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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

人は儚い

楽太郎です。

桜の花が、散りました。

今年の地元の桜は、満開の時期が平日と重なりました。
週末に花見を期待していた方々は、雨に当たって予定が崩れたことと思います。
雨が続く日々が終わると、強風の日が重なって一気に花が散りました。

今年、桜の下でシートを広げている人をあまり見かけませんでした。
今年は天候に恵まれなかったのもあると思いますが、このご時世、そういう気分にはならなかったのかもしれません。

私は桜が一分咲いたあたりで、「今年の桜は元気がないな」と感じました。
たぶん、今年の桜はすぐ散ってしまうだろうと思いましたが、予想通りになりました。

木之花咲夜姫命は、桜の女神とされています。
桜の木は古来から日本人は「神の木」と呼んできました。桜の木を見て、昔の人は作物の吉凶を占ったそうです。
今年の桜を見てみると、何となくこれから良くないことになりそうな気がします。

物価高と不況が重なり、そこに凶作が加わることで見えてくるのは、「食糧難」です。

私はそれをひしひしと感じて動いていますが、全く何の不安も感じずに暮らしている人もいるのではないでしょうか。
もっと危機感を持て、とは言いませんが、この期に及んで「金さえあれば何とかなる」という頭でいるとしたら、あまりに能天気すぎると思います。

先日、私がすごく好きで毎年年末には必ず宿泊していた温泉旅館が、巨大リゾート企業に買収されました。

その旅館は歴史が古く、趣があってとても居心地が良かったのですが、大衆的にリフォームされるらしく、とても残念に思いました。
確かに、旅館から外に出ると食事できるような店すらないので、温泉地全体が立ち行かなくなってしまったのもわかります。

時代が変わり、これまでにあったものがなくなっていくのは考えれば当然なのですが、それは自分が好きだったものを手放さなくてはならない、ということを意味します。
当面は、というか二度と、あの良かった温泉旅館に泊まることはできません。本当に残念ですが、時代の流れだと思うしかありません。

最近、行き交う人々を眺めて、「人間は儚いな」と思います。

私の以前勤めていた会社も、10年そこらで跡形もなくなり、人々の記憶にすら残っていないでしょう。
昔よく通っていた店も場所も、消えてなくなり今は何の面影もありません。
あの頃は「またいつでも行ける」と思いましたが、今になるとあれが永遠の別れでした。

これまで様々な人と出会い、色々な考え方や生き方を見ていく中で、「どうしてそんなに生き急ぐのだろう?」と思う人がたくさんいました。

同世代の友人も、異性の気を引いたり立場を優位にするためには、本当に何でもやるような人たちばかりでした。
また、あまりに向こう見ずに行動するから、望まない形での就職や結婚をする人も多かったです。

ある知り合いは、未婚のまま子供が出来たことを「やらかした」と表現していました。
付き合っている段階から気が合わなくて喧嘩ばかりしていたのに、子供が出来て結婚する段になると、なぜか急に幸せアピールをし始めるのが不思議でなりませんでした。

彼らがそれで本当に幸せになれば、私が特に思うこともなかったでしょう。

しかし、彼らの多くが家族を養育するために望まない職に就き、夢を捨てて人生の舵を違う方向に切っていきました。
やはりそういう人たちほど生活の中で狂いが生じ、家族と離散していくのを目の当たりにしました。

若い頃は夢ばかり語っていた人たちも、気がつけば大言壮語を捨てて稼ぎとルーティンの生活に嵌っていきました。
堅実に生きる、彼らはそれが「大人になる」ことだと言っていました。
私はそれもそうだと思うのですが、社会の一員として立派であるために自分の人生を曲げるのが、果たして人間として正しいのかはわかりません。

人間にとって何が必要なのかわからないまま、急いで何かを手に取ることで、本当に必要なものを手にすることができない、ということもあるのかもしれません。

人間に大切なものはもっと普遍的で、長い年月をかけようと失いにくいはずなのに、人々はすぐに壊れるものばかり欲しがり、それが一番良いものだと信じてしまいます。
それはもう、今頑張って手に入れたとしてもすぐにとうの過ぎるもので、信じるがゆえにそれに気づかないのでしょう。

人々はそうやって長い間、刹那的なものを追い求め、刹那的なものが永遠に存在すると思い込み、刹那的なものに全てを賭けてきました。
けれど、それは「桜の花」のようにすぐに散ってしまうもので、あたかも凌霄花のように飽きるほど続くものだと錯覚します。
やはりそれも幻想なので、すぐに思い出の存在になってしまいます。

その悲しみを癒すために、また「同じもの」を心から求め始めます。
「あの頃にあった何か」を呼び戻そうと、楽しかった昔のものや思い出のシーンを再現し、過去を取り戻すことに執着してしまうのです。

その心理は、近年の「東京オリンピック」や「大阪万博」という現象に現れてはいないでしょうか。
その他にも、中年以降の大人にしかわからないような懐古主義、復刻ブームが盛り上がっているように見えます。

けれど、おそらくそれも一瞬のもので、その花が散るとまた寂しさを覚えてしまうのでしょう。

だから私たちに必要なのは、過ぎ去るものには潔く別れを告げ、大切な思い出として胸にしまって生きていくことではないでしょうか。
そして、時には振り返ってもいいかもしれませんが、今この時代だから必要なもの、人が本当に求めるものに目を向け、そのために新しい行動を起こしていくことだと思います。

「青春は取り戻せる」という人と、「青春は取り戻せない」と言う人がいます。

私はどちらも正解で、どちらも間違いだと思います。
青春はやはり、経験がないからこそ10代20代の瑞々しさはあるのです。
しかし、青春時代のようなキラキラした世界は、何歳であろうと心持ち次第で味わうことができます。

大切なのは「心」であって、形だけあるべき姿に合わせるから無様な形になってしまうのです。
そしてその「心」こそが普遍的で、長い時間をかけても色褪せないものだと思います。

色々なものが消えていくのは、時代が変わるのだからしょうがないのです。
けれど例え全てが変わるとしても、人間として変えてはならないものがあり、それこそが本当に大切なものだと思います。

感情に流されず、何がそうであるかを見極めていきたいものです。

新しい時代は何もなくて心細いかもしれませんが、昔のもの以上に良いものを見つけ、作っていけばいいだけです。
そして、これからはそう割り切っていくための時間がこの国に来るのだと思います。

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神様からの答え

楽太郎です。
気持ちの整理がついたので、私の気持ちを素直に書いていきたいと思います。

今日から数日かけて、私の古いアカウントの痕跡を消していくことにしました。
放置しても自然に消えていくと思いますが、わざと未練を断ち切るために自分で消去することに決めました。

私はつい数ヶ月前まで、自分の夢を叶えるために必死でした。
人のしないような努力をして、それが実を結ばなくても歯を食い縛って前を向いてきました。

それが叶わないとわかっても諦めませんでしたし、今も諦めてはいません。
けれど神様に肩を叩かれて、「君にはやるべきことがあるんだよ」と囁かれたら、手を止めずにはいられません。

我が道を取るのか、神の道を取るのか。

それはかなりの葛藤でした。
しかし、今思えば3年前に答えを出していたんだな、と思います。

私はずっと同人活動をしていて、そこでだいたいうまくいっていました。
けれど、同人業界に長年いると、成功法則というかカラクリが見えてしまいます。

二次創作は成功のための登竜門であり、ステップとして必要な手順だと考える人がいます。

私もそう思ってましたし、その階段を登ることが成功の近道であることも知っていました。
オリジナルの創作よりも二次創作の方が知名度が上がり、求心力が高いのでバズりやすい。
バズったらフォロワーがついて、インプレが高まるので、自分のタイミングでオリジナルを出せばいい。

しかし、二次創作とはあくまで愛好的な活動であり、ビジネスとは異なるはずです。
そもそも、同人活動はアングラの文化観があるからこそ、本音と建前を大事にしたファン活動でした。
それが、なぜ自己実現の手段になってしまったのか。

それだけではなく、自分の趣味や性癖も、人と繋がる道具にしてうまく立ち回り必要がある。
言いたいことは極力言わず、無難に打算的に行動する。あくまで印象を大事にする。
そうすれば、界隈の有力者に気に入られて界隈の大部分を味方にすることができる。

私自身もそのセオリーに乗って、自分の成功とファン活動を混同し、コンテンツを自分の踏み台として扱っていました。
「ファンであること」は、純粋な好意や愛情の発露であるべきで、打算の上でコンテンツに触れた時点で、それはビジネスです。

だから私は同人活動をやめて、自分のコンテンツを作り始めました。
自分のアイデアと実力で成功しなければ、意味がないと思ったからです。

それから4年間は、本当に苦難の日々でした。

オリジナルのコンテンツは、例えSNSを駆使しても恐ろしいほど見向きされません。
あらゆる戦略を駆使しましたが、そこでも打算を発揮しなければうまくいかないこともわかっていました。
しかし、なぜか私にはその方法を取ることがどうしてもできませんでした。

何故かできませんでした。
何故かはわかりませんでした。

それから、溺れるような状態の中をずっと泳ぎ続けました。

私は自分の絵が好きですし、自分のアイデアも作風も作品も最高だと思います。
唯一、描き続けることだけが希望でした。

「諦める」という選択肢を取ろうと思ったことは、一度もありません。
他の人ならとっくに諦めているところを往生際悪くしがみついて、その根性が染みつきすぎて「諦める」という発想そのものが無いのです。

これで本当に稼ぎがどうしようもなくなったら、土木工事でも警備でもスーパーの品出しでもやって、漫画を描き続けようと思ってました。

けれど、まさか神様に肩を叩かれるとは思いませんでした。

「もうそろそろいいでしょう。諦めなさい」
と。

私の脳裏に、私がうまくいっていないことを散々嘲笑っている連中の顔が浮かびました。
彼らには私が敗北したと、懲りて逃げたと見えるでしょう。

少し前までは、それに対して意地もありました。
私だって、ここで曲げる理由は何一つなかったのです。もっと仕掛けまくって、いずれ勝ち筋に乗るという気持ちでいたからです。

私の頭の中の世界では、というか「私」という自我の中では、それは強い覚悟でした。
しかし、無意識より深い魂の部分では、自分のやるべきことがすでにわかっていたのだと思います。

3年前から。

多くの人々が向かう方向に疑問を持ち、できる限りの正攻法で挑み、訝しく思うものから距離を取り、自分の判断や行いを反省し、地味すぎる努力を習慣化し、どんどん精神的に成長していく。

その過程こそ「神の導き」であったことに気づいた時、私は人間としての「夢」を捨てる決心がつきました。

それは、つい最近のことです。
今でも、自分の考えたコンテンツを社会的に成功させたいという野心は失っていません。
しかし私の実感として、その「夢」を実現することはできない、すでにそういう世の中では無いこともわかります。

