招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

新しい修行の始まり

楽太郎です。

2月2日、明日は節分ですが、スピリチュアル的には立春から2025年が始まると言われています。
私にとっての2024年は、気づきと手放しの年でした。ほぼ半生丸ごとを洗いざらい反省させられたというか、試練としか言いようのない一年でした。

本当に、最後の最後まで自分自身と向き合わされるというか、新しい課題がどんどん見えてきています。
残念ながら、綺麗さっぱり2024年度で解決することはできそうにないのですが、引き続き生き方を勉強していくことになると思います。

私は自分が思っているほど単純な人間ではなかった、というのもわかりました。
エネルギーに敏感な体質なこと、負の波動を貰いやすく霊体に取り憑かれやすいこと、また自分の念そのものが強すぎて生霊を飛ばしがちなこと、何となく予知能力があること、私は思っている以上に潜在的な霊能力があることを知りました。

魂のエネルギーの強さをコントロールするために、これまでの出来事は修行として現れたのだろうな、というのは感じています。
そのエネルギーの強さに自分で当てられて、おかしな言動に走ったり道を踏み外したり、引きこもったり病気になったり色々しました。

その不安定さを補うために様々な経験をしながら、心理的な知識や身体に関する知識を蓄え、人生における大抵の問題には答えられるようになりました。
しかし、スピリチュアルという新たな視野が開けたことで、全く違う視点から自分や世界を見られるようになると、「全然わかっていなかった」ことに気づいてしまいました。


スピリチュアルを学ぶにつれて、スピリチュアルリーダーの方たちからすると、「スピリチュアル修行あるある」みたいなものに、どうやら私はぶち当たっている最中らしく、したり顔で乗り越えたみたいなことを書いてるこのブログは、おそらく間違いだらけかもしれません。
それでも、この時は本気で真実だと思ったのは事実ですし、後から見直してみれば掠っている部分もあるかもしれません。
そのプロセスを残しておくのも、後学のために貴重な記録になるかもしれません。

今、私の課題は自分の浄化にあって、人世の人格や記憶、トラウマとどう区切りをつけていくかにあります。
その課題と向き合う時、スピリチュアルな存在と感応し始めたばかりの自分のグラウンディング力、エネルギーコントロールの足りなさ、そういった自己管理も新たな課題として浮上してきています。

今、このタイムラインの流れやお導きから察すると、私は今後ヒーラー的な能力も開花していくような気がします。
それを本格的に学ぶようになるか、仕事にし始めるかはわかりませんが、これから霊能力に付随する知識や技術を学んでいくことにはなりそうです。

そうしながら、自分の創作やお役目も他にあるのでしょうが、最終的に自分がどういう存在になっていくかというビジョンは、全く見えていません。
けれども、多かれ少なかれ人にアドバイスしたり、人を引っ張っていくお役目を与えられるのだろうな、という感覚はあります。

こういう感覚を自覚するたびに、自分がこれまで自分と思っていたものと、自分はまるで違う存在だったんだな、と思ってしまいます。
そうなれば、人が言っていることや人の評価を間に受けて、自分はこうなんだと思っていた部分がいかに眉唾であったかを思い知ります。
結局、全ての事象について正しいかどうかは、外側の世界に求めるより自分の内側に求めた方が確実な答えを得ることができると、そんな初歩的な位置に立ち戻ってしまうのです。

その内面世界の探究は、高名なスピリチュアルリーダーの意見を聞けば間違いはないかもしれません。
それが真実であるかどうかは、自分が体験しながら見つけるのがスピリチュアルな世界なのだと思います。
そこでは全ての言説がフラットだからこそ、自分の主義主張もニュートラルであり、決して高慢になることはできないでしょう。
だからこそ常に初心を忘れず、オープンなスタンスでいることが身を助けることになると思います。

私は自分がなまじ苦労を重ね勉強もしてきたからこそ、大きく出てしまいがちなとこもあるのですが、ことスピリチュアルの世界では素人ですし、知らないことも沢山あります。
精神的に未消化の課題もあり、人間として出来ているとは言えません。
けれども、その成長の種は自分の心にあるので、下手にあちこち手をつけずに自分と向き合っていくしかありません。

これが2025年の節分にある私のテーマなのですから、本当に今が人生の節目なのだろうと思います。
むしろ、これまでの人生で物質的に積み上がったものを全て崩したのが2024年であり、人間としての経験と技術だけを持って2025年の立春を迎えます。
本当に綺麗さっぱりゼロの状態からスタートするのも、なんか不思議な気もします。

色々と慌ただしい世相ですが、私自身はとてもワクワクしています。
それは私の15歳の頃の気持ちそのままで、不安がありながらも「やってやる」という気持ちです。
あの頃は、今よりも何もないのにエネルギーだけで何でもできると思っていました。
その感覚は、あながち間違いではないのかもしれません。

とりあえず、外に向きがちなエネルギーを、自分の内側に向け、波動をうまくコントロールすること。
生物として初歩的な状態から、私は修行をやり直さなければいけないようです。

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人生を変える力

楽太郎です。

冬至以降、私はパッとしない感覚の体調不良がダラダラ続き、エネルギーの停滞やら邪気やら生霊やら、様々な不調要因がありましたが、それらは一重にチャクラが乱れがちだったからです。
常に過労状態でありながら、秋以降は霊感の高まりや魂の修行も加わり、心身がボロボロの状態には違いありませんでした。

1月半ばあたりで「登りきった」という魂からの実感が湧き上がると、もう少し休んでもいいのかな、と安堵する気持ちも出てきました。
やる気やエネルギーの高まりもありながら、デスクに向かうと気持ちが遊んでしまう部分もあって、何となく本気になれませんでした。

現在の私のテーマが別のところにある感覚はあって、この際に自分を見つめ直し、身体の良くない部分もしっかり治そうと思いました。
同時に、スピリチュアルの勉強も始めました。
ただ、外の情報ばかりに影響されると混乱してしまうので、内観しながら精神世界に頭を巡らせる日々を送っていました。

神様たちとのご縁が深まることを感じる日々の中で、新しい繋がりが見えたのは「ご先祖様」です。
神様以外にも私を加護してくださる仏様がいらっしゃって、そのご先祖様はこれまで私を強く守ってきてくださり、今もなお恩恵を与えてくださっているのを実感します。

私を加護してくださる目に見えない存在が増えてきたので、強く瀬織津姫様の存在を感じる瞬間は少なくなりました。
たまに男性的なメッセージも入ってくるので、正直どなたのエネルギーなのか判別がつかなくなってきています。
瀬織津姫様にもお役目があるのでしょうから、いつまでも袖を引っ張ってついて回ることはできないようです。
ちょっと寂しい気持ちはありますが。

それでも、神様から降りてくるメッセージは「お疲れ様、ここまで頑張ったのだから休みなさい」というものです。
おそらく、私はこれから大きく動かなければならないタイミングが来るのだと思います。
その時のためにエネルギーを蓄えて、身体もしっかり整えておきなさい、と。

私は、この数年で最も安堵感を覚えているかもしれません。
世間的には不安が増す一方でしょうが、私としては既存の枠組みが壊れるほど動きやすくなります。
常識外れの行動をすることに関してだけは、私には才能があります。
何があっても私は一人でも生き残れる、根拠のない確信が希望になって魂を燃やしています。

おそらく今の感覚なら、どんな世相でも自分を貫いていけます。
神様や目に見えない存在があろうとなかろうと、心のエネルギーと直感力と経験があれば、善し悪しはともかくとして、あらゆる手段で生き残ることができるはずです。

それが今までできなかったのは、土の時代の圧倒的な存在感です。
それが崩れ去るなら私がむしろ壊し、面白おかしく奇妙なものを作ることが許されるなら、気の済むまで暴れ回れるということです。

この先の時代を生き抜いていくには、信念が必要です。
信念がなければ、降り注ぐ困難に耐え切る精神力を持続することができません。
そして、災難が重なれば自分の方向を見失い、何も手につかず荒波に流されてしまうでしょう。

ただ、信念は自分の考えや芯の部分というより、生命エネルギーそのものです。
魂から湧き上がる力や感覚が確信となる時、信念は生まれます。
自らの本来のエネルギーに気づくからこそ、信念は生き残るための勇気にも繋がるのです。

人間は変化を嫌いますが、人が変われないのは勇気が足りないからです。

無知であったことを自覚する勇気。
知りたくなかったことを認める勇気。
自分にはない価値観を受け入れる勇気。
全く異なる他者と共存する勇気。
大きな問題に気づき、立ち向かう勇気。

その「勇気」をこの社会に活かせず、なあなあの空気の中で人々が変わらない選択をしたのは、勇気を振り絞るほどの信念がなかったからです。
「ここは絶対にこうしなければならない」
「ダメなものは絶対にダメだ」
 そういった当たり前の掟すら、貫けるほどの信念が失われてしまいました。

ただ、信念の欠如における本質とは、生命エネルギーの喪失です。
魂の声を聞かずとも何となく生きられる世の中にあり、生命体としての根気強さを忘れてしまったからこそ、大した思想のない社会を作り出してしまったのではないでしょうか。

私たちがこれからやらなくてはならないのは、自身の生命体としての本能を思い出すことです。
その原始的な魂の力を信念に変え、勇気を出して現実に立ち向かっていくことです。

それは、必ずしも仲間を必要としません。
魂を高みに向かわせる時、所詮は肩を寄せ合うのも一瞬です。
自分が何をして、どういう生き様をしていくかが全てです。

それが例え孤独でも、孤独がゆえに嘲笑われても、己の魂と神々の意志を感じ共に生きていくならば、それは些末なことです。
本当に大切なものは何か、真の気高さとは何か、自分が人として生まれた一回きりの人生を、どこまで納得できるものにしていくのか。
そのことだけを考えて生きれば良いのだとしたら、人生の目的は至ってシンプルです。

