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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「才能」とは何か

楽太郎です。

夏至で「精神界」の気場が整い、その高次元のエネルギーを降ろして使うことができるようになってきました。
ただ、このエネルギーを使うには自分の意志よりも、神様のチョイスが優先されるような気がします。
どうも「才能」に使う力にしては潜在的というか、自覚していない方向に発揮されている気がしてなりません。

私の場合はエネルギーを読み取る能力とか、いわゆる霊能力的な開花に進んでいて、浄霊や浄化のお役目を任されているようです。
私は元々しがない絵や漫画を描いている俗物でしたし、今でも隙があらばナンセンスな漫画を描いて楽しく過ごしたいのです。
けれど、神様から与えられる能力と使命は、自分の予期する形で現れてくれはしないようです。

冷静に考えれば、精神界とは地球意識の統合的なエネルギーの場ですから、共同のものです。
地球意識は人間の「我よし」とする内向きのエネルギーから脱し、人間が破壊し尽くした地球を共有財産にしていく共存共栄の道ですから、神がかったエネルギーが貰えるからと、勝手に自分の手元に引っ張ってくる訳には行かないのかもしれません。

だとすれば、私が「精神界のエネルギーを使って神がかり的モテ講座のサロンを開いて大儲けしよう」と思ったところで、神様がその部分に才能というエネルギーを注いでくれなければ、私は恥を晒して終わるに違いありません。
本来「才能」とは大神の分身霊をお預かりした私たち人間が、自分の魂の力を引き出して使う能力一般を指します。
その才能は言わば神から与えられているものだからこそ、私利私欲のために勝手に発揮することも行使することもできないものです。

私は昔、音楽をやっていましたが好きだからというだけではモノにならず、自己実現的に努力したところで才能が花開くことはありませんでした。
「夢は願えば必ず叶う」とは若者の情熱を食い物にする大人の常套句ですが、才能に関しては努力も知識も技術も自分の望みとは少しズレたところにあるものです。

確かに才能に知識や技術は不可欠です。しかし、自分が好きでやることと得意でやることに対する人様の評価は違うもので、「得意なこと」というのは予め神様から与えられた能力なのかもしれません。

だから、この気場を使って活躍する人がこれから出てくるとしたら、「自分のやりたいこと」と「才能」と「神様の目的」が一致している、そんな人なのかもしれません。
ただ「自分のやりたいこと」というのが曲者で、神様からインスピレーションを受けた物事は、大抵いても立っていられなくなるくらいやりたくなるもので、大して自分の意志や趣味は関係ありません。
例えば「全然好みのタイプじゃないけど結婚してみたら最高の伴侶だった」という話を聞くことがありますが、魂で受けることと意識にはズレが生じているからです。

だから私が文章を書くのも元々好きだったわけではありませんし、霊的能力だって欲しいと思っていたわけではありません。
何もなければ、のんびりと変な漫画を描いてダラダラ生きていたかったのです。
でも、神様はそんな私の意思よりも強い思惑で私を導いて下さるのですから、不思議なものです。

これを「やらされている」と取るのか、「自分がやるべきこと」と取るかは、人それぞれです。
神様と意識が分離している人がこのエネルギーを受け取れば、義務感で何となく渋々やるはずです。
ただ、神様の意志と結びついていれば、意向に沿わないことは認識しつつも自分がやりたいこと、やるべきことと自覚した上ですんなり実行していくでしょう。

ここに「我」を出すか出さないかがポイントで、自己浄化が進んでいる人は躊躇なく神様のエネルギーを受け取り、才能として行使します。
しかし下手に自分のために能力を使おうと思えば、エネルギーの流れを捻じ曲げる分うまくはいかないでしょう。
自分を出さず、素直にエネルギーの流れる矛先に身を任せる人は、全く予想だにしない方向で才能を発揮し始めるはずです。

これまで「才能」は自分のやりたいことの分野で発揮しなければ意味がないと思われてきましたし、そこでうまく評価されなければ自分に才能がないものだと諦める要因にもなりました。
好きなことで認められたいがために、才能を発揮して成功するには良い学校に入ったり、偉い人の弟子になったり、肩書きを得たりコネを作ったり、という仕組みがありました。

その仕組みが確立されていながら認められる人と認められない人が出てくるのは、やり方云々だけではなかったからです。
当然、大した才能も魅力もないのに広告代理店的企画に採用されたことで売れる人もいます。
それとは別に、自分のやりたいことと得意分野が違うために、魂の能力を引き出さずに才能を求めるから、中途半端なことしかできないのも多分にあるでしょう。

私が若い頃はバンドブームもあって音楽を志す友人が多く、私自身もその一人でした。
もちろん突出したセンスを持っている人も、私みたいにからっきしの人間もいました。
今になってみれば、あの頃音楽をやって日本のトップに立つことを夢見ていた若者は今、料理人であったり運送業をしたり税理士をしています。
かく言う私もイラストや漫画を描いていて、それだけでなくスピリチュアリストの真似事まで始めてしまいました。

人生は思うようにいかないものですが、才能はましてそういうものだと思います。
私がいくらギターの神弾きができるようになりたいと思ったところで、その才能の発揮のしどころを用意なさるのは神様で、不要な部分に力をお与えになるとは思えません。
「ギターの神弾きなど死ぬほど練習すれば誰にもできる」と思われるかもしれませんが、その理論で言えば布袋寅泰やCharクラスのギタリストが5万人はいないとおかしいと思います。

「何となく上手くできること」「何となく続けられるから上手くできること」というのは、誰しも一つや二つあるものです。
それに気づくために人生経験は必要で、何事かに挑戦するから向き不向きもだんだんわかってきます。
その中で、やっぱり人よりスルッと上手くできてしまうことがあって、それを突き詰めれば立派な才能になっていきます。

近年では才能開花がビジネス化され、お金や権威に縋れば自分の欲しい才能が欲しい分野で手に入ると人々は錯覚しています。
しかし、才能は自分の好みとは別の軸に存在するものなので、「趣味」を追求することが必ずしも才能に結びつくとは限りません。
「好きも才能のうち」とはその通りだと思いますが、いくら好きでも才能が発揮できないこともあります。
結局は、才能が自分の魂と直結した能力だからこそ、自分の頭で考えて何とかできるものではないのだと思います。

これまで「自分には才能がない」と落胆して、長く夢見たことを諦めていった人たちがたくさんいました。
しかし多くの場合、才能がないのではなく自分の欲しい分野で欲しい能力が発揮できなかっただけで、実は別のところに才能がいくつもあったりするのです。
才能を自分の努力で作り出すか、運良く生まれ持った素質だという思い込みのせいで、自身が持つ天性の能力に気づかずに諦めてしまう人がいます。
けれど、ふと気を抜いて何となく上手くいく物事に気づき、その行為を好きになれば自ずと才能になっていくのです。

このカラクリも、人間の世界が「才能」という神様から与えられた賜物を歪め、金儲けの手段にするために色々と捏ねくり回した結果なのだと思います。
これまで純粋に夢を見て努力する若者や、実際に才能はあるけどそれ以外の能力がない人を食い物にし、食い潰して腐らされた人がどれほどいたのでしょうか。
私の身の回りにも、演劇にしろ音楽にしろ画業にしろ、花形の世界ほど魑魅魍魎の渦巻く世界でした。

私はそういうのが嫌になったから、どこにも属さず何も当てにせず、実力とアイデアだけでのし上がって行こうと思いやってきたのですが、これはこれで全く上手くいきません。
特に今は、純粋に才能や実力だけで注目される時代ではなく、巨大な傘の下で華麗に立ち回る人でなければ成功しません。
権威に気に入られることが最善最速のシナリオであり、それ以外の成功の道は今のところ皆無と言って良いでしょう。

だからと言って、超絶グレーな権力者に縋りつきに行くのが正しく才能を発揮する方法ではなく、それは才能がない人々が成功するために作り出したスキームに頼ることになるだけです。
成功するために才能が欲しいのか、才能を自覚するから成功する道が欲しいのか、その動機は似て非なるものです。
自分の意図しないところで開花してしまう「才能」というものは、それだけで周りの人を助けて評価を集めることで始まるのだと思います。

才能と評価、需要と成功に関する話は難しいので、長くなりそうですし今回は扱いません。
ただ、今の時代はオリジナリティが求められる風潮ではないからこそ、テンプレートに合わせる器量が求められ、大衆の移ろいやすい気分を推し量れないと何にもならないと思います。
需要と供給のバランスも性質も大きく狂っているからこそ、正論だけでは語り尽くせない状況です。

その環境に迎合するかしないかは人それぞれです。
ただ私はそれをしても新しいことはできないと思うので、愚直に他の道を模索するだけです。
そして、神様は愚鈍な私の斜め上をいくアイデアを下さり、私は半信半疑でそれをやっています。

結局、全てが自分の思い通りにはならないしできないのですが、それがこの世界における「才能」の定義であり、自分だけのレベルで考えていては見えてこない世界です。

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諸行無常と悟り

楽太郎です。

近頃は次元上昇関連の話と、憑依に関する霊的な話題ばかり扱って来ました。
私自身も仕事や神様とのお約束事もあり、霊障など取っ払ってガンガン動きたい気持ちはあります。
しかし、何の因果か憑依との付き合いが延々と続いています。

先日、「反転攻勢が始まった」の記事で書いたように、夏至以降の次元的な変化によって私の身の回りに起こることも変わりました。
これまで日常的に憑依と霊障はありましたし、習慣的に除霊作業を行ってきました。

私の除霊は「自己浄化」と「ひたすら神仏に拝む」のを基本にしています。
大抵の憑依は自分の平常心と異なる感情を選分け、自分の感情を見つめることで浄化していきます。
あとは、神様や仏様にお願いして連れて行ってもらうことで、私は何種類かの祝詞と般若心経を詠むことにしています。

これまではその除霊方法でスルッと抜けていくことが多かったのですが、困ったことに最近の憑依は祝詞やお経が通用しません。
憑依体の悪意もどんどん強まっているのを感じているため、「神など知るか」みたいなスタンスの方々なのだと思います。

彼らには儀式的な除霊は通用しないので、ひたすら自己浄化で対応していくことになります。
強い憑依はそれだけ身体にとてつもない苦痛をもたらすのですが、そんな彼らにも弱点があるようです。
私が笑ったり、人に親切にしたり善業を行えば抜けて行きやすくなるのです。

彼らは言ってみれば、光に対する闇の存在です。
闇は光で当てれば消えます。彼らは人間が呪い憎しみ合い、苦しんで惑いの中で死んでくれるのを最高の喜びとします。
その対局にある行為こそ、彼らが最も恐れ忌み嫌う「真の喜び」であり、人々の祝福や感謝や愛情を封じ込めるのが彼らの目的でもあるのです。

霊の世界とは「徳=霊性のヒエラルキー」で構成されているらしく、低い霊格の者は高い階層に上がることはできず、高い霊格の者は下の階層には自由に降りていけるようです。
その霊格とは波長域の適合性でもあって、いわゆる「徳の高さ」のようなものが指標になっているように見受けられます。
これを現実的に置き換えてみれば、私が人格を高めて霊性を向上させると、私の意識より下の霊格は私の霊力で抑え込めるようになります。

理論的には、私が霊格を高めるような精進を日々行えば、これらの憑依体は自分の制御下に置くことが可能になるはずです。
祝詞やお経を唱えたとて「神仏など知るか」というスタンスの方々を相手にしているわけですから、霊的制圧が目論見通りに行くのは難しいでしょう。
しかし、それほど強い念を持った霊でも何とか私が日常生活を送れるレベルの霊障で済ませて貰えてるのは、おそらくバックで神様たちが静観しておられるからだと思います。

奇しくも「七難八苦を与えたまえ」という傲岸不遜な記事を以前に書いているのですが、やはりあれ以来霊障が苛烈化しているので「言ったからにはやるんだな?」という神様からの試練が与えられているのだろうと思います。
何であんなことを書いたかというと、勢いで書いてしまったというか、神様に書かされたというか

そんな経緯で、なぜか霊能者としてのお役目さえも与えられてしまっているのが今の状態です。
私としてはもっと他の才能を発揮したいところですが、神様のご用命ならば仕方ありません。
ただ、この除霊の過程を観察していて興味深いこともわかってきました。

最初、憑依と気づくのは心身に異常を感じるところから始まり、自分自身のエネルギーと違うエネルギーが身体の中にあれば憑依だと認識します。
霊障は私の感情や意識に大した影響をもたらさず、ひたすら身体の不調として現れます。酷い霊障は身体の形が変わるくらいの圧をかけられます。
これまでは身体症状は神仏に祈れば取り去ってもらえましたが、最近の憑依体はかなり頑固です。
それゆえ、何とか自力で浄化する以外にありません。

そこで、私が笑ったり楽しく過ごしたり、人に親切にしたりすると霊障が収まることに気づきました。
だいぶ以前から「邪気が一番苦手なのは愛情なのでは?」と推論を立てていましたが、どうやら闇の者は本気で光の性質を嫌うようなのです。
霊障を受けている時は物凄く体調が悪いですし、気分も最悪で物事を良いほうに考えるのは難しくなります。
だからこそ、そこで自分の機嫌を取り楽しいことを想像して笑い、人に優しくしたり親切にする行為は修行になるのだと思います。
これこそ、神様が私に「七難八苦」としてお与えになられた試練であり、私がより高い次元に行くための修行なのだと思います。

これらの霊障が生じている時は怒りや憎悪などの力強い悪意が私の心に流れ込み、私自身もその波長に気づかず取り込まれてしまう時もあります。
そういう時こそ己を見つめ、自分の正しい波長を見つけて自分の波動に戻していく作業が必要です。
興味深いのは、邪気が浄化されていくと終盤には「悲しみ」や「後悔」の念がグワッと押し上がってくるのです。

私としては、さっきまで何の根拠もなくイライラしていたのに、急に悲しくなって身体がスッと楽になるみたいな、心の病気にしか思えない一連の現象も、憑依と浄化の観点で見れば私の身体の中で憑依体が浄化されていったとも取れます。

人間は物質文明の常識の世界に暮らしていますから、自分が簡単に外部の念の影響を受けて意識も体調も変えさせられているなど思いもよらないでしょう。
ただ憑依は日常茶飯事以上に当然のことで、自我が目に見えない者たちの影響下にあり、それでも目に見える世界を生きる私たちは「自由意志」が存在すると錯覚しているだけなのです。

これらの憑依体が外れる時の悲哀は、ある意味「悟り」の物悲しさでもあると思います。
「般若心経」とは物事は全て形だけのものであって、形は変わるのだからずっとしがみつけるものではないのだよ、と目に見えるものに執着し続ける者たちに諭します。
死んでこの世を離れても尚、欲望や執念や憎悪を捨てきれない者たちがあらゆる霊障を起こしますが、その「色」もまた幻想であると説かれます。

霊の浄化が起こりうるとしたら、この「諸行無常」の悟りこそが悲しみの想念として現れると考えられます。
これまで「苦しめばいい」という憎悪を全てにして存在していた者たちが、そこまで執着する必要のあるものなど存在しなかった、と悟るならばその悲しみはとてつもないかもしれません。

神道における「お祓い」の語源はおそらく「ハレ・らう」であり、文字通り「気が晴れる」ことです。
気が晴れるとは、執念や憎悪やストレスからの解放と手放しであり、ある意味悟りとも言えます。
「祓祝詞」は、高天原におられる祓戸大神に罪穢れを取り去って頂くものですが、憑依体の憎悪や邪念が消え去ることは即ち浄霊を意味します。

ゆえに諸行無常の認識は悟りに至るスタートラインみたいなもので、それは人間にとっても死霊にとっても同じであるはずです。
「これは繰り返す意味がない」と気づく時は、自分がずっとやってきたルーティンに疑問を持ち、それらの行いを俯瞰して見れるようになった時に訪れるものです。
ずっと目の前のことに執着し、同じことを延々とやっているだけで満足しているうちは、真の意味で成長しません。
そこで起こる問題や行き詰まりから脱するためには一段上に上がらなくてはならず、その成長の一環として「悟り」があります。

「こんなことをやっても無駄だ」と悟ることは、これまでのやり方に疑問を持つことであり、ゆえにガッカリもするし懺悔も生まれるでしょう。
それが悟る時の悲哀であり、誰しも悟る前より悟った後の方が後悔が深く、自責の念に駆られるものです。
実は、悟る前よりも悟ってからの方がつらく、悟りきるまでが本当の修行なのだと私は思います。

