招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

ちょっとスピった話

楽太郎です。
だいぶテーマの大きな話が続いたので、今回は閑話休題にしたいと思います。

とうとう、iPhoneがお亡くなりになりました。
と言っても、バッテリーを交換すれば復活するかもしれません。

AppleCareの修理予約が取れずヤキモキしてたのですが、お亡くなりになる直前、奇跡的に予約に繋がりました。
「真のグレートリセット」の記事をスマホで書いている最中、充電中にも拘わらず1分につき1%ずつ消耗していくので焦りました。
記事の途中でそのままバッテリーが尽き、ブログはPCで書き終えて公開しました。

そして未だに、いくら充電しても起動しません。
スマホを使い始めて十数年、しかも機種変して2年経ってないのに通常使いでここまで劣化したのは初めてです。
Appleも近年は業績不振に喘いでおり、いつもの「OSでバックドアを走らせてバッテリー消耗を加速させ、修理と機種交換需要を作り出す作戦」かなと思いました。
これこそ陰謀論ですが、有り得ない話ではない(前例がある)のがザ・ビッグテックです。

まあ、このブログは本来スピった話をする場所なので、グレートリセットの話を持ち出されたら困る闇の勢力の妨害ということにしておいた方が面白いかもしれません。

さて、本日9月8日の空模様はとても凄い星回りになっています。
厳密には真夜中の3時に満月と魚座で皆既月食が起こっていたので、過去形です。
私は頭痛が酷くて午前1時半に目が覚めてしまい、カレンダーの月齢表示を見て今日が満月だと気づきました。
私は満月の日の頭痛率はかなり高く、特に気の乱れを感じやすい日です。

体感としては、確かに邪気は強いのですが、それ以上に「浄化」の力を凄く感じます。
おそらく、ここらへんで「耐えきれん!!」と行動に移す人が続出するのではないでしょうか。
魚座は「過去」と繋がりの強い星座であり、「魚」は情緒や感情に繋がります。そこに「満月」が加わるので、「記憶」や「後悔」、あるいは「過去からのしがらみ」の精算が起きてくるかもしれません。
「目覚め」の後には、伸びをして布団から起き出すものです。そうして、「新しい一日」は始まります。

私は、これからの日本に心配をしていません。
私が危惧していたタイムラインでは、不況下での大災害があれば本当に人々が食うに困る段階まで行く可能性が高かったと思います。
しかし、やはり春分点で空気が変わり、日本が「ソフトランディング」する世界線に移行したのだと思いますし、それを機に人々の邪気も落ち着いたように見えます。

しかし、これから私たちの日常が、足元から変わっていく時代にはなるのだろうと思います。
私自身、iPhoneが使えなくなって、アプリが使えずブックマークも開けず、情報更新もできないのは想像以上に不便さを感じました。
私がビッグテック嫌いなのは置いといて、いくら人々の生活や仕事に欠かせなくても物事には栄枯盛衰があり、いつかはスマホを手放して違うものを掴む時は来ます。
それが見果てぬ最新端末なのか、ガラケーか紙とペンなのかわかりませんが、それを作るのも選ぶのも私たち次第です。

この時代の切り替わりも人類の「学び」のプロセスであり、これまで「物質」を追求して人々の生活が楽になる流れの反作用として、金と権力の偏りがもたらす負の側面がありました。
次の時代は、その反省を活かして物質的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさも享受して調和のとれた文明を目指すことになるのだと思います。

今の子供たちは、小さい頃に苦しいマスクをして生活せざるを得ず、不況と殺伐とした社会の中で、大人たちから一方的に与えられる知識と娯楽を受けて育ち、決して恵まれているとは言えません。
けれど、彼らがもう少し大人になる頃には、全く違う時代を自分たちで切り拓けるようになり、いずれは本当にいい時代にしようという機運を担って行くのではないでしょうか。

そして、彼らが歩む道を用意するために、私たち天から役目を与えられた「降誕人」が時代に先立って生まれました。
その数は思ったほど少なくないと思います。国内で数十万人、下手すると数百万人いるのではないでしょうか。
しかし、そういった天からの命持ちにとって、天界とは全く性質の異なるこの地上世界はあまりに歪で、散々いじめられ苦に負けた先で、諦めた者もいれば潔く闇に堕ちた人々もいます。

その中で、今こうしてライトワークを行う命持ちの人々は、苦に負けずに魂を磨き続けた勇者であり、その強い光があれば闇に惑える人々を救うことができるはずです。
そして、その光で未来ある子供たちや若者を導けるのなら、その先の未来に光を繋ぐことができるのです。

今、闇に包まれて一寸先も見えない日々に負けず、どうも「あの人はおかしいんじゃないか」と言われてでも、一心不乱に自らのやるべきことをやり抜く姿勢は、きっと周りを動かし、子供たちに「大人」の見せるべき背中を見せることができるはずです。
社会一般からは不甲斐ないと言われても、本当に大切なものを取り戻すためには、今とは逆のことをやらなければいけません。
その行動は、現時点では稀有にしか見られませんが、いずれ世界のスタンダードとなり、スタンダードにしていくべきものなのです。

私は最近、その役割を強く感じますし、逃げる隙すらないことに気づきました。
私は天界に、愛する人を残してきました。この世でいくつか仕事をするためです。
けれど、その不安にいつも寄り添ってくれる仲間がいます。

目に見えず、たまにいるのかいないのかわからない彼らですが、今でも高いところから見守ってくれているように思います。
彼らがしかめっ面でいるのか、笑っているのかは正直わかりませんが、私はきちんとこの世で仕事を果たし、良い土産を持って帰らなければなりません。

その日のために、私を待っていてくれる愛する人のためにも、私は彼女に恥をかかせる訳にはいかないのです。


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真の「グレートリセット」

楽太郎です。

先日から国際問題に切り込んだテーマを扱っていますが、ある意味危険な領域に踏み込んでいる実感があります。
それは別に世界を牛耳る「闇組織」を告発しているからではありません。
私自身が「陰謀論」と世間で片付けられかねない事象の話を取り扱っているからです。

これに関して、まず「陰謀論」を陰謀論と決定づけるものが何かを考える必要があります。
「陰謀」というからには、根拠にエビデンスがなく情報リソースも曖昧で、ロジックが飛躍していたり破綻していたり、妄想やこじつけが強ければ、そう断定しやすくなります。
しかし近年の「陰謀論」は、エビデンスも科学的でロジックもきちんと筋が通り、おまけに倫理的観点から見て正論としか思えないような言説でも「陰謀論」とされることがあります。
これは何故でしょうか。

私は「陰謀論」を作り出すのが決まって「権威」の側であるからだと思います。
例えば、「A」という論文と「B」の論文があって、AもBもどちらも正当なデータを元にロジックを組み立てていたとしても、権威が「Aは正しく、Bは間違いだ」と言えば、Aの説が何であろうとBの結論は間違っている、と客観的に評価されます。
AもBもエビデンスが等価だとしても、学会やマスコミが Aのロジックを採用し、Bのロジックは都合が悪いとするならば、自らの権限で「Bは陰謀論である」と結論付け、社会的評価を規定できてしまうことになります。
つまり、言説の強度を決めるのは「権威」であって、決して妥当性の高さや倫理的正当性とは限らないのです。

私は、ウクライナ侵攻の情報を追う中で、反省したことがあります。
それはロシアが一辺倒で悪と断定し、ウクライナ側の正当性だけを過大評価していたことです。
戦争自体を始めたのはロシア側であり、その国家的責任は許されるべきではないと思います。
しかし、どうもドンパス地域によるロシア系住民へのウクライナ政府の迫害はどうも事実であり、ロシアには軍事介入における論拠があったことを認めざるを得ません。
ゆえにウクライナ側が「正義」であり、ロシア側を「悪」と断じていた認識を反省しながら、戦争とは言え民間人を標的にした作戦や非人道的な戦術を続けるロシアを擁護することはできず、やはり戦争は「善悪二元論」で片付けることはできないのだと思います。

CIAの協力で誕生した現ウクライナ政府は「DS」の手先であり、ロシアが「DSから世界を守る戦い」をしているとか、あるいは西側諸国の民主主義を脅かす社会主義帝国の侵略と取り、ウクライナが民主主義陣営の代表として戦っている、という見解もあります。
これらの説は正しいか間違っているかというより、まず「善悪二元論」で捉えていることを考慮しなければなりません。
やはり戦争とは黒と白の入り混じるものであり、決してグレー一色とも言えず、とは言え、決して白と黒で見てはならないものであることは確かだと思います。
ゆえに、善悪二元論を排して見る利害関係にこそ真実が隠されており、どちらが正しくてどちらが間違っている、という断定では拾いきれないものがあります。

特に戦争のような諜報が基本となる出来事は、双方が「陰謀」というレトリックを用います。
事実のレベルからフィルターが掛けられた不確実な情報の中で、「正解」を踏み続けることは不可能であり、それゆえ「善悪」とも「陰謀」とも断定するのは危険です。

前置きが長くなってしまいましたが、要は「陰謀論」という断定は、かえって真実性にフィルターをかけてしまいかねず、その評価には「権威性」がつきまといます。
正誤の判断はエビデンスをしっかり見極めた上でロジックを吟味し、たどり着く結論が妥当かどうかを各自が考えるべきだと思います。
だから私は「陰謀論」という印象を抱かれないように努力しますが、論拠となるデータに関してはソース上の権利の関係で、今回は省きながら解説させて頂くことをご了承下さい。

さて、今回のテーマは「グレートリセット」についてです。
「グレートリセット」とは、「世界経済フォーラム」が開催する2020年度開催のダヴォス会議においてテーマとされ、世間を騒がせた概念です。

かねてから陰謀論の目玉とされることの多いWEFですが、Wikipedia日本語版の記事を読むと確かにツッコミ所満載です。
ここでWEF最高責任者であるクラウス・シュワブ氏の提唱をまとめてみます。

1. 利害関係者の経済の整備
2. 弾力的で公平、かつ持続可能な環境構築
3. 第四次産業革命の先進性の活用

この理念を実際に、WEFの具体的な推進事業に当てはめてみます。

1′.LGBTQ(性的多様性)、ポリティカル・コレクトネス
2′.環境エネルギー、脱炭素社会、EV、窒素肥料削減、家畜削減
3′.生成AI、AIロボット、自動運転技術

「うわあ…」と思ってしまいますが、これは決して穿った目で見ている訳ではなく、彼らの思想が具現化したものを私たちはこれまで見させられてきた、ということだと思います。
つまり、いつも隣にグローバリストがいた訳で、この支配感の延長に彼らが口にする「世界政府」はあるわけです。
決して、リベラル派やコミュニストの専売特許だったわけではなく、どうやら権利元は「世界経済フォーラム」だったようです。

日本語版Wikipediaによると、これらは「リセット」後に構築されるべき仕組みであり、その他に「経済グレートリセット」なる概念があるそうです。
それによると経済グレートリセットとは、わざと国債や通貨価値を暴落させ「インフレを極限まで高めることで負債をゼロ同然にし、超インフレでの国民の不満は補助金などの政策によって緩和し、金融取引は金や銀で行う」という解説が付記されていました。

経済学的に見て、申し訳ないですが現実的ではありません。
そもそも、国債価格がゼロになるということは国家財政の破綻を意味するので、国家もろとも消滅することを示しています。

通貨に価値がなくなるわけですから、インフレどころか物物交換か他国の通貨を使って取引することになります。
そこで金銀で取引するのは、現代においても通常の商用取引であり、金本位制に移行するのは結局、通貨の撤廃を意味します。
これらをまとめると「国家もろとも消し去って、通貨も撤廃する」と言っているようなものです。

例えば負債総額35兆ドルで、日々含み損が肥大しているアメリカのような国が、「もうアメリカ合衆国やめるので、ドルも廃止します」というのは、確かにグレートリセット以外の何ものでもありません。
ただ、さすがに世界中のエリートが集まるWEFでこんなフワフワした話が出たとは思えないので、「世界経済フォーラム」が公式に定義する「グレートリセット」を順を追って考えるなら、どういったものになるのでしょうか。

男と女という差別をそもそも無くし、人種という概念自体を取り払い、国境も民族もいっそ無くしてしまって、人間が労働から解放されるためにAIを使役するようにしながら、たくさん人口がいるとそれだけ統治コストが高く、環境に悪影響なので総人口を合理的に削減し、人口増加リスクを軽減するために農地も減少させ、動物の肉もなるべく食べないようにして、地味な自然環境エネルギーだけを使い、末永く人類を世界政府の下で細々と管理される存在にしよう

こういう説明だけを聞いていても、どこか街角で聞いたことがあるくらい、懐かしいメロディに感じます。まるで、どこかの国の映画で見たディストピアです。
つまり、このサステナブルな世界にするためにはその準備が必要であり、いつかは焦眉の課題である人口削減に取り掛からなければいけませんし、農地や家畜の数を減らさなければなりませんし、化石燃料を廃して自然エネルギーで発電できる環境を整え、人間が働かなくて良いようにAIにできることを全てやらせるところまで、文明を持っていく必要があります。

ここに、近年東西問わず先進国を中心に推進されてきた自然エネルギー発電、EV、農地削減、AIまでのトレンドが揃います。
今、世界中で起こっている戦争や疫病までWEFの提唱通りとは言いきれませんが、薬害が確認されているコロナワクチンはWEFの中心母体であるビル&メリンダ・ゲイツ財団とその影響下にあるWHOが推進したものです。

ここまで来たら、陰謀論と実際にやっていることの距離がなさすぎて、もはや「陰謀」ではなく実際に推進されている事業の良し悪しではないでしょうか。
このWikipediaでは、これらのグローバリズムを批判する人々の名が列挙されており、「陰謀論者」であると断定しています。
しかしよく読むと、これら陰謀論者の発言をファクトチェックしたBBCは、ビル&メリンダ・ゲイツ財団の資金提供を受けている放送局であることは公然の事実であり、CNNもとい、どこも旧メディアは資金難に喘いでいると聞きます。
ゲイツ財団の支援を受けているBBCの「WEF」批判に対するファクトチェックは、朝日新聞のファクトチェックを朝日新聞系列組織がやるようなものではないでしょうか。
Wikipediaも昔から中立とは言い難い内容がありますが、有志記者の管理にも限界があるのかもしれません。

では、ここから「グレートリセット」が本当に発動するとしたら実際にどうなるのか、考えてみたいと思います。
本題に入るまでが長くなりすぎました。申し訳ございません。

先ほど、「経済グレートリセット」に関して批判を行いましたが、実際にアメリカの中央銀行である連邦準備制度(FRB)は、ドルのデジタル通貨一元化を計画しているようです。
FRBは2019年の金融危機以降、青色吐息の金融業界を救うために毎日2400億ドルの通貨供給をしながら、利払いで日々7・8億ドル溶けていき、今や年間損失額が1000億ドルを超えていると言います。
米国政府の負債総額は35兆ドルとされており、利払いと年々積み重なる財政赤字で火の車なのは明らかであり、いっそ「ちゃぶ台返し」を考えていてもおかしくありません。

最近まで、トランプ大統領はFRBのパウエル議長に対し、利下げ要求の圧力を強めていました。
FRBが利下げを渋るのは、外国為替市場でドルが売られてドル安になれば、余計に利払いが増え財政負担となり、赤字まみれの財務状況が悪化するからでもあるのでしょう。
FRBには「ボルカーのインフレ退治」の成功体験があるため、「インフレには利上げ」という形式的な考えが染みついており、中央銀行のプライドとして教義に背く訳にはいかないのかもしれません。
ただ本音としては、中央銀行が扱えるのは国内に滞留する20兆ドルの流動性に過ぎず、国外には「ユーロダラー」と呼ばれる160兆ドル程度の制御不可能な資本が市場の流動性を決定づけており、政策金利をいじって通貨量を変えたところで、実は何もできないのを悟られる恐れがあるからです。

日本の省庁でもそうですが、ああいったエリートで固めた組織は「俺たちが国を動かしている」というプライドがあり、それゆえに中央銀行が無能であることを悟られる恐怖はエリートたちにとって相当のはずです。
だから対外的には、トランプ大統領の命令通りに「利下げ」をしたら、余計に状況が悪化するかをまず見極める必要があり、そこに関してここ数か月は検討を重ねていたのだと思います。
あと他にも、FRBがどうしても高金利の状態を維持したかった理由があります。

2020年にコロナのパンデミックが起きた時、FRBは経済浮揚を図るために財源として2兆ドルの臨時国債を増発しました。
その時、アメリカの大手銀行である「バンク・オブ・アメリカ」が7000億ドルの国債を大量に購入し、どうもその後の国債暴落に合わせて多額の含み損を抱えてしまったようなのです。
ただ、バンカメはアメリカを代表する大銀行の一行ですから、経営危機に陥っていると言えど簡単に潰れてもらうわけにはいきません。
そのため、利上げポジションを保つことでバンカメの自己資本の欠損や含み損を相殺し、なるべく赤字を軽減させようとしてきたのです。

ただ、バンク・オブ・アメリカの株を大量に保有していた投資会社、バークシャー・ハサウェイのウォーレン・バフェット氏も、さすがにそんな危ない銀行の株は持てません。
そのため、現在バフェット氏はバンカメの株を大量に売却し、開示義務のある10%以下の保有率まで下げ、たぶん現在は売り切っているはずです。

このように、「グレートリセット」のWikipediaにある、国債価格を限りなくゼロにして負債を相殺する、というのは理論上は可能です。
でもどうせなら、このまま債務地獄に陥り破綻するのは見えているので、いっそドルを「デジタル通貨」に一元化すれば、中央銀行としてのメンツを保ったままユーロダラーから優位性も奪還することができ、おまけに国民の経済活動の全監視と統制能力まで獲得できるのです

これまで米国経済を牛耳ってきたグローバリストが、もしこの構想をFRBと共有したとして、瀕死の中央銀行が乗らない理由があるでしょうか。
「グレートリセット」の提唱理念の始めにあるように、世界各国のコロナ対策として膨らんだ負債をチャラにする妙案としてのグレートリセットは、国債の価値を限りなくゼロに近づけて超インフレを起こし、負債を無同然とすることです。
アメリカの金融業界の柱であるFRBが、多業界の超富裕層の集団であるWEFと懇ろでないはずはないので、今取りかかるつもりではないにせよ、この妙案通りの方針に出口を見出していてもおかしくはありません。

奇しくもバンカメの株を売り払ったバフェット氏は、WEFの影の主催者であるビル・ゲイツ氏の師であり、ゲイツ氏自身もアメリカ金融界が瀕死の状態にあることを知らないはずがありません。
ドルを廃止し「デジタル貨幣」に切り替えることは、ITと金融が新基軸のデジタルドルを完全に掌握することとなり、例えばブロックチェーン技術を用いて国民や世界中の人々の信用度をデータベース化できれば、全ての流通と投資を監視しながら、中央銀行が全統制能力を獲得することができるのです。
これが空想にせよ、捉えどころのない分散型のユーロダラーに主導権を奪われ、実質的に風見鶏同然の存在となったFRBや世界各国の中央銀行が、自らの威信を取り戻すためには基軸通貨の転換こそ理に叶っているのです。

つまり、「負債を帳消しにして新しい世界秩序を作る」という点では、進むも退くもできない金融業界と、世界政府樹立を目論むグローバリストたちとは利害が一致します。
けれどここで気になるのは、経済界の富豪と繋がっているであろうFRBのパウエル氏やクック理事を更迭して、自らの息のかかった責任者にすげ替え、FRBをコントロール下に置きたいトランプ大統領は、どうもグローバリスト側と利害が一致しているように見えません。

これまでいつでも暴露可能なエプスタイン問題を素通りしたり、軍事予算に全く手をつけずに予算案を提出したり、マニフェストと逆のことに勤しんできたトランプ氏が、むしろインフレに実行力のある利下げ方針を取り、グローバリストの意向に沿う働きをしてきたFRBの改革に手をつけ始めているのは、何となく矛盾しているように思えます。
この動きを見るに、トランプ氏としては米国政治の要であるイスラエルロビーや軍事系ロビー、医療・製薬ロビー、IT系ロビーの既得権益を毀損するつもりはないし、金融ロビーと金融業界もできるだけ延命させたいが、グローバリストから経済のハンドルだけは取り戻したい、というのが本音なのではないでしょうか。

しかし、そうは言ってもFRBには事実上の経済調整能力はなく、主導権はほぼ実態のないユーロダラーにあるので、トランプ大統領がFRBというハンドルを握ったところで、経済は思うように動かないのです。
おそらく「ディール」好きのトランプ大統領は、イーロン・マスクを通じて「DS」つまりグローバリスト側と協議し、グローバリスト勢力の利権を保証する代わりに金融に関する主導権を獲得したのではないでしょうか。
しかしグローバリストも一枚岩ではないため、特に民主党寄りの勢力とは利害が一致せず、民主党支持であるパウエル氏とは未だに折り合いがついていないと考えられます。

こうして見ると、アメリカの超富裕層を中心とする「グローバリスト」はそもそもアメリカ経済を土台としており、アメリカの政治はエリート階級のロビイングや財力に支えられているため、そもそも相反するというより元々持ちつ持たれつであるように思います。
従って、「グローバリスト」とはエリート階級の抱く選民思想やアメリカ帝国主義の支流にあって、彼らからすれば「グローバリズム」の母体としてのアメリカと、3億4000万人の住む多民族国家としてのアメリカは定義の異なるものであり、それゆえに中流階級以下の国民の利益や権利が政治の上で軽視されるのは当然かもしれません。

トランプ大統領がマニュフェストをひっくり返してグローバリストに有利な方針に変わったのも、「世界政府」のビジョンとアメリカ第一主義の相似性と矛盾の少なさに気づいたからであり、仮にアメリカが世界に君臨するにも、その下に世界政府が存在しても結果的には同じことになります。
つまり、「アメリカ的思想」の発露としての「アメリカ帝国主義」がいずれ世界を支配することになれば、事実上理念としてのアメリカが永久に繁栄することを意味します。
従って、現在のアメリカ政治と金融を支える既得権益がそのまま残存しても、大した問題はないどころかむしろ有益、くらいに考えてもおかしくありません。

仮に世界を混乱に陥れたコロナウイルスの出元や正体が何であろうと、結果的にファイザーやモデルナを始めとする米国内の製薬業界は相当な国益をもたらしたはずで、EVや再生可能エネルギー、AIにしろ政治家に莫大な供与をしてくれる企業系のスポンサーがあってこそのアメリカ政界であり、彼らを敵に回すのは得策ではないのは確かです。
ゆえに、いつ沈むかわからない「アメリカ合衆国」を存続させるという第一目標を達成するには、中流以下の国民がどれだけ貧困に沈み治安が悪化し堕落しても、「国家」という崇高な理念の前では二の次にもなるでしょう。

