「勝ち」に行く Category:エッセイ Date:2025年07月12日 楽太郎です。 7月の満月から一夜明けて、邪気が引き潮のように一斉に引いたのを感じます。 体調も取り戻し、やはり満月の影響は効果覿面に現れるのだなと改めて思いました。 先日はかなり邪気に滅入られて、一時的に「神も仏も信じられない」感覚に陥っていました。 この世界はやはり、神秘など存在せず人間がこのまま欲望のままに地球を支配し続け、いずれ滅ぶに違いないと、かなりネガティブな気持ちになりました。 どこを見渡しても、人々は誰もが変化を期待しながら、変わるつもりも変えるつもりもないことは薄々わかるからです。 世の中が勝手に良い方に変わって欲しいと願いながら、自分自身を見つめ反省し、過ちを手放して生き直す覚悟が、人々にそれほどあるとは思えません。 けれど、おそらく夏至以降、神々の選択では「大難」ルートの世界線から「小難」ルートに切り替わった気がします。 数ヶ月前の私は、国内情勢はさらに破綻し、その上大災害も起きて食糧難の時代となり、人々は木の皮まで食べるようになると本気で思っていました。 しかし今の私は、確かに世の中はすこぶる悪いのだけど、皆がそこそこ生活を保ちながら目に見えるところを少しずつ良くしていくような、そんな未来に思えるのです。 だから、不思議と未来に対する不安は「抱けない」のです。 というのも、未来が明るい方に向かうのは決まっているので、それまでに闇が濃い時もあるのだろうな、という印象に近いです。 なぜこんなにも人々が変わろうとする意思を見せないのに、世の中が良い方向に動くと感じるのかと言えば、おそらく「覚醒」の道を選んだ人々の総量が神々の予想値よりも多かったのを、私が感じ取っているからかもしれません。 おそらく、想定通りならすでに現7月時点では相当悪いことばかり起きていて、大難ルート一直線だったのかもしれません。 しかし、良い意味で予測が外れたことで、多くの人々がコツコツ世を良くしていく流れに変わったのだと思います。 「日月神示」では、神々が手を入れるならばすぐにでも元の泥海に返すことはできるのだけど、そうはしたくないから大難を小難にする努力をしてくれと、日月の神様は口酸っぱく忠告するのです。 私は昨日、あまりに気分が最悪なので雨の中を歩きに行きました。 その時も人々の波長と噛み合って本当に居た堪れなくなったのですが、その時は「人間など滅べばいい」とまで思いました。 私は自分の中に、闇がものすごい勢いで湧き上がるのを感じました。 これまで、波長を高くするためには闇を消え去らねばならないと考え、負の感情を抑制してきました。 しかし、それは単に怒りに蓋をしているだけに過ぎず、その怒りを浄化しないまま上っ面で波長が高いように思い込んでも、腹の底ではマグマのように煮えたぎっていたのです。 これは「スピリチュアリストあるある」の一つで、闇と向き合わないからこそ浄化された光の部分だけを自分のうちに見ることができ、自分があたかも闇がないように感じる、という錯覚が起こります。 真の波長の高さというのは、いかなる低い波長もカバーする寛容さがあって、「低い波長は許されない」と思っているうちは低い波長域にあるのです。 大事なのはこの波長の低い部分、醜い闇の部分をしっかり見て、その醜さに目を逸らさずにきちんと向き合い続けることです。 私はこの闇の部分を押さえ込みすぎることで、自分自身のエネルギーの循環そのものに影響がありました。 負の感情を持たないようにする努力は、自分の感情を胸に押さえ込むことに繋がっていたのです。 だから感情を自分の中で手に取り出して一旦見つめることは、自己浄化への第一歩です。 闇は表に出さなければ良いだけの話で、自分の内に止めて浄化するつもりであればその方が健康的です。 私は時々、煮ても焼いても食えない人間という存在がひどくもどかしくなり、憎たらしくなることもあります。 私がこの世界が変わることを願うからこそ、「変わる必要がない」と思う人々の意思と拮抗します。 彼らの選択自体が間違っているわけではないのも、重々承知しています。 時代がずっと良ければ、私も何の疑問もなくのらりくらりと生きていたでしょうし、目を向けるものが違うだけで彼らは今でも満足しているのかもしれません。 しかし、巨大なものがより巨大になるためにより巨大になっていくだけの世の中というのは、漂っている小さいものは巨大なものに飲まれていくか、滅ぼされていくしかありません。 この世の中に固定化した「勝ち組負け組」という短絡的な社会構造は、勝ち組の傘の下にしか人権はなく、その傘の下では負け組同士の競争しかありません。 勝ち組は「どうやったら勝ち組になれるか」というハックを有償で提供し、勝ち組に上がってくる負け組だけが救われる世界にしているのです。 