神から授かる力
- Category:神人関連
- Date:2025年05月09日
深夜1時、ふと目が覚めた瞬間、寝てる間にずっと光を見ていたような感覚がありました。
瞼には微かに、太陽の焼きつきのようなものが見えていました。
変な夢も見なかったのですが、大事にしていた観葉植物を枯らしてしまったことを思い出していました。
どれだけ愛情をかけても、自分の念だけではどうにもならないことはあります。
良かれと思ってやった行動も、裏目に出たからこそ上手くいかないこともあるかもしれません。
何となく目が覚めてしまったので、起きて絵を描き始めました。
今、版画の技法を確立するために色々と実験をしている最中です。今回は、インクの特殊な配合に関して知見を得ることができました。
ふとPCの画面が自動的に立ち上がったので、何となく意味あり気な気がして、久しぶりにアプリを立ち上げて絵を描き始めました。
すると、これまで抵抗しか感じなかったデジタルの波動を抑え込めている感覚がしました。
よく観察したら、紙に絵を描く感覚でタブレットに描き込んでいるので、「紙」という道具レベルにマシンを落とし込んでいるからだと気づきました。
私は今、かなり高い周波数帯に意識を移している最中なので、物質次元にエネルギーを降ろしてくるには、その分リーチが長くなります。
これまでの宇宙的次元において人間は物質的なエネルギーを物質に使うには適した仕組みでしたが、次元上昇した地球においては抽象的なエネルギーを物質次元に変換し直して具現化することになります。
ゆえに、「モノ」という現実の存在を霊的なレベルでコントロールするパワーがないと、精神的なエネルギーを「モノ」に落とし込むことが難しいのです。
私はこの数ヶ月、ずっとその訓練をしていたように思います。
土をいじったり植物の世話をしたり、料理を作ったり家事をしたり、何気ない暮らしの中で「モノを操る」という力を強化していました。
絵を描くのに紙と鉛筆を使うようになったのもそうで、このアナログの感覚をデジタル描画に落とし込むことで、PCの波動を操ることができるようになったのだと思います。
これさえできるようになれば、後は私のターンです。
ただ、これまで同様にやれはしないのもわかっています。以前に増して、神様からの期待がかかるようになってきたのを感じるからです。
「才能」とは、確かに神様からお借りしているものだと思います。
人間の魂も神の「分身霊」であり、それも預かり物であるとは思うのですが、精神的なエネルギーも元は神様から与えられているものです。
「愛」や「慈悲」は、その精神的エネルギーの中で最も波長が高く、それゆえ神の本質に近いエネルギーであります。
人間は、神様から流れてくるエネルギーを使って人を助け、自分自身も成長し幸せになります。
「才能」も全く同じで、ただ才能とはセンスだけではなく、知識と技術と飽くなき探究心がセットでなければモノになりません。
「何となくできる」というだけでは、どこかで疎かにしてしまったり、行き詰まりやすいものです。
その意味において、実践と訓練と習得が噛み合って才能は育まれていきます。
その力は神様から授かるだけではなく、自分の力で発展させ応用させていかなければ、何をしても絵に描いた餅になりかねません。
その才能は、私は一人一つではないと思います。
センスは個性に宿るものであって、要は活かし方次第です。
興味があって深く学んだこと、好きでやってるうちに得意になることも才能になり得るわけで、興味と習熟が噛み合えば活かせる分野は無限にあるからです。
これまで、その才能は人間社会でうまく発揮すれば、お金になり自らの成功と豊かさとなり、才能も自分本位に使うこともできました。
これまでの人の世は才能を使わずとも金銭的には豊かになれましたし、自分本位で才能を使い経済的に豊かになれば、「才能」としては十分な機能を果たせました。
しかしこれからの時代、「才能」の使い方を神様がお決めになられるとしたら、昔のように自分のためだけに才能を発揮することは許されないかもしれません。
特に、神様からお役目を頂くような人々は、まず第一に自身に与えられた才能の目的を見定めなくてはならないでしょう。
人間の精神的なエネルギーが神から与えられているとしたら、それは神様からお借りしているものです。
神様からお借りしているものを、自分の目的にだけ使うのは許されるのでしょうか。少なくとも、自分の欲望を満たし、あるいは金銭的に満たされるために使うような方法です。