神様がせっかく時代を変えてくれようとしているのに、未だ古い生き方をなぞって古い時代と似た幸せを掴もうとするのは、勿体ない。
どうせなら、自分で幸せの形すら作り出してしまうくらい、違う生き方に踏み出すのも面白い。

そんな時代が来ました。

私は数週間ゴロゴロしていたのもあって、身体がようやく元の状態に戻りつつあります。
力がつま先までみなぎり、心から湧き上がる熱が抑えられません。

いよいよ、本気を出せる時がやってきた。

その感情が湧き上がるたび、私はすごくワクワクしてきます。

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生霊攻撃

楽太郎です。

やっぱり、なんか生霊に取り憑かれていたみたいです。

何週間か前から、視界の端に黒い影がチラチラ見えたり、夜中に甲高い笑い声を夢うつつに聴いたりして、なんか変だなと思ってました。
休養中で何もしてないにも関わらず、背中から肩にかけて凝りやすく、特に起きている時より起床後の方が体調が悪いのに違和感がありました。

昨日の真夜中、ガラスを吐く夢を見てビックリして飛び起きて、寝直したら悪霊に頭を締めつけられる夢を2回見ました。
2度目の悪夢の時、霊感の強い友人が夢に出てきて「お前、まだわからないのか?」と言ったのが記憶に残ったので、霊障だと改めて認識しました。

心霊スポットには全く行きませんし、歩く時には塩を持ち歩いてますし、神社で祟られるようなことは一切してません。
この霊障の主に心当たりもあり、これは生霊だと思いました。

生霊の主について、私は人間関係が狭いので今さら念を飛ばすのは数人しか考えられません。
その中でも、私が色々と助けてあげていた人がいて、ある時私は何も言わずに距離を取りました。
神様から「近づくな」という雰囲気をバシバシ感じていたし、なんか常に裏がある気がしていました。
それで、個人的には嫌いではなかったのですが、あえて距離を取ることにしました。
その人からすれば、かなりショックだったのかもしれません。

正直に話すと「霊的な理由があるから付き合わない」とは説明しようがなく、うまい誤魔化し方も思いつかなかったので、連絡関係を無視していました。
下手にはぐらかすと、変に粘着されそうな気もしたからです。
それはそれで良くないと思いましたが、大人なのだから空気を察して身を引いてくれるだろうと、都合良く考えていた節もあります。

しかし、思ったよりその人の念が強かったらしく、かなり呪いに近い形で入り込まれていたようです。
「そんなことあるか」と思われるでしょうが、これが極端な憑依体質の悲しい性質です。

私はこの数週間、好転反応と覚醒を繰り返していましたが、このポジティブなエネルギーの変換を妨げている邪気には薄々気がついていました。
これは私の霊性が低いからなのだろうと思っていたのですが、思いつきで軽くセルフ除霊を試してみたところ、肩が軽くなり頭もスッキリして、神様からのインスピレーションもパラパラ降り始めたので、「やっぱりこいつか」と確信しました。

私がいくら魂のレベルで覚醒してポジティブな方向に飛び上がっても、この念は振り払えなかったようです。
ここまで強い念を飛ばせる人もいるんだ、と私は感心してしまいました。

昨日、それがわかったので半日かけて除霊を行ったところ、異様にスッキリして緊張も解け、疲れもドッと出たので気持ち良く眠りにつきました。
ところが夜中に緊張して目が覚めて、身体が元のカチカチの状態に戻ってました。
さすがに、私の精神疾患とか身体の病気も疑いましたが、除霊を再度試みると一時的に体調が戻るので、やはり霊障以外に考えられません。

霊感から言えば、まだバッチリ気配を感じます。
「離れたな」と思い、数十センチ先にいるのは感じます。そして気を抜くとまた取り憑かれている、というのを今日になっても繰り返しています。

私も念が強いので、「直接行って頭かち割ってやろうか?」とすら思うのですが、さすがにそれはできません。
この霊障、私個人の力では祓いきれないかもしれません。
ですので、ここは神仏のご加護を強くいただき、「陽の気」で振り払うしかないと思いました。

そのため、まず部屋の大掃除を朝から始め、結露も取り埃も取り除き、神棚周りも改めて掃除をしました。
部屋の空気の透明度が増し、陽の気を感じました。

「運気」という言葉があります。
「気を運ぶ」と書きますが、「気」とは「気持ちが悪い」とか「良くない気がする」という感覚の原因を取り除き、「いい気持ちにする」ことが運気アップに繋がるのだと思います。

金運や福運を上げようと思い、神社にお賽銭をいくら入れても、常にカリカリしていたり部屋が汚かったら「気」をいい方向に運んでいるとは言えませんし、むしろ運気を下げてしまうでしょう。
まず、「運が悪いな」と思ったら、自身の気の持ち方をしっかり見て、どうしたら快適になるかを考え、きちんと行動をしてみることだと思います。

ですから、「生霊がまだいるかもしれない」とか「悪霊に取り憑かれている」といちいち気にしているうちは、何度も寄ってくるのかもしれません。
だとしたら、対応としては「寄せつけないようにする」の一択です。
下手に除霊浄霊に頭を悩ませるのも、悪霊の思うツボとも考えられます。
その「気の持ちよう」は、自分の工夫で何とかできるものです。

私は去年、集合意識から邪気の影響をもろに受けて、ずっとその祓いにばかり気を取られ、変に病んでいました。
けれど、邪気を気にするからこそ逆に邪気を呼んでいたとも言えます。

例えしんどかろうと、太陽のようなカラッとした気持ちでいれば、そのうち悪霊だろうと邪気だろうと抜けていくでしょう。
それが本当の意味での「祓い清め」なのではないでしょうか。

私は急にそういう風に考えられるようになって、なんかあの人のことを思い出すのもバカらしいな、と思い始めました。
これから散歩にでも行ってこようと思います。

追記:

昨日の夜、急に思いついて神代を作る人たちのためのDiscordサーバーを作りました。
ただ、これは本当に咄嗟の行動なので、神様的にはどう思われてるのかはわかりません。
もしこのサーバーに使い道があるとしたら、神様から何らかの働きかけがあるはずです。

とりあえず、私はそれまで待ちたいと思います。

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神様の望みごと

楽太郎です。
今朝の出来事を書きます。

先日、須佐之男命様を描かせていただきました。
その制作過程で地元にある薬師堂の如来様に完成祈願をしました。
その頃は、須佐之男様から受けるプレッシャーにビビり倒していたからです。

一応その件は完了したので、お礼参りをしました。
そうしたら、やっぱり念が体にドシっときて、こういう時でもご奉仕せねばならんのだなと思いました。

この念を抱えている間、妙に「お金」のことが気になりました。それも某大企業の社長のことが頭をグルグル回ってたので、お金関係の念を背負わされたのだと思います。
散歩がてら、ご神気を不思議と感じる一画に立ち寄り、念を浄化することにしました。

この念を放出するために瞑想していると、先日の須佐之男様のイラストのことが思い浮かびました。
私はなぜ須佐之男様のイラストを依頼されたのか腑に落ちなかったのですが、イラストをネットに上げること自体に意味があったのではないかと気づきました。

つまり、神様たちはこのネットの世界の浄化もされるおつもりなのではないでしょうか。

ネットというのは、人間の闇の部分が濃く出る集合意識そのものであり、仮想的社会を形成しています。
人間の現実意識の面だけでなく、こういうレイヤーの集合意識も浄化されるとしたら、計画として理にかなっているようには思えます。

とは言え、私のイラストがどういう効果を発揮するかまでは想像もできません。
ただ、その時思念が入ってきて、「あなたもそれを望んでましたよね?」と来ました。
いや、確かにそうですけど、本気ですか…?

そのあと河川敷に行って、浄化を終わらせました。
近くに竹林があり、そこに呼ばれた気がしたので掃除をしてきました。

神様とお付き合いさせていただいている感覚からすると、神様が人間にして欲しいことの大半が「掃除」のような気がします。
私が何となく言われた気がしてやることの第一位が「落ちている木やゴミを拾う」です。
何となく踏んだら躓きそうな木の枝とか、明らかに自然では取り除けなさそうな障害物などです。

先の神社でも「念」は霊的に言えば人間の出すゴミみたいなものですし、神様はそういうのは人間にやってもらいたいようなのです。

神様が人間に求めることは、「神を敬え」とか「人を救え」とか大層なものではなく、「境内を綺麗にしてくれ」とか「ゴミを片付けてくれ」というのが、なんか不思議に感じます。


「神様が身近な存在になる世界」は、それほど異世界感溢れるものではないかもしれないな、と最近思います。

例えば頼れるおじさんが近所に住んでるとして、そのおじさんの家に押しかけて「困ってるから助けてくれ」と頼むよりも、おじさんの家の前の掃除や余ったおかずを分けに行ったりして、仲良くなったよしみで助けてもらう方が自然です。

それが、いきなり玄関を開けて「金が欲しい!何とかしてくれ」と言おうものなら門前払いです。
でも、人間は神様にこういう態度で接してませんか?