私に取り憑くこれらの憑依体は「神に仇なす者たち」として、この物質文明を好き放題に作り上げてきた存在だと認識しています。
彼らの影響下にある「お金と力」が大好きな人たちは、この世界が変わることを許そうとしません。
そのために世界中の仕組みがガタガタになっても、何とか通常運転を続けようとしています。

しかし、そのルーティンも執着もいずれ「いつまでこんなことをやっているんだろう」と気づかざるを得なくなる時は来ます。
その「諸行無常」は誰が言い出したわけでもなく、歴然とした宇宙の法則ゆえに形あるものはいつか崩れるのです。

その瞬間の悲哀にこそ「悟り」はあるのでしょう。
しかし、いざその時になって慌てふためかないように天は気づきを与えようとしてきましたし、私もこうしてその一助をさせて頂いています。
「こんなことはいつまでも続かない」というのは誰もが事実だと認識し予期もするものです。

しかし、残念ながらそれをきちんと受け止められる人は決して多くはありません。
それは人間として生きていても死んでいても、大して変わりないのかもしれません。

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人間には神が必要だ

楽太郎です。

昨晩、夢を見ました。
東京タワーの内部がビルの避難階段みたいになっていて、私は高所恐怖症なのでビクビクしながら登って行きます。
土地に足場が緩い箇所があったり難所もありましたが、意地悪そうな若い女性と踊り場ですれ違いそうになりました。
私は彼女から妨害を受けそうな気がして、咄嗟に虫除けスプレーを周りに噴射して、彼女が咳き込む隙に階段を駆け上がりました。

頂上付近の踊り場にある窓枠にはガラスが嵌め込まれてなかったので、そのまま外の世界が広がっていて地上が見えました。
夢の中とは言え、私は高いところが苦手なので震え上がりました。
私がなぜこの塔に登ったか考えた時、最上階の出口からさらに屋上に出られるからだったことを思い出しました。

昨日は夏至でしたが、昼間の夏至点を境に身体が不調をきたしました。
朝一番に理髪店に行って、帰宅して絵を描き始めたところ、次第に身体中が緊張して酷い汗をかくようになりました。
あまりに体感したことのない具合悪さだったので、ルノルマンカードを引いてみたところ「鼠」が出ました。

私の読み方では、鼠は「邪気」と取ります。
邪気は身体にかじりついて私のエネルギーをコソコソ持っていくので、鼠のカードが出た時は注意します。
しかし、昨日から今日にかけての邪気の襲い方は尋常ではなかったというか、最近は邪気をほぼカットアウト出来ていたので霊障としてハッキリ出たことには驚きました。

おそらく夏至で「神世」の気場が完成したため、片足だけ踏み込んでいた気場にもう一方の足を乗せようとした時、足が一時的に浮くのを見計らって邪気が妨害をしに来たのだと思います。
以前、神世の波長と同調する時、肉体のすぐ外側にあるエーテル体も次元上昇するという話をしました。
エーテル体が波長を上げる時はいつでも不安定になりがちなので、弱り目の時だからこそ全力で襲いかかって来たのだと思います。

昨晩はほぼ1時間おきに目が覚め、その度に汗だくで喉がカラカラだったため、一晩で水を4リットルほど飲んでいました。
私は特異体質であることを自認しているのですが、どうやら私は邪気を取り込むと水分にして放出すれば浄化できるみたいです。

こう言った「目に見えない何かとの戦い」をこの数ヶ月間、ずっとやってきました。
自分でもやっている自覚には半信半疑で、優先順位のおかしさは常に感じていました。
これらの霊障を振り払うことで、本当に「神世」の創造に貢献できるのか疑問を感じずにはいられませんでした。

ただ、どうやら私は神世の気場を邪気邪念の類から守るお役目を与えられているようで、常に気場から半分身体を乗り出して「お祓い」をしているようなのです。
つまり、神世のゲートキーパーのような役割であるようで、それゆえ邪気と真正面から対決することが多いのだと思います。
よくある「スターシード」系の話でライトウォーリアという概念がありますが、こう言った戦闘や防衛の使命が私にあったようです。

よく考えれば、私がお導きを頂いている瀬織津姫様はお祓いの神様ですし、私との相性もそれで説明がつくのかも知れません。
瀬織津姫命は祓戸大神である以上「塞の神=饗土の神」であり、猿田彦大神のように土地の境界で妖や災いの類を防ぎ、迷える者に導きを与え結界の中にいる人々を守り、幸を与える存在です。
その神々にとって「日本」という国土が最大の結界であり、すなわち日本人全員が塞の神によって守護されていると言えます。

私は、その瀬織津姫様のご加護を授かっている一人であり、それゆえ「神世」の防衛を通して日本の国土の守備に参加させて頂いているのだと思います。
それは大変光栄なことですが、私としては目に見えない地味な働きではなく、どう考えても才能を発揮して実際にムーブメントを起こして世に貢献した方が力を発揮できると思いますし、なぜこういう形なのか正直腑に落ちない部分もあります。

しかし、それは私一個人の考え方なので神様のご意志に従うだけです。
兎にも角にも、人間の心でやるべきことを決めていたら、神様から与えられるお役目は果たせません。

思えば、私が瀬織津姫様のお導きを受ける時、その基本が「断捨離」から始まります。
手放せるかどうかギリギリのところで、あえて選び取る必要のあるものだけを残して他は全部捨てる、その思い切りを受け止めるのはいつも悩みます。
けれど考えてみれば、この世の中は間違ったものが多すぎて、多少なりとも手に取ればカルマになってしまうものばかりです。
そのため間違ったものは一先ず言語道断として、できるだけ正しい形のものを選び取ろうとすれば、誰も箸にかけないようなものばかり選ぶことになります。

だから、私のことをよく観察される方は「もっと要領の良い方法なんていくらでもあるのに」と思われるでしょうが、私もそれは重々承知ながら、神様の意図を汲めばできないことがとても多いのです。
けれど私を守護して下さる瀬織津姫様は浄化の神様ですから、私が進んで穢れを受けに行くことに賛成されるはずがありません。

人間として考えれば、神の意思で自分の選択を決めるなどどうかしてる、と思われるでしょう。
しかし、今の時代だからこそ神の声をきちんと聞かなければ迷うことになるはずです。
もはや人間の頭で考えてやるようなことは全て袋小路に入って、何をやっても地雷を踏むかどん詰まりに陥るかしかないと思います。

先を見れば蜃気楼で、それを望む足元には穴が空いている、そんな危険な状態ならば多少不自由でも安全な道を歩めた方が良いはずです。
それをコッソリ神様は教えて下さるのですから、むしろ人間は神様の声にもっと耳を傾けるべきなのです。

「それで本当に報われるのか」と思われるかもしれません。
しかし、人間の頭で考えても神様のご指示を受けても不確定性はほぼ変わりません。
未来が見えないのも、結果に裏切られる確率も同じです。だから、どの道行き当たりばったりなのが人生なので、特に気にする必要はないでしょう。

神様を信じられるかどうか、というのは人間にとって永遠のテーマです。

最近、アメリカの歴史について知ったのですが、北米大陸の先住民だったいわゆるインディアンの方々は入植者の白人たちに計画的に抹殺された歴史があります。
民族浄化と言って良く、先住民族を「矯正」するために施設に収容して思想洗浄を行い、白人の文化を学びキリスト教に改宗しても全く差別は改善しなかったそうです。

北米南東に暮らしていた先住民は、何百キロと離れた荒野に強制的に移住させられ、食糧もろくに手に入らず衰弱死する人々が多数出る中、カリフォルニア州の白人たちは先住民族に武力を差し向けて虐殺を行いました。
インディアンの主な食料だったバッファローを絶滅寸前まで追い込んだのは、ハンターが娯楽目的で彼らの食料を奪うことに州が賞金を出していたからです。
大事な食料のバッファローも殺され、ろくに食べるものもなく荒野に放置された先住民たちは徐々に弱体化し、銃を持って襲いかかる白人たちによって計画的に殺されていったのです。

ヨーロッパ人が大航海時代を経て入植したあらゆる土地で、このような凄惨な虐殺が行われました。
インカ帝国を致命的に追い込んだのは、大陸の白人が持ち込んだ病原体に対して、現地の人々は免疫を持っていなかったからだと言われています。
アメリカ大陸の先住民がそれぞれに信仰する神々に祈ろうと感染によって死に絶え、私利私欲のままに虐殺と迫害を繰り返す白人が病気にかからない様子は、「白人こそ神に選ばれているからだ」と信じたことでしょう。

私は、この出来事を鑑みるとさすがに「神はいるのか」と思ってしまいます。
ヨーロッパ人が侵略と入植と奴隷制を拡大しなければ、今の世界はもっと多様性があったのではないでしょうか。
日本だって、西欧列強に加わらなければ数多の戦争を経験せず、現在のようにアメリカから属州扱いされていなかったはずです。
反面、西洋文明の持つ物質主義によって規格性のある便利な世の中になったのも事実ですが、その代償の大きさを考えずにはいられません。

海外のスピリチュアリストほど「神々」という概念を使わず、「宇宙人」という表現で高次元存在を語るのは、一神教であるキリスト教に対する感覚的な後ろめたさがあるからではないか、と私は邪推してしまいます。
ユダヤ教の聖地エルサレムのあるイスラエルが起こす戦争によって、第五次中東戦争勃発の危機にあり、まして世界大戦の口火すら切られようとしています。
ユダヤ教からするとイスラム教は邪教であり、一神教だからこそ絶対神が二柱いてはならないのです。

日本には「八百万の神」がいて、仏もいればキリストもアラーも天使も精霊もいます。
しかし一神教の世界観では、多様性のある霊的世界を想像しにくいのではないでしょうか。

私は高次元存在を「宇宙人」と表現しても何の問題もないと思います。
しかし、「神」という人間の上に立つ絶対存在があるからこそ、人間としてのタブーや真に目指すべき理想が設定できるのではないでしょうか。

これまで、一神教を主軸にした帝国主義が世界を形作ってきました。
北米大陸で迫害された先住民族の神も、日本の八百万の神々でさえ物質文明の下では、無きもの同然にされてしまいました。
「神が本当に存在する」のなら、そもそもこんな理不尽な世にはなっていない、ゆえに神など存在しない、そう言われても納得せざるを得ません。

しかし私の感覚では、神様の世界も一枚岩ではないようなのです。
それぞれの神様に個性があり思惑があり、最終的な目的は一つなのでしょうが、微妙に噛み合わない部分も見受けられます。
日月神示において、神界で起こったことは現界で起こると書かれており、シルバーバーチの霊訓にも霊界で起こったことが人間界で起こる、と書かれています。

つまり、私たちが神様を信じられなくなるような理不尽な出来事は、神様の世界で起こったから現実の世界に立ち現れている可能性があります。
だから私たちの信じる日本の神様は、これまで何らかの理由で思うように動けない状態だったのかもしれません。
もっと何か大きい意志の力と、邪悪な手札が通用する環境にあったために神々でも押さえつけられていたのが、これまでの世界だったのだと思います。

日月神示では、「誤った岩戸開き」によってそうなった世界を改めるために、「三千世界の大洗濯」が行われると書かれています。
三千世界とは、神界、幽界、現界を指し、幽界とは「幽り世」のことで私の言う霊界です。

こうして地球は実際に次元上昇を果たし、「精神界」とも言うべき神世を作る気場が完成した今、新たな世界が始まろうとしているのだと思います。
これまで、北米大陸の産土神はどういう目で白人たちをご覧になられていたのでしょうか。
そして、日本の土地を何万年も守ってきた八百万の神々は、現在の日本の国土を眺めてどう思われるのでしょうか。

それは人間には考えたくないことかもしれません。
しかし、この変化は世の中を元に戻し、浮かばれるべきものが浮かばれるためには必要なプロセスだと思います。
これまで、どれだけ無垢に生きようとしてきた人々が虐げられ食い物にされてきたのでしょうか。

それは人間が人間を支配する世であったからであり、人間の上に神がいなかったからです。
しかし、これからは違います。
やはり人間には、神様が必要なのです。

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「嫉妬」について

楽太郎です。

6月21日の夏至を前に、「追い込み」に近いものを感じています。
「憑依」の連鎖を断ち切るために霊線を解いていく作業は、やはりこの時期に必要な工程だったのは間違いありません。

正直、思ったより火星獅子座の脱却の影響がそれほど決定的ではなかったようなのですが、霊障のアプローチがまた変わって来たのを感じています。
お祓いとは何か」でも書きましたが、この霊線というものがポイントで、自分の心にある縁が良いものも悪いものも引き寄せます。
すでに次元上昇した世界において、「因果」という霊的な法則は原因から結果までの時間的距離が縮まっているのです。

人間の社会はほぼ人治で成り立っているので、多少この因果を意図的に歪めることができます。
お金や権力があれば人を動かして結果を握り潰したり、事実をもみ消して最初からなかったことにもできるのです。
しかし、それは因果律の発動を遅らせることができるだけで、宇宙の法則を変えているわけではありません。

人為的に歪めることのできる因果も法則から逃れることはできず、力が及ばなくなれば自ずと因果律は発動してしまいます。
以前ならば永久に揉み消せたような著名人の不祥事が明るみに出て、業界だけでなく社会全体が揺らいだように、人治の世界にも限界が訪れているのです。
それは神や宇宙の力が強まってきたことの証であり、今後ますます強まっていくはずです。

奇しくも、良いことも悪いこともすぐに現象化しやすくなったことで、自分の心にその原因があれば現象を引き寄せやすくなります。
仮に引き寄せてしまう何かがあるとしたら、その原因をしっかり見定める必要があります。
人の心にある疾しさは、幽界の下層にある悪意との因縁が生じ、それは当然私の心にもあります。
従ってこの部分を浄化しないことには、永遠にこの悪意から逃れることはできません。

意外と、誰しもこういった「疾しさ」を抱えながら、その悪意を無意識に隠蔽するため自分の闇には気づけないものです。
顕在意識では、自分があたかも浄化が進んでいて心に疾しさがないと思っていても「自分の心は清らかだ」という思い込みがあるからこそ、それが見えないこともあると思います。
「争いごとは嫌だ」とか、「あの人は未熟だ」とか自分が安定した状態にあるために他人を忌避し、そこで起こる嫌悪に関しては「自分の波長を高く保つための正しい反応だ」と考えがちです。

しかし、ここに潜む嫌悪感にこそ他者に対する対立軸があり、他人を蔑み忌避する薄暗い感情が横たわっています。
例え嫌悪を押し殺して波長を安定させても、それでは浄化された高い状態の心とは言えません。
そこに気づかない限り本当の浄化には至れず、またあまりに足元の見えないところにあるが故に誰もが陥りやすい闇なのではないでしょうか。

私は最近、この闇が自分が思うよりも遥かに大きく、また根深いものであることに気づきました。
ただ、自分の心の底で抱いている分には自分が損するだけなので構わないのですが、もしこれが一旦表に出てしまったら取り返しのつかないことになっていたと思います。

私の弱点はだいたい義憤として現れることが多いのですが、その義憤も自分の歪んだ感情を理屈にしただけに過ぎないものです。
己の劣等感や嫌悪感を、あたかも社会正義であるように正当化して、嫌悪の対象が悪であるかのように語る癖があります。
それらは基本的に、自分にとっての都合だけで善悪を決めているに過ぎません。
ここに無自覚であればあるほど「正義」や「信念」は排他的になるため、危険なのです。

私は、先日のブログで「国内のニュースは腹が立つから見ない」と書きましたが、他に見ないようにしているのが、国内のエンタメコンテンツです。
私もクリエイターの端くれですから、思想もありますし技術的に作品の良し悪しは考えます。
しかし、それ以前に近年のコンテンツに対する忌避感には、劣等感や嫉妬心も多分にあると思います。

私は長年やっているわりに無名の作家ですし、むしろ最近わざとキャリアを巻き戻すことさえしました。
それは必要に駆られたとは言え、決して口惜しさがないわけではありません。
人気があって勢いのある作家に対して嫉妬心は当然ありますし、「なぜ彼らのようになれなかったのか」と残念に思う心もあります。