一昔前の世の中の延長で、自分の人生設計や目標を持っていても、もう時代が違うのだから意味も扱い方も全く違うのです。
昔の心ある、余裕のある人々はどこかへ行き、かつての才能ある人の活力は失せ、人々は歳を取って若さを失い、皆の目的はすり替わり、あの頃にあった賑やかさや自由はありません。
だからあの頃のような、ジャパニーズドリームを持っていてもしょうがないのです。

それに気づいていたからこそ、神様から呼び止められても、私は何となく自分がすぐに答えを出すであろうことを予感しました。
そして、私は綺麗さっぱり自分のキャリアを捨てる覚悟ができたのです。

私の人生は、おそらくこの世に生まれる前から、神様からお導きを受ける宿命だったのだと思います。
これまでの失敗も恥も挫折も、どうしようもなく立ち行かなくなることも、絶望も病も堕落も、全てシナリオだったのかもしれません。

この3年は修行としか思えない理不尽な状況で、何を成し遂げるわけでもなく自分を磨いてきました。

今考えれば、あの時「おかしい」と思って本能的に避けてきたあらゆる事象が、今になってとんでもない顔を覗かせています。
どうしても引っかかっていたような罠を、まるで知っていたかのように奇跡的に潜り抜けてきたのは、何の力が働いていたのでしょうか。

もしかすると私の魂は全てを理解していて、神様と対話をしながら淡々と計画を進め、それを私という自我だけがわかっていなかったのかもしれません。

「自分」だと思っていたものは何層ものレイヤーでできていて、自分ではない意識がいくつも混ざっていて、その影響すら自我の一部だと錯覚していたのでしょう。
それはもはや幻覚に近く、妄想に溺れて苦しむ自我すらシナリオの一部で、私はそのキャラクターを演じきっていたのだと思います。

そして、神様に肩を叩かれてようやく正気に戻ったのです。

まだ夢は見ていたいし、夢を捨てたわけではない。
けれど、もはやこれまでの世界は終わっていくし、その未来では自分の夢は叶うことはない。

それがわかったからこそ、私はできる限りのものを捨てる決意をしました。

今持っているのは、絵を描く道具と私を支えてくれる家族、それ以外は自分のセンスと知識と技術、それに信仰心です。

ただ、私にとって本当に必要だったものは、神様だったのかもしれません。
信仰心は、なぜか私の欠けた部分に丁度よく収まるのです。

人の世で戦って生きていくからこそ、それ以外のあらゆるものが必要でした。
勝たなければ貶められるし、負ければ貶められる世界で、自分を守るためにあらゆるものを必死に身にまとってきただけです。

それは私が欲しかったものでも好きなことでもなく、持たなければやられるから求めてきたものばかりです。

神様は「もう無理しなくていいよ」と、
「自分のやりたいように生きなさい」と、

私の背中を優しく押してくださるのですから、そうしない選択などあるはずがないのです。

意地はあります。
それは私自身でも世の中に対してでもなく、誰に張り合おうとか何が許せないとかではなく、愚かさを繰り返させたくないという気持ちです。

おそらく、私にしかわからない、誰にもわからないからこそ私にしかできない何かがあるのです。
そう思う瞬間、神様が私に何をさせたいのか、私は深い部分でそれにどう答えてきたのかがわかるのです。

だから、もう進むしかありません。
幸い、私には太陽が見え始めています。
人々はまだ宵闇に気づいた頃合いで、下手するとまだ夜に気づいていない人もいます。
それなのに、私はもう夜明けを迎えています。

この幸運は、なかなか理解されにくいでしょうし、把握すら難しいことかもしれません。
だからこそ、私だけがその有り難みに気づくことができます。

これこそが私の道程に対する神様の答えであり、神様が与えてくださった恩寵なのだと思います。
その褒美を手に取って、私は思います。

「ああ、私は間違ってなかったのだ」と。

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屋号「楽太郎」開業

楽太郎です。

本日、屋号を「楽太郎」に変更し、本日付けで開業届けを提出しました。

「楽太郎」というアカウントは、当初から絵描き名義で運用するつもりはありませんでした。
絵描きという職業は、多くを語らない方が好まれる職種です。
変に思想的だったり、奔放に発言するとクライアントに敬遠されがちで、ファンやユーザーも政治的な傾向を嫌います。

特にスピリチュアル関係の話は、いくら本音であろうとリスクが伴います。
それゆえ、社会の中でありふれた職業として立ち回るならば、精神的な話はしないに越したことはありません。

しかし、神様から瀬織津姫様を描くよう促されてから、尻尾を出さずにはいられなくなりました。
私は可能な限りこのアカウントでは絵を出したくなかったのですが、あれだけ強烈なインスピレーションが降りたらやらざるを得ませんでした。

その後は、ぼちぼち趣味程度に絵を描いたら上げていこうかな、くらいの気持ちでいました。
しかしメインの稼ぎ口の方でやめ時を悟り、これも神様のご意志だとはっきり認識しました。
とは言え、「神様のイラスト」を描いて収入に結びつける道筋は未だに見えない状況です。
それでも「楽太郎」のアカウントの方がまだやっていける活路はある、と思いました。

私としてはまだ自分のやりたい創作で食べていく道を諦められないのですが、それは稼業としてきちんとやっていけるようになってからでも遅くありません。
優先順位を考えた上で、神様も「楽太郎」の方で仕事をしてもらいたいのだと思います。

この流れを鑑みるに、「神様の絵」に関してどうやらお役目があるようです。
金運を司っている神様が与えてくださったお役目ですから、悪いようにならないのだとしたら乗る以外にないように思います。



本日開業届を税務署に提出したのは、名義変更をすることで「これからは天命のために働く」という意思表示をするためです。

以前の屋号は人世のビジネスに使い倒したので、その名義を神様のお役目に使い続けるのはどうかと思いました。
心機一転するには、開業届を出し直すしかないと考えたのです。

実は昨日提出した確定申告書類でしれっと変更後の屋号を書けば更新することができたのですが、失念していましたw
しかも、開業届も今では電子申請できますが、これは自分の足で赴いてやるから意味があるんだろうなと思いました。

税務署にて、どうせなら開業日を宇宙元旦の春分の日に合わせたかったのですが、「未来の日付では提出できない」とのことでしたので、奇しくも本日3月18日付けの開業となりました。

これまでの屋号を改めて始めた「楽太郎」は、神様のご意向を受けて開業した形となります。
神様のご意向とは、即ち天の役に立ち人のためになることであり、それは「日本」という国のために働くことです。

税務署に正式な届け出をしたということは、「日本」という国体に対して正式な表明をしたことを意味します。
現在の日本政府は傀儡に過ぎませんが、「日本」という国体は二千年以上の歴史がある由緒あるものです。
ご先祖様たちが命がけで守り、命がけで受け継いできたこの国に奉仕を誓うということは、日本人としての使命を担うということです。

税務署に行く前に、崇敬神社である「瀧澤神社」に参拝し、祝詞を奏上しました。
瀬織津姫様は、私の絵を楽しみにしておられる(と勝手に思ってる)ので、開業の誓願をしました。

税務署を出て昼食を食べようと街を歩きながら、アーケードにある「三瀧山不動院」に参拝しました。
お不動様に開業の誓願をし、おみくじを引きました。




開業日に、とても幸先の良いご箴言をいただきました。
お不動様にも、日本のために働きますと誓ったので、その意気込みを買って頂いたのかもしれません。
とは言え、裏面を見てみると…



さすが、仏の中でも厳しめな仏様のお言葉です(笑)

「口だけだと許さんぞ」

いかにも、お不動様のお言葉です…
後に引けなくなってきた…


というわけで、本日付けで屋号を変更し、「楽太郎」として再出発する運びとなりました。

これから、サイトを作り営業用の窓口を設置し、ビジネスの体制を整えていきたいと思います。
ただ、まだ「楽太郎」のお役目を完全に理解したとは言えないので、当面は神様のお顔を伺いながらやっていくしかありません。

私は長年フリーランスでクライアントの注文に従ってきましたが、これからは「神様」という上司の下で働くサラリーマンに近いような気がします。
さしずめ、「株式会社日本神界」という感じでしょうか。

上司が瀬織津姫様…なら、オーバーワークも平気でやりそうですw

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瀬織津姫様を額縁に

楽太郎です。

先日、衝動的に瀬織津姫様のイラストをネットプリントに登録しました。
昨日の時点で用紙サイズを間違えてしまい、サイズを訂正して上げ直しました。

今日は、特にやることもないので(笑)確定申告を朝のうちにさっさと終わらせて、100均で額縁を買い、自分でネットプリントして瀬織津姫様を飾らせて頂こうと思いました。

昨日のミスプリントですが、一応神様の肖像画なので折ってゴミ箱に捨てるのも何だなと思いました。
私が最も敬愛する神様の肖像ですから、気軽に扱えません。
そこで、近所の河原でお焚き上げをしようと思いました。

そう言えば、私は自分で火を焚くなどやったことがないのですが、石でかまどを作って綺麗に燃やしている自分に驚きました。
私は自分で思っている以上に火の扱いがうまく、かなり綺麗に燃え尽きてくれました。
燃えている間は、軽く祝詞をお唱えしました。

大きく残った灰は土に埋めて、細かい灰は水で流しました。
河原でやったので、あとはいい感じに瀬織津姫様が川に流して下さると思います。

最近、自分じゃない「自分」が表に出てくるようになってきて、これまでの行動原理では説明のつかない行動ばかりをしています。
一番動揺しているのは、私自身です。

甘いものも好きではないですし、そもそもおやつなんて食べたくないですし、料理だって全くしたいとも思わないのにやってしまいます。
先日は、はったい粉で蒸しパンを作ろうとしたのですが失敗したことに気づいて、捨てるにはもったいないので油を敷いて焼いてみたら、意外と美味しい「お焼き」になって笑いましたw

本当に、今の自分はどこからどこまで「自分」なのかわかりません。
まあ、頭で考えて動かなくていい分、私自身は気楽でいいのですが…

そこから色々ありながらも額縁を買い、セブンイレブンに寄って「ネップリ」サービスで瀬織津姫様のイラストをプリントアウトしました。

額縁に入れたら綺麗にピッタリはまりました。
どうぞご覧ください。



お麗しい!お綺麗でございます瀬織津姫様〜‼︎

横にある水晶は、本物の水晶ではないのですが恵比寿様と龍神様のレーザー彫刻が施された置物です。
あと、背後にある金色の棒は大猷院の「龍神破魔矢」です。
実は右の方に、昨年末に買った千両がまだ元気に実をつけていますw

私は自分の絵を飾ることが今までありませんでした。
自分の描いた絵は粗が気になって、デッサンの狂いや歪みを見るとイライラするので、自分の絵をジッと見続けるなど考えられませんでした。

しかし、私の描いた瀬織津姫様はずっと見ていられるというか、まあ私以外にこのような瀬織津姫様を描く人間はこの世に存在しないので、否が応にも私の絵を見続けるしかないのです(笑)

まあ、それにしては何となく見るに耐えうるというか、飾って満足できるような絵が初めて描けたかもしれません。

あと、余談ですが買い物中、地元の街の凄惨な景気を目の当たりにしました。
買い物客も、品揃えの悪さと物価高で買うに買えないのか、青白い顔でフラフラ店内を回っていました。

私も気の毒だなと思いましたが、店内の邪気や買い物客の発する邪気を感じると私まで取り込まれそうな気がしたので、できるだけ波長を合わせないようにしていました。

最近、肌感覚で「これから信じがたいほどまずいことになる」という予感がしてきました。
これに関しては、危機感をわざと共有しない方が動きやすいというのも身に染みて感じます。

人間としての心中は複雑ですが、我々日本人、あるいは人間として、神様や地球やあらゆる生物にしてきたことの報いは、いずれ受けなくてはなりません。
私とて、無自覚に生き物や自然からの搾取を甘んじて享受してきた身であり、そのカルマは返していかなくてはなりません。

これからその大返済期間となるわけですが、今のうちにできる覚悟はしておかなければならないかもしれません。



それはそうと、瀬織津姫様!