だから、ご近所付き合いとか、人間社会の付き合いと神様との関係は大して違わなくて、礼儀やマナーを求められるのはその辺なのかなと思ったりします。

だから神様と身近だった昭和あたりまでは、日本人はそういう感性だったわけで、神代は温故知新の世になるだけなのではないのでしょうか。
そのためには、現代人が学ばなくてはならないことは本当に多いと思います。

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手のひらを太陽に

楽太郎です。

結論から先に言うと、私に須佐之男命様のイラストをご依頼されたのは、私のご先祖様かもしれません。

私の住む地元は、熊野信仰と縁の深い土地で、伊弉諾様と伊奘冉様にゆかりがあります。
私がよくお詣りしている薬師堂にお祀りされている薬師如来様は、本地垂迹では須佐之男様とも言われています。

(※訂正: 記事執筆当時では薬師如来様の本地垂迹が伊弉諾命様であるのを、須佐之男命様だと勘違いしていたようです。ただ、須佐之男様に垂迹される牛頭天王は、祇園精舎に向かう旅人の疫病を祓うご利益があるとされているので、薬師如来様と無関係ではないかもしれません。尚、熊野信仰では須佐之男命様は阿弥陀如来だとされています)

あと、私の血筋を調べていてわかったことがあります。
なぜか私は母方の血が濃いなと思っていたのですが、母の旧姓は「菊池」で、おそらく陸奥菊池氏にルーツがあります。
陸奥菊池氏は、藤原則隆公を家祖とする熊本県肥後の武家の末裔です。
「菊池」の名の由来は、魏志倭人伝にも登場する「狗古智卑狗」にあるとも言われ、狗奴国の王だったとされます。
魏志倭人伝に記載される狗奴国には出雲説があり、出雲を統治されていたのが須佐之男命だと言われています。

つまり、私は出雲系と縁が深いらしく、日本の神代紀に記された古き神々と結びつきがあるようです。
ただ、日本人ならば系統を辿れば古い神々に繋がるのは、それほど珍しいことではありません。
ここでの要は、須佐之男様がイラストのモチーフとして私に飛び込んできたことと、私のルーツとは無関係ではないだろうということです。

その時、私には須佐之男様がお祓いの指揮を執られる、という直感がありました。
1月14日の満月に神々の祓いが発動するとしたら、そのタイミングに合わせてイラストを上げなければならないかもしれません。

私自身も、そのスケジュールに合わせて体調を合わせています。
ここ最近の太陽神経叢の活性化によって、どんどん活力を取り戻しています。
冬至明けからエネルギーを身体に馴染ませる作業をしていて、その地味な好転反応で心身共にフラフラしていたのですが、ようやく芯が通ってきた感覚があります。

私は、夏以降から人々がどんどん険悪になっていくのを感じていて、霊的にも邪気を浴びて同じ空間にいるのが苦しいと感じるようになりました。
ニュースは見ないようにするくらい、世の中がおかしい方向に行く中で、日本人のメンタルがどんどん壊れていくのを見て、それに引っ張られて人に対して嫌気が差し始めました。

それは、ある意味スピリチュアルに向かうきっかけになりました。

秋以降は神代に向かうために魂の修行を本格化させ、それに集中するためには人払いをする必要があり、また邪気を遠ざけるためにも人間を毛嫌いする傾向にありました。

しかし、今になってまた人に対してポジティブな気持ちを向けて良いターンになったと思います。
人を無闇に嫌うのは、肯定的になるより疲れます。

これまで自分を守るために、人を批判し遠ざける必要がありました。無意識的に巻き込まれないためです。
けれど、今の私はおそらくそれをしなくても自分を守れます。それくらい人を見抜く感覚が鋭くなりましたし、神様のご加護がある実感もあります。
また第6チャクラの活性化により、人間の意識レベルより高い位置に判断能力が移ったため、同じ視線で批評することをしなくなり、あえて人を否定する意味もなくなりました。


人間は、この地に魂の修行のためにやって来ると言われます。
その修行の地で、何らかの苦難を経験するのは当然のことです。

経済的、社会的に苦しい世になっていく中で、唯物的な世界に生きる人は、これから精神的な困難を体験することになると思います。
これまで楽をしてきた人世の魂は、そろそろ神様から教訓を与えられるフェーズになったのでしょう。

学ぶ必要があるのは、無知だからです。
全てを知るほど賢明であれば、つらい思いをしながら学ぶ必要がありません。
彼らがそうせざるを得ない生き方をしてきたことは、神様から見れば明らかなはずです。
しかし、その困難を一概に不幸と見るのは違うかもしれません。

そんな彼らも、この歪んだ時代に適応した結果とも考えられ、ある意味これまでの土の時代の背後にあったビジネスの被害者とも言えます。
私は、そんな彼らをどうしても憎みきれません。
むしろ、その人間らしさのせいで間違いを犯すのは、人間ゆえであるとも思えます。

けれども私は、彼らに寄り添おうとは思いません。
世界の主軸はもはや神代にあり、神代に向かう人々にウェイトの大部分を置くつもりです。
ただ三次元世界では彼らと同じ土の上で生活するのも事実ですし、人間一般として出来ることはしていきたいです。

仏教で言う「慈悲」とは、プラスを与えることではなく、マイナスを取り除いてゼロに戻すことであると言われます。
時代が変化した今となっては、人世の住人が持つ物質中心の価値観はマイナスに溢れたもので、それがゼロになってようやく新しい時代のスタートラインに立てるのだと思います。

私の感じる愛のエネルギーは、邪気すらも包み込みうる太陽のような明るさを持っています。
それは神代や人世に分け隔てなく、遍く人々に注ぐことのできる太陽のエネルギーです。

私はその力で、この世界をもっと明るくしたいです。
人が遊ぶように生きて、魂が喜びの舞を踊るように、自由と公平が謳歌する時代をつくりたいのです。

神様は、おそらくその生き方を人に望まれているのだと思います。
それが、本来の人の在り方だからです。

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SOMEDAY

楽太郎です。

今朝、何となくエネルギーも落ち着いてきて、今日から始動できそうな感じがしました。
お風呂に入り、朝食を摂り体操をして瞑想を行い、そろそろ動かなきゃ、と思った途端にだるくて動けなくなりました。

何となく、ハートチャクラが閉じ切っているのを感じました。
横になってもエネルギーの枯れを感じ、ネガティブなことも考え始めたので、とりあえずYouTubeで音楽をかけてみました。

すると、私が好きだった香港の歌手、フェイ・ウォンの「夢中人」がかかって、思わず胸が熱くなりました。
香港は、ご存知のように中国共産党の支配下となり、自由な雰囲気ではなくなりました。
「夢中人」が主題歌となった邦題「恋する惑星」という映画は1994年、香港が中国に返還される3年前の作品です。

今、フェイ・ウォンは何をしているのだろうか。
香港で良い時代を生きた人々の気持ちを想像すると、それは今の日本人にも通じる感情かもしれない、と思いました。
なぜ、良い時代は突然、理不尽な形で終わらざるを得なかったのか。

私はそれを思うと、涙が止まらなくなりました。

その感情をもう一人の私が冷静に眺め、この感情のエネルギーこそが、私の魂がしばらく閉じ込めてきた「愛」というものなのだと気づきました。
この愛が私のエネルギーの源でありながら、その熱量を蓄えながらも停滞していた理由は、愛する対象を見失っていたからかもしれません。

多くの人々が、自らの選択で愛のない世界を選んだからです。
私が愛情を持って近づいても、別の目的で私を利用しようとするでしょう。

それでも私は、なぜこれほど人間のことが好きなのだろう?と思う時があります。

むしろ、人々から酷い目に遭わされたことの方が多いのに、人の優しさの一つ一つが未だに心の中に残り続けているのは、何故なのだろう?

私の魂の特質から考えると、私の生まれる前は誰かを好きになったら、その人も私を好きになってくれるような世界にいたのかもしれない、と思ったりします。
欲しいものも、わりと簡単に手に入ったのかもしれないし、毎日違うものを好きなように食べれていたのかもしれない。

けれど、生まれ落ちた地球という星では、好きになった人から疎まれたり、本当に欲しいものほど手に入らないような世界で、ずっと戸惑っていたような気がします。

私が0歳の頃に空想したビジョンを覚えています。
プラスチックのコインを縁の下に落としてしまい、私がその暗がりを覗いてみると、オモチャのお金を転がして笑っている、漫画みたいな悪魔がいました。

今思えば、私はわかってこの世界にやってきたのかもしれません。
ずっと忘れていましたが、やはり私は何か目的があってこの世界に生まれてきたのだと思います。

もしかしたら、今あるこの道を登っていけば、いつか雲の向こうで、昔の友達と会えるのかもしれない。
そんな人が何人かいて、実はたくさんいて、私と再開できるのを待ちながら、今も私を見守っていてくれているのかもしれない。

そう考えたら、本当にどうしようもないほど泣けてきました。
その時、流しっぱなしにしていたYouTubeから、佐野元春の「SOMEDAY」が流れてきました。

「人は誰でも 愛の謎が解けて 一人きりじゃいられなくなる」
「約束してくれた君 だからもう一度、諦めないで」

この歌詞を贈ってくれたのが昔馴染みなのだとしたら、いつか会えると言ってくれているようで、メソメソしてもいられないなと思いました。

この世界は、確かに思った世界とは違かったかもしれません。
わかっていたのか、わかっていたけど想像以上だったのかは、確かめようもないことです。

それでもきっと、この地上にある「漫画」というものをどこかで見て、「自分も描いてみたいな」と思ったのかもしれません。
それだけでなく、もっと大きな願いを叶えるためかもしれません。

そうであるなら、私は今その願いをどれほど叶えられたのでしょうか。

人の魂が、修行や使命としてこの地上に降りてくるのなら、私はまだそのミッションを完了してません。
例えばこのまま死んで元の世界に戻るとしたら、この星に来た目的は観光か?となります。
大した良い旅行でもないのに、です。

物心ついた頃から、この世界が自分のいるべき世界ではない気がして、ぼんやり空を見上げていました。
今でも、たまに帰りたいなと思うこともあります。
けれど、このまま進めばいつか友達と再会し、この地球にも友達ができるとしたら、そこはすごく良い世界なのかもしれません。

