「嫉妬」について Category:エッセイ Date:2025年06月19日 楽太郎です。 6月21日の夏至を前に、「追い込み」に近いものを感じています。 「憑依」の連鎖を断ち切るために霊線を解いていく作業は、やはりこの時期に必要な工程だったのは間違いありません。 正直、思ったより火星獅子座の脱却の影響がそれほど決定的ではなかったようなのですが、霊障のアプローチがまた変わって来たのを感じています。 「お祓いとは何か」でも書きましたが、この霊線というものがポイントで、自分の心にある縁が良いものも悪いものも引き寄せます。 すでに次元上昇した世界において、「因果」という霊的な法則は原因から結果までの時間的距離が縮まっているのです。 人間の社会はほぼ人治で成り立っているので、多少この因果を意図的に歪めることができます。 お金や権力があれば人を動かして結果を握り潰したり、事実をもみ消して最初からなかったことにもできるのです。 しかし、それは因果律の発動を遅らせることができるだけで、宇宙の法則を変えているわけではありません。 人為的に歪めることのできる因果も法則から逃れることはできず、力が及ばなくなれば自ずと因果律は発動してしまいます。 以前ならば永久に揉み消せたような著名人の不祥事が明るみに出て、業界だけでなく社会全体が揺らいだように、人治の世界にも限界が訪れているのです。 それは神や宇宙の力が強まってきたことの証であり、今後ますます強まっていくはずです。 奇しくも、良いことも悪いこともすぐに現象化しやすくなったことで、自分の心にその原因があれば現象を引き寄せやすくなります。 仮に引き寄せてしまう何かがあるとしたら、その原因をしっかり見定める必要があります。 人の心にある疾しさは、幽界の下層にある悪意との因縁が生じ、それは当然私の心にもあります。 従ってこの部分を浄化しないことには、永遠にこの悪意から逃れることはできません。 意外と、誰しもこういった「疾しさ」を抱えながら、その悪意を無意識に隠蔽するため自分の闇には気づけないものです。 顕在意識では、自分があたかも浄化が進んでいて心に疾しさがないと思っていても「自分の心は清らかだ」という思い込みがあるからこそ、それが見えないこともあると思います。 「争いごとは嫌だ」とか、「あの人は未熟だ」とか自分が安定した状態にあるために他人を忌避し、そこで起こる嫌悪に関しては「自分の波長を高く保つための正しい反応だ」と考えがちです。 しかし、ここに潜む嫌悪感にこそ他者に対する対立軸があり、他人を蔑み忌避する薄暗い感情が横たわっています。 例え嫌悪を押し殺して波長を安定させても、それでは浄化された高い状態の心とは言えません。 そこに気づかない限り本当の浄化には至れず、またあまりに足元の見えないところにあるが故に誰もが陥りやすい闇なのではないでしょうか。 私は最近、この闇が自分が思うよりも遥かに大きく、また根深いものであることに気づきました。 ただ、自分の心の底で抱いている分には自分が損するだけなので構わないのですが、もしこれが一旦表に出てしまったら取り返しのつかないことになっていたと思います。 私の弱点はだいたい義憤として現れることが多いのですが、その義憤も自分の歪んだ感情を理屈にしただけに過ぎないものです。 己の劣等感や嫌悪感を、あたかも社会正義であるように正当化して、嫌悪の対象が悪であるかのように語る癖があります。 それらは基本的に、自分にとっての都合だけで善悪を決めているに過ぎません。 ここに無自覚であればあるほど「正義」や「信念」は排他的になるため、危険なのです。 私は、先日のブログで「国内のニュースは腹が立つから見ない」と書きましたが、他に見ないようにしているのが、国内のエンタメコンテンツです。 私もクリエイターの端くれですから、思想もありますし技術的に作品の良し悪しは考えます。 しかし、それ以前に近年のコンテンツに対する忌避感には、劣等感や嫉妬心も多分にあると思います。 私は長年やっているわりに無名の作家ですし、むしろ最近わざとキャリアを巻き戻すことさえしました。 それは必要に駆られたとは言え、決して口惜しさがないわけではありません。 人気があって勢いのある作家に対して嫉妬心は当然ありますし、「なぜ彼らのようになれなかったのか」と残念に思う心もあります。 ただ、ここで抱く劣等感は「自分が望む状態にない」ことの自覚から起こるものです。 それは私の意識があろうがなかろうが起こる感情であり、つまりは「自分がうまくいっていないから羨ましい」という動機なのです。 仮に自分が上手くいっているという自覚があるならば、成功している人や優秀な人を眺めても自分と同じかそれ以上に見え、尊敬すらできるでしょう。 まして、その違いを「個性」と認め協力を要請したり、共存共栄の道すら模索するはずです。 しかし、ここに不満が生まれると、どうしても自分が正しく相手は間違っているという理屈をつけたくなります。 相手がいかにも才能があり、幸運で、若くて、性格が良く、良い生活をして、精神的に豊かで、健康で、平和な環境で、お金に恵まれ、良いところに住み、友人に囲まれ、温かい家庭もあり、異性との付き合いもあり、社会的な評価を得て、確かな将来性もある、そんな風に見えてしまいます。 