そして、金満で溢れる国際的なトップエリートの集団に加わり、彼らの利権に預かろうとする人々は世界中にいるわけです。
例え自分の国が傾こうと、これから訪れるであろう「世界政府」が誕生した暁には、新政府内で良いポジションに就いていれば自国に利益を分配することができ、それは自分の利益にもなるでしょう。
その最大の貢献者が自分であるとするなら、エリート内の出世争いのためにグローバリズムのマニフェストを実行し、一時的に国益を毀損してでも長い目で見れば国にとって善いことをしているのだ、と正当化しうるはずです。

どうもその思考が近年の各国の政治事情に反映された結果、国民の意向を無視した政治権力の暴走に繋がっているのではないでしょうか。
そう考えると、過剰なマイノリティ優遇や不必要な環境エネルギーの推進、大した利益をもたらさないEVや生成AIへの過剰投資も説明がつきます。
そして、ここまで利益誘導的な性格が露出しているこれらの計画が、アメリカの一大産業である「戦争」という分野に活用されていないはずがないのです。
アメリカが世界中の批判に甘んじながら国費を投入して支援するイスラエルのパレスチナ侵攻、ウクライナ戦争に関しても不自然に見える部分はとても多いように感じます。

こうして俯瞰してみると、確かに世界のトレンドはグローバリストの提案通りに拡大しており、「世界政府」への布石も着々と打たれているように見えます。
しかし、私のような一般市民でも「陰謀論」に罹患し、グローバリストのやりたいことが手に取るように見えるご時世にあって、彼らが「自分たちが導かなければならない雑多な大衆」と思う大多数の人類を相手に、裏を掻かれることがないと言えるのでしょうか。

前回の記事にも書きましたが、防疫どころか薬害をまき散らすコロナワクチンや、思うほど大規模になってくれない幾つかの戦争、なかなか成果を発揮しない農業改革、自然エネルギーは未だコストに似合わず、EVは全く普及せず欠陥まみれ、生成AIは未だに有効な活用方法がなく、AGIの開発はまだ理論すらできていない、この現実を前にしていつまで彼らが強気でいられるのか、私は甚だ疑問です。
しかも彼らの提唱するポリティカル・コレクトネスは、逆にマイノリティの人々をやりづらくし、「差別を避ける」ことの意識化が逆に差別を呼んでいます。
そこには、「マジョリティである我々が、弱いマイノリティに目溢ししてあげなければ君たちはやっていけないはずだ」という優越意識がにじみ出てはいないでしょうか。

ただ、もう世はそういったロジックにさめざめするほど触れた結果、匂いを嗅いだだけで「ソレ」とわかるくらい、人々の脳裏には忌避感が広がっています。
大衆的な感覚ではハッキリ「嫌い」と言えるほどの評判になっていても、相変わらず肩書のある人々は優越意識を剥き出しにしながら、異論には容赦なく力を用いる彼らのやり方ですら、無邪気な大衆も予測ができるようになってしまいました。
つまり「社会的強者」と「大いなる弱者」となった大衆との間ではここまで温度差があり、その「社会的強度」で保証される発言力や強制力が社会的地位、財力や権威を基盤とするなら、それが瓦解した時には自分たちも「大いなる弱者」の一部になることを意味するのです。

そして実際、私が解説してきたように、アメリカ金融の世界は破綻直前であり、好況と思わせている株式も一皮剥けば実態がないことも明らかになりつつあります。
果たして、「アメリカ経済」という下支えを失った状態で、国内のガリバー企業の経営陣で構成されるWEFの権威は保たれるのでしょうか。
もしもの話をすれば、懐と名誉が傷んだ経営者が「世界新政府」の閣僚として誕生したとして、全世界の人々から惜しみない喝采が送られるでしょうか。
やはり、世界新政府も今日のアメリカ合衆国がしているように、強権的かつ強引な手法で抵抗勢力を制圧しながら、身内には甘いやり方で権勢を維持しようとするのではないでしょうか。
それはあたかも、ハリウッド映画によくある「ディストピア」のように。

「世界政府」というのは、見方を変えれば「アメリカ帝国主義による世界征服」であり、真のアメリカ合衆国を毀損した末に築かれる、全世界195カ国を属州とした「世界のアメリカ合衆国」を意味します。
その利害とトランプ大統領の「アメリカ第一主義」は全く矛盾しないからこそ、彼が糾弾しようとしていた「DS(グローバリスト)」の利益となることを推進し始めたのだと思います。
ゆえにトランプ政権はグローバリズムの体現であり、アメリカのナショナリズムはグローバリズムと同化したと考えて良いでしょう。
しかし実態としては刃の欠けた諸刃の剣であり、トランプ大統領が意気込めば意気込むほどに墓穴を掘る状況になりつつあります。

冒頭に戻りますが、彼らの言う「グレートリセット」というのは、現時点で実現不可能です。なぜなら、その試みの達成度は現時点でどれも及第点に至っていないからです。そして、今からやり直したとしても、もう上手くいくことはないでしょう。
ただし「アメリカという国をリセットして、基軸通貨も負債もリセットする」という意味での「グレートリセット」はもの凄く現実的です。
そして、米ドルなき世界経済も、必然的に「グレートリセット」という大変革を迎えることでしょう。

アメリカを世界政府の土台としながら、それ以外の国々を民族もろとも「リセット」する本来の「グレートリセット」は今や夢幻となり、世界変革で最も大きな利権を得ようとしていた彼らがその富や権益をリセットされる時が来るのならば、それこそ新時代のための「グレートリセット」となるではないでしょうか。
現在の強大な既得権益構造が剥ぎ取られ、中央集権型の「ドル」が世界の経済の中心になるのではなく、投資先を求めて世界中を回遊する「ユーロダラー」がトレンドを作る世界は、さぞかし風通しの良い世の中になりそうです。

むしろ「グレートリセット」で君臨する予定の彼らのリセットこそ、人類に有益な「グレートリセット」であり、決して大勢の人の命や文化ではなく、如何わしい権力者の持つ富や権力こそリセットされるべきなのです。



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「世界政府」樹立ならず

楽太郎です。

このところ、あまりにテーマが社会派になりすぎて、「巨悪と戦う」ような姿勢に見えていたかもしれません。
しかし、「戦う」にも色々なタイプがあって、相手とバチバチに石を投げ合うのも「戦い」なら、自らの欲望に耐えてガマンするのも「戦い」です。
私のニュアンスはどちらかと言えば後者に近く、結論としては「耐えてたらなぜか勝っていた」状況になると私は思っています。

今回は「世界政府」について取り扱います。
これまた大きなテーマで恐縮ですが、一先ずお付き合いください。

さて、前回の記事ではあたかも「DS(ディープステート)」と呼ばれる組織が「世界経済フォーラム(WEF)」であるかのように取り扱いました。
私は「DS」に関して何を対象として扱うかで意味が異なると考えていて、例えばロックフェラーやロスチャイルドの私設闇組織とか、西欧の貴族と富豪が集まる「ビルダーバーグ会議」とか、例に漏れず「世界経済フォーラム」とかを挙げることができますが、誰がどう「DS」と呼ぶかによるので、断定できません。

結局、陰謀論が湧き上がってもトータルで「開き直れば良い」と割りきり、「表向きに計画がバレようが、その通りにやって大して批判が起こらず、実行可能なら特に問題はない」と考えて世界経済のトレンドを意図的に操っているのは、WEFの中心母体であるビル&メリンダ・ゲイツ財団が本丸であると、私は確信しています。

WEFの年次総会である「ダヴォス会議」には、世界の政府要人や貴族や富豪、著名な学者や文化人も参加し、その討議の様子は全て中継され大部分が配信されているので、「闇」は全く感じません。
しかし、この総会を「カンヌ映画祭」に例えたら、大衆にとっては映画の内容より俳優や監督がレッドカーペットを歩く姿を見るのがメインであり、このフェスが業界のレセプションとしての意味合いが強いことがわかるはずです。

WEFに参加可能な錚々たる面々を一人ずつ確認すると、この会に参加する「資格」がどういうものかは一目でわかるはずです。
あまりここで実名を出すと誹謗になりかねないので伏せますが、大抵「大富豪」「業界トップ」「エリート」の三拍子に「グローバリスト」という半拍がついた人々です。

彼らがレッドカーペットを歩く俳優や女優だとしたら、映画の賞を選考する主催者がいるはずです。
その選考委員を取りまとめるのが、かのMicrosoft会長のビル・ゲイツ氏であり、米国一の投資会社バークシャー・ハサウェイを率いるウォーレン・バフェット氏の愛弟子とされる人物です。
ゲイツ氏の動向を穿った目で観察すれば、ボロボロとホコリと陰謀論が出てきてしまうのですが、私自身が興味深いと思うのはそこではありません。

2020年のコロナウイルス流行に伴うワクチンの強制接種や、都市ロックダウンからの経済的変容、食糧難を煽りながら進む農業縮小、化石燃料を悪役化して成り立つ環境エネルギー、エンジン車に変わるEVの流通、AI革命による人的労働力の代替、これらがグローバリストの諸々の計画の一部だとしても、大概うまくいっていないことです。

一つ一つ説明していったら長くなるのですが、例えばゲイツ財団とWHOが結託して先進国の人々に打たせたコロナワクチンは、防疫効果よりも接種後の薬害と、ワクチンの薬効をすり抜けて逆に増殖するウイルスが判明し、それに加えワクチンに含めた「避妊」効果さえも暴露されてしまい、完全に手元のカードがバレてしまいました。

「環境エネルギー」という新型利権にありつくためにでっち上げた「地球温暖化説」も、経済効果を伴えば嘘も誠になったのでしょうが、EVは長期的に見て全く合理的ではない上に技術的に未熟で、自然エネルギー発電に至っては天然ガスと石油の熱効率を代替しようとするほどコストが爆上がりするので、完全にイロモノの技術です。

とりあえず、全て富豪がより富豪になるための富豪によるアイデアの寄せ集めなので、思いついたことを力任せにやっていればうまくいくものではないことの証明ではないでしょうか。
生成AIによる芸術家やクリエイターの著作権侵害、世界中の創作・芸術文化をメタメタにしたことや、ディープフェイクによる社会犯罪や人権侵害もまだ可愛いもので、コロナウイルスが人工的か自然発生からは置いておいて、ワクチンの薬害なんてのは下手すると国家が吹き飛ぶくらいの大疑獄になりかねません。

脳裏に、新日本窒素肥料が引き起こした公害による「水俣病」や厚生省とミドリ十字の「薬害エイズ」も決着までに何十年もかかった記憶があり、訴えようと政府や企業がゴネて長引くのは目に見えます。
また、この訴訟が起こるにしても先進国はだいたい強制接種を行なっているので、なかなか実現するとは思えず、この問題の根は深いと思います。

ただ、それだけのことをやっても平然としていられるのは、彼ら一万人規模のエリート集団を集めたら、全地球の資産の何割かを保有している可能性が高く、それゆえの自信かもしれません。
だから、「何をやってもどうせ大衆は手出しできない」とタカを括っているからこそ、環境問題を取り扱うダボス会議に自家用ジェット機を飛ばして駆けつけても、一般大衆からどう思われるか全く気にしないのでしょう。

もし、彼らがトランプ大統領が倒したかった「DS」なのだとしたら、それこそ児童売春のエプスタイン問題を引っ張り出せば、大衆が勝手に彼らを引きずり下ろすはずです。
しかしそれに関してトランプ大統領は当選後、一貫してシラを切り通しており、むしろ今は「DS」が喜びそうなことばかり実行に移しています。
トランプ大統領が「DODGE」でメスを入れるとされた歳出予算削減でも、社会保障費を減額して軍事防衛費はむしろ増大しています。

どうやらアメリカは共和党、民主党問わずグローバル勢力であり、むしろ「グローバリズム」を逸脱したアメリカのナショナリズムは存在しえないのかもしれません。
「自国拡張主義」、言ってみれば「帝国主義」に民主主義も社会主義も関係なく、帝国を支配する王族や貴族が今や企業家や富豪に置き換わっただけのように見えます。

実のところ人類は、ピューリタン革命やフランス革命を経たところで寡頭政治の歴史は変わっておらず、民主主義ですら「エリート支配層に気に入られた」者だけがトリックを使って代表職に就いてきたのだとしたら、完全な人治政治である社会主義が不幸な歴史を歩んできたのも頷けるのです。

特にアメリカは1946年の「ロビイスト規制法」施行から、企業努力よりも制度を変えることで企業の成長を促してきました。
寡占企業は他の競合を潰すため、優遇策を利用してシェアを拡大すると、どんどん資本が集まりガリバー化します。
MicrosoftはPCにOSを付属させ、それに「Office」を抱き合わせることでスタンダードを作ってきましたが、これは明白に独占禁止法違反ですが未だに何のお咎めもなく、それはGoogleもAppleでも同様です。

国家ぐるみで巨大化した企業から政治家は巨額なキックバックを受け取り、大富豪はますます私腹を肥やし、権力も影響力もますます増大していくのです。
それがビッグテックのような、直接的には人畜無害な業界ならまだ良いのですが、それが軍事や医療や製薬に及ぶのがシャレにならないのです。

アメリカという国が常に戦争を起こし介入したがるのは、戦争自体が巨大な産業であり、その利権にありつく人間が多いからです。
自分たちの利益のために戦争さえ厭わないのですから、欠陥ワクチンを世界中に押しつけることに躊躇するとは思えません。

アメリカのボロを突けばホコリは無限に湧いて出るのですが、今回の話のテーマはそこではありません。
今、トランプ大統領はFRBのパウエル議長やクック理事を解任させ、自分の指名候補に入れ替えることに躍起です。

トランプ大統領がグローバリストに屈してもしていなくても、これまでFRBはアメリカの利権の中心にいたのは間違いなく、トランプ大統領が本気でアメリカ経済を何とかしたいのは事実かもしれません。
アメリカの命運を分ける話題となっている「米国債9月利下げ」に関してですが、おそらく政策金利の利下げをFRBが渋るのは「利下げが危険だから」ではありません。

実は、米国株の堅調を支える「マネーサプライ供給(M2)」や債権を含めた世界流動性の総量を決定づけているのはFRBではなく、欧州や外国の投資家のもつ「ユーロダラー」と呼ばれる、本国以外で流通するドル資産です。
専門家の推察では、米国内の流動性が20兆ドルだとしたら、海外に滞留するユーロダラーの総量は160兆ドルほどではないか、と言われています。

FRBが操作可能な中央銀行貨幣を20兆ドルとすれば、本国以外で取引されるドルの総量が8倍近くあり、その資本の総量を鑑みればFRBの施策が小手先で終わるのは目に見えています。
FRBが利下げを渋るのは、これを自分でわかっているからであり、「利下げをしたのに、さっぱり良くならないじゃないか」と突っ込まれたら、FRBに政策金利を操作して米国経済をコントロールする力がそもそもないことが判明してしまうからです。

そして実際に、トランプ大統領の指示通りに利下げをすれば、確かに国債の値段は上がります。
FRBが低金利にしておくことで、外国での資産運用が有利に働いていたテクノロジー系企業が株式を支えるアメリカにとって、その恩恵は株高をもたらすでしょう。
「これでアメリカの将来は安泰だ」と外国人が国債を買い、今年に支払えるかわからない7兆ドルの債務もきちんと賄えるとしたら、確かに「ソフトランディング」するかもしれません。

しかし、ここまで国債金利が上がったのは、コロナ以降数年で膨らんだ18兆ドルの債務を誤魔化すために国債を増発したからであり、いくら国債と株式市場が好調でも、赤字財政の体質そのものを是正しなければまた自ずと国債価格は下がり、金利が上昇してよりインフレが加速してしまいます。
成長産業が殆どなく、ガリバー企業となったビッグテックを投資の呼水にするしかないアメリカが、国債価格を上げて景気浮揚をしようにも政府と国家経済の枠組みそのものを変えなければ、いずれ必然的に破綻します。

しかも、世界中のマネーサプライの殆どが海外にあるアメリカにとって、投資家は「儲かるか儲からないか」で考えて資本を投下しているのであって、投資が覚束なければ金詰まりを起こし、流動性危機をもたらします。
また米国株式を支えている40%は海外投資家であり、彼らの機嫌次第で株が動いているので、仮にAIバブルに踊らされただけだとわかったら、すぐに資金を引っ込めるでしょう。

また、各国に押し売り強盗の態度で関税交渉をしたアメリカに反感を抱いていない国はありません。
ただでさえ常日頃からロクなことをしてこなかったアメリカが、強情に出るから相手国が穏便にしているだけで、ニコニコして席を譲った日本でさえ、魂の自動車産業は毎日2億円の損失を出しているそうです。
まして、隙あらばアメリカを沈めてやろうと思う勢力もおり、ドルを持っているから味方とは限らないのです。

私はどの手を読んでも、ビックリするほど手詰まりの状況に思えるのですが、いつまで持ち堪えられるのかと静観している次第です。
そこで涼しい顔をしてスイスのリゾート地をジェット機で駆けつける富豪たちの姿が思い浮かびます。
もし彼らグローバリストが一枚上手で、アメリカという国を踏み台にしてまで世界政府樹立を計画しているなら、参ったという他ありません、

ただ、コロナワクチンの評判や、思うほど大規模になってくれない戦争、戦争特需に大した経済効果なく、なかなか成果を発揮しない人口削減、食糧危機を煽っても大した飢餓になってくれず、自然エネルギーは儲からず、EVは大抵赤字、生成AIはパクるだけパクって役立たず、これらの計画を見るとそこまで頭がキレる人々とは思えません。

しかも成金国家のアメリカが金づるにならずに、どうやって世界政府の財源を得ようと考えているのでしょうか。
そもそも、世界政府に資金を上納しそうな企業はだいたい米国企業なのですが、それが安泰でないのにマジでどうするつもりなのか、愚民である私には想像がつきません。

「いや、世界中のグローバリストが結託すればアメリカ一強ではない」というのも頷けます。
しかし、ダボス会議に有色人種の参加者が極端に少ないのは、おそらく白人がフロントとして大衆の面前で相手をして、黒人や中東系やアジア出身の偉い人々が、バックヤードにいるビル・ゲイツと膝を合わせて人類の未来を昼夜語り合っていると考えて良いのでしょう。
「人類皆平等」を夢見るグローバリストが、まさか白人中心の考えなど持たないでしょうからです。

彼らの魂胆を、それすら見え透いてしまう一般人がいて、世界経済フォーラムの人々の面の皮の厚さと共に、その偉大なる業績まではっきりと認識できる今の世にあって、全人類に称賛されながら誕生する「世界政府」は逆に見てみたくもあります。
まあ、国家運営が2、3年続けば御の字ではないでしょうか。

今回はかなり挑発的な内容となりましたが、まさか閲覧数が極端に少ないこのブログがCIAに狙われることはないでしょうし、そもそも本国から仕事のない絵描きをわざわざ消しに来るほど暇でもないでしょう。
こんな声なんてのは、今ではどこでも交わされていますから。

私は普段、スピリチュアルな話を良くします。
目に見えない世界のことやわからないことには第六感を使いますが、目で見て頭で考えてわかることに、その力は使う必要がありません。

*サイト「招神万来」でも、同じ記事が読めます*
招神万来 | 神様と人を繋ぐブログ

※10月末まで忍者ブログ版「招神万来」の更新は続きますが、どうぞサイトの方もよろしくお願いします。

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人間、本来のあり方に

楽太郎です。

私は心霊オカルトが子供の頃から大好きで、TVの心霊特番はいつも楽しみにしていました。
「幽霊がいたら面白いな」という感覚はありましたが、自分の霊感は疑ってましたし、周りに合わせて「目に見えない世界」の存在を否定していました。

私はつい1年前までは、完全に「無神論」の世界にどっぷり浸かり、その世界観に全く疑いもなく生きてきました。
それが昨年の秋分以降、みるみる霊的な覚醒をしていき、あれよあれよという間にスピリチュアリストとしての道を突き進んできました。
それはもはや私の意志というより、強制的に「道に戻された」感覚に近いのです。

このブログでは常々、目に見えない存在からの「憑依」の戦いを綴ってきました。
そもそも、私が「憑依されやすい体質」であること、憑依されるから言動や思考に影響を受けやすいこと、霊障が起きているから心身共に体調がおかしく、何となく変なことばかり起こるのも、それまで「無神論=唯物史観」の世界に生きてきたからこそ、何十年も気づくことができなかったのです。

考えてみれば、赤ん坊の頃に異常な夜泣きをしたり、幼稚園に上がる前から頭痛持ちで、子供の頃から集団がもの凄く苦手で、大勢の人と同じ空間にいると頭がモヤモヤしてくるのも、全て「霊感」という概念で説明がついたはずです。
しかし、周りにそういった指摘をできる大人はなく、その大人の大部分が「霊など存在しない」と思ってましたし、憑依や霊障も何らかの病気の一種で、ちゃんとした医者にかかれば治ると考えていました。

しかし今答えを出すならば、私が正しく「信仰」という道に気づいていれば、神様が私を守ってくださり、心身はもっと充実した状態でいられたのでしょう。
そして無駄に苦しむことなく真の問題と向き合い、自分の心身に何が起こっているかも知ることができたはずです。

その「気づき」が遅れたのは、別に周りの大人が悪いわけではなく、霊障に苦しむ人生も自分の魂と神様が決めた人生のシナリオだったのだと思います。
ただ、「唯物主義」に染まった世の中であるがゆえに、目に見えない世界の干渉や影響の可能性に誰も気づかず、あらゆる不調の原因を「科学的病理」としてきたからこそ、問題の在処が覆い隠されてきたのです。

私の亡くなった叔父の話をすると、やはり私と同じ能力と血族的因縁を持った人で、霊感もかなりある人だったのだと思います。
叔父は心を病んで自ら命を絶ってしまったのですが、生前に「あるはずのないものが見えたり、聞こえる」ことを誰かに相談しても、「お前は頭がおかしいんだ」と散々言われ続けたようなのです。
ど田舎の農村から大学受験をして良い所の大学に進み、そのまま東京で有名な大企業に就職した頭の良い叔父は、その仕事場で心を病んでしまいました。

全ての因果を叔父が知ることができたなら、叔父は何十年も無闇に苦しむことはなく、自ら命を絶つ前に救われる道はいくらでもあったのです。
「唯物主義の社会」と「無理解」が叔父を殺めたとも言えるのです。
そして、下手すると私自身も叔父と同じ道を辿る寸前のところにいました。