悪がこの世にあるとして、その闇を振り払うのが死や破壊なのだとしても、浄化して綺麗な世界にするのが目的なら、その力は慈悲や愛であってもいいはずです。

そのエネルギーを躊躇なく使えるように、地球がその準備を整えてくれてますし、神様だってそれをお望みのはずです。
だから、好きな人に「好きだ」と言ったり、余計なお世話をして嫌われるのも、このエネルギーの使い方次第かもしれません。

でも、それを恥ずかしがっていたり、自分の気持ちを惜しむうちは、愛のエネルギーを存分に使うことができません。
「好きだ」と言われて、嫌いになる人はあまりいません。
それなら、どんどん好きな気持ちを表現していこう。

この世界を愛のある世界にしたいのなら、その感情をまず受け入れることです。
私は、これからそうしていこうと思います。

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その苦しみを越えていけ

楽太郎です。

このブログは、何らかの形で誰かの役には立つように書いています。
ここに書いた文章は、私の実感や経験から潜って辿り着いた、普遍的な結論を記しているからです。

ただ、誰にでも当てはまるとか、誰にでも理解されうるものであるとは思っていません。
それは、私の魂が見てきた光景が映し出されたものだからです。

人は誰しも、各々が一長一短の条件の中に生まれ、再現不可能な人生を歩んでいきます。
けれども、幼稚園に行き学校に入り、受験をして就職をして、という誰もが通る社会的なサイクルの中で、自分が誰かと比較しうるような、代替可能な存在と信じ込み、どこかにいる他人と似た人生を歩みたがります。

しかしそれは、「唯一無二」という真実と向き合わない代償に手に入れた、作られた安寧です。

その安心感の中に人生があると、私たちは思ってきました。
良い学校に入り、大企業に就職し、ステータスの高い伴侶と籍を入れ、可愛い子供をもうけ、年金をもらい何不自由のない老後を暮らす。
大勢の他者がする行動は正しく、その多数派の中で同じ条件にあることによって、集団に正当性を求めます。
そうすることで「自分の人生は間違っていない」と思えます。

私は、これが一概に間違いだと言うつもりはありません。
自分の不二性と向き合わなくても、心の底から安堵して生きられるのであれば、それも人生の選択だからです。
私自身もそれができるならば、そのやり方を自らの人生に完璧な形で再現したと思います。

けれども、私にはそれが難しすぎました。
何をやっても、他人と同じように見える行動ができない。
その違和感を自分に見出してしまうからこそ、私は独特としか言いようのない人生を歩んできました。

それは今になって、全く恥ずべきことではなかったと思います。

こうして「当たり前」の人生設計が揺さぶられる時代になって、人々が寄りかかるべき生き方を見失う時、自らの人生の筋書きを見つめ直す機会を得ます。
その不二性は、どんな生き方をしてもかき消えるものではないからこそ、比較されえぬ自己と向き合う時、それが全ての人にとって唯一の同じ条件であることに気づくことができます。

私は、これまで自分の人生についての感想を、心から誰かと共有したいと願っていました。
それは、私が「理解されたい」という魂からの思いであり、共感を得ることで魂の孤独を埋め合わせ、安堵感の中に幸福を追求する生き方でした。
ただ、それも自己の「不二性」を有耶無耶にする生き方であるとも言えます。

たまに、こう考えることがあります。
私は、自分が思っているような世界の住人ではないのかもしれない、と。

神はいるかもしれないし、いないかもしれない。
自分に魂はあるのかもしれないし、ないかもしれない。
自分自身という存在の自覚も、精神的現象や神の存在すら、己の願望を森羅万象に見出しているに過ぎないのかもしれない。

しかし、それが何なのかを考え、自分なりに結論を出そうとする過程が、唯一無二の「己」を生きるということなのだと思います。
誰にも理解されぬ、心の深くにある感情と向き合い、“そうであるならば、さてどうするのか”を決めるのが、自分を「生きる」ということです。

例え誰にも理解されず、誰にも見出されず、一つも共感を得られず、何一つ残せぬまま一粒の塵として消えようと。
その宿命を全うする覚悟が、自分の人生を生きるということなのだと思います。

すぐ傍に誰かがいて、何かを言えば「そうだよね」と言ってもらう生き方は、誰にとっても幸せでしょう。
けれど人間は誰かと融合することはできず、どんなに愛する人と出会っても、どこかですれ違っていかなくてはなりません。
結局、私たち一人一人が違う人生を歩むという事実は、否定することができません。

「自分は世界でただ一つの存在である」という苦しみの中で、それを抱えながら生きる勇気を持ってこそ、人は己の孤独と向き合うことができるのだと思います。

それこそ全ての人にとって同じ条件であり、かと言って決して比肩できる条件でもありません。
そこに目を瞑らずに生きていくことは、本当に苦しいことです。
けれど、その苦しみを人生に見出すからこそ、自分を信じ愛すること、愛する誰かや大切な何かを見つけ、共に生きていく喜びを知ることができるのだと思います。

だから、安易に答えを出さずとも良いのです。
孤独であってもいいし、誰かと似ていなくてもいいし、人と違うことを恐れない生き方こそ、自分の運命を生きるということなのでしょう。

この不安感は、誰しもが心の奥底に押し込めている部分かもしれません。
ただそれは「闇」ではなく、否定しきれぬ明らかな真実であり、それを見つめることで人生に「光」を見出せるのだと思います。


ちょっと疲れたなと思ってうたた寝をして、目覚めたらこんな話をブログに書いてみたいと思いました。
誰のためでもなく、自分のために書いた文章です。
乱文長文、失礼いたしました。

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神様からの授かりごと

楽太郎です。
今朝、「神代のビジネスⅡ」の記事を書き終えてから、さてどうしようかと考えました。

どうやら、先の結論であれば今後のビジネスの軸足を神代に移した方が良いのは確かなようです。
しかし、私がこれまで神代にビジネスの軸を置きたがらなかった理由は、別に市場の規模などを考えていたからではありません。

「神代のビジネスⅡ」で裏のテーマにあるのは、慈悲の心、いわゆる「菩薩心」です。
私は仏教にも親しんだ時期が長かったので、仏様は衆生救済を最後まで願われるはずだ、という宗教的な確信がありました。

特に私は浄土真宗の開祖、親鸞聖人に関するお話をよく聞いていました。
親鸞聖人は鎌倉時代末期の最もこの国が荒廃していた時代のお坊様なので、どれだけこの世が荒れ狂おうと、阿弥陀如来様のご本願は救済の手を緩めることはないだろうと考えていました。
それは経済的、社会的に救われるという意味ではなく、せめて精神的、霊的安寧への道は用意されるだろう、と安易に仮説を立てていました。

しかし、先の記事を読んでいただければわかるように、日本神界の結論としては苛烈の一言に尽きます。
人である私には計りかねますが、これまであらゆる時代を越えて神仏が人間に悔い改めるよう諭し続け、それがもはやこれ以上は待てぬ、というところまで待たれてのご判断だったのかもしれません。

私は、その温度差を知り衝撃を受けましたが、それが神様のご意志であるならば受け入れるつもりです。
ただ私がクリエイターとして、これまで制作と表現に込めていたモチベーションは、この菩薩心に根差していたと言っても過言ではありません。

人々を癒したい、人々に気づいてほしい、人々に変わってもらいたい、人々に幸せになってほしい、そういう祈りを込めて作品と向き合ってきました。
しかし神様が救済の手を止め、選別した上で救わないと決めた人間がいる以上、私は一体どうすればいいのか、誰のために作品を作れば良いのか見えなくなってしまいました。

菩薩心や博愛精神は、これからの時代では悪と出ることの方が多いのだろうか。
私がこの数ヶ月、ずっと悩んできたことです。
朝食を取りながら、これだけモヤモヤするのであれば神様にお導きいただく以外にない、と思い神社に行くことにしました。

今日は暖かく、気持ちの良い日差しを感じました。
私の思いつきで神社に歩みを進めたので、神様からは歓迎されないだろうなと思ったところ、久しぶりに道中が全青信号パターンでした。

神社に到着し、神様の前でこれから仕事をどうしたらいいのか尋ねました。
こういう時は、神様はおみくじの文章でよく示されます。500円の「鯛みくじ」というのがあり、そこに意識がパッと行ったので引くことにしました。





この鯛みくじは、縁の輪っかに小さい釣竿の針を引っ掛けて吊り上げるユニークな引き方で、自分で選んだおみくじにかなり集中して釣らなくてはいけないので、「適当に出てきた」という感覚がありません。
なかなか考えられているな、と思いました。
それで、おみくじの内容はこうです。





ここでも、「慎み」という言葉が出てきました。
これは昨年の年末にテーマになったもので、「心真」という記事にしました。

「色」というのは、24色では数えきれないほどの連続的なグラデーションです。
「赤」や「青」というはっきりした一色だけではなく、多様な色があるからこそ移りやすいものです。
それが「欲」というもので、赤が満たされればピンクが欲しくなり、緑が欲しくなり、と際限がありません。
だからこそ、最初に決めた色だけを求めるのが「慎み」となるのだと思います。

このおみくじの文章の中でハッとしたのは「慈しみ」という言葉です。
「慈しみを施せ」と言っておられるのです。

私はこの一文を読んで、自分なりにこう解釈しました。
「慈悲の心は捨ておかなくても良い、菩薩心を持ち続けよ」
そう読み解いた次の瞬間、私の周りを優しい風が通り抜けました。

