「神世」の完成
- Category:神世考察
- Date:2025年06月21日
本日6月21日、いよいよ待ちに待った「夏至」が訪れました。
現在の体感ですが、これまでの季節分点で起こるエネルギーの変化は、外部的な流れに合わせるのに苦労することが多かったように思います。
しかし今回の夏至は、感じたことのないエネルギーの変化にぶち当たるというより、今まで捉えようとして捉えきれなかった流れをしっかり掴めるようになった、という感覚に近いです。
ゆえに、すでに自分の中にあった不安定なエネルギーにしっかり乗ることができるようになった、という表現が最もしっくり来ます。
だからこれまでの節気であった「合わせさせられている」強制感はあまりありません。
つまり、これまで半分足を踏み入れていた気場だからこそ、エネルギーの変化に違和感を抱くことはないのだと思います。
日常の中でこの数日、「らしくない」感じの変化を起こしている人も目にするようになりました。
これまでやたら感情的だった人が大人しくなり、少し理性的に振る舞い始めました。
いつもフワフワした短文を書いていたような人が、急に抽象的な長文を書くようになったのを見ました。
これはどう考えても「火」のエレメントの変質であり、要は「形而上学的なエネルギーの強まり」です。
火のエレメントは、純度の高い正の働きをする時に哲学的な様相を持って現れます。
神性というのは哲学的なエネルギーですから、人々の思考の抽象度が高まるのは理に叶っています。
このエネルギーの純度の高さと強度を観察するに、この分点から人々に意識改革が起こって来るのではないかと思います。
これまで違和感に気づきながら、モヤモヤしていた状態から思考がクリアになり、思いもつかない発見やロジックを見出して突破口を開き始める、そんな気がします。
実は、私は春分あたりから何となく「世界線が変わったのではないか」と疑念を抱いていました。
それは私が体感的に神世のエネルギーと触れ合っているだけでなく、2025年問題にあるような不慮の出来事がタイムラインから遠ざかっているような気がしていたのです。
半年前あたりには、崩壊する建物や廃墟、死して蠢く人々など、夢にしろ白昼夢にしろ不穏なビジョンがたびたび見えていました。
しかしこの数ヶ月、ほぼそういう予知は感じなくなり、むしろ別の形でソフトランディングするのではないか、という感覚の方が強くなって来ました。
とは言え、2025年7月問題を否定する要素はありませんし、日月神示では「旧暦9月6日」ということがしきりに言われており、そうでなくても南海トラフなどの自然災害のリスクは依然あります。
ただ感じるのは、神々が「災害やカタストロフで人々を変革する」というシナリオを選ばなかったのではないか、と私は何となく感じています。
この「平和的なエネルギー」は温かく優しい反面、鋭くて強い部分もあります。
少し邪な感情がある人がこの気に触れると混乱するでしょうし、生理的に受け付けない人も中にはいると思います。
けれども、このエネルギーを受け止めることができた人は、おそらく内面から湧き上がる力に押し上げられ、思ってもみない衝動で行動を起こし始めるような、そんな印象を抱きます。
現に、私はどんどん多動になってきており、多動だけど決してやり散らかす訳でもなく、小さいことを一つひとつ片付けながら廻る、という感覚に近いです。
これまで感じていた霊障や憑依は、私がお祓いや自己浄化によって因縁を断ち切る前に、波動が強まって自分の「気」で邪気を抑え込めるようになったことに気づき、少し驚いています。
おそらくこれが、「神世の気場を使う」ということです。正しく神を感じ、神の力が宿るという感じがします。
しかし反面、自分の気が強まりすぎて肉体的になっているというか、逆にスピリチュアル的な部分が感じにくくなって来ました。
これまで、精神的なエネルギーで駆動してきたからこそ、神や霊的感覚を強く感じていました。
ただ神世の気場に入ると、「身体と魂と神性が一つになる」ようで、言ってみれば神様と自分の意識が分離した状態にある必要がないのです。
ゆえに、これまで以上に自分らしくあり自由でありながら、神の意志は強く神の意識の中で行動している、そんな実感があります。
ゆえに、この気場のエネルギーを汲み取る人ほど、神を意識しなくなる気がします。
それは無神論、物質主義に堕ちることではなく、神を宿すからこそ神に無自覚となり、神を忘れながら神の声を聞く状態になります。
だからこそ神を特に意識しなくなり、信仰心や宗教的習慣は相変わらず大切なのですが、それだけに頼ることはなくなるかもしれません。
「神世」という気場が完成し、このエネルギーを降ろして使う人が増えるにつれ、占いや宗教などスピリチュアルな知識に関して無頓着でありながら、優秀な感性を持ったスピリチュアリストが誕生していくことになると思います。
これまで「気づき」をしていた人々がいよいよ目覚めて、覚醒を深化させていくフェーズの中で、神性を取り戻して生き方を変えていく人も増えていくはずです。
私は、この変化はどんなカタストロフよりも世を変える力となっていくのではないか、そう感じずにはいられません。
