招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「博愛」を捨てよ

楽太郎です。

昨日、私自身は関係なかったのですが、身の回りで人間の行いの悪さを痛感する出来事があり、色々と気づかされました。

昨晩はその出来事で頭に血が上ってしまったのもあって、集合意識的な夢を見てしまいました。

私はよく街中や雑踏をただ歩くだけの夢をよく見ます。
それは特に嫌な夢ではなく、ショッピングや観光に近い感覚なので、どちらかというと愉快な夢です。
その夢を見た後は寝汗や強張りがあり、下手するとその日は体からずっと邪気が抜けなかったりします。

昨晩見たのは、とても美味しそうなパン屋さんをハシゴするのですが、ポケットの中にいつぞや買った菓子パンが2つ入っているのに気づいて、店をしれっと出て、パンを焦りながら食べきるという夢でした。

私は夢占いとかの知識は全くないのですが、昨日の出来事と合わせると、「お前の甘い部分をさっさと捨てろ」という意味のような気がしました。


最近、神様のお導きに従っていると、なぜか人間に対してわざと嫌悪感を抱くように仕向けられているように感じます。

神様は愛の存在なので、わざわざ人間を忌避したり、人払いをさせる方向に導くのはなぜだろうか?と違和感がありました。
私は疑り深いので、私を導いているのは悪魔的存在で、わざとまずい方に向かわせている可能性すら考えていました。

しかし、それをなぜかを深く内省してみたら、私がこれまで無条件に「人が救われる」ことの意味を履き違えていたことに気づきました。

これは「博愛精神」と呼ばれるものです。
神様は、今はこの博愛精神が良くないと知らせたかったのだろうと思います。

昨日の身の回りのトラブルも、家族が悪徳業者に善意を向けたために訪れた被害であり、誰彼構わず親切心を向けたり、無条件に与える優しさや甘さの部分が、裏目に出ることを示したかったように思えてなりません。

確かに、神様が神代に渡る人々を守る上で、へんな慈愛精神でトラブルを呼び込まれると、いちいち守りきれないでしょう。
今後、世の中がどうなるかわかりませんが、神様に選ばれた人たちはそもそも徳が高いので、その懐の深さにつけ入る連中が絶えないはずです。

神代をつくるのは最終的に人々を救うことを意味するので、慈愛精神は当然あるべきなのですが、逆に浅ましい人間たちにとって、それはつけ入るべき甘い蜜にしか見えないはずです。

例えば、食料が尽きて金もなくなり、人間関係が破綻しきった人が、神代で安全に暮らしている人に近づくには、善意に訴えるのが早いでしょう。
私たちは未来がまさかそこまで、みたいな気持ちはあるので、些か穿った考えのように思えますが、神様ならここまで考えておられてもおかしくはありません。

「神代の理」は、およそ人間社会の価値観とは一線を画すものです。世界の解釈の仕方が根本的に違うからです。

神様からしてみれば、「苦労」や「困難」はあえて「経験するべきもの」です。
人間は酸いも甘いも経験してこそ、魂が磨かれ成長していくものなので、苦労や困難は人生におけるハードルとして必要なものであり、人には「困難を乗り越えて成長していく」権利があります

私の「全員が無条件に幸せになればいい」という考えは、確かに人間界の価値観では気高いでしょう。
しかし、その感情が良くない働き方をすれば、単にお節介であり、人の甘えや依存を助長するものになりかねません。

神様は、おそらく歪んだ博愛精神が、負の働きを促しやすいことを注視しているのだと思います。

これから人々が神代を受け入れるために変化するならば、一旦これまでのあり方が壊されることを意味します。
それは悲痛なものになるに違いありません。神代に渡る人たちは、そもそも愛情深く、目の前で苦しむ人がいたら手を差し伸ばせざるを得ないかもしれません。
しかし、安易な手助けは、彼らが自らの困難と直面し悔い改める機会を阻むことになりかねません。
そして、一度誰かを助けてしまえば、群れになって助けを乞われる可能性もあります。

多くの人々がこの痛みを感じるのは、「困難」という経験が彼らの魂には必要だからであり、それを乗り越えてきっちり禊をしなければ、神代に安心して渡り切ることができないでしょう。

