Runaway Category:エッセイ Date:2025年02月23日 楽太郎です。 昨夜、妙な現象に出会しました。 就寝して間もなくの23時頃、ふと目が覚めました。 すると、男性の激しい怒号が聞こえました。マンションに住んでいるので、上の階なのは薄っすらわかりました。 怒号というより、絶叫に近いというか、「嫌だ!嫌だ!うわあああ」と尋常ならざる怒声が聞こえました。 私はしばらく、これが本当に人間の声なのか疑っていたのですが、肉耳から聞こえるのでどうやら現実らしいと思いました。 別にこれはこれでいいのですが、なぜこの微かな叫びが目覚めた瞬間に聞こえたのか、その意味を考えました。 神様が危険を知らせようとして起こしたのか、無意識に自分が危険を察知して目覚めたのか、そのどちらかだと思いました。 たぶん、あの邪気の高まりようからすると、後者だと思います。 寝ている間にあの邪気を浴びるとまずいと、無意識に思ったのかもしれません。確かに、あのまま救急か警察か消防が来るのだろうな、とも思ったくらいだからです。 寝ていてもわかるくらい邪気を放つ人間が、身の回りの環境にいるようになったのだな、と思いました。 昨日は、元気でしたしやる気もあったのですが、祓戸三神の投稿をしたあたりから体が急に冷え始め、このまま低体温で死ぬんじゃないか、と思うほどエネルギーを吸い取られてしまいました。 その時からずっと邪気にまとわりつかれて、午後はほぼ何もできませんでした。 久しぶりに悪霊級の邪気に襲われた感覚でした。 まあ、昨日はセオリツ姫のデザイン画の投稿より前に際どい記事を上げたので、それが集合無意識には気に食わなかったのかもしれません。 冷静に考えると、マンション住まいなので八方20メートル以内には他人がどこかしこにいるわけで、部屋がいくら結界になっていようが空間的には近い距離にあります。 ですので、普段暮らしや睡眠中に邪気が飛んでくるのも不思議ではないかもしれません。 もっと空間的な結界を強化しないといけないんだろうな、と思います。 これほど強い邪気を放つようになった普通の人々が身の回りに出てくると、いよいよ人の世も終わりだと感じます。 最近はそれを実感すると共に、これまでの記憶が蘇り、過去の自分と向き合うことが多くなりました。 正直言って、人世にはロクな思い出がありません。 良いことも中にはありましたが、全体的な結末を考えるとやはり良い出来事ではありませんでした。 どうやっても人並みになることができない、それゆえ浮き沈みの激しい評価を受け、どれだけ努力しても全くと言っていいほど通用しませんでした。 今思えば、その一つひとつが学びのための伏線であり、その苦い経験をバネにしたからこそ、今までやってこれました。 けれども、なぜこれほど自分は不器用で、これだけうまくいかないことばかりだったのか、そのことにやたら感情的になってしまう自分がいます。 確かに人世ではうまくいきませんでしたが、かと言って前の時代でやり残したことは神代でやれば良いのです。 別に私は歳を取ったこと以外に特に失ったものはありませんし、逆に新たな才能や能力が成長し続けています。 「今の自分だからできる」ことは多分にあります。 今だからわかること、出来ることの尺度で過去を見るからこそ、後悔が芽生えてくるのです。 あの頃の状況と、今の状況は違います。どんな発明でも、完成図が予めわかっていれば試行錯誤する必要はありません。 その苦労は失敗ではなく、成功へのプロセスだからこそ今、手元に完成図があるのです。 確かに苦労や失敗はないに越したことはないのですが、完成を成し遂げた自分をまず褒めてみることなのでしょう。 GLAYに「Runaway Runaway」という曲があります。 歌手を夢見る女性に恋をした人の歌ですが、日の目を浴びない女性に共感しながら「何一つ良いことなかったな」と優しい声をかけ、彼女の幸せを祈るという曲です。 「Runaway」という言葉、「何一つ良いことなかったな」という気持ち、人世に対する今の私の心情をうまく表現している気がします。 このモヤモヤした感情の雲を抜けた時、青い空が一面に広がる光景を目にするのかもしれません。 それはもっと自由で、明るい世界でしょう。 もしその世界を思うように飛び回れるのだとしたら、人世でできなかったことも出来るようになるかもしれません。 無くしたものは取り戻せなくても、より良いものを自分の手で作り出せるはずです。 そのことに、もっと本気になっていいのだと思います。 人の世には、最後まで片思いでした。 だから「Runaway」するだけです。 俺はもういいから、お前は好きにしろと。 人の世は、これからさらに悲惨なことになっていくでしょう。 しかし、その光景を目の当たりにして、いちいち同情したり助け船を出していたら身が持たないでしょう。 神様は、去年のうちにそれを私に教えて下さいました。 誰かを助けようとせず、良くない人間をどうにかしようとせず、まず自分がこれからどうしていくのかだけを考えなさい、と。 邪な気を起こした人間は自ずと沈んでいくから、無理に変えようとしなくてもいい。 そういうのは、人の世界に残った人たちの仕事だから、と。 最近、「邪気」とは何かを考えます。 神々が行う禍事罪穢れの祓いは、この邪気の浄化を指すのだと思います。 邪気とは、人間が生きる上で自然に堆積していく性質のものだと思います。 人間は、植物を刈り取り動物を殺して肉を食べ、栄養を貰い不用な成分を排出し、命を繋ぎます。 それは地球や神々から、命の恵みを分け与えられていることを意味します。 それ自体が、罪であり穢れとなって人間の業となってくるのです。 そのことに無自覚になり、地球や神々への感謝を忘れ、動物や他の生命への懺悔を忘れたら、邪気はますます蓄積するはずです。 ここでの祓い清めとは、愛や感謝や懺悔によって人間の手で行われていくものです。 このプロセスが疎かになれば、世は邪気で満ちて行くことでしょう。 神々の世界でも、人間の世界でも、この「邪気」は決して世の悪ではなく、この世から消し去るべきものではないはずです。 少なくとも人間が生きる上では、殺生をしたり気の枯れが生じることは摂理の一部です。 だからこそ自分たちの力だけでなく、人間を作った神々の手助けも必要であり、そのお力をお借りすることによって人の禍事罪穢れは祓い清められ、幸福で豊かな生に導かれるのでしょう。 人間を作りし神々なら、人間界から邪気を完全に取り払うことも可能なはずです。 それを神々があえてしてこなかったのは、「邪」という性質が必要悪というか、存在に不可欠な要素だからとしか思えません。 仏様の世界における「天部」には、元は悪鬼だったとされる仏様がおられます。 「邪」も神々の性質の一部であり、悪魔も神の眷属であるとするなら、人の世界の邪念も悪業も、本来人にあるべき性質なのではないでしょうか。 だからこそ、魔や邪という存在は完全に消し去る対象のものではなくて、うまく付き合ったりかわしていく類のものかもしれません。 だから、禍事罪穢れで酷い目に遭う人がいたとしても、それ自体は大きな学びの過程であり、その災難に何らかの意味があることを学ぶべきなのでしょう。 そう思えば、どんな災難も困難な出来事も災厄も、フラットな目で見ることができるようにならないでしょうか。 全ては人の目から見て「偶然」や「陰謀」に思えたとしても、神々の視点では「必然」以外のものはないのかもしれません。 良くないことが起きて欲しくないのは本心だとしても、起きたら起きたで起きた理由を考えると、案外腑に落ちる答えは、すぐに見つかるのではないでしょうか。 PR