招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「思想」とは何か

楽太郎です。

2025年のエネルギーの流れが落ち着いてきて、だいぶ先が読めるようになってきました。
そこで得た実感は、「人世は本当に終わる」ということです。

これまで半信半疑でしたが、炙り出される問題の規模を見て、小手先三寸で世の中がガラッと良くなると思う人もいないのではないでしょうか。
現実面だけでなく、次第に「世界の法則」そのものが変わってきたようにも思います。

人々の「念」がこれまで以上に現象化しやすくなっているように感じます。
生霊も飛びやすくなっていますし、引き寄せの確率や強度も高まってきているように見えます。
邪気も肉眼で見えやすくなってきていますし、自分の発した呪いがすぐに巡って返ってくるはずです。

世の暴露を見てもわかるように、容易に嘘が見破られるようになってきました。
これは人々にサイキック能力がついたというより、法則的に嘘が炙り出される仕組みになってきたからではないでしょうか。

嘘も詐欺も通用しなくなるとしたら、人間の思考の大部分が通用しなくなるということです。
そのルールの上では、魂のエネルギーが中心となる力場が形成されていくのかもしれません。

やはり、この世界は高い次元に移行しているのは間違いないようです。
これまでの世界で通用したやり方が、徐々に通用しなくなってきているのでしょう。
「神代」とは、神様が地球の支配権を取り戻した世界です。そこでは、人間の頭で考えてやるようなことは、神様からのお咎め一つで実現しません。

神様が人間の自己実現の決定権を握るということは、人類にとってはとてつもない大変革です。
スピリチュアルに親しい人ならもう常識ですが、これからほぼ全人類が新しいやり方と直面することになるでしょう。

それによって破滅する人もたくさんいるはずです。
けれども、破滅を選択したのは自分であり、破滅から抜け出す道を探そうとするのも自分の意志です。
それ自体に同情する必要もありません。世界と人類を作った神々がそうするように決めただけで、それ以上の意味を人間には伺い知ることができないからです。
人間が出来るのは、あくまで環境に適応して生きていくことだけです。


思い返せば、人世とは「唯物論的世界」でした。
唯物主義とは、物質と科学の世界です。神や精霊や魂は存在せず、そういった迷信を科学で解き明かし、文明の一部に帰属させていく考え方です。

その文明では、万物の価値の軸になるのが「お金」です。お金の価値が生じないものは、存在価値のないものです。
人間が幸福になるためには、生まれ持った資質だけでなく、「お金」があれば無限に着飾ったり、人を意のままに操ったり、自分の肉体そのものも限界まで改造することができたわけです。

お金があれば老後の心配もなく、ほどほどに遊んで暮らせられるからこそ、安心と平和の象徴でした。
人々はその安心感を「幸福」と呼んでいました。
しかし、やりたくないことや労働と引き換えに、お金という対価を得てきたわけです。

拝金主義という唯物史観が、これまで数百年間の人世を形成してきたと言っても過言ではありません。
富に対する限りない執着は、戦争を金儲けの道具に使い、金儲けのために大衆の心を支配し、金儲けのために弱者を餌食にしたり煽動することが平気で行われてきました。

現代で言えば、それは「共産主義」という唯物史観によって広く流布しています。
しかし拝金主義における支配欲の発露は、マルクス主義にだけ影響しているわけではありません。

その影響が悪い形で出ているのは、むしろ資本主義経済の方です。
資本主義経済の民主国家ですら、一部のオリガルヒに政治的主導権を握られ、彼らが秘密裏に搾取する完璧な構造が構築され続けています。
人々は彼らをDSと呼びますが、その本質にあるのは選民思想であり、自分たちを神の座に置く唯物論です。

それが全ての構造的問題を引き起こしているのに、人々は同族嫌悪で同じ穴のムジナを叩いて回るだけです。

今、本当に人々がしなければならないのは、必ずしも官庁へのデモであったり、アメリカの大統領に願いを託すことでもないはずです。
自分には何もできないとしても、まず何が本当に問題なのかについて、自分だけでも気づくことです。
人々の気づきは次第に広がり、後に自然な形でムーブメントとなり、自ずと世の中を変えていくでしょう。

現代の経済システムの終わりは、拝金主義の終わりを意味しています。
お金以外に生きる目的を見い出す時、人は何をするべきか何を大事にするべきか、その考えを再構築するタイミングに差し掛かっています。

今、全ての問題の責任を外部に求め、自前の正義で他人を批判して回るべき時ではありません。
真の問題は何か、その問題のために何をすべきか、一人一人が自分の内面と向き合い、出来ることを探す時なのです。

思想とは、他人を批判するための武器ではありません。
思想を理論武装の道具に使い、自己を正当化して他者を平伏す目的で使うべきではないのは、右でも左でも同じことです。
世の中を正しい方向に導きたいのであれば、自身の発言力を求めるだけではなく、自分自身が実践し行動することが大切です。

思想とは、あくまで生き方に活かして実践するべきものです。

実践するからこそ働きかけ、人々に影響を与えることが出来るのだと思います。
それは他人に行動を強要したり、価値観を人に押し付けることを意味しません。
この部分を履き違えてきたからこそ、人々は思想を嫌い、主張する人間を忌み嫌う風潮が出来上がったのではないでしょうか。

言ってみれば、思想とは語るべきものではないのかもしれません。
議論は確かに大切ですが、自分が活用する上では他者を論破する必要はないからです。
自分が正しいと思うことを、自分が正しく実践すれば良いだけで、他者が介在する余地はあまりありません。

私のこの意見すら、何の価値も評価もなくても構わないのです。
それが正しかろうと正しくなかろうと、自分が思う正論ほど人には好かれないものです。
その場合、正論は必ずしも感情的ではないからです。感情的ではない意見は、人に共感されにくいという性質があります。

正論は人に押し付けるものではなく、自分の信念として言動の柱にしていくためにあると思います。
要は、自分の道標にすれば良いだけで、集団目標にするからおかしなことになるのです。

これは、言論を生業としている人ほど受け入れ難いものでしょう。
しかし、正しさを目に見える力に変換した時点で、その思想は理論武装になっているのです。
脇差は常に振り回すものではなく、武士の誇りとしてあえて抜かないでおくべきものです。
安易に力を誇示しない美徳こそ、思想の奥深さの一つの表現であるように思います。

これから、人の時代は混乱期を経て、猛烈な反省期に入っていくことでしょう。
その時、思想や信仰の偉大さが再発見されるはずです。
それまで、正論は忌み嫌われ続けるでしょうが、それが思想のあるべき姿です。

誰にも知られず、理解されず、ただ黙々と行動に移される、それこそが信念というものだからです。

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