今の世をどう考えるか
- Category:エッセイ
- Date:2025年08月07日
最近また、世の雰囲気が変わり、感覚としては「邪気の異様な停滞感」と表現できます。
これまでは日によって邪気が高まる日が多かったのですが、猛暑日が続き人々も元気を無くしていくのと連動して、邪気も暴れ回る余裕がなくなってきたように思います。
これは人々が酷暑と物価高に伴う不況化と共に外出が減ったことで、内省に向かうようになったのと関係があるのではないでしょうか。
以前、「大難シナリオ」が「小難シナリオ」に切り替わったことで、多くの人々が「覚醒への道」を選択したのだと書きましたが、その潮流が徐々に具体化しつつあるのだと思います。
この数日のブログの記事もおそらくその波動に引っ張られていて、「知らせること」にお役目があったのだと思います。
私としては絵や漫画を描いている方がよっぽど性分にあったミッションになるとは思うのですが、神様のご計画にとって、今まさに重要なテーマは私の感覚とは異なるということなのでしょう。
この流れを俯瞰してみると、このブログをどれほどの人が本気でご覧になってるかは正直微妙だと思っているのですが、霊的な観点で言えば例え一人であっても伝える価値はあり、その対象者は神々のプロジェクトの中で私と同じチームに属するのだろうと思います。
別に私のことを特別な風に言いたいわけではないのですが、日月神示では「型」を実地に行い見せていく人が必要であり、「59の身魂」があれば岩戸開きの仕組みは成就すると書かれています。
最初に3人がいて、その下に7人が集まり、その7人が7人に教えを伝えると、岩戸開きに必要な「59柱」が揃うと神示にはあります。
もし私がその一柱なのだとしたら、私の文章をきちんと読んで下さる人が最大7名いれば、私はきちんとお役目を果たしたことになるのではないでしょうか。
だからもう、これは数とかいう問題ではなく「役割の重さ」だと言っても良いかもしれません。
それは目に見えてわかるものではないので、損得勘定では決して拾いきれないものでしょう。
だから私は、黙々と自分のお役目を果たすしかありません。
おそらく現在、世界を巡る霊的なターンがクライマックスを迎えつつあるのだと思います。
世の邪気が弱体化しつつある背景には、トランプ大統領が不確実性を世界にバラ撒いてくれるおかげで、拝金主義的世界を維持しようとしてきた勢力が心理的にも立場的にも揺さぶりを受けています。
トランプ氏自身は確信犯なのか天然なのかはわかりませんが、神がかり的な悪手を駆使して敵も味方も不確実性の渦の中に引きずり込んでいきます。
私はある意味、神様の密命を確実に実行しようとしているのがトランプ氏だと思います。
ただ、実際そこに悪魔的意図があったとしても、神のシナリオ通りの使命を果たすべく動いているのではないでしょうか。
ゆえに、これまでの世界を覆う邪気の根源であった「神に仇なす者たち」の波動は、ここに来て押されつつあるように思います。
私の話をすると、波長の高まりと共に憑依は実感しにくくなっており、感じにくいだけで霊障はあって体感とのギャップに戸惑っています。
最近「なんかやたら首が回りにくい」と思っていたのですが、さすがに寝つけないくらいの肩凝りなど今までにはありませんでした。
肩凝りをいくらマッサージなどで解してもどうにもならず、それに疑問を感じないほど憑依が気にならなくなっていました。
その反動か、就寝中にやたら生々しい感情を持つ死霊に襲われる夢を何度か見るようになって、そこで初めて「憑依だ」と気づくのです。
これはこれで結構深刻で、気づかないうちに感情面が霊障に犯されてしまう危険性すらあります。
憑依は放置すればするほど中に入り込まれるので、「感じにくくなった」ことをそのまま喜ぶわけにはいかないのです。
これらの憑依体は、性質を観察する上ではやはり生前の感情が抜け切っていない不浄霊だと思います。
ただ「不浄霊=悪霊」ではなく、生前の執着や苦悩が抜け切らない以上は、やはりその霊たちも苦しいのです。
だから下手に追い払おうとする前に、一先ず「苦しみを抱えている霊たちである」と認識する必要があります。
そして、これらの霊が憑依から解けるということは、ある意味満足したとも納得したとも取れるのです。
そうやって執着が緩めば一足は浄化が進んだことを意味し、彼らはそれだけ「上(霊界)」に近づいていくのでしょう。
ゆえに、憑依は浄化した数だけ魂を救っていることになります。
私は以前、こう言った不浄霊との因縁を断つために「幽界との霊線(エーテルコード)を切断する必要がある」と書きました。
しかし、どうやら「感情」というものは霊界の低い階層と構造的に結びついているもので、私が考える一時的な霊界の準備場である「幽界」の定義には当て嵌まらないことに気づきました。
日月神示の「幽界」は私が以前解説した構造とは若干ズレがあって、霊界の中間層以下の下層と準備場的階層をひっくるめて「幽界」と定義しているようです。
反対に、神示では霊界の中間層以上を「神界」とし、「天国」と「霊国」に分けています。
この構造の方がやはり説明はしやすいのかもしれず、今後の解説の仕方も考え直そうかと思っています。
私たちが感情を抱く時、愛や友情などの「良い感情」を持つ時は高い階層の霊界に、憎しみや嫌悪などの「悪い感情」を持つ時は低い階層の霊界(幽界)に繋がるため、感情自体を霊界と切り離すことはできないようです。
だから霊線を何とかするというより、そもそも感情の接続する波長域を変えることしかできないのです。
ならば、悪感情は持たないに越したことはなく、悪感情があるから邪気を呼び込み、邪気が不浄霊や悪霊を呼び込むのであり、「悪感情を捨て去る」のがスピリチュアリズムにおいて自己浄化の基本中の基本であることに変わりはないのです。
