神代のビジネスⅢ
- Category:神世考察
- Date:2025年02月20日
最近、ようやくエネルギーが乗ってきて、やることに力が入るようになってきました。
特に神様について調べたり考えている時間は、かなり気持ちも乗っています。
その反面、仕事周りのことに関しての意欲は持ちづらいです。
これまで、社会で評価を得たり、お金を稼ぐこと自体に仕事のモチベーションがありました。
しかし、これだけ世の仕組みが明らかとなり、混乱し騒然とする中では、社会に対して目的を見出しようがありません。
これまでのやり方では収入を得ること自体、環境的に難しくなり、かと言って無理にやり方を変えたとしても、産業基盤自体が崩れていく可能性もあります。
これでは八方塞がりで、どう収入を得たらいいかわかりません。
これを神様はどう思っておられるのか、私は考えることがあります。
人々が経済的利益を中心に作り上げた社会は、人からお金を貰うことに対して目的を持ち、半ば自己犠牲的に奉仕することで対価を得てきました。
やりたくない仕事でも、社会や企業の要求であればそれを卒なくこなすのが一人前であり、資産をうまく使ってステータスを上げてこそ成功であると言われてきました。
ただ、そうした自己犠牲は、他者に犠牲を強いる環境を作り出してしまいました。
皆が大して望まないやり方でお金を稼ぐのが当たり前になると、人々の欲求は次第に刹那的になり、経済が悪化するにつれて心は乾いていきました。
現代は自己犠牲の対価として労働があり、労働とは自分のエネルギーや時間を消費することを意味します。
そして、いくら働いても働いても豊かになれない社会は、長い時間をかけて老若男女問わず、人々の気力を吸い尽くしていきました。
その経済というピラミッドの最上部には、人々を支配したい層がべったり張り付いており、搾取を続けることでパワーを増してきました。
それをなるべく人々に気づかせないよう様々な仕組みを作り、うまく操ってきたわけです。
けれども、人々のお金への信仰心や資本主義の枠組みそのものが弱体化してくると、呪いが解けてカラクリに気づく人々も増えてきました。
今、資本を中心とした世が崩壊し、新しい流れが生まれつつある中、古い経済や社会のあり方を続けている人々に古いアプローチをしても、先細るだけで積み上げることは難しいでしょう。
だからこそ、大衆的な感覚にアプローチするのではなく、もっと本質的というか、自己探究的なテーマを持って活動していくよう、神様は促しておられるように思います。
それに関して、私は何となく「自分のやることをわかってくれる人がいるだろう」と、未だ人々に対して正当な評価をしてくれることを期待し、それを目的とする意味がないような気がしています。
まず、自分が認められるためには、人に認められる行動をしなければなりません。
ただ多くの人は、これを「人に迎合することである」と考え、人々の顔色を伺いながら自分のやり方を考えます。
しかし、人に認められるというのは「自分の才能が人に理解される」ことを意味します。
才能が人に認められるには、確かに人にわかりやすい形で才能を示す必要があるでしょう。
ただし、「迎合する」のと「わかりやすくする」ことは全く違うプロセスであり、ここを履き違えてはいけません。
例えて言うと、歌舞伎を現代風のミュージカルにしたら、多くの人は直感的に理解しやすくなります。
反面、古典的な歌舞伎の良さは失われるでしょう。
歌舞伎を現代人にわかるような仕組みに変えることは、物事を根本的に変えることを意味しません。
それこそ、別にスクリーンで演出的に補完したり、事前にパンフレットなどで現代語訳を注釈したりすれば敷居は下がります。
あくまで、顧客のレベルに合わせることがマーケティングの全てではないということです。
だからこそ「やり方を変える」ことが目的の水準を下げることになってはいけないと思います。
目的を変えず、それでも人々が理解しやすくなる工夫をするのが、本来するべき努力なのではないでしょうか。
神様は、他人を軸にやるべきことを決めるのではなく自分軸で目的を持ち、それをどう具現化して他者を惹きつけていくか、いい意味で「自己中心的」であることを求めておられる気がしてなりません。
けれども、ここで「自己中心的」であることは、もはや既存のコンテンツが飽和した環境になる中で、目新しいだけでは全く見向きもされません。
私自身、その状況と戦い続けたからこそ今があるわけで、理想論では太刀打ちできないのも現実です。
だから今は、「目先の利益を取るか」「未来のための布石を打つか」の二択しかない状況だと思います。
今、後者を選んだとしても大した利益には繋がらないでしょう。逆に前者なら、明らかに先細るだけです。
