招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

努力を嘲笑う者

楽太郎です。

最近はだいぶ、人の世について関心を失っていました。
変わる気のない人があまりに多すぎるように見え、何を言っても何をやっても意味がないように感じていたからです。

相変わらず自分以外のものに原因を探し出し、その悪を叩き潰せさえすれば、世の中はオセロがひっくり返るように良くなると信じているように思えます。
しかし、この街中のどんよりとした不況感、人々の苛立ちや暗すぎる反応、何をどうしたらこの人々がやる気を取り戻せるのか、私には何一つ見えてくるものがないのです。
今まさに世が破滅に向かおうとする中で、世の中が劇的に良くなる兆しはどこにあるのでしょうか。

私は以前、SNSで言論的な活動を行い、世を変えようと努力していた時がありました。
その時に相手にしていた論敵は、本当に手段を選ばず、人を貶めることに対して抵抗感のない人たちばかりでした。
私はもはや一般人を相手にしているのではなく、反社の組織か外国の政府と戦っているのではないか、とまで感じていました。

その頃を思い出して、彼らを今更どうしようとか、どうなって欲しいと思うことはありません。
私の意識はもう違う次元にあり、おそらくもう関わり合う必要のない人たちだからです。

彼らは、とかく嫉妬深かったのが印象的です。
自分の生まれや育ちが悪いとか、社会が悪いとか国が悪いとか、自分以外のものに不幸の原因を定め、そのルサンチマンを原動力にして世の中を変えようとする人たちでした。
自分が何一つ曲げることなく可能な限り楽をして結果を得られる、そうなる世の中こそが理想であり、その理想が叶わない社会が悪なのだと思い込んでいるようでした。

だからこそ、きちんと努力をして結果を出している人たちに対する風当たりは異常でした。
肩書きのある、顔も名前も出している人々に対する誹謗中傷は止まるところを知らず、犯罪紛いでは済まされず、実際に犯罪行為に走った人もいました。

なぜそれほど彼らが怒るのか、私には理解できませんでした。

「怒り」という感情だけで、自分の命まで投げ出して目的を果たしてしまいかねない、そんな危うさを彼らから感じていました。
私自身も身の危険を感じましたし、実際に入院するところまで追い込まれた人も知っています。
時には彼らが人間ではないのではないかと、それほどの破壊衝動に恐怖を感じました。

彼らは「怒り」と「嫉妬」という感情が共鳴した瞬間、恐ろしいほどの団結力と連携性で立ち向かってくるので、とても正論では歯が立ちませんでした。
正論どころか、こちらのロジックは元より言葉尻すら捻じ曲げてくるので、まともに議論することができませんでした。
仮に論破に成功しても、彼らの原動力は感情なのでまた違う切り口で挑んで来るのです。

「SNSでの議論」などの表現ではとても生温い、地獄のような誹謗中傷の嵐の中で、何とか自分の意見を広めようと努力しましたが、所詮はSNSというエコーチェンバーの中の話で、外の世界では全く異なる脅威が広がっていました。

その全てを具に見た時、この国が本当にどうしようもない状況に置かれていることに気づきました。
SNSから撤退するのも「逃げた」と嘲笑われるのは承知でしたが、それ以上にこの国がもう持たないことを知り、それを何とかしなければならないと悟りました。

もはや、この国に蔓延る邪悪は日本人が知りうるよりずっと深く、一度沈まねばならない状況に置かれることを確信しました。
そして、私はこの状態の日本を救えるのは神仏だけであると悟り、もし日本が一度沈み切った後に望みがあるのならば、そこから新しい国を作って行くしかないと決意したのです。

なぜ、あれほど怒りに満ちた人々がこの国に生まれてしまったのか、様々な理由を考えましたが、彼らが同じ日本の一般人であることを前提に語ろうと思います。

彼らの特徴と言える「嫉妬深さ」の根源には、「自分らしく生きられなかった」という怒りが潜んでいるように思えました。
確かにバブル崩壊後に大量に発生した就職氷河期の世代、いわゆるロスジェネは卒業しても定職に就けないという厳しい世相にあり、中途採用では優良企業に就職し難く、アルバイトなどを転々としてきた人が多かったのも事実です。
実際、私がSNSで相手にしていたのは、この世代と一つ下の「ゆとり世代」と言われた人々でした。

彼らがどんな生き方をしてきたのかは想像できませんが、その嫉妬深さの裏には「勝ち組・負け組」という価値観に翻弄され、社会的に勝ち組ではないとしても、自己実現をして成功している人々に対する怒りが主体となっているように感じました。
彼らも、おそらく「勝ち組」になるためにやりたくもない競争に駆り出され、必死に努力しながら小手先で品評され、野に投げ出された人も多かったのではないでしょうか。

私も近い経験をしていたので、よくわかります。
私は精神病を15年患い、一度は障害者として暮らしていたこともあります。
挙げ句には病院にも見放されたり、精神障害を持つがゆえに低賃金で働かざるを得ず、地獄の地面を這いずり回るような経験もしました。

だから、彼らの嫉妬心は自身の半生に対する悲しみから湧き上がってくるものであり、自分に対してこれ以上責められない苦しみから、怒りを世間に転嫁せざるを得なかったのだろうと思います。
私は、彼らの気持ちが何となくわかってしまうからこそ、「あなたたちも努力すれば良かったでしょう」とは一概に言えないのです。

