何者にもならない
- Category:エッセイ
- Date:2025年07月19日
今朝、散歩中に喉が渇いたので自販機に寄ろうとしたところ、女子高生が立ち止まってジュースを買い始めました。
私はそれを斜め後ろから見て、気づかれないといいなと思いました。
何故なら、彼女から見れば中年男性が自分を眺めているように見えるかも知れないと思ったからです。
それは自意識過剰なのだと思いますが、今の私が中年でいかにも怪しく見られそうだ、という認識から生まれる不安ではないことに、しばらくして気づきました。
私が子供や少年少女を見て、特に年頃の女の子に対して自分があたかも汚れた存在で、何となく自分をモンスターのように感じるのは、今に始まったことではありません。
よく考えれば10代の頃から変わらない感覚で、「自分が汚れた存在である」という認識が心に染みついているからこそ、その後の人生は「汚れ」に塗れることで汚れを克服しようとしてきたように思うのです。
それは、おそらく私が人間としてこの世に生まれ落ちた時にできた、魂と肉体との何らかのズレなのでしょう。
「自分と他の人たちは何となく違う気がする」という肌感覚は、どこの集団に属しても何をしていても、何となくガラス越しに眺めているような違和感に繋がっていました。
その不一致感を埋め合わせたくて、何でも必死に取り組んできたし、過剰適応のような状態はいつも上手くいかない原因にもなっていたのです。
先日、私はようやくLINEのアカウントを削除することが出来ました。
30年来の友人がいたのですが、どうもこれから繋がって行けそうにないと判断し、過去の禊をするつもりで全ての交友関係も同時に断つことにしました。
私も人間ですから、胸が痛まないわけではないですし、そこまで思い切る必要があるかとは思いました。
けれど過去の記憶を引き継ぎ、これまでの自分と繋がり続けることは、過去に囚われることと同じかもしれない、と考えました。
意を決して前に進むためには、過去に後ろ髪を引かれるような思いが強すぎるのです。
古い友人も、またいつか会える日を楽しみにしてましたが、そんな日を待つ月日がそのまま立ち止まる時間になるとしたら、いっそのこと振り切ってしまおうと思ったのです。
自分の半生を思い返すと、バカなことばかりやってきたと思いますし、色々な人に迷惑をかけてきました。
それに関して全く弁解の余地はないのですが、自分がそれだけバカだったからこそ、ここまで生暖かい目で適度に突き放して見てくれた人たちに対して、感謝の気持ちが湧いてくるのです。
私は確かにロクなことはして来なかったのですが、それでも痛い目を見て思い知り、物分かりが良くなる程度には賢くもなれました。
自分が何となく「他人と違う」という感覚は、どれだけ経験を積み重ねても結局は変わらず、そんな自分を受け止めることでしか真っ直ぐに生きられないことも、十分理解することが出来ました。
それが分かるまでは痛い目を見続けるしかなかったのですが、これまでの半生は私がこの答えに辿り着くことに意義があったのだと思います。
今思えば、私は自分ではない「何者か」になろうとし、誰かのようになれたら上手く生きられるような気がしていました。
自分に対する劣等感は、誰かの上位に立つことで埋め合わせようとし、それも何者かになれたら優秀であると認められ、自信を持って生きられるのではないかと思っていたのです。
けれど、私がなりたい「誰か」という虚像を追い求めたところでしっくり来る自分には出会えず、努力をして優秀さを認められようとしたところで、自分が心から欲しいものを手に入れることは出来ませんでした。
結局、自分はどこへ行っても自分で、いくら他人になり変わろうとしても自分のままで、もし自分が自分であることに納得が行く瞬間があれば、その場で自分探しの旅が終わってしまうことを、身をもって知ることができたのです。
ただ、この「自分ではない何者かになりたい」という不足感は、私が生まれた時からある不満とはどうしても思えません。
この日本という社会で育っていく中で、「人間は常に何者かにならなくてはいけない」という強迫観念がありはしないでしょうか。