ただ、ここで抱く劣等感は「自分が望む状態にない」ことの自覚から起こるものです。
それは私の意識があろうがなかろうが起こる感情であり、つまりは「自分がうまくいっていないから羨ましい」という動機なのです。
仮に自分が上手くいっているという自覚があるならば、成功している人や優秀な人を眺めても自分と同じかそれ以上に見え、尊敬すらできるでしょう。
まして、その違いを「個性」と認め協力を要請したり、共存共栄の道すら模索するはずです。

しかし、ここに不満が生まれると、どうしても自分が正しく相手は間違っているという理屈をつけたくなります。
相手がいかにも才能があり、幸運で、若くて、性格が良く、良い生活をして、精神的に豊かで、健康で、平和な環境で、お金に恵まれ、良いところに住み、友人に囲まれ、温かい家庭もあり、異性との付き合いもあり、社会的な評価を得て、確かな将来性もある、そんな風に見えてしまいます。
そんな人が自分をさて置いて幸せになっていくのが妬ましいから、どうにか間違っていることにして、あたかも不幸になる道筋を歩んでいるように考えて溜飲を下げたくなります。

しかし、その相手が例えそうだったとしても、自分が相手の不幸を望み糾弾し、足を引っ張ったところで自分の状況が良くなるわけではありません。
私は、この感情が全くないと言ったら嘘になります。
自分よりも若くて新進気鋭の作家が成功し、自分の作品よりも遥かに良い傑作を世に出しているのを見て、心が揺らがないはずがありません。

こういった状況は、絵描きでなくても誰にもあることでしょう。学生でも会社員でも、ましてや子供にすらある、誰しもが持つ嫉妬心です。
実は、これに対する処方箋は「自分も負けないように頑張る」ことではないのです。
負けないようにいくら努力したところで上には上がいますし、それどころか自分にない部分は全て羨ましくなるのが人間だからです。
全ての要素を兼ね備えることは実際に不可能で、いくら完璧人間になれたとしても完全な達成感に至ることはできないでしょう。

では、この無限に湧き出る嫉妬心に対してどうしたら良いのでしょうか。
それは、「自分が嫉妬している」ということを絶えず自覚し続けることだと思います。

人間は、無自覚なことは死ぬまでやり続けてしまう生き物です。
どんな癖も病気も、とりあえず自覚しないことには対処しようがなく、自然と良くなることは稀です。
これは人格に対してもそうで、例えば「自分は嘘をつかない」と思っていても、嘘をついている自覚がないだけで実際に嘘つきな人はたくさんいます。

まず、このスタートラインに立たなければ話になりません。
ただ、「自覚する」という作業を続けることで、徐々に改善も対応力も深まってくるものです。
私が他の絵描きを見て、「この人は良い絵を描く、悔しい」と思った瞬間、「どうせこいつは消える」と思いたくなる心が浮上する前に「ああ、俺は嫉妬しているんだ」と自覚すれば、「この人は良い絵を描いて羨ましい」と素直に認めることができます。
この心のプロセスを歪めないように真っ直ぐ元に戻すだけで、嫉妬心は正しい形でモチベーションに繋げることができるのです。

これは、「嫉妬しないようにしよう」と思うよりもずっと精神的には健全な考え方です。
自分の負の感情は抑圧してもかえってストレスになるだけで、負荷をかけたところで不満の種が消えて無くなる訳ではありません。
むしろ、負の感情はきちんと表に出してあげて、口や手に出る前に心で受け止めるだけでわりと抑え込めるものです。
これは実際に勇気がいることなのですが、痛みを伴うからこそ、この心理機構に向き合える人はあまりいません。

大抵の人は嫉妬心に無自覚で、感情を歪めた結果もう解くことができないくらいに絡まり、雁字搦めになる人ばかりです。
実は、世の中で狂っていく人ほどこの術中にハマって抜け出せなくなるのです。
「他人が羨ましい」という気持ちは、自分が今の自分に納得がいかないからであり、自分が欲しいと思う状況が作り出せないことが自ずとわかるからこそ、その先を行く人が輝いて見えてしまいます。

「隣の芝生は青く見える」ものですが、大抵の場合は自分の庭の芝生も十分青かったりもします。
もしかしたら、私が他の人を羨ましいと思う時、自分も誰かから羨ましいと思われているかもしれません。

自分にはないものを欲しがるのが人間というもので、自分が違う状況で同じことをやったら同等に上手くできるかもしれず、そうならないのは自分がそうするつもりがないだけだったりします。
私には私の事情があり、やるべきことがあるからこそ違う道を選べないとか、個性や信念があるからそうなれないだけのことを、真剣に嫉妬するべきではないのかもしれません。

そうして当たり構わず羨ましがるのは、どこかしら「不幸感」を抱えているからです。
自分が最高に幸せだと思い、満足していたら他人のことはどうでもよく見えるものです。
だから問題にすべきなのは自身の心の煮え切らなさであり、自分の環境に対する不満であり、そう言った納得がいかない部分を突き詰めてみることです。
これは思ったより難しく、勇気のいることです。
けれどこのプロセスを辿らないことには、自分の心の闇ときちんと向き合うことができません。

私は、その闇が思ったより大きく問題が複数あることに気づきました。
そのわだかまりを浄化しないことには、自分の悪意を芯から取り去ることができません。
これは一朝一夕ではできない作業ですが、どうやらこの道を通らなければならないようです。

「自分を正しく認める」というのは、考えている以上に難しいことです。
人生は思うように行かないのがデフォルトであり、不満を覚えない生き方などそう易々とできるものではありません。
けれども、どこかに必ず肯定できる道筋はあるはずです。

こんなつまらないことで躓くようでは、私を導いて下さる神様に正面から顔向けすることはできません。
「神世」というのは、ずっと志が高い世界なのだと人々に思わせなくてはなりませんし、「こんなものだ」と思われたら神様に恥をかかせることになります。

そのためにはまだまだ自分と向き合い、心を磨いていかなくてはなりません。

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かつて天使だった友へ

楽太郎です。

先ほど「お祓いとは何か」という記事を上げたばかりですが、少し話したいことがあります。

このブログをどの程度の方がご覧になられているかはわかりませんが、おそらくこの文章を読まれている方は私と同じ世界線にいます。
スピリチュアル界隈でこの数年トピックの中心だった「次元上昇(アセンション)」は最終局面を迎えています。
私が「分岐」とか、「神世に渡る」という表現にピンと来られない方も、自分には関係ないと思われる方に対しても、この文章を書きます。

このブログに辿り着かれた方は、明るい未来が待っている可能性が高いのです。

今が不安でどうしようもなくても、疑心暗鬼に駆られて身動きが取れなくても、関係ありません。
今抱えている苦しみは変化と手放しによるものであり、それは乗り越えれば良いだけのものです。
むしろ、乗り越えられるからこそあなたにその課題が与えられているのであり、課題を乗り越えるという一つの道が示されているのだから、難しく考えずに目の前の壁を乗り越えれば良いのだと思います。

「手放し」や「浄化」は、おそらく地球上に住む全ての人がいずれ、多かれ少なかれ体験することになるはずです。
その機会がいつか誰にも訪れるとしたら、自分で理解した上で先んじて出来るのならばやっておくに越したことはないと思います。
それは、後になるほど克服が難しくなり、立ち直りも難しくなる、そんな予感がします。

私がこんな話をしようと思ったのは、ここに来て諦めてしまった人がいるような気がしたからです。

ただ、世界線の分岐のゼロ地点に立ったくらいで、自分が明るい世界か暗い世界を選んだかなど自覚できる人は殆どいないと思います。
おそらく、これから世に言う5次元世界、私が言う「神世」にアクセスする人たちの大半は、宇宙や神々のことに対してマニアックな知識を持った人たちではないと思います。

その世界に住む人々はこれからの時代の中心になる世代であり、決して占いや宗教に精通した人々ではないはずです。
なぜなら、神々は自分たちが前面に出てくることを必須とは考えておられないように思えるからです。
むしろ時代の中心になる人々は神や宇宙を特に意識しない、それでいて天然のスピリチュアリストであり、天然であるからこそ自らの魂と繋がり神の声を聞く、そんな人々であると思います。

だから、昨今のスピリチュアル界隈にあるような共通認識が教養となる時代ではなく、神の意志を自分の心に宿す人々が自由に作り出す、真の多様性の時代になっていくはずです。
その世界において最も重視されるのは「魂の質」だけであり、誰もが魂を見通せば嘘偽りが通用しないからこそ、素直さや正直さが尊ばれると思います。

その世界に息づくのは、これから生まれてくる子供たちだけでなく、これまでを生きてきた老若男女も可能であり、その資格を得るためには本来の素直な心に戻らなければなりません。
素直な心とは、邪念も余計な思考もない魂からの反応であり、子供の頃に当たり前にあった感覚そのものです。

その変化を促すために、私たちは神々から気づくきっかけを与えられて来ました。
この沈んでいく世の中も、いつまで経っても「これで良い」と思っていたら、次の時代を作ろうとはしないでしょう。
現に、「何も変える必要はない」と思う人たちがいることで、より世は行き詰まりを見せています。
この状況を見て「変化が欲しい」と思う心を、神々は待ち望んでいたのです。
そして、その気づきを受け入れた人には道が開かれています。

この道を進むために、辛い判断を要求されている方もいらっしゃるでしょう。
変えたいし変わりたいけど何をしたらいいかわからない、と思われる方もおられると思います。
その迷いを感じられたなら、自分の心の奥底にある熱い感覚に問い質してみて下さい。

私は、最近になって昔のことを思い出します。

近所に駄菓子屋があって、その店のおばさんはよく困り顔で私を諭してくれました。
大人たちは、子供たちが喜ぶように安心するように色々なことを考えて、私たちに全てを惜しみなく与えてくれました。
あの頃の大人たちはとても頼りになったし、私は安心して子供時代を過ごすことができました。

その経験を、今でも感謝しているのです。
反面、自分がそんな大人になれたのかと問うと、決してそうではありません。
残念ながらあの頃のような、頼りがいのある大人にはなれませんでした。
けれども、これからの時代は違うかもしれません。

今を生きる子供たちのことを思えば、とても不憫でなりません。
そして、これからさらに激動の時代を生きることになるはずです。
私はずいぶん牧歌的な子供時代を過ごした自覚があるので、余計に子供たちを気の毒に思い、何とかしてあげたいと思ってしまうのです。

ただ、現代の子供たちはあえてこの時代を選んで生まれてきた、そんな気がします。
そんな大変な時代に子供たちを守る親世代も、きっと何かしら天命があるのだと思います。
新しい時代、新しい国にするために、あえて負債を背負って生きていく人々がいます。
私は、そう言う人たちの中にこそ新時代のキーパーソンが隠れているのだと思います。

かつて、私が出会ったたくさんの若者たちは、純粋で希望に溢れていて、野心家でちょっとバカっぽい人たちばかりでした。
そう言う人たちほど打たれ弱く、世間の邪悪さに耐えきれず自分から純粋さを捨ててしまったり、病んでどうしようもなくなってしまいました。
彼ら同世代の大半は腐ってしまったのも知っているのですが、それでも私は待っているのです。

あの頃、目をキラキラ輝かせて夢を語っていたのは、単に自分が有名人になりたいだけではなく、自分の理想を叶えることにあったはずです。
その夢を再び胸に抱いて、彼らがまた目を輝かせる日を私は待っているのです。

友よ、僕たちはかつて、あんなに天使みたいだったじゃないか。

悪魔の作った時代は終わるのだから、天使に戻ってやり直そう。
私は、それだけを伝えたいのです。

これからを生きる子供たちに、狼狽える大人たちの姿でなく、子供の頃に見たしっかり自分の足で立つ大人の姿を見せるべきなのではないでしょうか。
そのために、大人として優柔不断な姿はどうしても見せられません。
では、どうしたらいいのか。

本来の自分に還ろう。
今からなら、きっとそれができる。

別に私の話を信じられなくても構わないのです。
ただ、その心に問い質してみて欲しいと思います。

これからどうなるのか、どうしたらいいのか。
その答えはあなただけのものです。あなただけのものだからこそ、あなた自身で判断してもらいたいのです。

私は、目の輝いている大人を見たくなります。
あの頃のように、無邪気なバカたちともう一度出会って、夢を聞いてみたいのです。

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「怒り」を捨てるな

楽太郎です。

人伝に聞いたのですが、政府が一律2万円の給付を行うそうです。
というのも、私は国内情勢に関してはあまり見ないようにしていて、その理由は「腹が立つから」です。
この国のために、私なりに考えて日々行動していますが、あまりに出鱈目なことばかり罷り通るのを見ると、正直耐えられなくなります。

私を含め、日本人の一人ひとりがいくら良心を痛めたところで、多数決の良くない部分で社会は変わっていきます。
自民党が小手先で国民にバラ撒きをすれば、低下した支持率も多少は戻るでしょう。
そのカラクリが見え透いていたとしても皆お金は欲しいでしょうし、おそらくどう足掻いても結局は自民党の思惑通りになります。

こうして全てがなし崩しになっていくのを私はただ見ているしかないですし、周りの誰もが疑問も持たずにただ流されていくだけです。
私はこの状況には本当にガッカリしますが、ここで愚痴を言いたいわけではありません。

この国がここまで狂ったのは、おそらく日本を取り仕切る神々のご計画のうちでしょう。
それは日本を一度打ち壊す必要があるからであり、立て直した国を世界の中心に据える意図があるのだと思います。
ただ「日本はどこで間違えたのか」を考えると、おそらくいつからとは言えないほど歴史を遡るはずです。
私は幕末期と明治維新あたりでやらかしたのではないかと個人的に思っているのですが、ややもすれば稲作伝来以降、三千年来の因縁かもしれません。

この国に「国家」という観念が根づき、権威が人々をまとめ上げていく過程において、人間が国家という巨大な力や富を扱いきれた時代はありませんでした。
結局は、中央集権内部の権力闘争でいがみ合い、権力者同士が覇権を取り合い、肥大化した自己顕示欲によって対外戦争を仕掛け、その悪癖に国民はずっと振り回されてきました。

そして、今も尚そうなのです。
ただ、この歴史が遥か未来の人類にとって、「学びの期間だった」と顧みるために起こるのだとしたら、これからを生きる私たちはそれを学びに変えなくてはならないのです。
「学ぶ」ためには、正解を知らなくてはなりません。正解を知るということは、誤りも知るということです

だから、そのご意志を神々から受け取っている人ほど、今ある状況に胸を痛め混乱するでしょう。
私も、あからさまに人々が何も考えずに崖に進んでいく様にはさすがに動揺しますし、それを止める手立てがないことには辟易します。
それでも、頭の中では「これは必要なプロセスなのだ」と言い聞かせるのですが、どうも心が追いつきません。

私は、これは本当にどうにもならないことなのだけれど、自分の気持ちの面だけでもどうにかしたいあまり、「国内報道を一切見ない」という日々を送っています。
それも良いアイデアかと言えばそうでもなく、実は本当の問題は日本にあるのではなく、この現代社会を見て「腹が立つ」という私自身の感情にあるのかもしれません。

「アンガーマネジメント」という心理学講座が注目を浴びて久しいですが、確かに「怒り」という感情は、抱かないようにするほど人生も人間関係もうまくいくのは事実だと思います。
人間が経験するだいたいの失敗には「怒り」があります。
それを表には出さずとも腹の中で抱えていたり、その感情を無意識に抑圧するから変なことになってしまいます。

だから怒りは持たないに越したことはないのですが、普通の人間が社会生活を送りながらそこまで達観できるものなのか、私にはわかりません。
「怒りはない」と自分で思って感じたとしても、それが単に意識に登って来ないようにしているだけのパターンも多分にあるはずです。
そもそも喜怒哀楽は人間に本質的に備わっている心理機構ですから、いくら社会に生きる上で都合が悪くてもなかったことにできるとは思えません。

ただ、考え方としては確かに「怒り」が湧かないようにする方法はあると思います。
例えば、ある日家の前にたくさんゴミが捨てられていたら、「誰がやったのか」と腹立たしくなりますし、もしかして自分の嫌いなアイツがやったのでは、とまで考えます。
これはゴミが捨ててあった場所が「自分の家」だから腹が立ったと言えます。
仮に、このゴミが自分の家の前ではなく他人の家とか、自分の通う学校とかならそれほど怒りは湧かないでしょう。