神様は、だからこそ中途半端な情や慈善行為を咎められているのだと思います。
「人を救う」ことは、決して楽をさせることではなく、甘えを許すことでもなく、自立した一つの魂として、成長の権利を尊重することであると言いたいのかもしれません。

私が最近、やたら人間たちを疎むような気分にさせられているのも、今は下手に情けをかけさせると危険だから、とは私の頭で考えても理解できます。

正直言って、神様がどこまでやるかはわかりませんから、私としては「そこまで準備しなくてはいけないの?」という感覚なのですが、そこは神様の裁量にお任せするしかありません。

これからどうなるかわかりませんが、「他人の心配より自分の心配をしておけ」という意味においては、間違いないような気がします。

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神を敬うことについて

楽太郎です。

今朝、朝食を食べながら「日々の感謝を神様に伝えないとな」と思い、これから氏神様の神社に行こうと思い立ちました。

正直言って呼ばれている感じはありませんでしたが、ご挨拶する程度ならお許しくださるだろうと、参拝に向かいました。

神社の裏手の林からご神気を感じるので、道すがら神様のご機嫌を伺ってみました。

何となくどんよりとした気を感じるというか、普段にはない威圧感や拒否感を感じました。
おや?とは思ったのですが、とりあえず鳥居の前に来た時、白装束の人たちがゾロゾロ入っていく姿を見て直感的に嫌な感じがして、一応気をつけることにしました。

鳥居の前に来た瞬間、けたたましい消防のサイレンが突然鳴り響きました。(これは警告だったかもしれません)
次の瞬間、大学生のような雰囲気の神職が走りながら適当な挨拶を交わしてきたので、私は思わずイラっとしてしまいました。
境内に入ろうにも手水舎の水も止められているので、禊をすることもできませんでした。

私は直感的に、「来るな」というメッセージだと思いました。
あんまり呼ばれてもいないのに来るもんではないな、とは思いましたが、なんか今日は何かある日らしく、追い返された感じがしました。

ちょっとイライラしてしまったのもあるので、私はこんな気分で神様にご挨拶するわけにはいかないと思い、参拝せずに帰宅することにしました。

それでも神様のご様子が気になったので、遠目から神様のお気持ちをお伺いしようとすると、やはりどんよりとした気を感じるだけでした。

私の「どうなさったのですか?」という聞き方も悪かったのですが、何も入ってこない時間が続き、何となく怒っているのか、悩んでいるのか、そんな感情が伺えました。
「私に何ができますか?」と直接お聞きすればよかったのですが、しばらくすると「照らせ、世を照らせ」という言葉がはっきりではありませんが胸に浮かんできました。


そういえば以前、私が本気で神様にお祈りしている最中、バタバタと拝殿から神職が降りてきて適当な挨拶をされ、祈りが中断するという珍事がありました。

この神社は喫煙所が休憩用のベンチの近くに置いてあったり、仮手水舎の水道がほとんど止められていたり、細々としたところに配慮を感じず、以前から納得できないところです。
歴史のある神社なのに、礼儀は全く継承されていないようです。

私は所詮人間なので、自分が神様のお立場なら、神への崇拝や参拝者への敬意を疎かにし、神よりも金を上位に置いている神職のあり方には、相当腹を立てていらっしゃるのだろうなと邪推してしまいます。

神様たちは堕落した人間界をテコ入れするために動いておられるのに、人間といえば神の名を利用して金儲けし、神事を業務としてこなしている神職すらいる始末です。

かの神社運営の行いを例えるならば、富豪一族の子孫が大事業家の祖父を心から敬愛して支えるわけではなく、祖父の事業や資産を使ってどうやって儲けるか、ということばかり考え、口先では「お爺ちゃんのおかげ」と言っている、そんな一族を見ているようです。

ここまで舐められたら神様も相当お怒りでしょうが、私の徳のレベルでは、この程度の所業で苛ついてしまうだけかもしれません。
私としては、日々の人間の行いを眺めては「神様、そろそろ本気でお怒りになられては?」と思ったりもするのですが、それは神様のお気持ち次第です。

