。
神仏を信じ、瀬織津姫様をいくら崇拝しても、自分自身という神(分身霊)を蔑ろにすれば、神は崇めていないも同然だったのです。
これはなかなか盲点となる部分で、この信仰を疎かにして信心というのは成り立たないのだと思います。

それにようやく気づいて、今は無理に前に進もうとせず、一旦立ち止まることも必要だと思いました。
さすがに鏡で自分の顔を見て、幸せそうな顔にも浄化されてさっぱりした顔にも見えませんでした。
ここで意固地にならず、「俺は疲れてるんだな」と思うことにしました。

個人的に、ゆっくり考えなければならないこともあります。
これを良い機会にしてみようと思います。

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自分の運命を呪う

楽太郎です。

世の中が順調に悪化していくのをいくら目の当たりにしても、世が良くなる兆しは一つも見えません。
強いて言うなら、アメリカの国内情勢が明らかに破綻に向かいつつあることですが、とは言え破滅を望む心が善良とは言えないでしょう。

日本の参院選も20日に控えていますが、政治家という職業は選挙の前だけは必死になり、いざ議会が始まると便宜のことに頭を巡らせる人々ばかりです。
私は「民主主義」というのは社会主義同様に絵空事ではないかと思っていて、資本と癒着した民主主義は必ず腐敗します。

トランプ大統領に反旗を翻したイーロン・マスクが今度は新党を立ち上げて、共和党の対立候補に対して資金援助をすると豪語しています。
1947年に成立した「ロビイング規制法」以降、逆にロビイストの献金によって動くようになったアメリカ政府は、大企業に都合の良い法律や制度や環境を作り、市場の自由競争を完全な建前にしてしまいました。
特に大統領選を見てわかりますが、選挙戦はほぼマネーゲームの様相を呈しており、大富豪や企業の政治的献金がモノを言う世界に成り代わっています。

日本ですら、大政党とコネのある企業は業界の覇権を握りますし、国内の長引く不況をもたらした日銀の円安政策も、一部の輸出企業に恩恵を誘導する状況を作り出してきました。
政党支持率は思想云々ではなく、一部の人々の利権によって先導され、大衆はマスコミやメディアの煽りを受けて右へ左へと流されてきたのです。

その思想性のなさゆえに現在の状況があり、どうも日本人という民族は思想と政治と宗教に関して絶望的にセンスがないようです。
今では「正義」を象徴するものが「お金」になり、お金にならなければ悪、お金があれば幸せになるし便利だし願いも叶うし安全も買える、だからお金こそ正義である、と信じる人がたくさんいます。

そう言った人々にいくら考え直すように促したところで、それ以上に余計なお世話はありません。
彼らは彼らの価値観で正しい生き方を選んでいるので、「清貧」などと言おうものならタコ殴りにされるだけです。
彼ら自身も、決して間違っているわけではありません。

お金があれば力が生まれ、そのパワーがあれば大抵の人は言うことを聞くので、あらゆる欲望も願いも叶い、最終的には法や因果すらも捻じ曲げることができます。
お金があれば大概の不安はなくなり、豊かな生活が保証され健康でいられることは、幸福に繋がります。
ゆえに、そういう仕組みの世の中に「適応」しただけで、適者生存で繁栄する種族に罪はありません。

けれど、私からすると先細りが明らかに見える社会的状況で、世の不正や搾取を修正できる兆しも一切なく、どうやって同じことを繰り返して発展していくつもりなのか、甚だ疑問です。
どう考えてもこれだけ世の中が悪ければ若い世代はますます家族を作りたがらないでしょうし、少子化が加速すれば国家存亡の危機に陥ります。

おそらく今トップにいる人たちは、「日本列島に住むのは別に日本人でなくてもいい」という考えなのでしょうが、その流れで言えば今の状況を甘んじて受け入れている国民一人一人が、「棄国」に協力していることになります。
自分が生きているうちは「まだ日本」だから安心して死ねるのでしょうが、二世代三世代後の日本人がどうなるかまでは考える気がないのでしょう。

そんな世を見て、「この状況をどうすれば変えることができるか?」と私は常々考えるのですが、もはや一市民が立ち上がり、仮に十市民になっても千市民になってもどうにもならないかもしれません。
今、この国だけでなく世界中で起こっていることはもはや人間だけのレベルで起こっていることではなく、それゆえ人間よりも上位の存在、即ち神様のお力でなければ世を動かすことはできないでしょう。

今、世界のエネルギーは「覚醒」と「変革」を促す方向に向かっています。
しかし残念ながら、私が見る限りで「改善」「回復」の波動は見当たりません。
だからこそ世は混沌を増す一方であり、一時的に改善してそこから快方に向かう、という流れには感じ取れません。
むしろ、膿を出せるだけ出し切り、腐敗をさせ切って塵にしてからようやく革新が始まる、そんなシナリオに思えます。

