招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

Blue Jet

楽太郎です。

藤巻亮太さんのアルバム「北極星」の中に「Blue Jet」という曲があります。
この曲は、かつて宮沢賢治が志した現代版の「雨ニモマケズ」ではないかと思います。

「人は通らない
それでも構わない
ただここに生きて
橋を架けてゆく」

藤巻亮太さんは人気ロックバンド「レミオロメン」のギターボーカルをしていたアーティストです。
藤巻さんの曲は文学性が高く、レミオロメンの頃から一貫して情緒の大切さを表現し、前向きに生きる人々を応援し続けています。
この「北極星」というアルバムはオーケストラを使った曲が多く、特に硬派なコンセプトで作られているように思います。

「Blue Jet」という曲は、誰に見向きされなくても、それゆえに自由を背にして突き進め、というメッセージが込められています。
これが「雨ニモマケズ」だと思うのは、「木偶の棒」と呼ばれ嘲られても信念の赴くままに生きる芯の強さに美を見る感覚と、同じ思想を感じるからです。

私は常々、「見向きもされないな」と思いながらやってますが、決して腐っているわけではありません。
けれども、薄っすら「何にもならないかもしれない」という不安はあり、それでも辞めることができないのは、愚直に信念を追い求める私自身が嫌いではないからかもしれません。
そして、やる必要もなく例え求められなくてもやらざるを得ない、どうしても表現を止めることができない私という存在がいて、それはあたかも飛行機が飛ぶしかないように、当たり前のことをしているだけだったりします。

「Blue Jet」は、空を行く飛行機は何にもない虚空を飛ぶわけではなく、虚無のような広がりを行くことに自由があるのだ、と歌います。
私はこの曲のメッセージを理解した時、レミオロメンの後期の名曲「アイランド」での迷いを突き抜けて、藤巻さんは悟りの境地に入られたのだなと思いました。

世間は、人が見向きもしなければ無駄なことをやっているように思いますし、何にでも利益がついて回らなければやる価値はないと思います。
確かに経済活動という側面で見ればそうなのですが、この社会を成り立たせるにはそれだけで足りません。

需要と供給の枠を超えて必要なものは世の中にあって、誰も知らず目に入りにくいものによって支えられていることはたくさんあります。
その価値は先入観では計り知れず、場合によっては「いらないもの」とされ、隅に追いやられてしまうことすらあります。

私は、皆がスポットライトの方しか見ないからこそ、日陰や闇の中に一粒の光を見つけて、その輝きに目を奪われる行為を愛するのです。
それは例え儚くても光は光であり、作られた電気の明かりではなくて、人が心から放つ生命の光こそ私は美しいと感じます。

けれどそれに気づく人はなかなかいなくて、その寂しさに青い空を見る、それが「Blue Jet」に歌われている景色なのかもしれません。





以前、「素直に生きる」という記事の中で、「再び自分の感情に向き合って創作することを許された」と書きました。

それまでの神様の導きがある種、時期的なものであったことを勘違いをしていたのだと思います。
神様は基本的に人を縛ったり「こうしなければならない」という強制をあまりなさらないように思います。
私はもう「昔の作品に取り掛かれることはないのだろうな」と思い込んでいたのですが、「どうしてもやりたいこと」に限っては、自分の心に嘘をついて止め置くくらいならむしろやりなさい、ということなのだと思います。

最近はフィジカルなパワーの高まりと共に、霊障も落ち着いてきました。

近頃の憑依は祝詞やお経のもつ神性のパワーが通じず、自分の霊力で抑え込むしかありません。
よく「警察が来ようがビビらない」タイプの方がおられますが、そういう人たちに理詰めや宥め聞かせる手口は殆ど通用しません。
そういうタイプには腕っぷしをみせて手出しできないようにするのが最も効率的です。
この構図は、この世でもあの世でも変わりないのかもしれません。

ただ、こういったタイプの邪気を呼ぶのは、私の心にも同じ性質があるからです。
その禍々しい感情に蓋をしながら、蓋をしていたこと自体を忘れがちになります。
この世界を見る上で感じる「悲しみ」の奥に沸々と煮えたぎる怒りがあっても、沸騰して蓋から溢れ出てくるまで鍋が煮えていることに気がつきません。

この世に蔓延る欺瞞や暴力や搾取、それを嘲る人々、私はその闇を照らせるほど強い光を持っていません。
そこで湧き上がる怒りを浄化するほどの力もなく、自分の中に塞いでしまった負の感情は、自ら闇を招く原因となっていました。
結局一旦は蓋を開けてそれを出してみるしかなく、よく冷ました上で灰汁も取り除いていかなければなりません。

その感情は、やはり「表現」するしかないのです。

私は特に、日常生活の中で本音を話せる人は誰一人おらず、世に思うことや自分の感情を誰かと分かち合う機会は殆どありません。
けれど、私は一介のクリエイターであり、誰が目の前にいなくても「人に語る」ことはできます。
それが例え壁打ちだとしても、私の心は押さえ込んでいた感情を「作品」という形に昇華することが可能で、それによって心は浄化されるのです。

闇というものは、ただ光を照らしただけで自ずと消えていくものではなく、闇を分かち光へ導いてあげなければずっと澱んだままです。
闇を照らすには頭ごなしに光を当てるだけではダメで、闇によって闇を宥めて闇の内側を拓かせることから始まります。
毒を持って毒を制することがあるように、水に油を注いでも意味をなさないこともあります。

だからこそ、素直に「それ」を表現することにしました。

それは血生臭く、禍々しい闇の部分です。
しかし、それはある種この世界の真実の姿でもあり、光に照らされた部分だけを眺めても見えてこない部分です。
光は常に明るい方だけに差すわけではなく、遍く闇にも向けられます。

だからこそ、「綺麗事」の偽りを破った先に本当の綺麗事は存在するのだと思います。
何となく矛盾しているように思えますが、善も悪も表裏一体だからこそ、表だけ裏だけ存在する方が歪な世界になってしまいます。
世界を「白」一色で染めようとした今の世を見て、それでも眉唾に思えるでしょうか。

この作品は、いずれ漫画という形式でどこかに出そうと思いますが、おそらく別名義になるでしょうし、本ブログでは全く触れないと思います。
それでも、もしどこかでお見かけしたなら、そっと閉じて記憶を水に流して欲しいと思います。

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