どちらを選んでも苦境の中、自分軸を貫くことは並大抵の覚悟ではありません。
それゆえ、例え自分のことであってもモチベーションが上がらず、やるべきことを自分で決めたつもりが、いまいち覚悟が固まらない状況が続いていました。
けれども、「神様をもっと身近にする」という使命感が降りてきた時、「神様」という目に見えない顧客が私の心の中に立ち現れ、神様のために何かをすることに対して、並々ならぬモチベーションが湧き上がってきました。
人世では、移りゆく人々がどう繋がり、いつ離れるのかを予想できません。
経済の状況、市場の変化、人々の需要、そういった外的環境に左右されていたら自分軸など通しようがないでしょう。
けれども、「自分軸でやる」ことにはある種の普遍性があり、「神様を顧客にする」ことは浮世の人々に目的を見出すより、ある意味で堅実なのではないか、と私は思うようになりました。
「誰かの役に立つ」ことの自覚は、本質的にモチベーションになり得るものです。
実際、その対象は今生きている人間ではなくても、未来の人であったり神様であったり、自分自身であっても構わないはずです。
神は、外側に存在するとは限りません。
人々の魂は神の「ワケミタマ」であると言われます。
いわゆる「魂魄」という概念において、精神における霊は「人間の神霊」であるとされます。
この神霊が人間には誰しも宿っており、自我とは別の意志を持つ自意識によって、私たちは神々と繋がることができるのだと思います。
神に目的を見出す時、それは外面的世界におられる神々だけではなく、自分の内なる神の求めに応じるということでもあります。
それが「魂の表現」であり、それこそが「真の自分軸」であるとも言えます。
人のためにやるのではなく、神のためにやることは結果的に自分自身のためにもなるのだと思います。
自分の内なる神と外の神々の意識の違いは、普通の人間には見分けることすら難しいはずです。
私たちが他人と比較したり、社会的評価に揺れることがあるのは当然です。
しかしその時代はもうじき崩れ去るでしょう。そうなる前に、些か時期尚早であろうと、人に目的を見出すのではなく自分の目的を選択していくべきかもしれません。
神が喜ぶことをする、それは自分自身の深い部分の喜びを追求することに等しく、自分が喜ぶことは他人が喜ぶことになっていく。
その本質的な「歓喜の共有」こそが、本来のビジネスの形だったのかもしれません。
これを今の社会でやるのは勇気のいることですし、とてもリスクのある挑戦です。
ただ冷静に考えて、誰もが先細る世にあって破滅が早いか遅いかの違いではないのでしょうか。
どうせ破滅するなら、早い段階でどん底を味わっておいた方が早く先に進めます。
いずれ誰しもが道標を失い、自分で道を探すようになる時、その地図自体も人のアドバイスも当てにならないとしたら、道開きの方法を編み出すことで誰かが救われるのかもしれません。
この数年で私が経験した泥沼の状況は、いずれ誰かを救う道なのかもしれません。
今朝、不思議な夢を見ました。
仲間らしき人々と廃墟を探索していたら、当たり前のようにゾンビが徘徊を始めて、避難場所を探そうとしました。
そこに年寄りなのか子供なのかわからない男性が話かけてきて、ポスターにあるお寺を指差して「ここに来たら皆助かる」と話をします。
私はなぜか、まずそのお寺を調べようと思い、ポスターのQRコードをスマホで読み取ろうとしました。
しかしその瞬間、スマホが縦に割れて壊れました。
カメラが使えないばかりか、私はゾンビのことは忘れてスマホを買い替えることに頭を悩ませました。
特にオチはないですが、そんな夢です。
これは私の勝手な解釈なのですが、今の世界から救われるには神仏の元に集まるしかない。
それを探すのに、スマホは必要ない。
スマホとは外の世界や人々と繋がるためのツールだが、それが壊れたら確かに不安かもしれない。
ただ安住の地は自分の頭で考え、探し求めてたどり着くものであり、その先に目的の場所はある。
今は本当に廃墟とゾンビだらけの街を彷徨っているような気持ちでも、いずれ仲間と出会い安心できる場所に行くことができる暗喩なのかもしれません。
そのためには、目で見えるデジタルの世界に答えを探すことなく、自分の頭と目に見える世界をヒントに探し続けるしかないのでしょう。
それを夢の中で、思い悩む私に神様が教えてくださったのかもしれません。
いよいよ、人の世を捨てる時が近いように感じます。
厳密には、人世というより「大衆に迎合する人々の時代」と言うべきかもしれません。
個々人が、自分の心に従って生きられる世になれば、それほど人々は窮屈な思いをせずとも、幸せに豊かになれる世界が訪れる気がしてなりません。