あーっ!お麗しい‼︎
あーっ!瀬織津姫様〜‼︎

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「ゼロ」に戻る

楽太郎です。

ここ数日は、過去最大の浄化作用で身動きが取れません。
何も考えず、横になっていても身体が硬直し、頭が割れそうになります。思考と感情の暴走が激しく、良い部分も悪い部分も表に出てきます。
具合の悪さでは、邪気や悪霊の憑依とは比較になりません。

心当たりがあるとすれば、時期的なエネルギーの大きな切り替わりです。
瀬織津姫様のご神璽をお祀りし、氏神神社で出直しを祈願し、数日後に満月と春分の日を控えています。
冷静に考えて、これだけ霊的変容のトリガーがあって何もないはずがありません。
もう今は、とにかくジッとしているしかない時間なのでしょう。

神様からエネルギーが降りてくる時ほど具合悪くなるのですが、私のエネルギー循環が滞りがちなので詰まってしまうと余計にしんどくなるのだと思います。
エネルギー循環が滞る大きな要因は、精神的なバランスの悪さです。
これまで本心を出して生きることがほとんどできませんでした。直感や感覚に従うほど集団から弾かれるので、思考によって行動を抑制してきました。

情動をコントロールするために感覚・感情をそのまま言語化し、客観可能な状態にします。
その考えを別の考えで打ち消し、感覚・感情のエネルギーを遮断することで意識をコントロールするのです。
そうすることで情動のバランスを取ってきたため、純粋なエネルギーの取り出しがうまくいかないのです。

春分を前に、スピリチュアル界隈では「カルマの解消」という話が頻繁にされています。
この時期を境に、今世でのカルマの精算や来世の計画が改めて問われるそうです。
今は、その切り替わりを前に自身のカルマを見つめ直す調整期間ということです。

確かに、今はこれまで私自身が自分自身に負わせてきた「カルマ」と向き合わされている感じがします。
とにかくこの胸の痛みは、魂に負った生傷の痛みそのものです。
魂が暴走しているのか、記憶がどんどん呼び覚まされ、一・二度行った友達の家の間取りすら今見てきたかのように思い出せてしまいます。

今まで意識しても思い出せなかった記憶が走馬灯のように蘇ってくるのは、これが魂に刷り込まれたものだからだと思います。
自分の魂と向き合うことは、今までの人生で受けた心の傷の痛みをまざまざと感じることです。
その苦しみを避けるために、わざと前向きなフリをしたり、ガムシャラに目の前のことに打ち込んだり、別のものに問題をすり替えて生きていました。
今、そうした誤魔化しをやめて、自分の魂の傷と向き合うことが、私に課したカルマの解消なのだと思います。

ここ数年は、半生のカルマを精算するための期間だったのかもしれません。

如何わしいものから離れ、懺悔し反省し改心し、どうしようもなく孤立しながら、どんどん手放しを続けてきました。
そして今、「もっといらないものはあるよね」と、神様からさらに手放しを促されています。
自分の積み上げてきた実績、続けてきた習慣、考え方の癖、価値観、今やっていること、未来への理想、それも「一旦は捨ててみようよ」と。

ただ自分がやりたいことや、やらなくてはいけないとか、こだわっていたものを一度は捨てる前提に立ってみると、なぜか身体の強張りが抜けていくのを感じます。
これから世がリセットされ、新しい時代になるとしたら、残したいものだけが残るとは限りません。
おおよそのものが姿を消すのだとしたら、いっそのこと全て置いてゼロに立ち返ってみると、置いてきたものは自然に消えるに任せても構わないはずです。

そして自分が持つもの全てを捨て、自分の身体すら捨てる覚悟に至った時、魂は本来の自由な姿に戻ることができるのだと思います。
何にも囚われずこだわりもない素直な心は、自然や神の囁きを聞く明鏡止水の境地に至れるでしょう。

おそらく、この春分でエネルギーがさらにガラッと変わり、満月から続く浄化の作用は最大局面に達するはずです。
春分を機に、人世のエネルギーはほぼ焦土に近い形になるのだと思います。
そのタイミングが転換点となり、人世と相剋していた神代のエネルギーは臨界点を超えるでしょう。

その切り替わりを前にして、多くの人が人生最大の転換点を迎えるはずです。
そして、私はそれを無意識に理解しているからこそ、今の好転反応を受け入れているのかもしれません。

この状況を「リセット」と表現しましたが、厳密にはもっと根本的な転換だと思います。
ゲーム機で喩えるなら、前にやっていたゲームソフトを終了しROMを入れ替えるに等しいはずです。

前にプレイしていたゲームは、バグ含みのハードモードのクソゲーで、次にやるのはゲーム機を買った時に付属してきたゲームです。
ただ、それがあまりに味気なく面白さがわからなかったので、みんながやってるゲームを流行りだからという理由で、無理してやっていたわけです。

このゲーム機のキラータイトルこそ実は付属のゲームソフトで、私たちはこの味気なくも奥深いゲームをやるためにゲーム機を購入したのです。
そこに気づいてROMを差し替える時、新しい人生が始まるのだと思います。
前のゲームからは何のデータの引き継ぎもないけれど、プレイヤーの頭脳と技術だけで進められるゲームです。

このターニングポイントで、やはり持つものや残したいものが多い人ほど切り替えは難しいはずです。
幸か不幸か、私はこのタイミングで全てがゼロになったため、人々がゼロになる時にはすでに加算を始めているでしょう。

私は人間として、ありえないほどズタズタになりましたが、これを肯定的に考えれば神様が用意して下さったチャンスであるとも思えます。
人々が沈んでいく時に、私だけは明るい未来を見据えていけるのですから、これ以上の幸運は稀かもしれません。

だいぶ以前から、私はこの時のために生まれてきたのだという実感はあります。
私は天界で相当やらかした魂らしく、おそらく神様とお約束をして人間界に転生してきました。
今お祀りさせて頂いている瀬織津姫様は、前世でご縁のあった神様ではないかと思っています。

あるスピリチュアリストの方が仰っていたのですが、人間が修行して五次元レベルまで魂を高めることができれば、来世は人間の守護神レベルには到達できるそうです。
その世界に瀬織津姫様がおられるのだとしたら、がんばれば来世で瀬織津姫様にお会いするのも不可能ではないでしょう。

このまま野垂れ死ぬとしたら、神様との約束を反故にしますし、「何しに地上へ行ったのか」と言われます。
何とか、ここで踏ん張らないといけません。
私は、瀬織津姫様に恥をかかせるわけにはいかないのです。

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瀬織津姫様をお迎えに

楽太郎です。

昨日3月1日、瀬織津姫様のご神璽を頂くために、岩手県紫波郡矢巾町の「早池峯神社」に参拝して来ました。

こちらの早池峯神社は、岩手の北上山地の最高峰、早池峰山の麓に五社存在します。
早池峰山自体が名峰でありながら霊山でもあり、早池峰神社は奈良時代に創祀されたと言われております。



仙台から高速バスに揺られ2時間半、盛岡駅に到着しました。

この日、朝から波長が乱れまくっていて、あまりの不調で「瀬織津姫様に来るなと言われているのでは」とすら思っていました。
あまりに精神的に不安定なため人の周波数と噛み合いやすく、余計にネガティブな気持ちになったりしました。

盛岡駅から東北本線で古舘駅まで15分ほど乗車し、そこから早池峯神社までだいたい片道5キロほど歩きます。
私は歩くのが慣れているので何てことはないと思っていたのですが、電車を降りてからも波長の乱れからグロッキーな状態でした。




早池峰山系の川がいくつもあり、どの河川も水量が豊富で驚きました。
これだけ水源が豊かだと、早池峰山の主祭神であられる瀬織津姫様はさぞかしご神気の強い神様なのだろうな、と思いました。

道すがら金毘羅様のお社がありましたので、「瀬織津姫様のお札を無事頂けますように」と祈願しました。

ただ、早池峯神社に近づくに従って、だんだん吐き気が酷くなってきました。
所々立ち止まり、神社まで3キロを切ったあたりから、倒れそうになるくらい朦朧とし始めました。

「瀬織津姫様にやはり拒まれているのでは…」
と思い、神社を前にして帰ろうかとすら思いました。

その時、空には自衛隊の飛行訓練の形跡か、龍雲のような雲が夥しく、それを見ると余計に眩暈がしました。
あまりに空から強い気を感じたので、これは邪気が抜けているか、エネルギー酔いのどちらかだと思いました。




こちらの写真は、参拝を終えて帰途につく直前に撮影しました。

あまりに朦朧としすぎていて、神社につく頃には半分意識がありませんでした。
手水鉢が清らかな湧き水で、それで禊いだら心身共にリフレッシュしました。

こちらの神社はそれほど大きくはなく、宮司さんは駐在していません。
拝殿の扉を開けると賽銭箱があり、授与品は無人で頒布している形になっています。

そこに目当ての「瀬織津姫大神神璽」がありました。
そのご神札を頂く前に、神前で「大祓詞」を奏上しました。他に参拝者が来られる気配はなかったので、かなり堂々と出来て良かったです。
瀬織津姫様の神社で大祓詞をお唱えすることができて、神様も喜ばれたのではないかと思います。