この殺伐とした緩い地獄のような時代に、成長期や青春を過ごさなくてはならない子供たちを思うと、胸が痛みます。
そう言っている私も、これまでの拝金主義の時代にボコボコにされてきた人間ですし、私は根から競争社会や比較を軸にした価値観とは合いませんでした。
人間、一度せっかく生まれてきたのだから、他人の意見に左右されず、抑圧されても決して我慢して生きることなく、好き勝手にやればいいと思うのです。

けれど今までの時代は、人間が勝手に作った「謎ルール」に従わざるを得ず、そんな規則と同調圧力で雁字搦めになって身動きが取れなくなり、そうなって苦しんでいるのは自分だけではないのに、それを逸脱することを許しません。
こんなピリピリした雰囲気の社会では、おおらかに子供を育てて幸せな家庭を築こうとは思いませんし、生まれてくる子供の人生に責任を取れません。
こうして社会全体でジワジワと自分の首を絞め続けてきたのが、これまでの戦後日本だったのではないでしょうか。

「この状況を何とかしたい」と思うほどに、成す術がないことに気づきます。
だからと言って、変化を求めるあまり災害や世の破滅に期待するのは悪の思想で、どう転んでもジレンマを抱えてしまいます。
純粋に誰も傷つくことなく世界が平和になるためには、今すぐにでも自分が持っている武器を捨て、お金を他人に分け与え、倉庫に蓄えた食糧を配る、そんな夢物語にしか理想を叶える方法はありません。

しかし、現代の人類のレベルでそこまで出来るとは思えません。
ならば、本当に人々を救いたいのならば何を願い、何をするべきなのでしょうか。
その答えは、簡単には見つかりません。

私は、自分の運命を呪うことがあります。
これだけ善意で生きようとしても恥をかかされ、素直に生きれば嘲笑われる世界で、真正面から生きることをやめられない自分に対してです。
他の多くの人が、多少軽率であろうと強かに気持ち良く生きているのに、なぜ私にはそれができないのかと。

確かに、正しさや善良さは人間には必要ですが、そればかりではないからこそ世の中は回っています。
不条理を見抜き曖昧さを許せない、自分の融通の効かなさのせいで、私はあまり利口ではない形で苦しみを抱えて生きてきました。
そして要領の悪すぎる自分をいつも変えたいと思い、自分を否定して誰かの真似をし、常に何者かになろうとしてきたのです。

この世界で生きるのは想像以上に居心地が悪く、何をやっても座りの悪い感覚がありました。
けれど、私は軽快に生きている人々が憎らしいと思ったことは一度もなく、いつも楽しく生きようとする彼らが憧れであり続けたのです。
他の多くの人々のように、もっと強かに心地良さを求めて生きられるなら、私もきっと同じように幸せになれるに違いない、そう思ってきました。

今でも、自分よりもずっと幸せそうなのに、厚かましく彼らの幸せを願ってしまう自分がいるのです。
だからこそ、下手に世の煽りに流されて自分の首を絞めないで欲しい、実はその気持ちこそが本音なのかもしれません。
私は確かに世の人々からはコテンパンにされてきましたが、未だに彼らを怨みに思うことはないのです。

誰しも、何かしらテーマを持って生まれてきて、人生を生きていきます。
その他人のストーリーにいくら憧れを抱いたところで、他人になり変われるわけではありません。
私には私の人生のテーマがあって、それはトランプのババを引いたように思えても、自分のゲームである以上は仕方ないのです。

私は自分の運命を呪いますが、同時にそれは「使命」を持っているということです。
使命は、自分だけに与えられて中途半端に捨てることも諦めることも許されない、生まれる前に神様と交わした「約束」なのです。
この「約束」を果たすことは、人間として幸せになる以上に大切なことで、その役目を果たすために生まれてくる人もこの世界にいるのでしょう。

私にとって、人様のやることは大抵頭が痛くなることばかりなんですが、それを目の当たりにして心底嫌気が差しても、決して憎みきれないのです。
なぜ、これほど人間のことが嫌いなのに、人に向けて文章を書き、人間をキャラにした絵や漫画を描いて、見知らぬ誰かを喜ばせることを考えているのか、それでも世の平和と人々の幸福を願ってやまないのか、それは頭で考えてもわかりません。

本当に人間というものは面倒くさくて疲れますし、自分が人間であることも時々イヤになるのです。
これまでどんな酷い目に遭わされても、人として生きる目的や希望を捨てきれなかった理由を考えると、私は何だかんだで人間のことをずっと信じているのだと思います。
どれほどの失望を味わってもまた信じてしまう、人間を諦めきれない気持ちは、小手先のヒューマニズムにないであろう泥臭い情念に近いものです。