事あるごとに他人と比べられ品評されるのが当たり前で、誰に憧れて誰のようになりたいかを問われ、その存在に近づくことを同じくらいの年頃の子たちと競わされてきました。
それで「できる」とか「できない」とか勝手にラベリングするのは、決まって偉い大人たちでした。
子供はそれに従うべき存在で、そういう型に嵌るべき生き物であるかのように扱われてきました。
けれど、大人になった今冷静に思い返してみると、そんな大人たちの思惑などたかが知れていて、きちんとした哲学があった訳でもないでしょう。
その仕組みがあまりにも当たり前に機能するからこそ、優劣というレッテルがあたかも真実であるように見え、その評価軸が人々の人生を振り分けてきたのです。
そうして「何者かにならなければ価値がない」という思い込みは、想像以上に人々の心に影響を及ぼしてきたように思います。
私が小学生の頃、事あるごとに嫌がらせをしてくる男の子がいました。
彼とは仲良しのつもりでいたのですが、何故こんな意地悪ばかりしてくるのか不思議でした。
ある時、先生の前で私へのイジメを見られたその子は、目の前で先生から咎めを受けました。
「何でこういうことをするの」と先生が問い質した時、その子は「絵がうまいのがずるいと思ったから」と言って泣き始めました。
私はそれからいい歳になるまで、その涙の理由がわかりませんでした。
私は確かに子供の頃から絵を描くのが得意でしたが、それは単に好きで毎日絵を描いていたからです。
当時思ったのは、「絵を描けばうまくなるのだから、描けばいいのに」という感想しかありませんでした。
けれど、後々に「努力はしたくないけど結果は欲しい」「打ち込めるほど好きになれるものがない」ことで、他人に嫉妬するタイプの人がいることを知りました。
彼とは中学まで一緒だったのですが、卒業文集に「将来は画家になりたい」と書いていましたが、ただの一度も彼が絵を描いている話も聞いたことはないし、彼の描いた絵を見たこともありませんでした。
彼のその後の人生はわかりませんが、「絵を描く才能」に対する憧れの感情を、憧れのままに終わらせないで大人になれたことを願うばかりです。
今でも考えるのは、憧れるのなら憧れに近づく努力をするべきだし、ただし憧れの存在に近づいても他人そのものにはなれないのだから、どこかで自分に納得して落ち着けばいいと、それだけのことです。
けれど、一生をかけてもこの結論に辿り着けない人はいます。
憧れている何者かになれないなら、何か他人にマウントを取れるようなステータスを身につけて、あわよくばそれで満足できると錯覚する人もいます。
「何者かになりたい」という憧れと、「何者かにならなければならない」という強迫観念は、結局は「自分はこのままではダメだ」という感情の裏返しです。
その不安感も、自分が素の状態で生きてありのままに認められない不満から生まれていて、人々が予め与えられた条件を満たせなければ社会的報酬を得られない仕組みにあります。
だから人間は、自分自身として生きていくために「自分以外の何者かにならなければいけない」という条件を満たすために長い旅を始めるのです。
その歪んだ探究は、「何者かである者への嫉妬」という形でも現れます。
有名人や才能ある人の隙をついて、叩けるならば叩きたいという感情も実はここにあります。
自分が自分として確立され、その自分自身に満足していれば他人はわりとどうでも良く、どんな優秀な人であろうと条件が合えば協力し合えるような、そんな感覚になるはずです。
けれど、「才能がある」とか「優秀である」というだけで、他人に嫉妬し怒りを晴らすために一方的に攻撃する、その心理が健康的と言えるのでしょうか。
しかし、今の日本人にこういう人が多いのは、この学歴社会や勝ち負けの仕組みがあまりに歪だったからこそ、不健全な価値観が現象化しているだけのように思えます。
そもそも、「何者かにならなければいけない」という観念そのものが正しいのでしょうか。
小学生の頃に「エジソンのようになりたい」と学校で思わされたとしても、正直に発明王を目指す人はたぶんいません。
