招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「文化」とは何か

楽太郎です。

「神統試論」の骨子がだいたいまとまりました。
ここ数日はその考察に時間を掛けており、情報量も多く複雑な内容になってしまうと思います。

この論考の基礎を固めるには、「邪馬台国とは何か」まで踏み込んでいかざるを得ませんでした。
その結論がほぼまとまり、そこから日本古代史の大まかな流れ、「記紀」に至る神々と氏族の関連までの道筋が見えてきました。

「邪馬台国」問題は、実はできる限り切り込みたくはないテーマでした。
考古学は、フィールドワークと統計学、発掘調査などを実際に行わなければ研究としては成り立ちません。
しかし歴史学は、言っちゃ悪いですが文献解釈で机上の空論は編み出せてしまう性質のものです。
しかし、古代史は現代建築の地下に眠っている遺物を掘り出さなくては解明できないので、既にある僅かな考古学的資料と残存する希少な文献資料を掛け合わせてようやく見えてきます。

近年の邪馬台国論争は、裏に学閥が存在することもあり、一種の宗教戦争に近い議論になっていました。
「邪馬台国九州説」と「邪馬台国畿内説」の議論において、どちらが歴史的に正しいかは確かに重要です。
しかし、これらの議論の中で、最初に「立場ありき」で結論に結びつける流れが強い印象を受けます。

学問とは、科学のように唯一の理論法則さえ見つければ須らく良いというものではありません。
学問は「知的探究」の過程そのものであり、知的探究こそが本来の目的であるはずです。
日本の大学が基礎研究を疎かにして応用技術にばかり注力するのは、学問というものが「商業化・利権化」してしまった結果でしょう。

ゆえに、こう言った答えの出にくい人文学系の議論は、発展的な議論によって進むだけではなく、あらゆる可能性についても「一理」は認められるべきで、異なる意見を受け入れない風土は学術研究の妨げになるのではないでしょうか。

私が「邪馬台国はここである」と提起することによって、異なる意見も当然出てくるでしょう。
その異論に対してできる限り整合性を持たせられるようなデータも提供していくべきだと思ってますし、建設的な議論もしていく必要はあると思います。

学術的に論証できるレベルまでには、一応体裁は整えられる形にしていきたいと考えています。
あくまで「試論」であり、最初から正解に辿り着けるとは思っていません。
素人なりには健闘したいところですが、つくづく現代の学術は政治的な風土に成り立っているため、窮屈に感じてしまう部分もあります。

考えてみれば「知識」に付随する「権威」は、哲学者のミシェル・フーコーが批判したように「知的権力は真実を領有する」のです。

例えば、「瀬織津姫命」という神道において重要な役割を持つ神が、なぜ同一視される神々が数多に存在しながらその神名だけに日の目が当たらなかったのかを考えると、「記紀」の存在は大きいと思います。

私が考える限りでは、瀬織津姫命は縄文時代から続く河川・淡水の女神であり、その神名も長らく統一されていなかったのではないかと思います。
いわゆる自然神であるため、文化的な背景を持つ祖霊神の系統とは相容れず、それゆえ「記紀」編纂の目的からも外れてしまったと考えられます。

その名を唯一残す「中臣祓詞」は、古代から祭祀を司る中臣一族の宗教理念の中では、どうしても外すことのできなかった神名であるのでしょう。
「祓清め」という神道上の儀礼において、「禊」という概念はコアとなるものであり、それゆえ「水」というテーマも変えることはできなかったのだと思います。

なぜ、この世界を構成する一つの要素である「水」が、「浄化」という概念的な意味合いを持って神格と結びついているのかわかりませんが、その解説が可能なのは国家神道において祭祀を司ってきた中臣氏でしょう。
ただ中臣祓詞も、ある意味では政治的な背景があったことは否定できないかもしれません。

ただし、神社仏閣の由緒も人間の社会や歴史の中で紡がれてきたものであって、例え純粋な真理として認識し解釈することはできなくとも、悠久の時を越えて受け継がれてきた伝統は尊重するべきだと思います。

政治や社会情勢によって物事の定義が変わるのは致し方ないことですが、事において「文化」は常にそういうものです。
世の浮き沈みや矛盾、趨勢を受けて人々の心が揺れ動き、その反動が思想や文化となって現れてくるのだと思います。