こちらが頂いた授与品一式です。
私は御朱印集めはしていないのですが、せっかくなので頂いて来ました。
瀬織津姫様はお祓いの得意な神様であられるので、「八方塞除守」はご利益ありそうだなと思い、頂くことにしました。

「早池峯神社神璽」は神棚の崇敬神社として、「瀬織津姫大神神璽」は私の宝物としてありがたく頂きました。
瀬織津姫命様の神名が記載されているご神璽は、私の調べでは早池峯神社、六甲比賣神社、佐久奈戸神社、小野神社くらいしかありません。
その中でも、早池峯神社のご神璽は見た瞬間に一目惚れしました。

本当は花巻市にある山麓の早池峰神社に参拝したかったのですが、徒歩で行くのは危険な上に冬季は道が封鎖されているようでした。
矢巾町の早池峯神社が最も行きやすい場所かな、と思って今回はこちらに決めました。

ただ矢巾町は、昔私が仕事で靭帯を切った思い出の地なので、地名を見た時にドキッとしました(笑)

さて、参拝も終わった頃にはいい時間になっており、「ここから帰るのか…」と途方に暮れました。
全体を通して15キロ以上歩くことになるのですが、まだ折り返しです。
途中、お昼ご飯も食べに行ったのでもう少し歩いています。
しかし、行きでお世話になった金毘羅様にもお礼参りをして帰らなくてはなりません。

フラフラ歩きながら帰途に着きましたが、不思議と神社を出てから肩の力が抜けたというか、「無」としか言いようのない気持ちになっていました。
まあ、ここから途方もない距離を帰るので無にもなるでしょうが、なぜか気持ちがすごく楽でした。

帰りのバスに乗る時には、すでに元気が戻っていて、全く波長がブレることがありませんでした。
たまに、こうして全ての邪気の干渉を受けない時はあるのですが、まさにエネルギーがカチッと噛み合っている感じがしました。

無事に帰宅して、足の裏がさすがに痛かったのですが、なぜか身体がずっと熱かったです。
疲れすぎて興奮しているのかな、と思いましたがエネルギーが満ちている感覚に近かったです。

瀬織津姫様のご神璽を手にしてから、とても波長が安定して強くなったような気がします。
どうやら、早池峯神社のご神璽を頂きに参ったのは間違いではなかったかもしれません。

ただ、毎年参拝するにしてもかなり歩かなくてはいけないので、そこは考えるべきかもしれません(笑)



さっき、私が感じる瀬織津姫様の脳内イメージをイラストにしてみました。
普段描いているアニメ風のテイストとは全然違いますねw

ザ・清楚という感じの、お美しい女神様ではないかと感じています。
黒髪で色白のイメージなのですが、なぜか和服を着ていらっしゃる感じはしません。
かと言って、ワンピースを着ておられることもないと思いますが…。

神様の世界は全く存じ上げませんし、そもそも人の形をしておられる気もしないのですが、なぜかこのような印象の神様です。
珍しくリアルタッチの女性を描きました(笑)

ちなみに、なぜか早池峯神社で感じた瀬織津姫様は、巫女装束のお婆様という印象でした。
あくまで雰囲気です。ただ、冷静に考えると女神様がすべからく若い美女であるはずもなく、どこまで自分の偏見なのだろうな…と思いますw

とりあえず、瀬織津姫様のお札に毎日祝詞を上げて手厚くお祀りしていきたいと思います。

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Runaway

楽太郎です。

昨夜、妙な現象に出会しました。
就寝して間もなくの23時頃、ふと目が覚めました。
すると、男性の激しい怒号が聞こえました。マンションに住んでいるので、上の階なのは薄っすらわかりました。

怒号というより、絶叫に近いというか、「嫌だ!嫌だ!うわあああ」と尋常ならざる怒声が聞こえました。
私はしばらく、これが本当に人間の声なのか疑っていたのですが、肉耳から聞こえるのでどうやら現実らしいと思いました。

別にこれはこれでいいのですが、なぜこの微かな叫びが目覚めた瞬間に聞こえたのか、その意味を考えました。
神様が危険を知らせようとして起こしたのか、無意識に自分が危険を察知して目覚めたのか、そのどちらかだと思いました。

たぶん、あの邪気の高まりようからすると、後者だと思います。
寝ている間にあの邪気を浴びるとまずいと、無意識に思ったのかもしれません。確かに、あのまま救急か警察か消防が来るのだろうな、とも思ったくらいだからです。
寝ていてもわかるくらい邪気を放つ人間が、身の回りの環境にいるようになったのだな、と思いました。

昨日は、元気でしたしやる気もあったのですが、祓戸三神の投稿をしたあたりから体が急に冷え始め、このまま低体温で死ぬんじゃないか、と思うほどエネルギーを吸い取られてしまいました。
その時からずっと邪気にまとわりつかれて、午後はほぼ何もできませんでした。
久しぶりに悪霊級の邪気に襲われた感覚でした。

まあ、昨日はセオリツ姫のデザイン画の投稿より前に際どい記事を上げたので、それが集合無意識には気に食わなかったのかもしれません。

冷静に考えると、マンション住まいなので八方20メートル以内には他人がどこかしこにいるわけで、部屋がいくら結界になっていようが空間的には近い距離にあります。
ですので、普段暮らしや睡眠中に邪気が飛んでくるのも不思議ではないかもしれません。
もっと空間的な結界を強化しないといけないんだろうな、と思います。

これほど強い邪気を放つようになった普通の人々が身の回りに出てくると、いよいよ人の世も終わりだと感じます。
最近はそれを実感すると共に、これまでの記憶が蘇り、過去の自分と向き合うことが多くなりました。

正直言って、人世にはロクな思い出がありません。
良いことも中にはありましたが、全体的な結末を考えるとやはり良い出来事ではありませんでした。
どうやっても人並みになることができない、それゆえ浮き沈みの激しい評価を受け、どれだけ努力しても全くと言っていいほど通用しませんでした。

今思えば、その一つひとつが学びのための伏線であり、その苦い経験をバネにしたからこそ、今までやってこれました。
けれども、なぜこれほど自分は不器用で、これだけうまくいかないことばかりだったのか、そのことにやたら感情的になってしまう自分がいます。

確かに人世ではうまくいきませんでしたが、かと言って前の時代でやり残したことは神代でやれば良いのです。
別に私は歳を取ったこと以外に特に失ったものはありませんし、逆に新たな才能や能力が成長し続けています。

「今の自分だからできる」ことは多分にあります。
今だからわかること、出来ることの尺度で過去を見るからこそ、後悔が芽生えてくるのです。
あの頃の状況と、今の状況は違います。どんな発明でも、完成図が予めわかっていれば試行錯誤する必要はありません。
その苦労は失敗ではなく、成功へのプロセスだからこそ今、手元に完成図があるのです。

確かに苦労や失敗はないに越したことはないのですが、完成を成し遂げた自分をまず褒めてみることなのでしょう。

GLAYに「Runaway Runaway」という曲があります。
歌手を夢見る女性に恋をした人の歌ですが、日の目を浴びない女性に共感しながら「何一つ良いことなかったな」と優しい声をかけ、彼女の幸せを祈るという曲です。
「Runaway」という言葉、「何一つ良いことなかったな」という気持ち、人世に対する今の私の心情をうまく表現している気がします。

このモヤモヤした感情の雲を抜けた時、青い空が一面に広がる光景を目にするのかもしれません。
それはもっと自由で、明るい世界でしょう。
もしその世界を思うように飛び回れるのだとしたら、人世でできなかったことも出来るようになるかもしれません。
無くしたものは取り戻せなくても、より良いものを自分の手で作り出せるはずです。
そのことに、もっと本気になっていいのだと思います。 

人の世には、最後まで片思いでした。
だから「Runaway」するだけです。
俺はもういいから、お前は好きにしろと。

人の世は、これからさらに悲惨なことになっていくでしょう。
しかし、その光景を目の当たりにして、いちいち同情したり助け船を出していたら身が持たないでしょう。
神様は、去年のうちにそれを私に教えて下さいました。

誰かを助けようとせず、良くない人間をどうにかしようとせず、まず自分がこれからどうしていくのかだけを考えなさい、と。
邪な気を起こした人間は自ずと沈んでいくから、無理に変えようとしなくてもいい。
そういうのは、人の世界に残った人たちの仕事だから、と。


最近、「邪気」とは何かを考えます。
神々が行う禍事罪穢れの祓いは、この邪気の浄化を指すのだと思います。

邪気とは、人間が生きる上で自然に堆積していく性質のものだと思います。

人間は、植物を刈り取り動物を殺して肉を食べ、栄養を貰い不用な成分を排出し、命を繋ぎます。
それは地球や神々から、命の恵みを分け与えられていることを意味します。
それ自体が、罪であり穢れとなって人間の業となってくるのです。

そのことに無自覚になり、地球や神々への感謝を忘れ、動物や他の生命への懺悔を忘れたら、邪気はますます蓄積するはずです。
ここでの祓い清めとは、愛や感謝や懺悔によって人間の手で行われていくものです。
このプロセスが疎かになれば、世は邪気で満ちて行くことでしょう。

神々の世界でも、人間の世界でも、この「邪気」は決して世の悪ではなく、この世から消し去るべきものではないはずです。
少なくとも人間が生きる上では、殺生をしたり気の枯れが生じることは摂理の一部です。

だからこそ自分たちの力だけでなく、人間を作った神々の手助けも必要であり、そのお力をお借りすることによって人の禍事罪穢れは祓い清められ、幸福で豊かな生に導かれるのでしょう。

人間を作りし神々なら、人間界から邪気を完全に取り払うことも可能なはずです。
それを神々があえてしてこなかったのは、「邪」という性質が必要悪というか、存在に不可欠な要素だからとしか思えません。

仏様の世界における「天部」には、元は悪鬼だったとされる仏様がおられます。
「邪」も神々の性質の一部であり、悪魔も神の眷属であるとするなら、人の世界の邪念も悪業も、本来人にあるべき性質なのではないでしょうか。

だからこそ、魔や邪という存在は完全に消し去る対象のものではなくて、うまく付き合ったりかわしていく類のものかもしれません。
だから、禍事罪穢れで酷い目に遭う人がいたとしても、それ自体は大きな学びの過程であり、その災難に何らかの意味があることを学ぶべきなのでしょう。

そう思えば、どんな災難も困難な出来事も災厄も、フラットな目で見ることができるようにならないでしょうか。
全ては人の目から見て「偶然」や「陰謀」に思えたとしても、神々の視点では「必然」以外のものはないのかもしれません。