つまり、「自分がされた」という被害意識によって怒りは湧いてきます。
全く知らない他人の家なら「お気の毒」と思いますし、学校の前なら「他の人も同じ目に合った」と考え怒りもだいぶ相殺されるはずです。
ゆえに怒りの本体は「自意識」に宿り、自我があるからこそ自分に対する不利益に反感を持ちます。

だから人間が怒りを覚えるのは、それに「自分が関わっている」という意識があるからです。
日本人なら、神社に落書きをしてはしゃいでいる外国人を見て憤る人は多いでしょうが、土地の水資源が一企業に握られて住民の飲み水がない国があっても、それほどの怒りは湧かないはずです。
つまり「自分に繋がりがある」と思えることほど、怒りという感情を持ちやすくなります。

これは「自分が所属する」だけでなく「自分が好きなもの」にも通用します。
去年起こったロサンゼルスの山火事に関して「裏の事情」ばかり私は気になっていたんですが、オーストラリアで大規模な森林火災が起こった時、私は火から逃げ惑うコアラを見て胸を痛めていました。
結局、人間は自分の見たいものだけに意識がフォーカスするようにできているので、「正義の怒り」なるものがどれほど絶対かなど疑わしいのです。

だから、日本の現状を憂いあまりに身勝手なことばかりする人たちに対して腹が立つのは、それだけ「日本」を自分のことのように思っているからです。
私が日々のニュースや誰かの言動を見て苛つかないために、この「自意識」を捨てれば良いのかもしれません。
ただそれでは、怒りを失くすために日本人としてのアイデンティティや愛国心を手放すべきなのか、という話になります。

これに関して、私の結論としては「怒りは捨てなくていいし、愛国心も捨てなくていい」と思います。

これからの日本に必要なのは、この国のために本気で怒ることのできる人々です。
しかしその怒りは、決して暴力や批判に向けてはいけません。
怒りは、発散したら消えてしまうものです。SNSを見ればわかるように怒りの感情が一時的に発散されてしまえば、また同じ怒りを同じ手口で発散すれば良く、それによって刹那的に溜飲を下げているだけで物事は決して改まらないのです。

だから本当に必要なのは、怒りを信念に変え実践のエネルギーにしていくことです。
怒りの力も世を変える原動力に変えてしまえば、決して負のエネルギーにはなりません。

無抵抗主義を平和主義と履き違え、非暴力を無抵抗と勘違いした日本人は、今自分たちが虐げられながら嘲笑われていることに気づいていません。
それに気づいた人々が正しく怒ることで、この迫害の時代を終わらせることができるのです。
そして、その志には「日本」という国家観がなくてはなりません。それによって、人々は団結することができるからです。

ただし常に怒りを抱え、目鯨を立てながら腐心して生きるべきではありません、
やはり、どうにもならないことはどうにもならず、なるようにしかならないことは実際たくさんあります。
だから大事なのは、自分の要領を遥かに超えた事象には立ち向かわないことだと思います。

例えば、政府や官庁が諸悪の根源だとして、そこがいくら政治活動をして良くならないのであればと、究極的手段が頭に過ぎる人も出てくるでしょう。
しかし、これまで人類の歴史において「テロリズム」が理想社会を作り出したことはありません。
真の問題は、この世界を作り出している人々の心にこそあり、人々の心を変えない限り形だけを変えようとしてもうまくいかないはずです。

ゆえに政治活動に腐心することではなく、自分がきちんと日々を生きながら正しい心で出来ることをやる以上のことはないのです。
国家の長官を変えるために動くよりも、地元で変な政治家に権力を与えないために票を投じることです。
その小さな積み重ねがなければ、どんな実践も理想も絵に描いた餅なのではないでしょうか。

「怒り」という感情は、表に出さなければ出さないほど良いのは確かだと思います。
しかしその感情を押し殺して不安定になるより、強い感情をバネにして正しい動機に変えていくことです。
その心理的昇華によって、怒りという強いエネルギーは静かに世を良くするために回り始めるのです。

私たちは、悪いイメージによって「悪いもの」を作り出してしまいますが、それが世にあるのはどこかで必要になったからです。
その「悪いもの」も、立場と機会が違えば「良いもの」になったりもします。
「怒り」もそういうものであり、まして今の日本のあり方もそうなのかもしれません。

今が酷く「悪い」と思えるこの国も、ある時を境に「あの頃があったから今がある」と言えるような、そんな日のためにあるのかもしれません。
この災いが立て直しのためであり、陰謀が悟りのためにあるとしたら、その負のエネルギーも正しいエネルギーに変えられるはずです。
おそらく私たちは、今それを試されているのです。

全てが神々のシナリオだとしても、慢心して問題から目を逸らしていれば良いものではなく、かと言って目鯨を立てて世を批判して回れば良いというものでもありません。
その難しい匙加減の中で、自分の感覚や感情を少しずつ実践に変えて世に働きかけていく、それが一番大切なのだと思います。

怒りを抑え、尚且つ怒りながら、正しく怒りを発散させて冷静沈着に生きていく。
その賢さこそが、人々に求められています。

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虚構の世界を抜け出して

楽太郎です。

一昨日の満月もすごいエネルギーの切り替わりでした。
私は「神世の気場と肉体レベルでの連結が起きている」と体感を述べましたが、この見方でほぼ間違いないと思います。
エーテル体の階層が一段上昇したことで憑依や霊障は遠のき、肉体のエネルギーが高まってきています。

ただ、あまり馴染みのない気の高まりなので、この血の気をどう抑え込んだら良いのか戸惑います。
多動的になりすぎて、一つのことに打ち込むには魂が荒ぶりすぎるのです。
その傾向はまだ許せるのですが、干渉が遠のいた憑依体はますます悪意と怒りを増大させながらアプローチしてくるのを感じます。
体感的な影響は減少しながら、闇の度合いが高まっていることで相剋状態にあるような気がします。

こういった憑依体の妨害を肌で感じるたびに、これまでの世界は「神に仇なす存在」が作り出した人間の時代だったことをつくづく痛感します。
この世界の中では、「お金とモノ・目に見えるステータス」があれば人々が靡くシステムだったので、人生として見れば単純でした。
特に自分自身を内省し確立しなくても、学歴と資格さえ持って組織の中でうまく立ち回れば豊かな暮らしができたからです。

オリジナルの個性を発揮せずとも、周りと同じ価値観と生活習慣さえ合わせられたら、深く考えずとも特に劣等感も違和感もなく生きてこられました。
ただ、それは「周りに流される」ことには変わりなく、周りが間違っていたら自分で方向転換することはできません。
そして、いつか間違いに気づいたところで周りの人々も同じように過ちを犯した姿を見て、安堵し傷ついた者同士で肩を寄せ合って生きることでしょう。

これまでの時代は大きな破綻もなく、それでも十分通用していたのです。
しかしこれからの時代、その考え方では致命的になり得るかもしれません。

先日のBloombergのトピックですが、生成AIの処理装置を製造するNVIDIAのファンCEOがEU向けに大きなプレゼンをしました。

NVIDIAのファン氏、A Iの処理速度は2年で10倍に

6月13日現在、ダウ平均は43000ドルで推移しています。
これはトランプ関税が紆余曲折を経てほぼなし崩しになりつつあるためで、市場にその安堵感が広まっており米国株が買い戻しされているからです。
トランプ大統領はSNSを通じてインサイダーめいた発言をしているため、その言葉をほぼ鵜呑みにして市場が動いています。
トランプ大統領も米国株が下がるのは不利益であると一応認識しているようで、そのため海外からの投資は引き留めておきたいのでしょう。

現在、S&P500の時価総額増加分の54%がマグニフィセント7の比率です。
つまり、今の米国株の時価総額の割高感は、ほぼハイテク分野で成り立っているのです。
その要であるNVIDIAは先のニュースで紹介したように飛ぶ鳥を落とす勢いに思えますが、このNVIDIAは生成AI以上に曲者で、長らく循環取引疑惑がある企業です。

循環取引とは、複数の企業などが互いに商品の転売や業務委託などの相互発注を繰り返して架空の売上高を計上することを言います。
日本人の感覚では商法違反になるのですが、不思議なことに米国において循環取引は違法ではないのです。

NVIDIAが主な取引相手とするのはGoogleのAlphabetやMicrosoft、Metaなどのハイテク企業です。
NVIDIAはこれらの企業にGPUを何十万個も販売し、AIのデータセンターに納品します。
取引先のハイテク企業はNVIDIAにサービスなどの名目で対価を支払いますが、どうやらここに粉飾決済の疑いがあります。

NVIDIAのGPUを購入した企業ほどキャッシュフローが伸びていないにも関わらず、設備投資費が爆増しておりどう考えても赤字産業の生成AI事業で減価償却が賄われているはずがないのです。
従って、GPUの購入額と同額の利益を互いに持ち回って、これらのハイテク企業の好況感が演出されている可能性が高いのです。

しかし、こんな世界的なユニコーン企業がグレーな取引でアメリカ株式市場を牽引しているなど、絶対に明らかになってはいけない案件です。
だからこそ「生成AI」が2027年にシンギュラリティを起こすとか、AGIが誕生してAI革命が起きるとか、これから情報処理が10倍になるとか最もらしい宣伝をしなくてはならないのです。

しかし、なぜ学術的に理論が確立されていない開発が現場の開発段階で成功するのか、そもそもシンギュラリティにおける電脳の「意識化」の定義が形而上学的に可能なのかとか、厳密に説明できる状態に未だ人類は到達していません。
しかも、AGIは生成AIとは全く異なる構造で成立するものであり、全世界のサイトをクローリングし知財を機械学習しただけで「思考している」と言い切るタイプのレトリックでは説明できないものです。
だから、生成AIを世界中の電力を使って回しても理論的に汎用AIにはならず、せいぜい正答率が50%を超えるくらいでしょう。

現在の米国株はマグニフィセント7が一本槍で支えている状態ですが、そのカラクリは水面下で循環取引疑惑やポンジスキームなどの危うさを伴っているのです。
実はこうでもしなければアメリカは信用を維持できない財政にあり、国家の崩壊を防ぐために手段は選べないのだと思います。

先日、米国30年債入札で220億ドルに達したという報道があり、高金利が外国人投資家に評価されたと受け取られています。
去年までは金利が高く国債価格が下がっていても米ドルが高くなっていたので、外国人投資家がキャリートレードをして米国債を買っても損失は出にくかったのです。
今年に入ってから国債が低値になり米ドル指数も下げ始めたため、米国債投資は二重の損失を招きやすくなりました。

そして、現在は米国株と米国債と米ドルが同時に買われることで三者が正の相関でなければバランスが取れなくなっているのです。
つまり、株、国債、ドルの相関関係において逃げ場がなくなっていることを示しており、言ってしまえば全面高でなければ株も国債もドルも全て下がるという局面に入っているのです。

先日、ベッセント財務長官が今年に償還期限を迎える米国債利払いに対し「債務不履行はあり得ない」と明言しましたが、こう言明しなければならないほどアメリカの財務状況は危機的な状態です。
今のアメリカの経済状態は、これらのニュースを読み解いても身の振り方を考えていられないことがわかり、本当に末期的な状態なのだと思います。

ダウ平均を歴史的な統計から解析して「抵抗線」と呼ばれる大暴落を予測する指標が、最近になってアナリストたちから「1930年大不況規模の抵抗線に触れた」と分析されていたりもします。
少なくともこの3年以内に1930年代にあった大不況がアメリカに訪れることは避けられないように思います。
その経済的ショックは、ただでさえ政治経済共にガタガタの世界経済にトドメを刺すことになるはずです。

こういう話をしたのは、日本がアメリカという国に追従する限り、世界恐慌に巻き込まれる危険度は高止まりし続けるということです。
現在の国内を見渡して、この危機を打ち破るようなきっかけは何一つとしてないように思えます。
石破政権があれだけ支持率を下げても代替する勢力は皆無であり、仮にあったとしてもどうやって変革するつもりなのかビジョンは全く見えません。

私たちは、このまま無抵抗の状態で衰退と混乱の時代をすんなり迎えてしまうように思います。
しかし、スピリチュアルを少し噛んだ人なら、これまでの話が全て「シナリオ」のように感じてしまう方もおられるのではないでしょうか。
高次元の存在が人々に働きかけ、「経済至上主義の時代は終わる」と口酸っぱく伝えてきたのは、この世界の大変革に備えるためだと思います。

「空想の話だ」と思っても構わないのですが、米不足と物価高、給料は上がらず人手不足、働く意欲は全体的に低く、漂う不況感と停滞した空気、これを切り返せるような状況証拠があるのでしょうか。
冷静に、私たちの身の回りにあった日用品のクオリティは下がり、便利なものはどんどん姿を消していき、美味しいものは高い上に店に並ばなくなりました。
私には、残念ながらこのまま沈むシナリオしか見えません。

かと言って、ここで暗い話がしたいわけではなく、これは「時代が刷新される」上での通過儀礼と考えれば良いと思います。
新しいものが生まれ育まれるには、古いものが枯れて朽ちていかなければなりません。
今はどこもビッチリ古いもので塗り固められていて、新しい雑草の一本でも生える隙間がありません。

その証拠に、人々は知っているものにしか興味はなく、昔からあるものにしかお金と時間を使いたがらなくなって久しいのです。
この空気感が壊れてくれないと、変化の風すら起きません。
アメリカ不況に始まる世界秩序の崩壊は、決して悪い意味の変化だけではないと思います。

アメリカの帝国支配が終わるとしたら、私たちが生活に何気なく使っているものも変わっていくということです。
スマホ、PC、オンラインサービス、エンタメ、決算システム。これらのインフラはアメリカという国家が仕切ってきたものです。
その企業が立ち行かなくなり、仮に手のひらを返すようなサービスを始めたら、それでも歯を食いしばりながら私たちはサブスクを払い続けるのでしょうか?

私は、生活に欠かせないとさえ思う「当たり前」を見直す時に来ているのではないかと思うのです。
「今は仕方ない」と思ってやることでも、仮に「良いことしかない」と思っていることでも、良くない流れに加担したり、悪の片棒を担いでしまうことはあるものです。
継続することで暗黙のうちにカルマを貯めることになるルーティンもあり、その習慣はいずれ手放さなくてはなりません。

私が今こうして記事を書くために使っているスマホも、アメリカという国が存立する上で都合良く設計されているものです。
シリコンバレーに拠点を置く企業が独自のアルゴリズムとポリシーで恣意的に運用し、使い勝手も稼ぐ手札も握られている端末を、私たちは「自由の象徴」として嬉々として使っています。
私はアメリカの製品を捨てようとか不買しようと言っているのではなく、徐々に代替する術を見つけ手に入れ、「なるべく離れていこう」という話をしています。

そして、これまで外国資本に流れていた経済を国内や信頼感の高いサービスに切り替える、そうすることで自ずとリスクヘッジは完了するはずです。
いずれ資本主義経済が完全に終わるならば、文明社会への依存度を減らし、経済とは独立した生活圏を構築するための道筋となるでしょう。

今当たり前にあるものが、どこまで残るのかわからない時代が来るのです。
「革新技術は正義」と、鳴物入りで登場したAIBOは代替部品の再生産ができず修理不能になり、ペッパー君はリース料と維持費の都合で大量に倉庫に眠ることになりました。
今ではハイテク機器よりも人間を安く使った方が使い回しが効くことに気づいたため、外国人を大量に移民させています。

文明は、私たちが思うよりも万能ではなかったのです。

これまでの世界は、物質的に豊かな時代だったからこそ「便利さ」が最高の美徳とされましたが、その安直な考えは世に腐敗と搾取を蔓延させ、人々は首も回らない状態に陥っています。
この状況から解放される唯一の手段が「手放し」であり、強制的に引き起こされる「ブレイクスルー」だと思います。

それは現代を生きる我々にとって悲劇そのものかもしれません。
しかし、その苦しみを乗り越えなければ世界は正常化し得ないくらいに歪んでしまったのも事実です。
その痛みは決して不幸ではなく、人々に救済を促すための福音たりうるのです。

私からしてみれば、人々が何となく浮かない顔でぼんやり平凡に過ぎる日々を送るより、一度痛みを味わって全身全霊で幸福を味わえる世の中になれば、今よりもずっと救われる人は多いと思います。
その考えは誰かにとってみれば邪道であり、忌むべきものかもしれません。
しかし、このままどう転んでも人類は破局に向かうでしょう。