そんな人が自分をさて置いて幸せになっていくのが妬ましいから、どうにか間違っていることにして、あたかも不幸になる道筋を歩んでいるように考えて溜飲を下げたくなります。 しかし、その相手が例えそうだったとしても、自分が相手の不幸を望み糾弾し、足を引っ張ったところで自分の状況が良くなるわけではありません。 私は、この感情が全くないと言ったら嘘になります。 自分よりも若くて新進気鋭の作家が成功し、自分の作品よりも遥かに良い傑作を世に出しているのを見て、心が揺らがないはずがありません。 こういった状況は、絵描きでなくても誰にもあることでしょう。学生でも会社員でも、ましてや子供にすらある、誰しもが持つ嫉妬心です。 実は、これに対する処方箋は「自分も負けないように頑張る」ことではないのです。 負けないようにいくら努力したところで上には上がいますし、それどころか自分にない部分は全て羨ましくなるのが人間だからです。 全ての要素を兼ね備えることは実際に不可能で、いくら完璧人間になれたとしても完全な達成感に至ることはできないでしょう。 では、この無限に湧き出る嫉妬心に対してどうしたら良いのでしょうか。 それは、「自分が嫉妬している」ということを絶えず自覚し続けることだと思います。 人間は、無自覚なことは死ぬまでやり続けてしまう生き物です。 どんな癖も病気も、とりあえず自覚しないことには対処しようがなく、自然と良くなることは稀です。 これは人格に対してもそうで、例えば「自分は嘘をつかない」と思っていても、嘘をついている自覚がないだけで実際に嘘つきな人はたくさんいます。 まず、このスタートラインに立たなければ話になりません。 ただ、「自覚する」という作業を続けることで、徐々に改善も対応力も深まってくるものです。 私が他の絵描きを見て、「この人は良い絵を描く、悔しい」と思った瞬間、「どうせこいつは消える」と思いたくなる心が浮上する前に「ああ、俺は嫉妬しているんだ」と自覚すれば、「この人は良い絵を描いて羨ましい」と素直に認めることができます。 この心のプロセスを歪めないように真っ直ぐ元に戻すだけで、嫉妬心は正しい形でモチベーションに繋げることができるのです。 これは、「嫉妬しないようにしよう」と思うよりもずっと精神的には健全な考え方です。 自分の負の感情は抑圧してもかえってストレスになるだけで、負荷をかけたところで不満の種が消えて無くなる訳ではありません。 むしろ、負の感情はきちんと表に出してあげて、口や手に出る前に心で受け止めるだけでわりと抑え込めるものです。 これは実際に勇気がいることなのですが、痛みを伴うからこそ、この心理機構に向き合える人はあまりいません。 大抵の人は嫉妬心に無自覚で、感情を歪めた結果もう解くことができないくらいに絡まり、雁字搦めになる人ばかりです。 実は、世の中で狂っていく人ほどこの術中にハマって抜け出せなくなるのです。 「他人が羨ましい」という気持ちは、自分が今の自分に納得がいかないからであり、自分が欲しいと思う状況が作り出せないことが自ずとわかるからこそ、その先を行く人が輝いて見えてしまいます。 「隣の芝生は青く見える」ものですが、大抵の場合は自分の庭の芝生も十分青かったりもします。 もしかしたら、私が他の人を羨ましいと思う時、自分も誰かから羨ましいと思われているかもしれません。 自分にはないものを欲しがるのが人間というもので、自分が違う状況で同じことをやったら同等に上手くできるかもしれず、そうならないのは自分がそうするつもりがないだけだったりします。 私には私の事情があり、やるべきことがあるからこそ違う道を選べないとか、個性や信念があるからそうなれないだけのことを、真剣に嫉妬するべきではないのかもしれません。 そうして当たり構わず羨ましがるのは、どこかしら「不幸感」を抱えているからです。 自分が最高に幸せだと思い、満足していたら他人のことはどうでもよく見えるものです。 だから問題にすべきなのは自身の心の煮え切らなさであり、自分の環境に対する不満であり、そう言った納得がいかない部分を突き詰めてみることです。 これは思ったより難しく、勇気のいることです。 けれどこのプロセスを辿らないことには、自分の心の闇ときちんと向き合うことができません。 私は、その闇が思ったより大きく問題が複数あることに気づきました。 そのわだかまりを浄化しないことには、自分の悪意を芯から取り去ることができません。 これは一朝一夕ではできない作業ですが、どうやらこの道を通らなければならないようです。 「自分を正しく認める」というのは、考えている以上に難しいことです。 人生は思うように行かないのがデフォルトであり、不満を覚えない生き方などそう易々とできるものではありません。 けれども、どこかに必ず肯定できる道筋はあるはずです。 こんなつまらないことで躓くようでは、私を導いて下さる神様に正面から顔向けすることはできません。 「神世」というのは、ずっと志が高い世界なのだと人々に思わせなくてはなりませんし、「こんなものだ」と思われたら神様に恥をかかせることになります。 そのためにはまだまだ自分と向き合い、心を磨いていかなくてはなりません。 PR