人を陥れ、神を無きものとしたい勢力からすると、唯物論の蔓延る世界はやり易かったことでしょう。
その裏に「神に仇なす者」がいるとすれば、神の存在を否定すると同時に、自らの暗躍に気づかれずに済むからです。
「目に見えない世界を否定する世界」は、これまで闇の存在にとって最適化された状況であり、人間がモノしか見なければ争いに夢中になり、神を蔑ろにし人々が信心を忘れるほど、神々の加護は加わらなくなるからです。

しかし、それでも世界の真実に気づく人は気づいてましたし、先達たるスピリチュアリストも世のしがらみや誹謗を耐え抜いて、真実を伝えて来られました。
それでも、オウム真理教を始めとする宗教団体の起こす社会問題が、余計に信仰への阻害と無神論を加速させていったのです。

「神を無きもの」にするという巨大な陰謀があり、現代社会が物言わずに闇の力に流されてしまったことで、人心の荒廃が起こり不幸に陥る人々は増していく一方でした。
マクロな視点で言えば、神々が窮地に立たされるのも宇宙の大きなシナリオとも言えるのですが、気づくのが不可能と思えるほどの巧妙な隠蔽の中で、私たちが無闇に苦しむ原因がもたらされる状況が続きました。

この世は「神に仇なす存在」に主導権があり、人間社会は「無神論」の方針を支持する形で発展を続けてきたことで、ずっと逆神の肩を持ち続けてきたのです。
だからこそ人々は神への真の信仰になかなか至れず、邪教を崇拝し道に迷い、神に仇なす者たちの邪な干渉を受け続けてきました。

私一人が、その流れを変えられるわけではありません。
しかし、私以外の人々が次第に覚醒していけば、この世界を覆う闇の正体と影で暗躍している者たちの思惑を、世に知らしめることができるはずです。

これまでの世は、人間のあり方そのものを歪めながら、生き方そのものを型に嵌めて矯正する仕組みでした。
人は生まれた瞬間から、社会が親に与えたヒエラルキーの直下に育ち、学校では定義された「優秀さ」を競わされ、マスメディアでは「理想」とされる人々の成功が持て囃され、世に出れば歪な「エリート」の尺度で行末を決められる、凡そ自分の尺度を持ち込みようのない世界です。

その中で、本当に自分にとって必要な情報や気づきに辿り着くのは、非常に困難でした。
あまりに世にノイズが多すぎるからこそ、確かなものでさえ曖昧になり、何となく生きている人々に紛れてしまえば、何事も確かさなどないように感じられたでしょう。
それでも社会は物質的には豊かであり、何も考えなくてもお金さえ手に入れば、そこそこ深く悩まずとも享楽的に暮らすことができたのです。

しかし、それは「豊かな時代」だからできた誤魔化しであり、貧しくなる一方の状況では異なるはずです。

おそらく日本ならず世界が、かつてのような高度経済を軸にした世には戻ることはありません。
それは「ドル」経済圏が終わるからであり、少なくともドルに代替する基軸通貨が発展形で流通し始めるまでは、低成長経済がスタンダードになっていくはずです。

先進国の少子高齢化もさることながら、製造業主体の経済的牽引はサービス業に取って代わり、製造業は若年人口が多く「発展途上」とされてきた国が担うことになるはずです。
ゆえに日本は、少なくともバブル以前の勢いを再現するのは不可能であり、これからは物質的な豊かさから「精神的な豊かさ」へとシフトする段階に入ったのだと思います。

私の観点は、他の論者とは一手二手先読みする特性があるので、その兆候を感じるのは難しいかもしれません。
しかし経済崩壊は足元に迫っており、心の準備をしていた方が身のためだと思います。
そして、みるみる不便になっていく世を眺めて混乱するのではなく、来るものだと認識しておくことは自分や家族を守ることに繋がるはずです。

現代を形成してきた世界的経済圏の崩壊は、フランス革命とイギリスの産業革命を皮切りとした西洋型資本主義と、そこから派生したマルクス主義の終焉を意味します。
これまでの世界を構成してきた「資本」と「物質」という枠組みが揺らぐことは、人の世を支配してきた権威も決して不動ではなくなるということです。

社会を規定づける権威や権力が相対化される時、人々が「イヤイヤ」ながら従ってきた、ルールや慣習からの拘束も緩むことになるでしょう。
そうすれば、明日だけでなく10年20年先を見越して、仕方なくやるような生き方には何の確かさなどないことに気づくと思います。
その時、人々の心にかけられた「常識」という鎖が解けて、各々が「個人」として立ち戻るきっかけを得ることでしょう。

その時に初めて、これまでの世界を「闇」が支配していたこと、闇の深くに「神に仇なす見えない存在」が蠢いていたことを知るはずです。
そして同時に目に見えなかった存在が、目に見えるようにはっきり人々の心に映ることでしょう。
そこで人々は光を見て、光の中に「神」を見るのではないでしょうか。

私はその時、ようやく報われる人もたくさんいると確信しています。
人々が小さく押し込められた「お金と欲望のために消費される人生」が虚妄に過ぎず、その共同幻想こそ自分たちに迷いや苦しみをもたらしていたことに気づくはずです。

その瞬間が訪れたら「金儲け」という支えを失い「じゃあ、これからどう生きていけば良いんだ」と困惑し、絶望する人も出てくるでしょう。
自分の軸を持ち、金儲けという枠組みがむしろ煩わしかった人ほど、産業のシステムや規則に縛られない状況こそ、待っていた趨勢かもしれません。

それは少なくともこの250年間、巨大な枠組みの中で争いと淘汰を繰り返し、物質的に便利にはなっても人心がどんどん荒廃していく時代が終わり、やっと一息ついて「これからどういう世界を作って行こうか」と考えるタイミングが訪れるのです。
その時に初めて自分らしい生き方を手にする人もいるでしょうし、そのタイミングに合わせて生まれてきた魂もあるのでしょう。

今、闇が深まっていくばかりの世では、どう考えても光なんてないように感じられるかもしれません。
しかし、私たち人間が「悪くなる」と思うことも、神々があえて「悪くしている」のだとしたら、見方はまた変わってきます。
そして神々には、人間の考える「良し悪し」とは別の軸としての意味で「より良い世界」をご計画なされているのだと思います。
ただ、そのスケール感は人間に見渡せるものではないため、ひたすら残酷な部分だけに目が行ってしまうのではないでしょうか。

どんな不幸があっても、どんな不幸がこれまであったとしても、より良い世になるのであれば浮かばれる魂もあります。
私は、うまく生きられなかった叔父の苦しみや悲しみを思う時、私が世の中を変えることに貢献することで、その救いになるのではないかと思います。

叔父だけでなく、私だけでなく、見ず知らずの苦しみを抱えて生きてきた全ての人々が報われるために、これからは良い時代を作っていきたいのです。
ならどうすれば良いのか、私はいつもそのことについて考えています。

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「悪人」の正体

楽太郎です。

昨日、「神の試練を考える」という記事を書いて、「9ヶ月間神様のお役に立つことを考え、頑張ってきた割には何一つ良いことがない」と書きました。
それに泣きっ面に蜂の気分になりつつあって、スマホのバッテリーが劣化しすぎて充電できなくなりました。
まあ、ただの経年劣化なので別に神様のせいではないのですが、AppleCareで毎月580円を支払っているのに、バッテリー保証サービスを受けられる系列店舗が県内に2ヶ所しかなく、しかもどちらも1週間以上予約が取れません。

Appleはまあ、こういう企業なのは前から知ってますが、本当にここまで日本人を舐めていても我が国に莫大なフォロワーがいるのは何とも言えない気持ちになります。
第一、iPhoneの文字入力予測変換に日本慣用漢字ではなく中国語繁体字が上位に出てきますし、文字より先に絵文字が出てくるのもイラッと来ますし、いい加減なんとかならんもんかと常々思っています。

メリケンテックに対する愚痴を溢したらキリがないのでこの辺にしておきますが、海外の企業からすると日本人はこの程度にしか思われていないのが実際なところではないでしょうか。
私は近々、スマホもPCも誰もが使い続けるか悩む事態に陥ると思っているので、特にビッグテックには課金しないように心がけてさえいるのですが、残念ながら代替する製品は世界中見回しても今のところ存在しないので、型落ちのPCにUBUNTUを突っ込むのが席の山ではないかなと思っています。

とにかく「スマホが使えなくなりそう」というのは由々しき事態で、何とかAppleCareのサービスを近いうちに受けられることを願っています。
というか、月々580円を払って無料保証を受けるために電車を乗り継いで遠くの店に行かなければいけない時点で、どうやってもお金を使わなくてはいけないのは腑に落ちません。

私のケチなところが出てしまって、愚痴が止まらず申し訳ないです。
こういう、小さいところのストレスさえどうにもならない現状、神様の「お陰」というのは感じにくいのも現実です。
ただ、神様が加護を与え、いくら導いた上で恩恵や祝福を与えようと、瑣末なストレスまで綺麗さっぱり無くしてあげる道理はなく、そこまで期待するのは甘えなのでしょう。

こういったイカサマが今の世の中には横行していますが、ジワジワと雰囲気が悪くなっていく世の流れも、神々のシナリオの一部だと私は思っています。
世の中がまるで漫画に描いたように極端な悪化を見せれば、さすがにどれほど鈍感な人でも問題意識を持ち始めます。
これまでの人の歴史は、そういった意識による反動が世の中を動かしてきたのです。

そして、「世の中を悪くする人たち」というのも、神々からすれば「世を悪くする」という密命を持った人々なのだろうと思います。
おそらくこの世の「悪」というのは、悪を行うことで現世で利益や願望を実現する代わりに、負のカルマを一身に背負う役割を担っているのではないでしょうか。
だから、今世では何の疑問も反省もなく良い気持ちで一生を終えたとしても、死後の世界や来世ではどうなるかはわかりません。

この世に、もし世の中を良くするために犠牲になる人がいるのなら、彼らは世を悪くするために犠牲になる人たちなのかもしれません。
だから、「悪人だけが得をして、正直者はバカを見る」と思うことも、実は平面的な見方に過ぎないと言えます。
かと言って、「犠牲」という概念が現・幽・神界を通して存在するのかも判断がつかないのですが、私は「悪人」も実は神性が強い傾向があるのではないか、と薄々感じているのです。

聖書的な解釈をすれば、悪魔の王サタンは元々、神に最も近い天使だったルシファーとされ、神性が強かったがゆえに闇堕ちした後はとんでもない悪意の権化となったのです。
私の記憶を顧みれば、中学時代にグレ始めた人は小学校まで良い子だった人も多かったように思いますし、社会人になっても闇堕ちする人は元々真面目な人ばかりでした。
私にもグレていた頃はありましたし、その頃の感覚を思い起こせば、自分の正しいと思う価値観が周りに悉く否定され、自分でも矛盾を感じていたからこそ、その怒りの矛先を探していたのです。

私はいわゆる厄介な人々とも渡り合った経験があるので、「悪人」や「悪意」というものがどういうものかは手に取るようにわかります。
それどころか、つい最近までガチの邪霊や悪魔とやり合っている自覚があったので、「悪」がどういう性質の存在であるかは重々承知していたりします。

その見解に基づけば、彼らは「悪意」を持って「善行」を実践しています。
つまり、他人を貶めたり傷つけて潰したり、社会的地位を剥奪したり人権を叩き壊すのも、破壊や破滅的行為によって自己主張をしたり、「世を変える」という正義に基づいていたりします。
だから、一般的な「善行」という解釈から真逆の行動を彼らは「正義」と思っているだけで、彼ら自身は彼らの世界の「善人」なのです。

そこでは、他人を欺き陥れて満足したり、誰かを誹謗中傷したり嘲笑するのも、「一汗かいて気持ちがいい」程度の感覚なのです。
その様子を私たちが見れば何ともおぞましく感じますし、その異様さを醜いと感じ、社会的な損失を考えれば彼らを憎む気持ちも湧いてきます。

しかし彼らが純粋に、「善悪」の定義が違うだけの「善人」であるとすれば、極端な意味での「多様性」とも言えるのです。
私が先日のブログで「悪を犯す自由と、悪行を楽しむ自由がある」と書いたのは、その考えに基づきます。
その「悪」がこの世に存在を許されているからこそ、彼らの行いを見て考え反省し、世の中の「悪」を取り締まり、調和の取れた平和な社会にするための意義を悟るのです。

そして、彼らが行う「悪」がこの世の大正解であるはずはなく、調和や均衡を乱して破壊をもたらすことは、いずれ自身の破滅を招きます。
見える場所を手当たり次第に「焼き畑」すれば、どこも不毛な土地になり、いずれ自分が飢えて死にます。
ただ、そうなることを考えられないのが「悪」の限界であり、むしろ彼らを導いて生きられるようにするのが本当の「善」というものではないでしょうか。

「日月神示」には、そのお考えが滔々と述べられており、それが「悪を抱き参らせる」ということです。
悪を滅ぼそうと攻撃すれば、かえって反撃の応酬となり、犠牲への憎しみからどちらか一方が滅びるまでやり尽くすしかなくなります。
しかし、その記憶がまた別の悪意を生み、だからこそ争いの因果は連鎖し続けてきたのです。

ゆえに「善」とは悪を滅することに本質があるのではなく、「悪」という存在を認めた上で共存の道を模索し、まして「悪人」が生きながらえる道を示してあげることです。
そこまで「善」に徹するからこそ、その懐の深さと強さと賢さの前に平伏し、「参りました」と言わせることができます。
私は、これが「悪を抱き参らせる」ということの意味ではないかと思います。

もし「悪人」の本性が「善人」であるとすれば、悪人であればあるほど改心した時の反動は大きいのかもしれません。
私が見てきたヤンキーや性悪人間というのは、やはりどこか繊細で、感受性が豊かだから返って傷つき、自分を大事に思うから反発する力が強くなっていったように思います。
ただ、そういった弱さや疾しさは、闇の存在にとっては恰好の依代となるのです。

凶悪犯罪者ほど、どこか「人間らしさ」を感じない、サイコパス傾向が強いのは、彼らが実際に「人間ではない者」と感応するからであり、極悪人に人間味を感じないのはそういうことだったりします。
だからこそ心の迷いを晴らし、正直に親切であろうとする心持ちというのは、それだけで「魔」を祓い悪を遠ざけるのです。

そして人間に幸運をもたらすのも、「魔」を祓い厄病を寄せつけないために「信仰」というのは大事で、「神も仏もいない」という荒んだ気持ちが闇の存在を惹き入れてしまう要因になってしまいます。
私が思うに、「信仰心」と「善」はセットであり、ただ信仰心とは、必ずしも毎日神棚に手を合わせるようなことを意味しません。
「目に見えない存在や人の心」を大事にする感覚こそ神の心であり、その感覚と繋がっていれば例え儀式を伴わなくても信仰は可能なのです。

そして、「神の心」と繋がっていれば自ずと「善」が何かもわかってきます。
全て「目に見える世界が全て」という荒んだ感覚から悪が始まっており、しかし目に見えない世界を想像するのは、心身共に健康さや余裕が必要だったりします。
ゆえに貧しい人が犯罪に走りやすいのも当然の話で、お腹が減っても神様では満腹にならないからです。

私たちは「悪」を憎むがあまり、「悪」を知ろうとしません。
知らないからこそ先入観が膨張し、ますますあり得ない悪人に見えてしまいます。
けれど、意外と会って話してみたらイメージと違ったり、向こうには向こうの事情があったりするのです。
だから、まず相手を知ろうとする努力なくして、「悪」の真の退治は行えません。

前回の記事にも書きましたが、「悪を犯す自由」とは「間違いを犯す自由」であり、「倒錯する権利」でもあります。
厳密に言えばそれこそ「多様性」であり、多様性を謳う人々が特定の価値観を徹底的に弾圧するのも、多様性の一部として認めなければなりません。
そこで矛盾に歯を食いしばりながら、滔々と正論を吐き続ける胆力があってこそ「善行」は全うできるのであり、絵に描いた勧善懲悪では片手落ちなのです。

また、将来的に悪人が良心と知性に目覚め、自らの行いを省みる自由も権利も保証されなければなりません。
そこまで考えられるほど「善」は大人になる必要があり、懐深く気高くなければならないのです。
そこまで行けば聖人か天使かという印象ですが、実際のところ、そうでもない人間が人の生命を裁いてきたのも現実です。

私たちにとって、「善悪」を定義するものは何なのでしょうか。
そして、「悪人」の幸福はどこまで認められるべきなのでしょうか。

悪が悠々とのさばる時代だからこそ、むしろ私は「善」の側にそう問いかけたいのです。

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「お金の時代」が終わる

楽太郎です。

夏至から始まった「覚醒」のフェーズは、どうやら23日の処暑にクライマックスを迎え、今は別のシークエンスに移行しつつあるのを感じます。
私はこれまで知的追求と「日月神示」を中心とした周知に並々ならぬ情熱が向かっていたのですが、このエネルギーがカチッと切り替わった瞬間から、頭が創作に向かうようになってきました。

しばらく、絵を描きたくても違うテーマの事柄を優先しなくてはいけない状況が続いていました。
それはそれで「こういう時期なんだな」と思って割り切っていたのですが、これまでは「理論」の段階を突き詰めるターンから、「実践」という具体化のフェーズが始まったのだろうと感じています。

勢い余って「日月神示解説」というサイトまで立ち上げて運営を始めてしまいましたが、ここ数日で何となく一区切りついた感覚もあり、もしこれが「型」を出す初期段階なのだとしたら、より型を固めるための現実化を進めていくことになるような気がします。

周りを見回す限り、日本人は「ヤバいヤバい」と言いながら、のほほんとしているように見えます。
実際、どう事を起こして良いか見えず、また何かをやろうにも巨大権力に頭を押さえつけられている状況では、何事も無駄になる可能性も高く、あえてここで「何もしない」というのも意外と賢い選択かもしれないと思うようになりました。

人々が「昨日やっていたことを今日やるだけ」という感じに見えなくもないですが、実際のところ大変だった昨日を今日繰り返すだけでも十分大変であり、そのことだけで手一杯でも不思議ではありません。
私としては、もう少し変化の姿勢を見せて欲しいと思うところでもありますが、人様のことは人様に任せて、私は私のやるべきことをやっていくしかありません。

今の世界のどこを見回しても、おおよそ殆どの人が権力の座にしがみついて全く放そうとしない、頑固なお偉いさんに心底ウンザリしながら、同時にどうしようもないことも知っていて、何とか状況が変わるまで耐え抜こうとしているように見えます。

日本は言わずもがな、海の向こうのお国でもそうで、貧困化が進む世代的コア層がかつての社会に戻そうと右傾化して担ぎ上げた大統領が、どこよりも左傾化した上に肝心のマニフェストを放り出して、世にエゴと混沌を撒き散らしています。
これはどこの国にも共通して見られ、選挙で世を変えることを志した人々が、むしろ自分たちが選んだリーダーに真逆の目に遭わされては絶望に陥っています。

これらの現象が、どこの国でも型に嵌めたように同時に起こっているのを見て不思議に思うのですが、奇特にも日月神示をよく読んでいる者からすれば、「選挙制度という幻想」を引き剥がすためのシークエンスに入っているとしか思えないのです。
そして、「暴走する権力者」という構図は、殆ど全ての人々がどうにもならないことに気づく瞬間まで加速し、民主主義も社会主義も絵に描いた餅に過ぎなかったことに、いずれ気がつくことになるのだろうと思います。

これまでの世界がどういう形に見えたとしても、少数の選民的集団が考えて実行する枠組みに主導権があり、その中で全てが仕組まれて機能していたことを、後になって初めて知るのでしょう。
自分たちが隠れ蓑とする「民衆」の力が世を形作っているように見せるカラクリも、だんだん明らかとなって来るはずです。

先日、「今のハイテクバブルは崩壊するのではないか」と持って回ったような話題がマスコミに出始めた話をしましたが、先日NVIDIAの第二四半期決算が予想を下回った、というニュースも出ました。
また政府主導で半導体装置大手、Intelの国有事業化が始まっており、それに連動して同社の将来性が危惧されています。
私は以前から未曾有のバブル崩壊と経済破綻が起こると警告していますが、おそらく震源地はここです。
というより、「バブル崩壊」はずっと前から仕組まれていて、実はいつトリガーを引くかというタイミングにありました。

トランプ大統領が当選した昨年11月当たりに、銀行ターム融資プログラム(BTFP)という銀行救済制度の融資残高がゼロになるように設定したのは、トランプ氏と骨肉の争いを続ける連邦準備制度(FRB)のパウエル議長です。
アメリカは大手銀行を始め、年々含み損が増大して青色吐息の状況であり、FRBがその延命治療を施さなくては中小の銀行から連鎖破綻が起こる恐れがあります。

そもそも、その金融危機もパウエル氏が「レポ取引」という銀行への優遇制度を2019年に引き締めを行ったことに端を発します。
この話を経済に疎いトランプ大統領が側近に耳打ちされたとしたら、「アメリカの金融が潰れそうなのはジェローム(パウエル)、あいつが悪い」と短絡的に思ってもおかしくありません。

実際に大して間違いではないのですが、2020年辺りでFRBが失策したのは確かであり、この実態こそズブの素人である私ですら知っていることですから、プロ中のプロのエコノミストが無知なはずがありません。
この金融危機を予め予期している機関投資家などの大手資本は、その経済的皺寄せを個人投資家に押しつけるべく、最近までバブルの雰囲気を伸ばすに伸ばし、バブルを煽るに煽ってきたのです。
その兆候は、大手投資会社バークシャー・ハサウェイを率いるウォーレン・バフェット氏の動向を見れば明らかであり、彼は今年12月をもって引退することを宣言しています。

そして、Broombergなどのプロパガンダメディアが「そろそろバブル、危ないんじゃない?」と煽り出したのは、「危険は一応知らせた」というマスコミの自己保身的アリバイ作りであって、それは金融業界の偉い人たちが逃避するための準備完了を告げるものでしょう。
金融市場は以前から着々とバブル崩壊の準備をしていて、その罪状を一身に担うことになるのはNVIDIAのCEOであるジェンスン・ファン氏だと思います。

また、その共犯の槍玉に挙げられるのが、非営利企業のCEOでありながら100万ドルの高級外車を乗り回すOpenAIのサム・アルトマン氏を始め、ビッグテックらAIブームの恩恵に預かった頭取の面々でしょう。
経済崩壊の原因を作った張本人こそウォール街の住人ですが、テック企業を悪役にしてスケープゴートにしつつ、もう既に彼らの手仕舞いは済んでおり、これからは悠々自適な隠居生活が待っているのだと思います。

おそらくその後、アメリカは景気後退を避けられず、失策続きのトランプ政権は中間選挙で大敗するでしょう。
そのシナリオも民主党が大統領選中に用意したものでしょうが、そのタイミングを利用してリベラル派が意気揚々と浮上してくるはずです。
それはトランプ大統領の懸念事項であり予想しうることで、大して混乱もしていないカリフォルニア州に州兵を送り込むことすら辞さない、強情なプレジデントの気概によっては、下手すると内戦に突入するかもしれません。