とにかく、相手が神様であろうと人間だろうと、敬意を払えない者は言語道断です。
神様を巡る人々の意識は、深い部分から見直されなければならないと、私は個人的に思います。

追記:
後になって冷静に考えたら、氏神様はこの出来事をブログに書いて世に示して欲しかったのだろうと思いました。
神代は神様と共に生きる時代になるので、人間が神様の願いを叶えるというのは当たり前のことになっていきます。

神様は最近、私をメッセンジャーとして遣うために特殊な経験に遭遇させます。
だから今日の一連の出来事は、意味があることだったのだろうと思います。

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森羅万象から学ぶ

楽太郎です。

昨日、氏神様の神社に参拝したおかげでエネルギーが安定し、ぐっすり眠れましたし休めました。

おみくじの内容が嬉しくて、何度も眺めていたのですが、おみくじ番号「9番」も縁起の良い数字みたいです。
「9」は完成や成就を意味するそうです。
これは私自身のゴールを指しているとは思えませんが、ある意味、最後のピースではないかと思っています。

ここ最近、チャクラが乱れて邪気に付き纏われる原因は、私の心にありました。

社会に馴染めず自分を過信して突き進んでいる分にはまあまあ良かったのですが、自分の足りない部分を外の世界に求め、誰かの提示した知識や学問によって、自己の正当性を補強しようとしていました。
けれども、今は真偽が捲られる時代になったので、情報や価値の権威がボロボロと崩れるようになってきました。

そのため、偽物の一部のエッセンスを取り込んだ私の人格や常識は、とても過信できるものではないことに気づいてしまいました。
だからこそ、私の信念や世界観そのものがグラつき始めていたのです。

しかし、この私の心の足りない部分というのは、神様や仏様がおられたら、スッポリちょうど良く収まることに気づきました。
それは、神仏を過信するのではなく、自分の中にいるワケミタマとしての神を信じるということです。

これまで、外の世界に真実を求め、外の世界に目的を定め、外の世界に自分を探していました。
自分の身の回りに起こる現象は唯物論的な因果であり、外の世界の法則で全て説明できると思い込んでいました。

だからこそ、外の世界がグラつけば自分自身もグラついてしまうわけです。

けれども、自分の中に神様を見るということは、自分の魂としての感覚と繋がることであり、身の回りに起こる森羅万象に真の意味を見いだすということです。

今朝、あるお坊さんの説法を動画で拝見したのですが、「仏様は自分の弱い部分に対して、人生を通して試練をお与えになる」というお話をされていました。

つまり、私の「弱い部分」というのは、いつも外に原因を求め、動機づけをし、自分の中に軸を持たず、軸を持たないゆえに己を信じきれない、という部分から全ての課題が提示されていたように思うのです。

それは私が最近特に不安定だったのも、この部分で自信が揺らいでいたことが、現象として現れただけにすぎなかったのではないかと思います。

自分の軸に神様仏様を置くということは、あらゆる身の回りの現象に「これは神様からのどういうメッセージなのか」というのを、絶えず自分に問いかける行為に他なりません。
それは目に見えず、誰も正解を提示してはくれません。自分の感覚と知識が全てであり、その正誤は自分自身の中に求めるしかありません。

それは、あらゆる他責が許されないことを意味します。他者や身の回りの出来事はあらゆる学びを促すために示されることであり、それを通して被る失敗や損失も、学びのために必要なことだったと考えられるからです。

私は、「高い授業料だったなあ」と思うようなこともいくつか経験しましたが、その失敗の大きさも学びの一つなのではないかと思います。
原因を外に求めているうちは、正しく反省することができません。
その原因を自分の中に探し、その意味を知ろうとすることが、神と繋がることなのではないかと思います。

ですから、この考え方を手に入れることが、私の人格における最後のピースだったのではないかと思うのです。
そして、「自分の中に目的を探す」ことは、他者や世の中に対する貢献で果たされることであり、それは決してブレてはいけない部分なのでしょう。