ただ一言申すならば、この世界のために働こうとする時、具に世の動向をよく観察し、批判的精神を行動に移して実践するには「悪感情」というのはどうしても避けられません。
自分も世界も平和であることを望むあまり、「善も悪も全て肯定されるべき、世は全て事もなし」と、事勿れ的な平和を選択したら何もする必要がなくなります。
「何かを変えよう」と思うからこそ使命感が燃えるのであって、仮にニコニコしながら平和を祈っていたら世の中が上手くいくなら、今の世界は既に天国のようになっているはずです。
ただ、その向上心の中で生まれる「醜さへの反感情」や「不条理への悲しみ」は、避けて通れないながらも絶えず整理していく必要があります。
そこで、怒りや悲しみを心の中に押し込めたり、蓋をし続ければいずれ「邪気」となっていきます。
その悪感情がやがて霊界の低い階層とバッチリ波長が合うことで、災いを呼んでしまうのです。
私たち人間は「悪を憎む心」があるからこそ、不平等や理不尽な出来事があれば変えようとする意志が働きます。
そのモチベーションは大事なのですが、そもそも「悪」とは「必要悪」であり宇宙の摂理の中では役割があるからこそ存在しています。
地球に重力があるように、「悪」というものが「善」なる力を妨害するからこそ、「善」はますます「善」に向かう力を強めます。
反対に、世界に「善」だけあっても「悪」という根拠がなければフワフワした動機となり、善に向かう力は弱まっていくはずです。
地球には引力が働いているからこそ自分の体重で地に足をつけることができ、自由に空を飛び回れないからこそ自らを顧みて移動手段をあれこれ考えます。
病気になるから健康に気を遣い、先が見えないから未来を憂慮し、いずれ年老いて死ぬから時間や人生が大切になります。
そして、「悪」を行う者がいるから身を守る術を覚え、悪を蔓延らせないために社会を守ろうという意志が働くのです。
善と悪のどちらかが消滅しては善も悪も成立せず、善と悪が共存するがゆえに善に向かうのです。
これが神示に語られる「善と悪とのあなない(和合)」であり、哲学的に言えば止揚(アウフヘーベン)です。
宇宙における熱力学第二法則、いわゆるエントロピーが働く法則自体を最悪だとか、憎む人はいません。
エネルギーが大から小へ向かうエントロピーがこの世界に外すことのできない大法則だからであり、もし「悪」の働きもそうなのだとしたら、とりあえず法則として「あるもの」と考えるべきです。
私たちは寒くなったら火を炊きますし、ぬるい水に氷を入れたら冷たい水が飲めるのも知っています。
ゆえに、世の中が悪くなれば良くしようとするのも風呂を沸かし直すのと同じ原理です。
そこに悪感情があるかないかではなく、淡々と対応すれば良い話のはずです。
従って、「悪なんてこの世に存在しない」というのは間違いで、「悪も良いものだから何もする必要がない」というのも間違いです。
「善悪の定義はそれぞれ」というのは半分正解で、善悪の価値判断は人間に備わった認知機能なので外すことができないため、善悪の定義はやはり一定量存在します。
それゆえ、全てが平和的肯定感に満ち溢れていたら理想状態と考えるのは危険で、そういう平和ボケが支配しているのが今の日本なのではないでしょうか。
この世の「悪」は想像以上に根深く、その闇深さは人間の心を容易く沈めることのできるものです。
人間が起こす非道や凄惨な行いは、悪感情云々ではなく生理的な絶望感さえも引き起こします。
それでも「悪はこの世に必要である」と結論を保ち続けるのは、正直言ってかなりの覚悟が必要です。
しかし、エントロピーや重力という反作用があるから成り立つこの宇宙は、「全く別の性質のもの」が存在するからこそ相反し、相反する力によってお互いが高め合っていきます。
日月神示には、その二つの働きこそが「歓喜」をもたらすのであり、その相剋にも歓喜があると説きます。
この境地は、我々人間にはなかなか辿り着けるものではないかもしれません。
これこそ「神の意識」ゆえに立てる見解であり、人間には遠く及ばないものだからこそ、その境地は人間が神に向かうための「反作用」の一部と呼べるのかも知れません。
神示に「神は人を求め、人は神を求める」とありますが、神になれるはずのない人間があえて神の元に歩みを進めるこの道こそ、「神の道=神道」なのではないでしょうか。
だからこそ、神道には教義も経典も存在せず、むしろ「存在する必要がない」のだと思います。
人間は自分たちが進む道がマニュアルになければ不安になり、ルール通りに行動したいと思ってしまう生き物です。
しかし、教科書が存在しないからこそ理論を固め、応用的思考を駆使することが重要になり、その自立した思想性こそが個の確立と自由となるのです。
これから社会や国家をどうしていくかを考える時、人々は確固たる権威が存在し教科書通りの回答が用意されていないと何も決められません。
「右派か左派か」「保守かリベラルか」「アメリカか中国か」で争っている現代の二者択一は、おそらくどちらも間違っています。
かと言って右に傾いた中道でも左に傾いた中道でもなく、真上にある中道こそが唯一の正解だと思います。
そこには「太陽」があり、太陽を司る神がいて、その神格こそ日本の国家神道を統べる「天照大御神」であらせられます。
そして、その権威は「天日月大神」となられる国常立尊こと素戔嗚命が担っていくと「日月神示」では語られています。
おそらく、これからの新しい時代の「型」はそこから始まり、その型が未来永劫の繁栄をもたらす「ミロクの世」の元になっていくのだと思います。