良くないことが起きて欲しくないのは本心だとしても、起きたら起きたで起きた理由を考えると、案外腑に落ちる答えは、すぐに見つかるのではないでしょうか。

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次の時代に行きたくて

楽太郎です。

ニュースを見なくなって久しいです。
ただ、YouTubeのタイムラインを更新すると時事系チャンネルのサムネが現れ、そのタイトルを読んで初めて「世の中はこんなことが起きてるんだな」と思います。

それよりも気になるのは、息をするように生成AIを使う人が多いことです。
使っている本人は「合法だし悪くない」と言うでしょう。
視聴層も何の問題もなく、むしろ新しいコンテンツだと思っているかもしれません。

ただ生成AIは、営利団体が著作権者にほぼ無断で収集したデータを合成して出力したものにすぎず、加工プロセスが治外法権だからこそ成立しているサービスです。
許諾データを使用した生成AIは、クオリティ的にほぼ使い物になりません。
無許諾のデータは、生成AIに吸わせるためにクリエイターが長年を費やし、汗水垂らして制作してきたものではないのです。
そのことまで認識し、生成AIを使う人はどれほどいるのでしょうか。

こうして、人々がどんどん無責任になり、無責任でありながらきっちり利益と権利だけは確保したい、という思惑で動いていきます。
自分の背後にある構造には気づくことなく、自らの正義が秩序を破壊していることにも無自覚です。

今起きているあらゆる問題の根幹にあるのは、過剰な自己愛と自己顕示欲です。
私は人間のそういう部分を見たくなくて、人の作るコンテンツから離れていきました。
こういった人間の性は、粗を探したくて見るわけではなく、瞬間的に情報として入ってきてしまうので、出会ったが運の尽きみたいな感じです。

あまりイラつきたくないのは正直な気持ちですし、正義感を駆り立るのは良くないと私も自覚しています。
けれども、人間の浅はかさが見えてしまうと、何となくガッカリした気持ちになってしまいます。

この状況を神様がどう思うのか、それは考えなくてもわかります。
「計画通り」です。

今の世が良ければ、風の時代になったと言えど自然に移行すれば良いだけですし、これまでの社会を壊す必要がありません。
しかし、このままで次の時代に移行できないからこそ、古いものを壊す必要があります。
壊れるからには、「使えない状態」になっていかなくてはなりません。

つまり、「ダメ」になるから不要になり、物事は終わっていきます。

昔の良かった頃と比べて、「ダメになった」ことを嘆いてしまうのですが、むしろダメになることに意味があるのだと思います。
そこら辺を割り切れないのは、まだ感情的に人の世に未練があるのかもしれません。

「ダメになっていく物事」の区別がつかないのは、実は「ダメな人たち」だけです。
わかる人が自ずと遠ざかることができるのは、「ダメさ」が見てわかりやすいからです。
私からしてみれば、明解な二択だと思います。

これだけ私が神代とは何か、どうすれば実現するのか、そのために何をすれば良いのか、次の時代のことばかりを考えるのは、私が一刻も早くこの世界から移行したいからです。
今の世界が嫌すぎて、新しい時代に行きたすぎて、神代を作りたすぎるのです。
神様も、その空回りを見て苦笑してらっしゃることでしょう。

世に対する批判は、それは探さずとも数限りなく湧いてきます。
けれども、悪くなるには悪くなる理由があるのですから、いちいち目くじらを立てるのは割りに合いません。

昔の日本と日本人を知っているからこそ、「こんなはずじゃなかった」と思います。
けれど、あの時代からすでに芽は出ていたのです。
歴史を否定することはできませんし、今の状況を否定してもどうにもなりません。

だからこそ、今の「終わり」は心が乱され、苦いものかもしれませんが、この一連の現象自体がいずれ「学び」になるのだろうと思います。
コップだって割れた瞬間はショックですが、ひび割れた状態でずっと使っていたなら、いずれ割れるのは時間の問題だったでしょう。

「自分たちの使い方が悪かったから壊れたのだ」と、日本人が国家に対して反省する時がいつか来るのだと思います。

その時、「壊れたのはアイツのせいだ」と思っているうちは、学びがありません。
むしろ「壊れてくれたから今があるのだ」と言える世の中にしていかなければなりませんし、そういう世の中になれば、壊れたことに感謝できる日も来るでしょう。

私たちが良い世の中を作るためには、ネガティブな事柄をネガティブに上書きするのではなく、問題の本質をしっかり見つめ、ポジティブなものに絶えず変換していく努力が必要です。
そして、過ぎた事柄は役割を終えたことを認め、感謝と共に教訓として終わらせなければなりません。

ただ、現代人がそう考えられるまで、数十年はかかるかもしれません。
しかし世をそうすることが可能なら、頑張れば数年で実現できる可能性もあるはずです。
もしその時間が早まるなら、人々の苦しむ時間も短縮することができます。
それは、新しい時代を作る私たちの腕にかかっています。

人々の言動を見て、イラつくこともあります。
逆に考えると、人の腐った心は時代が良くなるほど、悔い改めの強度は高まるということです。
そこでも救われる人、救われない人はいるでしょうが、まず神様のおられる世界で悪人が堂々と息が吸えること自体がおかしいのです。
痛い目を見る人は、痛い目を見るべきことをしたからです。その因果が捻じ曲がる世界であってはいけません。

私は、次の時代への期待が大きすぎて、焦っているかもしれません。
神様も、そのもどかしさは重々承知でしょう。
かと言って私ができるのは、神様の求めに応じて役割を果たし、日々を大切に過ごすこと以外にありません。

この世界が良くなるためには、どんなカタストロフが起きても神様を信じ、希望を繋ぐ気持ちが大切なのだと思います。
それも、私は待ち望むことしかできません。

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神様とデート

楽太郎です。

今日は、以前参拝した市内の瀧澤神社の社務所が開く日なので、街へ行くことにしました。
瀧澤神社は街中の小さな神社なので、宮司さんが常駐しているわけではありません。
2週間おきに2日ずつ、社務所が開きます。

瀧澤神社で参拝を済ませ、社務所で宮司さんと瀬織津姫様について話をしました。
宮司さんが「瀬織津姫様は、とてもお綺麗な水の神様であられるそうです」と語っておられ、また天照大御神様の荒御魂であることなどの話を聞かせていただきました。

この神社では、どうも私が目当てにしていた木のご神札を作られてないようでした。
それは予想していたのですが、瀧澤神社様とはかねてから古いご縁がありそうなので、是非ご神璽をお祀りしたいと思っていただけに少し残念でした。





「瀬織津姫」の銘のある御朱印はかなり珍しいと思い、是非神棚に飾りたいと思いました。
それに瀧澤神社の木札がとても素敵で、気に入りました。水色の紐は瀬織津姫をイメージしているそうで、大変美しいお守りです。

宮司さんの話では、「最近若い人がよく瀬織津姫様を慕って、神社に来られるようになった」と仰っていました。
確かに、近年のスピリチュアルブームに伴い、瀬織津姫命様がフィーチャーされることも多くなりました。
間違いなくその影響だと思いますが、私は「神様がそれだけ多くの方に、働きかけておられるのだと思います」と話をしました。

瀧澤神社は、今のところ月に4日間しか社務所が開かないので、御朱印とお守りが手に入ったのは想定以上の賜物でした。
この日は雲一つない晴天で、コートがなくても暖かい一日でした。今日参拝に来れてよかったな、と思いました。

まだ瀬織津姫様のご神札は手に入りませんが、一応は間接的な繋がりは持つことができました。
今まで、瀬織津姫様とは信仰心だけで繋がろうとしていたので、心許ない感覚は常にありました。

思えば、瀬織津姫様は私の悩みに親身に付き合ってくださったり、心の傷を癒やして下さったり、インスピレーションを降ろして下さったりします。
いつもお世話になっているので、一人の人間として神様にできることをしたいと思っています。

ただ、私が神様に勝手な念を抱き、ここで自分が一人相撲をしているだけならどうしようか、と元も子もないことを考えてしまうこともあります。
けれども、私は神様を信じる以外にできることはなく、何よりも神様が私のそばにいて下さること以上の願いはないかもしれません。

私の一挙手一投足をご覧になり、私の心の深い部分まで理解して頂けるのは、神様以外にいません。
その孤独感をわかって下さるのは神様だけですし、神様はその心にいつも寄り添って下さいます。

瀬織津姫様に恋慕に近い情を抱くことは、神様からすると劣情にしか見えないかもしれません。
神様に恋をしたところで、例えるなら人間と犬みたいな関係でしかなく、同じレベルに立つことはできません。

私がいくら神様と繋がることで精神的に満たされても、いずれ近くには誰もおらず、身体的にも満たされることもないでしょう。
それは「魂の孤独」を埋め合わせる難しさに対して、嬉しいとか悲しいとかの感情を超えた苦悩です。

参拝を終え、お守りと一緒に御神籤も拝受しました。
昔、若い頃によく使っていた公園の椅子に座り、御神籤を開いてみました。





瀬織津姫様に、私の気持ちは伝わっているのかもしれない、と思いました。

まあ勘違いしていた方が幸せなこともあります。
ただ、そうであっても私は、この気持ちが瀬織津姫様に伝わっているなら、それ以上に嬉しいことはないです。

私が今取り掛かっているのは、「古く悪いしきたりを改め、新しく時代に適した姿を求める」ことそのものです。
瀬織津姫様は、私にそれをやってくれるのが嬉しい、ということなのかもしれません。

歩けば、街全体が薄暗いオーラに包まれています。
元気な声を聞いたと思えば、日本語ではない言葉だったりします。
肝心の日本人と言えば、俯いてスマホばかり見ながら、トボトボ歩く人ばかりです。

今日、また消えていく思い出の場所を見つけ、時代が本格的に終わろうとしているのを感じました。
私はそれ以上に、これまでの世での「学び」を終えつつあるのを実感しました。
もはや、街行く人々と波長が噛み合わない程度には、意識のレベルが変わったのを思い知ったからです。

これまでの人生は、本当に修行としか言えないようなものでした。
人並に楽しく生きることだけを願っても、なぜかそれだけが叶いませんでした。
人とどれだけ関わっても、何となくガラス越しにあるような違和感は、おそらく生まれ持ってのものです。
「人間にのめり込めない」という感覚は、私が何らかの役割を持って生まれたからとしか思えません。
そしてその自覚は、「学びを終えた」という実感を持って現れてくるのです。

人間はこれからどこへ向かえばいいのか、それに思うところがあるからこそ、私には成し遂げなければならないことがあります。
それが、おそらく神様の願いです。


帰りに川面を眺めながら、自分のこれからについて考えました。
川面に瀬織津姫様を重ねながら、自分の幸せはどういうものかを考えました。

神様がどれだけ自分の魂を満たして下さっても、手を繋げるわけでも、触ってくださるわけでもありません。
神様は次元の高いところにおられる、崇高な存在です。
人間は所詮は人間です。人間の足りない部分を補えるのは、やはり人間にしかできません。