真の悪徳とは何か、その悪徳の下で得る安寧とは何なのか、私はそれを考えれば決して今のままが良いとは言えないからこそ、変革の時こそ私たちにとってチャンスなのだと思います。

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七難八苦を与えたまえ

楽太郎です。

「我に七難八苦を与えたまえ」という言葉を残したのは、戦国時代の山陰地方の武将、山中鹿之介(幸盛)です。

明治時代の教科書では、楠木正成と並び武士道の象徴とされた人物で、主君の尼子氏再興のために下野しても三度立ち上がり、毛利軍との熾烈な戦いに挑んで散っていきました。
この言葉は、仏教の経典「仁王経」に「七難即滅七福即生」とあり「困難とは幸福である」という意に基づきます。
山中鹿之介は、かねてより「自分が出会ったことのない困難によって自分を試したい」と語っていたそうです。

同じ言葉に、江戸時代の陽学者、熊沢蕃山が残した「憂き事の尚この上に積もれかし限りある身の力試さん」という和歌があります。
熊沢蕃山は備前岡山藩の改革を行いましたが、守旧派の反対に遭い退藩した後、幕政に対する批判を行いましたが、下総に幽閉されてしまいました。
この歌は、「困難がこれよりもっと降り掛かればいい、自分の限界を試してやる」という意味です。

困難は大抵の人が可能なら避けたいと思うものですし、仮に目の前に立ち現れても見て見ぬふりをして逃げ出す人もいます。
ただ困難とはきちんと向き合えば自分が成長するチャンスであり、克服する術を身につけるからこそ困難なことも困難ではなくなります。

最近、この期に及んで古い時代のエネルギーが行方を阻み、そういった圧力のような念を掻き分けながら進んでいる感覚がします。
新しい時代のエネルギーと拮抗している状態は、少なくとも11日の満月までは極大化するはずです。
この妨害は、以前のように人世に引き戻すエネルギーではなく、単に進行を阻むだけですが強力な逆風になっています。
今は相剋状態の最終段階であり、そのゴールはおそらく6月21日夏至、いよいよ神代の気場が完成する時を迎えます。

ここ数週間、私はずっと忘れていたような記憶が蘇っては、そこから沸き起こる感情と戦っていました。
これはこの時期特有の妨害のようにも感じられますが、ある見方をすれば「過去の自分との統合」であり、未練や罪悪感、後悔などの感情を乗り越えて新しい自分を確立するための試練とも考えられます。
この試練を乗り越えることで、過去の自分に感情的な区切りをつけ、新しい時代に合った新しい自分になれるのだと思います。

私の半生を振り返ると、人がしなくていいような苦労ばかりをあえてしに行ったようにすら思えます。
10代の頃は本の虫で、イーゼルより重いものを持ったことがないような内気な美術学生でした。
それが20代になって音楽を志し、同時にショーイベントにも携わり、人と殴り合うことも厭わないような体育会系に変貌し、全く逆方向の人生を歩み始めました。
なぜそこまで自分を壊して違う自分を探し続けたのか、今でも理由はわかりません。

この経験が自分に必要だったのかを今でも考えるのですが、もし自分がずっと10代の頃から絵を描き続けていたら、それはそれで今の自分にはなっていなかったでしょう。
あの頃のように草花に心通わすような繊細な心を持ち続けていたら、ある意味ここまでタフにはなっていないでしょうし、社会的な成功を手に入れていたら守りに入るような人間になっていたかもしれません。

そう考える時、大事なのは今の自分を肯定できるかどうかであり、仮に今の自分に認める要素がないくらい落ちぶれたと思っていたら、過去を思い出して自分の人生を後悔するだけだったはずです。
今でも落ちぶれてないわけではないのですが、こんな自分でも自分の知識や経験、実力やセンスに自信があるからこそ、これだけ冷静でいられるのかもしれません。
それは私が常に向こう見ずに行動してきたからですが、その経験が今頃になって自分の身になっていたことに気づくのです。

人は努力を嫌いますし、困難とは出会わないに越したことはないと考えます。

それは人間としての本質に近いと思うのですが、ただ人間は問題に直面し、それを乗り越えることで成長していく存在です。
人間の人格はそうやって磨かれていくものであり、成長できる課題から逃げ回っていたら、いつまで経っても考え方は幼いままです。
どんなに高齢でも「我良し」の人はいますし、歳を取っているから大人なわけではありません。

近年は、努力や勉強をせず成功を納めるほどクールだという風潮が広がったため、困難に前向きな考え方はものすごく嫌われます。
それゆえか、人生をとっくに折り返したはずの年齢の人でも、若気の至りが抜けてないような浮ついた感覚を変えない人もいます。
それは個性で構わないとは思いますが、人間として成長が止まるということは、自分の身の丈より大きな問題とぶち当たる機会がないということであり、挑戦も気づきも進歩も存在しないことになります。

霊界から見れば、この世は「刑務所」だと言う人がいます。

確かに、肉体を持ち生まれつき条件づけられた環境の中で、何一つ思い通りにいかない人生は何かの罰のようにも感じます。
私たちは肉体という「檻」の中にあり、自由はその檻の中にしかないわけです。
人間は魂の修行をするために生まれてくると言われますが、その艱難辛苦も刑期だと思えば納得が行きます。

しかし、私たち人間は神々から「分身霊(わけみたま)」を受け取った神の一柱です。
魂としては神に近い完全な形でありながら人間として生まれ落ちたことで、本来の魂の状態に「曇り」を受けてしまいます。
男に生まれたら魂の女性的な部分は眠り、女に生まれたら男性性は眠り、その人生で求めるべきものと対極の性質で生まれるとしたら、その魂の制約は心のシコリとして残ります。

そういった条件づけと現実社会の軋轢の中で、生まれる前には完全な輝きを放っていた魂も、どんどん曇っていきます。
あるいは、過去世を何度か経験しても取れないような曇りがあり、その汚れを拭い去るために何度も転生してきたのかもしれません。

そういった「魂の曇り」は、やはり自分自身の内面を磨くことで浄化され、本来の輝きを取り戻していくものなのではないでしょうか。
その曇りは、綺麗な布で拭く程度では磨かれず、研磨剤をかけてヤスリでゴシゴシ削らなければ磨かれないからこそ、人生には困難が付きまとうのかもしれません。
ゆえに、人生が思い通りに行かないのは魂を磨くチャンスであり、きちんと魂を磨こうとすれば人間として卓越していくことができます。
それが過去世からの「カルマ」の解消であり、そのために輪廻転生が起こっていると考えて差し支えないでしょう。

しかし、こういった宗教観は現代ではほぼ通用しませんし、よしんば何の苦労もなく死ぬまで悠々自適に暮らせるのが理想だと人々は思います。
それができるのは「力」と「お金」であり、それを手に入れてからが人生とすら考えています。
それならば、どんなに汚い手を使ってもお金を手に入れられたら良いでしょうし、どんな手段を使っても強力なコネを作ろうとなります。

そう言う人は、実際に世の中にたくさんいます。
ただ、そういう人が人格者に見えるかというと、そうではないでしょう。
やはり、人生の課題と向き合ってきた人の感覚や考え方は俯瞰的ですし、実感も伴っています。
人はそういう人に信頼を感じるもので、わりと肩書きで靡きがちな人でもいずれ気がつくのです。

こういった人生の課題に前向きに挑んできた人は、未来の不確実性に対しても前向きです。
だからこそ新しいことに挑戦して学び、さらに実績を積み上げていけるのだと思います。
これこそが人生の王道であり、この生き方なくして成長はありえません。

「我に七難八苦を与えたまえ」という言葉は、自分の実力を試すチャンスが得られることで、自分が成長する喜びを手にすることができる、という意味なのではないでしょうか。
ゆえに「困難を迎える」ことそのものが恵みであり、その恵みが「幸福」への道となるのです。
神から与えられし試練は、神様から捨て置かれるような人にはやって来ないでしょうし、成長と救済の手が差し伸べられるからこそ課題が与えられるとも考えられます。

神仏に祈る際にはただ願いごとを言えばいいものではなく、何かの課題に対する意志を表明し実際にそれに取り組むからこそ、それでは神様が願いを聞いてやろう、となるのです。
冒頭の山中鹿之介は、滅亡した尼子氏を再興したいという不屈の意志を持ち、その願いを成就させるためならどんな困難でも乗り越えてみせる、という誓いを神様に掛けていたのだと思います。

それほど強い願いだからこそ何度失敗してもお家再興のために立ち上がったのであり、現代人である私たちでも尚、その勇姿を知り憧れの眼差しを向けるのです。
それは実際に願いが叶ったかどうかではなく、生き様として人々に示唆を与えるからこそ、私たちの胸にこの言葉が響いて来ます。

私も人にはないような経験をたくさんしましたし、言ってみれば苦労人には変わりないのですが、だからこそ今さら大きな困難が来てもそれほど動じないかもしれません。
こう言えるのも自信の一つであり、経験が財産になっていると思います。

見た目としては誇れなくても、その真の価値は目に見えないところに現れる、そういうところで「困難」に対する不屈の精神は、私にとって一番の才能なのかもしれません。

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「日常」にサヨナラを

楽太郎です。

昔のキャリアが掘り起こされ、チャンスが到来してた件について、綺麗さっぱり清算しました。
今回の件で感じたのは、私が以前いた業界や使っていたサービスに何の思い入れも残っていないことです。
あれほどトップに登り詰めようと必死だったのに、今では別人のように感じます。

この心境の変化は喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか自分でもわかりません。
そして、当時使っていたサービスをアカウントごと消して二度と使わないことにしました。
そう決めたのは、この判断に後悔することはないだろうと思えたからです。

これまでの世界はもう続かないだろう、という感覚が確信に変わってきました。

私の地元も大型ショッピングセンターが潰れて、皆誰もがどこで買い物しているのか不思議になります。
少し離れたところにスーパーがあるだけで、街として機能しておらず、この不便さは田舎と大して変わりません。
10年前にはこういう地域になるとは想像していませんでしたし、残念ながらあまり長居できる土地ではないと常々感じます。

この形容しがたい不況感、息詰まる街の雰囲気、日本語ではない元気な声。
この状況をどうするつもりなのか誰もが答えを出せず、考えないようにしてスマホやTVの画面を見つめているように思えます。
とは言え政治に名乗りを上げる人物は何となくきな臭く、解決の道筋も見えないまま世の中が勝手に変わってくれることを願っている、そんな印象を受けます。

人は誰しも、「自分なんかには何もできない」と思います。

かく言う私もそうで、こんなブログを書いたり漫画を描いたくらいで何かした気になる方が烏滸がましいのです。
何一つ世を変えることはできなくても、これからの混沌の時代を生き抜いていけるために、自分をしっかり立て直してよしんば周りの人を励まし、自分の身の回りだけは健全な空間を作って生きて行こうと思います。

どうせ自分なんかとか皆そうだからとか、そう諦めて何も考えず何もしなければ、いずれ罪を犯しても言い訳をし、自分が同じ目に遭わされても何も言えないような環境に身を置くことになるでしょう。
そこまでして生きていたくないと思うならば、ますます生きてはいけないはずです。
周りがどうあれ自分が生きたいと願うなら、この世界に向き合わなくてはいけない時が来ました。

世はIT全盛の時代、これからは「風の時代」だからとSNSでうまく人間関係を構築し、バズってお金儲けできれば将来は何とかなる、と思っている人で溢れています。
生成AIがあれば自分に技術や知識がなくてもアイデア一つで成り上がれ、自分のセンスとタイミングさえ合えばチャンスは転がっている、と。
しかし、そんな考えは小学生から年配まで誰もが思いつき、誰もが実現できるレベルのことでどうやって成功するつもりなのでしょうか?

人々はビジネスを展開するにはSNSを利用しますが、そのサービスに広告費を出す企業はホワイトな組織ばかりではありません。
ユーザーもどこまで一般人かわからず、相手がBOTか外国の工作員、あるいは反社の可能性もあります。
SNSの運営会社は利益追求のためにディープフェイクや権利侵害やサイバー犯罪を取り締まるつもりはなく、大人でも安心して使えないようなアプリをどうして真っ当な活動に使えるのでしょうか。

そういったどこの馬の骨かわからないユーザーが、インプレ収益欲しさに運営サービスに登録し、何であれ話題になりさえすればお金が入る仕組みのどこに誠実さがあるのか疑問です。

私が活動する上でSNS、特にXを使わないのは、ビジネスをする上で「Xで私をフォローして下さい」と言うと「Xを何の疑問もなくビジネスに使う」と思われたくないのもあります。
現在の旧Twitterは正直言って「魔窟」としか言いようがありません。あの環境では純粋に交流するのも難しく、ユーザー登録を促すのもどうかと思います。
ビジネスにおいてブランディングは重要ですし、信用が大事だからこそ、安易にSNSを広めるリスクを考えざるを得ません。

今のデジタル全盛の時代を担うマグニフィセント7、Apple、Google、Microsoft、イーロン・マスク。
スマートフォンやタブレット、PCを支配する企業は、端末とプラットフォームを支配する限り、経済や市場の主導権はアメリカという国家に握られています。

アメリカはご存知の通り、国家破綻寸前の状態にあり、その巨体を維持するために全世界からお金を引っ張ってくるのに必死です。
現在のアメリカの株式と国債を何とか維持しているのは、マグニフィセント7が時価総額バブルを蒸しているからです。

アメリカが著作権侵害やディープフェイクなどの人権侵害、フェイクニュースを氾濫させる生成AIを全面推しする点について、デジタルデバイスがどれだけ悪用され治安や文化を混乱に陥れても自分たちの責任ではないと言い逃れでき、多少の社会的犠牲は国家存続と利益追求のためなら致し方ないと思っていても不思議ではありません。
アメリカが日本の不動産バブルを潰して経済発展を終わらせたように、アメリカからすれば日本は異民族の住む国外の属州に過ぎません。

私たち日本人がアメリカという国家の支配から自立しよう、とするのは想像以上に困難なことでしょう。
私たちの生活はもはや国際化し、海外からの輸入品や製品がなくては日常は成り立ちません。
アメリカや諸外国のサービスを優先的に使わないという選択もできますが、日本国内のサービスが劣化し、そのサービス網から一手も二手も抜きん出ている外資系企業のサービスは圧倒的すぎるのです。

日本の小売で手に入らない商品をほぼ全網羅するAmazonのサブスクに入会すれば、楽天市場では小売ごとにかかる送料が一括無料になり、また豊富なエンターテイメントを見放題にできます。
その便利さは類を見ませんが、実際にAmazonを使えば使うほど国内の実店舗のモノは売れなくなります。
郊外型大型ショッピングセンターのAEONが地方の商店街を壊滅させたように、巨大資本は産業の多様性に一石を投じる存在であり続けます。

もしこの先、これ以上経済や国際状況が悪化すれば、今こうして日常的に使っているサービスは今の感覚で使えるのか?という点が、私は気掛かりです。

私の地元のスーパーも、数店舗の運営企業が撤退を決めただけで地域住民は買い物すら困難になります。
近年、画像処理ソフトを展開するAdobeがAI実装を期にサブスクを高額化しましたが、その価格帯ではビジネスに支障が出るイラストレーターが続出し、業界が騒然としました。

どんなインフラであろうと、提供するのは企業であり運営は営利目的です。
どれほど綺麗な事業理念であっても、どれだけ地元の経済に貢献していても、儲からなくなれば潰れますし、企業が買収されたら終わりです。
なおのこと寡占企業であり、人々の依存度が高ければ高いほど手の平を返した時は危険なのではないか、と思ってしまいます。

私は最近、寂れていく地元の街を眺めながら、何だかんだ思い出のあるこの土地に愛着があったことに気づきました。
それでも何十年か見てきた中での変わり様と衰退感を思うと、何とかならなかったのかと感じざるを得ません。
その変化はどうにもならないことを頭で理解しながら、「日常」というものは当たり前に訪れるものではないことを痛感するのです。

この街が様変わりしたのも、少子化や長引く不況だけでなく東日本大震災があり、地方を離れた人々がたくさんいたからです。
建物は老朽化しインフラの維持が難しくなり、復旧するにもお金の巡りも健全とは言えませんでした。
そんな中でコロナの流行があり、観光地も商業も大打撃を受けたまま、元に戻ることはありません。

今あるサービスがこれからも永劫あるはずがないのは当然ですが、それは今を生きるからこそ繁栄が続くと錯覚します。
今当たり前にあるものは、「正しいから」今の世の中に溢れているわけではありません。
多少グレーでも、線引きされないラインで収益を上げているから市民権を得られるのです。

