次の時代に行きたくて
- Category:エッセイ
- Date:2025年02月20日
ニュースを見なくなって久しいです。
ただ、YouTubeのタイムラインを更新すると時事系チャンネルのサムネが現れ、そのタイトルを読んで初めて「世の中はこんなことが起きてるんだな」と思います。
それよりも気になるのは、息をするように生成AIを使う人が多いことです。
使っている本人は「合法だし悪くない」と言うでしょう。
視聴層も何の問題もなく、むしろ新しいコンテンツだと思っているかもしれません。
ただ生成AIは、営利団体が著作権者にほぼ無断で収集したデータを合成して出力したものにすぎず、加工プロセスが治外法権だからこそ成立しているサービスです。
許諾データを使用した生成AIは、クオリティ的にほぼ使い物になりません。
無許諾のデータは、生成AIに吸わせるためにクリエイターが長年を費やし、汗水垂らして制作してきたものではないのです。
そのことまで認識し、生成AIを使う人はどれほどいるのでしょうか。
こうして、人々がどんどん無責任になり、無責任でありながらきっちり利益と権利だけは確保したい、という思惑で動いていきます。
自分の背後にある構造には気づくことなく、自らの正義が秩序を破壊していることにも無自覚です。
今起きているあらゆる問題の根幹にあるのは、過剰な自己愛と自己顕示欲です。
私は人間のそういう部分を見たくなくて、人の作るコンテンツから離れていきました。
こういった人間の性は、粗を探したくて見るわけではなく、瞬間的に情報として入ってきてしまうので、出会ったが運の尽きみたいな感じです。
あまりイラつきたくないのは正直な気持ちですし、正義感を駆り立るのは良くないと私も自覚しています。
けれども、人間の浅はかさが見えてしまうと、何となくガッカリした気持ちになってしまいます。
この状況を神様がどう思うのか、それは考えなくてもわかります。
「計画通り」です。
今の世が良ければ、風の時代になったと言えど自然に移行すれば良いだけですし、これまでの社会を壊す必要がありません。
しかし、このままで次の時代に移行できないからこそ、古いものを壊す必要があります。
壊れるからには、「使えない状態」になっていかなくてはなりません。
つまり、「ダメ」になるから不要になり、物事は終わっていきます。
昔の良かった頃と比べて、「ダメになった」ことを嘆いてしまうのですが、むしろダメになることに意味があるのだと思います。
そこら辺を割り切れないのは、まだ感情的に人の世に未練があるのかもしれません。
「ダメになっていく物事」の区別がつかないのは、実は「ダメな人たち」だけです。
わかる人が自ずと遠ざかることができるのは、「ダメさ」が見てわかりやすいからです。
私からしてみれば、明解な二択だと思います。
これだけ私が神代とは何か、どうすれば実現するのか、そのために何をすれば良いのか、次の時代のことばかりを考えるのは、私が一刻も早くこの世界から移行したいからです。
今の世界が嫌すぎて、新しい時代に行きたすぎて、神代を作りたすぎるのです。
神様も、その空回りを見て苦笑してらっしゃることでしょう。
世に対する批判は、それは探さずとも数限りなく湧いてきます。
けれども、悪くなるには悪くなる理由があるのですから、いちいち目くじらを立てるのは割りに合いません。
昔の日本と日本人を知っているからこそ、「こんなはずじゃなかった」と思います。
けれど、あの時代からすでに芽は出ていたのです。
歴史を否定することはできませんし、今の状況を否定してもどうにもなりません。
だからこそ、今の「終わり」は心が乱され、苦いものかもしれませんが、この一連の現象自体がいずれ「学び」になるのだろうと思います。
コップだって割れた瞬間はショックですが、ひび割れた状態でずっと使っていたなら、いずれ割れるのは時間の問題だったでしょう。
「自分たちの使い方が悪かったから壊れたのだ」と、日本人が国家に対して反省する時がいつか来るのだと思います。
その時、「壊れたのはアイツのせいだ」と思っているうちは、学びがありません。
むしろ「壊れてくれたから今があるのだ」と言える世の中にしていかなければなりませんし、そういう世の中になれば、壊れたことに感謝できる日も来るでしょう。
私たちが良い世の中を作るためには、ネガティブな事柄をネガティブに上書きするのではなく、問題の本質をしっかり見つめ、ポジティブなものに絶えず変換していく努力が必要です。
そして、過ぎた事柄は役割を終えたことを認め、感謝と共に教訓として終わらせなければなりません。
ただ、現代人がそう考えられるまで、数十年はかかるかもしれません。
しかし世をそうすることが可能なら、頑張れば数年で実現できる可能性もあるはずです。
もしその時間が早まるなら、人々の苦しむ時間も短縮することができます。
それは、新しい時代を作る私たちの腕にかかっています。
人々の言動を見て、イラつくこともあります。
逆に考えると、人の腐った心は時代が良くなるほど、悔い改めの強度は高まるということです。
そこでも救われる人、救われない人はいるでしょうが、まず神様のおられる世界で悪人が堂々と息が吸えること自体がおかしいのです。
痛い目を見る人は、痛い目を見るべきことをしたからです。その因果が捻じ曲がる世界であってはいけません。
私は、次の時代への期待が大きすぎて、焦っているかもしれません。
神様も、そのもどかしさは重々承知でしょう。
かと言って私ができるのは、神様の求めに応じて役割を果たし、日々を大切に過ごすこと以外にありません。
この世界が良くなるためには、どんなカタストロフが起きても神様を信じ、希望を繋ぐ気持ちが大切なのだと思います。
それも、私は待ち望むことしかできません。