諸行無常と悟り
- Category:エッセイ
- Date:2025年06月29日
近頃は次元上昇関連の話と、憑依に関する霊的な話題ばかり扱って来ました。
私自身も仕事や神様とのお約束事もあり、霊障など取っ払ってガンガン動きたい気持ちはあります。
しかし、何の因果か憑依との付き合いが延々と続いています。
先日、「反転攻勢が始まった」の記事で書いたように、夏至以降の次元的な変化によって私の身の回りに起こることも変わりました。
これまで日常的に憑依と霊障はありましたし、習慣的に除霊作業を行ってきました。
私の除霊は「自己浄化」と「ひたすら神仏に拝む」のを基本にしています。
大抵の憑依は自分の平常心と異なる感情を選分け、自分の感情を見つめることで浄化していきます。
あとは、神様や仏様にお願いして連れて行ってもらうことで、私は何種類かの祝詞と般若心経を詠むことにしています。
これまではその除霊方法でスルッと抜けていくことが多かったのですが、困ったことに最近の憑依は祝詞やお経が通用しません。
憑依体の悪意もどんどん強まっているのを感じているため、「神など知るか」みたいなスタンスの方々なのだと思います。
彼らには儀式的な除霊は通用しないので、ひたすら自己浄化で対応していくことになります。
強い憑依はそれだけ身体にとてつもない苦痛をもたらすのですが、そんな彼らにも弱点があるようです。
私が笑ったり、人に親切にしたり善業を行えば抜けて行きやすくなるのです。
彼らは言ってみれば、光に対する闇の存在です。
闇は光で当てれば消えます。彼らは人間が呪い憎しみ合い、苦しんで惑いの中で死んでくれるのを最高の喜びとします。
その対局にある行為こそ、彼らが最も恐れ忌み嫌う「真の喜び」であり、人々の祝福や感謝や愛情を封じ込めるのが彼らの目的でもあるのです。
霊の世界とは「徳=霊性のヒエラルキー」で構成されているらしく、低い霊格の者は高い階層に上がることはできず、高い霊格の者は下の階層には自由に降りていけるようです。
その霊格とは波長域の適合性でもあって、いわゆる「徳の高さ」のようなものが指標になっているように見受けられます。
これを現実的に置き換えてみれば、私が人格を高めて霊性を向上させると、私の意識より下の霊格は私の霊力で抑え込めるようになります。
理論的には、私が霊格を高めるような精進を日々行えば、これらの憑依体は自分の制御下に置くことが可能になるはずです。
祝詞やお経を唱えたとて「神仏など知るか」というスタンスの方々を相手にしているわけですから、霊的制圧が目論見通りに行くのは難しいでしょう。
しかし、それほど強い念を持った霊でも何とか私が日常生活を送れるレベルの霊障で済ませて貰えてるのは、おそらくバックで神様たちが静観しておられるからだと思います。
奇しくも「七難八苦を与えたまえ」という傲岸不遜な記事を以前に書いているのですが、やはりあれ以来霊障が苛烈化しているので「言ったからにはやるんだな?」という神様からの試練が与えられているのだろうと思います。
何であんなことを書いたかというと、勢いで書いてしまったというか、神様に書かされたというか…
そんな経緯で、なぜか霊能者としてのお役目さえも与えられてしまっているのが今の状態です。
私としてはもっと他の才能を発揮したいところですが、神様のご用命ならば仕方ありません。
ただ、この除霊の過程を観察していて興味深いこともわかってきました。
最初、憑依と気づくのは心身に異常を感じるところから始まり、自分自身のエネルギーと違うエネルギーが身体の中にあれば憑依だと認識します。
霊障は私の感情や意識に大した影響をもたらさず、ひたすら身体の不調として現れます。酷い霊障は身体の形が変わるくらいの圧をかけられます。
これまでは身体症状は神仏に祈れば取り去ってもらえましたが、最近の憑依体はかなり頑固です。
それゆえ、何とか自力で浄化する以外にありません。
そこで、私が笑ったり楽しく過ごしたり、人に親切にしたりすると霊障が収まることに気づきました。
だいぶ以前から「邪気が一番苦手なのは愛情なのでは?」と推論を立てていましたが、どうやら闇の者は本気で光の性質を嫌うようなのです。
霊障を受けている時は物凄く体調が悪いですし、気分も最悪で物事を良いほうに考えるのは難しくなります。
だからこそ、そこで自分の機嫌を取り楽しいことを想像して笑い、人に優しくしたり親切にする行為は修行になるのだと思います。