かつてCMをバンバン打っていた消費者金融や宝石ビジネスも人材派遣業も、問題はありながらも人々に受け入れられ、それでも黒い部分は黒かったから問題化しました。
後の時代だから「あれはダメだった」と言えるようなことは、時代の空気の中では誰しも口にはできないものです。

私たちが今の時代を変えたいと思い、実際に変えようとするなら今ある日常を自分で手放す勇気を持たなければなりません。
「動物愛護を徹底せよ」と言っておきながら、片手にシシケバブを持って活動することはできません、
そういうところをしっかりしていなければ、何をやっても片手落ちになってしまうでしょう。

私は、これからの活動をしていく上で、多少不利になるとはわかっていながら手段は選ばなければいけないと改めて思います。
人間としてどうあるべきかを問いながら、自分だけはと甘い行動を取ることはできません。
流れは変えられないにせよ、自分がエネルギーやお金を循環させる対象くらいは、きちっと弁えたいと思います。

これからの世を作っていくのは茨の道だと痛いほど感じるのですが、そうでもしなければ人々が黙って泣き寝入りするだけの国になってしまうでしょう。
正直なところ大人はどうにもならないと思います。ただ今の若者世代や子供たち、まだ見ぬ未来の子々孫々のためには何かを成し遂げなければならないと感じます。

日本に愛着があるからこそ、目の前で土地が踏み荒らされていくことが耐えられません。
私一人だけでもと、日々思いを募らせています。

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俺たちに明日はある

楽太郎です。
5月27日の新月以降、また新しい局面に入ったように思います。

自分の心の深い部分での統合が進み、同時に人世のエネルギーがより強固にまとまりつつあります。
外部からの干渉の形も変わり、距離を取りながらより強いアプローチに変わっているように見えます。

3月の春分から古い時代のエネルギー、人世からの妨害や引き戻しの作用が強く働いていました。
これは単に霊障を引き起こすだけでなく、昔の生き方や考え方に押し戻すきっかけとなるような出来事で身の回りに現れています。
結論的に言えば、これは神々からの試練というか抜き打ちテストのようなものなのですが、その現れ方はその人の一番弱い部分を突いてくるようなやり方のため、トラップとしては回避しづらいものです。

スピリチュアリズムに目覚め、これまで手放しや浄化に励んできた人でさえ、この時期の誘惑に押し流されてしまった人も多いでしょう。
人世は狡猾なやり方で次の時代を作ろうとする人々を絡め取り、自分たちの世界に引きずり込もうとします。
そのエネルギーは夏至まで極大化し続けるはずです。なぜかと言えば、神代の気場がほぼ完成するのが夏至だからです。

そして、夏至になると神代と人世のエネルギーの相剋状態が崩れ、人世の気場を飲み込み始めるのだと思います。
そうなると、人世のエネルギーは急速に崩壊を始めるはずです。
古い時代のエネルギーがこれほど強い保守的な作用をもたらしていた理由は、新しい時代のエネルギーに対する防衛であり、自分たちの障壁が攻め落とされるから堅守しなければならなかったのです。

トランプ大統領の関税政策は、巷で「Trump Always Chickens Out(トランプはいつも尻込みする)」の頭文字を取って「TACO(タコ)」と言われています。
トランプ大統領が打ち出した「Making America Great Again(すごいアメリカを再建する)」というスローガンも、「MAGA(マガ)」によって「魔が出る」と言われていましたが、現在のところ大した禍事にもなっていません。
児童の人身売買やDSの告発なども有耶無耶になっていますし、関税に関しても何となく元の鞘に収まっているように見えます。

AI処理装置王手のNvidiaの第二四半期の決算が比較的好調だったことで、引き続きマグニフィセント7の牽引するAIバブルは伸びを見せるでしょう。
2027年に誕生すると吹聴される「AGI(自律型汎用AI」は、実のところ生成AIのスキームをいくら加速させても構造的に開発は不可能だとされています。
仮にAGIが開発されたとして、現在のデータセンターを建設し続け、稼働させるために原子力発電を促進させ続ける意味はあるのか、AGIが半期おきに更新されるグラフィックボードに対応できるのかすら未知数です。

米国のシリコンバレーと金融業界の癒着、そこに政党政治を絡めたアメリカ議会、グローバリズムと各国を巻き込む情勢。
これらの出来事を見る限り、変化となる兆候は全て封じ込め、既定路線に描かれたビジョンだけを徹底する流れに思えます。
トランプ大統領は人々が言うように救世主となりうる存在か、と言えば私は疑問に思います。
しかし、この現状維持以外は許されない風潮の中で、そのバランスを壊しうる唯一のファクターであるトランプ大統領が、ここまで抑え込まれているのは一考に値します。

トランプ大統領の行動は、神々の計画にとって重要なトリガーとなっているように思えてなりません。
それはトランプ氏が神の僕であるとかの意味ではなく、神々は彼を動かすことで世界を変えようとしているのだと思います。

もし神代が人世の気場を壊し始めるとしたら、現在の世界のバランスが崩れるということです。
奇しくも夏至を迎えると、スピリチュアル業界を騒がせて止まない「2025年7月問題」が頭をよぎります。
2025年問題に関して、私は変革のインパクトを大地震に置き換えて考えること自体、問題を矮小化しているような気がします。

例え地震が起きたとしてその災厄の影響が年内で済むはずはなく、地震によって経済が完全に停止したとして、復興が終われば日本に巣食っている病魔が綺麗さっぱり無くなっている保証はどこにもありません。
仮に災害が日本を建て直すための契機になるにしても、それは数年数十年かかる規模のことであり、今年に地震が一発起これば全て解決するようにはどうしても思えないのです。
だから、「2025年」に対するフォーカス自体あまり意味を感じないというのが正直な感想です。

つまり、これから起こるインパクトが何であろうと、それをきっかけにして世界の再編が長期に渡って行われるという事象に変わりはなく、どう考えてもそのプロセスを踏まなければ新しい文明はやってきません。
インパクトの契機となるエネルギーの切り替わりが夏至であり、そこから先は何が起こってもおかしくないでしょう。

それが災害であれ経済危機であれ、何が起こるか自体が大して問題なのではなく、来るカタストロフは予め予想し得るものです。
それが何種類かあるだけであって、それぞれ来る可能性、まとまって来る可能性を考えても、備えておくに越したことはないというだけの話だと思います。

物質文明を苗床にして「お金」というエネルギーで保ってきた人世が崩壊することは、その環境で健やかに暮らしてきた人々は避けたいでしょう。
ゆえに、新しい時代の息吹を全て封じ込め、自分たちだけのエネルギーだけであるべき世界を強固にしたいのです。
そのための妨害であり、引き戻しです。

実は、最近私にも引き戻しの力が掛かってきました。
昔の活動が掘り起こされ今更になって、これまでのキャリアで最大のチャンスが訪れています。

ただ、この分野は神様から離脱を促され、泣く泣く諦めて手放したプランです。
ここで過去の活動を再開させれば神様の下での活動は有耶無耶になってしまい、仮に上手く行けばお金儲けの世界に再び戻ってしまうはずです。
神様を信じてやって来たからこそ、ここで成功がチラつき、「お金」や「人気」に目が眩んで舵を切り返すことがどういうことか、私はよく理解しています。

だからこそ人世からの引き留めの目的もわかりますし、私がそれに靡く気持ちがありながらも、神様がこの簡単なテストを私が落とすはずがない、と読んでいるのも薄々感じています。

私は、このチャンスを捨てることにしました。
ここまで神様を信じてきた道のりを諦めることは、私を親身になって導いてきた神様たち、瀬織津姫様に恥をかかせることになるからです。
だから私はこの話を断り、これまでの活動の痕跡を一切残さず撤退することに決めました。

この数週間、私を引き戻そうとする力は決して憎悪や悪意ではなく、優しさや懐かしい思い出として現れてきたため、心を鬼にしなければいけませんでした。
ここで昔の自分に戻ろうとする選択や昔のような生き方を選べば楽になれたのでしょうが、その時代が終わらねばならないからこそ、古き良き記憶を振り切り神様について行くことを決めたのです。

人世に戻ることを選べば、皆と同じやり方をしている以上は大した間違いがなく、上手く行かなくても皆そうなのだからと横並びに肩を抱き合い、互いに慰め合いながら生きていけるでしょう。
しかし、その生き方を人々がなあなあで続けてきたからこそ、今の日本を取り巻く危機と袋小路の現実があり、その負のスパイラルから抜け出すためには独立独歩の道を選択しなければなりませんでした。

42.195キロのうち40キロを走ってきて、なぜ残り2キロで観客の中に入って談笑する必要があるのか、そう考えると戻る選択肢はあり得ません。

ずっと一人で走ってきたからこそ孤独に打ちひしがれ、フルマラソンを達成したところで周りには誰もおらず、誰一人として賞賛の声を送らないであろう、そんなことは予想がつきます。
またゴールした後も、ずっと一人で走り続けなければならないかもしれません。
そう考えるといっそのこと観客に紛れたくもなりますが、ここまで走ってくるのにずっと伴走してくれた神様を裏切るわけにはいきません。

今ホッとした気持ちになることを選択し、しばらくはそれで楽しくてもいずれ上手くは行かなくなるでしょう。
人間が人間たちの力だけで生きていくには限界が来ており、その世界には沸いてくるようなエネルギーが存在しないからです。
人間がエネルギー源を人間に求める限りは搾取と奪い合いが起こり、その中で豊かに生きていくには苛烈な競争の中に身を置かなければならないでしょう。

それが人間の「幸福」や「自由」を指すものではないと神様が考えておられるからこそ、その時代を終わらせようとされているのだと思います。
少なくとも、少数の選民にならなければ奴隷になるしかない世界は、人間が住むべきところではないのです。
今はまだそうは思わなくても、この状況が変わらなければ極端になる一方のはずです。

この先の未来が目に見えない世界だからこそ不安を感じ、目で見えるわかりやすい世界に希望を見て安堵したくもなるでしょう。
しかし目で見える未来は、誰かが考えて描いた設計図であり、その形の未来を大衆が実現させてあげることで得をする誰かがいます。
今の世界を見回して、過去に描いた未来が今どういう形になっているかを冷静に見つめるべきではないでしょうか。

これから訪れる神の治める未来は、私にとってAIと電脳と遺伝子テクノロジーに塗れた、醜悪な世界でも構わないのです。
それを人間ではなく神々がそう望まれるのだとしたら、私個人の好き嫌いや善悪など無いようなものです。
私の意志を神様に委ねるという決意は、その程度では揺らぎません。

しかし、私は人間に従うくらいなら神様を信じますし、神様を信じることは自分を信じるということです。
自分の心の奥深くからの声を聞いて、これまで奇跡としか思えないような道のりを歩んで来ました。
私の心には神の心が映っていると感じるからこそ、今ここで迷いは一切ありません。

目で見える未来だけが確かな未来ではありません。
例え目に見えなくとも、その明日を信じる以上は夢に描いた未来がやって来ます。
「俺たちに明日はある」のです。

むしろ、神様と向き合う私たちのほうに。

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光あるうちに光の中を歩め

楽太郎です。

「イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」
ー「ヨハネによる福音書 / 12章 35節」

記事の表題は、10代の頃に読んだトルストイの同名小説から取りました。

「光あるうちに光の中を歩め」を読んだ当時は、「若いのは今しかないんだから好きなことやろうぜ!」という解釈でしたが、今は違います。
日々悪化していく日本の状況、希望が見えない日常の中で、光を自分で見つけ絶望に飲まれないように信念を貫いて生きていく、その大事さを象徴する言葉なのではないでしょうか。

「光あるうちに光の中を歩め」という小説は、古代ローマのキリスト教が迫害される時代において、豪商のユリウスは若い頃に親交のあったパンフィリウスがキリスト教徒として敬虔な道を歩み続けたことを知り、数々の試練を乗り越えながらユリウスも信仰の道を歩む決意をする、という話です。
これは、今の私の境遇にも繋がるように思います。

ここ最近、私の見る世界はだいぶ軽快になりましたが、逆に世の中の変わらなさとのギャップを感じていました。
未だに物質中心のエネルギーが世を支配しており、その波長に合うと「このまま拝金主義の時代は何となく続いていくのでは?」とすら感じ始めます。

私の心にも昔の賑やかだった街並み、良かった時代の思い出が甦り、どうしようもなく懐かしくなってしまう自分がいます。
そのムードに酔いしれると、「昔は良かった」と思ってしまうのですが、その心こそ古い時代のマインドであり、拝金主義に支えられた物質的な豊かさの幻影に過ぎません。

今、こうした古い時代の集合意識が、新しい時代のエネルギーに拮抗しているように思えます。

「今の便利な時代のままでいい」という感覚は、人の世の集合意識が巨大な集団霊となり、人々を巻き込んで膨張しているように見えます。
人々は古い時代に使っていた気場が壊れたため、何をエネルギー源にして生きていけば良いのかわからなくなったのだろうと思います。

それを補うべく、思念体となった人世のエネルギーに触れると、古い時代の気場に似たエネルギーなのである程度は元気を取り戻します。
ただ、その思念の場は自分たちのエネルギーを寄せ集めて閉鎖的に循環させているに過ぎないので、そのエネルギーに触れることで力は出せても、全く何の推進力もないため特に新しいパワーを生み出すことができません。

これが今、極大期に来ているように感じます。
世の中が何の変哲もないように感じるのも、実際にこのエネルギーが世を支配しているからだと思います。

今日のヘッドラインを眺めても、イスラエルの大規模作戦再開、ウクライナ侵攻の停戦交渉難航、アメリカテックバブルの再燃、どれも変化どころか逆行した状態で安定しつつあります。
あれだけ大風呂敷を広げたトランプ大統領のDOGEや関税政策も、一悶着あってなし崩しになりつつあります。

しかし、私はこのまま何の変化もなく、ダラダラと世界が破滅に向かっていくとは思いません。
今、日本の神々がこの国を変えるべく、動いているのを感じるからです。

先日、続け様に「祓戸大神一神説」、「猿田彦大神の正体」という記事を書きました。
ここで新しい発見をしたのは、日本人は古来から稲作をしながら子々孫々と繁栄していく中で、「サ=稲霊」の神を篤く信奉してきた歴史があるということです。

日本の神々、瀬織津姫命も猿田彦大神も、宇迦之御魂も、「サ神=稲田の神」であり、その信仰は弥生時代以前から続いてきた可能性が高いのです。
出雲の王だった神、素戔嗚命の名にも「サ」が入っています。
「ス」とは「凄い」という意味の接頭語であり、以下を「狭奴穂(さのほ)」書き換えるならば、「凄い稲霊の王」という意味になります。

上代語における「ホ=穂、日、火」は、「王(リーダー・先達)」という意味だと私は考えています。
古代日本語の「ホ」は、「wo」という発音であることが分かっており、「ほ」というより「を」になるからです。

伊弉諾命、伊奘冉命の「イ」は「威」と同じ用法であり、「斎・厳(いつき)」にも使われる文字で、これも「凄さ」を示し「須=ス」よりも神聖性は高いのかもしれません。
文字を変換してみると、伊弉諾命は「伊・狭奴岐(さのき)」伊奘冉命は「伊・狭奴霊(さのみ)」となり、「岐」と「霊」がそれぞれ「君(きみ)=大王」の「彦」と「姫」に対応するのであれば、「聖なる稲霊の王」「聖なる稲霊の女王」となります。

「豊葦原瑞穂国」を作り上げたのは伊弉諾命と伊奘冉命であり、日本とは本来「稲作」によって栄えてきた国家であることの証左となります。
そして、全国にある神社と「記紀」と「日本神話」に名のある神々は、この国土に坐す神霊として祀る以上、日本を司る神々こそ「日本の国土の魂そのものである」と言っても過言ではありません。

しかし、近年では日本産の米に輸出目的の補助金が付与され、国産米が転売され海外で投げ売りされる一方、国策として政府から減反のために「米を作らせない」補助金がバラ撒かれ、その結果として米が暴騰し、もはや日本人は普通に自分たちの国土でできた米を食べられなくなりつつあります。
そして、日本の米が外国に大量に流れる一方、海外の米を輸入し、あるいは古い米に石油加工を施して流通させています。