それがはっきりした今だからこそ、私の人生はようやくスタートを切れるんだろうなと感じています。

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神様はいると思う日

楽太郎です。

昨日、とんでもない霊障に遭った話は今朝書きました。
今まで病気をしたことがないわけではないですが、この霊障はちょっと引くくらい凄まじいものでした。

この対処法はある程度行って楽にはなりましたが、今晩は新月なので、昼過ぎにこれだけ調子が悪いと夜はどうなるのか、不安を覚えたら余計に具合が悪くなりました。

そのため、今のエネルギー状態では乗り切れないかもしれないと思い、本来なら神社へのお参りは午前中が望ましいのですが、すぐ氏神様の神社へ行こうと思いました。
私としては、お呼ばれする感覚がなければあえて神社に行かないことの方が多いです。ただ、今日ばかりは本気で助けてくれという気持ちでした。

神様は歓迎してないだろうなと思いながら歩いていたら、4連続青信号、というか神社までの信号機が全てタイミングよく青でした。
こんなことあるのかな?と思ったのですが、すんなり神社に着きました。

本殿に参拝して「邪気に耐えられない。助けてほしいです」とお祈りしました。
しかし、ご神気は感じるのに全く話を聞いていただけてる感じがしませんでした。

道祖神の氏神様にもお願いしたのですが、全く同じ感覚でした。
言ってみれば「いや…もう十分やってるけど…」みたいなニュアンスです。

私は諦めが悪いので、ちょっと境内に居座って神様のご意向をもう少し伺おうと思いました。

境内のベンチでしばらくいたところ、神様のことをふと思い、「おみくじをひいたら何か言ってくれるのではないか」と閃きました。

おみくじを引いて、ベンチに戻って開こうとした瞬間、「神風」としか表現しようのない息吹を感じました。
そこで心して開いたら、この内容でした。







これを見た瞬間、ちょっと泣けてきたというか、神様に心から感謝しました。

私はおみくじを引くと、小吉とか末吉しか見たことないのですが、大吉かどうかよりも「ちゃんと見てるぞ」と言っていただけたようで、すごくありがたかったです。

今回の邪気の原因の一つに、腹部(横隔膜)の過緊張というのがあり、普段と同じ姿勢で同じことをしているのに、どうしてこんな異常を感じるのか疑問でした。

ある人の話では、神代に渡る人々はいわゆる人間界から村八分にされている状態なので、第3チャクラ(所属意識)の乱れが起こるそうです。

確かに、私は今かなり収入面で困っていて、どうやってお金を稼ごうか頭を悩ませていました。
このご時世でお金を稼ぐということは、古い土の時代にある程度は迎合する必要があり、その意識は人間社会へ帰属することを意味します。

しかし、神代を選んだ人々は新しい世のために才能や創造力を発揮しなければならず、大昔のコンテンツや観念をリバイバルして回すような経済と、真逆の方向に向かわなければなりません。
そのため、私としてはずっとジレンマを抱えていました。
今の経済の流れがまだ古い時代にあるのに、私たちの才能は次の時代のために行使されなければならないからです。

ただ、今日神社にお参りして自宅につく頃、空に天使の梯子(薄明光線)がかかっているのを見て、「お前はもうこっちに来い」と言われているのだと思いました。

第3チャクラの乱れは所属意識なので、神様の中に身を置けば、確かにその欠如感は埋まるはずです。

少し前に、今この状況でどうやって稼ごうか途方に暮れていた時、「人心に向かっていくからうまくいかない。人を引き寄せる側に回ればいい」というアイデアがふっと浮かんで、納得はしたのですがその真意はよくわかりませんでした。
今になって、何となくどういうことかわかりました。

時代の主導権は、すでに神様と神代の人々にあるので、わざわざツキに見放された人の世からお金をもらう必要がないのです。
自分なりの才能で人に尽くせば、その功徳は神様が貯金して、いつかお駄賃として与えてくれる仕組みなのかもしれません。
ただ、その仕組みは目には見えないので、本気で神様を信じているか、本当に人の役に立っているのか、が問われるのだと思います。

「でもお金ないんだからしょうがないじゃん」とは頭の片隅で思う部分もあるのですが、神様なら考えていてくれるだろう、と思うのも信心の一部というか、今は神様の方だけを見ていれば間違いはないのかもしれません。