私は、人間を愛することをやめられないのです。
それゆえに傷つき損をするのですが、かと言って何かを欲しいわけではありません。

強いて言うなら、人々や社会がもっと寛容になって、自由に生きる人々に口を挟まない程度には穏やかな世になって欲しいと思います。
それが私が人々に願うことです。
それ以上でも、それ以下でもありません。

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戦いは終わった

楽太郎です。

長いこと「霊障」に苛まれ、憑依と戦って来ましたが、どうやら終わりを迎えたようです。
ここ1週間ほど妙な風邪を引き、全く何の薬も効かないような頭痛に悩まされていました。

同時期に家族にも霊障としか思えない不調が及んでいて、かなりの危険を感じていました。
「本当にこのまま取り殺されるのでは?」という恐怖と緊張感で、一時も心が休まる時がありませんでした。
どうやら霊というものは、肉体への憑依が難しくなると他のモノに憑依して、攻撃対象の体内に侵入して霊障を起こすことがあるようです。

私はここ何年も風邪を引いたことがなく、最後に体調を崩したのはコロナワクチンを打った時くらいです。
最も霊障が過酷な時期の終盤に、不可思議な夏風邪を引くのもやはり因果だったのだろうなと思います。

その憑依が解ける瞬間もはっきりわかりました。
それと同時に、風邪の症状も一気に和らいで頭痛も快癒しました。
家族に起こっていた霊障も同時になくなり、私もいつもの健康的な波長を取り戻しました。

この憑依との戦い、「お祓い合戦」と言っても良い応酬は2か月ほど続いていました。
その頃のドキュメントは本ブログで辿れますが、これは人間を支配する存在からの「呪い」と言うべきものでした。
私もやるならやるぞと、このブログでも徹底的に相手側を挑発し続けてきたわけですが、私の文章が「魔除け」の一環になっている実感は常にあったのです。

伊弉諾命が亡くなられた伊奘冉命を追って黄泉の国まで赴いた時、豹変した伊奘冉命の放った亡者の群れに追われながら、傍に生えていた「桃」を投げつけて魔を祓います。
そして黄泉比良坂まで辿り着くと、大岩で出入り口を封じて邪気の侵入を防ぎました。
桃は「意富加牟豆美命」、岩は「道反之大神」で、伊弉諾命を守る破邪の力を持った神々です。

私は象徴的な意味で、呪いの者たちに対して桃を投げ岩を置き、破邪をし続けてきたのだと思います。
この戦いがいつまで続くのか途方もない感覚はありましたが、苛烈さが増すにつれ私自身も力をつけ、「いずれ霊力で抑え込めるようになるのでは」という予感がありました。

ああいった魑魅魍魎の類が襲ってくるのは、私の心に幽界への霊線が残っているからです。
しかし彼らの挑発に素直に乗ってしまう私は、霊障を受ける限り憑依の元となる霊線を断ち切ることができません。
そのジレンマ自体はどうにもならなかったのですが、奇遇にも私の波長が上回ることで憑依を抑え込める状態になったのです。

霊障が及ばなくなることで波長が高い状態で維持できれば、いずれ自ずと幽界との霊線は切れていくのだろうと思います。
自己浄化の末に幽界との切断が可能になると考えていたのですが、まさかこう言う形での終わり方があるとは思ってもみませんでした。

この応酬に終止符が打たれることで、私の身体も元に戻ってきました。
正直、ストレスと過緊張で身体がボロボロだったのですが、今は緩んで完全にリラックスできます。
とは言えまだ身体の中にいくつもの波長が入り乱れていて落ち着かないのですが、いずれ収まると思います。

昨日、わりと涼しかったので散歩に行きました。
いつものように川を眺めていると、ふと瀬織津姫様のことを思い出し、感謝して手を合わせました。
公園にある紫陽花を見た瞬間、何故かわかりませんが涙が溢れて思わず立ち止まってしまいました。
紫陽花がとても綺麗で、私はしばらく何かを見て美しいと思うような、感情的な部分で心が動いていなかったことに気づきました。

ふと気がつけば、取り殺される寸前のところで心臓を鷲掴みにされていたのですから、無理もありません。
その緊張が解けて自分の感受性を取り戻した時、ようやく自分らしい波動に戻ることができました。
この「自分らしさ」を取り戻してから、神様からメッセージとして「お許し」が降りてきたように感じます。