私は、そのままアメリカは国家解体に進むと考えており、実際にあれほど根深い問題を抱え、社会構造として袋小路に陥っている状態を鑑みれば、一度ガラガラポンをした方が手っ取り早く、人間が大地を有効利用できることにいずれ気がつくでしょう。
それを見て、決して我が国もアメリカを指差して笑える状況にありません。
アメリカ51番目の州である「日本州」ですから、アメリカの国家崩壊の憂き目を見ることになるのは確実です。

だから私は一刻も早く、大暴落間違いない米国債を大量に売り浴びせ、円高還元を行い日本一人勝ちの状況にすれば良いと思いますが、残念ながら80年かけて魂を抜かれた日本人にそれは不可能でしょう。
ただ、既存の経済の枠組みが崩壊するということは、ただでさえ円安と物価高でスタグフレーションに陥りつつある(実は既に陥っている)日本人の生活形態が変わってきたように、社会の仕組みも自然と変貌していくことになると思います。

既に低成長経済が板についたフランスやドイツは、ゴチャゴチャした余剰な道路網を再整備し、解放した土地を緑化させたりしています。
人口動態を見ても、文明的視点、技術発展の視点から捉えても、日本も必然的にそうなっていくと思います。
EUは「緑の党」という環境カルトの政党が躍進しており、土地の緑化はその一環だとしても、使用頻度の低いインフラを維持する合理性はやはり見直される必要があります。

既に昭和遺産とも呼べるバブル期の廃墟に見られるように、解体する費用すら捻出できず風化に任せている建物や土地は山ほどあります。こういった構築物は今後増えていく一方であり、人々は市街地に集まりながらも都市計画は次第にミニマム化していくはずです。

日月神示をここで持ち出すならば、それが「金で治めて金で潰す」という神々のシナリオをなぞることになると思います。
我が国ならず、世界中で生成AIやEVや自然エネルギーのような出口のない技術にしか発展を見出せない現実は、人類が必要な技術開発をあらかた終えてしまったことを意味しています。

これまで、経済発展と成長があったからこそ、市井の人々には「社会的成功」がビジョンとなり、自分の人生の大切な時間を投げ売ってでも「お金」を手に入れようとしてきました。
しかし、飽和しきった後の時代にあっては、人々がごく少数の「お金持ち」になるために過酷極まる競争に駆り立てられるよりは、多少お金に窮屈しても自分の自由や、快適な生活を優先するような精神風土になっていくのではないでしょうか。

むしろ、神示ではそういう時代を形容して「天地がひっくり返る」と喩えているのかもしれません。
今、世でお金と権力と名声を振り回して下々を従えている成功者が、「資本」という力を引き剥がされた時、その行いの程度によっては人々に裁かれる瞬間が来るでしょう。
多くの人々が「お金」に対する信頼を失えば失うほど、彼らお金持ちに対する憧れは薄れていき、それならば自分の手元や足元にある自由を大事にして生きていこうと、そう思うはずです。

その時、決してお金や成功目当てに生きるのではなく、自分の権利や自立心を大切にするからこそ、これまで社会で浮上できなかった人々の生き方が「理想」とされていくと思います。
むしろ今、地面の泥を舐めているような人ほど脚光を浴びる時代が来るとしたら、それこそまさに「天地がひっくり返る」という形容が相応しいのでしょう。

俯瞰すると、日本が貧しくなって民族的自尊心を失くしていったのも、2000年を皮切りにした「グローバリズム」の到来にあったように感じます。
グローバリズムというのは、所詮は欧米に有利な条件で欧米のやり方で欧米の仕組みを使い、欧米のモデルに追従し欧米の一部に組み込まれる仕組みだったのです。

日本は、本質的な技術開発や需要を掘り起こすのが得意な国民性を持っています。
漫画・アニメなどの二次元産業は日本が誇る産業文化ですが、「クールジャパン」として海外に持て囃されて以降、広告業界と海外資本に寄生されて残念な業界になってしまいましたが、数々の電化製品も食品製造技術も観光産業も、日本人だからこそ発展してきた分野です。

日月神示的に言うと、「外国は外国のやり方、日本は日本のやり方」なのです。
日本のやり方を捨ててグローバル化に邁進した企業が、人々から本当に信頼されるビジネスを展開している企業に見えるでしょうか。
あえて企業名は出しませんが、CEOが海外出身の人になった企業ほど本質的な部分を捨ててしまったように思えます。
そして日本企業としての個性や良さを失い、金策で勝とうとする海外企業と横並びの存在となってしまいました。

日月神様のような説明の仕方をすれば、外国のビジネスは外側「◯」を整えて、その仕組みを循環させることで発展させるのは、非常に得意です。
それに反して、日本は基礎研究からしっかり行い、実体のある需要を捉えるような基本「・」を中心としたビジネスの方が上手くいきやすいのです。
グローバル企業は、欧米に合わせて「◯」に特化した組織形態となり、どちらかと言えば日本企業は基本を取り入れた「◉(◯の中に・が入っている)」性質をもち、それゆえに高度経済成長時には他国の技術を凌駕したのだと思います。

しかし、「お金が第一」となり、いかに需要を捉えても儲けが出なければ事業をする価値がない、と判断する現在の我が国のやり方は、完全に中身を失い「◯(形骸)化」しています。
もうこの際、グローバリズムは肌に合わないことがわかったのだから、無理に衰退する諸外国に合わさず、日本人は日本人のやり方に戻っていくべきではないでしょうか。
おそらく、外国の「成功モデル」の崩壊は、自動的に日本の独自技術や伝統文化の見直しに繋がっていくはずです。

大量生産・大量消費の時代に一旦区切りがつくことで、人々がイヤイヤながらお金のために時間を費やすような働き方ではなく、もっと市民の需要に応えるような、実体のある商業取引に焦点が当たっていくでしょう。
だから工業生産も、次第に低コストかつ高付加価値を目指すようになり、手工業や伝統工芸が伸びることも予想されます。
やはり、巨大企業が高性能製品を大量生産するよりも、質の高い製品を持続的に製造する方が経済効率が遥かに良く、環境への配慮もあるからです。

そこにおいて、地味に工業の下支えをしてきた町工場も再評価されていくでしょうし、着々と技術を育ててきた企業や職人は報われていくと思います。
私の業界の話をしてしまえば、「AIがあれば才能も努力もいらない」とタカを括っていた人たちを尻目に、きちんと才能と知識と感性を磨いてきた人ほど、その技術が改めて認められていくでしょう。

手間味噌ですが、私はそうなることを予見していたからこそ、生成AIを使うことを避けながら、マンパワーにこだわり地道な努力を続けてきたのです。
私は直感的に数年前から現行システムの矛盾と行き詰まりを感じ取っていて、近い将来に色々とやり尽くした結果、昔のやり方が最も合理的だったことに気づいて「元の鞘に収まる」のではないかと考えていました。
ここ数十年、理不尽な形で「金儲け」という巨大な仕組みに振り回され、抑圧されてきた人々や物事が再評価される時、そのきっかけが商業主義の崩壊にあるという皮肉は、むしろ最初から宿命づけられたものだったのかもしれません。

私は、このまま日本が脱落したままで、後は滅んでいく一方だとは全く思いません。

ただし、あまりにも人々がチャンスを袖にするようなら、自分たちでこの最大の幸運と繁栄を取り戻すきっかけを逃すことになりかねないと思います。
ゆえに、その選択はこれからの時代を動かしていく私たち次第です。
日本は日本のやり方で、日本人が日本人に合うやり方を少しずつ思い出していけば、日本はおそらく文化的、文明的な面で世界をリードする国となれるはずです。

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AIの時代は来ない。

楽太郎です。

最近、本ブログでは「反米」的な言説が多くなっていますが、我が国が終戦から80年という節目を迎え、欧米の文明的衰退と混乱を目の当たりにしながら、日に日に行き詰まりを感じる私たちが「このままで良いのだろうか?」と考える風潮を持ち始めているのも、何となく反映しているのかもしれません。

当のアメリカは中国に尻尾を振りながらロシアを支援するインドを牽制し、EUに喧嘩を売りながら韓国は見捨て、イスラエルを無償支援しながらウクライナに譲歩を迫るという意味のわからない不確実性を撒き散らしています。
俯瞰してみるとアメリカは「第三の社会主義帝国」という振る舞いを隠そうとしていないようにも見えます。
私は中国もロシアも実はアメリカとは対立しておらず、構造的に同根なのではないかと以前から仮説を立てていたのですが、まさか目に見える形になって出てくるとは思いませんでした。

本日付のBloombergに、政権ベタ寄りの提灯記事ばかりの同社のコンテンツの中で、珍しく骨太のコラムが掲載されました。

トランプ氏が突き進む米経済自滅の道 | Bloomberg

「このコラムの内容は、必ずしも編集部やブルームバーグ・エル・ピー、オーナーらの意見を反映するものではありません」と但し書きがあるあたり、「編集としては内心こう思っているけど、さすがに社の本音と言う訳にはいかない」という口惜しさが滲み出ているように感じます。
ただ申し訳ないですが、AIの規制緩和やイノベーションの推進は、債務超過の危機にある米国政府がハイテクバブルを利用して外国から投資を呼び込むための方便であり、トランプ大統領の方針を総括すると360°悪手です。

今の新聞業界は、日本でも凋落が激しいですがアメリカも例外ではなく、この30年で新聞社の人員が4分の1になったというデータがあります。
確かに、ネットニュースさえあれば紙の新聞は翌日になれば「新聞紙」として使う以外の用途がなくなり、経済効率的に良いとは言えません。
この業界も人員不足で取材なども踏み込んで行わず、またファクトチェックする余裕もないのでしょう。

ネットニュースはサブスクなどを展開していますが、マイクロペイメントにすればもっと記事単価の収益は上がるのに、全体的に高価格帯のサブスクを一般化しようとするため、ニュースに高い月額を払える比較的裕福な層と、無料の粗雑なネットニュースを見るだけの貧困的一般層の間に情報格差が起きていると言われます。

これが俗に言う「ペイウォール」という情報障壁で、優良かつ正確性の高い情報は高額サブスクが払える層は享受しやすいですが、朝食のメニューすら変えることもままならない人々は、無料で手に入る多くの偽情報や扇情的なデマを含む劣悪な情報ばかりを取得してしまう傾向にあります。
客観的なデータや観測に基づく情報に触れている人々はそのデマゴーグを見抜けますが、情報弱者はその情報リソースにアクセスする手段が物理的に限られているため、両者の意思疎通や情報共有は必然的に難しくなります。

私は、この情報格差がアメリカならず我が国に蔓延する社会的分断に繋がっているのではないかと考えています。
少なくとも世の中を俯瞰的に見るためには、リソースのある情報に接する必要がありますが、元々エビデンスのある情報とデマゴーグの区別がつかないような情報弱者は、その情報価値に気づくことすらできません。

私はこれはかなり由々しき問題で、良質な情報に触れる機会の多い人が成功したり出世するのは当たり前で、情報格差は労働環境や経済的な格差にも繋がっているのではないかと思います。

さて、今回の話題はそこではなくて、同Bloombergの本日配信の記事がツッコミ所満載だったので、そのことに触れたいと思います。

AIが企業を脅かす時代ついに | Bloomberg

この記事、そのまま読んでも何となく文脈が噛み合っていないように感じるのですが、よく読んでみると「AIが盛り上がりすぎて従来企業が倒産しまくっている」という内容の記事ではありません。
逆に「今のところ、チャットボットや、ソフトウエアのコード作成や複雑な質問への回答、写真や動画の生成が可能な「エージェント」と呼ばれるAIの普及が原因で破綻した企業はほとんどない」と書いてあります。

読み進めると、テクノロジー関連企業の三社、容易なUI操作でWEBサイトが作れるWIX、写真や画像素材のライセンス販売をしているシャッターストック、デジタル画像処理ソフトの老舗Abobeが株価を30%近く落としている、という内容から「AIがハイテク分野の代替を始めたからテクノロジー企業が苦戦を強いられている」と言いたいようです。

しかし、この記事の文章のおかしさの原因は、これらの株価下落に喘いでいる三社が「AIによる経済活動の代替」との因果関係を説明していないことにあります。
順を追ってみると、WIXのようなサービスが行うWEBコーディングは、生成AIがあればあっさり作れてしまいますし、WIXのようなノンコードのサイト作成と同様のサービスは我が国にもあります。
生成AIで無限にフェイクサイトが作れる時代に、サイトのテンプレート加工を促すサービスが脅威に晒されるのは当たり前のことで、競合他社が乱立する業界なら将来性が危ぶまれるのも納得できます。

画像素材を提供するシャッターストックですが、近年Windowsですら標準搭載されている画像生成AIを通せば、画像素材にライセンス料を払わなくても無料で使えます。
しかし、画像生成AIは「LAION-5B」という児童ポルノも犯罪写真も著作権のある芸術作品も一絡げにぶち込んだ58億トークンのデータベースを元に出力されているもので、存在そのものが「合法的」かは未だに議論があります。

Adobeのフォトストックもそうですが、こういう投稿型の共有サービスはAI生成画像も大量に含んでおり、そもそもコンテンツ素材のライセンス販売サービスは投稿者にロイヤリティを還元するものですから、画像生成AIを使用した全く素人のユーザーがロイヤリティ収入目当てに大量投稿します。
しかし、画像生成AIは誰でも無料同然で素材が作れてしまうので、わざわざ共有サービスに課金して素材のライセンス料を支払う必要性が相対的に薄れます。

ただ、先に述べたように画像生成AIの非合法性は徐々に認知が広まりつつあり、企業が自信を持って世に出せるコンテンツでは既になくなっています。
記事本文に「コカコーラ社がCMに生成AIを使っている」という例が示されてますが、著作権の文化的世紀末と化した我が国でさえ、生成AIを使ったプロモーションは炎上しています。
ホワイト企業としては「弊社は権利尊重を第一とし、生成作品は受け付けておりません」とキッパリ言えば立場を守れるのでしょうが、こういった投稿共有サービスは生成作品の投稿を推奨していたりします。

そしてAdobeですが、言わずもがなデジタル画像処理ソフトの老舗であり、現役のイラストレーターやクリエイターにとっては主力のアプリを提供しています。
しかし、近年は権利関係で言えば完全に黒に近い画像生成AIをソフトに実装し、それだけでなくサブスクを高額化したことでユーザーから大顰蹙を買っています。
上記にあるように、画像生成AIのデータベース自体が58億枚と呼ばれる無許諾の著作物が蓄積されただけのプールであり、その中には個人の肖像や児童ポルノ(SCAM)、リアル犯罪写真も大量に混じっています。

これほど問題を内在する機能をクリエイター向けに実装しながら、実はアプリを長年使ってきたクリエイター自身の作品も生成AIのデータベースに利用されている可能性が極めて高く、挙げ句の果てにサブスクも高額化したらユーザーに愛想を尽かされるのは当然です。
記事では「Photoshopを使うようなクリエイターがAIに代替されているからだ」と言いたげですが、実は生成AIを批判しクリエイターの保護と文化の発展への寄与を表明したProcreateと、日本のデジタル作画環境の柱となっているCELCYSは順調に株価も利益も伸ばしています。

冒頭に「AIで潰れた企業はない」と書いていますが、実は生成AIの登場でクリエイターの商業活動が業界的に苦しくなったのは確かです。
ただ、クリエイティブ業界がAIによって致命的な代替が行われている事実はありません。
むしろ、消費者がプロの作ったコンテンツではなく第三者による権利面に配慮しないAI生成物を享受し始めたことへの倫理的配慮のなさや悪用の方が、クリエイターの絶望感に繋がっています。

自分たちが努力して積み上げたコンテンツが生成AIを通しただけで著作権フリーとなり、クリエイターの作品データを無許諾で生成AIに投入して作成した「LoRA」というAIモデルは、クリエイターや演者の作風を再現したものであり、それが大量頒布され第三者が収益を得ている実態があります。
そして、LoRAに対し拒否を表明している作者本人になりすまして第三者が商売をしたり、クリエイター本人に送りつけて心理的外傷を与えるケースも頻発しています。

これはクリエイターだけの問題ではなく、俳優や声優などの演者、それだけでなくネット上にある一般人の自撮りなども収集され、ディープフェイクや詐欺に悪用されるケースが続発しています。
生成AIは権利以外の面でも、犯罪を助長する目的に広く使われているのが現状です。

話を戻すと、これら三社の株価下落は「AIによるテクノロジーの代替」というよりは生成AIをサービスに取り込んだゆえの失敗と生成AIサービスとの競合によってもたらされたと考える方が自然であり、この記事はその裏側と紐付けられていません。
また、後半の「ガードナーの収益低下」について、ガードナーは経済トレンドの分析を担う企業であり、NFTやメタバースの凋落と生成AIのハイプ(誇大宣伝)と行き詰まりも以前から予見していて、AIを推進する側からすると叩いておきたい相手でもあるのでしょう。

Bloombergは政府の提灯記事ばかり出す新聞社ですから、AI推進に全面的に舵を切っているトランプ政権に矛盾する記事を出すわけにはいきません。
本文の一番最後に教育系サービスを展開する「デュオリンゴ」が好調である旨が述べられていますが、高度な情報分析を得意としながら数式計算もアルファベットの綴りもわからなくなるLLM型の生成AIが、医療や教育分野での確実性が早くから疑問視されており、教育分野でのAI活用は限定的というのが実情です。
ゆえに、教育系サービスが限定的に生成AIを活用しながら、マンパワーの分野で成績を上げるというのは今の趨勢に矛盾しません。

だから最初から最後までこの記事が何となく奥歯にものが挟まった言い方なのは、「生成AIは正直全く脅威ではないけど、米国を支える株式バブルを煽るために恐怖に訴えてでもテック業界への援護射撃がしたい」という気持ちの現れなのだと思います。

今日のBloombergの記事もツッコミ所満載だったので面白く読ませて頂いたのですが、せっかくなので「本当にAIの時代は来るのか」について書いてみたいと思います。

上でも言及しているのですが、生成AIの根本的な問題はハルシネーション(幻覚の発症による錯乱)や熱暴走だけでなく、データベース上の権利的問題もあります。
そもそも、生成AIは世界中のインターネット網にある情報を権利関係なくBOTによって収集して、その蓄積データを「Google検索がサイトを探す」ような形で素材となる学習データを再構成します。
冷静にシステムとして見れば単なるデータのコラージュをしているに過ぎず、どこにも自意識が芽生える要素がないように思えます。

子供ですら、「1たす1は2」という概念法則を一度理解してしまえば、3685+874も時間をかければ正確に解けます。
しかし、AIは方程式をしっかりフレームで確立する必要があり、たまに間違うことも大目に見た上で、間違っていたら確認してフィードバックを返さなければなりません。
そのデータベースも、「最適解の多数決」によって出力するので本質的には衆愚政治に近く、哲人政治が人徳と真理に近い概念を用いて指揮するのとは違います。

しかし、実際にChatGPTなどでうまくプロンプトを打てば、たまにはプロのお笑い芸人より面白いことの一つや二つは言ってくれます。
この部分だけを拾えば、「生成AIの方が人間より高度なものを生み出せる」と言えなくもありません。
ただお笑い芸人は10のうち7くらい面白いことを言わなければ食べていけないでしょうが、生成AIに面白いことを言わせようとして、その試行回数と成功の比率をお笑い芸人と比べてみて、10回試行させたら7回は笑える出力結果を出すようでなくてはなりません。

けれども、往々にしてベンチマーク50%水準の生成AIが70%成功するのを当てにするのもおかしな話です。
生成AIという技術はかなり粗雑で、権利面だけでなく性能の面でも及第点とは言いにくいですが、経済効率もあまり良くありません。
生成AIは試行のたびに膨大な処理を行うため、かなりの電力を消費します。
Microsoftは、生成AIがデータセンターで使う電力供給のために、かつて放射能漏れ事故を巻き起こしたスリーマイル原発の再稼働に全面協力しています。
一応付記しておきますが、スリーマイル原発は未だに通常稼働しており、廃炉になったわけではありません。

生成AIを走らせるためのデータセンターは膨大なエネルギーを使うため、装置の発熱が凄まじく冷却に大量の水と電力を使います。
だから、データセンター周りの水資源の枯渇や汚染など、自然環境への悪影響はぼちぼち出始めています。
これだけエネルギー効率も経済効率も悪い上、権利面や安全面でもリスクが高く、しかも産業としてトントンの収益か赤字にしかなっていないのが生成AI分野なのです。

しかしEV然り、政府が大量に補助金を出すような国家事業は、産業としては赤字でも政府が資金を注入するうちはバブリーな分野となってしまいます。
イーロン・マスク率いるテスラも、米国や中国の行政支援なしに業績を上げることはできず、企業として万年赤字体質でも潰れないのは、各国の政府や軍が血税で彼らの延命をしているからです。

マスクは現在、買収したTwitterを生成AIの巨大な実験場にしてしまいましたが、彼のAIへの熱量は凄まじいようです。
今なお続くマグニフィセント7を中核とする第二次ハイテクバブルは、別名「AIバブル」とも呼ばれます。
しかし、実は2022年に一旦「AIバブル」は弾けていて、ビッグテックの株価が一斉に落ち込んだほぼ1年後に、OpenAIが「ChatGPT」をリリースして表向きに今回のバブルが始まったことになっています。

2022年のAIバブル崩壊時には、自動車の自律走行技術に対する失望感と、EV市場の翳りもありました。
AppleもMicrosoftもAlphabetも、マイナーアップデートの製品をドヤ顔で出すパターンに投資家もウンザリしていた時期でした。
その頃、OpenAIの開発や企業幹部からは倫理面や安全性に問題があると提起されていながら、その首脳陣をクビにして無理矢理GPTをリリースしたのが当CEOのサム・アルトマンです。

タイミング的に、外国からの投資がなければ終わるアメリカの危機的な金融業界が、10年来維持してきたバブルの息を吹き返させ、全世界から投資を呼び込むのに「生成AI」は多少荒削りだが金融商品には売ってつけだったのでしょう。
その流れは今も続き、産業分野としては赤字傾向でも「AI革命」の名の下に「来年になればAGIが完成し、世界は変わる」と喧伝し続けても一応は希望の眼差しを集めることができます。
しかし、AI研究の学術分野で生成AIの開発フレームからAGIが派生する可能性はほぼないとされ、しかもAGIは基礎研究分野で未だ実証されてはいないのです。

だから私は、生成AIの実態は近いうちにNVIDIAの粉飾決算もろとも白日の元に晒され、廃墟化する分野だと確信しているのですが、AGIに関しては未知数が大きすぎて何とも言えません。