とにかく、なんか勇気が出ました。神様に感謝しています。

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霊障との付き合い方

楽太郎です。

9月30日の午後から深夜にかけて、異常な邪気に襲われました。
体感としては、悪霊です。

あまりの体調変化にびっくりして、しかも不調のレベルが桁違いなので動揺しました。
その原因を考えれば考えるほど、混乱してしまいました。

その日は氏神様の神社に行った日だったので、パワーをもらいに行ったつもりが、変なものを連れてきてしまったのかと思いました。はたまた、道中で拾ってきてしまったのか。
あるいは、元々自分に憑依していたものが出てきたのか、身近な人から受けているものなのか。
それとも、人間の集合的無意識が悪霊化して襲ってきているのか。
あらゆる可能性がありすぎて、犯人探しを始めてパニックに近い状態になりました。

それでも一日の仕事はしなければならないので、冷や汗をダラダラ流しながら、何とかやり終えてから寝ました。
その夜は緊張して3時間で中途覚醒しました。
ただ悪夢を見たという実感はなく、どこかの観光地に遊びに行く呑気な夢を見ました。

そして今朝になり、改めて冷静に内観してみました。そしてこれは、やはり邪気というより憑依であると確信しました。

霊障は意識するほど術中にハマる


これまで何度か霊障に陥ったことはあるのですが、霊感が上がった今の状態から振り返ってみると、気づかないうちに霊障による体調不良とずっと付き合ってきたんだな、と思います。

私は基本的に健康体なので、この不調は更年期障害とか自律神経失調症あたりなんだろうなと、わりとセルフケアで何とかしようとしてきました。
ただ、それでもどうしようもない不調もあって、我慢してやってきたのですが、今思えばこれも霊障だったかもしれません。

私はネット越しとはいえ、人気商売をしている面もありますから、念を受ける環境と言えばそうです。
創作をする上で、人間の集合意識と近い場所にメンタルを置いているのもあるかもしれません。

どうやら霊媒体質のようなのですが、そういった性質を特に深刻に考えたことがありませんでした。
だからほぼ無防備の状態でこのアタックを受けて、本当に混乱したわけです。

今、冷静に考えてみると、この「悪霊に取り憑かれた!霊障で苦しい!何とかしないと!」と動揺すること自体が、悪霊にとっては意図したものだったのかもしれません。
混乱するあまり、妙な悪霊退散の儀式をしたり、様々やスピリチュアルな情報を漁ったりして、ますます状況を拗らせてしまえば、憑依霊の思う壷なのではないでしょうか。

でも、逆に考えると悪霊にとって困ることと言えば、「相手にされない」そのことに尽きるのではないでしょうか。
悪霊と言えど、人間の意識に干渉するにはエネルギーを消費するはずです。いくらエネルギー体であろうと、取り越し苦労はできるならしたくないはずです。
だからこそ、こうやって憑依を感じた時は、いくら吐き気や不調が著しく出ようと、平常心で跳ね除けるくらいの気持ちでいた方がいいのかもしれません。

対立軸で問題を解決しようとしない


今回、私が混乱したのは「苦しい!原因が何かあるはず、だから何とかしよう!」という考えからでした。
私には生まれつきの因縁があるようで、そういった原因を考えると実は一つには絞れません。
いくつもあるからこそ、最も可能性の高い原因をあれこれ考えたり、誰が悪いのかをぐちゃぐちゃ考えたりしていました。
そうすればするほど、どんどん具合が悪くなっていきました。身の回りの信頼する人まで疑い出した途端、自分が「まともじゃない」状態に気づき、改めて冷静になろうと思いました。

おそらく悪霊は、こうして疑心暗鬼になり、対人関係を悪くしたり、不用意な発言をさせたりして、憑依した人間を悪い方に引き摺り込もうとするのでしょう。
私はそれが悪霊にとってのハックなんだなと思ったので、「じゃあ気にしないほうがいいな」と割りきり、不調をカバーすることだけを考えるようにしました。

あと、これは霊的世界のことなので、神様のご加護にお任せすることにしました。
神道のお祓いで「祓いたまえ、清めたまえ」とありますが、祓いとは神仏との信頼関係によって助けていただくこと、清めとは自分自身が清廉潔白であり成長しようと努力することを指すそうです。
私は特に最近、天照大神様や瀬織津姫様とのご縁を感じるので、神様のお名前を唱えて加護を祈願しました。

