招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

7月の満月について

楽太郎です。

今回の記事は11日午前5時に迎える満月、日本では現在進行形で10日夜に訪れている満月についてです。
これについて書くつもりはなかったのですが、少し霊的な兆候があったので解説しておこうと思います。

今日が満月だと予め調べもしなかったのですが、今日に限って世に漂う霊たちが騒がしいことと満月に因果関係があることに先ほど気づき、合点が行きました。
今朝、久しぶりに体感しうる霊障にしては大きいと感じてましたし、気場も荒ぶっていて家族にも兆候が垣間見えたので、何故か気になっていました。
私にとって憑依は日常茶飯事ですし、それも最近になって波長の高まりと共に霊力で抑え込めるようになっていたので、今日に限って深刻には考えませんでした。

ただ午前中に散歩していた時、道ですれ違う人々との波長と妙にかち合うというか、エネルギー的にぶつかるのを感じてあまり良い気分にはなりませんでした。
人々の集合意識と地球意識の気場が相剋している時に感じる波長の乱れには独特な空気感があって、それをこの時に見出してはいたのですが、「なぜ今日に限って?」という理由が見つからず、ずっと不可思議に思っていました。

何となく今日は「自分のことに専念する日だ」と感じてましたし、世の出来事に関するお役目も与えられている気はしなかったので、ますます今日の月齢に関して意識していませんでした。
ただ、この数日「感情」に関するテーマが宇宙的にピックアップされているのは感じていました。

7月6日に投稿した「戦いは終わった」という記事は、そのまま「感情」がテーマになっている文章です。
霊障が一段落し感情の落ち着きを取り戻したことで、再び自分本来の波長を取り戻し、過去にやり残したことに取り掛かっても良い状況になりました。

その投稿の翌日の7月7日午前中、大きな地震が起こった時に感じるような、劇的な磁場の乱れを突如感じました。
私は咄嗟に地震だと思い、避難しようか一瞬考えたのですが、蛍光灯の紐を見ると揺れていなかったので、どこか遠くで大きな地震でもあったのかな、とその時は思いました。
けれどこの日、東北地方で特に大きな地震はなく、まるで地割れが伴うような地震的な波動との因果も説明がつかなかったのです。

しかし、この不可思議な点と点が「満月」というテーマで結びついて、合点が行きました。
この地震的な波動というのは、人々の集合意識に関する精神的土壌、つまり「人世」の気場に起こった地割れであり、その変動はおそらく今日の満月に向けて起こっていたのだと思います。

「満月」はこの数ヶ月、一つのテーマに関する「浄化」という側面がありました。

それは「人への感情的依存」であったり「モノへの執着」や「未来への意識」であったり、様々なテーマがフォーカスされ、天からその浄化が促される時には、天の意思に抗う人間たちの感情が「邪気」となって暴走していたのです。
そのため、満月の日は特に気の乱れが激しくて、私は妙にテンションがおかしかったり頭痛がしたりと、様々な変調を感じることも多く、家族や人々の行動を見る限りどうも一時的に荒れる傾向にありました。

そして今日の満月の浄化は、再び人々の「感情」に対するピックアップが起きています。
先ほど、30年くらい前に住んでいた近所の光景が突如思い浮かんで、思い出すのも難しかった風景を不気味なほどアリアリと思い出してしまい、このインスピレーションがどうも関係があるようなのです。
今回の浄化のエネルギーは人々がこれまでの世に対して抱く執着、「懐古主義」と言っても良い、昔の繁栄に縋りつく感情ゆえに変化を受け入れない、そんな想念に対してお祓いが行われているのだと思います。

その布石として、7日に人世の気場が揺さぶりを受け、おそらくその時に何らかの地割れを伴いました。
ここ最近、世の「リバイバルブーム」がより加熱しているのが個人的に気になっていて、もはや過去のレガシーにしかお金が集まらない仕組みなのではないかと訝しく思っていたのですが、どうもこの潮流に対して神々からの指摘が入ったようです。
多くの人々は尚これまでの時代で通用した常識や価値観でまだ世が成り立つと思い込んでいて、どうも彼らはその固定観念を変える気はありません。

