SOMEDAY
- Category:エッセイ
- Date:2025年01月12日
今朝、何となくエネルギーも落ち着いてきて、今日から始動できそうな感じがしました。
お風呂に入り、朝食を摂り体操をして瞑想を行い、そろそろ動かなきゃ、と思った途端にだるくて動けなくなりました。
何となく、ハートチャクラが閉じ切っているのを感じました。
横になってもエネルギーの枯れを感じ、ネガティブなことも考え始めたので、とりあえずYouTubeで音楽をかけてみました。
すると、私が好きだった香港の歌手、フェイ・ウォンの「夢中人」がかかって、思わず胸が熱くなりました。
香港は、ご存知のように中国共産党の支配下となり、自由な雰囲気ではなくなりました。
「夢中人」が主題歌となった邦題「恋する惑星」という映画は1994年、香港が中国に返還される3年前の作品です。
今、フェイ・ウォンは何をしているのだろうか。
香港で良い時代を生きた人々の気持ちを想像すると、それは今の日本人にも通じる感情かもしれない、と思いました。
なぜ、良い時代は突然、理不尽な形で終わらざるを得なかったのか。
私はそれを思うと、涙が止まらなくなりました。
その感情をもう一人の私が冷静に眺め、この感情のエネルギーこそが、私の魂がしばらく閉じ込めてきた「愛」というものなのだと気づきました。
この愛が私のエネルギーの源でありながら、その熱量を蓄えながらも停滞していた理由は、愛する対象を見失っていたからかもしれません。
多くの人々が、自らの選択で愛のない世界を選んだからです。
私が愛情を持って近づいても、別の目的で私を利用しようとするでしょう。
それでも私は、なぜこれほど人間のことが好きなのだろう?と思う時があります。
むしろ、人々から酷い目に遭わされたことの方が多いのに、人の優しさの一つ一つが未だに心の中に残り続けているのは、何故なのだろう?
私の魂の特質から考えると、私の生まれる前は誰かを好きになったら、その人も私を好きになってくれるような世界にいたのかもしれない、と思ったりします。
欲しいものも、わりと簡単に手に入ったのかもしれないし、毎日違うものを好きなように食べれていたのかもしれない。
けれど、生まれ落ちた地球という星では、好きになった人から疎まれたり、本当に欲しいものほど手に入らないような世界で、ずっと戸惑っていたような気がします。
私が0歳の頃に空想したビジョンを覚えています。
プラスチックのコインを縁の下に落としてしまい、私がその暗がりを覗いてみると、オモチャのお金を転がして笑っている、漫画みたいな悪魔がいました。
今思えば、私はわかってこの世界にやってきたのかもしれません。
ずっと忘れていましたが、やはり私は何か目的があってこの世界に生まれてきたのだと思います。
もしかしたら、今あるこの道を登っていけば、いつか雲の向こうで、昔の友達と会えるのかもしれない。
そんな人が何人かいて、実はたくさんいて、私と再開できるのを待ちながら、今も私を見守っていてくれているのかもしれない。
そう考えたら、本当にどうしようもないほど泣けてきました。
その時、流しっぱなしにしていたYouTubeから、佐野元春の「SOMEDAY」が流れてきました。
「人は誰でも 愛の謎が解けて 一人きりじゃいられなくなる」
「約束してくれた君 だからもう一度、諦めないで」
この歌詞を贈ってくれたのが昔馴染みなのだとしたら、いつか会えると言ってくれているようで、メソメソしてもいられないなと思いました。
この世界は、確かに思った世界とは違かったかもしれません。
わかっていたのか、わかっていたけど想像以上だったのかは、確かめようもないことです。
それでもきっと、この地上にある「漫画」というものをどこかで見て、「自分も描いてみたいな」と思ったのかもしれません。
それだけでなく、もっと大きな願いを叶えるためかもしれません。
そうであるなら、私は今その願いをどれほど叶えられたのでしょうか。
人の魂が、修行や使命としてこの地上に降りてくるのなら、私はまだそのミッションを完了してません。
例えばこのまま死んで元の世界に戻るとしたら、この星に来た目的は観光か?となります。
大した良い旅行でもないのに、です。
物心ついた頃から、この世界が自分のいるべき世界ではない気がして、ぼんやり空を見上げていました。
今でも、たまに帰りたいなと思うこともあります。
けれど、このまま進めばいつか友達と再会し、この地球にも友達ができるとしたら、そこはすごく良い世界なのかもしれません。
悪がこの世にあるとして、その闇を振り払うのが死や破壊なのだとしても、浄化して綺麗な世界にするのが目的なら、その力は慈悲や愛であってもいいはずです。
そのエネルギーを躊躇なく使えるように、地球がその準備を整えてくれてますし、神様だってそれをお望みのはずです。
だから、好きな人に「好きだ」と言ったり、余計なお世話をして嫌われるのも、このエネルギーの使い方次第かもしれません。
でも、それを恥ずかしがっていたり、自分の気持ちを惜しむうちは、愛のエネルギーを存分に使うことができません。
「好きだ」と言われて、嫌いになる人はあまりいません。
それなら、どんどん好きな気持ちを表現していこう。
この世界を愛のある世界にしたいのなら、その感情をまず受け入れることです。
私は、これからそうしていこうと思います。