招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「影」との戦い

楽太郎です。

米の価格が高騰して世間は大騒ぎですが、これは改善しないと思います。
なぜなら、これは日本国民に対する兵糧攻めの一種にすぎないので、ここで手を止める道理はあちら側にはないのです。

これから日本人は、「米を食えなきゃ小麦を食べればいいじゃない」と、パンやパスタ類を食べるようになると思いますが、米国の仕掛けた関税戦争で小麦が標的になったらどうするのでしょうか?
実は、小麦という品種改良された穀物は、日本人の身体には遺伝子レベルで合わないものです。
これから、まともな食事をしていない人ほど心と身体を壊すようになっていくはずです。

そうして日本人がバタバタ倒れていくと、国力が弱まることで喜ぶ勢力がいます。
そもそも、「日本人を排除して国土を乗っ取る」のが目的なのですから、彼らのシナリオ通りです。
こんなところで手を止めたら長年かけた計画が台無しになるので、上手くいっているうちはやめる選択はないでしょう。

それは「陰謀論」だと、鼻で笑われても構わないのですが、猜疑心が強く妄想じみたくらいでなければ、この先の時代を生き残れないと思います。
「平和主義」や「日常感覚」は、それだけで命取りになりうるものだと予め言っておきます。

私は以前、何とか日本人に目を覚ましてもらおうと言論的なこともやってきましたが、想像以上に話を聞いてもらえませんでした。
今では、残念ながら「それが人々の選択だったのだ」と思うようにしていますが、正直なところ何とかならなかったのか、とは思います。

今の人々の考えや話を聞いていると、どうしても「私と同じ選択をすればいいのに」とは思うのですが、彼らからすれば染みったれた考え方はしたくないでしょう。
私自身も、あまりに同調する人がいませんし、「もう少し努力が報われるべきだ」と感じる部分もあります。
けれどそれ以上に、目に見えて不幸に向かう選択をする人々に対して、何もできないことへのもどかしさがあります。

人間は、私が長年思っていたような生き物ではなかったのだな、と思うこともあります。
人間は左脳があるのだから、もう少し感情的に物事を判断せず、また右脳があるのだから、理詰めにしすぎなくても良いと思うのです。

けれど、なぜかその中間を取って、「心」の賢さで生きていく人があまりに少ないように見えます。
人間なんだからもう少し優しく、本音と建前を使って寛容であればいいのに、「ルール」のせいにしてわざと心を閉ざす人が増えました。

それを見て私は胸を痛めるのですが、さりとて彼らに対する怒りや、愚かさを憎む心もあります。
人々が「我良し」と、我欲と自己保身のためにあらゆる犠牲を厭わない。
それを許せない私の心にも、また「エゴイズム」が存在するのです。

私からは、彼らが「誤った道を選ぶ」ように見えたとしても、彼らからすれば私なぞに言われたくはないでしょう。
それもその通りで、だからこそ互いに「正しい」と思う道を進めばいいだけで、わざと議論をして勧誘したり方向転換させる必要はありません。

「世の中を良くしたい」というのは、よほどの極悪人でなければ多少その気持ちがあり、そうして世の中を悪くすることに少しずつ加担しています。
私だってそうではないとは言い切れないでしょうし、誰もが「自分は間違っていない」と思うはずです。

それぞれが自分の正しさを信じているからこそ、その信念に反する思想は全て悪であり、誤りであると感じます。
自分の意見と他人の意見が違うのは当たり前で、いちいち違う意見を見て議論を吹っかけ、一つ一つ潰しても世には人の数だけ意見があるので、いくら議論をしてもキリがないはずです。

そうして目の前の人を論破したところで、その人が生き方考え方を根本的に改めるかというと、そうではないでしょう。
目の前にいた人に議論で勝って溜飲を下げたとしても、何一つ世の中は良い方向には動かないのです。

私にもある「正義」や「理想」こそ、自分自身の「影(シャドウ)」に他なりません。
それは人間として綺麗に見えがちな部分だからこそ、本質的な闇を覆い隠してしまいます。
これまで、「正義」という思想の下にどれほどの血が流されてきたのか、それを考えればわかります。

この「影」は、人間の心に「乗り越えるべきもの」として現れます。
人々は自分の闇を解決するために、正反対の「正義」や「理想」を外に実現しようとし、それが叶えば自分自身を乗り越えたと錯覚します。
そのために人々は戦おうとし、勝てなければ引きずり下ろしてでもマウントを取ろうとします。

