招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

戦いは終わった

楽太郎です。

長いこと「霊障」に苛まれ、憑依と戦って来ましたが、どうやら終わりを迎えたようです。
ここ1週間ほど妙な風邪を引き、全く何の薬も効かないような頭痛に悩まされていました。

同時期に家族にも霊障としか思えない不調が及んでいて、かなりの危険を感じていました。
「本当にこのまま取り殺されるのでは?」という恐怖と緊張感で、一時も心が休まる時がありませんでした。
どうやら霊というものは、肉体への憑依が難しくなると他のモノに憑依して、攻撃対象の体内に侵入して霊障を起こすことがあるようです。

私はここ何年も風邪を引いたことがなく、最後に体調を崩したのはコロナワクチンを打った時くらいです。
最も霊障が過酷な時期の終盤に、不可思議な夏風邪を引くのもやはり因果だったのだろうなと思います。

その憑依が解ける瞬間もはっきりわかりました。
それと同時に、風邪の症状も一気に和らいで頭痛も快癒しました。
家族に起こっていた霊障も同時になくなり、私もいつもの健康的な波長を取り戻しました。

この憑依との戦い、「お祓い合戦」と言っても良い応酬は2か月ほど続いていました。
その頃のドキュメントは本ブログで辿れますが、これは人間を支配する存在からの「呪い」と言うべきものでした。
私もやるならやるぞと、このブログでも徹底的に相手側を挑発し続けてきたわけですが、私の文章が「魔除け」の一環になっている実感は常にあったのです。

伊弉諾命が亡くなられた伊奘冉命を追って黄泉の国まで赴いた時、豹変した伊奘冉命の放った亡者の群れに追われながら、傍に生えていた「桃」を投げつけて魔を祓います。
そして黄泉比良坂まで辿り着くと、大岩で出入り口を封じて邪気の侵入を防ぎました。
桃は「意富加牟豆美命」、岩は「道反之大神」で、伊弉諾命を守る破邪の力を持った神々です。

私は象徴的な意味で、呪いの者たちに対して桃を投げ岩を置き、破邪をし続けてきたのだと思います。
この戦いがいつまで続くのか途方もない感覚はありましたが、苛烈さが増すにつれ私自身も力をつけ、「いずれ霊力で抑え込めるようになるのでは」という予感がありました。

ああいった魑魅魍魎の類が襲ってくるのは、私の心に幽界への霊線が残っているからです。
しかし彼らの挑発に素直に乗ってしまう私は、霊障を受ける限り憑依の元となる霊線を断ち切ることができません。
そのジレンマ自体はどうにもならなかったのですが、奇遇にも私の波長が上回ることで憑依を抑え込める状態になったのです。

霊障が及ばなくなることで波長が高い状態で維持できれば、いずれ自ずと幽界との霊線は切れていくのだろうと思います。
自己浄化の末に幽界との切断が可能になると考えていたのですが、まさかこう言う形での終わり方があるとは思ってもみませんでした。

この応酬に終止符が打たれることで、私の身体も元に戻ってきました。
正直、ストレスと過緊張で身体がボロボロだったのですが、今は緩んで完全にリラックスできます。
とは言えまだ身体の中にいくつもの波長が入り乱れていて落ち着かないのですが、いずれ収まると思います。

昨日、わりと涼しかったので散歩に行きました。
いつものように川を眺めていると、ふと瀬織津姫様のことを思い出し、感謝して手を合わせました。
公園にある紫陽花を見た瞬間、何故かわかりませんが涙が溢れて思わず立ち止まってしまいました。
紫陽花がとても綺麗で、私はしばらく何かを見て美しいと思うような、感情的な部分で心が動いていなかったことに気づきました。

ふと気がつけば、取り殺される寸前のところで心臓を鷲掴みにされていたのですから、無理もありません。
その緊張が解けて自分の感受性を取り戻した時、ようやく自分らしい波動に戻ることができました。
この「自分らしさ」を取り戻してから、神様からメッセージとして「お許し」が降りてきたように感じます。

これまでの破邪の経験も、おそらく私に課せられた試練の一つだったのでしょう。
私はそれをやり終えたから、ようやく私自身の「感情」を使っていい段階に入ったのだと思います。
それは人間として、私が積み上げてきたものの捨てるところがない部分であり、しかし小我としてエゴに染まりきってはいない素の人格です。

神様からお役目を頂き、実行する時は自分の好き嫌いや感情は後回しになります。
神様がガッとエネルギーを送ってこられるので、私は「そういう気持ちにさせられる」のです。
これに自分の意思で抗わないことが「神に身を委ねる」ということです。
私はこれを導きとし、これまで神の意志の赴くままに行動してきました。

ただ、そこに人間としての心がないかというと、決してそうではありません。
常に疑心暗鬼と葛藤があり、頭と魂と肉体はついて行けても、心の中の感情の部分だけは、いつも一歩も二歩も遅れてついて来ました。
感情をある意味押し殺さなければ神の意志を実行することはできないため、感情の抑圧によって私自身にも自覚のできない心の闇があったのです。