「もうすぐ実現する」と言っても、100年前から期待されているような立体映像も空飛ぶ車もまだまだですし、私の子供の頃は「もうすぐリニアが走り回るだろう」と言われていましたが、政治的ゴタゴタのせいで 21世紀が四半世紀を過ぎてもあと10年は無理そうです。
理論は出来ても、実証化して製品化するまでどれくらい掛かるのかは誰にもわかりません。
AGIという空想上の技術革新が起こればAI革命はないとは言い切れませんが、そもそも「意識」というのは理論化できるものなのでしょうか。

一応付け加えておくと、「生成AI」と「AI」は似て非なる技術で、生成AIは検索エンジンとシステムが似ていますが、AIが本来の自律思考を目指すタイプの技術です。
通常のAIに関しては、先進国は人手不足で代替技術の需要は高いですし、一般的に技術革新がこのまま進みAIによる労働力の代替は進むと考えられています。
ただ、「AIロボットが労働者を代替する」という議論にも、私は疑問があります。

我が国でも少子高齢化の煽りを受け、これほど人材不足が叫ばれ外国人労働者として移民を推進しているのに、AIロボットの普及をあまり見かけません。
かつて窓口に置かれていた「ペッパー君」は姿を消し、今では地方の倉庫に大量に眠っていると言いますが、今こそペッパー君を再稼働させて低価格帯で業務対応させれば良いと思います。

なぜそれができないかに、AIロボットが人間の労働力を代替し得ない理由があります。

ペッパー君が再度市場に投入できないのは、電子制御環境が古いソフトウェアのため動かせないのもあるのでしょうが、それはペッパー君を保有する企業が無理に機体を引っ張り出しても利益にならないと踏んでいるからでしょう。
AIロボットは戦闘機並みの精密機器の集まりですから、部品一つ破損しても修理には専門技術や産業インフラが必要で、その維持にも高いコストがかかります。
20世紀末に登場したロボット犬の「AIBO」も、故障部品の代替を行うにも古い部品を再生産することが技術的に不可能なため、廃番のAIBOは修理するのも困難だと言います。

つまり、AIロボットが高度になればなるほど、製造元の企業は修理環境を維持しなくてはならず、その供給体制には莫大なコストがかかります。
しかも、サプライチェーンが何らかのアクシデントや社会情勢などで遮断されれば、供給網に致命的な影響を受ける可能性があります。
近年の不確実性の高い国際状況、各国の経済的混乱を背景に、複雑な機構を持つAIロボットを維持管理する方法はかなり限られてきます。

ゆえに、私はペッパー君の製造コストが何十分の一に下がり、二足歩行どころか料理までこなすようになっても、そのサービスの維持に現実的ではないほどのコストがかかるため、結局は人間を安い賃金でこき使った方が合理的という結論に達すると思います。
しかも、仮にヒューマノイドが人間の雑務全般をこなして社会全体の労働負荷を減らすにしても、結果的に社会全体のGDPを押し下げることになるはずです。

まずヒューマノイドの製造と管理運営にかかる労働生産性は、提供企業が担うことになります。
その結果、ヒューマノイドが行った生産価値は企業に転嫁される形となり、労働者はヒューマノイドが差し引くGDPの分だけ生産性を向上させる必要があり、自分たちの労働単価を上げつつ還元させながら、ヒューマノイド提供企業に対して税金のようにリース代を払い続けなければなりません。

この構造を解決するには、国家が公益事業としてヒューマノイドを生産、維持管理を全面的に担いサプライチェーンを国内に整備し、どこでも均等に無償配備していくべきでしょう。
しかし、庁舎のプロジェクトマッピングですら何十%も中抜きされる公共事業において、その社会インフラが公平であり続ける保証はどこにもありません。
おそらく、監督官庁がずさんな運営を黙認しながら、製品レベルで中抜きによる劣化が進み、国家負担が増大して維持が不可能になるのではないでしょうか。

そもそも、「人間が遊んで暮らして、AIロボットだけが働く世界」というのは可能なのでしょうか。

よく近未来は「ベーシックインカム」で誰もが無収入で暮らせるようになる、という話を聞きますが、経済学ではベーシックインカムの理論は未だ学術的に確立されていません。
早い話がベーシックインカムとは、別の説明の仕方をした「共産主義」のようにしか思えないのですが、仮にそれで最低限の生活ができるとしましょう。

ヒューマノイドが農業や工業生産を実施するのですから、誰かが監督しなければなりません。
そうでなくてもヒューマノイドは精密機械ですから、細かいメンテナンスや修理が必要になります。
その保守や監督はAIが全てできれば良いのですが、部品のライン生産も滞りなく行われ、しっかり末端まで流通し続けなければ、すぐに動かない機体だらけになります。

それを監視する人間がどうしても必要になるということは、ヒューマノイドを統括する人間が遊んで暮らしている人間を支配するのと同じ構図になるのです。
「その管理者はしっかりした良い人だから安心だ」と言ったところで、自分たち以外に遊んで暮らしている人間しかいない社会で、きちんと働いている自分たちを差し置いて、遊んで暮らしている彼らの意見に耳を傾ける必要がどこにあるのでしょうか。

私は、この図式は0.1%の超富裕層が50%の中間層以下の総資産を上回る格差社会の現代以上に、歪な社会を作り出すのではないかと思います。

そもそも、寝ててもロボットが口にステーキを運んでくれるような世界において、その人間という存在は一体何様なのでしょうか。
その世界において人間が「奉仕される一方の神様」であるとしたら、地上はきちんと労働し社会基盤を支えるロボットたちが「人間」の立場となり、地上の主役は果たしてどちらなのか、それは一目瞭然です。

今はシンギュラリティだなんだとAIが恐ろしいという風潮がありますが、本当に恐ろしいのは従順なAIが地上を支配した先の世界です。
学びもせず努力もせず、フラフラ遊んでいるだけの人類を見て、果たして知能を持ったAIに存在価値を疑問視される瞬間がないと言い切れるのでしょうか。
だから私は、AIロボットが完全に人間の労働力を代替する日というのは、人類の終焉に直結すると思います。

私はAIが主役になる時代は何百年先か人類消滅までないと思っていて、その論拠はAIが人間を本質的に代替したら人間の存在価値そのものが消え去るからです。
だから、現実的にはAIの部分利用とか制限付きの利用に収まっていくと考えていて、それは今のアームロボットが行っているような、機能特化型のAIロボットが正確に単純作業をこなすのが最適解になっていくと思います。

ぶっちゃけ、それ以外に人間の労働者とAIロボットが持続可能的に共存するビジョンはあるのでしょうか。
下手に高性能であればむしろコストが上昇し、部品製造企業が一社潰れるだけで供給網が途絶えます。
残念ながら、人間を倫理面での限界までこき使った方が合理的なのが経済というものです。
人間の代わりにヒューマノイドを使うくらいなら、ヒューマノイドの代わりに人間を使った方がいい、という結論に結局のところ辿り着くと思います。
だから、今のAIブームも落とし所は一つしかないような気がします。

私はAI自体を否定したいわけではなく、人々がAIに幻想を抱きすぎていることを指摘したいだけで、私自身はAIにあまり忌避感はありませんし、むしろドラクエの戦闘システムから馴染んできた世代です。
生成AIに関しては、産業基盤がアンモラルだから評価していないだけであり、AIを普及する側に人間としてのモラルや合理性が欠けていることが問題だと思います。
銃器を簡単に保持してはならず、核開発が国際問題になるのは「持たせると危険」な人々がいるからです。

今のAI技術はそうなりつつあるというか、もう既になっています。
人々は異口同音に「これからはAIの時代になる」と言いますが、生成AIの画期的利用について未だ思い至らず、その権利面や社会上の問題には見て見ぬふりをします。
「それは問題がある」と言いながら、次々と発生する悪用を止める術を誰も思いつきません。

だから私は、昨今のAIブームは些か冷ややかな眼差しを向けているのです。

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「悪を抱き参らせる」

楽太郎です。

以前の記事でも書きましたが、あれから「悪霊に遭遇する夢」を毎晩見続けており、深層心理的にはかなり参ってきているのではないかとすら感じます。
私の平常心としてすこぶる機嫌が良いわりには、身体のコリは酷いし寝苦しいため体調はあまり良くありません。

こういった憑依現象は正直、私が使命感を持ってやっていることと無関係ではないように感じます。
私の巡りもあるのでしょうが、私の霊性と行動の変化に合わせて向こうも変化しているので、やはり狙いは私への妨害なのだと思います。

ここ最近、神様と繋がりにくいのも邪気のせいだと感じますし、瀬織津姫様のご神気が遠すぎていつもの調子も出ません。
こうして不快感極まると、自分の心からも邪気が湧き上がってきます。
その邪気がさらに邪気を呼ぶので、この悪循環を断つにはどこかでやり方を変えなければいけません。

毎晩うなされるのも常に霊障を感じるのも、正直「もう勘弁してくれ」と思います。
私の魂を引き摺り降ろしたいのはわかるのですが、彼ら邪気側からすれば私の意志を今更変えることは不可能なのです。
だから無意味な抵抗だと思いますし、私も彼らの存在を気にしたくはありません。
しかしこうもまとわり憑かれると、さすがに私もイライラしてきます。

ただ、そうして腹を立てると彼らの思う壺なので、非常に難しいのです。
私があまりに不快なので「ぶっ潰してやる」という気持ちで払おうとしても、その破壊的意志がまた邪気を呼ぶというトリックが発動してしまいます。
だからずっと同じところをグルグル回っているというか、この負のループから抜け出す道筋がなかなか見えてきませんでした。

私は常日頃から日月神示に書かれている「善と悪の融合(あなない)」を真理だと思ってますし、その考えもブログに綴ってきました。
そうは言っても、という感じで邪気を前にして大人を貫くのも限界があったのです。
自分の考えというのは、忍耐力が底をついた瞬間から外れやすくなってしまうものです。
ではどうしたら良いのかと、日月神示には悪を憎み滅ぼそうとするのは悪そのものであり、「悪を抱き参らせる」ことが善に至る道であると説きます。
その方法として、「悪を導くことである」とあります。

全ての人間の魂は、大神から分かれ出たものであるがゆえに「神」と言っても差し支えありません。
その神が闇に染まるのは決して「堕落」のみを意味するのではなく、自らの意思で闇を選択したとも言えます。
神示には、「悪には悪の喜びがあり弥栄がある」と書かれています。
即ち、彼らの性格の悪さは自分たちで肯定する性質のものであり、そこで生じる憎悪や闘争も破壊も、彼らにとってみれば「喜びそのもの」です。

神示の霊界解説の中では、彼ら闇の者は自分たちが善であると信じており悪だとは思っていないそうです。
それはあたかも、環境保護団体からすれば捕鯨行為は万死に値する一方、日本人は余すところなく鯨を食べて再利用する産業文化が根付いていたので、その利益相反が起こっているようなものかもしれません。
日本人からすれば、反捕鯨団体の言い分も理解はできますが、一方的なやり方で全てを否定されるのも困るのです。

だからそこには「お互い様」という側面があり、相対するからこそ相反するのであり、ここで互いに衝突するからどちらか一方が潰れるまでやらなくてはならなくなります。
それに相互理解は最短の道だとしても、おそらく互いにそれを強要させるのは不可能です。
ではどうすれば良いかというと、第一に「棲み分け」ですが、それでも利益相反が起こるから衝突が生じます。

私の場合は、無闇に人を陥れて無知蒙昧の状態にして苦しめるような存在は忌むべきものであり、それが世に隆盛しているから問題視しています。
しかし神に仇なす存在の側としては、人間を啓蒙されると居場所や存在価値を失ってしまうのです。
彼らからして見れば人間が無知蒙昧であってくれた方が活動しやすく、光の存在やライトワークを行うような人間こそ「悪」なのです。

「善と悪のあなない」には、まずここを押さえておく必要があります。
私たちがいくら絶対善だと思っていても、彼らからすると悪なのであれば「絶対」ではないのです。
ならばどうすれば良いかと言うと、こちらの言い分としては「善」に向かうのが大いなる意志であり、善に向かうことで結果的に全員がWINWINになれるから弥栄えると考えています。

だから「善」のメリットを知るのはこちら側であり、ゆえにまず善のメリットを悪の側にプレゼンする必要があります。
そして、善のメリットを悪に提供する責任も、実は善の側にあるのだと思います。
だから「悪を導く」というのは、善のメリットを悪の側に提示しながら、彼らが悪を行う自由を奪うことではなく、善と悪を選択する機会を与えることです。

結局、そこで「悪はやっぱり最高だ」と思うのも彼らの意志であり、「今までのやり方はちょっと」と思うのも彼らの自由なのです。
そこで善を押しつければ、返って善は悪になってしまいます。
人間はこれまで、こういう考えで相反する勢力を力で服従させてきました。
ゆえに悪を滅ぼそうとすれば、ますます悪は増えて広がっていったのです。

この視点で見れば、なぜこうも人権や人命を無視した勢力が蔓延り、「我良し」の世界になっているかがわかってきます。
善の側が「絶対善」の元に悪を善に染めようとする時、「悪側の善」を力でねじ伏せることで善側に悪が宿るのです。
その力の衝突にこそ真の悪があり、相反を相対にする融和の力こそが「真の善」なのだと思います。

そのため、真の平和や善なる世界に向かうためにまず必要なのは、強制しようとする意志を捨てることです。
誰もが自らの自由を保証され、尊重される権利を有するからこそ、善でも悪でも強者でも弱者でも、言い分と意志決定権は必ずあります。
そこをまず認め、自らの責任を果たした上で相手に委ねる、そして相手側の責任はきっちり取らせる、これこそが和合であり「あなない=助け合い」になるのだと思います。

この考えこそ、実は「大和魂」そのものなのではないでしょうか。
「やまと」という言葉は、「山の戸(麓)」という説もあるのですが、奈良地方にある「敷島のやはと」が語源という説があります。
「やはと」とは「穏やかな所」を意味し、「やは」は「やわら(柔)」と同じ語根と言われています。

「柔よく剛を制す」とありますが、日本の国技である柔道は、決して相手の身体を破壊するために編み出されたものではありません。
柔道で一本を取られたとしても怪我一つないように、穏やかに決着がつけば済むことなら互いに傷つけ合わないことが賢明です。

どうも邪馬台国の統治の時代は、諸国の豪族とも婚姻関係や互恵関係を結ぶことで連携を強化してきた痕跡が見られます。
日本の前身たる「ヤマト」に「大和魂」を見るのならば、それは身を挺して忠義を尽くす「侍」の魂にあるというよりは、互いに譲歩し合うような心にこそ宿っているのかもしれません。

だから悪霊も邪気も、それを発しながら人を不愉快にさせたり犯罪を犯すような人に対しても、一旦は湧き上がる感情を抑える必要があります。
そして自分の正論がただ相手を傷つけるだけではないか、正論を押しつけて溜飲を下げたい心が自分にはないか、一先ず考えてみるべきなのです。
相手には相手の言い分があり、やり方や信念があり、こちらからすればいくら合理的と思えないにしても、「こうすれば良くなる」ということを指し示すのは、相手の道を変えようとする側にあるのだと思います。

それが「悪を抱き参らせる」ために打つべき手であり、それ以上は相手の領分なのではないでしょうか。

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今の世をどう考えるか

楽太郎です。

最近また、世の雰囲気が変わり、感覚としては「邪気の異様な停滞感」と表現できます。
これまでは日によって邪気が高まる日が多かったのですが、猛暑日が続き人々も元気を無くしていくのと連動して、邪気も暴れ回る余裕がなくなってきたように思います。

これは人々が酷暑と物価高に伴う不況化と共に外出が減ったことで、内省に向かうようになったのと関係があるのではないでしょうか。
以前、「大難シナリオ」が「小難シナリオ」に切り替わったことで、多くの人々が「覚醒への道」を選択したのだと書きましたが、その潮流が徐々に具体化しつつあるのだと思います。

この数日のブログの記事もおそらくその波動に引っ張られていて、「知らせること」にお役目があったのだと思います。
私としては絵や漫画を描いている方がよっぽど性分にあったミッションになるとは思うのですが、神様のご計画にとって、今まさに重要なテーマは私の感覚とは異なるということなのでしょう。

この流れを俯瞰してみると、このブログをどれほどの人が本気でご覧になってるかは正直微妙だと思っているのですが、霊的な観点で言えば例え一人であっても伝える価値はあり、その対象者は神々のプロジェクトの中で私と同じチームに属するのだろうと思います。
別に私のことを特別な風に言いたいわけではないのですが、日月神示では「型」を実地に行い見せていく人が必要であり、「59の身魂」があれば岩戸開きの仕組みは成就すると書かれています。

最初に3人がいて、その下に7人が集まり、その7人が7人に教えを伝えると、岩戸開きに必要な「59柱」が揃うと神示にはあります。
もし私がその一柱なのだとしたら、私の文章をきちんと読んで下さる人が最大7名いれば、私はきちんとお役目を果たしたことになるのではないでしょうか。

だからもう、これは数とかいう問題ではなく「役割の重さ」だと言っても良いかもしれません。
それは目に見えてわかるものではないので、損得勘定では決して拾いきれないものでしょう。
だから私は、黙々と自分のお役目を果たすしかありません。

おそらく現在、世界を巡る霊的なターンがクライマックスを迎えつつあるのだと思います。
世の邪気が弱体化しつつある背景には、トランプ大統領が不確実性を世界にバラ撒いてくれるおかげで、拝金主義的世界を維持しようとしてきた勢力が心理的にも立場的にも揺さぶりを受けています。
トランプ氏自身は確信犯なのか天然なのかはわかりませんが、神がかり的な悪手を駆使して敵も味方も不確実性の渦の中に引きずり込んでいきます。

私はある意味、神様の密命を確実に実行しようとしているのがトランプ氏だと思います。
ただ、実際そこに悪魔的意図があったとしても、神のシナリオ通りの使命を果たすべく動いているのではないでしょうか。

ゆえに、これまでの世界を覆う邪気の根源であった「神に仇なす者たち」の波動は、ここに来て押されつつあるように思います。

私の話をすると、波長の高まりと共に憑依は実感しにくくなっており、感じにくいだけで霊障はあって体感とのギャップに戸惑っています。
最近「なんかやたら首が回りにくい」と思っていたのですが、さすがに寝つけないくらいの肩凝りなど今までにはありませんでした。
肩凝りをいくらマッサージなどで解してもどうにもならず、それに疑問を感じないほど憑依が気にならなくなっていました。

その反動か、就寝中にやたら生々しい感情を持つ死霊に襲われる夢を何度か見るようになって、そこで初めて「憑依だ」と気づくのです。
これはこれで結構深刻で、気づかないうちに感情面が霊障に犯されてしまう危険性すらあります。
憑依は放置すればするほど中に入り込まれるので、「感じにくくなった」ことをそのまま喜ぶわけにはいかないのです。

これらの憑依体は、性質を観察する上ではやはり生前の感情が抜け切っていない不浄霊だと思います。
ただ「不浄霊=悪霊」ではなく、生前の執着や苦悩が抜け切らない以上は、やはりその霊たちも苦しいのです。
だから下手に追い払おうとする前に、一先ず「苦しみを抱えている霊たちである」と認識する必要があります。

そして、これらの霊が憑依から解けるということは、ある意味満足したとも納得したとも取れるのです。
そうやって執着が緩めば一足は浄化が進んだことを意味し、彼らはそれだけ「上(霊界)」に近づいていくのでしょう。
ゆえに、憑依は浄化した数だけ魂を救っていることになります。

私は以前、こう言った不浄霊との因縁を断つために「幽界との霊線(エーテルコード)を切断する必要がある」と書きました。
しかし、どうやら「感情」というものは霊界の低い階層と構造的に結びついているもので、私が考える一時的な霊界の準備場である「幽界」の定義には当て嵌まらないことに気づきました。
日月神示の「幽界」は私が以前解説した構造とは若干ズレがあって、霊界の中間層以下の下層と準備場的階層をひっくるめて「幽界」と定義しているようです。

反対に、神示では霊界の中間層以上を「神界」とし、「天国」と「霊国」に分けています。
この構造の方がやはり説明はしやすいのかもしれず、今後の解説の仕方も考え直そうかと思っています。

私たちが感情を抱く時、愛や友情などの「良い感情」を持つ時は高い階層の霊界に、憎しみや嫌悪などの「悪い感情」を持つ時は低い階層の霊界(幽界)に繋がるため、感情自体を霊界と切り離すことはできないようです。
だから霊線を何とかするというより、そもそも感情の接続する波長域を変えることしかできないのです。

ならば、悪感情は持たないに越したことはなく、悪感情があるから邪気を呼び込み、邪気が不浄霊や悪霊を呼び込むのであり、「悪感情を捨て去る」のがスピリチュアリズムにおいて自己浄化の基本中の基本であることに変わりはないのです。

ただ一言申すならば、この世界のために働こうとする時、具に世の動向をよく観察し、批判的精神を行動に移して実践するには「悪感情」というのはどうしても避けられません。
自分も世界も平和であることを望むあまり、「善も悪も全て肯定されるべき、世は全て事もなし」と、事勿れ的な平和を選択したら何もする必要がなくなります。
「何かを変えよう」と思うからこそ使命感が燃えるのであって、仮にニコニコしながら平和を祈っていたら世の中が上手くいくなら、今の世界は既に天国のようになっているはずです。

ただ、その向上心の中で生まれる「醜さへの反感情」や「不条理への悲しみ」は、避けて通れないながらも絶えず整理していく必要があります。
そこで、怒りや悲しみを心の中に押し込めたり、蓋をし続ければいずれ「邪気」となっていきます。
その悪感情がやがて霊界の低い階層とバッチリ波長が合うことで、災いを呼んでしまうのです。

私たち人間は「悪を憎む心」があるからこそ、不平等や理不尽な出来事があれば変えようとする意志が働きます。
そのモチベーションは大事なのですが、そもそも「悪」とは「必要悪」であり宇宙の摂理の中では役割があるからこそ存在しています。
地球に重力があるように、「悪」というものが「善」なる力を妨害するからこそ、「善」はますます「善」に向かう力を強めます。
反対に、世界に「善」だけあっても「悪」という根拠がなければフワフワした動機となり、善に向かう力は弱まっていくはずです。

地球には引力が働いているからこそ自分の体重で地に足をつけることができ、自由に空を飛び回れないからこそ自らを顧みて移動手段をあれこれ考えます。
病気になるから健康に気を遣い、先が見えないから未来を憂慮し、いずれ年老いて死ぬから時間や人生が大切になります。
そして、「悪」を行う者がいるから身を守る術を覚え、悪を蔓延らせないために社会を守ろうという意志が働くのです。

