神に委ねよ
- Category:神世考察
- Date:2025年07月17日
ここ最近、私自身の「感情」について見つめ直す機会が訪れていました。
近所の公園の造成工事が、半年前に完成していてもおかしくないのに未だに敷石の一つもなく、草木一本植え終わっていません。
コンビニの棚には変わり映えしない品ばかり並び、品質も量もどんどん落ちていくのに値段だけが跳ね上がっていきます。
皆が無気力になり言い出すリスクを避け、何も言わず何もしないからこそ、世の中はますます力あるものたちの思惑通りになっています。
そこに関わる個人は良しとしていなくても、組織や社会が決めたことであれば従わざるを得ません。
その当事者を一概に責められないでしょうが、かと言って加担している事実を無関係にすることもできないでしょう。
その組織や社会も、彼らだけでなく私をも巻き込んだ上で、もしかするとどうにもならない流れの中にあるのかもしれません。
こういう光景を毎日見ていると気にしないフリをするのも難しくなり、いい加減に何とかならないのか、と遺憾の意が込み上がってきます。
実際に怒ってはいなくても、積み重なる猜疑心で腹の底では抱えきれない怨念を抱え込んでいるのかもしれません。
どこかで理不尽さを感じている人々も、私自身もこの世界が変わる日を心待ちにし、一刻も早くその時が来て救われることを願っているように思います。
私に降り掛かる霊障に関しても、いつ終わるのかという気持ちはあります。
「いつか」終わるのはわかります。けれど、その「いつ」なのかが重要にも関わらず、出口が見えないゆえに不安や疑念は付きまといます。
いつか状況が変わる日を待ち日々を耐え忍びながら、それでも目に見える光景は何一つ変わらず、人々は依然として変わる兆しを見せません。
そのもどかしさと焦りの中で、私は神様に「早く時代を変えてくれ」と願い続けています。
しかし、もし神々が時代を変えようと事を起こしたとして、それが必ずしも私が望む形の変化であるとは限りません。
例えば、3人に1人くらいが亡くなるような世となれば、確かに時代は変わるし世界も変わるでしょうが、それは決して私が望むような光景ではありません。
だから「世を変えて欲しい」という願いには、ある種の理想、言い方を変えればエゴが潜んでいます。
「変革の夢」には個人的な条件づけがあって、その願いが叶うことを神様に求めているのです。
果たして、そんな一個人の願いを神様は受けられるのでしょうか。
この世界に感じるもどかしさは、私だけが特別に感じているわけではないはずです。
他の大多数がおかしいと思っているし、出来れば変わって欲しいと思っているでしょう。
誰もが自分自身が正しいと信じ、「こうすれば世は良くなる」と考えています。
けれど、その考え方に固執しているうちは、目の前で一向に変わらない物事がもどかしくなり、顔色一つ変えようとしない人々を憎らしくも感じるかもしれません。
そんな私自身に、「我良し」の感情がないと言い切れるでしょうか。
世の中が綺麗に変わることを自分で「善」だと感じても、それが他の当事者にとっては悪夢かもしれません。
同時に、彼らにとっての楽園は私にとっての「地獄」だったりします。
どちらが正しくこの世に相応しいか、で言えば私も彼らも等価の存在です。
神様からすれば、善も悪もその時代ごとに必要な役割を与えているだけで、本来なら優劣も要不要もないはずなのです。
そんな世の中に、私は意固地になって「間違っている」とぶつけ、躍起になって自分の正しさを証明したくなります。
一刻も早く証明して溜飲を下げたいけれど、世が一向に改まろうとしないからもどかしくなり、どうなっているんだ、早くしてくれと焦りの感情が湧き上がってきます。
それは完全に「我欲」であり、欲であるが故に叶わぬ苦しみを覚え、苦しむからますます救いを求めるのです。
では、この苦しみは我欲を捨てれば良いのかと言えば、その前に気をつけるべきことがあります。
