光あるうちに光の中を歩め
- Category:エッセイ
- Date:2025年05月19日
「イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」
ー「ヨハネによる福音書 / 12章 35節」
ー「ヨハネによる福音書 / 12章 35節」
記事の表題は、10代の頃に読んだトルストイの同名小説から取りました。
「光あるうちに光の中を歩め」を読んだ当時は、「若いのは今しかないんだから好きなことやろうぜ!」という解釈でしたが、今は違います。
日々悪化していく日本の状況、希望が見えない日常の中で、光を自分で見つけ絶望に飲まれないように信念を貫いて生きていく、その大事さを象徴する言葉なのではないでしょうか。
「光あるうちに光の中を歩め」という小説は、古代ローマのキリスト教が迫害される時代において、豪商のユリウスは若い頃に親交のあったパンフィリウスがキリスト教徒として敬虔な道を歩み続けたことを知り、数々の試練を乗り越えながらユリウスも信仰の道を歩む決意をする、という話です。
これは、今の私の境遇にも繋がるように思います。
ここ最近、私の見る世界はだいぶ軽快になりましたが、逆に世の中の変わらなさとのギャップを感じていました。
未だに物質中心のエネルギーが世を支配しており、その波長に合うと「このまま拝金主義の時代は何となく続いていくのでは?」とすら感じ始めます。
私の心にも昔の賑やかだった街並み、良かった時代の思い出が甦り、どうしようもなく懐かしくなってしまう自分がいます。
そのムードに酔いしれると、「昔は良かった」と思ってしまうのですが、その心こそ古い時代のマインドであり、拝金主義に支えられた物質的な豊かさの幻影に過ぎません。
今、こうした古い時代の集合意識が、新しい時代のエネルギーに拮抗しているように思えます。
「今の便利な時代のままでいい」という感覚は、人の世の集合意識が巨大な集団霊となり、人々を巻き込んで膨張しているように見えます。
人々は古い時代に使っていた気場が壊れたため、何をエネルギー源にして生きていけば良いのかわからなくなったのだろうと思います。
それを補うべく、思念体となった人世のエネルギーに触れると、古い時代の気場に似たエネルギーなのである程度は元気を取り戻します。
ただ、その思念の場は自分たちのエネルギーを寄せ集めて閉鎖的に循環させているに過ぎないので、そのエネルギーに触れることで力は出せても、全く何の推進力もないため特に新しいパワーを生み出すことができません。
これが今、極大期に来ているように感じます。
世の中が何の変哲もないように感じるのも、実際にこのエネルギーが世を支配しているからだと思います。
今日のヘッドラインを眺めても、イスラエルの大規模作戦再開、ウクライナ侵攻の停戦交渉難航、アメリカテックバブルの再燃、どれも変化どころか逆行した状態で安定しつつあります。
あれだけ大風呂敷を広げたトランプ大統領のDOGEや関税政策も、一悶着あってなし崩しになりつつあります。
しかし、私はこのまま何の変化もなく、ダラダラと世界が破滅に向かっていくとは思いません。
今、日本の神々がこの国を変えるべく、動いているのを感じるからです。
先日、続け様に「祓戸大神一神説」、「猿田彦大神の正体」という記事を書きました。
ここで新しい発見をしたのは、日本人は古来から稲作をしながら子々孫々と繁栄していく中で、「サ=稲霊」の神を篤く信奉してきた歴史があるということです。
日本の神々、瀬織津姫命も猿田彦大神も、宇迦之御魂も、「サ神=稲田の神」であり、その信仰は弥生時代以前から続いてきた可能性が高いのです。
出雲の王だった神、素戔嗚命の名にも「サ」が入っています。
「ス」とは「凄い」という意味の接頭語であり、以下を「狭奴穂(さのほ)」書き換えるならば、「凄い稲霊の王」という意味になります。
上代語における「ホ=穂、日、火」は、「王(リーダー・先達)」という意味だと私は考えています。
古代日本語の「ホ」は、「wo」という発音であることが分かっており、「ほ」というより「を」になるからです。
伊弉諾命、伊奘冉命の「イ」は「威」と同じ用法であり、「斎・厳(いつき)」にも使われる文字で、これも「凄さ」を示し「須=ス」よりも神聖性は高いのかもしれません。
文字を変換してみると、伊弉諾命は「伊・狭奴岐(さのき)」伊奘冉命は「伊・狭奴霊(さのみ)」となり、「岐」と「霊」がそれぞれ「君(きみ)=大王」の「彦」と「姫」に対応するのであれば、「聖なる稲霊の王」「聖なる稲霊の女王」となります。
「豊葦原瑞穂国」を作り上げたのは伊弉諾命と伊奘冉命であり、日本とは本来「稲作」によって栄えてきた国家であることの証左となります。
そして、全国にある神社と「記紀」と「日本神話」に名のある神々は、この国土に坐す神霊として祀る以上、日本を司る神々こそ「日本の国土の魂そのものである」と言っても過言ではありません。
しかし、近年では日本産の米に輸出目的の補助金が付与され、国産米が転売され海外で投げ売りされる一方、国策として政府から減反のために「米を作らせない」補助金がバラ撒かれ、その結果として米が暴騰し、もはや日本人は普通に自分たちの国土でできた米を食べられなくなりつつあります。
そして、日本の米が外国に大量に流れる一方、海外の米を輸入し、あるいは古い米に石油加工を施して流通させています。
この「米」を巡る日本の現状と、日本人が崇敬してきた「稲霊」とは無関係と言えるのでしょうか。
「サ神」は村の守り神として「塞の神」に転じ、禍事罪穢れを祓う「久那土の神」、そして日本神道の「祓い清めの神」となって行きました。
今、日本は国境意識も曖昧になり、どんどん外国人が移民して日本の法治制度すら変わろうとしています。
今こそ、日本の祖先が大事にしてきた国土と、日本の神々が守り抜いてきた「豊葦原瑞穂国」について、考えを改める時に来ているのではないでしょうか。
伊弉諾命は、黄泉の国の死者の群れから逃れる時、傍に生えていた「桃」を投げつけて蹴散らしました、
その桃は「大神実命」として、伊弉諾命が死者に取り殺される危機から救い出します。
この「桃」という破邪こそ、私たちの心にある希望や夢、愛情や真心なのではないでしょうか。
今の世界に横たわる思念とは「我良し」、精神的なものや道理よりも物質的な豊かさや力、お金に向かうエネルギーです。
その意志に抗うには、自分の目的や精神性を確固たるものにするしかありません。
自分の中に、これまでの古い価値観や習慣に依存する部分があるからこそ、古い時代に引き戻そうとするエネルギーに取り込まれてしまいます。
昔は良かったとか、人に認められたいとか、お金が欲しいとか、その気持ちはわかります。
しかし、そのエネルギーを動機にしても決して前に進む力にはなりません。
神様は、そう言った「昔の時代の夢への憧れ」も、おそらく邪気として認識されています。
今、このどうしようもない日本の状況を、丸っきり変えるために皆で立ち上がろう、と言うつもりはありません。
とにかく、この絶望の闇から逃げ切らなくては、誰もが生き残る先すらないのです。
そのために、自分が依存してきたエネルギーを断ち切り、自分自身のエネルギーだけで生きていく勇気が必要です。
良くない人たちによる妨害とはしばしば、「自分がされて困る」から起こるものです。
そうすると世の中が良くなって困るからであり、それならば彼らが怒るようなことにこそ正解があります。
今はとにかく希望や愛を推進力にして、絶望から逃げ切ることです。
それこそが真の破邪であり、「光あるうちに光の中を歩む」唯一の方法なのだと思います。