人々が未だ技術革新に幻想を抱いていて、ほぼ確実に「AI革命」は絵に描いた餅で終わるはずなのに、その狂信と古い時代に対する執念は同根のものです。
NVIDIAが時価総額4兆ドルという常軌を逸した熱狂をもたらしながら、その足元に横たわる不正や疑惑に人々は目を向けようとはしません。

技術革新はこれまで繁栄の基盤であり、技術万能主義に対する信仰と実益に裏打ちされていました。
しかし、ここ四半世紀の技術革新はほぼ頭打ちで、誇大宣伝によるユーフォリアと失望をひたすらローテーションするだけでした。
それでも、ほぼ全世界の人々は技術革新というフォーマットが全てを解決すると未だに信じており、それは古い時代に通用したスキームに依然しがみついているだけです。

現在開催中の大阪万博も、これまで通りの選挙活動で政治を良くしようという運動も、過去のコンテンツの焼き直しに至るまで、結局は「昔は良かった」というノスタルジーと「今まで通りのやり方で上手くいく」という通念に対する執着から生まれるものです。
その感情が天から浄化を促される時、人々の無意識下の抵抗感が大きすぎて激しく動揺が起こり、それが気場の振動を伴ったのだと思います。

私はこれを地震繋がりで「2025年7月問題」に準える気は毛頭ありませんし、そんなこじつけで納得できる人はいないと思います。
ただ言えるのは、霊的な次元で起こったことは現実世界に何らかの形で必ず反映するということです。
それは実際に地震なのかもしれませんし、例えば株の大暴落かもしれませんし、それを今の段階で断言することはできません。

しかし、私がこのブログでエネルギーの流れが急に変わったことをたびたび指摘してきたように、この辺りで何らかの切り替えが起こるのはおそらく間違いないと思います。
それがどのような形であるにせよ、それは私たちの日常感覚を変えるものかもしれません。
それに不安はつきまといますし、私も煽るつもりではないのですが、これが天が人々に促している課題であり、浄化すべき事柄になっていることに私たちが抗っても仕方ないのです。

何が起こるにせよ、私たちはもはや古いやり方にしがみつき、同じことを繰り返してもいずれ立ち行かなくなるだけです。
そのやり方に依存するのは、「変化」を恐れ新しいやり方を拒んでいるからです。
その執着がある限り、新しい潮流は生まれず世は黙って衰退していくしかありません。

この現状をどう捉えてどう考えるかは、今を生きる私たち次第です。
今日は、その反省を促すきっかけを人々に与えて回るような、そんな夜です。

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アセンションと霊界再編

楽太郎です。

先日、「アセンションとは何か」という記事を書きました。
その後、体感を含めて情報を更新したかったので、追記することにしました。

前回の記事で、「これからも地球は次元上昇するかもしれないが、精神界という地球意識の気場は完成したので人間にとってはアセンションは完了した」と書きましたが、この見方はほぼ変わっていません。
ただ、昨今の地球環境の変動、特にラニーニャ現象などによる猛暑を見ていると、「これも地球の次元上昇の一環なのではないか」と考えられるのです。
ゆえに、未だ地球は次元上昇の途上にあると考えられます。

動物たちを眺めていて、ここ数年で習性が変化したように見えます。
カラスも猫も犬も、鴨などの自然動物も知能が上がり共存的になっている印象を以前から持っていました。
これに関して動物学者の方々の見解はわかりませんが、私にはそう感じることがままあるのです。

動物たちの霊性の変化は、地球の次元上昇と関係が深いのではないでしょうか。
「アセンション」という概念が流行り始めたのは2000年代後半で、その頃は「2012年」と言われていました。
実際のところ、霊的次元での変動が始まったのはその頃かも知れず、現世への物質的変換が起こったのは2018年か19年あたりではないでしょうか。