世は「諸行無常」であり、結論を言うといずれ時代は変わりますし、世も変わっていくでしょう。
おそらく、私が神様から受けているメッセージの通りに世は移ろい、結果的にそうなっていくはずです。
しかし問題は、「それがいつかわからないから、耐えられそうにない」と感じて不満に思うことにあります。
つまり、我欲があるから「自分の思い通りにならない時間」を耐えるのが苦しいと感じています。
例えその動機が「世を良くしたい」という善意であっても、我意は我意なのです。
ではその我欲を持って願いが叶わないのは不自然なことかと言えば、願望が叶わないのは世界のデフォルトです。
それが個人の手に負えない巨大なことで、特に不特定多数の人が関わる世であれば尚更です。
そういった念では動きようのないものを動かそうとし、それを望むから叶わず、叶わないという不満が邪気になります。
では、一個人の力では到底及ばない物事はどうしたらいいのかと言うと、それこそ超常的な存在に頼るしかありません。
つまり、神に委ねるしかないのです。
ものすごくシンプルな結論なのですが、この答えになかなか辿り着けないのが人間というものです。
人間は自分の思考で目の前のことを何とかしようとして、例え目の前にないことでも思考を巡らせ、何らかの手段を取れば解決できると考えがちです。
そのやり方で、大体のことは対処できてしまうからです。けれども、それゆえに「人間の力ではどうにもならないこと」も、何とかできるに違いないと錯覚してしまうのです。
中国では毎年乾季になると、「降雨ロケット」なるものを飛ばすそうです。
ロケットに積載した特殊な化学薬品の反応により、雲の水分を結合させることで一時的に雨を降らせることができると言います。
しかし中国の異常気象はもはや日常茶飯事であり、気候が荒れるのも元を辿れば、度重なる環境破壊に端を発します。
そこで雨を降らせたいからとロケットで気象操作をしますが、地球規模の自然サイクルの中でのバランスは全く考慮されておらず、その行動によってどんな影響があってもおかしくありません。
けれど、人間は知らなければないものだと思いたがる生き物ですから、降雨ロケットの環境への悪影響について語る人がいようものなら、特に中国であれば尚更存在することは許されないでしょう。
科学技術を万能だと信じるのもそうですが、科学的な理論と実践が成り立てば、全てのものがコントロール可能であると人間は錯覚します。
しかし現実の世界では、どのように「バタフライエフェクト」が発生するかを完全に予測できず、それは人智を超えた領域です。
それゆえ、人間が万物を理解して全てのことを成し遂げられるという考え方は、実は身の丈に合っていません。
ここで「神に委ねる」というのは、一見責任を放棄して何もしないことを推奨するように思えます。
仏教には「他力本願」という言葉があり、「他力」という神仏の力を本命とせよという意味ですが、これには「自力を尽くした上で」という大前提があります。
自分のするべきことはしっかりやるのだけれど、自分の手の届かないそれ以上のことはもはや神様に任せるしかないのです。
何もかも自分の意志でやろうとして、目の前のことを一つ一つ思い通りに動かそうとするから、そうならない時に不満が募ります。
当然、自分の力でコントロールできるものとできないものがあり、どこまでも自分の手が及ぶと思うことこそ思い込みであり、実際はそうならないことの方が多いです。
何かを思う通りに事を成そうとすれば我意が宿り、我欲が起こるゆえに不満も覚えます。
その考えに固執するから苦しみが生まれるのであって、そのループから解放されるためには、あえて思考を手放してみることです。
そして、人間よりも大きな物事はやはり神々の領域であることを知り、神様の行う領域に極力口を挟まないことです。
そうして神を信じきるからこそ、自然な成り行きに任せることができるようになります。
これは頭ではわかっても、感覚で理解するのはなかなか難しいでしょう。
人間は考えを行動に移す時、できる限り思想を忠実に実践しようとします。