私はその時、「慈悲は対象を選ぶことができない、それゆえ誰に与えるかを考える意味がないのだ」と悟りました。

この閃きを頼りに、私は考えました。
慈悲の対象を選ぶ必要がないというのは単純で、普遍的なものを目標にすることです。

その意味で、私は「人を救う」という行動にばかり意識が向いていました。
以前、「蜘蛛の糸」という記事に書きましたが、神の救いを手助けすることに私の使命があるのは間違いはありません。
人が救われるかは、本人の意志と神様のご意志であり、私が努力して引き上げる必要がありません。

帰路につき色々と考えながら、近所の公園に足を踏み入れました。
その辺りで、「私は救済を目的としなくていいのだ」ということに気づきました。
「祈りそのものを目的とせよ」という言葉が入ってきた瞬間、街の遠くにそびえる大仏像が真正面に見えました。
私はこんなことがあるのか、と目を疑いました。

「祈りを目的にする」とは、願いを込めて形にすれば良いだけです。
ジタバタもがく人を助けるのは、想像以上に大変なはずです。しかし、私はそれを中途半端にやろうとしていたのかもしれません。

「祈ればいい、ただ祈っていれば良い」という言葉がずっと思念として残りました。

そこに意識を向けると、私が自分自身の作品で何をしようとしていたのかを思い出しました。
私は、ただ祈る気持ちでずっと作品と向き合っていました。誰かに見てほしい、伝わってほしい、わかってほしい、変わってほしい、そういう気持ちを壁に打ちつけるようにずっと続けてきたのです。

これからの表現を考える時、「誰に」「何を」というのは、必ずしも必要のないことかもしれません。
それは人を助けようという意思ではなく、遍く誰かが助かることを祈ればいい、その心をそのまま表現するだけだと気づきました。

普遍的な表現とは、祈りそのものを表現することです。祈りとは、魂からの想いです。
心は祈りそのものであり、表現は心を映せばいいだけです。

それを理解した時、私は物事を複雑に考えすぎていたことに気づきました。
単純な気持ちを表現すればいいだけで、わざと回り道を選ぶような、段取りを気にする必要などなかったのです。

シンプルに、遊ぶように魂の表現をして欲しい。

神様は、人々にそうするように願っておられるのかもしれません。それが、生きるということだと。
そういう世を作りたいから人間に変わって欲しかったのだとしたら、本当に神代とはもっとシンプルに捉えていい世界なのかもしれません。

この考えに辿りついた時、今一度自分の本心に立ち返り、本当にやりたかったことは何か、私は問い直してみようと思いました。
誰かのためではなく、自分が癒され、他人も癒されるようなやり方がきっとどこかにあるはずです。

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神様がいらないもの

楽太郎です。
先の記事とは別に、今朝の話を書きます。

私の近所に、よくお詣りする小さなお社があるのですが、そこで手を合わせるたび「何か出来ることはありませんか」と尋ねるようにしています。
普段からご加護をいただいているので、特にお願いすることもないからです。
そのたびに、急に「ズシン」と肩が重くなるのですが、私はこれが念の類だとわかっていたので、その都度浄化してきました。

特に今朝は肩が異様に重くなり、これは邪気に近いものだと感じました。
神様は、これを私に預けることで「持って行ってくれ」と仰られているのだと思います。

前々から感じてはいたのですが、私は邪気を吸い取ることで、自動的に磁場調整をしているようなのです。

以前お茶飲みグループに参加していたのですが、小一時間話をしただけで買い物ができなくなるほど疲労困憊し、他のメンバーが逆に元気になって帰っているのを見ると、私が何かを吸い取っているんだろうな、というのは感じてました。

よく考えれば、昔から私が所属する集団は、私がいるうちは人が集まって盛り上がっていくんですが、嫌気が差して私が一旦外れると、一気に人が離れていく現象をよく見ました。
私自身、丁重に扱われたことは一度もないのですが、私が波長を上げる役割に使われてきたのは、何となく感じてました。

だから安易に人と関わるのはやめにしましたし、自然界は邪気を発しないし私の気を吸い取らないので、気持ちが良いです。
とは言え、神様から浄化するように預けられた念の正体は、散歩しながら気づくことになります。

ある瞬間、公園に死体が山積みにされているビジョンが浮かびました。それは爆撃とか戦争的なものだと感じました。
次の瞬間には、敵国の兵士が街に来たら、と考えていたので、間違いなく戦争関連です。
軽く動揺し、「これは未来のビジョンか?」とも思いましたが、よく内観すると先ほど神社から背負ってきた「念」だとわかりました。

神社からこの念を背負ってきたということは、誰かが戦争恐怖の念を持ってお詣りをされた方がいたのだと思います。
例えば、「敵国が攻めてきませんように」という願いをかけたのもしれません。

私としてはその不安もわかるのですが、私にその念を神様が背負わせた理由が何かあるのだと思います。
神様は最近、人々の念を弾き返すようになっているので、神様視点で言えば「いらないから持って帰ってくれ」ということだったのだと思います。

このビジョンは人々の恐怖思念、言ってみれば妄想であり、「こういう不安があるから救ってくれ」という願いは、言い方は悪いですが神様的には取るに足らないでしょう。
神様は、実践可能な願いは優先的に聞くようですが、不安から捻出された願いはどうしても後回しにしたいはずです。

例えば、「私は平和のためにこういう活動をしているので、お力をお貸しください」という願いなら神様も共感できますが、「この街に敵国が攻めてこないようにお守りください」というのは、神様であろうと持て余す気がします。

私はしばらく考えて、「街にミサイルが落ちてくるより、もっと現実的なカタストロフなんていくらでもあるよな」と思ったので、やはり邪念の類だと判断しました。

こういう邪気は、ご神気の感じる場所や河辺で解放するようにしています。
河辺に行くと、そこに一羽の白鷺がいました。
鷺は神様の遣いとも言われているので、一緒にお祓い作業に付き合ってくれるのかな、と思いました。

ただ、じっとして浄化を待っているうち、寒すぎてトイレに行きたくなり、とても我慢できなくなって邪気が残るのは承知で帰途に着きました。
帰ってきたら、やはり邪気が残ってるなという感じです。これから塩風呂にでも入ろうと思います。

心理学では、「人間の不安は9割取り越し苦労である」と言われます。
今の世に溢れる不安や恐怖の、どれくらいが確実性が高く、どこまでが妄想なのかと疑問に思います。

人間は不安も怒りも、感情自体を娯楽にして消費してしまいます。
そうやって妄想に囚われているうちは、本当の意味で現実的な対応ができません。
私が神様なら、こういう妄想を受け取っても困るでしょうし、だからこそ仕方なく突き返すしかないのだと思います。

「人間たちよ、わかってくれ。願いと妄想を履き違えてくれるなよ」

そんな神様の嘆きが聞こえてきそうです。

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「瀬織津姫」




12月24日の朝、瀬織津姫様ともっと繋がる方法はないかなとぼんやり考えていたら、瀬織津姫様の画像を待ち受けにしたらどうだろうかと思いつきました。

次の瞬間に「私を描きなさい」という言葉が入ってきて、私は衝撃を受けたと同時に動揺しました。
立て続けに「私を描いてブログに載せなさい」と、かなりはっきり言われた気がしました。

私は声を聞くほど能力は高くないので、実際に声が聞こえたわけではないです。
そういうエネルギーというか、思念が入ってきたという表現に近いです。
これは私には絶対に思いつく発想ではないので、これがいわゆるインスピレーションというものなのだと思います。

やりたいかやりたくないかで言えば、確実にやりたくない部類の事柄です。
ぶっちゃけ得する事が一つもないからです。

私の本業は絵描きです。
「楽太郎」というアカウントでは、スピリチュアルや思想に関することしか扱う気がありませんでした。
だから、このアカウントで瀬織津姫様のイラストを上げることのリスクがまず頭を過りました。
絵師というのは、今の世では非常に微妙な立場です。

本業の名義でこのイラストを上げても、誰も意味がわからないでしょう。その代わり、楽太郎アカウントならある程度意味が通じます。
神様は、もっと私に神代界隈でうまくやって欲しいのだと思います。

初めは、リスクを感じて「瀬織津姫様が喜ぶならやるか」みたいな気持ちがありましたが、よく考えたら神様が私のために直々にインスピレーションを降ろして下さったので、神様のためを思って渋々やるべきではなく、私のためになることだったのだと思います。

ところが、渋々ながら着手したところでやめることができなくなりました。
思いつきで始めたことほど後でどうでも良くなりがちですが、ずっと優先順位のトップにあるという不思議な状況が続きました。

不安定な体調を整えながらじっくり進め、ようやく完成したのでここにアップします。

制作の裏話ですが、なぜ瀬織津姫様がこのお姿になってしまったかと言うと、最初は朗らかながらキッパリものを言う大人なタイプの女神様を念頭に置いていました。
けれどある時、かの神様がいらっしゃる神社を調べていて、関連のお社を画像で見た瞬間、「ああ…」となってしまいました。

想像していたような立派なお社と言いがたく、何となく、まあ親近感の湧く光景が広がっていました。
お社も小さいのですが、山からの湧水が減ってしまったらしく、小さな川が側にあるくらいなのです。

私の好きなアニメ、「あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない」の「めんま」というキャラがいるのですが、その光景を眺めていると、めんまに似た小柄な女神様が小川のほとりで、足を水辺でぱちゃぱちゃしてる姿が思い浮かび、しばらく悶えました。

完全に漫画の世界の妄想に過ぎないのですが、とてつもなく愛おしさが込み上げてきました。
ここは私の頭がどうにかなってる部分なので、まともに受け取らないでいただきたいです。

以前の女神様像が吹き飛んだ瞬間、仮にこれを自分の思った通りに表現すれば、バチが当たるんじゃないかと思いました。
けれども、神様は常々「才能を生かせ」と仰るので、ありのままの自分らしさを前面に出せば、これが神様の望まれる魂の表現になるのかなと思いました。
ただ、ずいぶん葛藤はありました。