その頃あたりから徐々に酷暑が厳しくなり、2020年にはコロナが流行しました。
中国では、ゼロコロナ政策でマンションの門が施錠されたことで、台風や地震などの災害があっても逃げられない住民がニュースになりました。
また全世界的な山火事や活火山の噴火など、自然環境の劇的な変化は「地球のエネルギーの変動」によるものではないかと考えられます。

そして、地球の環境変化は依然として続いており、おそらくアセンションは未だ進行中と見てよいと思います。
人間に関しては、スピリチュアル界隈で長年言われてきた「人類の霊的二極化」はほぼ完了し、これから具現化する段階に入りますが、その途上における人間の目に見える変化はまだ始まっていないでしょう。

前回の「アセンション概念図」では地球がすでにスッポリと新次元(幽界跡地)に移行したように描いていますが、これに関しては「まだ移行途中で何割かは低次元にある」としたいと思います。
そして、「もうすっかり幽界はなくなってしまった」と思っていたのですが、私への霊的干渉からの体感と世の中の動きを見るに「まだまだ幽界の人たちは元気」という感想に落ち着きました。

アセンションは神々の世界を巻き込んだ霊界の大構造改革であり、確かにその計画において人間の念によって作り出された予備的霊界である「幽界」が、大幅に縮小され整理されつつあるのは事実だと思います。
霊界は仏教的に言えば「成仏した霊の世界」なので、この世に未練を残すような不浄霊は高い波長域に上がっていけません。
その気場にいた不浄霊たちが幽界の解体に伴って場所を追われても、霊性が低ければ改まって上がれない者たちも出てきます。
そして、行き場をなくした不浄霊は地上の現世に大量に移住を始めました。

それが昨今の人間心理の荒廃と、浮遊霊の増加にあるのではないかと考えています。
こういった幽界の不浄霊は、生きていた頃の執着や欲望や怨念をそのまま引きずっているがゆえに高い波長域の霊界に上がっていけません。
その霊体が生きている人間に干渉すれば、その人の本性が増幅され理性的な部分が眠っていきます。

私は人心の変化は「憑依」によるものではないかと考えていて、それは「肩や背中にくっついている」という現象だけではなく、人間の集合意識やソウルグループに干渉することで、霊的には観測しがたい憑依現象となっているのではないでしょうか。
急にキレやすくなった人、自己中心的にしか考えられない人、狂ったように欲望に忠実な人、モノに対する執着が異常な人、およそ「人間らしい心でない」という印象の人々は、そういった影響を受けている可能性があります。

前置きが少し長くなりましたが、新しい概念図を掲載します。



4次元宇宙(現世)の霊的階層の上部に、幽界との接続領域、ここでは「幽界干渉域」があるとしています。
この階層は物質の「エーテル層」とほぼ重なっていて、より物理的なアプローチが可能になっています。
よく「モノに霊が宿る」というオカルト話がありますが、それはこの次元で起こるものです。

人間に対する憑依もそうですが、他の生物にも無機物のモノにも霊的なアプローチは可能です。
私は「細菌」もこの憑依の影響を受けるのではないかと考えていて、昨今のCovid-19も霊的な因果がありそうだなと感じています。

この霊的階層に人間の集合意識の気場があり、人々はこの気場に接続することで精神的なエネルギーを手に入れています。
これまでで言うなら「モノ中心」のモチベーションや競争意識、比較による動機づけなどを促して人々の精神的な柱となっていました。
そして、この気場は徐々に削られてきてはいるのですが、人間の念の総量が大きすぎるために依然支配的で、頑として未だ機能を続けています。

しかし、人間よりも上位の階層の霊や神々は、この気場をいずれ取り去ることを考えておられるように思います。
今の混沌とした世界情勢を作り出したのも、地球環境が破壊され汚染されてしまったのも、人間の拝金主義や唯物史観から生まれたのは事実だからです。
その傾向を改めないことには、地球に次元上昇を起こした理由になりません。
だからこの気場を使うことはいずれ殆どできなくなるのではないか、と私は見ています。