神に自らの意思を委ねる時は、心で感じることをただ実地に移すという感覚に近いのです。
それは同じように見えますが、人は頭で考えてやることほど我意を行動に移すことが多く、感覚や心で動く時は余計な思考を伴わないものです。
「自分の意思を神に委ねる」というのは、ものすごく不審に感じられるかもしれません。
ただ思い出していただきたいのは、私たちが子供の頃、社会問題や戦争のニュースを眺めながら、自分の無力さを現実に映し見て不安を覚えていたでしょうか。
両親や大人たちが特別頼りになるわけでなくても、何とかなるような楽観的な気持ちでいたし、それは決して世の中に対して無知だったからではないはずです。
心理学では、人間の不安は9割が取り越し苦労だと言われます。
子供の頃に未来に不安があまりなかったのは、無意識に自分より大きな存在に身を委ねていたからです。
自分が小さくか弱い存在だと知っているからこそ、委ねきるしかないことも無意識に理解していたのです。
しかし、大人になれば何にでも責任を持たなくてはならなくなり、できる限り自分の手で何とかしなければいけなくなります。
そうした自助努力の世界にどっぷり浸かることで、「委ねる」ということができなくなっていくのだと思います。
この世界は右でも左でも権威というものはどうも信じきれず、どこを見回しても胡散臭く、疑心暗鬼に駆られて不安に陥ることもあります。
けれど、それを感じているのは自分一人ではなく、自分よりも地位がある人でさえ心の支えがなく、不安を抱えていたりします。
まして人間が千人や万人より集まったところで、誰が先頭に立とうと変えられるものは僅かでしょう。
だからこそ、人間の手が及ばないことには「神の手」を期待するしかありません。
それは全てを捨て、ひたすら神仏に拝めばいいということではなく、自分のできることをやった上で、自分の手では叶えられないことも潔く認めるのです。
そして、願いが叶うことを神仏に託すこと自体、人間としてできる限界のことだったりします。
それ以上のことを願い、人間の限界以上のことを自分で叶えようとすれば、上手くいかないのは当たり前のことです。
世を変えるための戦いも、戦うことそのものよりも「戦おう」とするから辛くなっていき、挑むから相手から挑まれるのであり、進んで出て行かなくても戦わなければならない時は戦うしかありません。
「世を良くしよう」という真面目さは時に愚直さとなり、愚直がゆえに無謀にもなり得るのです。
それは決して、綺麗事だからと全てを肯定する理由にはなりません。
私は、日々のニュースや日常で起こる目の前のことに嫌気が差し、気が滅入る時もあります。
世にある一つ一つのことにも、「どうしてこうなんだ」と「こうすれば良いのに」と考えるほど、自分以外の人が間違っているように感じてしまいます。
けれど、「世が良くなって欲しい」という綺麗な願いも、自分の手の届かぬところにある我欲だとしたらおそらく完璧には叶わないでしょうし、生きる上では単なる重荷になります。
その荷物があまりに重くて一歩一歩が苦しいと感じるのなら、いっそのこと荷物を神様に預けてみたら良いのです。
私たちは自分の力で何でもできると思いがちで、何でもやらなければならないと考えます。
けれど、人間が自分の頭で考えて実現できることはたかが知れています。
おそらく、自分で抱えても神様に持って頂いても、わりと見える景色は変わらないかもしれません。
人間にとって、これは盲点だったりする部分です。
私たちは真面目であるがゆえに、努力を尽くそうとし頑張りすぎてしまいます。
そして、人間としてできる限界以上のことまでやってしまおうとし、疲れてしまうのは神様から見てもやりきれないかもしれません。
神様に身を委ねきれないことは、神を信じきれないことと同じです。
もし安心できないのであれば、人間としての考えを一度手放してみれば、もう少し神様にお任せすることができるかもしれません。
私たち人間が思うようにできることは、本当にごく一部です。