けれど「年収1千万円のインフルエンサーになりたい」とか「フォロワー10万人の絵師になりたい」と思う時は、大抵はモデルが実在します。
それが真実の姿はともかく、その人の真似をして同じようになろうとし、自分の形がなくても理想が叶えられたら満足する、そんな気さえしてしまうのです。
けれど、結局はどこまで行っても自分は自分で、自分が自分である延長にしか自分の幸せは存在しません。
それなのに、自分ではない誰かになれた方が幸せになりそうな気がするのは、本当の自分が見えていないからではないでしょうか。
私たちは常に比較されすぎて、「どれだけ比較されようと肯定するしかない自分」を見つけるまでになかなか至れません。
今の世の中は特に失敗も許されず、最短最速の結果を求められ、しかもその最適解がフォーマットとして既に出来上がっています。
ヨーイドンで走り始めた1回目のレースで勝負がついてしまうような世の中で、どうやって自分を見つけろと言うのでしょうか。
私は、誰もが「何者かになろうとしなくていい」し、何者にもならない自分を見つけるために、あらゆる経験や失敗が許されるべきではないかと思います。
実はそんな世の中の方が、人間はおおらかに他人の失敗を認められますし、「お互い様」と言える空気になるはずです。
人生において結果を残すような人間になろうとし、それを強迫観念として抱いているからこそ、人生に失敗が許されず、何も持たない自分の劣等感から他人に嫉妬する心も生まれるのです。
右を見ても左を見ても同じゴールを目指している競争相手しかいない世界は、とんでもなく窮屈です。
しかしこれまでの世は、残念ながらそういう方向に向かい続けていました。
人々がもっと人間らしくのびのびと生きるには、常に他人と比較されなければ生きる価値が見出せない空気は障害にしかならないと思います。
そもそも人は社会の歯車として作られるのではなく、誰しもが幸せを願われて生まれてくる大切な命です。
祝福されて生まれてきたからこそ、当たり前のように幸せになれるのが自然な社会のあり方です。
それなのに、数値化されたステータスで選別され、工業製品にも似たラインで一生が決まるのは、どう考えてもおかしいのです。
ただ実際にそうであっても、人間の一生や幸福はその仕組みの中で完結するわけではありません。
いくら自分の生まれや育ちが気に入らなくても、いつでも幸せになろうとすることはできます。
仮に社会という工場の中で溢れた部品だとしても、自分という存在はそれだけで完成されているのです。
どれだけ未熟でもポンコツでも、完成品は完成品であり、その性能はともかく完全に機能はするのだから、それで自信を持って生きればいいのです。
私はこの半生を通じて、自分はやはり不良品だと思いますし、ポンコツすぎて色々な人に迷惑をかけたことに反省もします。
ただ、その不足感も世が世なら問題にならず、私が受けたような迷惑すら物ともせず、「お互い様」と言い合えるような雰囲気になっているはずです。
それが失敗を許されず、責任を押しつけ呪いを掛け合うような時代は、そろそろ終わりにするべきなのではないでしょうか。
私は散々痛い目を見た分、人様の失敗には寛容な方です。
私が目にする大抵の失敗は、大なり小なり私も経験してきたからです。
だからいつまでも失敗を責める気はありませんし、反省して出直す分には見守るつもりです。
それは何より、これからを生きる若い人や子供たちに窮屈な思いをさせたくないからです。
失敗もしていいし、どんどん苦い経験もしていって欲しいのです。
失敗もしたことないような綺麗な人生の中では、他人をおおらかに許すことなど到底できません。
私はこれから、改まって「何者か」になることもなろうとすることもないでしょう。
ただし、自分自身でありながらこの社会に生きられるような、誰かの役に立つ落とし所を見つけて行きたいと思います。
そしてあわよくば、私の歩んできた道を同じように歩いてくる若い人たちに、声を掛けられるくらいの人間になりたいと思います。
その時に掛ける言葉は、すでに用意しています。
「何者かにならなくていい、自分であれ」と。