では、この世界がこれまで「悪」に支配されていたのかと言えば、それほど単純な話ではありません。
確かに現代を牛耳っているのは、アメリカ政府のマネーを動かす複数のロビイストグループや、その背後を取りまとめている何者かがいるのは事実でしょうし、彼らが世界の混沌を利用して利潤を得ているのも間違いないでしょう。
しかし、この金融を中心とした経済が今の物質的な豊かさの源泉であり、私たち一般市民はその仕組みを利用して便利さや娯楽を手にしています。

この物質中心の世界を「悪」とするなら、現代人の殆どが悪人になってしまいます。
確かにそのカルマは多少あるにせよ、これまではそうした時代にするという神々の大きな計画があり、単に物質主義の功罪を伴う世界だったのでしょう。
ただそれによって人間の精神的生活や文化が歪みられてしまったのも事実で、日本の伝統文化の衰退や神社仏閣への軽視、宗教的慣習の否定などもあったのです。

ここで、今を生きる現世人を取り巻く状況を考察したいと思います。


ここで言う「霊人」とは現世に生きる人々が輪廻転生をする元となる霊であり、人間の魂の姿であると言って良いでしょう。
その上位にいる「高次元霊人」とは、いわゆる仏や天使と人々が呼ぶ高級霊であり、神に近い存在の霊たちです。

そして、日本の神社に祀られる天津神国津神八百万の神々、仏の中でも菩薩と呼ばれる高位の仏、諸外国の宗教上の神々はこの神界に属します。
人間が古来から信仰してきた自然神や文化神が「正神」であるとするなら、この物質中心の文明を切り拓いて「神が必要のない」世の中にした神々を「逆神」と呼ぶことにします。

日月神示では「神と悪神の戦い」と表現していますが、同じ文脈で「悪神の働きは大神のご計画の一部であって悪ではない」と書かれています。
本来の神々の働きが「陽」だとしたら、逆は「陰」であり、日月神示にはその両方が存在するのが真の理だと言われています。

だからここでは「神の存在に抗う神」として逆神を定義しています。
どんな犯罪者にも検察と弁護側が用意されるように、相反する性質が両立することで公平性が保証される仕組みは存在します。
実際に神々の世界にその構図があるかは別として、あえて逆の役割を演じる存在によって均衡が保たれるのは理に叶っているのです。

そして、その逆神の意志を最も忠実に行う勢力というのが、物質世界への執着の強い幽界的存在です。
おそらく、これまで人間に物質面でのサポートを行い、開発や戦略に対するインスピレーションを与えてきたのは逆神の側です。
幽界的存在はその方針への信仰心が強いために、霊性を向上して高い波長域に行くことを拒むか困難だった者たちであり、彼らの波長の影響をもろに受ける人々がいるのです。

物質次元に対する執着心が強い彼らが同じ波長を持つ人間に干渉することで、幽界を追い払われても人間の肉体を通して現世に居場所を見つけることができます。
そうして低級霊の憑依を受ける人々が増えることで世が荒れ、憑依を受けた人間が生き霊を他人に飛ばし、受けた者同士で呪い合うという地獄絵図が生まれてしまいました。

これらは時代が移行する過渡期だからと結論づけることは可能なのですが、それほど無機質に言い切るには心苦しいものです。
全ては神々よりも上位の神のご意向とは言え、あまりに地上では凄惨なことが起こりすぎていて、私たち人間が現状を慮る心苦しさは、おそらく神々も一緒です。
私は、神様のお気持ちを察するとその感覚に間違いはないのだろうと思ってしまいます。

今現実の世界に起きている出来事、これから起こる出来事も神界、霊界、現界を巻き込む「大いなる学びの過程」なのだと思います。
それは人間だけでなく神様たちにとってもそうで、未曾有のことなのだと「日月神示」には書かれています。