これまでの破邪の経験も、おそらく私に課せられた試練の一つだったのでしょう。
私はそれをやり終えたから、ようやく私自身の「感情」を使っていい段階に入ったのだと思います。
それは人間として、私が積み上げてきたものの捨てるところがない部分であり、しかし小我としてエゴに染まりきってはいない素の人格です。

神様からお役目を頂き、実行する時は自分の好き嫌いや感情は後回しになります。
神様がガッとエネルギーを送ってこられるので、私は「そういう気持ちにさせられる」のです。
これに自分の意思で抗わないことが「神に身を委ねる」ということです。
私はこれを導きとし、これまで神の意志の赴くままに行動してきました。

ただ、そこに人間としての心がないかというと、決してそうではありません。
常に疑心暗鬼と葛藤があり、頭と魂と肉体はついて行けても、心の中の感情の部分だけは、いつも一歩も二歩も遅れてついて来ました。
感情をある意味押し殺さなければ神の意志を実行することはできないため、感情の抑圧によって私自身にも自覚のできない心の闇があったのです。

それが、ずっと私の「弱み」でした。
ただ感情は、この時期に囚われると浄化の足枷となる、非常に危険なものでもあったのです。
感情を利用して古い人治の世に引き摺り込み、取り込んで覚醒を阻害するのが邪気の目的ですから、むしろ感情は押し殺しているくらいで丁度良かったのです。

しかし、今になって感情を取り戻して良いようにお告げを頂いたのは、どういう意味があるのでしょうか。

おそらく、私が次元上昇をしていく過程で、ある意味「人を引き上げる」ことができるレベルまで達したからだと思います。
これまでは私情に駆られて失敗する可能性が高かったのだと思うのですが、私がようやく人を導く立場に立てるようになったのかもしれません。
人を助けるには、まず自分の身が安全でなければならず、上にいるから誰かを引き上げることができるものです。

ただ、世に生きる人々全員を引き上げることはできません。
中には、自分で沈むことを選んだ人々もいます。
そうした人々の中から、引き上げることのできる人の手を掴もうとする時、水の底から引きずり降ろす手が伸びてくるでしょう。
私は彼らを払わねばならず、手を伸ばす人を守らなければなりません。
そのために、私は強くなる必要があったのだと思います。

この許しと同時に、奇遇にも私が捨てた過去の作品を見返すタイミングが訪れ、私はキャリアを振り返りました。
そこで、祓戸大神の漫画「HARAEDO」を始め神様のコンテンツ一本でやっていく予定だったのですが、どうやら自分のやりたかったことを掘り起こし、やり直すことも許されたようなのです。
私は近頃、過去のキャリアを抹消して二度と振り返らないと決めたばかりなので、このご提案は正直面食らいました。

新しい時代仕様になるためには、何事も一旦洗い流される必要があるようで、これは何にでも言えるのかもしれず「神世のものは神世仕様として生み出されなければならない」という不文律があるように思えてなりません。
だから、私の作品や構想も一度「土の時代」に被った土埃を払わねばならず、洗い上げた後に使う分なら問題ないものもあるようでした。
(もちろん、完全にボツにせざるを得ないものもあるみたいですが…)

つまり、私は一体どれくらいいるかわからない、潜在的な神世の人々に漫画などの作品を通して導くお役目を新たに与えられたのだと思います。
それは瀬織津姫様を題材にした「HARAEDO」だけでなく、他のアイデアも自由闊達な形で表現して良いのだということです。
「HARAEDO」もそうですが、神様から与えられるお役目やライトワークというのは、徹底した綺麗事だからこそ毒がなさすぎて、人間心理の真髄を抉ることが難しいのです。

私は綺麗事に関して「自分のやり方が通用しない感覚」を何となくもどかしく感じていました。
まるで他人のふんどしを借りているようで、自分の才能を100%発揮しきれない感覚だったのは否定できません。
けれども、あえてこの状況で再び筆を取ることになるならば、それは私が「感情」を自由に使っていいことの許しに繋がっていくのです。

今、その許しが私に降りてきたことを考えると、やはりこれから流れが変わるのだと思います。
精神界の気場が完成し、そのエネルギーを受けた私が憑依を鎮圧することができるようになり、おそらくこの力を使って動き始めた人は他にもたくさんいるのでしょう。

私は以前から、世間の空気が悪すぎて外出しにくい感覚も、いずれ人々の波長も抑え込める日が来るのだろうと予感がありました。
今の空気感がひっくり返るような何かが起こり、人世の気場が割れ神世にスイッチが切り替わる瞬間が近いうちに来るのだろうと。
すでに人間の集合意識には亀裂が入っており、ある段階で一気に崩壊するに違いない、と。