善と悪のどちらかが消滅しては善も悪も成立せず、善と悪が共存するがゆえに善に向かうのです。
これが神示に語られる「善と悪とのあなない(和合)」であり、哲学的に言えば止揚(アウフヘーベン)です。

宇宙における熱力学第二法則、いわゆるエントロピーが働く法則自体を最悪だとか、憎む人はいません。
エネルギーが大から小へ向かうエントロピーがこの世界に外すことのできない大法則だからであり、もし「悪」の働きもそうなのだとしたら、とりあえず法則として「あるもの」と考えるべきです。

私たちは寒くなったら火を炊きますし、ぬるい水に氷を入れたら冷たい水が飲めるのも知っています。
ゆえに、世の中が悪くなれば良くしようとするのも風呂を沸かし直すのと同じ原理です。
そこに悪感情があるかないかではなく、淡々と対応すれば良い話のはずです。

従って、「悪なんてこの世に存在しない」というのは間違いで、「悪も良いものだから何もする必要がない」というのも間違いです。
「善悪の定義はそれぞれ」というのは半分正解で、善悪の価値判断は人間に備わった認知機能なので外すことができないため、善悪の定義はやはり一定量存在します。
それゆえ、全てが平和的肯定感に満ち溢れていたら理想状態と考えるのは危険で、そういう平和ボケが支配しているのが今の日本なのではないでしょうか。

この世の「悪」は想像以上に根深く、その闇深さは人間の心を容易く沈めることのできるものです。
人間が起こす非道や凄惨な行いは、悪感情云々ではなく生理的な絶望感さえも引き起こします。
それでも「悪はこの世に必要である」と結論を保ち続けるのは、正直言ってかなりの覚悟が必要です。

しかし、エントロピーや重力という反作用があるから成り立つこの宇宙は、「全く別の性質のもの」が存在するからこそ相反し、相反する力によってお互いが高め合っていきます。
日月神示には、その二つの働きこそが「歓喜」をもたらすのであり、その相剋にも歓喜があると説きます。

この境地は、我々人間にはなかなか辿り着けるものではないかもしれません。
これこそ「神の意識」ゆえに立てる見解であり、人間には遠く及ばないものだからこそ、その境地は人間が神に向かうための「反作用」の一部と呼べるのかも知れません。
神示に「神は人を求め、人は神を求める」とありますが、神になれるはずのない人間があえて神の元に歩みを進めるこの道こそ、「神の道=神道」なのではないでしょうか。

だからこそ、神道には教義も経典も存在せず、むしろ「存在する必要がない」のだと思います。
人間は自分たちが進む道がマニュアルになければ不安になり、ルール通りに行動したいと思ってしまう生き物です。
しかし、教科書が存在しないからこそ理論を固め、応用的思考を駆使することが重要になり、その自立した思想性こそが個の確立と自由となるのです。

これから社会や国家をどうしていくかを考える時、人々は確固たる権威が存在し教科書通りの回答が用意されていないと何も決められません。
「右派か左派か」「保守かリベラルか」「アメリカか中国か」で争っている現代の二者択一は、おそらくどちらも間違っています。
かと言って右に傾いた中道でも左に傾いた中道でもなく、真上にある中道こそが唯一の正解だと思います。

そこには「太陽」があり、太陽を司る神がいて、その神格こそ日本の国家神道を統べる「天照大御神」であらせられます。
そして、その権威は「天日月大神」となられる国常立尊こと素戔嗚命が担っていくと「日月神示」では語られています。
おそらく、これからの新しい時代の「型」はそこから始まり、その型が未来永劫の繁栄をもたらす「ミロクの世」の元になっていくのだと思います。

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アメリカが崩壊する理由

楽太郎です。

今月1日、アメリカの7月期雇用統計が発表され、弱含みの結果だった上に3ヶ月通しての約26万人の下方修正が加わり、米国債市場で2年短期債が急伸しました。

米雇用統計で債権相場に転機-Bloomberg

少し解説をすると、国債は最長30年までの利回りを保証する融資を募るものですが、国家が発行するものゆえに信頼性が高く、ゆえに「リスクオフ資産」と呼ばれます。
対して株式は企業が発行するものなので、倒産や損失があれば値減りするものであり、利回りが高い分リスクは高いため「リスクオン資産」と呼ばれます。

米雇用統計の悪材料は投資家のリスクを嫌う傾向が反映し、その日は株式の全面安になる一方、国債のリスクオフを後押しして2年短期債が大量に買われました。
国債も需要と供給の関係にあるので、短期債が大量に買われたことで利回りは25bp(0.25%)下落しました。
本文にある「スティープ化」とは、短期債の利回りは下がった一方、長期債の利回りは依然高い状態となります。
通常、スティープ化が起こる主な原因は「景気回復期待」と「インフレ期待」があり、今回は雇用統計悪化を受けて反動だったため、明らかに「インフレ期待=物価高の加速」を懸念しての動きだったことになります。

このニュース記事一本で突っ込み所満載と言っては何ですが、そもそも「米雇用統計」は算出方法に関して、兼業(掛け持ち)労働者の採用を新規としてカウントし、就労努力を行わない失業者をカウントしていないと言われています。
つまり、これだけでも統計としての信頼性は低いのに、毎回発表後には「下方修正」なるデータの訂正が行われ、公的発表と考えるにはあまりに杜撰な出来である反面、投資市場はこのデータを元に先行きを決めるため、リアルタイムで採用する意義すら疑うレベルなのです。

ゆえに、アメリカ経済は改竄されたデータ以上に悲惨な実態である可能性が高く、それでも好調な株式市場はかなり「浮足立っている」気配すらあります。
この発表を受けたトランプ大統領はブチ切れ、労働統計局のマッケンターファー局長を即座に解任しました。
ただ、BLSの統計の修正は常習犯であり、今始まったことではありません。
トランプ大統領の怒りは統計値が悪かったことの言いがかりのような気がしますが、仮にそうであるとしたら即座に統計局の責任者がクビになるなどどこの共産国家か、と思います。

現在、トランプ大統領がFRB(連邦準備制度)のパウエル議長に「利下げしろ」と圧力をかけていますが、そもそも国債の利回りが高いということは国債価格が低いためで、なぜ国債価格が下がり続けているかというと、アメリカの国家としての将来性が危ぶまれているからです。
今年9兆ドル近い債務を償還しなければならない上、トランプ大統領が世界中に「相互関税」と称し、アメリカから高圧的に言い値で関税をかける一方、輸出国側はアメリカに関税を課すと許さんというジャイアンも驚く態度で関税交渉を行っているため、「不確実性が高い」と世界中の投資家たちに思われています。

そのため、米国債市場はリスクが高い長期債の利回りは高くなる一方、米国政府が万が一「債権を踏み倒す」懸念から投資が抑制され、国債価格は下がり続けています。
国債のスティープ化は、長期債が値上がりするので債権市場にとっては健全化が加速することを意味しますが、去年8月まで米国債は2年以上「逆イールド」の状態でした。

本来、融資の貸し手、債権の買い手側からすれば債権を何十年も保有するのは、それだけ待てば高い利子を得られるからです。
一方、融資の受け手、債権の売り手側は長期に渡って利子の保証をしなければならないことになり、長期の見通しと返済努力が必要になります。
「順イールド」というのは、債権を購入すれば待っただけ高い利子を貰えるという金融的取引としては当たり前のことなのですが、短期の間に債権を持っていた方が利回りが高くなるのが「逆イールド」です。

即ち逆イールドは長期債よりも短期債の利回りの方が高くなってしまう現象なのですが、実は最近までは逆イールドの状態の方がアメリカ政府にとっては好条件だったのです。
なぜならアメリカは2020年のコロナショック以降、総債務額が13兆ドルに達しており、長期債の利払い総額は比例して高くなるからです。
しかし2024年8月を以て国債レートが順イールドになったため、今年7兆ドルの償還期限を迎えるアメリカ政府にとっては泣きっ面に蜂なのです。

2022年7月から2024年の8月までの「780日間」が逆イールドの状態でしたが、実は経済学の世界では逆イールドから順イールドとなった数年後に「大暴落」が起こるという定石があります。
1928年から始まった約700日間の逆イールドの後、世界恐慌に至る米国大不況が始まりました。

1974年からの約500日は「長期スタグフレーション」の時代の始まりであり、1998年からの約300日は「ドットコムバブル崩壊」、2006年からの約550日は「国際金融危機」に繋がります。
これらは逆イールドの規模というより、「期間の長さ」がその後の経済崩壊に影響するというデータがあります。
このジンクスに従えば、2022年からの約800日は過去最長であり、もし定石通りなら経済にもたらす悪影響は過去最大レベルです。

なぜ逆イールドから順イールドに転換した後に経済崩壊が起こるかについて、今のところ確固たる学説はないようです。
おそらく、逆イールド時の債権の売り手は短期債のやり繰りは何とかできても小規模で資本的体力のない企業が多いため、長期債の利払い時に高利回りだと負担額も多くなり、そのまま債務不履行になってしまうのではないでしょうか。
経済理論に従えば、アメリカ経済は法則通りに崩壊の憂き目に遭うのは避けられないように思えますが、ここからは更に深掘りしてみます。

現在、トランプ大統領は経済音痴なりに国債価格が低いのは問題だと認識しているようですが、法則的に考えればアメリカが多額の財政赤字を軽減するためには、国債が高くなれば支払う利回りも低く抑えられます。
だから7兆ドルという債務返済を何とかやり繰りするために、FRBのパウエル議長に「利下げをしろ=国債価格を上げろ」と叱責しているのだと思います。
しかし、そもそも国債価格が下がり続けるのはアメリカの国家的信用がガタ落ちしているからであり、トランプ大統領がアメリカ経済を立て直すために粘れば粘るほど国際的評価は下がり、国債価格もそれに連動してしまいます。

これまでは、米国債価格は下がっても外国の投資家は米国株に逃げ込めたのです。
少なくとも「解放の日」の4月までの時点では、国債が下がっても株式に、株式が下がったら国債にと逃げ道があったのは、基軸通貨としての米ドル指数がバランサーの役割を果たしていたからです。
大抵の外国人投資家は自国通貨や対ドルで安価な通貨で米ドルを借りる、いわゆる「キャリートレード」を使って米国債や米国株に当てていました。
しかし、今はアメリカの信用不安が広がるせいでドルは下落基調にあり、投資家がただでさえ米国債を保有していても配当率はマイナスなのに、それに輪をかけてドルまで値下がりしたら二重の損失になってしまいます。

よく経済学を勉強している投資家は、アメリカに教科書通りの「資本逃避」が起きていることを知っています。
そして「ドル」を基軸通貨とする不安は「金」のレートを押し上げ、それに比例してドルは下落基調にあります。
だから投資家たちは隙あらば手仕舞いしたいでしょうが、とりあえずまだ米国株はバブル景気なので株式一本に賭けている状況です。

しかし、この米国株も実に怪しい代物でS&P500の時価総額の50%以上がMicrosoft、AppleやNVIDIAなどのマグニフィセント7が担っています。
現在は「AIブーム」の真っ最中ですが、あれほど喧伝した生成AIは全世界で権利問題を発生させ、裁判所ですら持て余すほどの法的闘争が起きていながら、時代の申し子たるOpenAIは営利企業への転換も図れないほどの大赤字企業です。

その望みの綱である「AGI」は未だ理論的に実証されておらず、AI研究者の7割以上が「生成AIの開発フレームでは実現しない」と回答しています。
つまり、生成AIはいくら無尽蔵に開発費を使ったとしても、AGIに化けるのはポケモンのピッピがハピナスになるくらい無理筋の話なのです。

その上、AIブームでほぼ一人勝ちの様相を呈しているNVIDIAは、取引成立した瞬間に利益として計上するくらいガバガバの会計処理をしていながら、粉飾決算や取引企業との循環取引を行っている疑惑が常に付き纏っています。
そもそも、NVIDIAの得意先の企業はキャッシュフローが伸び悩んでいる割に営業キャッシュは大幅に上昇しており、各企業はそれをデータセンター建設に関わる設備投資だと述べていますが、実際にビッグテックの営業利益を見るとほぼ生成AIに係る収益は見られず、既存のクラウド事業や広告収入、Eコマース事業だったりします。

つまり、AIブームは投資を呼び込む最高の花形ではあるものの、実際に内容が伴う部分は一つもないのが現状です。
その実態は大したホワイトカラーの削減にも至らず、たかだか著作権や人権を素通りして出力するだけのアプリであり、革命的技術であるAGIには全く繋がらないばかりか「まだAI革命は始まったばかりだ」と言い続けなければ赤字の言い訳もできないような泡沫産業に過ぎません。

まあ、生成AIに関しては濃密な記事が10本くらい書けるのですが、とりあえずここまでにしておきます。

しかし、特に成長産業もなく工業もサービスも伸び代のないアメリカにとって、国際的にイニシアティブを取れるのはデジタル産業と軍需と製薬くらいです。
そして、アメリカという国は1947年の「ロビイング規制法」以来、逆に政治家への贈収賄が合法化され、大企業になるほどR&D投資で新技術を開発するよりも政治家に賄賂を渡して制度を企業に有利になるように変えさせた方が手堅いため、資本力が高ければ高いほどシェアの維持が強権的になるのです。

古くは自動車産業、金融業、製薬産業、今ではデジタル通信産業が当て嵌まります。
新興企業の斬新なサービスは有力寡占企業が敢えて潰しにかかるか、早いうちに買収して自社サービスに組み込むことで、自社のシェアは脅威に晒されず容易に権勢を維持できるわけです。
ゆえに、赤字財政が跳ね上がり債務の償還すら覚束ないアメリカ政府が外国から投資を募るためには、嘘をついてでも株式を盛り上げなければならず、それを担うマグニフィセント7にとって「AI」というのは過去の成功体験を匂わせる、夢の投資先には売ってつけの金融商品だったのです。

ただ米国株を代表するS&P500の絶好調にもカラクリがあって、FRBがマネーサプライを過剰供給して株価指数を右肩上がりに見せかけ、実は全体的な貨幣供給量は戦後ずっと頭打ちなのです。
また、企業の大量自社株買いによる相場操縦、ETF(上場投資信託)やオプション取引を使った評価額の水増しによって、いかにも飛ぶ鳥を落とすように見えるように粉飾されています。
第一、企業のCEOが大量に自社株を保有することは決算や業績見通しや新製品発表を自ら知っていながら売り抜いたり買い越したりできるのは、どう見てもインサイダーを免れないものであり、売却益が公然と発表されるのもおかしな話です。
また、トランプ大統領が関税に関してSNSで仄めかすたびに株式市場は動くので、まるで一国の宰相がインサイダーをしているようなものです。

アメリカ株式市場の時価総額に貢献する企業には更に問題があります。
軍事用生成AIを開発するパランティアは現在、世界の時価総額上昇率で群を抜いている企業ですが、この企業の開発するアプリはイスラエル軍がパレスチナやイランなどの敵対国家の要人を暗殺するための用途に用いられ、同社はAmazonとGoogleが提携しています。
つまりイスラエルのガザ侵攻や近隣の中東諸国に仕掛けている戦争の裏で、アメリカのテック企業が参画しており、言ってみれば戦争犯罪に加担しているも同様です。
大手メディアではイスラエル軍の凄惨極まるパレスチナ一般市民への虐殺は報じられませんが、仮にイスラエルという国家の威信が失墜すれば、現在進行中の戦争犯罪が炙り出されることでしょう。

そしてイスラエルが戦争に使う兵器のほとんどは、アメリカ国防省がほぼ無償で供与しています。
トランプが大見栄を切った来年度の予算案は、社会保障費が大幅にカットされた割には国防費は増額になっており、どうやらイスラエル系と軍需産業のロビイストが結託して動いているようです。
これにアメリカ国民はもっと怒るべきだと思うのですが、現在のアメリカは日本以上に弱肉強食の世界なので、道理も民主主義も通用しないのでしょう。

こうして国家的に戦争犯罪に加担する一方、イスラエルには戦闘機を丸ごと横流ししても、ロシアの侵攻を受けているウクライナにはミサイル一発出し惜しむのがアメリカという国です。
このあからさまな態度は、全世界から冷ややかな眼差しで見られているのをトランプ大統領は気づいているのでしょうか。

上記のように、米国債の信用低下とドルの下落基調には密接な関係があり、マグニフィセント7が牽引する半導体デジタル産業だけが唯一外貨を呼び込む手段になっています。
国際的評価を下げないようにするためには、米国経済に見通しがあるように見せたいため、雇用統計すら帳尻を合わせている可能性が高いのです。
それでも米国経済の復活のために関税を敷いて製造業を国内に呼び戻そうにも、労働単価を発展途上国並みに下げなければ国際競争力で敗北する可能性があり、労働者の総収入が下がれば不況はさらに加速するでしょう。

その上、トランプ大統領が世界に対して喧嘩腰で押しつける関税も各国が米国製品の代替を行えば済む話であり、米国に輸出しなくても他国で利益が出るならばアメリカ以外の国と取引すれば良いだけで、結果的に国内輸入品の値上がりの割を食うのは米国民です。
輸入品に需要があるのは、国内生産では同じレベルのものが作れないからであり、業界的には国内生産にするより安上がりだから輸入を行うのです。
ゆえに、輸入品が高額になれば庶民はますます物価高に悩まされることになり、景気後退が深刻になり輸入品が真っ先に買い控えられたとしたら、関税収入も相関的に下がります。
その悪循環は米国経済にいずれトドメを刺すことになり、また債務額に対する関税収入で得られる資本の比率は微々たるもので、関税で財政赤字を補填するなど夢物語なのです。

経済浮上の成果が出なけば全世界から総スカンを食らうだけであり、国際的な信用の低下は国債安・ドル安・株安のトリプル安に向かっていくことでしょう。
つまり、どういう手を打ってもアメリカ経済は景気後退の局面を避けられず、国内情勢の危機的な状況はさらに危険な情勢に至る可能性が高いのです。

最後に、今週にアメリカ政府が新規国債、1250億ドルを発行するというニュースをご紹介します。

米国債を待ち受ける1250億ドル大規模入札

上記でも解説したように、米国債も需要と供給の経済原理に漏れることはないため、国債を大量発行すれば国債は安くなり、利回りは高くなります。
これはトランプ大統領がFRBを脅して政策金利を操作しまくったとしても、決して思い通りにはならないでしょう。
これだけ大量の国債を発行するということは借金をするのと同じですから、いつかは利息を払わなければいけなくなります。

アメリカ政府が今年支払う債務は約7兆ドルですが、来年には6兆ドル、再来年は4兆ドルです。
今でも自転車操業のような国家運営なのに、毎年膨れ上がる財政赤字を加味してもこの状態が続くとは思えません。
トランプ大統領の経済政策の肝である予算の削減は絵に描いた餅で終わりましたし、大幅減税策は国家の税収には結びつかないため財政赤字に寄与はしても景気浮上に貢献するかはわかりません。

どうもトランプ大統領は本気で狂っている演技をして、確信犯的にアメリカ経済を沈没させようと努力しているのではないか、と思える瞬間すらあります。
実際はどうであれ、トランプ大統領が頑張れば頑張るほど確実にアメリカ経済を袋小路に追い込んで行ってしまうのです。

心配なのは、「合衆国第51番目の州」である日本です。
日本は米国債を15%近く保有しており、その総額は1兆800億ドルとされています。
このままでは米国債の大暴落に巻き込まれるのは目に見えており、しかもアメリカの経済崩壊の尻拭いは日銀の悪意ある円安政策でジリ貧になった日本国民が肩代わりすることになるでしょう。

日本円の国際的な実質価格は対ドル70円前後と言われており、政府と日銀はこれを半値にする努力を30年以上続けてきました。
円安傾向は国内の金融業界と輸出系企業を優遇し、一般国民は慢性化するデフレとグローバル化に伴う外資の流入によって年々貧しくなっていきました。
しかし、売却した米国債を円に変えて円高に転嫁させれば、日本の一般国民はあるべき生活水準に戻ることができるのです。

しかし、このままではアメリカと無意味に心中する可能性が極めて高く、それはさすがにごめん被ります。
日本は今まさに率先して米国債を売り払うべきであり、戦後80年の間に我が国が受けた負のカルマを、その一手だけで米国に返済させることができるのです。
アメリカという欺瞞と謀略に満ちた国家と手を切ることができるならば、日本は憲法レベルから見直す機会を得られるでしょう。

是非とも「ベルリンの壁」をたった一人で崩壊させた東ドイツのシャボフスキーのようなうっかりさんが、奇跡を起こして日本の救世主になってくれないかなと思ったりもします。

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死にゆくインターネット

楽太郎です。

今、個人サイトを3つ制作していますが、そのうち1つは完成しつつあります。
ただ、このサイトは「保管庫」あるいは「ポートフォリオ」みたいな形で使おうと考えており、実際にコンテンツで集客するには長い道のりがあると思います。
いくつか自作品の宣伝手段は考えていますが、多くの人が採用するような正攻法は採用しないつもりです。

SNSや投稿サイトなどを使えば良いのでしょうが、敢えて独自路線でやっていこうと思います。

私はこれからインターネットの世界は様変わりすると考えていて、つまり「崩壊」を予感しています。
「タダほど怖いものはない」という言葉がありますが、「タダ」であるからこそ立ち行かなくなっていくと考えていて、そう予想する以上は通常の手法を使わないつもりです。
今回は愚痴も含みますが、その話をします。

地上波のTVは、基本的に無料です。
無料だからこそ視聴率が軒並み20%台という時代があって、つまり人口で言えば2500万人ほどが同じ番組を見ていました。
今ではYouTube100万再生で「大バズり」という世の中ですから、メディアの規模が違います。
無料放送だからCMを挟みますが、国民の5分の1が見るCMが効果絶大でないはずはなく、費用対効果は絶大だったでしょう。

もちろんTVはつけたら時間の許す限りタダで流れるものだからこそ、国民にプロパガンダや価値観を意図的に植えつけるにはうってつけの政治装置でした。
ワイドショーやニュースで政権や政治を批判すれば、お茶の間の国民は「その通りだな」と思ったことでしょう。
同様に社会的な流行も雰囲気も、TVを中心としたマスコミが作り出す趨勢が猛威を振るう時代が続きました。

今やTVすら家に置かない家庭も増え、端末さえあればほぼ無料の「インターネット」に接続すれば、AppleやGoogleやAmazonのロゴは必ず目にすることになります。
多くの人々は、アメリカ合衆国の有数のホワイト企業がまさかコンプライアンスを自らかなぐり捨て、サービスをわざと改悪するなどあり得ないと考えるはずです。

こんな記事が、イギリスの経済誌「エコノミスト」に掲載されました。

AI is killing the web.