私はスピリチュアル的な言説の中で日月神示は本物だと思っていて、なぜかは具体的には説明しにくいですし「霊的感覚でそう思う」としか言えません。
この書を読めば、神示が出された戦中ではなく戦後80年の今年に当てられていることを何となく実感するでしょうし、なぜかはわからなくてもこれから起こることも大体予想ができます。

この時代もこれまでの時代も、これからの時代も、「正しいか間違っているか」を超越した世界の成長のために必要だったことでしょうし、それは人智を遥かに上回る出来事です。
その「大いなる学び」のために用意されたのが今とこれからの時代であり、その変革たる「大峠」への理解を深めることで、私たちは自分たちの目の前を照らしてゆけるのかもしれません。

【追記】

「日月神示」は岡本天明氏が1963年に逝去されており死後50年以上が経過しているため、現在は著作権が発生していません。
そのため全文を掲載したサイトがあります。
以下のサイトは広告もなく、スマホでも見やすいため是非ご紹介します。

日月神示全文

本サイトの管理人であり、著作者でおられる及川明さんには感謝と共に御礼申し上げます。

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反転攻勢が始まった

楽太郎です。

6月21日夏至に「精神界」の気場が完成し、25日の新月から神世の時代が始まったことを実感しています。
以前として世に変革の波は出て来ず、邪気も浮遊霊による霊障も収まる気配はないように思います。
精神界という新たな霊的空間にアクセスできる人々は、こうした幽界的影響から相対的に距離を取っている状態ですが、それゆえに襲いくる邪気の強度は比例して高まっているはずです。

私の体調がとても不安定だなと思うのは、憑依が抜けている状態と霊障を受けている状態では天と地ほどの落差があることです。
憑依を受けている間は殆ど重病なんじゃないかみたいな錯覚すら受けるのですが、それが取り払われると天国にいるような感覚になります。
やはり、普段は精神界に接続していると高い波長の平和的なエネルギーを受けて、何でも許せるような気持ちになるのですが、憑依体の悪意の強さは身体で受けきれないレベルになりつつあります。

正直、もう少し霊障に関しては穏やかになると思っていたのですが、逆にエゲツなくなってきているようで、しかし私が次元上昇にしくじっているわけではなさそうです。
体感としては、これまでになかったエネルギーの高まりの中にあって、「霊障は肉体レベルで抑え込める」という感覚になってきました。
これほど強い霊障を受けるのは、私が常日頃から「神に仇なす者たち」を再三ブログなどで挑発しまくっているからで、これだけ神様と共にお祓い作業をしていたら、それは狙われるだろうという納得感もあります。

この「抑え込める」という感覚がどこから来るのか考えてみれば、これまで憑依に対しては受身的というか、来るものから耐えるという防戦一方の感覚がありました。
ただ最近は少し違くて、私がまるで自分で挑みに行って戦っているような、そんな力強さを感じています。
現実面では具合が悪くて寝ているしかないような時にも、私の霊体は違う次元で目に見えない者たちを相手にやり合っている、そういう印象があります。

常々思うのですが、人間は自我がコントロールしていて、ハイアーセルフが全てを知っており何もかも取り仕切っている、というのは若干違うのではないでしょうか。
ハイアーセルフは「霊界の自我」であって、それは魂として自分で感じ取れるのですが、その魂は自分自身に対して対話的な存在ではなく、むしろずっと沈黙しているように思えるのです。
そのハイアーセルフ自体も、おそらく過去世から因縁のある霊人たちや現世の先祖霊、現代に関わる人々からの生き霊、外的に存在する不浄霊や精霊や神々、そういった雑多な霊的コミュニティが存在していて、その霊団の中心にいるのが霊体としての自分なのではないかと思います。

だから何かインスピレーションを受ける時、特にメッセージや言葉を受け取る時は、最終的に自分の言葉に置き換えられるとしても、その発信源は自分の魂を取り巻く霊団から送られてくるのが殆どで、自分にはない波長だから「メッセージ」としての外部的要素を持ちうるのではないでしょうか。

