「好き」と「仕事」
- Category:エッセイ
- Date:2025年04月21日
今、思うように絵が描けない状態が続いています。
それでも、神様から一つのお役目のようなものを任されていて、それが「神の系統を取りまとめる」というテーマです。
これはとてつもなく大きな課題であると承知しています。
そのための道筋として、かつて考古学者のシュリーマンがトロイの遺跡を発見したように、古代史と考古学から歴史的事実を紐解き、神話の原型を見出すという工程を辿ることになります。
私としては独断と偏見で挑めば実現は可能だと思いますが、中途半端に結論を急ぐわけにはいきません。
「邪馬台国」や日本建国を巡る民族学的議論は、プロの学者が何十年も挑んできたテーマであり、素人に簡単に辿り着けるものでもないでしょう。
けれど、徐々に道が拓けて来ているのも事実で、その成果に少しずつ手応えを感じ始めています。
「お役目」とは何なのだろう、と考えます。
私はずっと絵を描いてきましたし、漫画を描く技術も才能の一種だと思います。
今まさにやりたいのは漫画ですし、そのアイデアにも意義を感じており使命感もあります。
しかし、なかなかそれに取り掛からせてもらえないのも事実で、こうして別のことをしている間、自分にとって絵を描くことの意味を考え直しています。
私が創作の道を志したのは、自分が表現したいものを描き、それで収入を得て生きていきたかったからです。
幸い、近年のクリエイティブはそれが比較的容易でしたし、そうして成功している人も周りにいました。
だから、単純に「魅力的な作品を作れば実力が認められ、それを生業にできる」という頭がありました。
けれど、需要と供給のバランスから生まれる「仕事」というものは、自分がやりたいことと役に立つことの関係は似て非なるものです。
例えば、人が暮らしていく中で「これが欲しい」と思い、その人の願望に合わせて自分がものを作ったりサービスを提供する、その過程に「自分がやりたいかどうか」は関係がありません。
もちろん、誰かのために自分の技術や才能を発揮すること自体を目的にしたり、喜びにできればそれ以上のことはありません。
しかし、自分のタイミングや相手の出方次第で、気が乗らなかったりやりたくない時も当然あるでしょう。
そういう時に、「気が乗らないのでやりたくない」と言っていたら、それを仕事にすることはできませんし、生業として成立しません。
つまり、「人の役に立つ」ことと自分の感情は関係がないのです。
私は長い間、この部分を誤解していたのだと思います。
ずっと「夢を叶える」ということは、「自分のやりたいことをやって生きていく」ことだと思い込んでいました。
かつて、ある会社で制作をしていた時、声優学校の生徒たちに声の仕事を任せたりしていました。
今思えば、彼らには理不尽なことをやらせてしまったのですが、「学生に仕事をやらせる」という優位な立場は、無条件に彼らを搾取することになっていたかもしれません。
「夢は叶うものだ」と純粋に信じ、夢を叶えるために社会の理屈を飲まされるのは、いつも夢を見る若い人たちです。
成功するために、「これをやってくれたら有名になるかもしれないよ」と唆し、チャンスをチラつかせてやりがいを得させ、その代わりに何かを強引に吸い取っていくのです。
これがこの社会の「夢」のあり方であり、自分もその仕掛けの一部だったのではないか、と今では反省したりもします。
そうやって「若さや情熱」のエネルギーを吸い取られながら、本当の意味で夢を叶えて成功した人はどれくらいいたのでしょうか。
そして、成功した人は何一つ自分の手を汚さず、夢を叶えることができたのでしょうか?