神様がその力を人間に授けるのは、自分が生き抜くためだけではなく、人の役に立ち神のお役目を果たすためです。
従って、授かった力は他者や神様のためにも使うべきですし、その使い道はむしろ奨励されるでしょう。
そして、神様から期待をかけられている人ほど、その力を世のため人のため、神様のために使うと信頼されているからこそ、強い導きが与えられているのだと思います。
私は、土の時代の生き方のように、人気取りや収益のために才能を使うことをやめようと思います。
神様から授けられている才能は、これまでの知識や人との出会い、技術の向上を後押ししてくれたあらゆる経験から培われたものだからです。
その背後に神様のお導きがあるからこそ、私は絵を生業にしていけるわけですし、漫画も文筆もイベントも色々と展開していく能力があります。
少なくとも私は、どの時点からとは言わず、生まれてからずっと神様からお導きを受けてきたという実感があります。
だから、自分勝手に自分の能力を使う気にはどうしてもなれないのです。
先日、私は足首を軽く骨折しましたが、歩けなくなってわかったことがあります。
天気の良い日に、杖をつきながらトボトボと歩いている時、強い風が吹いて飛ばされそうになりました。
空は急に曇り始め、いつ雨が降ってもおかしくない天候になりました。
ここでにわか雨にでもなればびしょ濡れになるのは避けられませんが、ろくに歩けないので逃げようがありません。
この時、私が気づいたのは、雨が降ってきた時に走り回れる足があるからどこかに駆け込もうとか、焦ることができます。
しかし足が悪くてそれができなければ、無抵抗に雨に打たれるだけです。
焦るのは動き回れるからであり、動けなければありのままを受け入れるしかなく、むしろ心は平穏なのではないかと思いました。
つまり、起こりうる事象に対して抵抗したり、代替を試みるから雨風も困難に見えるのであって、抵抗せず自然に任せれば雨風に打たれても、冷静に目的地へ歩み進むことができるのです。
これは不自由なことに見えて、実は自由であったがゆえに障害となっていたことを意味します。
あえて行動しないことは不自由に見えて、成すべきことが明確であるがゆえに揺らがず、「行動しなければならない」という事柄からは相対的に「自由」なのです。
だからこそ、私は自身の才能の使い方について、完璧に「神に委ねる」ことにしました。
自由に自分の才能を発揮しようと思うからこそ、神様や人様の願いを聞くことが難しくなります。
私はやってもやらなくてもどちらでも良く、誰かが求めるから自分の能力が何らかの役に立ち、それが結果的に「才能」として認められるのです。
先に「才能」があり、才能を使うためにあらゆる事象が必要なのではありません。事象があるから才能が必要になるのです。
この考え方は、これからの局面を乗り越える上での指針となり得ます。
それが災害であっても食糧難であっても、邪気や世の風潮に対してもそうです。
抵抗し代替しようとするから、受け入れ難くなり解決が困難になることもあるのです。
私が何かを思いついて作品にする時、このブログもそうですが、その着想は神様から降ろされるものです。
それは私が考えて書いたように見えますが、私は形にしただけで神様のアイデアとエネルギーをお借りしたにすぎません。
その作品をどうするのかの権利は、神様にあります。
私は、神様のお考えで受け取るものが決まるだけです。
これと同じことを人間相手にやっても、あまりうまくいかないかもしれません。
これまで、人のためにやったつもりでも思うような反応を得られない時、神様の介在が頭にはありませんでした。
神様から与えられた才能やエネルギーを使う以上、全て自分がコントロールできていると思うこと自体、傲慢だったのかもしれません。
私は、自分が思っているよりずっと前から神様の呼びかけがあったのだと思います。
神様の声に、無意識に聞いたり拒否したりした自分がいたから、これまで上手く行くことと上手く行かないことの違いがわからなかったのです。
その反省や後悔もあり、あくまで神様に対して忠実であろうと心に決めました。
川にある岩は、水に抗うから削られていきます。
その岩も水に晒されるうちに丸くなり、小さくなってどこかへ行きます。
人間の一生も、似たようなものかもしれません。
私は決めました。全てを神様にお任せします。
私は雲のように水のように、あるがまま流れて生きていきます。