それが、ずっと私の「弱み」でした。
ただ感情は、この時期に囚われると浄化の足枷となる、非常に危険なものでもあったのです。
感情を利用して古い人治の世に引き摺り込み、取り込んで覚醒を阻害するのが邪気の目的ですから、むしろ感情は押し殺しているくらいで丁度良かったのです。

しかし、今になって感情を取り戻して良いようにお告げを頂いたのは、どういう意味があるのでしょうか。

おそらく、私が次元上昇をしていく過程で、ある意味「人を引き上げる」ことができるレベルまで達したからだと思います。
これまでは私情に駆られて失敗する可能性が高かったのだと思うのですが、私がようやく人を導く立場に立てるようになったのかもしれません。
人を助けるには、まず自分の身が安全でなければならず、上にいるから誰かを引き上げることができるものです。

ただ、世に生きる人々全員を引き上げることはできません。
中には、自分で沈むことを選んだ人々もいます。
そうした人々の中から、引き上げることのできる人の手を掴もうとする時、水の底から引きずり降ろす手が伸びてくるでしょう。
私は彼らを払わねばならず、手を伸ばす人を守らなければなりません。
そのために、私は強くなる必要があったのだと思います。

この許しと同時に、奇遇にも私が捨てた過去の作品を見返すタイミングが訪れ、私はキャリアを振り返りました。
そこで、祓戸大神の漫画「HARAEDO」を始め神様のコンテンツ一本でやっていく予定だったのですが、どうやら自分のやりたかったことを掘り起こし、やり直すことも許されたようなのです。
私は近頃、過去のキャリアを抹消して二度と振り返らないと決めたばかりなので、このご提案は正直面食らいました。

新しい時代仕様になるためには、何事も一旦洗い流される必要があるようで、これは何にでも言えるのかもしれず「神世のものは神世仕様として生み出されなければならない」という不文律があるように思えてなりません。
だから、私の作品や構想も一度「土の時代」に被った土埃を払わねばならず、洗い上げた後に使う分なら問題ないものもあるようでした。
(もちろん、完全にボツにせざるを得ないものもあるみたいですが…)

つまり、私は一体どれくらいいるかわからない、潜在的な神世の人々に漫画などの作品を通して導くお役目を新たに与えられたのだと思います。
それは瀬織津姫様を題材にした「HARAEDO」だけでなく、他のアイデアも自由闊達な形で表現して良いのだということです。
「HARAEDO」もそうですが、神様から与えられるお役目やライトワークというのは、徹底した綺麗事だからこそ毒がなさすぎて、人間心理の真髄を抉ることが難しいのです。

私は綺麗事に関して「自分のやり方が通用しない感覚」を何となくもどかしく感じていました。
まるで他人のふんどしを借りているようで、自分の才能を100%発揮しきれない感覚だったのは否定できません。
けれども、あえてこの状況で再び筆を取ることになるならば、それは私が「感情」を自由に使っていいことの許しに繋がっていくのです。

今、その許しが私に降りてきたことを考えると、やはりこれから流れが変わるのだと思います。
精神界の気場が完成し、そのエネルギーを受けた私が憑依を鎮圧することができるようになり、おそらくこの力を使って動き始めた人は他にもたくさんいるのでしょう。

私は以前から、世間の空気が悪すぎて外出しにくい感覚も、いずれ人々の波長も抑え込める日が来るのだろうと予感がありました。
今の空気感がひっくり返るような何かが起こり、人世の気場が割れ神世にスイッチが切り替わる瞬間が近いうちに来るのだろうと。
すでに人間の集合意識には亀裂が入っており、ある段階で一気に崩壊するに違いない、と。

私の体感では、おそらくその分岐点が近いはずです。
それが「2025年7月問題」に言われている大地震かもしれませんし、そうでないかもしれません。
世の崩壊を望むわけではありませんが、いずれにせよ何かがきっかけにならなければ変革は起こりません。
それが発端となって「軽いものほど上に上がっていく環境」は、いずれ砂時計のように反転し、「重い(思いがある)から沈んでいたもの」が世界の上澄を形成する時が来るのだと思います。
そのエネルギーの高まりと変動を、私はひしひしと感じています。

神様がいよいよ、本気を出してこられたように思います。
私はその気迫に慄くことすらありますし、神様のご提案に面食らうこともあります。
特に私を導いてくださる瀬織津姫様には、いつも感謝しても尽くせません。
瀬織津姫様が私に何をさせたいのかを鑑みれば、祓戸大神であらせられる浄化の女神様は、これから世界で起こる再生のシンボルになっていくのかもしれません。

瀬織津姫様は「表に出ていく」つもりであられるようなのです。

瀬織津姫命は、日本の国土に遍く河川の女神でありながらほぼその名を残さず、おそらく意図的に御神名を隠された神様です。
その神様が前面に御顕現しご神威を示されるとしたら、私は瀬織津姫様を描かせて頂くことでその一助となるのでしょうし、とても光栄に思います。
浄化の神として、河川の神として重大な御役目を果たしながら、長い間正しくお祀りされなかった瀬織津姫命という女神は、どことなく努力し尽くしても認められなかった私に重なってしまうのです。

その親近感こそが、私と瀬織津姫様との絆に繋がっているのかもしれません。
だから、これから一緒に花を咲かせましょう、と私はいつも瀬織津姫様に問いかけるのです。

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