こういう表現が苦手な人はいるでしょうし、自由に表現した上で新しい界隈に好かれなくても、才能はどうしても他人の好みに合わせられないので、まあしょうがないかなという感じです。


このブログは瀬織津姫様に奉納している形になっているので、軽く業務報告書みたいな感じになってるようです。
とりあえず、神様のオーダー通りに納品はしたので、あとは野となれ山となれです。
私は神様には逆らいません。

もしお気に召しましたら、スマホの壁紙にでも使ってください。

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神様は人に何を見たのか

楽太郎です。

新年、明けましておめでとうございます。
先ほど、初詣をしてきました。

今朝は晴天で、それほど寒くはありませんでした。
神様も、日本人に出来るだけ初詣に来てほしい、そう思ってこの天気にしているような気がしました。

地主神様の神社に初詣に伺ったのですが、参拝者が路上に溢れんほどの行列でした。
本神社とはご縁ができて今年初めてなので、例年との比較はできません。ですが、このご時世なので皆さん気合いを入れて初詣に臨んでおられるように感じました。

初詣の参列に並びながら、神様の雰囲気を伺ってみました。

いつにもまして、神様は表情を隠しておられるように見えました。
迎える空気があるでもなく、拒むでもなく、何も言わず淡々と参拝者を眺めておられるように感じました。
参列中、2回ほど「龍か?」と思う瞬間がありましたが、私はそういうのは目に見えないので、凝視したところで気のせいにするしかありませんでした。

ただ、行列の中で何回か吐き気を覚えました。
境内に入っても、何となく異様な雰囲気がしました。これは、紛れもなく参列者の邪気だと思いました。

誰も傍に手水舎があるのに手を出しませんし、きちんと礼をして鳥居をくぐる人もまばらでした。
神様がマナーに厳しく人を見ているとは思いませんが、私はこういうところもジッと見ておられるのだろうと考えていました。

神様はおそらく、この初詣に訪れた人の内面を注意深く観察されているのだと思います。
それはマナーだけでなく、普段の心持ち、神仏を敬う気持ち、参拝を通して何を願っているのか、それを一人ひとり丁寧に判断しているように感じました。

私とて例外ではなく、心の隅々まで見られているんだろうな、と思っていました。
ですからいつも以上に周囲に気を遣いましたし、その一挙手一投足も観察されている自覚でいました。

参列者の邪気に当てられて心が乱れがちだったので、ずっと神様のことばかり考えていました。
本殿が近づいた瞬間、ふっと頭が軽くなって第4チャクラが開きました。ご神気に当たるとやはり楽になるようでした。
拝殿につき、祈願をしてる最中に後ろから邪気を当てられ、心が乱されて邪念が入ってしまいました。
祈願が終わると心がスッと軽くなりましたが、境内の邪気が強すぎて長居はできないなと思いました。

話は遡りますが、今朝起きると身体に変化があり、妙にハートチャクラからエネルギーを感じました。
第4チャクラに意識を集めると、肚にエネルギーを貯めることができ、身体がどっしり構えられるようになりました。
この身体の仕様は、冬至以降に変わったエネルギーの捉え方のようです。
それが元旦に掴めたため、身体のエネルギーの循環が良く、参拝に向けて瞑想もして、体調をバッチリ整えてから初詣に向かいました。

それでも、参列で気が遠くなりそうなほどの邪気を感じました。
参列されてる方のお一人お一人は、きっと善良な方が多いでしょう。しかし集合意識に混ざると、なぜか邪気になってしまうようなのです。

私が感じた邪気は、「我良し」というエネルギーです。
その意識にチャンネルを合わせるとまずいと思ったので、ずっと本殿や景色に目を移し、神様のことを考えていました。

気分が悪くなったものの、これは私の感覚の問題です。
人々をジャッジするような身分でもありませんし、する気もありません。
それは今日、参拝者をご覧になられた神様がなさることです。

私だって、神様から隅々まで心を覗かれたら、及第点をいただけるかわかりません。
疾しい心を出さないように努めているだけで、疾しさはあります。言ってみれば、巫女さんに邪念を抱かないことすら難しいです。
そんな私ですから、神様がどこまでお許しになるかで結果はだいぶ変わるでしょう。

ただ、何となく神様は多くの人に良い回答を用意しないだろうな、と感じました。
私が変わったからか、人々が変わってしまったからか、この異様な邪気の強さは何とも言いようがありませんでした。

数日前、年末の買い出しでスーパーに行ったら、やはり空気が悪すぎて吐きそうになり、買い物を中断して外に出ました。
お茶を買い、ベンチで気を整えながら、もはや人混みも苦手になった自分に気づき、途方に暮れました。

気づけば、消防車と救急車のサイレンがひっきりなしに聞こえてきます。
誰もが、今の世に疑問や恐怖を感じているはずです。

人々が不安にさらされ、不安だからこそ何かにすがり、自分や身内の助けを願うでしょう。
もちろん私もその一人ですが、神前の私たちを神様はどう見られたのでしょうか。

こういう時に周りを見られるのか、自らの行いを反省できるか、神頼みして終わりではなく、きちんと努力を続けられるのか。

私が神様のお立場なら、ここを念入りに見ます。
元日の参拝の様子だけでなく、その後の心持ちもしっかり見定めて、神様はご加護を与えるかどうか決断を下すのではないでしょうか。
少なくとも私ならそうします。

2025年は予言云々関係なく、政治経済や社会情勢が混乱する可能性が非常に高いです。
何らかの災害も起こるでしょう。ただ、「自分のところにだけは来ないでくれ」という気持ちだと、危ないかもしれません。
特に自然災害は、人の意志ではどうにもなりません。そこでは人間は無力そのもので、起こすのは神様と地球の気分次第です。

それでも、神様はできる限り人々が助かるために、ご加護をお与えになろうとしています。
誰が加護を受けるに相応しい人間か、それは神様がお決めになられることですが、もちろん人間はその資格を得るために努力を重ねなくてはなりません。

「自分だけが助かろう」という気持ちでは、その人は真っ先に弾かれるかもしれません。

私自身、それを肝に銘じながら神様と人のために何ができるか、自らに問い続けようと思います。
今年もできる限り、神様との共同作業であるこのブログを発展させていきたいと思います。

今年一年、どうぞよろしくお願いします。

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「心真」

楽太郎です。
25日に仕事を一区切りつけて、昨日から身体を休ませることにしました。

ただ、私はワーカホリックというか、仕事以外に特に趣味もないので、横になっても何となく退屈でした。
YouTubeで動画を眺めたりしましたが、もはやこの社会で作られるエンタメにはほとんど興味がないことに気づき、少し落ち込んだりもしました。


昨日の朝、冬曇りして薄暗さがある街を歩きました。
最近感じるのは、街全体から漂う空虚感です。
空は確かにどんよりしているのですが、光量がなさすぎるというか、不自然な暗さを感じました。

人からは重苦しい気が出ているように見えたので、あまりチャンネルを合わさないようにしていました。
街の不況感、店のサービスの悪さ、人の殺伐とした雰囲気、これらを横目に見ると、日本人はそろそろ限界ではないかと思います。

この国をどうにかしたい、という思いから自分なりに考え、この数年ひたすら行動してきました。
しかし、学べば学ぶほど腐敗の根深さを知り、ついに「立ち向かえる相手ではない」と理解した時には、腰が砕けそうにもなりました。

今でも、その口惜しさは消えません。
ただ、この人間社会が存続するならば、私はいずれ野垂れ死ぬでしょう。
どうせくたばるなら、いるかいないかわからないお天道様に運命を預ける以外ないと決めました。
ここまで手に負えなくなった世界を何とかできるのは、神様以外にいないと思えるからです。

けれど私には確信がありませんでした。
他人を眺めては気持ちが揺れ動く日々、街の雰囲気や社会の不条理に引っ張られるのも、自分に芯がないからです。
とは言え、これから崩壊していく未来だけが如実に見える世界で、何が残るのかを考えるならば、未来など想像しようがないとも思えました。
私の心は澱み、暗く沈んでいました。


今日、街へ行く用事があり、ついでに氏神様の神社に行くことにしました。
自分が悩んでいることはわかっているので、参拝したらおみくじを引くつもりでした。

そのおみくじの結果はこうです。





このおみくじを引いた時、これは確かに神様のお言葉だと思いました。

私の優柔不断さや煮えきらなさは、まだ人間社会にどう向き合っていいかわからないことにあるからです。
人間社会に傾けば神様のご意志に背き、神様のご意志に従えば人間社会から反発されるのが目に見えています。

その板挟みを一体どう判断したらいいのか、私にはわかりませんでした。
けれど、このおみくじにある「慎み」という言葉にヒントが隠されている気がしました。

「慎み」とは「心の真」と書きます。
なぜ「真の心」が謙虚さや節制を表す「慎み」となるのか、それが疑問でした。

「慎み」が謙虚さを表すなら、「足るを知る」ことが「心の真」となるのだろうか、とも考えました。
ただ、何となくもう少し考えたいなと思い、遠回りして帰ることにしました。


道すがら、少年時代によく通っていた書店にフラッと寄ってみました。
私の10代は悩み多い時期だったので、文学書や哲学書をここで買ったり、立ち読みしたりしていました。

何か新しいことに興味を持ちたいとは思いましたが、並んでいる本の傾向を見て、日本人が本を買わなくなった理由が何となくわかりました。

知識は欲しければネットに繋げれば適当に手に入ります。でもお金を出して紙の本を買うと、手元にモノが残ります。
本は、情報ではなく知識であり、学習というより体験です。