私はそれがひっくり返るのを望んでいて、このままでは世はどんどん悪化するばかりだと思うからこそ、変革を願うのです。 しかし、冷静になって考えれば、私がそうなる世界を望むと同時に、神様が世界を変えて下さると信じすぎている私に気づきます。 仮に神様が私の予期しない世の中にしようとして、私の望み通りに世界がひっくり返らないとしたら、私はそれで諦めて「負け組」に甘んじて死んでいくのだろうかと。 神様が世の中をひっくり返すのを待っているだけで、もしひっくり返らなければそれで終わるつもりなのか。 その時、自分は何もしなくて良いのか? そう考えた時、世の中がひっくり返らないなら自分がひっくり返せばいいじゃないか、と思いました。 「他力本願」というのは仏教の奥義でもあるのですが、自力で最善を尽くして天命を待つのが他力の意味です。 神様がやらなければ諦めて終わるだけなら、自分でやり切ってみる価値はあると思うのです。 この地上がこれまで幽界的な存在に支配されていたのは、人間が「欲望」というエネルギーに親和性が高く、欲望はすぐに物質に対するアプローチに変わるため、これまでの世は即物的にならざるを得ませんでした。 即ち、人間が何かしらの力でエネルギーを具現化するから現実の事象は起こるわけで、誰かがその力を地上に降さなければ妄想で終わっているのです。 この物質次元は「形にしたもの勝ち」の世界で、良くも悪くも実行力のある人間が力を持ちます。 神様がそうしてもらいたくないと思っておられたとしても、人間が気まぐれで神社に火を放てば神社は燃えてしまいます。 この世界において、物質化する主体があるからこそ現象が先立つのです。 「世の中が変わってくれたら」と思うだけなら、「別に変わらなくていい」と己の既得権益をせっせと再生産し続けるパワーには勝てません。 だとしたら、それを上回るパワーをこの地上で顕現しなければならないのだと思います。 それを「自分は大河の一滴だ」と過小評価して、最初から小さくまとまるつもりなら、最後までその程度のことしかできないでしょう。 自分なんか、自分ごときが、と思ううちは、自分の底力も真の実力も眠ったままです。 自分を過小評価せず、かと言って過大評価もせず、とは言え志を大きくやるのは難しいのですが、その豪胆さがなければ化け物のような胆力で勝ち上がってきた人々に太刀打ちすることはできません。 優しく心ある人ほど、人に遠慮して譲ってきた人も多かったはずです。 今までの時代で勝ち上がる人というのは、利益のために平気で人を切れぬようでは浮上できないことを知る人たちだったのです。 だからこそ本当に善良な人ほど良いように使われ、虐げられたまま浮上することが難しい世の中でした。 私は即物主義の権化のような会社にいたせいで、心を病み一時は障害者になりました。 それでもお金が必要だったので、就労移行支援を受けて社会復帰を目指しました。 その時に出会った障害を持つ人々、特に精神病を患っている人たちは皆繊細で、心根が優しくて頭が良い人たちばかりでした。 それゆえ、彼らの心の傷の深さも感じ取れました。 彼らの中には、以前の私のように命を断とうとした人もいたかもしれません。 私はあの頃出会った人々が今は幸せであることを願いながら、私や彼らが体験したように、こんな不条理な世界で一人として不幸になる人を生み出したくないと思うのです。 そして、そんな人生をこれから生きる子供たちに辿って欲しくありません。 自分一人がただ落ちぶれて死ぬだけだと思っていたら、私はこれほど本気にはなれなかったでしょう。 それではダメだと思うから行動を起こし始めたのであり、自分よりも大切なものがあるからこそ、ここまで戦う決意でやってきたのです。 「勝ち負けが大事なのではない」というのは、無抵抗平和主義者が生み出した美辞麗句です。 結局は勝ち組に好き放題やられて、負け組が挑戦できないようになっている社会だからこそ、欺瞞が蔓延る今の状況があるのです。 勝ち負けも大事だし、成功も失敗も大事だし、利益も損失も大事です。 小綺麗にまとまっていれば美しい世の中とするのは所詮錯覚であり、その錯視を利用して利得に繋げる者もどこかにいるのです。 いい加減、そのレトリックは見抜けるようにならなければいけません。 幸いにも、おそらく思っているよりも多くの日本人が、覚醒の道を選びました。 これから起こることは、確かに最悪に見えるかもしれませんが本当の意味で最悪ではないはずです。 よもや、その中で気づいて動く日本人が増えれば、自ずと世の中は変わっていくはずです。 神様は、少し先の未来にそれを見届けられたのかもしれません。 だからこうして神様は、私たちを陰ながら後押しして下さるのだと思います。 「日本人よ、今こそ立ち上がれ」と。 PR