しかし近年、学問だけでなく文化も過度に商業化され、商業的なコンテンツだけが文化であると、人々は錯覚するようになりました。
その背後にあるのはマスメディアや企業群です。人々は「流行り」を文化の最前線であると思い込み、業界から仕掛けられたムーブメントを追い求めるようになってしまいました。

そのため、実態として全く流行っていないものもトレンドになり、企業群が流行らせたいバズワードがマスコミを通じて社会現象化する、というルーティンが続いてきました。
しかし、本来の文化とはもっと人々の感情に寄り添ったものであり、自然発生的なもののはずです。
それが作為的に流布されることで、むしろ人々の直感や心理に沿わないコンテンツに文化が依存せざるを得ない状況になってしまったのです。

近年の過剰な懐古主義、リバイバルブームは主な顧客層が高齢化し、その世代を再ターゲットにしたことの現れでしょう。
今は懐かしさで盛り上がったとしても、これからの文化を担う若年層向きには作られていないため、将来的には尻すぼみになっていくのは避けられないと思います。

けれども、短期的な収益や一時的な復刻コンテンツの盛り上がりがあれば、とりあえずムーブメントとしては成立してしまうのです。
産業的基盤の上に置かれた消費習慣と、社会的習俗である「文化」は似て非なるものです。
文化とは数年で枯渇するようなものではなく、本来なら数十年かけて定着し、いずれは「伝統」として無理なく継承されていくものです。

日本人が和紙を使ったり元旦に神社参拝するのも、文化と風習と伝統が噛み合って定着しているからです。
しかし、企業群が手前のサービスを浸透させるために消費者に植え付けた習慣は、人々の心象に寄り添った精神文化とは言えないものです。

ただそれも、長くは続かないと思います。

これからさらに世が荒れ、例えば食糧危機や災害に見舞われ、経済も崩壊して各企業が傾く中、業界に促された「サービスとしての文化」をいつまで人々が求めるか、疑問に感じます。
特に現代の超飽和状態にある娯楽の分野では、そのほとんどが企業体のコンテンツです。

人々が貧しくなり食うに困る状況で、どれほど娯楽を求めるのかを考えると、世にはコンテンツがありすぎるのです。
よく考えられたクリエイターの作品だけではなく、今では生成AIによって粗製乱造されたコンテンツがほぼ無料でバラ撒かれています。
もし本当に生きることに窮する世となった時、人々が変わらずに既存のコンテンツにお金と時間を使い続けるのか、私は甚だ疑問です。

もし、この世にカタストロフが起きたとしたら、人々が思うことが自ずと形になり、その発想や価値観に共感するムーブメントが起こるでしょう。それが「文化」というものです。
70年代のフォークソングブームもヒッピー文化も、当時の混沌とした世相と葛藤と情熱が形になったものだったはずです。
それが、「今ならフォークソングが流行りそう」と企業群が仕掛け、人々が何となくそれに乗るようでは、商業的ムーブメントを使い回しているにすぎません。

私たちが今の時代やこれからの世界に対して、率直に思うことを形にして共有していくことが大切なのではないでしょうか。
そのためには、今ある感情や感覚、違和感や理想にまず気づいていかなくてはなりません。

私たち現代人は、いつしか文化の醸成に必要な心のアンテナを錆びつかせてしまいました。
企業群が発するムーブメントに乗っていれば、それなりに周りと合わせられて楽しかったこともあるでしょう。
ただ、そうやって触覚を騙すことで犠牲にしてきた感覚もあったはずです。

「文化」とは、誰かが考えたことに合わせることから始まるものではなく、自然と惹きつけられ、その価値観を受け入れながら広まっていくものです。
やはり、そこに「心」という本質的な、自然な感覚があるから成り立つものなのではないでしょうか。

私たちは、文化を一つの商業的ジャンルとして食い散らかしていくことに慣れてしまいました。
それでは、文化の根底にある哲学や真髄を深く理解することはできません。
大量消費されるコンテンツの中で自分が心から拠り所にできるものは一握りでしょうし、もっと長い時間をかけて追求するのならば、それに相応しいコンテンツでなければならないはずです。

そういった「心から求めるもの」、それが末長く残るコンテンツになるのではないでしょうか。
もし世が改まるのなら、そういった精神風土をゼロから培っていきたいものです。

私は一当事者として、それくらい普遍的なものを作りたいですし、その精神を大事にして活動していきたいです。
人々の心に、真の「文化」と創造的な空気を呼び戻していく必要があると思います。

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