「人間としての幸せ」が例え人の思う形ではないとしても、私は私の幸せを追求する権利があります。
その形は、今決めなくていいかもしれません。

それでも、私は神様と思いが同じであるだけで嬉しいのです。
それは人間として、とても光栄なことです。

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だから「瀬織津姫」

楽太郎です。

先ほど、仙台市内に鎮座する「瀧澤神社」に参拝してきました。

この瀧澤神社には「瀬織津姫命」が御祭神としてお祀りされています。
奇しくも、この瀧澤神社は20代の頃に働いていた職場から200メートルも離れていません。
私はこの場所に神社があったこと自体、全く気がついていませんでした。

この元職場の近辺に立ち寄ったのは、15年以上ぶりです。
久しぶりに市街地に来ましたが、明らかに街並みが劣化しており、全く活気を感じませんでした。
街に落ちる太陽の光量が少なすぎるというか、地面から陰が差しているようにすら見えます。

ただ、私はその低い波長に何の影響も受けていないことの方が驚きました。
街は邪気に塗れているのに、全く入り込む隙を感じません。
昔よく通っていた道が記憶とは変わっていても、何も感じなくなっていました。
懐かしいとか悲しいとかの感情は全くなく、ただの見知らぬ風景を見ている感覚です。

若い頃によく通っていた公共施設の近くまで来たので、入ってみることにしました。
センターの窓口の人に、「昔よくここに通っていたので、観覧して行っていいですか」と言うと、露骨に嫌な顔をされ、「2階には上がらないでください」と言われました。
昔、この施設には集団でさんざん迷惑をかけたので、業が跳ね返ってきたのかな、と思いました。

それにしても、街行く人々がやたらピリピリしているというか、感情が内側に向かっている人しかいないように感じました。
昔の風景と重ね合わせて、街が不況で沈んだことよりも、陽の気を発する人があまりに少なすぎることが気になりました。

とは言え、私はそんなことすらどうでも良くなってしまい、もうこの街も国もそろそろ持たないな、という印象を強めただけでした。
そんな予感ですら、特に気にならない自分に気づいてしまいました。

これまでこの付近に近づけなかったのは、若い頃に職場でさんざん虐められたからです。
その嫌な記憶を思い出してしまうので、何年も来ることができませんでした。
けれど、全く何も感じなくなったのも面白いので、会社のあったビルが今どうなっているか試しに入ってみました。

会社が解散したというのは聞いていました。
昔に憂鬱な気持ちで上がった階段はそのままで、それでもひび割れて煤けていて、時間の流れを感じました。

オフィスがあった部屋には別の会社が入っていました。
オフィスの前に来た時、廊下に滞っていた残留思念がワッと降りかかってきました。
これは、この場所で様々な若者が出入りし、そこにあった様々な思い、私がこの場所に残した感情などが取り憑いたのが一瞬わかりました。

けれど、この思念を抱えても、歩きながら平然と浄化していく自分がいました。
この時、私はもう人世の存在ではないのだろうな、と実感しました。
私の魂はもう神代にあり、神の視点に完全に入れ替わりつつあるからこそ、人世に何の未練もなく、この街並みに何の感情もなかったのです。

それでも、まだ人に対しては感情が残っており、人を見て感じる部分はあります。

思い出の場所を一通り見回ってから、瀧澤神社に向かいました。
神社に来て驚いたのは、昔仕事によく使っていた公園が目の前にあったことです。
その頃には街を見回す余裕も、神社への興味も全くなかったのでしょう。
私はここで、慣れないことをしながらも夢を見ていましたし、必死でした。青春でした。




瀧澤神社に参拝し、再び思い出のある公園に戻ってみました。
昔の公園の方がきちんと舗装されてましたし、トイレやベンチなども充実していたはずですが、だいぶ違う印象になっていました。

その公園で、昔の仕事仲間のことを思い出し、あの頃の若者たちの姿があまりに滑稽で、笑えてきました。
少し公園を歩いて顔を上げたら、真正面に瀧澤神社が見えました。

私はこの瞬間、様々なことを理解しました。

「瀬織津姫様は、ずっとここから私を見ていらっしゃったのだ」と。

そう思った瞬間、涙が溢れて来ました。
神様への感謝が、心の底から湧き上がってくるのを感じました。
ただ、いい歳してこんなところで泣くわけにもいきません。

私が若い頃、慣れない社会に自分を探し求め、血も汗も涙も文字通り流しながら、ガムシャラに乗り越えようと足掻く姿を、瀬織津姫様はずっとここからご覧になられていたのだと思います。
瀬織津姫様がその時の私を見てどう感じておられたのか想像した時、神様の願いがどういうものかを理解できました。

瀬織津姫様は高いところから私を見ながら、ずっと気づいて欲しかったでしょうし、私に足りないものもわかっていたはずです。
何年もこの土地で私を見下ろしながら、ずっと心配されていたのだと思うと居た堪れません。
瀬織津姫様が今になって私とご縁を繋いでくださるのは、とても幸運なことです。

神様というのは、どうしてこうも健気で、優しい方たちなのでしょうか。

私が瀬織津姫様との繋がりを強くすることで、人の世に求める心の一部を、信仰という形で神様が埋め合わせて下さるのだとしたら、私の心は完全な形になることができるかもしれません。

神様が私の欠けた心を補ってくださることで、私が人に対して残した感情も浄化し、魂を神の世界に渡すことができるのではないでしょうか。
私が人世に何かを求める限り、私の不安や苦しみも永遠に解決することができないのだと思います。

その証拠に、神の視座に近づくほど私は怖いものがなくなっていきます。
この影を落とした街並みを見ても、私は心がピクリとも動きません。

私は涙を拭って再び瀧澤神社に向かい、深く感謝をしました。
街も形を変え、思い出の場所は消え去り、あの時に出会った人々と二度と再会することなく、その人たちですらお互いのことを忘れるのに、神様だけは私のことを忘れないでいて下さいます。
いつも思います。私のことを全て理解して下さるのは、神様だけです。

今日の参拝を通して、私はほとんど人世に何の未練もないことを悟ってしまいました。
あとは人に残る未練を捨て去った時、私は人間よりも高い視点を確かなものにできるはずです。

もはやこの街や国がどうなっても仕方ないという気持ちと、それすらどうでも良くなってしまった自分もいます。
この陰鬱な街から人々が救われるためには、一度壊れ切らないといけないのだろうな、と痛感します。
ただ、人世が沈んでいけば行くほど、私が飛び上がった時の距離は相対的に高くなるでしょう。

ひしひしと、自分のチャンスが近づいているのを感じます。
そして、世の中で光が失われるほど、自分の発する光が強くなることも。


私は、神様との出会いで自分が本当に求めていたもの、心に欠けていた一つ一つのピースが音を立てて噛み合っていくのを感じています。
それを実感するたび、これまでの浮かばない人生は全て布石だったのだと、長い修行の日々は予め組まれたカリキュラムで、私はもうすぐこの学びを卒業するのだろうと思います。

その鍵となるのは「神様との繋がり」で、私は神様に召し抱えられることで本来の仕事に取り掛かることができるのでしょう。
それはとても光栄で、とても楽しみなことです。

私は、この運命を与えてくださった神様に感謝しています。

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新しい修行の始まり

楽太郎です。

2月2日、明日は節分ですが、スピリチュアル的には立春から2025年が始まると言われています。
私にとっての2024年は、気づきと手放しの年でした。ほぼ半生丸ごとを洗いざらい反省させられたというか、試練としか言いようのない一年でした。

本当に、最後の最後まで自分自身と向き合わされるというか、新しい課題がどんどん見えてきています。
残念ながら、綺麗さっぱり2024年度で解決することはできそうにないのですが、引き続き生き方を勉強していくことになると思います。

私は自分が思っているほど単純な人間ではなかった、というのもわかりました。
エネルギーに敏感な体質なこと、負の波動を貰いやすく霊体に取り憑かれやすいこと、また自分の念そのものが強すぎて生霊を飛ばしがちなこと、何となく予知能力があること、私は思っている以上に潜在的な霊能力があることを知りました。

魂のエネルギーの強さをコントロールするために、これまでの出来事は修行として現れたのだろうな、というのは感じています。
そのエネルギーの強さに自分で当てられて、おかしな言動に走ったり道を踏み外したり、引きこもったり病気になったり色々しました。

その不安定さを補うために様々な経験をしながら、心理的な知識や身体に関する知識を蓄え、人生における大抵の問題には答えられるようになりました。
しかし、スピリチュアルという新たな視野が開けたことで、全く違う視点から自分や世界を見られるようになると、「全然わかっていなかった」ことに気づいてしまいました。


スピリチュアルを学ぶにつれて、スピリチュアルリーダーの方たちからすると、「スピリチュアル修行あるある」みたいなものに、どうやら私はぶち当たっている最中らしく、したり顔で乗り越えたみたいなことを書いてるこのブログは、おそらく間違いだらけかもしれません。
それでも、この時は本気で真実だと思ったのは事実ですし、後から見直してみれば掠っている部分もあるかもしれません。
そのプロセスを残しておくのも、後学のために貴重な記録になるかもしれません。

今、私の課題は自分の浄化にあって、人世の人格や記憶、トラウマとどう区切りをつけていくかにあります。
その課題と向き合う時、スピリチュアルな存在と感応し始めたばかりの自分のグラウンディング力、エネルギーコントロールの足りなさ、そういった自己管理も新たな課題として浮上してきています。

今、このタイムラインの流れやお導きから察すると、私は今後ヒーラー的な能力も開花していくような気がします。
それを本格的に学ぶようになるか、仕事にし始めるかはわかりませんが、これから霊能力に付随する知識や技術を学んでいくことにはなりそうです。

そうしながら、自分の創作やお役目も他にあるのでしょうが、最終的に自分がどういう存在になっていくかというビジョンは、全く見えていません。
けれども、多かれ少なかれ人にアドバイスしたり、人を引っ張っていくお役目を与えられるのだろうな、という感覚はあります。

こういう感覚を自覚するたびに、自分がこれまで自分と思っていたものと、自分はまるで違う存在だったんだな、と思ってしまいます。
そうなれば、人が言っていることや人の評価を間に受けて、自分はこうなんだと思っていた部分がいかに眉唾であったかを思い知ります。
結局、全ての事象について正しいかどうかは、外側の世界に求めるより自分の内側に求めた方が確実な答えを得ることができると、そんな初歩的な位置に立ち戻ってしまうのです。