この「米」を巡る日本の現状と、日本人が崇敬してきた「稲霊」とは無関係と言えるのでしょうか。
「サ神」は村の守り神として「塞の神」に転じ、禍事罪穢れを祓う「久那土の神」、そして日本神道の「祓い清めの神」となって行きました。
今、日本は国境意識も曖昧になり、どんどん外国人が移民して日本の法治制度すら変わろうとしています。

今こそ、日本の祖先が大事にしてきた国土と、日本の神々が守り抜いてきた「豊葦原瑞穂国」について、考えを改める時に来ているのではないでしょうか。

伊弉諾命は、黄泉の国の死者の群れから逃れる時、傍に生えていた「桃」を投げつけて蹴散らしました、
その桃は「大神実命」として、伊弉諾命が死者に取り殺される危機から救い出します。
この「桃」という破邪こそ、私たちの心にある希望や夢、愛情や真心なのではないでしょうか。

今の世界に横たわる思念とは「我良し」、精神的なものや道理よりも物質的な豊かさや力、お金に向かうエネルギーです。
その意志に抗うには、自分の目的や精神性を確固たるものにするしかありません。

自分の中に、これまでの古い価値観や習慣に依存する部分があるからこそ、古い時代に引き戻そうとするエネルギーに取り込まれてしまいます。
昔は良かったとか、人に認められたいとか、お金が欲しいとか、その気持ちはわかります。
しかし、そのエネルギーを動機にしても決して前に進む力にはなりません。

神様は、そう言った「昔の時代の夢への憧れ」も、おそらく邪気として認識されています。

今、このどうしようもない日本の状況を、丸っきり変えるために皆で立ち上がろう、と言うつもりはありません。
とにかく、この絶望の闇から逃げ切らなくては、誰もが生き残る先すらないのです。

そのために、自分が依存してきたエネルギーを断ち切り、自分自身のエネルギーだけで生きていく勇気が必要です。
良くない人たちによる妨害とはしばしば、「自分がされて困る」から起こるものです。
そうすると世の中が良くなって困るからであり、それならば彼らが怒るようなことにこそ正解があります。

今はとにかく希望や愛を推進力にして、絶望から逃げ切ることです。
それこそが真の破邪であり、「光あるうちに光の中を歩む」唯一の方法なのだと思います。

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新しい活躍の場

楽太郎です。

これから「祓戸大神」を題材とした漫画、版画とセットで展開する「神代絵」のイラスト、ひとまずこれを軸に制作活動を行なっていきたいと思います。
ただ表現と情報発信の面で、あまり芳しい状況とは言えないかもしれません。

今はどこも産業的に飽和し尽くした状態であり、不況感も相まってビジネスとして最も打って出にくいタイミングだと思います。
クオリティだけではどうにもならず、とは言え今から知名度を上げようとしても難しいでしょう。

インターネットは寡占企業によってアルゴリズムがほぼ独占されてますし、メディア的に見ても超レッドオーシャンです。
TVや新聞、雑誌や出版などのオールドメディアは言わずもがな、新規参入は絶望的と言って良いでしょう。

インターネットやアナログ波、印刷に代替するメディアが存在すれば良いのですが、おそらくメディア史から考えても新技術でもなければ不可能です。
やはり、複雑な情報媒体を人々に伝達するには、モールス信号や狼煙のような伝統技術では難しく、せいぜい江戸時代の「瓦版」のようなものでしょう。

「瓦版」とは、現代で言うフリーペーパーのようなものです。
新聞の号外のように街角で配られるものであり、「費用対効果」だけを狙って無償配布を前提にするのであれば、フリーミアムの精神に則っていると言えます。
しかし、この物価高で印刷費が高騰している時代に、フリーペーパーはかなりハイリスクと言わざるを得ません。

ただ表現媒体として考えれば、インターネットは誰もが使うもので、誰もが使うがゆえに埋もれてしまいます。
その世界は完全に玉石混交なので、多少の口コミ程度では何の変化もないでしょう。
むしろ、そう言った飽和した環境を逆手に取り、フォロワーの多いインフルエンサーが対価を得て人工的に「ヒットさせてあげる」ビジネスもあります。

ここまで来てしまえば、お金と数と力でどうにでもなる世界です。正直言って、そんな世界に打って出る必要はありません。
逆に言えば、不況で沈んでいる街角経済では広告数が激減し、イベントや催しも下火になってきています。
コストの低いネットビジネスに人々が向かう今だからこそ、物質面でアプローチをかける広告事業はチャンスとも言えます。

私が考えているのは、例えば漫画は誌面の方が相性が良く、イラストも文章も印刷物である方が真価を発揮します。
私が自分の作品を自身の発行するフリーペーパーに掲載させる他に、参加アーティストや作家の作品を希望に応じて載せたり、通常のやり方で企業広告に誌面を割くことで印刷料を賄ったりできます。
フリーペーパーのビジネスモデルはリスクとしては高いのですが、やり方次第ではサステナブルになり得ます。

私はそこで、自分が売り出す以外に無名の作家も自由に表現し、知名度を上げるような環境を作れないだろうかと考えています。
この経済不況とWEB産業の飽和からの停滞により、趣味ですら作家活動が成り立たない人は沢山います。
そう言う人たちに活躍のチャンスを与えると同時に、才能ある作家を保護する環境にもなり得るかもしれません。

少し空想的になって来ますが、その考えの延長で「劇団」を作れないかと考えています。
ここで言う劇団は、通常の演劇集団というわけではなく、サーカスのような雑多な演芸集団を指します。

例えば、パフォーマーや大道芸人など、プロとして日々鍛錬を重ねながら、経済の悪化と共に活躍の機会を奪われている人々がいます。
そう言った人々の発表の場を常に用意するというだけでなく、テント一式あればどこでもゲリラ的に開催できるような、そんなイベントを考えることもできます。
そんな催しがあれば、物販やバザーのようなもので収益を上げることもできますし、屋台や出店でも呼び込めば立派な祭りになります。

それをどこかの空き地や公園でやるとしたら、無料で地域住民を呼び込み地元を活性化するだけでなく、参加者が持ち寄りでやる限り元手もあまりかかりません。
こういうのは風営法で融通は効かない可能性は高いのですが、法人的手続きを踏むのであればイベント事業の範囲に収まります。

あわよくば、このイベントでフリーペーパーを無償配布するなら、埋もれていた作家が全く縁のない人にも作品を見てもらう機会となるかもしれません。
これは今のように、ある程度は不況感が蔓延していない時はあまり意味がないかもしれませんが、これから経済がどうしようもなく身動きが取れなくなるほど、社会的な意義は大きくなると思います。

だいぶ空想的な話に聞こえると思いますが、私は同人活動をしていたので印刷には強いですし、イベント会社で働いていたので催し物は得意ですし、劇団に所属していたので団員の面倒は見れます。
こうして見ると、できない理由は「お金とチャンスがない」ことに尽きます。
当面後の話になりそうなので構わないのですが、私が自分で自分を何とかしてからでないといけないのは変わらないようです。

もし賛同者が得られるようなら、クラファンや寄付に頼っても良いでしょうし、サークルを作って持ち寄りでやることも考えられると思います。
ただクラファンはわりと微妙で、資金集めにかかるマージンが仲介企業に15%から30%くらい取られます。
それ自体は考え方次第なんですが、その他のパトロン系支援は危うさも感じていて、一概に軽く考えられるものではないと個人的に思います。

とは言え、現実問題としてお金と社会的実績は必要で、今どうこう考えても取らぬ狸の皮算用になってしまいます。
とりあえずは、目の前のことをこなしていくしかありません。
暗中模索が続きますが、暗い中で探しているのは出口であり、手の中には光があります。

これからは必ずしも、悪いことばかりではないのかもしれません。

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努力を嘲笑う者

楽太郎です。

最近はだいぶ、人の世について関心を失っていました。
変わる気のない人があまりに多すぎるように見え、何を言っても何をやっても意味がないように感じていたからです。

相変わらず自分以外のものに原因を探し出し、その悪を叩き潰せさえすれば、世の中はオセロがひっくり返るように良くなると信じているように思えます。
しかし、この街中のどんよりとした不況感、人々の苛立ちや暗すぎる反応、何をどうしたらこの人々がやる気を取り戻せるのか、私には何一つ見えてくるものがないのです。
今まさに世が破滅に向かおうとする中で、世の中が劇的に良くなる兆しはどこにあるのでしょうか。

私は以前、SNSで言論的な活動を行い、世を変えようと努力していた時がありました。
その時に相手にしていた論敵は、本当に手段を選ばず、人を貶めることに対して抵抗感のない人たちばかりでした。
私はもはや一般人を相手にしているのではなく、反社の組織か外国の政府と戦っているのではないか、とまで感じていました。

その頃を思い出して、彼らを今更どうしようとか、どうなって欲しいと思うことはありません。
私の意識はもう違う次元にあり、おそらくもう関わり合う必要のない人たちだからです。

彼らは、とかく嫉妬深かったのが印象的です。
自分の生まれや育ちが悪いとか、社会が悪いとか国が悪いとか、自分以外のものに不幸の原因を定め、そのルサンチマンを原動力にして世の中を変えようとする人たちでした。
自分が何一つ曲げることなく可能な限り楽をして結果を得られる、そうなる世の中こそが理想であり、その理想が叶わない社会が悪なのだと思い込んでいるようでした。

だからこそ、きちんと努力をして結果を出している人たちに対する風当たりは異常でした。
肩書きのある、顔も名前も出している人々に対する誹謗中傷は止まるところを知らず、犯罪紛いでは済まされず、実際に犯罪行為に走った人もいました。

なぜそれほど彼らが怒るのか、私には理解できませんでした。

「怒り」という感情だけで、自分の命まで投げ出して目的を果たしてしまいかねない、そんな危うさを彼らから感じていました。
私自身も身の危険を感じましたし、実際に入院するところまで追い込まれた人も知っています。
時には彼らが人間ではないのではないかと、それほどの破壊衝動に恐怖を感じました。

彼らは「怒り」と「嫉妬」という感情が共鳴した瞬間、恐ろしいほどの団結力と連携性で立ち向かってくるので、とても正論では歯が立ちませんでした。
正論どころか、こちらのロジックは元より言葉尻すら捻じ曲げてくるので、まともに議論することができませんでした。
仮に論破に成功しても、彼らの原動力は感情なのでまた違う切り口で挑んで来るのです。

「SNSでの議論」などの表現ではとても生温い、地獄のような誹謗中傷の嵐の中で、何とか自分の意見を広めようと努力しましたが、所詮はSNSというエコーチェンバーの中の話で、外の世界では全く異なる脅威が広がっていました。

その全てを具に見た時、この国が本当にどうしようもない状況に置かれていることに気づきました。
SNSから撤退するのも「逃げた」と嘲笑われるのは承知でしたが、それ以上にこの国がもう持たないことを知り、それを何とかしなければならないと悟りました。

もはや、この国に蔓延る邪悪は日本人が知りうるよりずっと深く、一度沈まねばならない状況に置かれることを確信しました。
そして、私はこの状態の日本を救えるのは神仏だけであると悟り、もし日本が一度沈み切った後に望みがあるのならば、そこから新しい国を作って行くしかないと決意したのです。

なぜ、あれほど怒りに満ちた人々がこの国に生まれてしまったのか、様々な理由を考えましたが、彼らが同じ日本の一般人であることを前提に語ろうと思います。

彼らの特徴と言える「嫉妬深さ」の根源には、「自分らしく生きられなかった」という怒りが潜んでいるように思えました。
確かにバブル崩壊後に大量に発生した就職氷河期の世代、いわゆるロスジェネは卒業しても定職に就けないという厳しい世相にあり、中途採用では優良企業に就職し難く、アルバイトなどを転々としてきた人が多かったのも事実です。
実際、私がSNSで相手にしていたのは、この世代と一つ下の「ゆとり世代」と言われた人々でした。

彼らがどんな生き方をしてきたのかは想像できませんが、その嫉妬深さの裏には「勝ち組・負け組」という価値観に翻弄され、社会的に勝ち組ではないとしても、自己実現をして成功している人々に対する怒りが主体となっているように感じました。
彼らも、おそらく「勝ち組」になるためにやりたくもない競争に駆り出され、必死に努力しながら小手先で品評され、野に投げ出された人も多かったのではないでしょうか。

私も近い経験をしていたので、よくわかります。
私は精神病を15年患い、一度は障害者として暮らしていたこともあります。
挙げ句には病院にも見放されたり、精神障害を持つがゆえに低賃金で働かざるを得ず、地獄の地面を這いずり回るような経験もしました。

だから、彼らの嫉妬心は自身の半生に対する悲しみから湧き上がってくるものであり、自分に対してこれ以上責められない苦しみから、怒りを世間に転嫁せざるを得なかったのだろうと思います。
私は、彼らの気持ちが何となくわかってしまうからこそ、「あなたたちも努力すれば良かったでしょう」とは一概に言えないのです。

現に、私自身がこれまで絵を3万時間は描いてきて、知識や技術がいくらあろうと今の社会ではやって行けなくなったわけです。
とは言え、全てを世の中のせいにすることもできたのですが、私は諦めの悪い性格が災いして、世の中を変えてでも生き残ってやるという気持ちでやってきました。

彼らを一概には責められないとは思いながらも、感情を向ける方向が間違っていると言わざるを得ません。
その感情で人の足を引っ張り、他人を自分と同じ立場に落とし込んだところで自分は1ミリも這い上がれていないどころか、全く救われてはいないからです。

私は彼らを観察していて感じるのは、彼らが最も嫉妬する理由は「成功できなかった」からではなく、「本当にやりたいことが見つからなかった」「本気で努力に値する何かを見つけられなかった」ことの悲しみがあるのではないか、と思います。

努力を嘲笑う人は、努力を「無駄な工程」であると感じるようです。
ある目的があり、その目的を達成するためには積み重ねが必要なのは当然です。そのプロセスは練習であったり、反復行為を何度も繰り返し、次第に精度を上げていくための習慣づけであり、彼らはそれを「努力」だと信じ込んでいます。

ただ、「努力=苦行」ではありません。
毎日練習したり勉強するのが苦痛なのは、目的が見えていないからです。
達成目標が予めあり、その実現の喜びが見えているのなら、その間のプロセスは必ずしも苦しいだけのものではありません。

私たちは学校でやりたくない宿題を預けられ、行きたくもない塾に行かされ、やりたくない授業を受け、「やりたくないことをするのが勉強」だと思い込まされてきました。
それは「苦しいことをするのが努力」という価値観に転嫁し、勉強も努力もなるべくしたくない、という感情に変わっていきました。

しかし世でうまくいくには勉強も努力も実際は必要で、けれども成功者は自分が死ぬほど努力してきたとは言いたがらないものです。
ましてや、「生まれつき能力があったから」と言えば、箔がつき特別視されるでしょう。
その言説が「努力をしたくない」という感情と混ざり合い、「努力せず成功する人がカッコいい」という風潮を生み出してしまいました。

こうして、「社会で成功するべき」と「努力はダサい」という二つの考えが共存することで、勉強や努力を嫌いながら結果を求めるという思考が完成したのだと思います。

けれども、ここでの最大の誤りは「努力は辛くない」ということです。
例えば、ゲームの攻略に行き詰まりネットで攻略法を探し、そのために試行錯誤することが「苦痛」かと言うと、やりたくなかったら苦だし、やりたかったら楽しいはずです。

この心理的な差は、外部の条件がどうではなく自分の主観的なあり方次第です。

確かに、気の向かない日でも習慣だから、ノルマがあるから今日もやらなければならない、というのはあります。
しかし、そこで諦めて気が楽になるようなら、そもそもやりたいと思っていないのです。
やった先に目標があるからこそ、一度や二度くらい休んでも、やりがいを得るために再度取り掛かることができるからです。

努力を嘲笑う人は、努力という苦行だけが目的到達の手段であったり、小手先の方法で目的を達成するかの二択でしか成功のビジョンを描けないのです。
ただし、「努力」というプロセスが必ずしも苦痛を伴うものでない以上、毎日のルーティンに組み込まれた訓練が成功にとっての正攻法であるのは変わりがありません。

従って、目的も曖昧で手段も避けている以上、何かを成し遂げることができるはずはないのです。
そのことに無自覚だからこそ、きちんと手順を踏んで実力を身につけ、よしんば成功した人を妬む道理は存在しません。