私の体感では、おそらくその分岐点が近いはずです。
それが「2025年7月問題」に言われている大地震かもしれませんし、そうでないかもしれません。
世の崩壊を望むわけではありませんが、いずれにせよ何かがきっかけにならなければ変革は起こりません。
それが発端となって「軽いものほど上に上がっていく環境」は、いずれ砂時計のように反転し、「重い(思いがある)から沈んでいたもの」が世界の上澄を形成する時が来るのだと思います。
そのエネルギーの高まりと変動を、私はひしひしと感じています。

神様がいよいよ、本気を出してこられたように思います。
私はその気迫に慄くことすらありますし、神様のご提案に面食らうこともあります。
特に私を導いてくださる瀬織津姫様には、いつも感謝しても尽くせません。
瀬織津姫様が私に何をさせたいのかを鑑みれば、祓戸大神であらせられる浄化の女神様は、これから世界で起こる再生のシンボルになっていくのかもしれません。

瀬織津姫様は「表に出ていく」つもりであられるようなのです。

瀬織津姫命は、日本の国土に遍く河川の女神でありながらほぼその名を残さず、おそらく意図的に御神名を隠された神様です。
その神様が前面に御顕現しご神威を示されるとしたら、私は瀬織津姫様を描かせて頂くことでその一助となるのでしょうし、とても光栄に思います。
浄化の神として、河川の神として重大な御役目を果たしながら、長い間正しくお祀りされなかった瀬織津姫命という女神は、どことなく努力し尽くしても認められなかった私に重なってしまうのです。

その親近感こそが、私と瀬織津姫様との絆に繋がっているのかもしれません。
だから、これから一緒に花を咲かせましょう、と私はいつも瀬織津姫様に問いかけるのです。

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失敗ばかりの人生

楽太郎です。

小沢健二さんのアルバム「So Kakkoii 宇宙」の中に、「失敗がいっぱい」という曲があります。
本アルバムは、小沢さん復帰後初の作品であり、90年代のノスタルジーと反省の気持ちがそこかしこに見えます。

小沢さんは90年代、「渋谷系」文化のカリスマとして一時代を築いたものの、21世紀を前に日本での音楽活動を辞めて渡米してしまいました。
日本での当時最後となるシングル「ある光」は今でも珠玉の名曲なのですが、日本を舞台にすることの失望と自分の命を繋ぐための希望が歌われ、その砕けたガラスのような心が突き刺さります。

小沢さんはこれからも更なる活躍が見込まれる時に突然消えた形となり、世間から好き放題に言われる状態に陥ってしまいました。
その頃の反省もあるのか、やはり頭の良い人だけに謙虚に過去を受け止め、若干弁明も込めつつ当時の自分と人々に「鎮魂」に近いメッセージを送っているように思います。

その中で「失敗がいっぱい」という曲は、キラキラ輝いていた青春時代の甘酸っぱい追憶と、どれだけ歳を取っても捨てきれない泥臭い後悔が見え隠れします。
小沢さんのような華々しいキャリアのある人でも、自分自身を見つめて失敗や後悔の念を素直に表現するのは感服します。
そしてこの曲は、失敗や後悔を避けて通れない私たち人間に対して、純粋な癒しとエールを送るのです。

私も自分自身のことを見つめる時、「もっとこうはできなかったのか」と悔やみます。
他の人からモノにするようなチャンスで上手くやれなかった自分が、時々嫌いになるのです。
そうでなくても自分よりも成功し、良い作品を作って賞賛を浴びている作家に対して、嫉妬の念だけでなく「自分がそうなれなかった理由」を考えたりもします。

私よりも絵が上手いし表現も豊かなのは、私がもう少し早くキャリアを積み始めていればとか、このスタイルを見出して形にしていればと、取り留めのないことを想像します。
しかし、仮に自分が彼らのように立ち回り彼らと同じポジションに立ったとしたら、何の不満もないのか、自分のやり方に絶対の自信を持って自分の生き方を貫けるのか、それはわかりません。
どんなに彼らのようになれたとしても、彼らの立場になり変わることはできないからです。

以前「才能とは何か」という記事に書きましたが、私たちは才能に憧れを抱く時、欲しい分野の欲しい能力を手に入れたいと思います。
しかし才能は自分の地の感性から湧き出るイメージと、自らの身体に備わった技術を通してのみ発揮されるものなので、ガワだけを合わせることはできないのです。
ガワだけをらしくしたところで、本物から湧き出るオリジナリティには到底敵いません。

私が「こういう可愛らしい絵が描きたい」とか「このテイストが再現できないか」とは考えるのですが、それが可能なのはあくまで技術レベルの話です。
私にしか引けない線、私にしか出せない画風があるからこそ、その作風そのものになることはできません。
人様のようになりたいという気持ちは自分らしさの否定から始まり、自分のやり方に満足できないからこそ上手くいっている人に憧れを抱くのです。