その内面世界の探究は、高名なスピリチュアルリーダーの意見を聞けば間違いはないかもしれません。
それが真実であるかどうかは、自分が体験しながら見つけるのがスピリチュアルな世界なのだと思います。
そこでは全ての言説がフラットだからこそ、自分の主義主張もニュートラルであり、決して高慢になることはできないでしょう。
だからこそ常に初心を忘れず、オープンなスタンスでいることが身を助けることになると思います。

私は自分がなまじ苦労を重ね勉強もしてきたからこそ、大きく出てしまいがちなとこもあるのですが、ことスピリチュアルの世界では素人ですし、知らないことも沢山あります。
精神的に未消化の課題もあり、人間として出来ているとは言えません。
けれども、その成長の種は自分の心にあるので、下手にあちこち手をつけずに自分と向き合っていくしかありません。

これが2025年の節分にある私のテーマなのですから、本当に今が人生の節目なのだろうと思います。
むしろ、これまでの人生で物質的に積み上がったものを全て崩したのが2024年であり、人間としての経験と技術だけを持って2025年の立春を迎えます。
本当に綺麗さっぱりゼロの状態からスタートするのも、なんか不思議な気もします。

色々と慌ただしい世相ですが、私自身はとてもワクワクしています。
それは私の15歳の頃の気持ちそのままで、不安がありながらも「やってやる」という気持ちです。
あの頃は、今よりも何もないのにエネルギーだけで何でもできると思っていました。
その感覚は、あながち間違いではないのかもしれません。

とりあえず、外に向きがちなエネルギーを、自分の内側に向け、波動をうまくコントロールすること。
生物として初歩的な状態から、私は修行をやり直さなければいけないようです。

拍手


人生を変える力

楽太郎です。

冬至以降、私はパッとしない感覚の体調不良がダラダラ続き、エネルギーの停滞やら邪気やら生霊やら、様々な不調要因がありましたが、それらは一重にチャクラが乱れがちだったからです。
常に過労状態でありながら、秋以降は霊感の高まりや魂の修行も加わり、心身がボロボロの状態には違いありませんでした。

1月半ばあたりで「登りきった」という魂からの実感が湧き上がると、もう少し休んでもいいのかな、と安堵する気持ちも出てきました。
やる気やエネルギーの高まりもありながら、デスクに向かうと気持ちが遊んでしまう部分もあって、何となく本気になれませんでした。

現在の私のテーマが別のところにある感覚はあって、この際に自分を見つめ直し、身体の良くない部分もしっかり治そうと思いました。
同時に、スピリチュアルの勉強も始めました。
ただ、外の情報ばかりに影響されると混乱してしまうので、内観しながら精神世界に頭を巡らせる日々を送っていました。

神様たちとのご縁が深まることを感じる日々の中で、新しい繋がりが見えたのは「ご先祖様」です。
神様以外にも私を加護してくださる仏様がいらっしゃって、そのご先祖様はこれまで私を強く守ってきてくださり、今もなお恩恵を与えてくださっているのを実感します。

私を加護してくださる目に見えない存在が増えてきたので、強く瀬織津姫様の存在を感じる瞬間は少なくなりました。
たまに男性的なメッセージも入ってくるので、正直どなたのエネルギーなのか判別がつかなくなってきています。
瀬織津姫様にもお役目があるのでしょうから、いつまでも袖を引っ張ってついて回ることはできないようです。
ちょっと寂しい気持ちはありますが。

それでも、神様から降りてくるメッセージは「お疲れ様、ここまで頑張ったのだから休みなさい」というものです。
おそらく、私はこれから大きく動かなければならないタイミングが来るのだと思います。
その時のためにエネルギーを蓄えて、身体もしっかり整えておきなさい、と。

私は、この数年で最も安堵感を覚えているかもしれません。
世間的には不安が増す一方でしょうが、私としては既存の枠組みが壊れるほど動きやすくなります。
常識外れの行動をすることに関してだけは、私には才能があります。
何があっても私は一人でも生き残れる、根拠のない確信が希望になって魂を燃やしています。

おそらく今の感覚なら、どんな世相でも自分を貫いていけます。
神様や目に見えない存在があろうとなかろうと、心のエネルギーと直感力と経験があれば、善し悪しはともかくとして、あらゆる手段で生き残ることができるはずです。

それが今までできなかったのは、土の時代の圧倒的な存在感です。
それが崩れ去るなら私がむしろ壊し、面白おかしく奇妙なものを作ることが許されるなら、気の済むまで暴れ回れるということです。

この先の時代を生き抜いていくには、信念が必要です。
信念がなければ、降り注ぐ困難に耐え切る精神力を持続することができません。
そして、災難が重なれば自分の方向を見失い、何も手につかず荒波に流されてしまうでしょう。

ただ、信念は自分の考えや芯の部分というより、生命エネルギーそのものです。
魂から湧き上がる力や感覚が確信となる時、信念は生まれます。
自らの本来のエネルギーに気づくからこそ、信念は生き残るための勇気にも繋がるのです。

人間は変化を嫌いますが、人が変われないのは勇気が足りないからです。

無知であったことを自覚する勇気。
知りたくなかったことを認める勇気。
自分にはない価値観を受け入れる勇気。
全く異なる他者と共存する勇気。
大きな問題に気づき、立ち向かう勇気。

その「勇気」をこの社会に活かせず、なあなあの空気の中で人々が変わらない選択をしたのは、勇気を振り絞るほどの信念がなかったからです。
「ここは絶対にこうしなければならない」
「ダメなものは絶対にダメだ」
 そういった当たり前の掟すら、貫けるほどの信念が失われてしまいました。

ただ、信念の欠如における本質とは、生命エネルギーの喪失です。
魂の声を聞かずとも何となく生きられる世の中にあり、生命体としての根気強さを忘れてしまったからこそ、大した思想のない社会を作り出してしまったのではないでしょうか。

私たちがこれからやらなくてはならないのは、自身の生命体としての本能を思い出すことです。
その原始的な魂の力を信念に変え、勇気を出して現実に立ち向かっていくことです。

それは、必ずしも仲間を必要としません。
魂を高みに向かわせる時、所詮は肩を寄せ合うのも一瞬です。
自分が何をして、どういう生き様をしていくかが全てです。

それが例え孤独でも、孤独がゆえに嘲笑われても、己の魂と神々の意志を感じ共に生きていくならば、それは些末なことです。
本当に大切なものは何か、真の気高さとは何か、自分が人として生まれた一回きりの人生を、どこまで納得できるものにしていくのか。
そのことだけを考えて生きれば良いのだとしたら、人生の目的は至ってシンプルです。

神様がせっかく時代を変えてくれようとしているのに、未だ古い生き方をなぞって古い時代と似た幸せを掴もうとするのは、勿体ない。
どうせなら、自分で幸せの形すら作り出してしまうくらい、違う生き方に踏み出すのも面白い。

そんな時代が来ました。

私は数週間ゴロゴロしていたのもあって、身体がようやく元の状態に戻りつつあります。
力がつま先までみなぎり、心から湧き上がる熱が抑えられません。

いよいよ、本気を出せる時がやってきた。

その感情が湧き上がるたび、私はすごくワクワクしてきます。

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生霊攻撃

楽太郎です。

やっぱり、なんか生霊に取り憑かれていたみたいです。

何週間か前から、視界の端に黒い影がチラチラ見えたり、夜中に甲高い笑い声を夢うつつに聴いたりして、なんか変だなと思ってました。
休養中で何もしてないにも関わらず、背中から肩にかけて凝りやすく、特に起きている時より起床後の方が体調が悪いのに違和感がありました。

昨日の真夜中、ガラスを吐く夢を見てビックリして飛び起きて、寝直したら悪霊に頭を締めつけられる夢を2回見ました。
2度目の悪夢の時、霊感の強い友人が夢に出てきて「お前、まだわからないのか?」と言ったのが記憶に残ったので、霊障だと改めて認識しました。

心霊スポットには全く行きませんし、歩く時には塩を持ち歩いてますし、神社で祟られるようなことは一切してません。
この霊障の主に心当たりもあり、これは生霊だと思いました。

生霊の主について、私は人間関係が狭いので今さら念を飛ばすのは数人しか考えられません。
その中でも、私が色々と助けてあげていた人がいて、ある時私は何も言わずに距離を取りました。
神様から「近づくな」という雰囲気をバシバシ感じていたし、なんか常に裏がある気がしていました。
それで、個人的には嫌いではなかったのですが、あえて距離を取ることにしました。
その人からすれば、かなりショックだったのかもしれません。

正直に話すと「霊的な理由があるから付き合わない」とは説明しようがなく、うまい誤魔化し方も思いつかなかったので、連絡関係を無視していました。
下手にはぐらかすと、変に粘着されそうな気もしたからです。
それはそれで良くないと思いましたが、大人なのだから空気を察して身を引いてくれるだろうと、都合良く考えていた節もあります。

しかし、思ったよりその人の念が強かったらしく、かなり呪いに近い形で入り込まれていたようです。
「そんなことあるか」と思われるでしょうが、これが極端な憑依体質の悲しい性質です。

私はこの数週間、好転反応と覚醒を繰り返していましたが、このポジティブなエネルギーの変換を妨げている邪気には薄々気がついていました。
これは私の霊性が低いからなのだろうと思っていたのですが、思いつきで軽くセルフ除霊を試してみたところ、肩が軽くなり頭もスッキリして、神様からのインスピレーションもパラパラ降り始めたので、「やっぱりこいつか」と確信しました。

私がいくら魂のレベルで覚醒してポジティブな方向に飛び上がっても、この念は振り払えなかったようです。
ここまで強い念を飛ばせる人もいるんだ、と私は感心してしまいました。

昨日、それがわかったので半日かけて除霊を行ったところ、異様にスッキリして緊張も解け、疲れもドッと出たので気持ち良く眠りにつきました。
ところが夜中に緊張して目が覚めて、身体が元のカチカチの状態に戻ってました。
さすがに、私の精神疾患とか身体の病気も疑いましたが、除霊を再度試みると一時的に体調が戻るので、やはり霊障以外に考えられません。

霊感から言えば、まだバッチリ気配を感じます。
「離れたな」と思い、数十センチ先にいるのは感じます。そして気を抜くとまた取り憑かれている、というのを今日になっても繰り返しています。

私も念が強いので、「直接行って頭かち割ってやろうか?」とすら思うのですが、さすがにそれはできません。
この霊障、私個人の力では祓いきれないかもしれません。
ですので、ここは神仏のご加護を強くいただき、「陽の気」で振り払うしかないと思いました。