しかし、これら「目覚める世界線の人たち」に神世の気場が開かれるとして、去年の冬至点以降「目覚めを選ばなかった人たち」がどうなるかは正直わかりません。
これは神々が何度も念押しした確認事項で、いわゆる五次元世界との分岐、日月神示で言う「神と獣の道」で破滅的な方をあえて選んだ人々を神々はどうするおつもりなのか、人間である私には図りかねます。
ただ神様がなされることには無駄がないので、やはり何かしらの意味があるのだろうと思います。
私が長らく戦ってきた憑依と霊障は、ここ数ヶ月の話ではなかったのです。
生まれてこの方、憑依から抜け出せたことが殆どなかったと言っていいくらいです。
そこで襲う憑依体は、明らかに「神に仇なす者たち」の部類であり、私を苦しめてきた霊団が現在の人間社会を作り出した者たちと同一存在なのは確信しています。
彼らの支配する「お金とモノ」の世界は、単純な幸福のメカニズムでありながら、精神的な豊かさを否定し神を無きものにする思惑がありました。
人間は「細胞で作られたロボット」であり、魂など存在しないからこそ神も存在せず、あらゆる精神的事象も物理現象であり、科学的処方で全てがコントロールできることにしたかったのです。
そうすることで医療や製薬、果てには電脳の分野で人間を金づるにし続けることができます。
人間の精神活動も肉体活動も、全てを「消費活動」に結びつければ、人生を通じて経済システムの歯車として搾取し続けることは可能でしょう。
これが「神に仇なす者たちの計画」であり、私たちはまんまと術中にハマっていたわけです。
あらゆる悩みも、自分らしく生きられない苦悩も、「人間はお金を稼ぐ生き物である」という思い込みと幸福への義務感から生じてきたのです。
ただ、それも間もなく終わりを迎えます。
金融を主軸とした経済文明は全世界で修正不可能な状態に入りつつあり、少なくとも3年以内に世界経済の中心にあるアメリカは崩壊するはずです。
私は、我が国に自然的なカタストロフが起こらずとも、日本という国家の傘となり柱となっているアメリカが崩れることの影響の方が決定的なのではないか、と思っています。
ゆえに近年スピリチュアル業界を騒がせてきた「2025年問題」は、カタストロフと変革による立て直しを矮小化している印象を拭い去れませんでした。
現実的にこうして未曾有の変化が予測できるのに、いつ起きてもおかしくない自然災害や食糧危機にばかり気を取られるのもおかしな話だと思うのです。
仮に、iPhoneが使えなくなるとかGoogleがサービスを停止するとか、そう言った具体的なことが起こる可能性もありながら、そうなった場合のことを考えている人はあまりいません。
神世の気場はかつて「幽界」と呼ばれていた、霊界の最下層を払拭して新たに作り出した波長の高い霊域です。
地球が次元上昇することで、現界と呼ばれる物質次元は霊界により近い場所に位置することになります。
神々がこの気場を作るために幾年もかけて幽界を整理し、世の邪気を浄化し続けて来ました。
私自身もそれに参加して気場を作り上げてきたのは、人の世を形成する「神に仇なす者たち」の領域を削り取っていくことを意味しました。
そして、その気場がいよいよ完成したということは、神々のご計画は寸分違わず遂行され、古い秩序が滅び新たな世界が生み出されることを意味します。
つまり神々の奪還であり、神に仇なす者たちの退却です。
私は、ずっとこの時を待っていたのだと思います。
これまで何十年も耐えてきた日々は、この時を体験するための準備だったのでしょう。
何の因果かはわかりませんが、私は使命を持ってこの時代に立ち会うことになっていたようです。
私の半生はかなり酷いものでしたが、それも報われる時に来たのかもしれません。
私は、私をこれまで苦しめてきた人や目に見えないものに対して、滅べばいいとは思っていません。
全ては神々より大いなる神のご意志であり、悪も闇もその一つの役割を演じてきただけに過ぎないことを理解しているからです。
むしろ、わかりやすい形で滅ぶよりも、気づいて改心し、反省しながら余生を淡々と生きてくれれば良いと思っています。
彼らの行いに対して懲らしめられるべきとは思いますが、滅んで欲しいと願っているわけではありません。
彼らのことは大嫌いですが、私としては嫌いな部分がなくなればそれで良いのです。
私はやはり、人間というものを放って置けません。
人間たちは私をコテンパンにしてくれましたが、私の頼りにする人も大切な人も、皆同じ人間です。
その愛憎の中に生きていることが人間である証であり、人間である以上は彼らのために生きることになるのです。
人間は嫌なところも沢山ありますし、正直疲れます。
けれど、人間に嫌悪しながら、それでも愛してしまうのが私の人間たる由縁です。
そんな彼らのために生きることが私の使命であり、また神様もそうするように願っているように思えてなりません。
なぜこんな運命を背負うことになったのか、一生かけてわかるものでしょうか。
ただ一つ言えることは、そのうち報われる予感がするのです。
それがどんな形なのか分かりませんが、決して悪くはならない、そんな気がするのです。