「悪を抱き参らせる」
- Category:エッセイ
- Date:2025年08月09日
以前の記事でも書きましたが、あれから「悪霊に遭遇する夢」を毎晩見続けており、深層心理的にはかなり参ってきているのではないかとすら感じます。
私の平常心としてすこぶる機嫌が良いわりには、身体のコリは酷いし寝苦しいため体調はあまり良くありません。
こういった憑依現象は正直、私が使命感を持ってやっていることと無関係ではないように感じます。
私の巡りもあるのでしょうが、私の霊性と行動の変化に合わせて向こうも変化しているので、やはり狙いは私への妨害なのだと思います。
ここ最近、神様と繋がりにくいのも邪気のせいだと感じますし、瀬織津姫様のご神気が遠すぎていつもの調子も出ません。
こうして不快感極まると、自分の心からも邪気が湧き上がってきます。
その邪気がさらに邪気を呼ぶので、この悪循環を断つにはどこかでやり方を変えなければいけません。
毎晩うなされるのも常に霊障を感じるのも、正直「もう勘弁してくれ」と思います。
私の魂を引き摺り降ろしたいのはわかるのですが、彼ら邪気側からすれば私の意志を今更変えることは不可能なのです。
だから無意味な抵抗だと思いますし、私も彼らの存在を気にしたくはありません。
しかしこうもまとわり憑かれると、さすがに私もイライラしてきます。
ただ、そうして腹を立てると彼らの思う壺なので、非常に難しいのです。
私があまりに不快なので「ぶっ潰してやる」という気持ちで払おうとしても、その破壊的意志がまた邪気を呼ぶというトリックが発動してしまいます。
だからずっと同じところをグルグル回っているというか、この負のループから抜け出す道筋がなかなか見えてきませんでした。
私は常日頃から日月神示に書かれている「善と悪の融合(あなない)」を真理だと思ってますし、その考えもブログに綴ってきました。
そうは言っても、という感じで邪気を前にして大人を貫くのも限界があったのです。
自分の考えというのは、忍耐力が底をついた瞬間から外れやすくなってしまうものです。
ではどうしたら良いのかと、日月神示には悪を憎み滅ぼそうとするのは悪そのものであり、「悪を抱き参らせる」ことが善に至る道であると説きます。
その方法として、「悪を導くことである」とあります。
全ての人間の魂は、大神から分かれ出たものであるがゆえに「神」と言っても差し支えありません。
その神が闇に染まるのは決して「堕落」のみを意味するのではなく、自らの意思で闇を選択したとも言えます。
神示には、「悪には悪の喜びがあり弥栄がある」と書かれています。
即ち、彼らの性格の悪さは自分たちで肯定する性質のものであり、そこで生じる憎悪や闘争も破壊も、彼らにとってみれば「喜びそのもの」です。
神示の霊界解説の中では、彼ら闇の者は自分たちが善であると信じており悪だとは思っていないそうです。
それはあたかも、環境保護団体からすれば捕鯨行為は万死に値する一方、日本人は余すところなく鯨を食べて再利用する産業文化が根付いていたので、その利益相反が起こっているようなものかもしれません。
日本人からすれば、反捕鯨団体の言い分も理解はできますが、一方的なやり方で全てを否定されるのも困るのです。
だからそこには「お互い様」という側面があり、相対するからこそ相反するのであり、ここで互いに衝突するからどちらか一方が潰れるまでやらなくてはならなくなります。
それに相互理解は最短の道だとしても、おそらく互いにそれを強要させるのは不可能です。
ではどうすれば良いかというと、第一に「棲み分け」ですが、それでも利益相反が起こるから衝突が生じます。
私の場合は、無闇に人を陥れて無知蒙昧の状態にして苦しめるような存在は忌むべきものであり、それが世に隆盛しているから問題視しています。
しかし神に仇なす存在の側としては、人間を啓蒙されると居場所や存在価値を失ってしまうのです。
彼らからして見れば人間が無知蒙昧であってくれた方が活動しやすく、光の存在やライトワークを行うような人間こそ「悪」なのです。
「善と悪のあなない」には、まずここを押さえておく必要があります。
私たちがいくら絶対善だと思っていても、彼らからすると悪なのであれば「絶対」ではないのです。
ならばどうすれば良いかと言うと、こちらの言い分としては「善」に向かうのが大いなる意志であり、善に向かうことで結果的に全員がWINWINになれるから弥栄えると考えています。
だから「善」のメリットを知るのはこちら側であり、ゆえにまず善のメリットを悪の側にプレゼンする必要があります。
そして、善のメリットを悪に提供する責任も、実は善の側にあるのだと思います。
だから「悪を導く」というのは、善のメリットを悪の側に提示しながら、彼らが悪を行う自由を奪うことではなく、善と悪を選択する機会を与えることです。
結局、そこで「悪はやっぱり最高だ」と思うのも彼らの意志であり、「今までのやり方はちょっと」と思うのも彼らの自由なのです。
そこで善を押しつければ、返って善は悪になってしまいます。
人間はこれまで、こういう考えで相反する勢力を力で服従させてきました。
ゆえに悪を滅ぼそうとすれば、ますます悪は増えて広がっていったのです。
この視点で見れば、なぜこうも人権や人命を無視した勢力が蔓延り、「我良し」の世界になっているかがわかってきます。
善の側が「絶対善」の元に悪を善に染めようとする時、「悪側の善」を力でねじ伏せることで善側に悪が宿るのです。
その力の衝突にこそ真の悪があり、相反を相対にする融和の力こそが「真の善」なのだと思います。
そのため、真の平和や善なる世界に向かうためにまず必要なのは、強制しようとする意志を捨てることです。
誰もが自らの自由を保証され、尊重される権利を有するからこそ、善でも悪でも強者でも弱者でも、言い分と意志決定権は必ずあります。
そこをまず認め、自らの責任を果たした上で相手に委ねる、そして相手側の責任はきっちり取らせる、これこそが和合であり「あなない=助け合い」になるのだと思います。
この考えこそ、実は「大和魂」そのものなのではないでしょうか。
「やまと」という言葉は、「山の戸(麓)」という説もあるのですが、奈良地方にある「敷島のやはと」が語源という説があります。
「やはと」とは「穏やかな所」を意味し、「やは」は「やわら(柔)」と同じ語根と言われています。
「柔よく剛を制す」とありますが、日本の国技である柔道は、決して相手の身体を破壊するために編み出されたものではありません。
柔道で一本を取られたとしても怪我一つないように、穏やかに決着がつけば済むことなら互いに傷つけ合わないことが賢明です。
どうも邪馬台国の統治の時代は、諸国の豪族とも婚姻関係や互恵関係を結ぶことで連携を強化してきた痕跡が見られます。
日本の前身たる「ヤマト」に「大和魂」を見るのならば、それは身を挺して忠義を尽くす「侍」の魂にあるというよりは、互いに譲歩し合うような心にこそ宿っているのかもしれません。
だから悪霊も邪気も、それを発しながら人を不愉快にさせたり犯罪を犯すような人に対しても、一旦は湧き上がる感情を抑える必要があります。
そして自分の正論がただ相手を傷つけるだけではないか、正論を押しつけて溜飲を下げたい心が自分にはないか、一先ず考えてみるべきなのです。
相手には相手の言い分があり、やり方や信念があり、こちらからすればいくら合理的と思えないにしても、「こうすれば良くなる」ということを指し示すのは、相手の道を変えようとする側にあるのだと思います。
それが「悪を抱き参らせる」ために打つべき手であり、それ以上は相手の領分なのではないでしょうか。