要約すると、生成AIコンテンツの増加により現在ネットの検索トラフィック数、つまり検索をかけてサイトを経由する数が15%減少しているそうです。
要するに、ChatGPTなどがWEBをクローリングしてサイト上の情報を拾ってアプリ内で再構成するため、実際に記事元のサイトを訪問する回数が激減しているのです。

WEBサイトの運営は主に、アフィリエイトや広告枠を出すことで資金を得ています。
しかし、ユーザーがサイトを訪問せずに欲しい情報が手に入れられたら、わざわざ検索してサイトを見に行く必要がありません。
コンテンツ提供者は、言い方は悪いですが内容は盗まれるけれど、対価も得られないどころかクローリングBOTをブロックする手段が限られており、しかも対策に自ら資金を投じなければなりません。
その上、訪問数が減ればアフィリエイト収入や広告費も減少し、サイト運営は難しくなります。

今のTVはハードディスクに録画して後で見る人が増えたので、CMはほぼスキップすると思います。
スポンサー側はCMを見てもらうために番組に資金を提供しているので、物理的にCMが見られなければスポンサーになる意味が殆どありません。
同様に、インターネットにおいてもWEB広告が消費者にアプローチできなければ、出稿する意味もあまりなくなります。

だいぶ前ですが、iPhoneのOSに「広告非表示機能」がつきました。
私たちはアプリを使うにしても、邪魔な広告を見ないようにするためにサブスクに入会するほど、広告を「悪者」のように見てしまう習慣がつきました。
確かにネット上の広告は大きすぎる上に多すぎるので、若干悪質性すら感じるようになって久しいです。
だからユーザーは、不快な広告を見ないためのサービスすら求めるようになってきました。

まるで広告が「人質」のようになったことで、広告を出稿する企業は大した費用対効果を生んでいないのではないでしょうか。
WEB広告を出すにはGoogleなどのアフィリエイトに登録すれば手早いですが、やはりGoogleに手数料を支払う必要があります。
しかし、サイトに広告を出してもAIが要約するからサイトへのトラフィックは減り、そもそもネットに広告を出せば邪魔者扱いされてまともに見てもらえません。
けれど、インターネットを広告塗れにして広告に対する相対価値を低下させたのも、AIBOTを走らせながら物理トラフィックを減少させているのもGoogleであり、広告主はそれでも同社にみかじめ料を支払ってWEB広告を出しているのです。

私はこの状況を俯瞰すると、「まんまとやられたな」と思います。
そもそもGoogleは2000年代初め、検索能力の精度が高くアプリとして軽快だったために、検索エンジンを備えたChromeはブラウザとして人気になりました。
当時のインターネットは「フリーミアム」の楽園だったので、有志が作った無料のアプリが豊富でした。
しかし時は経ち、かつてのベンチャーが今は業界の寡占企業となり、大企業となったが故に殆どのアプリが課金制になりました。

それらのテック企業がやっていくには、アプリの無料部分を制限して完全版に課金させるか、広告主からスポンサードを貰いながら「広告を悪者」にして非表示機能をプレミアムでつけるのがフォーマットになっています。
けれど、アプリ開発は一度完成してしまえば、追加機能を作らない限りはシステムの保守さえしていれば良くなるので、やることが限られてきます。
それゆえ、MicrosoftのWindowsでも GoogleのYouTubeもAppleのiTunesも、歳末の道路工事のようにやる必要のない改悪を続けるせいで、どんどん利便性が悪くなってきています。

けれども、ビッグテックにでもなってしまえば競合他社は簡単に捻り潰せるか買収できてしまうので、後はユーザーにサービスの代替を許さなければシェアを確保できてしまいます。
アメリカとEUがIT面で仲が悪いのも、ビッグテックがEU圏内のIT企業を軒並み駆逐してしまうからです。
日本にITが育たないのは別の理由があるのですが、日本のITはシリコンバレーの背中を見ているために追従しかできない体質でもあるのです。

従って、現在のインターネットはほぼアメリカという国家の独壇場であり、それに対抗して中国は自国の通信網を完全に遮断していますが、やっていることはシリコンバレーと同じです。
インターネットは、もはやフロンティアではなくビッグテックの「帝国」の支配下にあります。
私たちは米国製のOSによってWEBに接続し、米国製の検索システムを使い、米国有利のデジタル環境を甘んじて受け入れています。
日本は毎年莫大なデジタル赤字を抱えていますが、誰も問題にしようとはしません。

私たち日本人は、IT革命を経験する際に「無料の便利さ」を堪能しました。
しかし、コストが低くリスクも小さくビジネスチャンスが大きいからと群がったのは良いものの、今では営業するにも作業するにも調べるにも交流するにも広告するにもアメリカのテック企業のサービスに依存せざるを得ません。
大抵の日本人はそれで困らないのでしょうが、これらのテック企業の行いを果たしてどこまで看過できるのでしょうか。

少し前に、SNSのBlueskyで画像処理ソフトを提供する Adobeがアカウントを創設した時、なぜかそのまま炎上するという騒ぎになったそうです。
 Adobeは画像生成AIをサービスに組み込んだ分、サブスクを高額化したために、長年支持してきたユーザーからの顰蹙を買っています。
イラストレーターとしてやってきた私からすると「まさかあのAdobeが」という印象です。
クリエイターのためのツールを提供して手堅い実績を積んできた企業が、クリエイターの著作物を一方的に学習して出力するだけの機能のために、クリエイターに経済的圧力をかけるなど想像もできませんでした。

今のデジタル環境に詳しい方なら眉唾には思われないでしょうが、MicrosoftもGoogleもAppleもMetaもいつまでユーザーフレンドリーな環境を維持するかは不透明な状況です。
 Adobeの手のひら返しのように、業界標準を作っているような企業にやられると手も足も出せません。
すでにGoogle検索はスポンサードのサイトが上位に張り付き、アフィリエイト率の高いサイトが優先的に表示され、ヒット数の少ない個人サイトは殆ど引っかかりません。

余談ですが、本ブログのようなブログサービスが検索に乗るためには最低3か月、通常半年は更新を続けなければなりません。
けれど検索にスポンサードを払って検索上位に張り付いているサイトは、そんな地味な努力をしません。
ゆえに、生きた情報を更新し続けるようなブログは、現在のインターネットにおいては隅に追いやられています。

徐々に、「インターネット」は死に体になりつつあるのです。

今では生成AIで作られたコンテンツが氾濫し、個人の生の仕事は埋もれる傾向にあります。
人々は殆ど自分の使うSNSのタイムラインしか見なくなり、WEB検索機能に関しては冒頭にお話した通りで、そのアルゴリズムも寡占企業のブラックボックスにあります。
おそらく、新しいWEBメディアが誕生するくらいでしか開拓できる要素は残されていません。

そして生成AIによる偽サイトやディープフェイク、身元不明のコンテンツの氾濫によって正しい情報へのアクセスが困難になりつつあります。
上記リンクの記事では、Googleが「WEB全体のトラフィックは増えている」と言っていますが、正確性の高い良質なサイトへの物理アクセスが減少していることが問題なのです。
私は近い将来、ビッグテックの悪政に耐えうる者だけがインターネットを使う時代が来るのではないかと懸念しており、デジタルから離れる流れも起きてくるのではないかと感じます。

私はこれから事業を進めていく中で、デジタルの世界にどれほど可能性があるかについては懐疑的です。
しかし実地のビジネスの世界こそ飽和しきっている上に押し寄せる不況の波、どう打って出るか悩ましい部分があります。
デジタルはコストが低いからこそ進出しやすいけれど進める道が限られている中、それでも毒を皿まで食うのか、毒を食らわず草を食うのか、究極の選択が迫られています。

私が自分で作品を作らなくても無料で見られる作品は山ほどありますし、それこそイラストなどは生成AIでタグ打ちすれば好みのものが出力されます。
この「何をやっても無駄」感のある状況の中で、自分がしたい生き方を叶えるには、多少不利だとわかっていても進まなければなりません。

世の中を見ればわかるように、改めて群がるような需要はあまりなく、モノやサービスが飽和しているからこそ、「需要のために働く」のではなく「お金を稼ぐために働く」という目的にすり替わっている部分もあります。
世が差し迫ってくると、お金を稼ぐのも困難になるためできるだけ労せずに利益にあり着こうとし始めます。
そうして公的資金や公共事業、有力企業の傘下に入ってお零れに預かることが一種のハックとなっていきます。

経済は右肩下がりになっていくのに、企業業績を維持するためには無理に利益を作らなければいけません。
高齢の従業員がどんどん離脱していく中で若者はなかなか入ってこないために、わざわざ外国人を呼び込んで今のやり方を続けているのが日本企業です。
儲からなければ畳むしかないのが資本主義の世界なのですが、そうすると暮らしていけなくなるから需要を創出し続けなければなりません。
走るために走らなければいけない」状況にありながら、それにも限界があります。

私の漫画やイラストを稼業にしたい思惑だって、需要があるからやっているわけではなく、供給を成り立たせるために消費者を探しているのです。
この歪な取引関係の中で、敢えて打って出ていくのも自分の我儘であることは承知していますが、理想を叶えるためには無謀でもやっていかねばなりません。

だから、これまでの「当たり前」の方法を取っていけば、確実に浮上するのは不可能でしょう。
それゆえ、着想のレベルから斬新でなければならず、手段も特殊でなければなりません。
プラットフォームに最適化された立ち回りをこなせる自信がないなら、既存の方法でやるのは難しいと考えて良いと思います。

どうやって行けば良いのか悩むこともありますし、時に「もっと世の中が壊れてくれた方が動きやすい」と思うのは本音なのですが、世の不幸を待っているのは不健全です。
とは言え、おそらく私の予想通りになっていくでしょう。

新しい何かを始める時というのは、既存のものを壊して無理に進まなくてはならない、というイメージがあります。
しかし、草の根も生えないほどビッチリと塗り固められた土壌で、個人が壊せる範囲は微々たるものです。
ただ、これから起こるのは巨大構築物の自壊であり、待っていれば自然に崩れていくはずです。

私はその合間を縫って進めば良いだけで、自ら巨大な壁を打ち壊して進む必要はありません。
その知恵を働かせた方が、身体を張るより何倍も上手くいくでしょう。

私はデジタル環境に慣れきっていますし、MicrosoftのSurfaceを使って制作しているので、正直言ってデジタルの世界がおかしくなっていくのは心苦しいのです。
けれどアメリカという国家が信用を失う日は近く、同国の中枢にある企業体がいつまで行儀良くしているかについて、私には不信感しかありません。
だからこそニュートラルにものを考え、臨機応変にことに当たっていくつもりです。

そのやり方は自分で考えなければいけませんし、上手くいく保証は皆無です。
けれども、そこから挑んでいかなければ道が開けないことを覚悟しています。

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何者にもならない

楽太郎です。

今朝、散歩中に喉が渇いたので自販機に寄ろうとしたところ、女子高生が立ち止まってジュースを買い始めました。
私はそれを斜め後ろから見て、気づかれないといいなと思いました。
何故なら、彼女から見れば中年男性が自分を眺めているように見えるかも知れないと思ったからです。

それは自意識過剰なのだと思いますが、今の私が中年でいかにも怪しく見られそうだ、という認識から生まれる不安ではないことに、しばらくして気づきました。
私が子供や少年少女を見て、特に年頃の女の子に対して自分があたかも汚れた存在で、何となく自分をモンスターのように感じるのは、今に始まったことではありません。
よく考えれば10代の頃から変わらない感覚で、「自分が汚れた存在である」という認識が心に染みついているからこそ、その後の人生は「汚れ」に塗れることで汚れを克服しようとしてきたように思うのです。

それは、おそらく私が人間としてこの世に生まれ落ちた時にできた、魂と肉体との何らかのズレなのでしょう。
「自分と他の人たちは何となく違う気がする」という肌感覚は、どこの集団に属しても何をしていても、何となくガラス越しに眺めているような違和感に繋がっていました。
その不一致感を埋め合わせたくて、何でも必死に取り組んできたし、過剰適応のような状態はいつも上手くいかない原因にもなっていたのです。

先日、私はようやくLINEのアカウントを削除することが出来ました。
30年来の友人がいたのですが、どうもこれから繋がって行けそうにないと判断し、過去の禊をするつもりで全ての交友関係も同時に断つことにしました。
私も人間ですから、胸が痛まないわけではないですし、そこまで思い切る必要があるかとは思いました。

けれど過去の記憶を引き継ぎ、これまでの自分と繋がり続けることは、過去に囚われることと同じかもしれない、と考えました。
意を決して前に進むためには、過去に後ろ髪を引かれるような思いが強すぎるのです。
古い友人も、またいつか会える日を楽しみにしてましたが、そんな日を待つ月日がそのまま立ち止まる時間になるとしたら、いっそのこと振り切ってしまおうと思ったのです。

自分の半生を思い返すと、バカなことばかりやってきたと思いますし、色々な人に迷惑をかけてきました。
それに関して全く弁解の余地はないのですが、自分がそれだけバカだったからこそ、ここまで生暖かい目で適度に突き放して見てくれた人たちに対して、感謝の気持ちが湧いてくるのです。

私は確かにロクなことはして来なかったのですが、それでも痛い目を見て思い知り、物分かりが良くなる程度には賢くもなれました。
自分が何となく「他人と違う」という感覚は、どれだけ経験を積み重ねても結局は変わらず、そんな自分を受け止めることでしか真っ直ぐに生きられないことも、十分理解することが出来ました。
それが分かるまでは痛い目を見続けるしかなかったのですが、これまでの半生は私がこの答えに辿り着くことに意義があったのだと思います。

今思えば、私は自分ではない「何者か」になろうとし、誰かのようになれたら上手く生きられるような気がしていました。
自分に対する劣等感は、誰かの上位に立つことで埋め合わせようとし、それも何者かになれたら優秀であると認められ、自信を持って生きられるのではないかと思っていたのです。

けれど、私がなりたい「誰か」という虚像を追い求めたところでしっくり来る自分には出会えず、努力をして優秀さを認められようとしたところで、自分が心から欲しいものを手に入れることは出来ませんでした。
結局、自分はどこへ行っても自分で、いくら他人になり変わろうとしても自分のままで、もし自分が自分であることに納得が行く瞬間があれば、その場で自分探しの旅が終わってしまうことを、身をもって知ることができたのです。

ただ、この「自分ではない何者かになりたい」という不足感は、私が生まれた時からある不満とはどうしても思えません。
この日本という社会で育っていく中で、「人間は常に何者かにならなくてはいけない」という強迫観念がありはしないでしょうか。
事あるごとに他人と比べられ品評されるのが当たり前で、誰に憧れて誰のようになりたいかを問われ、その存在に近づくことを同じくらいの年頃の子たちと競わされてきました。

それで「できる」とか「できない」とか勝手にラベリングするのは、決まって偉い大人たちでした。
子供はそれに従うべき存在で、そういう型に嵌るべき生き物であるかのように扱われてきました。
けれど、大人になった今冷静に思い返してみると、そんな大人たちの思惑などたかが知れていて、きちんとした哲学があった訳でもないでしょう。

その仕組みがあまりにも当たり前に機能するからこそ、優劣というレッテルがあたかも真実であるように見え、その評価軸が人々の人生を振り分けてきたのです。
そうして「何者かにならなければ価値がない」という思い込みは、想像以上に人々の心に影響を及ぼしてきたように思います。

私が小学生の頃、事あるごとに嫌がらせをしてくる男の子がいました。
彼とは仲良しのつもりでいたのですが、何故こんな意地悪ばかりしてくるのか不思議でした。

ある時、先生の前で私へのイジメを見られたその子は、目の前で先生から咎めを受けました。
「何でこういうことをするの」と先生が問い質した時、その子は「絵がうまいのがずるいと思ったから」と言って泣き始めました。
私はそれからいい歳になるまで、その涙の理由がわかりませんでした。

私は確かに子供の頃から絵を描くのが得意でしたが、それは単に好きで毎日絵を描いていたからです。
当時思ったのは、「絵を描けばうまくなるのだから、描けばいいのに」という感想しかありませんでした。
けれど、後々に「努力はしたくないけど結果は欲しい」「打ち込めるほど好きになれるものがない」ことで、他人に嫉妬するタイプの人がいることを知りました。

彼とは中学まで一緒だったのですが、卒業文集に「将来は画家になりたい」と書いていましたが、ただの一度も彼が絵を描いている話も聞いたことはないし、彼の描いた絵を見たこともありませんでした。
彼のその後の人生はわかりませんが、「絵を描く才能」に対する憧れの感情を、憧れのままに終わらせないで大人になれたことを願うばかりです。

今でも考えるのは、憧れるのなら憧れに近づく努力をするべきだし、ただし憧れの存在に近づいても他人そのものにはなれないのだから、どこかで自分に納得して落ち着けばいいと、それだけのことです。
けれど、一生をかけてもこの結論に辿り着けない人はいます。
憧れている何者かになれないなら、何か他人にマウントを取れるようなステータスを身につけて、あわよくばそれで満足できると錯覚する人もいます。

「何者かになりたい」という憧れと、「何者かにならなければならない」という強迫観念は、結局は「自分はこのままではダメだ」という感情の裏返しです。
その不安感も、自分が素の状態で生きてありのままに認められない不満から生まれていて、人々が予め与えられた条件を満たせなければ社会的報酬を得られない仕組みにあります。
だから人間は、自分自身として生きていくために「自分以外の何者かにならなければいけない」という条件を満たすために長い旅を始めるのです。

その歪んだ探究は、「何者かである者への嫉妬」という形でも現れます。
有名人や才能ある人の隙をついて、叩けるならば叩きたいという感情も実はここにあります。
自分が自分として確立され、その自分自身に満足していれば他人はわりとどうでも良く、どんな優秀な人であろうと条件が合えば協力し合えるような、そんな感覚になるはずです。

けれど、「才能がある」とか「優秀である」というだけで、他人に嫉妬し怒りを晴らすために一方的に攻撃する、その心理が健康的と言えるのでしょうか。
しかし、今の日本人にこういう人が多いのは、この学歴社会や勝ち負けの仕組みがあまりに歪だったからこそ、不健全な価値観が現象化しているだけのように思えます。

そもそも、「何者かにならなければいけない」という観念そのものが正しいのでしょうか。

小学生の頃に「エジソンのようになりたい」と学校で思わされたとしても、正直に発明王を目指す人はたぶんいません。
けれど「年収1千万円のインフルエンサーになりたい」とか「フォロワー10万人の絵師になりたい」と思う時は、大抵はモデルが実在します。
それが真実の姿はともかく、その人の真似をして同じようになろうとし、自分の形がなくても理想が叶えられたら満足する、そんな気さえしてしまうのです。

けれど、結局はどこまで行っても自分は自分で、自分が自分である延長にしか自分の幸せは存在しません。
それなのに、自分ではない誰かになれた方が幸せになりそうな気がするのは、本当の自分が見えていないからではないでしょうか。

私たちは常に比較されすぎて、「どれだけ比較されようと肯定するしかない自分」を見つけるまでになかなか至れません
今の世の中は特に失敗も許されず、最短最速の結果を求められ、しかもその最適解がフォーマットとして既に出来上がっています。
ヨーイドンで走り始めた1回目のレースで勝負がついてしまうような世の中で、どうやって自分を見つけろと言うのでしょうか。

私は、誰もが「何者かになろうとしなくていい」し、何者にもならない自分を見つけるために、あらゆる経験や失敗が許されるべきではないかと思います。
実はそんな世の中の方が、人間はおおらかに他人の失敗を認められますし、「お互い様」と言える空気になるはずです。
人生において結果を残すような人間になろうとし、それを強迫観念として抱いているからこそ、人生に失敗が許されず、何も持たない自分の劣等感から他人に嫉妬する心も生まれるのです。

右を見ても左を見ても同じゴールを目指している競争相手しかいない世界は、とんでもなく窮屈です。
しかしこれまでの世は、残念ながらそういう方向に向かい続けていました。
人々がもっと人間らしくのびのびと生きるには、常に他人と比較されなければ生きる価値が見出せない空気は障害にしかならないと思います。
そもそも人は社会の歯車として作られるのではなく、誰しもが幸せを願われて生まれてくる大切な命です。

祝福されて生まれてきたからこそ、当たり前のように幸せになれるのが自然な社会のあり方です。
それなのに、数値化されたステータスで選別され、工業製品にも似たラインで一生が決まるのは、どう考えてもおかしいのです。
ただ実際にそうであっても、人間の一生や幸福はその仕組みの中で完結するわけではありません。

いくら自分の生まれや育ちが気に入らなくても、いつでも幸せになろうとすることはできます。
仮に社会という工場の中で溢れた部品だとしても、自分という存在はそれだけで完成されているのです。
どれだけ未熟でもポンコツでも、完成品は完成品であり、その性能はともかく完全に機能はするのだから、それで自信を持って生きればいいのです。

私はこの半生を通じて、自分はやはり不良品だと思いますし、ポンコツすぎて色々な人に迷惑をかけたことに反省もします。
ただ、その不足感も世が世なら問題にならず、私が受けたような迷惑すら物ともせず、「お互い様」と言い合えるような雰囲気になっているはずです。
それが失敗を許されず、責任を押しつけ呪いを掛け合うような時代は、そろそろ終わりにするべきなのではないでしょうか。

私は散々痛い目を見た分、人様の失敗には寛容な方です。
私が目にする大抵の失敗は、大なり小なり私も経験してきたからです。
だからいつまでも失敗を責める気はありませんし、反省して出直す分には見守るつもりです。

それは何より、これからを生きる若い人や子供たちに窮屈な思いをさせたくないからです。
失敗もしていいし、どんどん苦い経験もしていって欲しいのです。
失敗もしたことないような綺麗な人生の中では、他人をおおらかに許すことなど到底できません。

私はこれから、改まって「何者か」になることもなろうとすることもないでしょう。
ただし、自分自身でありながらこの社会に生きられるような、誰かの役に立つ落とし所を見つけて行きたいと思います。
そしてあわよくば、私の歩んできた道を同じように歩いてくる若い人たちに、声を掛けられるくらいの人間になりたいと思います。

その時に掛ける言葉は、すでに用意しています。

「何者かにならなくていい、自分であれ」と。

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Blue Jet

楽太郎です。

藤巻亮太さんのアルバム「北極星」の中に「Blue Jet」という曲があります。
この曲は、かつて宮沢賢治が志した現代版の「雨ニモマケズ」ではないかと思います。

「人は通らない
それでも構わない
ただここに生きて
橋を架けてゆく」

藤巻亮太さんは人気ロックバンド「レミオロメン」のギターボーカルをしていたアーティストです。
藤巻さんの曲は文学性が高く、レミオロメンの頃から一貫して情緒の大切さを表現し、前向きに生きる人々を応援し続けています。
この「北極星」というアルバムはオーケストラを使った曲が多く、特に硬派なコンセプトで作られているように思います。

