感謝と別離
- Category:エッセイ
- Date:2025年04月30日
最近、昔のことをよく思い出します。
それは思い出したいわけではなく、なぜか脈絡もなく脳裏に浮かび上がってくるものです。
当時の空気感や温度、建物の構造から棚の商品、あまりに鮮明に思い出せすぎて気持ちが悪くなります。
だから、昔のことなんて思い出したくありませんでした。
あの時代が懐かしくて、恋しくなるからです。
今の時代を具に見ているからこそ、昔の光景がまるで夢のようで、でも記憶の美しさに囚われていては前に進めません。
消えた景色、失った場所、亡くなった人を思い出したところで、前に進む力にはなりません。
なぜ今になって忘れていたことを思い出すようになったのかわかりませんが、おそらく自分の魂を取り戻したからだと思います。
その魂を抑え込むことで、これまで私は人の世の社会に順応してきました。
本音を誤魔化し、自分を演じ分け、思ってもいないことを信じ込み、ガワをよく見せるためにやりたくないことに真剣に取り組んできました。
人の世ではそれが当たり前の生き方で、それ以外の生き方ではほとんど上手くいきませんでした。
だから他人の目にビクビクして、自分がどう見られているかを常に他人の目線で考えて生きてきました。
けれど、その「他人」という存在が不特定多数の視点ではなく、目の前の人の実際の目線で考えられていたら、もう少し違う人生になったかもしれません。
小学生の夏休み、一度だけ祖父母と伯父が家に来て、宿泊して松島に旅行に行ったことがあります。
その日、私たちは松島水族館を一周して、祖母に記念メダルを買ってもらい、遊覧船に乗ると海鳥がえびせんを食べに来ました。
夕方になると天候が急に悪くなり、私たちは案内所のロビーにしばらくいて、激しい雷雨の中を車で帰りました。
その夜、私たちは家中にあるテーブルを出してきてお寿司とオードブルを広げ、楽しい食事をしてお風呂に入り、二家族で川の字になって就寝しました。
それは誰にでもある、子供の頃の良き思い出です。
けれど大人になって今思うのは、あの頃の父母の感情、今は亡き祖父母と伯父の気持ちです。
その時、祖父や祖母は嬉しかっただろうか、そんなことを想像すると、今は亡き大切な人の心をもう少し知りたかったと思います。
あの時、あの人たちの目から私たちはどう見えていたのだろうか?
祖母はそれから数年後、玄関で足を滑らせて骨折し、身体が不自由になったせいで気を病み、晩年は家族の顔もわからなくなってしまいました。
あの夏の日から、何度会えたのかという短い時間の中で、なぜこんなにも愛おしく感じるのか、もしこんなに愛しいと思うのなら何故亡くなってから気づくのか、それはいくら自分に問いかけてもわかりません。
亡くなった祖父母や叔父から世間はどう見えて、彼らはどんな目線で生活をしていたのか、それを知りたくても知る術はないのです。
仮にそれがわからずとも、あの人たちの目線を想像した時、私はやはりたまらないほどの愛しさを感じてしまうのです。
子供の頃は、当たり前のように大人になっていくものだと思っていました。
そして当たり前のように成長し、大人になるにつれて身の回りのことも家族のことも気にかけなくなっていきました。
同世代も、それ以上の世代も当たり前のようにそうするのを見て、私も何の疑問もなく失っていくものに対して無関心になっていました。
けれど今思えば、あの頃当たり前にあったものが本当にあっさりと消えてしまうこと、無くなったものには二度と触れられないことが、どういうことを意味するのか理解できていませんでした。
かつて当たり前にあったものが当たり前でなくなってから、取り戻そうとしてもどうにもならないからこそ、当たり前のうちにできることをしておくべきだったと思うものです。
後になって、それがどれほど大切なものだったかを知るのは常ですが、だからこそ「今を生きる」ことの意味はずっと変わらないのでしょう。
いつ失っても後悔のないように真剣に向き合うこと、それが今ここを生きるということで、それを忘れがちになるから後悔も芽生えます。
十年後、来年どころか明日とか、下手すると数時間後には来るかもしれない別離は、失った時の自分を想像するからこそ事の大きさがわかります。
けれど、自分自身を大事にする気持ちがなければ、大切なものの価値もわからず、失うことの意味もわかりません。
人間はそうして、いつも大切なものを失い、失ってから後悔するのです。
けれど、子供の頃の自分がいくら駄々を捏ねたところで、大人の都合には敵いませんでした。
祖父母や叔父ともっと一緒にいたくても叶わなかったのはどうしようもなく、やはり心の底から愛しさを伝えられず、気づけば永遠の別れが来てしまいました。
いくら悲しくても切なくても、気持ちを伝える手段も会う方法もないのは仕方ないのですが、同じような悲しみを繰り返さないために、大切な人には精一杯向き合おうと今は思います。
人間は、どうしても後悔を繰り返してしまうのですが、同時に感謝も覚えます。
自分に命を繋ぎ、大切な思い出をくれた愛しい人たちに心から感謝をするからこそ、生きることへ真面目に取り組もうと思います。
人の死後に霊界があり、生まれ変わりもあると言いますが、私は亡くなった人と会えることを期待してはいません。
再会が叶うかわからないからこそ、人間として堅実に生きられると思うからです。
誰かと別れてもどこかでまた会えると思えば、どうせ失っても取り戻せると考えがちになるでしょう。
取り返しがつかないと思うからこそ、失うことに対して真摯に向き合い、今あることに真剣に向き合うことができるのだと思います。
だからこそ私はリアリストでありたいですし、リアリストだからこそ精神的に価値のあるものを大切にできるのです。
今あるものに感謝をし、きちんと向き合うほど失った時には潔く別れを告げられます。
それが別離の辛さを緩和する唯一の方法だと知り、私はできる限り生き方を改めましたが、それで過去の喪失感が癒えるわけではありません。
なぜか、人間はどうしようもなく雑な別離を体験するようにできているようです。
そして誰もがその喪失を繰り返すからこそ、大切なものの価値に徐々に気づいていくのだと思います。
「愛しいものには二度と巡り会えない」という現実だけは変えることができないとしても、愛情や切なさを胸に抱えて生きていくこともまた人生なのかもしれません。
ただその心を大事にして、時に昔のことを思い出し、亡くなった大切な人を思い線香を上げ、手を合わせる瞬間に私はとても癒されるのです。
人間には、死後の世界が必要です。
実際にあるかどうかではなく、人間には死んだ後に行く世界がなくてはならないのです。