誰かに憧れを抱く時に感じる後悔も、自分が過去に上手くやれなかった後悔も、実は同じものです。
結局は今の自分に納得できないから、現在の不満を過去の自分のせいにしてしまうのです。
自分が未熟だったから気づけなかったこと、誰かを傷つけてその過ちをずっと払拭できずにいること、それは時間が経って忘れることはできても過去の失敗そのものを修正することはできません。

ただその過去が事実だとしても、自分の記憶にある過去の出来事は一人称の世界から見たもので、相手や第三者から観測した事実とは異なるかもしれません。
誰が真実を見て、仮に誰もが誤解しているとしても、その真相を知るために当事者を探し出し突き詰めていったとしても、事実に出会える保証はありません。

自分の過去のトラウマ級の失敗だって、他人から見ればとっくの昔に忘れていて、今更どうでも良いことを掘り返すのに興味はないでしょう。
それ以前に、昔の出来事を再確認する術は殆どなかったりもします。
自分が一昔前だから思い出せるようなことでも世間の移り変わりは激しく、当時いた人も土地も社会的背景も今は影も形もないはずです。
消え去ったはずのものに心奪われるのは、あまり健康的ではないかもしれません。


私は少し前、若い頃の仕事場のあった場所を訪ねました。
その頃の職場は酷い環境で、散々いじめられて挙句の果てに病気になってしまいました。
長年そのトラウマもあって、付近に近づくだけでも嫌だったのです。

けれどその時は不思議と恐怖心はなく、かつてオフィスのあったビルに立ち寄った時、かつての面影はなく変わりきっているのを見ました。
まるで狐か狸に化かされたように、目を閉じれば思い出せるあの場所が、魔法のように消えていました。
私はこの感覚を通じて、過去の記憶に囚われる自分の心こそ幻想であり、個人的な執着に過ぎないことを悟ったのです。

されど記憶の痛みというものは根深く、頭ではわかっていても過去を思い出しては苦しみます。
いくら執着や幻想だとわかっていても、心に刻まれた傷や後悔は簡単には消えません。
ならば、これから生きていく中でその痛みを癒やしていくしかありません。

小沢さんの「失敗がいっぱい」という曲は、そんな誰しもある心の傷が本当に誰にもあるということ、そんな痛みは日々の中で癒されていくのだ、と教えてくれます。
「どうして自分はこうなってしまったのか」「あの時こうしていれば今ごろ自分は」と無限に出てくる感情、それは毎日を真っ直ぐ生きていくことで「魂を救う」しかないのだと。

私は、今の自分の上手くいかなさや不遇な気持ちを過去になすりつけるくらいなら、もう少し強かにやっていこうと思います。
過去の記憶というのは、自分が見た主観的なストーリーに基づいており、ある程度脚色されているものです。
他人から見れば全く違うあらすじを、反芻するうちに勝手に信じ込んでいたりもします。
ならば、この「ストーリー」を自分で上書きしてやれば、いずれ一人で納得できるかもしれません。

昔の自分に対して「お前はああだった」と未だに思われているのが悔しいのなら、これからの未来でエンディングを書き換えればいいのです。
別に見返してやろうとか、ギャフンと言わせてやろうとかいうのではなく、自分が過去の出来事にアフターストーリーをつけることで自分の中で美談にしてしまえば、自分の中で別の意味を持ちます。

「あの頃はこうだったけど、あの失敗があったから今うまく行ってるのだ」と、中途半端な挫折物語をサクセスストーリーに変えてしまえば、いずれ後悔する必要はありません。
それはいつ何時でも、誰でも今から始めることができるのです。
そのために過去を振り返りながら生きるのではなく、これから物語を作るために未来に生きることです。

人間が一生をかけてやる殆どの物事は、現実として恐ろしいほど後世に残っていきません。
20年前のホームページが今はほぼ残っていないのはわかりますが、実際の構築物ですら10年すれば跡形もなくなるのですから、まして人の記憶など殆ど残りません。
そんな消えゆくものに心奪われるくらいなら、新たな幻想を自分で作り出せばいいのです。

そして、今を生きていれば誰もがそれを今日から始めることができます。
私には、それが後悔に対する癒しとなり前に進む力になるような気がします。

小沢さんの「失敗がいっぱい」の歌詞の一節です。

「涙に滅ぼされちゃいけない
毎日には笑えないを笑えるにする
力があるから」

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2025年問題の脅威

楽太郎です。

日々ニュースを眺めていて、世の中は既定路線通り「悪化」していると思います。

「コメ」で関税-Bloomberg

本日のBloomberg日本語版の記事は、胸糞記事が並びました。
トランプ大統領は日本がアメリカ産米の輸入に前向きでないことを理由に、関税の引き上げを仄めかしています。