「Blue Jet」という曲は、誰に見向きされなくても、それゆえに自由を背にして突き進め、というメッセージが込められています。
これが「雨ニモマケズ」だと思うのは、「木偶の棒」と呼ばれ嘲られても信念の赴くままに生きる芯の強さに美を見る感覚と、同じ思想を感じるからです。

私は常々、「見向きもされないな」と思いながらやってますが、決して腐っているわけではありません。
けれども、薄っすら「何にもならないかもしれない」という不安はあり、それでも辞めることができないのは、愚直に信念を追い求める私自身が嫌いではないからかもしれません。
そして、やる必要もなく例え求められなくてもやらざるを得ない、どうしても表現を止めることができない私という存在がいて、それはあたかも飛行機が飛ぶしかないように、当たり前のことをしているだけだったりします。

「Blue Jet」は、空を行く飛行機は何にもない虚空を飛ぶわけではなく、虚無のような広がりを行くことに自由があるのだ、と歌います。
私はこの曲のメッセージを理解した時、レミオロメンの後期の名曲「アイランド」での迷いを突き抜けて、藤巻さんは悟りの境地に入られたのだなと思いました。

世間は、人が見向きもしなければ無駄なことをやっているように思いますし、何にでも利益がついて回らなければやる価値はないと思います。
確かに経済活動という側面で見ればそうなのですが、この社会を成り立たせるにはそれだけで足りません。

需要と供給の枠を超えて必要なものは世の中にあって、誰も知らず目に入りにくいものによって支えられていることはたくさんあります。
その価値は先入観では計り知れず、場合によっては「いらないもの」とされ、隅に追いやられてしまうことすらあります。

私は、皆がスポットライトの方しか見ないからこそ、日陰や闇の中に一粒の光を見つけて、その輝きに目を奪われる行為を愛するのです。
それは例え儚くても光は光であり、作られた電気の明かりではなくて、人が心から放つ生命の光こそ私は美しいと感じます。

けれどそれに気づく人はなかなかいなくて、その寂しさに青い空を見る、それが「Blue Jet」に歌われている景色なのかもしれません。





以前、「素直に生きる」という記事の中で、「再び自分の感情に向き合って創作することを許された」と書きました。

それまでの神様の導きがある種、時期的なものであったことを勘違いをしていたのだと思います。
神様は基本的に人を縛ったり「こうしなければならない」という強制をあまりなさらないように思います。
私はもう「昔の作品に取り掛かれることはないのだろうな」と思い込んでいたのですが、「どうしてもやりたいこと」に限っては、自分の心に嘘をついて止め置くくらいならむしろやりなさい、ということなのだと思います。

最近はフィジカルなパワーの高まりと共に、霊障も落ち着いてきました。

近頃の憑依は祝詞やお経のもつ神性のパワーが通じず、自分の霊力で抑え込むしかありません。
よく「警察が来ようがビビらない」タイプの方がおられますが、そういう人たちに理詰めや宥め聞かせる手口は殆ど通用しません。
そういうタイプには腕っぷしをみせて手出しできないようにするのが最も効率的です。
この構図は、この世でもあの世でも変わりないのかもしれません。

ただ、こういったタイプの邪気を呼ぶのは、私の心にも同じ性質があるからです。
その禍々しい感情に蓋をしながら、蓋をしていたこと自体を忘れがちになります。
この世界を見る上で感じる「悲しみ」の奥に沸々と煮えたぎる怒りがあっても、沸騰して蓋から溢れ出てくるまで鍋が煮えていることに気がつきません。

この世に蔓延る欺瞞や暴力や搾取、それを嘲る人々、私はその闇を照らせるほど強い光を持っていません。
そこで湧き上がる怒りを浄化するほどの力もなく、自分の中に塞いでしまった負の感情は、自ら闇を招く原因となっていました。
結局一旦は蓋を開けてそれを出してみるしかなく、よく冷ました上で灰汁も取り除いていかなければなりません。

その感情は、やはり「表現」するしかないのです。

私は特に、日常生活の中で本音を話せる人は誰一人おらず、世に思うことや自分の感情を誰かと分かち合う機会は殆どありません。
けれど、私は一介のクリエイターであり、誰が目の前にいなくても「人に語る」ことはできます。
それが例え壁打ちだとしても、私の心は押さえ込んでいた感情を「作品」という形に昇華することが可能で、それによって心は浄化されるのです。

闇というものは、ただ光を照らしただけで自ずと消えていくものではなく、闇を分かち光へ導いてあげなければずっと澱んだままです。
闇を照らすには頭ごなしに光を当てるだけではダメで、闇によって闇を宥めて闇の内側を拓かせることから始まります。
毒を持って毒を制することがあるように、水に油を注いでも意味をなさないこともあります。

だからこそ、素直に「それ」を表現することにしました。

それは血生臭く、禍々しい闇の部分です。
しかし、それはある種この世界の真実の姿でもあり、光に照らされた部分だけを眺めても見えてこない部分です。
光は常に明るい方だけに差すわけではなく、遍く闇にも向けられます。

だからこそ、「綺麗事」の偽りを破った先に本当の綺麗事は存在するのだと思います。
何となく矛盾しているように思えますが、善も悪も表裏一体だからこそ、表だけ裏だけ存在する方が歪な世界になってしまいます。
世界を「白」一色で染めようとした今の世を見て、それでも眉唾に思えるでしょうか。

この作品は、いずれ漫画という形式でどこかに出そうと思いますが、おそらく別名義になるでしょうし、本ブログでは全く触れないと思います。
それでも、もしどこかでお見かけしたなら、そっと閉じて記憶を水に流して欲しいと思います。

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「勝ち」に行く

楽太郎です。

7月の満月から一夜明けて、邪気が引き潮のように一斉に引いたのを感じます。
体調も取り戻し、やはり満月の影響は効果覿面に現れるのだなと改めて思いました。

先日はかなり邪気に滅入られて、一時的に「神も仏も信じられない」感覚に陥っていました。
この世界はやはり、神秘など存在せず人間がこのまま欲望のままに地球を支配し続け、いずれ滅ぶに違いないと、かなりネガティブな気持ちになりました。

どこを見渡しても、人々は誰もが変化を期待しながら、変わるつもりも変えるつもりもないことは薄々わかるからです。
世の中が勝手に良い方に変わって欲しいと願いながら、自分自身を見つめ反省し、過ちを手放して生き直す覚悟が、人々にそれほどあるとは思えません。

けれど、おそらく夏至以降、神々の選択では「大難」ルートの世界線から「小難」ルートに切り替わった気がします。
数ヶ月前の私は、国内情勢はさらに破綻し、その上大災害も起きて食糧難の時代となり、人々は木の皮まで食べるようになると本気で思っていました。
しかし今の私は、確かに世の中はすこぶる悪いのだけど、皆がそこそこ生活を保ちながら目に見えるところを少しずつ良くしていくような、そんな未来に思えるのです。
だから、不思議と未来に対する不安は「抱けない」のです。

というのも、未来が明るい方に向かうのは決まっているので、それまでに闇が濃い時もあるのだろうな、という印象に近いです。
なぜこんなにも人々が変わろうとする意思を見せないのに、世の中が良い方向に動くと感じるのかと言えば、おそらく「覚醒」の道を選んだ人々の総量が神々の予想値よりも多かったのを、私が感じ取っているからかもしれません。

おそらく、想定通りならすでに現7月時点では相当悪いことばかり起きていて、大難ルート一直線だったのかもしれません。
しかし、良い意味で予測が外れたことで、多くの人々がコツコツ世を良くしていく流れに変わったのだと思います。
「日月神示」では、神々が手を入れるならばすぐにでも元の泥海に返すことはできるのだけど、そうはしたくないから大難を小難にする努力をしてくれと、日月の神様は口酸っぱく忠告するのです。

私は昨日、あまりに気分が最悪なので雨の中を歩きに行きました。
その時も人々の波長と噛み合って本当に居た堪れなくなったのですが、その時は「人間など滅べばいい」とまで思いました。

私は自分の中に、闇がものすごい勢いで湧き上がるのを感じました。
これまで、波長を高くするためには闇を消え去らねばならないと考え、負の感情を抑制してきました。
しかし、それは単に怒りに蓋をしているだけに過ぎず、その怒りを浄化しないまま上っ面で波長が高いように思い込んでも、腹の底ではマグマのように煮えたぎっていたのです。

これは「スピリチュアリストあるある」の一つで、闇と向き合わないからこそ浄化された光の部分だけを自分のうちに見ることができ、自分があたかも闇がないように感じる、という錯覚が起こります。
真の波長の高さというのは、いかなる低い波長もカバーする寛容さがあって、「低い波長は許されない」と思っているうちは低い波長域にあるのです。

大事なのはこの波長の低い部分、醜い闇の部分をしっかり見て、その醜さに目を逸らさずにきちんと向き合い続けることです。
私はこの闇の部分を押さえ込みすぎることで、自分自身のエネルギーの循環そのものに影響がありました。
負の感情を持たないようにする努力は、自分の感情を胸に押さえ込むことに繋がっていたのです。

だから感情を自分の中で手に取り出して一旦見つめることは、自己浄化への第一歩です。
闇は表に出さなければ良いだけの話で、自分の内に止めて浄化するつもりであればその方が健康的です。
私は時々、煮ても焼いても食えない人間という存在がひどくもどかしくなり、憎たらしくなることもあります。

私がこの世界が変わることを願うからこそ、「変わる必要がない」と思う人々の意思と拮抗します。
彼らの選択自体が間違っているわけではないのも、重々承知しています。
時代がずっと良ければ、私も何の疑問もなくのらりくらりと生きていたでしょうし、目を向けるものが違うだけで彼らは今でも満足しているのかもしれません。

しかし、巨大なものがより巨大になるためにより巨大になっていくだけの世の中というのは、漂っている小さいものは巨大なものに飲まれていくか、滅ぼされていくしかありません。
この世の中に固定化した「勝ち組負け組」という短絡的な社会構造は、勝ち組の傘の下にしか人権はなく、その傘の下では負け組同士の競争しかありません。
勝ち組は「どうやったら勝ち組になれるか」というハックを有償で提供し、勝ち組に上がってくる負け組だけが救われる世界にしているのです。

私はそれがひっくり返るのを望んでいて、このままでは世はどんどん悪化するばかりだと思うからこそ、変革を願うのです。
しかし、冷静になって考えれば、私がそうなる世界を望むと同時に、神様が世界を変えて下さると信じすぎている私に気づきます。
仮に神様が私の予期しない世の中にしようとして、私の望み通りに世界がひっくり返らないとしたら、私はそれで諦めて「負け組」に甘んじて死んでいくのだろうかと。

神様が世の中をひっくり返すのを待っているだけで、もしひっくり返らなければそれで終わるつもりなのか。
その時、自分は何もしなくて良いのか?

そう考えた時、世の中がひっくり返らないなら自分がひっくり返せばいいじゃないか、と思いました。
「他力本願」というのは仏教の奥義でもあるのですが、自力で最善を尽くして天命を待つのが他力の意味です。
神様がやらなければ諦めて終わるだけなら、自分でやり切ってみる価値はあると思うのです。

この地上がこれまで幽界的な存在に支配されていたのは、人間が「欲望」というエネルギーに親和性が高く、欲望はすぐに物質に対するアプローチに変わるため、これまでの世は即物的にならざるを得ませんでした。
即ち、人間が何かしらの力でエネルギーを具現化するから現実の事象は起こるわけで、誰かがその力を地上に降さなければ妄想で終わっているのです。

この物質次元は「形にしたもの勝ち」の世界で、良くも悪くも実行力のある人間が力を持ちます。
神様がそうしてもらいたくないと思っておられたとしても、人間が気まぐれで神社に火を放てば神社は燃えてしまいます。
この世界において、物質化する主体があるからこそ現象が先立つのです。

「世の中が変わってくれたら」と思うだけなら、「別に変わらなくていい」と己の既得権益をせっせと再生産し続けるパワーには勝てません。
だとしたら、それを上回るパワーをこの地上で顕現しなければならないのだと思います。

それを「自分は大河の一滴だ」と過小評価して、最初から小さくまとまるつもりなら、最後までその程度のことしかできないでしょう。
自分なんか、自分ごときが、と思ううちは、自分の底力も真の実力も眠ったままです。
自分を過小評価せず、かと言って過大評価もせず、とは言え志を大きくやるのは難しいのですが、その豪胆さがなければ化け物のような胆力で勝ち上がってきた人々に太刀打ちすることはできません。

優しく心ある人ほど、人に遠慮して譲ってきた人も多かったはずです。
今までの時代で勝ち上がる人というのは、利益のために平気で人を切れぬようでは浮上できないことを知る人たちだったのです。
だからこそ本当に善良な人ほど良いように使われ、虐げられたまま浮上することが難しい世の中でした。

私は即物主義の権化のような会社にいたせいで、心を病み一時は障害者になりました。
それでもお金が必要だったので、就労移行支援を受けて社会復帰を目指しました。
その時に出会った障害を持つ人々、特に精神病を患っている人たちは皆繊細で、心根が優しくて頭が良い人たちばかりでした。
それゆえ、彼らの心の傷の深さも感じ取れました。

彼らの中には、以前の私のように命を断とうとした人もいたかもしれません。
私はあの頃出会った人々が今は幸せであることを願いながら、私や彼らが体験したように、こんな不条理な世界で一人として不幸になる人を生み出したくないと思うのです。
そして、そんな人生をこれから生きる子供たちに辿って欲しくありません。

自分一人がただ落ちぶれて死ぬだけだと思っていたら、私はこれほど本気にはなれなかったでしょう。
それではダメだと思うから行動を起こし始めたのであり、自分よりも大切なものがあるからこそ、ここまで戦う決意でやってきたのです。

「勝ち負けが大事なのではない」というのは、無抵抗平和主義者が生み出した美辞麗句です。
結局は勝ち組に好き放題やられて、負け組が挑戦できないようになっている社会だからこそ、欺瞞が蔓延る今の状況があるのです。
勝ち負けも大事だし、成功も失敗も大事だし、利益も損失も大事です。
小綺麗にまとまっていれば美しい世の中とするのは所詮錯覚であり、その錯視を利用して利得に繋げる者もどこかにいるのです。
いい加減、そのレトリックは見抜けるようにならなければいけません。

幸いにも、おそらく思っているよりも多くの日本人が、覚醒の道を選びました。
これから起こることは、確かに最悪に見えるかもしれませんが本当の意味で最悪ではないはずです。
よもや、その中で気づいて動く日本人が増えれば、自ずと世の中は変わっていくはずです。

神様は、少し先の未来にそれを見届けられたのかもしれません。
だからこうして神様は、私たちを陰ながら後押しして下さるのだと思います。

「日本人よ、今こそ立ち上がれ」と。

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寄辺なき時代に

楽太郎です。

昨夜、ほぼ思いつきで「7月の満月について」という記事を書きました。
その記事を投稿して寝ようとする直前、家の前を誰かが徘徊するような気配がして、玄関から外を見ても誰もいませんでした。
私は嫌な感じがしたので、念のため魔除けとして破魔矢を窓側に向けて寝ました。

それから夢を見ました。
私はどこかのお店の中にいるのですが、人語を話すツキノワグマが店の入り口のガラス戸に体当たりしていて、私は熊が店に入らないようにドアをずっと閉めて押し出していました。
ツキノワグマは、私の胸元程度の大きさもないため簡単に押し返せたのですが、その形相は血眼だったのを覚えています。

朝、変な夢を見たなと思い時計を見ると、5時をちょっと過ぎた当たりでした。
そう言えば天体的に満月はその時間付近だったので、昨日の記事との脈絡を考えたら一応説明はつく気がしました。
昨夜は満月による浄化の強い日だったため、逆に言えば邪気が最も暴走する日でした。

人間の集合意識は現在、これまでの時代を作り出してきた物質主義者と彼らをサポートする存在の支配下にあります。
彼らは彼らなりの正義を実現するために「神に仇をなしてきた」のです。
その彼らにとっての脅威は、神の意思を地上に降ろし地球意識と結びついた人々そのものにあります。

私が「精神界」と呼ぶ新しい時代の気場からエネルギーを地上に降ろし、地球意識を体現する人々の行動によって古い時代の気場は取り払われていくからです。
従って、彼らが血眼で攻撃をしたい相手は自ずと決まってきます。
今の世を支配する者たちは、自分たちの代替となる勢力を生み出したくはないはずです。

私はだいぶ以前から彼らの波長とぶつかり合ってきたのは本ブログで書いていますが、夢の中でガラス戸に必死に体当たりしても押し戻されてしまう彼らは、確かに私にとって恐怖そのものであるにしても、もはやぶつかってくる以外に何もできなくなりつつあるのです。

私は最近、この仇なす者たちが愚直に同じ手口で同じことを繰り返すだけのように感じ、「他の方法がもはや思いつかないのでは?」と考えるようになっていました。
まるで、今の人々が昔のやり方をひたすら踏襲するしかないように、彼らも無駄だとわかっていながらその方法以外の道筋を取ることができないように見えるのです。
それが哀れに思えるからと気を緩めるつもりはないのですが、どうも彼らが追い込まれているのは実感を持って認識してしまうのです。

起きて家の外を見回すと、やはり満月の日で雨天もあってか邪気が蔓延しているように感じました。
それにしては邪気が強すぎるし、不可思議に気場も荒れていると思いました。
毎朝、神棚をお祀りする際に祓いを行うのですが、今朝に限っては「日本のためにお祓いをしなければならない」という妙な緊張を感じて、気づけば1時間以上は祝詞を奏上し続けていました。

さすがに集中力も切れたので奏上をやめると、まるで冬山にいたかのように身体が冷え切っていました。
今日は比較的涼しいのでエアコンを止めて閉め切っていたので、これも不思議な感じがしました。
色々と妙なことが起きているのを感じながら、熱いお風呂にしばらく浸かりました。

ここまでは、今朝起こった奇妙な出来事の話です。
全てを俯瞰的に説明する文脈はあるのでしょうが、私にはまだ点と点が繋がっていません。
ただ、おそらく人世の気場というものは、かなり凄惨な状況になりつつあるのかもしれません。

確かに、夏至を経由してからのエネルギーの変化は凄まじいものがあります。
私自身は神様も邪気の存在も忘れるくらい身体のエネルギーが高まり、多動とパッションをコントロールするのが難しいほどです。
人々がどんな状況か観察しようにも猛暑がきつすぎて通行人を見ることも稀なのですが、何万人もいる街なのにそれほど人が住んでいるように見えないほど静まり返っており、私との温度差を感じます。

ふとすれ違う人たちを見れば、相変わらず楽しそうに生きているようには伺えます。
ただもはやエネルギーの種類が私とは違うというか、全く同じ人間なのに別の世界の住人のように感じるのです。
彼らの波長が云々という話ではなく、行動を引っ張ってくる原動力、言わば考え方や価値観から始まり習慣や生き方に至るまで、まるっきり別の力で動いているように見えます。

それは私と彼らの間の優劣とかそういうものではなく、「違う文化圏で生きている人々」という認識に近いです。
同じ日本人で同じ生活様式で暮らしながら、まるで他国の人みたいに感じるようになってしまいました。
確かに私は社会に生きる人間として浮いてますし、どちらかと言えば不適合者の部類に入るのですが、それに劣等感があるからではありません。

私以外の人々はきちんと組織などで働いていますし、例えやりたくなくても社会に求められる義務を果たしています。
それは大変立派なことだと思いますが、お金を得るための労働をするだけで精一杯のようにも見えます。
また、「昨日やっていたことを明日もやり続ける」ために今を頑張って生きているように思えます。
それ以外の生き方を選ぶのは確かに難しい世の中ですが、まるで不安から逃れるために「昨日までのこと」にしがみついているように見えてしまいます。

これまで積み重ねて来たことだから、それが現実だからと明日も同じことを繰り返せるように今を必死にやり繰りし続けることは、いずれその積み重ねが崩れた時に何をしたら良いのかわからなくなるのではないでしょうか。
将来が不安で、今の世に疑問が多く考えたくない理由もわかりますが、そうして今までのやり方に固執することで安堵を得ようとするのは、結局は問題を先送りにし続けているだけです。

もし私たちがこれからどうするか考える時、「絶対」と思われていた権威が失墜していく時代にあって、安心できる寄辺もない不確定性の高い世の中で、どうすれば幸せに生きられるのかを自分の中に求めていく必要があります。
「こうすれば一生安泰」のような社会のセオリーのようなものは、全ての面で今後揺さぶられていくでしょう。
またそう言った安全地帯は誰もが求めるので、結局は椅子取りゲームになってしまい、おそらく大した安心も得られません。

そんな状況の中で、例えフワフワと漂っていても芯が通っているような、そんな自由な生き方だけが自信に繋がり、あらゆるステータスも決して保障にはならないという覚悟は、確固とした生き方を後押しするはずです。
そうして「自分が何をやりたいのか、何をして生きるべきか」を考える時、自分自身を見つめる難しさや不安から逃げていては、いつまで経っても道筋は見つかりません。

人間は変化を恐れますし、自分自身を見つめることも苦手です。
だからと言って、外側だけに安心を求め続ける限り、自分の生き方はずっと見つからないのです。

この社会で生きる上で「お金」という問題をどうするかに関しては、私自身も言えた口ではなく、今も喫緊の課題であり続けます。
しかし、例え今の世が飽和仕切って雁字搦めの状況でも、どこかに突破口はあるはずなのです。
そして世の中が少しずつ崩れていく中にあって、その隙間に入り込んで広げていくこともできるはずです。

その方法は、既存の常識やセオリーに囚われているうちは、全く見当が取れないかもしれません。
だからこそ、自分自身を見つめていく中でそのアイデアが自分の個性に宿っていることを知り、それを掘り起こして道具に使っていけば良いのです。
誰かの批判や揶揄を気にしているうちは覚束ないでしょうが、そんな自分に自信を持った時に真のオリジナリティを発揮して突き進んでいけるのだと思います。

今、その実践が人々に求められています。
誰かや既存の何かに頼るのではなく、自分自身の内側に信じるものを求め、不安や迷いを振り払って独自の道を切り開く生き方が求められています。
それは確かに難しいかもしれませんが、そのために新しい地球意識の気場が開かれており、そのエネルギーに触れるために目に見えない世界と調和していくことも大切です。

もし自分自身を見つめるだけでは何も見えないのなら、手を合わせてご先祖様や神様にお祈りしてみるのも良いかもしれません。
目に見えない守護者たちは、きっとそんな私たちを応援してくださるはずです。
未来は、常に挑戦する人々に委ねられてきたのですから。

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