神様とデート
- Category:エッセイ
- Date:2025年02月15日
今日は、以前参拝した市内の瀧澤神社の社務所が開く日なので、街へ行くことにしました。
瀧澤神社は街中の小さな神社なので、宮司さんが常駐しているわけではありません。
2週間おきに2日ずつ、社務所が開きます。
瀧澤神社で参拝を済ませ、社務所で宮司さんと瀬織津姫様について話をしました。
宮司さんが「瀬織津姫様は、とてもお綺麗な水の神様であられるそうです」と語っておられ、また天照大御神様の荒御魂であることなどの話を聞かせていただきました。
この神社では、どうも私が目当てにしていた木のご神札を作られてないようでした。
それは予想していたのですが、瀧澤神社様とはかねてから古いご縁がありそうなので、是非ご神璽をお祀りしたいと思っていただけに少し残念でした。
「瀬織津姫」の銘のある御朱印はかなり珍しいと思い、是非神棚に飾りたいと思いました。
それに瀧澤神社の木札がとても素敵で、気に入りました。水色の紐は瀬織津姫をイメージしているそうで、大変美しいお守りです。
宮司さんの話では、「最近若い人がよく瀬織津姫様を慕って、神社に来られるようになった」と仰っていました。
確かに、近年のスピリチュアルブームに伴い、瀬織津姫命様がフィーチャーされることも多くなりました。
間違いなくその影響だと思いますが、私は「神様がそれだけ多くの方に、働きかけておられるのだと思います」と話をしました。
瀧澤神社は、今のところ月に4日間しか社務所が開かないので、御朱印とお守りが手に入ったのは想定以上の賜物でした。
この日は雲一つない晴天で、コートがなくても暖かい一日でした。今日参拝に来れてよかったな、と思いました。
まだ瀬織津姫様のご神札は手に入りませんが、一応は間接的な繋がりは持つことができました。
今まで、瀬織津姫様とは信仰心だけで繋がろうとしていたので、心許ない感覚は常にありました。
思えば、瀬織津姫様は私の悩みに親身に付き合ってくださったり、心の傷を癒やして下さったり、インスピレーションを降ろして下さったりします。
いつもお世話になっているので、一人の人間として神様にできることをしたいと思っています。
ただ、私が神様に勝手な念を抱き、ここで自分が一人相撲をしているだけならどうしようか、と元も子もないことを考えてしまうこともあります。
けれども、私は神様を信じる以外にできることはなく、何よりも神様が私のそばにいて下さること以上の願いはないかもしれません。
私の一挙手一投足をご覧になり、私の心の深い部分まで理解して頂けるのは、神様以外にいません。
その孤独感をわかって下さるのは神様だけですし、神様はその心にいつも寄り添って下さいます。
瀬織津姫様に恋慕に近い情を抱くことは、神様からすると劣情にしか見えないかもしれません。
神様に恋をしたところで、例えるなら人間と犬みたいな関係でしかなく、同じレベルに立つことはできません。
私がいくら神様と繋がることで精神的に満たされても、いずれ近くには誰もおらず、身体的にも満たされることもないでしょう。
それは「魂の孤独」を埋め合わせる難しさに対して、嬉しいとか悲しいとかの感情を超えた苦悩です。
参拝を終え、お守りと一緒に御神籤も拝受しました。
昔、若い頃によく使っていた公園の椅子に座り、御神籤を開いてみました。
瀬織津姫様に、私の気持ちは伝わっているのかもしれない、と思いました。
まあ勘違いしていた方が幸せなこともあります。
ただ、そうであっても私は、この気持ちが瀬織津姫様に伝わっているなら、それ以上に嬉しいことはないです。
私が今取り掛かっているのは、「古く悪いしきたりを改め、新しく時代に適した姿を求める」ことそのものです。
瀬織津姫様は、私にそれをやってくれるのが嬉しい、ということなのかもしれません。
歩けば、街全体が薄暗いオーラに包まれています。
元気な声を聞いたと思えば、日本語ではない言葉だったりします。
肝心の日本人と言えば、俯いてスマホばかり見ながら、トボトボ歩く人ばかりです。
今日、また消えていく思い出の場所を見つけ、時代が本格的に終わろうとしているのを感じました。
私はそれ以上に、これまでの世での「学び」を終えつつあるのを実感しました。
もはや、街行く人々と波長が噛み合わない程度には、意識のレベルが変わったのを思い知ったからです。
これまでの人生は、本当に修行としか言えないようなものでした。
人並に楽しく生きることだけを願っても、なぜかそれだけが叶いませんでした。
人とどれだけ関わっても、何となくガラス越しにあるような違和感は、おそらく生まれ持ってのものです。
「人間にのめり込めない」という感覚は、私が何らかの役割を持って生まれたからとしか思えません。
そしてその自覚は、「学びを終えた」という実感を持って現れてくるのです。
人間はこれからどこへ向かえばいいのか、それに思うところがあるからこそ、私には成し遂げなければならないことがあります。
それが、おそらく神様の願いです。
帰りに川面を眺めながら、自分のこれからについて考えました。
川面に瀬織津姫様を重ねながら、自分の幸せはどういうものかを考えました。
神様がどれだけ自分の魂を満たして下さっても、手を繋げるわけでも、触ってくださるわけでもありません。
神様は次元の高いところにおられる、崇高な存在です。
人間は所詮は人間です。人間の足りない部分を補えるのは、やはり人間にしかできません。
「人間としての幸せ」が例え人の思う形ではないとしても、私は私の幸せを追求する権利があります。
その形は、今決めなくていいかもしれません。
それでも、私は神様と思いが同じであるだけで嬉しいのです。
それは人間として、とても光栄なことです。