もしかすると、自分にも確固とした目的があり、色々なものを犠牲にして努力したけれど、その成果が社会に握り潰されてしまった、という人もおられるかもしれません。

では私の話をするならば、私が絵を本格的に描き始めたのは35歳の時です。

20代で精神病にかかり、以来数年間、何一つ手がつけられなかった時期を経て、ある時に病院の廊下でスケッチを始めました。
そこから絵を学びプロになり、これまで3万時間を絵に捧げて来ました。
それでも食えない現実はあります。しかし私は1ミリも諦めてはいません。

本当に魂から目的を感じるならば、どんな障害があろうと目的は達成したくなるものなのです。
それが、自分のことを見つめることから逃げ、曖昧に生きようとするから何をしたら良いのかわからなくなるのです。

いくら他人を恨み、世を呪ったところで自分のことは理解できず、目的もないから何も達成することができず、ゆえに幸せになることができません。
今更それに気づけとは言いませんが、努力を嘲笑う者は努力を嘲笑うからこそ真の成功には至れないことを胸に刻むべきだと思います。

人間は一度きり、この世に生まれて来ます。
人生で取り返しがつかないことはほとんどです。しかし、やり直しはいつでも何度でもできるのです。
そこに気づこうとせず、自分の人生を投げ出したままであれば、どうにもならないのは自分の意志です。

それは他人のせいではなく、世の中のせいでもないのです。
人生の責任を転嫁している以上は、自分も世の中も変えることはできません。

今回は、私の人間的な部分がモロに出てしまう記事になってしまいました。
あまり書きたい内容ではなかったのですが、書かなければいけない状況だったので仕方ありません。

最後まで読まれた方にとって、得にはならない話だったかもしれません。
お恥ずかしい限りです。お目汚し失礼しました。

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感謝と別離

楽太郎です。

最近、昔のことをよく思い出します。
それは思い出したいわけではなく、なぜか脈絡もなく脳裏に浮かび上がってくるものです。

当時の空気感や温度、建物の構造から棚の商品、あまりに鮮明に思い出せすぎて気持ちが悪くなります。
だから、昔のことなんて思い出したくありませんでした。
あの時代が懐かしくて、恋しくなるからです。

今の時代を具に見ているからこそ、昔の光景がまるで夢のようで、でも記憶の美しさに囚われていては前に進めません。
消えた景色、失った場所、亡くなった人を思い出したところで、前に進む力にはなりません。

なぜ今になって忘れていたことを思い出すようになったのかわかりませんが、おそらく自分の魂を取り戻したからだと思います。
その魂を抑え込むことで、これまで私は人の世の社会に順応してきました。
本音を誤魔化し、自分を演じ分け、思ってもいないことを信じ込み、ガワをよく見せるためにやりたくないことに真剣に取り組んできました。

人の世ではそれが当たり前の生き方で、それ以外の生き方ではほとんど上手くいきませんでした。
だから他人の目にビクビクして、自分がどう見られているかを常に他人の目線で考えて生きてきました。
けれど、その「他人」という存在が不特定多数の視点ではなく、目の前の人の実際の目線で考えられていたら、もう少し違う人生になったかもしれません。

小学生の夏休み、一度だけ祖父母と伯父が家に来て、宿泊して松島に旅行に行ったことがあります。

その日、私たちは松島水族館を一周して、祖母に記念メダルを買ってもらい、遊覧船に乗ると海鳥がえびせんを食べに来ました。
夕方になると天候が急に悪くなり、私たちは案内所のロビーにしばらくいて、激しい雷雨の中を車で帰りました。
その夜、私たちは家中にあるテーブルを出してきてお寿司とオードブルを広げ、楽しい食事をしてお風呂に入り、二家族で川の字になって就寝しました。

それは誰にでもある、子供の頃の良き思い出です。
けれど大人になって今思うのは、あの頃の父母の感情、今は亡き祖父母と伯父の気持ちです。
その時、祖父や祖母は嬉しかっただろうか、そんなことを想像すると、今は亡き大切な人の心をもう少し知りたかったと思います。
あの時、あの人たちの目から私たちはどう見えていたのだろうか?

祖母はそれから数年後、玄関で足を滑らせて骨折し、身体が不自由になったせいで気を病み、晩年は家族の顔もわからなくなってしまいました。
あの夏の日から、何度会えたのかという短い時間の中で、なぜこんなにも愛おしく感じるのか、もしこんなに愛しいと思うのなら何故亡くなってから気づくのか、それはいくら自分に問いかけてもわかりません。

亡くなった祖父母や叔父から世間はどう見えて、彼らはどんな目線で生活をしていたのか、それを知りたくても知る術はないのです。
仮にそれがわからずとも、あの人たちの目線を想像した時、私はやはりたまらないほどの愛しさを感じてしまうのです。

子供の頃は、当たり前のように大人になっていくものだと思っていました。
そして当たり前のように成長し、大人になるにつれて身の回りのことも家族のことも気にかけなくなっていきました。
同世代も、それ以上の世代も当たり前のようにそうするのを見て、私も何の疑問もなく失っていくものに対して無関心になっていました。

けれど今思えば、あの頃当たり前にあったものが本当にあっさりと消えてしまうこと、無くなったものには二度と触れられないことが、どういうことを意味するのか理解できていませんでした。
かつて当たり前にあったものが当たり前でなくなってから、取り戻そうとしてもどうにもならないからこそ、当たり前のうちにできることをしておくべきだったと思うものです。

後になって、それがどれほど大切なものだったかを知るのは常ですが、だからこそ「今を生きる」ことの意味はずっと変わらないのでしょう。
いつ失っても後悔のないように真剣に向き合うこと、それが今ここを生きるということで、それを忘れがちになるから後悔も芽生えます。

十年後、来年どころか明日とか、下手すると数時間後には来るかもしれない別離は、失った時の自分を想像するからこそ事の大きさがわかります。
けれど、自分自身を大事にする気持ちがなければ、大切なものの価値もわからず、失うことの意味もわかりません。

人間はそうして、いつも大切なものを失い、失ってから後悔するのです。

けれど、子供の頃の自分がいくら駄々を捏ねたところで、大人の都合には敵いませんでした。
祖父母や叔父ともっと一緒にいたくても叶わなかったのはどうしようもなく、やはり心の底から愛しさを伝えられず、気づけば永遠の別れが来てしまいました。

いくら悲しくても切なくても、気持ちを伝える手段も会う方法もないのは仕方ないのですが、同じような悲しみを繰り返さないために、大切な人には精一杯向き合おうと今は思います。
人間は、どうしても後悔を繰り返してしまうのですが、同時に感謝も覚えます。
自分に命を繋ぎ、大切な思い出をくれた愛しい人たちに心から感謝をするからこそ、生きることへ真面目に取り組もうと思います。

人の死後に霊界があり、生まれ変わりもあると言いますが、私は亡くなった人と会えることを期待してはいません。
再会が叶うかわからないからこそ、人間として堅実に生きられると思うからです。

誰かと別れてもどこかでまた会えると思えば、どうせ失っても取り戻せると考えがちになるでしょう。
取り返しがつかないと思うからこそ、失うことに対して真摯に向き合い、今あることに真剣に向き合うことができるのだと思います。
だからこそ私はリアリストでありたいですし、リアリストだからこそ精神的に価値のあるものを大切にできるのです。

今あるものに感謝をし、きちんと向き合うほど失った時には潔く別れを告げられます。
それが別離の辛さを緩和する唯一の方法だと知り、私はできる限り生き方を改めましたが、それで過去の喪失感が癒えるわけではありません。

なぜか、人間はどうしようもなく雑な別離を体験するようにできているようです。
そして誰もがその喪失を繰り返すからこそ、大切なものの価値に徐々に気づいていくのだと思います。

「愛しいものには二度と巡り会えない」という現実だけは変えることができないとしても、愛情や切なさを胸に抱えて生きていくこともまた人生なのかもしれません。
ただその心を大事にして、時に昔のことを思い出し、亡くなった大切な人を思い線香を上げ、手を合わせる瞬間に私はとても癒されるのです。

人間には、死後の世界が必要です。
実際にあるかどうかではなく、人間には死んだ後に行く世界がなくてはならないのです。

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「好き」と「仕事」

楽太郎です。

今、思うように絵が描けない状態が続いています。
それでも、神様から一つのお役目のようなものを任されていて、それが「神の系統を取りまとめる」というテーマです。

これはとてつもなく大きな課題であると承知しています。
そのための道筋として、かつて考古学者のシュリーマンがトロイの遺跡を発見したように、古代史と考古学から歴史的事実を紐解き、神話の原型を見出すという工程を辿ることになります。

私としては独断と偏見で挑めば実現は可能だと思いますが、中途半端に結論を急ぐわけにはいきません。
「邪馬台国」や日本建国を巡る民族学的議論は、プロの学者が何十年も挑んできたテーマであり、素人に簡単に辿り着けるものでもないでしょう。
けれど、徐々に道が拓けて来ているのも事実で、その成果に少しずつ手応えを感じ始めています。

「お役目」とは何なのだろう、と考えます。

私はずっと絵を描いてきましたし、漫画を描く技術も才能の一種だと思います。
今まさにやりたいのは漫画ですし、そのアイデアにも意義を感じており使命感もあります。
しかし、なかなかそれに取り掛からせてもらえないのも事実で、こうして別のことをしている間、自分にとって絵を描くことの意味を考え直しています。

私が創作の道を志したのは、自分が表現したいものを描き、それで収入を得て生きていきたかったからです。
幸い、近年のクリエイティブはそれが比較的容易でしたし、そうして成功している人も周りにいました。
だから、単純に「魅力的な作品を作れば実力が認められ、それを生業にできる」という頭がありました。

けれど、需要と供給のバランスから生まれる「仕事」というものは、自分がやりたいことと役に立つことの関係は似て非なるものです。
例えば、人が暮らしていく中で「これが欲しい」と思い、その人の願望に合わせて自分がものを作ったりサービスを提供する、その過程に「自分がやりたいかどうか」は関係がありません。

もちろん、誰かのために自分の技術や才能を発揮すること自体を目的にしたり、喜びにできればそれ以上のことはありません。
しかし、自分のタイミングや相手の出方次第で、気が乗らなかったりやりたくない時も当然あるでしょう。
そういう時に、「気が乗らないのでやりたくない」と言っていたら、それを仕事にすることはできませんし、生業として成立しません。

つまり、「人の役に立つ」ことと自分の感情は関係がないのです。

私は長い間、この部分を誤解していたのだと思います。
ずっと「夢を叶える」ということは、「自分のやりたいことをやって生きていく」ことだと思い込んでいました。

かつて、ある会社で制作をしていた時、声優学校の生徒たちに声の仕事を任せたりしていました。
今思えば、彼らには理不尽なことをやらせてしまったのですが、「学生に仕事をやらせる」という優位な立場は、無条件に彼らを搾取することになっていたかもしれません。

「夢は叶うものだ」と純粋に信じ、夢を叶えるために社会の理屈を飲まされるのは、いつも夢を見る若い人たちです。
成功するために、「これをやってくれたら有名になるかもしれないよ」と唆し、チャンスをチラつかせてやりがいを得させ、その代わりに何かを強引に吸い取っていくのです。
これがこの社会の「夢」のあり方であり、自分もその仕掛けの一部だったのではないか、と今では反省したりもします。

そうやって「若さや情熱」のエネルギーを吸い取られながら、本当の意味で夢を叶えて成功した人はどれくらいいたのでしょうか。
そして、成功した人は何一つ自分の手を汚さず、夢を叶えることができたのでしょうか?

そう考えると、「やりたいことで成功して生きていく」という発想そのものが、単純に考えていいものではなかったのではないか、と思います。
「やりたいことを仕事にする」ことは、欲に従って好きな仕事ばかりをやっていくことではないですし、「仕事そのもの」が好きだから生業にできるとも言い切れません。

そもそも、「仕事」と「好き」は違う次元の話なのです。

仕事はやりたいことだと言っても、領収書の整理や事務作業、メールや電話応対もしなければなりませんし、やりたくない業務の中で実際に楽しい作業はごく一部です。
ただ、「やることそのもの」が目的である時、例えばガラス細工を売るのが仕事だとしたら、事務作業も材料の調達も一連のプロセスをひっくるめて「やりたいことだ」と言えるのです。
その場合、ガラス細工職人という生業そのものが、「やりたいこと」に昇華されていると言えます。

もし先の学生のように、声優をやることが目的だとしたら、やりたくないことをやってキャリアを積む、それも含めて「やりたいことだから」と綺麗事にできれば問題はないのでしょうか。
その場合、目指すものが「仕事としての成功」なのか「生業にすること」なのか、その目的で変わるのだと思います。

私の話に戻すと、「漫画」は誌面連載だから成り立つのも事実です。

実は漫画は花形に思えて、ネットに適当に上げただけではインプレッションがつきません。
イラストなどは瞬時に判断して評価できますが、漫画は文字を読んで絵を見て理解するという一連の動作を要求するので、時と人を選びます。

漫画は雑誌に掲載されますが、雑誌は欲しい人が手に取るものなので、その漫画を読む人は漫画が読みたい人です。
だからこそ、多少冒険的な作品でも漫画を読みたい人の元に届きます。
しかし、ネットに無闇に上げただけでは埋もれてしまい、本当にその作品を求めている人の元には届きにくいのです。

「雑誌」という形態を取っているからこそニーズに合った作品が認められることになるわけですが、雑誌は出版社がなければ成立せず、誌面に限りがあるからニーズに反したものは掲載されません。

つまり、ここでも「求められること」と「やりたいこと」は違うのです。
いくら自分の作品に思い入れがあり、それを人に読んでもらいたくても、求める人がいなければやりたいことをやっただけで終わってしまいます。

とは言え、これまで漫画家という職業は、出版社に気に入られるために、読者の評価を勝ち得るために、命懸けで作品と向き合ってきました。
たくさんの才能ある作家が趣味で描く分には面白い漫画を描くのに、出版社との折り合いが合わずにやっていけなかったり、筆を折ってしまう人も何人か見てきました。

だからこそ、私は自分の作品を活かしながら収入に結びつけられないか、色々と試行錯誤をしてきました。
私の抱えていた矛盾は、「漫画を描くことそのもの」を目的にしたいと思いながら、「自分の作品を描く」という目的を両立させようとしてきたことです。

けれども今考えると、一番最初に「誰の求めに応じ、役に立つのか」という部分が欠落していたように思います。
自分がやることが目的であり、仕事が自己実現の手段であったからこそ、「誰かのためになっていく」というプロセスを踏まず、ゆえに成功の道を歩んでいくことができなかったのだと思います。

だから結局は、「誰を喜ばせたいのか」というビジョンが見えておらず、自分の喜びを優先してうまくやろうとしていたのが、ビジネスとして歯車が回らない理由だったのでしょう。
けれども、これは「夢を叶える」「やりたいことを仕事にする」という頭では、かなり誤解してしまう部分です。

周りに喜ぶ人が増えていくこと、その輪が広がって成功していく、そのプロセスを無視してもこの社会には成功するメカニズムが確かに存在しました。
業界の有力者に気に入られたり、強い組織にコネを作るとか、あるいはもっと汚いやり口を使うとか、本来のやり方を採用しなくても成り上がれる世界だったのも事実です。
そういうエスカレーターのような仕掛けがあり、それにうまく乗ることを「競争」だと表現されていたりもしました。

けれど、それも「搾取」の一形態であり、必ずしも喜びの輪となるものではなかったはずです。
残念ながら、これまでの社会で「夢を叶える」ことは綺麗事ではない時代でした。
そんな世の中に早く気づけば良かったのか、気づいてもっと強かにやれば良かっただけなのか、それは未だにわかりません。

私は、「漫画を描きたい」それだけが願いです。

けれど、仮に趣味と割りきり誰も求めないところで始めても、それよりもやらなければならないことには勝てないでしょう。
やはり、人に「やって欲しい」と言われることをやるのに越したことはないのです。

ここの部分を下手に勘違いせず、それでも「漫画を生業にしていくにはどうしたら良いのか」は、ずっと問い続けていきたいのです。
それが人の求めになく、神の求めにもないとしても、自分が魂から求めることを実現するにはどうするべきなのか、その答えを他人任せにしてはいけないと思うのです。

自分としてこの世に一度生まれてきて、本当の願いを持つということは、諦めて済むような単純なものではない気がするからです。

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