そのため、まず部屋の大掃除を朝から始め、結露も取り埃も取り除き、神棚周りも改めて掃除をしました。
部屋の空気の透明度が増し、陽の気を感じました。

「運気」という言葉があります。
「気を運ぶ」と書きますが、「気」とは「気持ちが悪い」とか「良くない気がする」という感覚の原因を取り除き、「いい気持ちにする」ことが運気アップに繋がるのだと思います。

金運や福運を上げようと思い、神社にお賽銭をいくら入れても、常にカリカリしていたり部屋が汚かったら「気」をいい方向に運んでいるとは言えませんし、むしろ運気を下げてしまうでしょう。
まず、「運が悪いな」と思ったら、自身の気の持ち方をしっかり見て、どうしたら快適になるかを考え、きちんと行動をしてみることだと思います。

ですから、「生霊がまだいるかもしれない」とか「悪霊に取り憑かれている」といちいち気にしているうちは、何度も寄ってくるのかもしれません。
だとしたら、対応としては「寄せつけないようにする」の一択です。
下手に除霊浄霊に頭を悩ませるのも、悪霊の思うツボとも考えられます。
その「気の持ちよう」は、自分の工夫で何とかできるものです。

私は去年、集合意識から邪気の影響をもろに受けて、ずっとその祓いにばかり気を取られ、変に病んでいました。
けれど、邪気を気にするからこそ逆に邪気を呼んでいたとも言えます。

例えしんどかろうと、太陽のようなカラッとした気持ちでいれば、そのうち悪霊だろうと邪気だろうと抜けていくでしょう。
それが本当の意味での「祓い清め」なのではないでしょうか。

私は急にそういう風に考えられるようになって、なんかあの人のことを思い出すのもバカらしいな、と思い始めました。
これから散歩にでも行ってこようと思います。

追記:

昨日の夜、急に思いついて神代を作る人たちのためのDiscordサーバーを作りました。
ただ、これは本当に咄嗟の行動なので、神様的にはどう思われてるのかはわかりません。
もしこのサーバーに使い道があるとしたら、神様から何らかの働きかけがあるはずです。

とりあえず、私はそれまで待ちたいと思います。

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神様の望みごと

楽太郎です。
今朝の出来事を書きます。

先日、須佐之男命様を描かせていただきました。
その制作過程で地元にある薬師堂の如来様に完成祈願をしました。
その頃は、須佐之男様から受けるプレッシャーにビビり倒していたからです。

一応その件は完了したので、お礼参りをしました。
そうしたら、やっぱり念が体にドシっときて、こういう時でもご奉仕せねばならんのだなと思いました。

この念を抱えている間、妙に「お金」のことが気になりました。それも某大企業の社長のことが頭をグルグル回ってたので、お金関係の念を背負わされたのだと思います。
散歩がてら、ご神気を不思議と感じる一画に立ち寄り、念を浄化することにしました。

この念を放出するために瞑想していると、先日の須佐之男様のイラストのことが思い浮かびました。
私はなぜ須佐之男様のイラストを依頼されたのか腑に落ちなかったのですが、イラストをネットに上げること自体に意味があったのではないかと気づきました。

つまり、神様たちはこのネットの世界の浄化もされるおつもりなのではないでしょうか。

ネットというのは、人間の闇の部分が濃く出る集合意識そのものであり、仮想的社会を形成しています。
人間の現実意識の面だけでなく、こういうレイヤーの集合意識も浄化されるとしたら、計画として理にかなっているようには思えます。

とは言え、私のイラストがどういう効果を発揮するかまでは想像もできません。
ただ、その時思念が入ってきて、「あなたもそれを望んでましたよね?」と来ました。
いや、確かにそうですけど、本気ですか…?

そのあと河川敷に行って、浄化を終わらせました。
近くに竹林があり、そこに呼ばれた気がしたので掃除をしてきました。

神様とお付き合いさせていただいている感覚からすると、神様が人間にして欲しいことの大半が「掃除」のような気がします。
私が何となく言われた気がしてやることの第一位が「落ちている木やゴミを拾う」です。
何となく踏んだら躓きそうな木の枝とか、明らかに自然では取り除けなさそうな障害物などです。

先の神社でも「念」は霊的に言えば人間の出すゴミみたいなものですし、神様はそういうのは人間にやってもらいたいようなのです。

神様が人間に求めることは、「神を敬え」とか「人を救え」とか大層なものではなく、「境内を綺麗にしてくれ」とか「ゴミを片付けてくれ」というのが、なんか不思議に感じます。


「神様が身近な存在になる世界」は、それほど異世界感溢れるものではないかもしれないな、と最近思います。

例えば頼れるおじさんが近所に住んでるとして、そのおじさんの家に押しかけて「困ってるから助けてくれ」と頼むよりも、おじさんの家の前の掃除や余ったおかずを分けに行ったりして、仲良くなったよしみで助けてもらう方が自然です。

それが、いきなり玄関を開けて「金が欲しい!何とかしてくれ」と言おうものなら門前払いです。
でも、人間は神様にこういう態度で接してませんか?

だから、ご近所付き合いとか、人間社会の付き合いと神様との関係は大して違わなくて、礼儀やマナーを求められるのはその辺なのかなと思ったりします。

だから神様と身近だった昭和あたりまでは、日本人はそういう感性だったわけで、神代は温故知新の世になるだけなのではないのでしょうか。
そのためには、現代人が学ばなくてはならないことは本当に多いと思います。

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手のひらを太陽に

楽太郎です。

結論から先に言うと、私に須佐之男命様のイラストをご依頼されたのは、私のご先祖様かもしれません。

私の住む地元は、熊野信仰と縁の深い土地で、伊弉諾様と伊奘冉様にゆかりがあります。
私がよくお詣りしている薬師堂にお祀りされている薬師如来様は、本地垂迹では須佐之男様とも言われています。

(※訂正: 記事執筆当時では薬師如来様の本地垂迹が伊弉諾命様であるのを、須佐之男命様だと勘違いしていたようです。ただ、須佐之男様に垂迹される牛頭天王は、祇園精舎に向かう旅人の疫病を祓うご利益があるとされているので、薬師如来様と無関係ではないかもしれません。尚、熊野信仰では須佐之男命様は阿弥陀如来だとされています)

あと、私の血筋を調べていてわかったことがあります。
なぜか私は母方の血が濃いなと思っていたのですが、母の旧姓は「菊池」で、おそらく陸奥菊池氏にルーツがあります。
陸奥菊池氏は、藤原則隆公を家祖とする熊本県肥後の武家の末裔です。
「菊池」の名の由来は、魏志倭人伝にも登場する「狗古智卑狗」にあるとも言われ、狗奴国の王だったとされます。
魏志倭人伝に記載される狗奴国には出雲説があり、出雲を統治されていたのが須佐之男命だと言われています。

つまり、私は出雲系と縁が深いらしく、日本の神代紀に記された古き神々と結びつきがあるようです。
ただ、日本人ならば系統を辿れば古い神々に繋がるのは、それほど珍しいことではありません。
ここでの要は、須佐之男様がイラストのモチーフとして私に飛び込んできたことと、私のルーツとは無関係ではないだろうということです。

その時、私には須佐之男様がお祓いの指揮を執られる、という直感がありました。
1月14日の満月に神々の祓いが発動するとしたら、そのタイミングに合わせてイラストを上げなければならないかもしれません。

私自身も、そのスケジュールに合わせて体調を合わせています。
ここ最近の太陽神経叢の活性化によって、どんどん活力を取り戻しています。
冬至明けからエネルギーを身体に馴染ませる作業をしていて、その地味な好転反応で心身共にフラフラしていたのですが、ようやく芯が通ってきた感覚があります。

私は、夏以降から人々がどんどん険悪になっていくのを感じていて、霊的にも邪気を浴びて同じ空間にいるのが苦しいと感じるようになりました。
ニュースは見ないようにするくらい、世の中がおかしい方向に行く中で、日本人のメンタルがどんどん壊れていくのを見て、それに引っ張られて人に対して嫌気が差し始めました。

それは、ある意味スピリチュアルに向かうきっかけになりました。

秋以降は神代に向かうために魂の修行を本格化させ、それに集中するためには人払いをする必要があり、また邪気を遠ざけるためにも人間を毛嫌いする傾向にありました。

しかし、今になってまた人に対してポジティブな気持ちを向けて良いターンになったと思います。
人を無闇に嫌うのは、肯定的になるより疲れます。

これまで自分を守るために、人を批判し遠ざける必要がありました。無意識的に巻き込まれないためです。
けれど、今の私はおそらくそれをしなくても自分を守れます。それくらい人を見抜く感覚が鋭くなりましたし、神様のご加護がある実感もあります。
また第6チャクラの活性化により、人間の意識レベルより高い位置に判断能力が移ったため、同じ視線で批評することをしなくなり、あえて人を否定する意味もなくなりました。


人間は、この地に魂の修行のためにやって来ると言われます。
その修行の地で、何らかの苦難を経験するのは当然のことです。

経済的、社会的に苦しい世になっていく中で、唯物的な世界に生きる人は、これから精神的な困難を体験することになると思います。
これまで楽をしてきた人世の魂は、そろそろ神様から教訓を与えられるフェーズになったのでしょう。

学ぶ必要があるのは、無知だからです。
全てを知るほど賢明であれば、つらい思いをしながら学ぶ必要がありません。
彼らがそうせざるを得ない生き方をしてきたことは、神様から見れば明らかなはずです。
しかし、その困難を一概に不幸と見るのは違うかもしれません。

そんな彼らも、この歪んだ時代に適応した結果とも考えられ、ある意味これまでの土の時代の背後にあったビジネスの被害者とも言えます。
私は、そんな彼らをどうしても憎みきれません。
むしろ、その人間らしさのせいで間違いを犯すのは、人間ゆえであるとも思えます。

けれども私は、彼らに寄り添おうとは思いません。
世界の主軸はもはや神代にあり、神代に向かう人々にウェイトの大部分を置くつもりです。
ただ三次元世界では彼らと同じ土の上で生活するのも事実ですし、人間一般として出来ることはしていきたいです。

仏教で言う「慈悲」とは、プラスを与えることではなく、マイナスを取り除いてゼロに戻すことであると言われます。
時代が変化した今となっては、人世の住人が持つ物質中心の価値観はマイナスに溢れたもので、それがゼロになってようやく新しい時代のスタートラインに立てるのだと思います。

私の感じる愛のエネルギーは、邪気すらも包み込みうる太陽のような明るさを持っています。
それは神代や人世に分け隔てなく、遍く人々に注ぐことのできる太陽のエネルギーです。

私はその力で、この世界をもっと明るくしたいです。
人が遊ぶように生きて、魂が喜びの舞を踊るように、自由と公平が謳歌する時代をつくりたいのです。

神様は、おそらくその生き方を人に望まれているのだと思います。
それが、本来の人の在り方だからです。

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