今の出版はビジネスに偏り、学閥的・業界的な知識を提供し、権威づけを再定義する機能があります。
そこにあるのは情報に過ぎず、その体験では精神性を得ることができません。

精神性の体得を反故にする代わりに、知的な敷居を下げ恣意的な情報を取得できるようにした結果、ネットで得られる情報と大差がなくなり、わざわざ嵩張る本を買わなくなったのではないでしょうか。

私は10代の頃に読んだ岩波文庫や哲学書の列を眺めながら、もう一度読み直したいなと思いました。
ここ十数年の精神性をかなぐり捨てた本には魅力を感じなくなったからです。

ある一冊の哲学書を手に取り、貪るようにニーチェやフーコーを読んだあの頃の気持ちに戻り、また抽象的なことに没頭したくなりました。
けれども、その棚の近くにあったのは、「スヌーピー」の登場する漫画、チャールズ・M・シュルツ作の「PEANUTS」の解説本でした。

私はこれを見て、ハッとしました。





私が中学生の頃、漫画本以外に初めて買った活字の本が「PEANUTS」の解説本で、「いいことから始めよう」という本でした。
やはり漫画ではあったんですが、そこで人生哲学と出会い、小難しいことを考え始めた時期もあって、哲学にのめり込むきっかけになりました。

この本はその流れを汲むもので、やはり簡易的にチャールズ・M・シュルツの人生哲学を扱った書籍です。
これを手に取った瞬間、懐かしさと共にインスピレーションが湧いてきました。

「PEANUTS」こそが私の「初心」とも言うべきもので、思えばそれから数十年かけて人生について学び、そして再び迷ってこの地点に戻ってきたのです。

「慎み」を「真の心」とするならば、それは「初心」なのだと思います。

初心だから謙虚であり、謙虚だから驕らず、驕らないから正直なのです。
神様が私に伝えたかったのは、まさに「初心に帰れ」ということに他ならないと思いました。
そのことに気づいた時、あらゆる迷いが氷解したのです。

今まで積み上げようとしたものが積み上がらなかったこと、積み上げたものが崩れて何も残らなかったこと、今の世の中に積み上がっているものが気に食わず、今でも自分で崩して何かを積み上げようとすること、私はずっとそれらに執着していました。

数十年かけて人の世で蓄積した情念は、神様がずっと「これからの時代には必要ない」と仰られていたものです。
それを捨てるのは「初心に帰る」だけでよかったのです。

あの頃、私はこれからだと思っていたし、何にでもなれると思っていました。
社会の歯車は壊せると思っていたし、新しい常識を作り出すこともできると思っていました。
時代が変わり方向性を見失っても、あの頃みたいに新しく何かを始めればいいじゃないかと、そう思えたのです。

数年ぶりに紙の本を買い、帰途に着きました。
雪が降り凍えるような街の中、私は神様に感謝していました。

神様がいるかはわかりませんが、インスピレーションを受けて行動している限り、私はどんどん成長し内面が豊かになっていきます。
それはこの未来が見えない時代にあって、私に自信と希望をもたらします。

この凍える道の途中で、目に見えないエネルギーとの繋がりを感じるほど、私の胸は熱くなっていました。
その気持ちは、私の少年時代にあった心そのものでした。

私は数十年かけて人生を一周し、スタート地点に戻ってきたのです。
それが今日、この瞬間でした。

それがわかった瞬間、自分がこれからどう生きていけばいいのか見えてきました。
なんてことはない、「自分らしくあればいい」だけです。

あの頃のように、傍若無人に自分を貫こうとしている心であれば、良いだけだったのです。

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蜘蛛の糸

楽太郎です。

冬至でエネルギーがきっぱり切り替わり、先日のブログでも書きましたが、人生のテーマが刷新されました。

これまで、私は人の目や評価を気にしながら、それに合わせたり過剰に適応しようとすることで、自分の軸にしていました。
しかし、神様的にはその依存性は度し難いらしく、瀬織津姫様から浄化を促されています。

私の過剰適応に伴う努力性や献身性、悪く言えば自己犠牲的な生き方は、「自分を大事にする」とは程遠いものでした。
うまくいかないことがほとんどでしたし、だからこそ周りを責めたり、社会を責めたりしました。
けれど本当に問題なのは、目的意識を常に外側に求め、結果を他者から与えられるのを待つ態度そのものにありました。

そこにある劣等感は、人の世が作り上げ、長い時間をかけて刷り込んできた「欠落感」から派生したものです。

私たち人間は、生まれ持って頭ごなしに否定されるべき要素など持ち合わせていません。
しかし、人間社会はその性質を評価し、分類して要改善とすることで、人々の天性を抑圧してきました。

私たちは長い間、「価値のある人間と価値のない人間がいる」と信じ込まされてきました。
そして大抵の場合、人は自分を価値のない人間だと思い込んでいます。
価値のある人間は、他者と比較して優れた者だけに与えられた資格であると信じています。

しかし、私たち一人一人に与えられた「ワケミタマ」は、神の一部、神の一柱でもあります。
ところが、人間には魂など存在せず、それこそ動物やモノと同等の生物であることにすれば、神を否定したい人々や存在からは都合がいいでしょう。

「魂」や「霊」を否定することが可能なら、その延長にある「神」も否定することになります。
だからこそ、彼らからすれば人間が「細胞でできたロボット」でなければならないのです。

けれども、誰もが神のワケミタマであり、「誰もが価値がある」ということになれば、人の弱みはだいぶなくなるはずです。
誰もが自分に誇りを持ち、心の声を聞き、真贋を見分ける感性があれば、闇のつけ入る隙はなくなります。

私たちの本来の姿、生き方はそこにあり、「目覚め」とは自分が神から祝福された魂であること、分け隔てなく自由で幸福になれる魂であると理解することにあります。

私の半生を貫く苦悩は、他者と比較し優劣を他者か自分がジャッジし、外側の価値観で己を反省し、自らの目的や動機にしていたから起こるものでした。
しかし、その「根拠」としてきた外圧は、すでに崩壊のフェーズに入っています。

私たちは、仕方なく外側の仕組みに寄りかかる時代から、自分の足で立って世を歩いていく時代に移ろうとしています。


この冬至、私に与えられた課題は「人の世の価値観から解き放たれる」ことでした。
中でも、社会の常識というより、自分の心の動機づけに使用していた「思い込み」、とりわけ「妄想」とさえ言える部分です。
これは私の深いところに染み込んだ思考癖でもあるので、簡単に変えるのは難しく、わかっていても同じことを繰り返してしまいます。

私はこれまで「神から与えられた役目」とは、人々の願いを叶えたり、役に立つことだと思っていました。
私の生業もその延長にあり、人間を中心に考えることが神のご意志だと信じてきました。
けれども、神様は必ずしも全ての人間を救うおつもりはないようです。
むしろ、振り払うべき人間を選ぶために、神様はこれまで入念な準備をしてこられたようなのです。

もちろん、人に奉仕して人を助けるのは前提なのですが、神様にとっては全てではないように思います。
大切なのは、人よりも神様のご意志を優先することなのかもしれません。
「人のため」を思ってやることと「神のご意志」で行うことは必ずしも一致しません。
その部分を混同せず、それが神様のお選びになったことなのかを注意深く察する必要があります。

そう考えると、私は自分の立場やなすべきことがわかってきました。
意思決定の上で重要なのは、「神の優先順位」に他ならないということです。
人の世の価値観より神の道理を優先すること、他者ではなく自分、自身の信念よりも神を優先することです。

これに気づいた時、私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出しました。

悪人のカンダタはある日、気まぐれで蜘蛛を助けますが、カンダタが死んで地獄に堕ちると、仏様が蜘蛛の糸を地獄に垂らして極楽へ上がれるチャンスをお与えになります。かつてカンダタが蜘蛛を助けたのを、仏様がご覧になられたからです。

私が蜘蛛だとしたら、カンダタが助かるかは蜘蛛である自分が決めることではないはずです。
地獄に堕ちる選択をしたのはカンダタ自身ですし、カンダタを裁いたのは仏様です。
蜘蛛は、自分の役割で糸を垂らしたにすぎません。

私は人の目を気にするあまり、自分自身のやり方に徹することに気後れしていました。
人々はどう思うか、これをやればどうなるか、神様はこれをどう見るだろうか、そればかりを気にしていました。

しかし、私は己に与えられた役割をこなせばいいだけで、それがどういう意味を持つか、どれだけ世に貢献するのかまで考える必要がありません。
それを決めるのは、関わった人たちかもしれませんし、神様かもしれません。
自分が何をすべきか、役割とは何か、それを難しく考える必要はなく、神様が降ろしてくるものを信じて自分なりにやればいいのです。

それがわかった時、急に気持ちが楽になりました。
人は自分にできることは知れてるので、下手に全てに責任を感じる必要がありません。
人間にできないことは神様の世界の話であり、今は神様にしかどうにもない時だからです。

だから、今は自分自身に集中してていいのです。
むしろ、これから局難が来ることは想定できる以上、今は地盤固めに勤しむべきでしょう。


今、地球の次元上昇は思っている以上に早く、上昇しなかった人々をどんどん引き離しています。
この大衆にチャンネルを合わせると、自らの波長がどんどん下がっていくのを感じます。
それほどまでに人の世は、神からも地球からも見放されているように思えます。

こういう時こそ、はっきり目的意識を持ち、波長を落とさないように心がけるしかありません。
冬至でエネルギーが変動し、覚束ない感覚もありますが、幸いにしてこれから年末年始を迎えます。
そこで新しい気持ちに切り替えて、2025年という局難に立ち向かう準備をするには、うってつけの時期かもしれません。

