問題に「感謝」する
- Category:神世考察
- Date:2025年02月14日
だんだん、一日の中でできることが増え、力が入るようになってきました。
冬至明けで変わったエネルギーに身体を馴染ませる作業にも苦戦しましたが、この節分明けのエネルギーもなかなか馴染みづらいものでした。
立春からのエネルギーは、一言で言えば「質の高いエネルギー」です。
冬至の変化は「構造が違う」という感じのエネルギーへの切り替わりでしたが、立春以降は「高精度」という感覚です。
繊細だけどうまく掴めば高出力を出せる、というテクニカルなイメージです。
より抽象度の高いエネルギーなので、掴めない人はかなりしんどいと思います。
冥王星水瓶座突入以降、どんどん地球のエネルギーの波長が高くなってきているのを実感します。
特に人世の波動の人たちにとって、このエネルギーは全く肌に合わない状態になっていくのかもしれません。
この時期のエネルギーで、より二極化が加速するのだと思います。
冬至あたりから私は異常な救急車の音が気になっていましたが、これからバタバタ倒れる人が増えてくるような気がします。
最近、私はスピリチュアルな感受性に関して、妙な自信が出てきました。
以前は、自分がぼんやり感じていることが正しいのか、自分以外の人も感じるのか、気になって意見を伺って回っていました。
けれども最近は、間違っていることに対する恐怖心が全くなくなりました。
スピリチュアルの世界は、科学とは違い反証性がなく、外部的に観測できるものではありません。
インフルエンサーの方も人間ですし、勘違いすることもあるでしょうし、正しさを客観的に検証することも不可能です。
言ってみれば、私が感じていることと程度は違えど、誰もが同じ器官で感じているということです。
同じ条件なのだから、自分の判断について他人を軸にする必要はないのです。
仮に間違っていたとしても、自分の成長や生活に対してプラスに働くならば、それはそれで正解だと思います。
スピリチュアルは、内面的に豊かになるための知恵だと私は思うからです。
スピリチュアルの世界を知り、より内観する習慣を持つことによって、私は自分本来の人格に近づくことができました。
心のあるがままに生きられるようになった反面、無理が出来なくなりました。
「これをした方が得をする」とか「これをしなければならない」とか、外部からモチベーションを引き出すことが難しいのです。
それでも、自分との新しい付き合い方をするステージに入ったのだろうな、と思って完全にやり方を変える選択をしました。
世は混沌とした世相ですが、私自身は逆の方を向いているな、と感じます。
人世の人は、私が無理になったやり方を選び、私は自分の自由しか選択できなくなっているからです。
世の人々は、それでも「世の中を良くしよう」と思って原因を追求し、何かを批判すれば良い方に変わると信じています。
しかし、そのやり方で世直しができるのならば、日本はこれほど衰退も蹂躙もされていないはずです。
私は、世の動きも自分の身の回りのことすら、「自然に任せる」という考えになりつつあります。
人間は、できることとできないことがあります。
どうやっても動かせない壁は実際にありますし、世に起こる事象はそれ自体に、何らかの意味を持って発生していることもあるからです。
人間は、何でも自分が介入できると思いがちです。
そして、原因がわかれば自分でそれを取り除けると勘違いをします。
日本がこれだけ荒れた世になったのは、「○○のせい」と人々が思うからだと思います。
それ自体は、おそらく事実です。しかし、その事実を踏まえても、どうすればその原因を解決できるのでしょうか?
それを明確に答えられる人がいれば、すでに問題は消滅しているはずです。
私は以前から、ネガティブなエネルギーで世を変革するからこそ、ネガティブな世になるのではないかと思っています。
「あいつが悪い」「○○のせいだ」と考えて、原因に対して発生条件を縛るために法規制をしたり、仕組みを作ってきたのがこれまでの現代社会です。
その結果、規則で雁字搦めになったわりには、なぜ巨悪はこうも平然とのさばっているのでしょうか。
原因を外部に求め「○○のせいだ、○○さえなければ世の中は良くなる」という考え方にハマっていたからこそ、「××をすればもっと良くなる」という発想を阻害してきたのだと思います。
人を信用すること、希望や道徳を繋ぐこと、それを無視して形だけを作れば、その抜け道を考えることに終始する人間が増えるのは当然のことです。
つまり「こうすれば良くなる」という考え方をすれば、周りに対して無理な同調圧力をかけずに済みます。
法規制も必要なく、皆が同じビジョンで前向きな方向に進むことができるわけです。
「○○のせいだ」と思っているうちは、ずっと自分以外のものに責任転嫁をし続けるので、人間は成長することができません。
「○○があるのは、理由があるのかもしれない」と一度は考え、それを反省し乗り越えるからこそ真の問題解決ができるはずです。
そして、いつか「○○があったからこそ、今がある」と思えるようになることが重要だと思います。
人にせよ社会にせよ、そういう学びを経るから明るい方向に向かうことができるのではないでしょうか。
ネガティブなエネルギーでネガティブなものを何とかしようとしても、残念ながらゼロに戻ることはないのです。
仮に「○○のせい」というのが事実であるにしても、世を本当に良くするためには「○○のおかげ」と言えるように成長しようと思う必要があります。
そう言えるようになった時、初めて問題は乗り越えられるのだと思います。
そして、「この問題があったからこそ今の良い世があるのだ」と捉えられる時、人々は禍事を乗り越え学びを得た社会になるのでしょう。
むしろそうなるために禍事は起きるのであり、問題に感謝する境地に至ることこそが最大のテーマなのかもしれません。
世に溢れるのは、憎しみや怒りの情念です。
この負の感情を感謝に変えるのは、並大抵のことではありません。
だからこそ、これからも世は悪くなる一方だと思わざるを得ません。
私自身の感覚からすると、こういう世の雰囲気に対して浮いてようが、むしろその方に合わせない方がいいのではないか、と感じてしまいます。
それは社会の一員として役割を放棄しているように見えるかもしれませんが、生物多様性の原理として、全体が同じ方向を向いていたら全て淘汰されてしまうことを忘れてはいけません。
蟻の世界には、9割の働きアリと1割の怠けアリがいるそうです。
その1割は全体に対する保険として存在しているわけです。動ける時が来るまで、怠けアリたちは白い目で見られるかもしれませんが、むしろそれが役割なのです。
私は、これから怠けアリたちが本気を出さねばならないタイミングが来ると思っています。
だから今は世を静観していますし、まだ準備を進めています。
その準備が取り越し苦労に終わったら終わったで、身体を張ることがなくなっただけラッキーかもしれません。
多くの人は、良いように考えることが本当に苦手になったのだな、と思います。
だからこそ、能天気な人間が一人くらいいた方が、バランスが取れていると言えるのではないでしょうか。