結論から言えば、これで霊障はだいぶカットされました。
あと、私にも気の緩みがあったんだろうと思います。慢性的に気は枯れてますし、邪気を呼びやすい状態です。
それでも、「気の壁」を作って邪気邪霊の侵入を防御するやり方を覚えました。

私にこれほどの混乱をもたらすのは、かなり強い霊だった可能性があります。特に手口が知能的で、うっかり落ちるところでした。
なぜ、今この時期に唐突な霊障が起こるのかと考えると、まあそれも心あたりがありすぎるので、あえて考えないようにします。

最後に一つ書こうと思います。
全ての物事が拗れる理由の一つに、「対立構造」があります。
自分が被害を受けた、だから対応しよう、問題を取り除こう、と考えて動くのは自然なように感じますが、対抗意識を持つことで問題を深刻化しやすくなることも留意せねばなりません。

それが見えないものであろうと、何かしらの意図があって干渉してきます。
下手に同情しようとするのは危険ですし、彼らを助けるということは彼らの願いを叶えることではありません。
ただし、誰しもが互いが尊重され、平和な分け隔てない幸せが理想であり、その答えに意識を持っていくことが全ての問題に対する出口のように思えてなりません。
だからこそ、あらゆる問題に対する対応は、掘り下げることだけではないのだと思います。

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参拝と神様の話

楽太郎です。

一昨日、散歩をしながら近所の神社にふと寄ってみました。

この神社には神仏習合の神様がまつられており、近代の区画整理で移転改築され、元々お祀りされていたご神霊について特に詳細を知らぬまま、何となくお祀りされている小さな神社です。

私はいくつか霊的な直感があり、あまりその神社が好ましいとは思っていなかったのですが、なぜか今日は気になってふと入ってみました。

やはり違和感があり、今日は深く霊視してみようと思いました。

手を合わせてみたところ、神様はおそらくいないか、いらしたとしてもご神気がかなり弱まっているように感じられました。

境内を出て俯瞰して見ると、まるで住宅分譲地か、竣工前の宅地を見ている感覚になりました。

これは大変だな、と思ったのですが、その次の瞬間に氏神様のおられる神社に行くべきだと直感し、その足で氏神様の元へ向かいました。

その氏神様のおられる神社は、かなり由緒がありながら、近年は縁結びや商売繁盛などで盛り上げている神社で、今は壮大な建て替え作業の真っ只中です。

そのため、仮手水舎も巫女さんが手作業で蛇口を捻って出すタイプになっています。

巫女さんが社務所に入り、参拝客が来ない時間帯は手水舎の水が止められています。

私はそれを知っていたので、予め公園でお清めをしてから神社に向かいました。

日曜の朝だからか、手水舎から水は出ていましたが、家族連れの方が手水を無視して、一礼もなく境内に入って行きました。

それを尻目に見て、私は氏神様に感謝とご報告をし、近所のガランとしたお社について相談をしました。

その後、一息つこうとベンチに座った瞬間、先ほどの家族の父親から、タバコの煙が流れてきました。

参拝客の顔にタバコの煙が当たる位置に、喫煙所を置く神社もどうかと思いました。

神様に参拝に上がる人々が神様に対するマナーに無頓着であるだけでなく、神社を運営する方からして、隅々まで敬意を払っているとは思えません。

それでも、神様は「人間はこういうものだ」と思ってらっしゃるようなので、特に咎を与えるわけではないでしょうが、神様のご心中をお察しすると胸が痛みました。

私はその帰り道、「人間に敬意を払えない者が、目に見えない神様に敬意を払うのは難しいかもしれないな」と考えていました。

でもそんな時、和気藹々と道端の花壇を手入れするボランティアの方たちと出会し、「人間はいいところもあるし、悪いところもある、その出方が違うだけだ」ということを神様に見せられた気がしました。

神社の作法を興味のない方にも広げる、子供たちに神社のマナーや大切さを教える、そして神様と日本人の関係のあり方を変える、そのことも私に与えられた課題なのかもしれない、と思う出来事でした。

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