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新しい自分に迷う

楽太郎です。
今回は、結論のない話になるかもしれません。

作品制作中、かなり心身を酷使していたせいもあって、昨日からはなかなか身体のしんどい状態が続いていました。
おそらく制作期間と冬至前のエネルギー変動、魂の成長や浄化作用もあり、脳や神経に対するダメージは想像以上だったかもしれません。

昨夜、食いしばりと共に激しい寝汗で起きて、着替えて寝直しました。
いくつか生々しい夢を見た後、うっすら目覚めると、私の頭にはない言葉を私自身で翻訳しながら、自己反省を始めていました。

その時の記憶ははっきりしていませんが、私のこれまでの生き方について言及されていたように思います。
そこでは、私が過剰に周りや社会を意識し、先回りして合わせようとしたり、逆に極端な反発をしたり、そういうことで社会生活がうまくいかなかったことが話になってました。

なぜ、それほど過剰適応とも思える行動すら取ってきたかと言えば、私がいつも「人と違う」という感覚に根づいていたからです。

未だにそうですが、何をやるにしても人より頭一つ分できてしまうか、できないかのどちらかです。
できてしまうことで過剰に期待され嫉妬されやすい反面、できなさすぎて邪険にされ疎外されます。

この「ズレ」が魂由来の性質だと今では割り切れるのですが、子供の頃からつい最近まで、私はただ社会で生きづらいだけの宿命を背負った人間なのだと思っていました。

しかしスピリチュアルと出会い、神様と繋がれるようになってから、私が何者なのか、私がどう生きていけば良いのか、大まかな部分を捉えることができました。

私の魂の宿命は、おそらくこうです。

私の魂はかつて天界にいたもので、何らかの使命を担って地上に降り、血族の因縁を晴らすために両親から肉体をもらい、これから神代の創造に携わるシナリオが与えられているようなのです。

私は輪廻転生を繰り返した魂と違い、「人間」として生きた経験がないためか、これまで人間の感覚が乏しい状態で生きてきました。

0歳から記憶があるのも、身体の使い方がわからないのも、いわゆるHSPなのも、人間の粗暴さが理解できないのも、やたら物事を抽象的に捉えたり、人が覚えていないようなことをはっきり思い出せるのも、様々な性質が「自分は魂の種類が違う」と考えれば、全て納得できることでした。

その「ズレ」の正体をはっきり指摘されないまま、「ダメなやつだ」とか「へんなやつだ」と思われるだけだった私は、その劣等感を埋め合わせるために過剰適応とも言える行動を繰り返してきました。
努力家だとか頑張り屋とかよく言われましたが、今考えれば過剰適応の一つの傾向でしょう。

現実離れした理想のあまり、そのために自分を追い込むことを躊躇わず、私はいつも身体の不調を抱えていました。
私の不幸感の源は、何となく慢性的な疲労感から来ていることはわかっていました。

瀬織津姫様と出会い、心の浄化を手伝っていただき、私はだいぶトラウマが軽減されたと思います。
あまりに心の傷が深く、閉ざした部分が大きかったため、私は自分の心を真正面から捉えることができずにいました。

瀬織津姫様にその浄化を促していただくことで、私は過去の記憶に責められる苦痛から抜け出すことができました。
そして今朝、私は過剰適応という価値観を捨て、「自分軸で生きる」というテーマに出会いました。

今日はずっと腰が痛く、チャクラが完全に乱れ邪気が侵入して、わりとどうにもならない一日でした。
既存の価値観の離脱を迫られたことで不安になり、第二チャクラがやられたのだと思います。

私はこれまで、人を見て先回りしてものを考えて行動していたので、自発的な動機は持ちにくかったのだと思います。
それは人への執着であり、世の価値観への執着です。
瀬織津姫様は常日頃から「自分を大事にして」と仰る方ですから、その依存は浄化せざるを得ない部分だったのだろうと思います。

それは私にとって良い方向への変化であるとしても、自発的動機を持ちにくかった私としては、他人軸を捨てたらどう行動していけばいいのか見えてこない部分があります。

私は世の物事はこうだ、とある程度は言えるのですが、こと自分が経験したことのないものには奥手になります。
長々と書きましたが、これらの文章を結論に導くことはまだできないようです。

私は「心の赴くままに」とか「直感に従う」行動原理を覚え始めたばかりです。
この冬至が、あらゆる方面に対してターニングポイントになったように、私もこれまでと別の私となり、新たに生き始める段階に入ったのだろうと思います。

ヤドカリは、古い殻を捨てたら新しい殻に引っ越すまで丸裸になります。
今の私はその状態のため、無防備になりますし、外部からの影響をもろに受けます。

古い殻を持っていた頃は、まだ自分の方向性に強気でいられたのだと思いますが、こうして自由になってしまうと、逆に自分を縛るものが欲しくなってしまいます。
でも古い殻に戻るわけにはいかず、新しい殻は自分で探すしかありません。

私は当面、それが課題になりそうです。

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新しい時代、冬至に寄せて

楽太郎です。

昨日、ようやく作品が完成しました。
この数週間は、神様と二人三脚で仕事をしていました。
おそらく瀬織津姫様だと思うのですが、本当に献身的にサポートしていただきました。

私の作品や仕事自体は、それほど大っぴらに誇れるものではないのですが、それでも神様が後押ししてくださるということは、おそらく「才能や商売に貴賤はない」と神様が考えておられるからだと思います。

この作品がどういう評価を受けるかとか、そもそもお金になるのかとか、社会の価値観で考えるならばどうなるかはわかりません。
それでも、「神様がついてくださっている」という気持ちがあるから、気をしっかり持って最後までできました。

人の世の経済ではそもそもうまくやれるとは思っていませんが、困りごとは神様に頼るべきです。
神様が「やれ」と仰っているのですから、いずれ悪いことにはならないでしょう。





今朝、早起きをしたのでちょっと調べ物をしていたら、今日の冬至の朝日は特別な意味があるらしく、スピリチュアル界隈もお祭りムードのようでした。

日の出を是非見ようとコーヒーを淹れて、ベランダで待ち構えてましたが、雲が厚くてなかなか顔を出してはくれませんでした。
雲をなぞるように光が昇ってくると、後光が差してきて、とても神々しい光景となっていきました。
そしてお日様が顔を覗かせると、いつもに増して眩しさを感じ、直視することができませんでした。

その時、天照大御神様に「幸せになれますように、ついでに人類も」とお祈りしました。

この写真はかなり切り取ったので画質が良くありませんが、雰囲気を感じ取っていただけたら幸いですw


昨日、作品を仕上げてから、正直言って商売としてうまくいく自信はないのですが、なぜか不思議と怖くないなと思いました。

「神様がいる」というのは、人によっては気のせいに思えるかもしれません。
例えば錯覚とか思い込みとか、神の声が聞こえたらそれは脳の病気とか、そういう風に言う人もいます。

でも、客観的に考えて今、「神様を信じている人と神様を信じていない人のどちらが幸せなのだろう?」という観点だと、人の力でこの人間社会を勝ち抜こうと思う人たちほど、プレッシャーや不安を抱えているのではないでしょうか。

私は、神様と繋がる感覚が例え錯覚であろうと、神様の言いそうなこと、そのアイデアに従って生きていくことで自分の成長を感じ、自信を得てどんどん精神的に豊かになる自分がいます。

神様のいない世界を生きている人は、この部分を人間の力で補わなくてはならないため、よりお金を稼がなければいけないでしょうし、より人をうまく使ってやろうとか、もっと努力して成果を出さなくては、と思うはずです。

しかし、現実の不確実さで言うなら、神様を信じていようがいまいが、大して変わりません。

街はクリスマス商戦の真っ只中なのに、全く浮かれたムードを感じませんし、売る側の人からも何となく本気を感じません。
世の中の雰囲気の悪さを感じるほど、不安な人は「自分で何とかしなければいけない」と思うでしょう。
しかし、人間の努力には限界があります。極論を言ってしまうと、生死を分けるのは気の持ちようとか、運だったりするわけです。

どうせ結果が同じなら、神様を信じて楽しく生きていたほうがいいのです。

地球の次元上昇が眉唾だろうが、隕石が降ってきたり大地震が起こるにしても、映画みたいに人間の力で何とかできるものではありません。

人間は、これまで目に見えるものやデータをエビデンスにしなければ、発言力が得られませんでした。
「目に見えない」ものは錯覚で、「目に見えるもの」だけが実在する唯物論の延長から、各々が我田引水に励むことで混迷が起きていることを、人々はいずれ知ることになると思います。

もしこれから新しい時代、もしくは「神代」になるとしたら、それは「目に見えないもの」が「目に見える」ようになる時代なのだろうと思います。

目に見えないものが見える世界は、誰もが霊能者になるという意味ではなくて、目に見えないものを信じ言葉にする人が増えることで、それがより人の目につき、目に見えない世界がどんどん現実の価値観になっていくことを意味します。

昔、日本各地にコンビニよりも神社仏閣が建てられたのは、人々にとってその「目に見えない世界」が現実であり、共にあったからです。
その時代になることは、革新ではなくて温故知新であり、元に戻るだけです。


私たちは神様のいる、安心できる世界を作ることで、人々の心から言いようのない不安を消し去ることができるのだと思います。
それを私は「神代」だと信じていますが、誰が何と形容しようと、最終的にその世界になれば多くの人々が楽に生きられる時代になると思います。

だから私は心配はしていません。これから世の中が悪くなろうと、私は幸せになれる自信がありますし、世の中を変えていけると思うからです。


追記:
本日からコメント欄を解放します。
冬至が明け、新しい時代の流れを感じます。私も色々とやり方を変えていくタイミングかもしれません。
コメントお待ちしています。

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