日本のコメ不足はそもそも、JAが転売業者を挟み価格操作をしているから高騰しています。
その転売された日本米は東南アジアやアメリカなどに輸出されて大量に売られ、現地米の価格が暴落するレベルで流通しています。
国産米の輸出によって政府から補助金がつくためであり、外国に輸出することで利益を上げている人々がいるのです。
それとすれ違うように国内で流通し始めた「カリフォルニア米」を見て、不思議に感じないでしょうか。

7月には参院選があり、国民一律2万円のバラ撒きを公約にした石破自民党はおそらく再度信任を得る形になると思います。
急速に左傾化した自民党と、韓国に誕生した親北朝鮮の李在明政権、国際的な経済制裁を受けていても尚侵攻を拡大するロシア、テクノロジー株が急騰して世界シェアを得つつある中国、アメリカの関税をすんなり飲むことにしたEU。

何か、絶妙なバランスで成り立つこの世界、疑問に感じないでしょうか?

現在、最高値更新を続けるS&P500の時価総額の3割をマグニフィセント7が占めています。
世界中の株式投資の7割がアメリカ市場で行われていると言われており、取引の半分がマグニフィセント7に関わるとされています。
現在、米国ハイテク株の担い手となっているのが半導体装置最大手のNVIDIAですが、いわゆる「生成AI」のブームが世界中の株式を支えていると言っても過言ではありません。

その仕掛け手であるアメリカは、今年1兆2000億ドルという国債利払いに直面しており、GDP比4%近くに達します。
その上国家の経常赤字は1兆8000億ドル、低成長が根強いアメリカ経済の年間GDPは約26兆ドルですから、この状況で莫大な利子を毎年支払わなければなりません。
しかしトランプ政権に代わっても政府の放漫財政は変わらず、国内経済を維持するには外国の投資に頼らざるを得ません。

米国株の時価総額保有率の20%近くが外国人投資家であり、アメリカ国民の純資産約170兆ドルに比べて外国人の所有する株の総額は130兆ドルに達します。
つまり、アメリカは外国に取り入って投資を呼び込まなければ、国体を維持できないほど窮乏しているのです。
そこで出てくるダウ平均に見えるアメリカ株の好調ですが、米国債の10年債利回りが健常化したため高利となり、その分国債価格は下がり続けています。
長期債が高利なのに国債価格が下がり続けているのは、それだけアメリカの将来性が不安視されているからです。

米国の長期債を買っても元々利益率が低いため、安い外国の通貨を借りて米国債を購入しても債権保有者は今は儲からないどころか、ドル安傾向になって逆に負債は増大しつつあります。
アメリカとしては、国債がこのまま下がり続けると国内を支えている外国投資が目減りして経済が持ちません。
そこで債権の唯一の逃げ道である米国株に投資を呼び込み、輸血を続けなければならないのです。

しかし、世に言われるほどAIブームが革命的かと言えば、Androidやパソコンのアプリが誕生した程度で権利問題もあやふやなため、大手を振って商業化できない後ろめたさがあります。
生成AIのシステムは基本的にオプトアウト制で、一斉に世界中のデータや知的財産をスキャンしてデータベースに取りまとめ、それをプログラムで再検出して再構成するだけのアプリにしか過ぎません。
それゆえ知的財産や著作権に対する対応は不十分であり、謳い文句ほど「思考」してはいないためベンチマークでの正答率は50%ほどしかありません。

そんな生成AIブームの申し子であるOpenAIは営利団体への転換も難しかったほど巨額赤字を垂れ流し、その尻拭いはMicrosoftとビッグテックの子飼いが請け負っています。
実際のところ、生成AIのクラウド事業で特筆して儲けているのはハイテク数社に対して循環取引・利益水増し疑惑のあるNVIDIA一社だけであり、あとはAIブームに便乗した補助金目当てのベンチャーくらいです。
それでも米国株を引き上げるために将来性があることにしたいのでAGIが今すぐ完成すると喧伝していますが、当のAI開発はとんでもない金食い虫で、電力や水資源を大量に使う上に開発費も湯水のように溶けていきます。

従って、アメリカはマグニフィセント7のようなハイテク産業に国家の屋台骨を支えてもらっているだけでなく、それ以外に投資を呼び込んだり発展するような国内産業は壊滅的状況にあるのです。
今年、来年と年々迫られる国債利払いが「支払い困難」となれば、世界の中心国であるアメリカがデフォルトするという前代未聞の珍事を引き起こしてしまいます。
そうなれば、世界を牛耳っているとさえ自負しているアメリカの面目は丸潰れです。