現に、私自身がこれまで絵を3万時間は描いてきて、知識や技術がいくらあろうと今の社会ではやって行けなくなったわけです。
とは言え、全てを世の中のせいにすることもできたのですが、私は諦めの悪い性格が災いして、世の中を変えてでも生き残ってやるという気持ちでやってきました。

彼らを一概には責められないとは思いながらも、感情を向ける方向が間違っていると言わざるを得ません。
その感情で人の足を引っ張り、他人を自分と同じ立場に落とし込んだところで自分は1ミリも這い上がれていないどころか、全く救われてはいないからです。

私は彼らを観察していて感じるのは、彼らが最も嫉妬する理由は「成功できなかった」からではなく、「本当にやりたいことが見つからなかった」「本気で努力に値する何かを見つけられなかった」ことの悲しみがあるのではないか、と思います。

努力を嘲笑う人は、努力を「無駄な工程」であると感じるようです。
ある目的があり、その目的を達成するためには積み重ねが必要なのは当然です。そのプロセスは練習であったり、反復行為を何度も繰り返し、次第に精度を上げていくための習慣づけであり、彼らはそれを「努力」だと信じ込んでいます。

ただ、「努力=苦行」ではありません。
毎日練習したり勉強するのが苦痛なのは、目的が見えていないからです。
達成目標が予めあり、その実現の喜びが見えているのなら、その間のプロセスは必ずしも苦しいだけのものではありません。

私たちは学校でやりたくない宿題を預けられ、行きたくもない塾に行かされ、やりたくない授業を受け、「やりたくないことをするのが勉強」だと思い込まされてきました。
それは「苦しいことをするのが努力」という価値観に転嫁し、勉強も努力もなるべくしたくない、という感情に変わっていきました。

しかし世でうまくいくには勉強も努力も実際は必要で、けれども成功者は自分が死ぬほど努力してきたとは言いたがらないものです。
ましてや、「生まれつき能力があったから」と言えば、箔がつき特別視されるでしょう。
その言説が「努力をしたくない」という感情と混ざり合い、「努力せず成功する人がカッコいい」という風潮を生み出してしまいました。

こうして、「社会で成功するべき」と「努力はダサい」という二つの考えが共存することで、勉強や努力を嫌いながら結果を求めるという思考が完成したのだと思います。

けれども、ここでの最大の誤りは「努力は辛くない」ということです。
例えば、ゲームの攻略に行き詰まりネットで攻略法を探し、そのために試行錯誤することが「苦痛」かと言うと、やりたくなかったら苦だし、やりたかったら楽しいはずです。

この心理的な差は、外部の条件がどうではなく自分の主観的なあり方次第です。

確かに、気の向かない日でも習慣だから、ノルマがあるから今日もやらなければならない、というのはあります。
しかし、そこで諦めて気が楽になるようなら、そもそもやりたいと思っていないのです。
やった先に目標があるからこそ、一度や二度くらい休んでも、やりがいを得るために再度取り掛かることができるからです。

努力を嘲笑う人は、努力という苦行だけが目的到達の手段であったり、小手先の方法で目的を達成するかの二択でしか成功のビジョンを描けないのです。
ただし、「努力」というプロセスが必ずしも苦痛を伴うものでない以上、毎日のルーティンに組み込まれた訓練が成功にとっての正攻法であるのは変わりがありません。

従って、目的も曖昧で手段も避けている以上、何かを成し遂げることができるはずはないのです。
そのことに無自覚だからこそ、きちんと手順を踏んで実力を身につけ、よしんば成功した人を妬む道理は存在しません。

もしかすると、自分にも確固とした目的があり、色々なものを犠牲にして努力したけれど、その成果が社会に握り潰されてしまった、という人もおられるかもしれません。

では私の話をするならば、私が絵を本格的に描き始めたのは35歳の時です。

20代で精神病にかかり、以来数年間、何一つ手がつけられなかった時期を経て、ある時に病院の廊下でスケッチを始めました。
そこから絵を学びプロになり、これまで3万時間を絵に捧げて来ました。
それでも食えない現実はあります。しかし私は1ミリも諦めてはいません。

本当に魂から目的を感じるならば、どんな障害があろうと目的は達成したくなるものなのです。
それが、自分のことを見つめることから逃げ、曖昧に生きようとするから何をしたら良いのかわからなくなるのです。

いくら他人を恨み、世を呪ったところで自分のことは理解できず、目的もないから何も達成することができず、ゆえに幸せになることができません。
今更それに気づけとは言いませんが、努力を嘲笑う者は努力を嘲笑うからこそ真の成功には至れないことを胸に刻むべきだと思います。

人間は一度きり、この世に生まれて来ます。
人生で取り返しがつかないことはほとんどです。しかし、やり直しはいつでも何度でもできるのです。
そこに気づこうとせず、自分の人生を投げ出したままであれば、どうにもならないのは自分の意志です。

それは他人のせいではなく、世の中のせいでもないのです。
人生の責任を転嫁している以上は、自分も世の中も変えることはできません。

今回は、私の人間的な部分がモロに出てしまう記事になってしまいました。
あまり書きたい内容ではなかったのですが、書かなければいけない状況だったので仕方ありません。

最後まで読まれた方にとって、得にはならない話だったかもしれません。
お恥ずかしい限りです。お目汚し失礼しました。

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