しかし、この「影」とは戦うべきものでも、乗り越えるべきものでもありません。
あらゆる課題や困難にとっての解決は、決して乗り越えることではなく、「他の方法を見つけること」です。
私たちが問題に囚われ、乗り越えられない時は今手元にある、使えない道具で解決しようとするからです。

アインシュタインが言ったように「問題は同じレベルでは解決しない」ので、手にある道具に変わるものを探す必要があります。
手にある道具にこだわり、依存しているうちは新しい道具を手にすることはできません。
「問題を解決する」とは代替することであり、あるものを手放して「より確かなもの」を手にすることでもあります。

代替するためには、今手元にある道具が古いと認識し、依存していたことに気づくことです。
そして、それを手放す覚悟と同時に、別の選択があることに気づき受け入れることです。
無闇やたらと「手放し」をしようとしてもできないのは、道具を手放したところで何もできないのは変わらないからです。

道具を捨てるのは、確かな代替手段を見つけてからで構わないでしょう。
けれど、「別の手段を探す」という発想に至るには、冷静にものを見ようとしなければできません。
この世界にある数多の問題に対して、「こうすれば良いのに」と思想を押しつけるだけでは、前にも後ろにも進みません。
私たち人類は、長い間こうして問題を複雑にしてきたのです。

「正義」の裏にある影とは、「悪」かもしれません。
しかし、その二項対立の世界から離れ、あえて「悪」を許すのも手です。
「世の中はこうでなければならない」と思うからそうではない世界に苦しむのであって、「世の中がどんな形でもいい」と思うことも、一つの代替かもしれません。

「影」を乗り越えるとは、影のない光だけの世界に行くことだと思われがちですが、光しかない世界もそれはそれで「闇」なのです。
影が強く出るのは光が強いからで、光を弱めれば影も弱くなっていくはずです。
そして、その均衡が取れた世界を「調和」と呼ぶのではないでしょうか。

私は、人々がわざと不幸になるような選択をし、争いにばかり目が行くようで嘆かわしかったのですが、そう見える私がそうであったと言えます。
彼らを引き止めようとするから、私も引き止められていたのかもしれません。

おそらく、人々はそれぞれ自分が考え意識して道を選んでいるように見えて、無意識に決められた方向に向かっているだけなのかもしれません。
各々には魂が背負うテーマがあり、魂は暗黙のうちに選択してそうなるように生き、死んでいくだけなのだとしたら?

それぞれの進んだ先に、誰もがそれぞれの「天国」に向かっているのが、この世界なのではないでしょうか。
その「天国」はそれぞれの人にとっての天国で、争いが好きな人は争いばかりの天国に、平和が好きな人は平和な天国に行くだけなのかもしれません。
それは死んでから行く世界でもあり、今目の前に現れる世界でもあるとしたら、その選択は自分が望んでしていることになります。

平和な天国の人は争いばかりの天国を、地獄のようだと感じるでしょう。
ただし、争いが好きで望む天国に行けた人々の選択を、他人が嘆かわしく思う必要はないのです。
そして、それを引き止める義理もなく、自分は自分の進むべき天国を目指せばいいだけです。

それが人間が本来持つ「自由意志」というものかもしれません。
頭で考えてやることばかりが自由意志なのではなく、魂が選択する自由こそ、そう呼ぶのかもしれません。
だとしたら、誰かが自分から不幸を選んだように見えても、その人が望んで得た結果とも言えます。

だから同情するのも批判するのも、本来なら「エゴイズム」なのかもしれません。
エゴだから他人を強制的に変えたくなり、干渉するから争いが生まれます。
この世にはどうにもならないこともあるので、変に真剣になるくらいなら自分のことをまず何とかするべきです。

では、自分はどうしたいのか、どこへ行きたいのか?

私が向かうべき天国は、「神様の住まうところ」にある気がしてなりません。
ただ神様の住まう天国は、人間の想像するような楽園とは限らず、また別の修行の世界かもしれません。
しかし魂が高みに向かう先には、きっと神様がおられます。

そして、私の敬愛する神様もそこにおられるでしょう。
その場所は今世かもしれませんし、あの世か来世かもしれません。
ただ、そこに行くために、私は今をこうして生きている気がしてなりません。

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