そのため、どんな姑息な手を使ってでも金が欲しく、報復関税を全世界に強制してどれだけ顰蹙を買おうがアメリカが潰れるよりはマシという考えでしょう。
しかし、トランプ大統領の関税政策は焼石に水で、アメリカは輸入品の比率が少ないからと言って輸入品の代替は不可能であり、結局は輸入品価格の上昇はインフレを押し上げることになるはずです。
アメリカの製品に報復的関税が掛かれば、アメリカ以外の製品を輸入する国が増えるだけでアメリカの高額化した商品は買われなくなります。

米国債に対する債務不履行の懸念は、いずれ米ドル建ての金融資産の売却を招きます。
反対に、アメリカ経済に安心感が生まれ国債が買われるようになれば、国債に転嫁されていた株が売られ、過大評価となっていたマグニフィセント7を始めとするバブル市場は冷水を浴びることになるでしょう。
ただでさえ経常赤字、財政赤字が肥大するのにGDPは伸び悩み、発展する産業が皆無と言っていいアメリカが関税政策で復活する可能性はほぼありません。

つまり、どう転んでもアメリカ株式市場は大暴落を免れず、いずれ経済も政治も破綻するでしょう。
この飛ぶ鳥を落とす勢いがいつまで続くのか、私は静観しています。

スピリチュアル界隈には「2025年7月問題」というのがあります。
私はこれに関して否定はしませんし、大地震だろうが核攻撃だろうが、カタストロフの危険はこれまでもこれからも起こる可能性が一定数あります。
だから、それらが起ころうが起こるまいが今月に限らず危険性は依然として存在し続けます。

ただ考えて頂きたいのは、阪神淡路大震災、東日本大震災、能登半島沖地震、これらは確かに大惨事でしたが国家の体質が変わるような変化はもたらしていません。
相変わらず左派も右派もどっちつかずに争い、日本は戦後80年間フラフラとアメリカ追従の姿勢を崩していません。
私は、日本にとって根本的な打撃となるのは、いかなる国内経済の破綻よりもアメリカという「宗主国」の喪失のほうが大きいのではないかと思います。

今の日本は明らかな左派政権なのに、米国追従の姿勢が崩れないのは何故でしょうか。
実はアメリカという国はずっと前から自由民主主義を放棄していて、リベラルという名のコミュニストたちを世界中に放ってきたからこそ、歴史上最多の左派政権諸国とアメリカ共和党の共存という歪な国際情勢になっているのではないでしょうか。
それは親米政権であった韓国をアメリカが守りきる姿勢を見せず、むしろ中国のハイテク企業との共栄関係にあるシリコンバレーに見える気がします。

そして国内情勢を見回しても、ロシアや中国との癒着とアメリカとの癒着が同時に進行し、全てアメリカが最も利する形となっています。
どうも「東西新冷戦」というのは茶番で、アメリカや中国やロシアの対立構造をネタに金儲けをしている連中がいるのではないかと私は見ています。

その歪な均衡の果てに、どうも未曾有の世界恐慌が待ち受けている気がしてならず、そのトリガーを引くのはアメリカではないかと思います。
この7月にブラックマンデーを軽く超えるショックが起こるとは言い切れませんが、仮に日本にとっての大事件は地震よりも軍事依存、経済依存、思想信条依存という国家の屋台骨が揺らぐことなのかもしれません。

私は一介のスピリチュアリストとして、何となく最近「地震の気配がない」のが気になっています。
というか最近めっきり地震の回数が減り、何となく自然が穏やかなのが不気味なのです。
それは「タイミングを見計らっている」というより、「世界線が変わったのではないか」と私は感じます。
この空気感の変化は夏至によってハッキリ感じ取れるようになり、それ以前にあった「大難シナリオ」が立ち消えになった可能性があります。

よく考えれば、地球が持続可能な形に変化するには自然環境が変わる必要はなく、むしろ人間だけが変わればいいと考えた方が、地球の次元上昇にとって合理的です。
人々が根本的に変わるタイミングは、これまでの「お金」中心に構築された人生設計の転換でしょう。
拝金主義的な生き方の象徴だったのが西側諸国の資本主義であり、資本主義経済の発展のために自然環境も商業化され換金されていったのです。

この地球が真の意味で平和になるためには、自分たちが利益を得るために武器を製造し、兵器を売るために世界中に戦争の根回しをするような連中に退場してもらう必要があります。
現在の世界を支配するアメリカという帝国の崩壊が、「帝国主義的帝国の終焉」という形で新たな人類史の転換点となるのではないか、そう考えざるを得ません。

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