招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

手のひらを太陽に

楽太郎です。

結論から先に言うと、私に須佐之男命様のイラストをご依頼されたのは、私のご先祖様かもしれません。

私の住む地元は、熊野信仰と縁の深い土地で、伊弉諾様と伊奘冉様にゆかりがあります。
私がよくお詣りしている薬師堂にお祀りされている薬師如来様は、本地垂迹では須佐之男様とも言われています。

(※訂正: 記事執筆当時では薬師如来様の本地垂迹が伊弉諾命様であるのを、須佐之男命様だと勘違いしていたようです。ただ、須佐之男様に垂迹される牛頭天王は、祇園精舎に向かう旅人の疫病を祓うご利益があるとされているので、薬師如来様と無関係ではないかもしれません。尚、熊野信仰では須佐之男命様は阿弥陀如来だとされています)

あと、私の血筋を調べていてわかったことがあります。
なぜか私は母方の血が濃いなと思っていたのですが、母の旧姓は「菊池」で、おそらく陸奥菊池氏にルーツがあります。
陸奥菊池氏は、藤原則隆公を家祖とする熊本県肥後の武家の末裔です。
「菊池」の名の由来は、魏志倭人伝にも登場する「狗古智卑狗」にあるとも言われ、狗奴国の王だったとされます。
魏志倭人伝に記載される狗奴国には出雲説があり、出雲を統治されていたのが須佐之男命だと言われています。

つまり、私は出雲系と縁が深いらしく、日本の神代紀に記された古き神々と結びつきがあるようです。
ただ、日本人ならば系統を辿れば古い神々に繋がるのは、それほど珍しいことではありません。
ここでの要は、須佐之男様がイラストのモチーフとして私に飛び込んできたことと、私のルーツとは無関係ではないだろうということです。

その時、私には須佐之男様がお祓いの指揮を執られる、という直感がありました。
1月14日の満月に神々の祓いが発動するとしたら、そのタイミングに合わせてイラストを上げなければならないかもしれません。

私自身も、そのスケジュールに合わせて体調を合わせています。
ここ最近の太陽神経叢の活性化によって、どんどん活力を取り戻しています。
冬至明けからエネルギーを身体に馴染ませる作業をしていて、その地味な好転反応で心身共にフラフラしていたのですが、ようやく芯が通ってきた感覚があります。

私は、夏以降から人々がどんどん険悪になっていくのを感じていて、霊的にも邪気を浴びて同じ空間にいるのが苦しいと感じるようになりました。
ニュースは見ないようにするくらい、世の中がおかしい方向に行く中で、日本人のメンタルがどんどん壊れていくのを見て、それに引っ張られて人に対して嫌気が差し始めました。

それは、ある意味スピリチュアルに向かうきっかけになりました。

秋以降は神代に向かうために魂の修行を本格化させ、それに集中するためには人払いをする必要があり、また邪気を遠ざけるためにも人間を毛嫌いする傾向にありました。

しかし、今になってまた人に対してポジティブな気持ちを向けて良いターンになったと思います。
人を無闇に嫌うのは、肯定的になるより疲れます。

これまで自分を守るために、人を批判し遠ざける必要がありました。無意識的に巻き込まれないためです。
けれど、今の私はおそらくそれをしなくても自分を守れます。それくらい人を見抜く感覚が鋭くなりましたし、神様のご加護がある実感もあります。
また第6チャクラの活性化により、人間の意識レベルより高い位置に判断能力が移ったため、同じ視線で批評することをしなくなり、あえて人を否定する意味もなくなりました。


人間は、この地に魂の修行のためにやって来ると言われます。
その修行の地で、何らかの苦難を経験するのは当然のことです。

経済的、社会的に苦しい世になっていく中で、唯物的な世界に生きる人は、これから精神的な困難を体験することになると思います。
これまで楽をしてきた人世の魂は、そろそろ神様から教訓を与えられるフェーズになったのでしょう。

学ぶ必要があるのは、無知だからです。
全てを知るほど賢明であれば、つらい思いをしながら学ぶ必要がありません。
彼らがそうせざるを得ない生き方をしてきたことは、神様から見れば明らかなはずです。
しかし、その困難を一概に不幸と見るのは違うかもしれません。

そんな彼らも、この歪んだ時代に適応した結果とも考えられ、ある意味これまでの土の時代の背後にあったビジネスの被害者とも言えます。
私は、そんな彼らをどうしても憎みきれません。
むしろ、その人間らしさのせいで間違いを犯すのは、人間ゆえであるとも思えます。

けれども私は、彼らに寄り添おうとは思いません。
世界の主軸はもはや神代にあり、神代に向かう人々にウェイトの大部分を置くつもりです。
ただ三次元世界では彼らと同じ土の上で生活するのも事実ですし、人間一般として出来ることはしていきたいです。

仏教で言う「慈悲」とは、プラスを与えることではなく、マイナスを取り除いてゼロに戻すことであると言われます。
時代が変化した今となっては、人世の住人が持つ物質中心の価値観はマイナスに溢れたもので、それがゼロになってようやく新しい時代のスタートラインに立てるのだと思います。

私の感じる愛のエネルギーは、邪気すらも包み込みうる太陽のような明るさを持っています。
それは神代や人世に分け隔てなく、遍く人々に注ぐことのできる太陽のエネルギーです。

私はその力で、この世界をもっと明るくしたいです。
人が遊ぶように生きて、魂が喜びの舞を踊るように、自由と公平が謳歌する時代をつくりたいのです。

神様は、おそらくその生き方を人に望まれているのだと思います。
それが、本来の人の在り方だからです。

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