そう考えると、「やりたいことで成功して生きていく」という発想そのものが、単純に考えていいものではなかったのではないか、と思います。
「やりたいことを仕事にする」ことは、欲に従って好きな仕事ばかりをやっていくことではないですし、「仕事そのもの」が好きだから生業にできるとも言い切れません。
そもそも、「仕事」と「好き」は違う次元の話なのです。
仕事はやりたいことだと言っても、領収書の整理や事務作業、メールや電話応対もしなければなりませんし、やりたくない業務の中で実際に楽しい作業はごく一部です。
ただ、「やることそのもの」が目的である時、例えばガラス細工を売るのが仕事だとしたら、事務作業も材料の調達も一連のプロセスをひっくるめて「やりたいことだ」と言えるのです。
その場合、ガラス細工職人という生業そのものが、「やりたいこと」に昇華されていると言えます。
もし先の学生のように、声優をやることが目的だとしたら、やりたくないことをやってキャリアを積む、それも含めて「やりたいことだから」と綺麗事にできれば問題はないのでしょうか。
その場合、目指すものが「仕事としての成功」なのか「生業にすること」なのか、その目的で変わるのだと思います。
私の話に戻すと、「漫画」は誌面連載だから成り立つのも事実です。
実は漫画は花形に思えて、ネットに適当に上げただけではインプレッションがつきません。
イラストなどは瞬時に判断して評価できますが、漫画は文字を読んで絵を見て理解するという一連の動作を要求するので、時と人を選びます。
漫画は雑誌に掲載されますが、雑誌は欲しい人が手に取るものなので、その漫画を読む人は漫画が読みたい人です。
だからこそ、多少冒険的な作品でも漫画を読みたい人の元に届きます。
しかし、ネットに無闇に上げただけでは埋もれてしまい、本当にその作品を求めている人の元には届きにくいのです。
「雑誌」という形態を取っているからこそニーズに合った作品が認められることになるわけですが、雑誌は出版社がなければ成立せず、誌面に限りがあるからニーズに反したものは掲載されません。
つまり、ここでも「求められること」と「やりたいこと」は違うのです。
いくら自分の作品に思い入れがあり、それを人に読んでもらいたくても、求める人がいなければやりたいことをやっただけで終わってしまいます。
とは言え、これまで漫画家という職業は、出版社に気に入られるために、読者の評価を勝ち得るために、命懸けで作品と向き合ってきました。
たくさんの才能ある作家が趣味で描く分には面白い漫画を描くのに、出版社との折り合いが合わずにやっていけなかったり、筆を折ってしまう人も何人か見てきました。
だからこそ、私は自分の作品を活かしながら収入に結びつけられないか、色々と試行錯誤をしてきました。
私の抱えていた矛盾は、「漫画を描くことそのもの」を目的にしたいと思いながら、「自分の作品を描く」という目的を両立させようとしてきたことです。
けれども今考えると、一番最初に「誰の求めに応じ、役に立つのか」という部分が欠落していたように思います。
自分がやることが目的であり、仕事が自己実現の手段であったからこそ、「誰かのためになっていく」というプロセスを踏まず、ゆえに成功の道を歩んでいくことができなかったのだと思います。
だから結局は、「誰を喜ばせたいのか」というビジョンが見えておらず、自分の喜びを優先してうまくやろうとしていたのが、ビジネスとして歯車が回らない理由だったのでしょう。
けれども、これは「夢を叶える」「やりたいことを仕事にする」という頭では、かなり誤解してしまう部分です。
周りに喜ぶ人が増えていくこと、その輪が広がって成功していく、そのプロセスを無視してもこの社会には成功するメカニズムが確かに存在しました。
業界の有力者に気に入られたり、強い組織にコネを作るとか、あるいはもっと汚いやり口を使うとか、本来のやり方を採用しなくても成り上がれる世界だったのも事実です。
そういうエスカレーターのような仕掛けがあり、それにうまく乗ることを「競争」だと表現されていたりもしました。
けれど、それも「搾取」の一形態であり、必ずしも喜びの輪となるものではなかったはずです。
残念ながら、これまでの社会で「夢を叶える」ことは綺麗事ではない時代でした。
そんな世の中に早く気づけば良かったのか、気づいてもっと強かにやれば良かっただけなのか、それは未だにわかりません。
私は、「漫画を描きたい」それだけが願いです。
けれど、仮に趣味と割りきり誰も求めないところで始めても、それよりもやらなければならないことには勝てないでしょう。
やはり、人に「やって欲しい」と言われることをやるのに越したことはないのです。
ここの部分を下手に勘違いせず、それでも「漫画を生業にしていくにはどうしたら良いのか」は、ずっと問い続けていきたいのです。
それが人の求めになく、神の求めにもないとしても、自分が魂から求めることを実現するにはどうするべきなのか、その答えを他人任せにしてはいけないと思うのです。
自分としてこの世に一度生まれてきて、本当の願いを持つということは、諦めて済むような単純なものではない気がするからです。