これこそ、神様が私に「七難八苦」としてお与えになられた試練であり、私がより高い次元に行くための修行なのだと思います。
これらの霊障が生じている時は怒りや憎悪などの力強い悪意が私の心に流れ込み、私自身もその波長に気づかず取り込まれてしまう時もあります。
そういう時こそ己を見つめ、自分の正しい波長を見つけて自分の波動に戻していく作業が必要です。
興味深いのは、邪気が浄化されていくと終盤には「悲しみ」や「後悔」の念がグワッと押し上がってくるのです。
私としては、さっきまで何の根拠もなくイライラしていたのに、急に悲しくなって身体がスッと楽になるみたいな、心の病気にしか思えない一連の現象も、憑依と浄化の観点で見れば私の身体の中で憑依体が浄化されていったとも取れます。
人間は物質文明の常識の世界に暮らしていますから、自分が簡単に外部の念の影響を受けて意識も体調も変えさせられているなど思いもよらないでしょう。
ただ憑依は日常茶飯事以上に当然のことで、自我が目に見えない者たちの影響下にあり、それでも目に見える世界を生きる私たちは「自由意志」が存在すると錯覚しているだけなのです。
これらの憑依体が外れる時の悲哀は、ある意味「悟り」の物悲しさでもあると思います。
「般若心経」とは物事は全て形だけのものであって、形は変わるのだからずっとしがみつけるものではないのだよ、と目に見えるものに執着し続ける者たちに諭します。
死んでこの世を離れても尚、欲望や執念や憎悪を捨てきれない者たちがあらゆる霊障を起こしますが、その「色」もまた幻想であると説かれます。
霊の浄化が起こりうるとしたら、この「諸行無常」の悟りこそが悲しみの想念として現れると考えられます。
これまで「苦しめばいい」という憎悪を全てにして存在していた者たちが、そこまで執着する必要のあるものなど存在しなかった、と悟るならばその悲しみはとてつもないかもしれません。
神道における「お祓い」の語源はおそらく「ハレ・らう」であり、文字通り「気が晴れる」ことです。
気が晴れるとは、執念や憎悪やストレスからの解放と手放しであり、ある意味悟りとも言えます。
「祓祝詞」は、高天原におられる祓戸大神に罪穢れを取り去って頂くものですが、憑依体の憎悪や邪念が消え去ることは即ち浄霊を意味します。
ゆえに諸行無常の認識は悟りに至るスタートラインみたいなもので、それは人間にとっても死霊にとっても同じであるはずです。
「これは繰り返す意味がない」と気づく時は、自分がずっとやってきたルーティンに疑問を持ち、それらの行いを俯瞰して見れるようになった時に訪れるものです。
ずっと目の前のことに執着し、同じことを延々とやっているだけで満足しているうちは、真の意味で成長しません。
そこで起こる問題や行き詰まりから脱するためには一段上に上がらなくてはならず、その成長の一環として「悟り」があります。
「こんなことをやっても無駄だ」と悟ることは、これまでのやり方に疑問を持つことであり、ゆえにガッカリもするし懺悔も生まれるでしょう。
それが悟る時の悲哀であり、誰しも悟る前より悟った後の方が後悔が深く、自責の念に駆られるものです。
実は、悟る前よりも悟ってからの方がつらく、悟りきるまでが本当の修行なのだと私は思います。
私に取り憑くこれらの憑依体は「神に仇なす者たち」として、この物質文明を好き放題に作り上げてきた存在だと認識しています。
彼らの影響下にある「お金と力」が大好きな人たちは、この世界が変わることを許そうとしません。
そのために世界中の仕組みがガタガタになっても、何とか通常運転を続けようとしています。
しかし、そのルーティンも執着もいずれ「いつまでこんなことをやっているんだろう」と気づかざるを得なくなる時は来ます。
その「諸行無常」は誰が言い出したわけでもなく、歴然とした宇宙の法則ゆえに形あるものはいつか崩れるのです。
その瞬間の悲哀にこそ「悟り」はあるのでしょう。
しかし、いざその時になって慌てふためかないように天は気づきを与えようとしてきましたし、私もこうしてその一助をさせて頂いています。
「こんなことはいつまでも続かない」というのは誰もが事実だと認識し予期もするものです。
しかし、残念ながらそれをきちんと受け止められる人は決して多くはありません。
それは人間として生きていても死んでいても、大して変わりないのかもしれません。