よく人間は寝ている時に魂が身体を抜け出して、魂の故郷に戻るという話を聞きますが、私たちは霊魂であるのが本来の姿であり、この世は修行のために用意された仮初の仕組みですから、実際の働きがあの世で起こっていると考えるのは辻褄が合います。
スピリチュアルの世界でも「霊主身従」と言われますが、霊界という沈黙の世界に真の自分がいて、その命令を受けたこの世の自分が、「自由に物事を考えて行動している」と錯覚しているだけのような気もします。

日月神示など伝統的な心霊書でも、「霊界で起こったことが現実界に反映される」という話があり、その認識は遍く全世界にあります。
つまり、やはり私たちの本体は目に見えない世界こそにあって、その本当の私が様々な霊人と関わり合い、折衝をしたり反発したりして現実界の私の現象に立ち現れてくるのだと思います。

だから、私が現実界で人間の集合無意識にアプローチし、その背後に蠢く「神に仇なす者たち」を挑発しまくって、目に見えない霊的世界でバチバチにやり合っているというのは意外に考えられるのです。
「争いなんて野蛮だ」と思われるかもしれませんが、おそらくこの世界の浄化は日月神示でも言われている「正神と悪神の戦い」の中で起こっており、人間が平和が良いと言っていても神様たちはおそらく戦っている最中です。

人間のために戦ってくださる神様にばかり戦いを背負わせて、守られている人間が「争いなんてヤダヤダ」と言っているわけにはいかないのではないでしょうか。
だからこそ私は精神界の気場の防衛に参加してきたという実感があるわけですし、今バチバチに戦いをしているという感覚もあります。

ただ先ほど書いたように、この「戦い」も感覚が変わってきて「攻めに転じた」という印象があります。
これまでの防衛的な意識では、やはりどこか耐え忍ぶ部分があり、状況を守り通すことで精一杯という感じでした。
けれど最近は「やってやる」という前のめりな勢いがついてきて、現実の行動もそのエネルギーを受けて積極的になってきました。

この「反転攻勢」の感覚は、やはり精神界の気場の完成と始動において無関係ではないと思います。
おそらく、私が神様たちと共にお祓いをしている相手は、「人治の世界」を支配してきた存在です。
彼らを倒すというより霊的浄化や改心を促して回っているのだと思うのですが、彼らを弱体化させることは「人世の気場」を削り取っていくことを意味します。

つまり、この反転攻勢は盤石すぎて飽和した状態から身動き一つ取れなくなった世界を切り崩し、風穴を開けていくことになると思います。
だから石破総理とトランプ大統領の就任以降、特に何も変わらずダラダラ悪くなっていく世界は、これから霊的次元からの変化が反映していくことになるはずです。

今、この状況でどれほどの人が精神界の気場からエネルギーレベルの変革を行っているのか、私には判断がつきません。
しかし、霊的な次元は時空を超越しているので、参加者が実際に知り合いでなくても霊団としてすでに繋がっていることはあり得ます。
その人々が実際に出会わなくても、霊的次元で済む話なら出会うことはないかもしれません。
そこら辺は神々のご計画の範疇というか、必要な時に必要な者たちが巡り合わされていくのだろうと思います。

先日、国内回帰して復活した小沢健二さんの新曲「演歌がいいから」を聴きましたが、ああいう日本を代表する人が日本文化への憧憬と海外文化への懐疑を直接曲に表現するというのは、感慨深いと思いました。
おそらく、日本の神々からの「温故知新」というメッセージを正しく受け取っている人は思ったより多いかもしれません。
それだけアメリカ始め社会情勢のレベルで「何やってんの」という空気になっているのも現実にあるわけですが、そうでなくとも感性の鋭い人は似たようなインスピレーションを受けているのだと思います。

小沢健二さんに関しては往年のファンで、復帰以降も新曲共によく聴いています。
単なる感想ですが、「東大900番講堂講義」あたりで小沢さんの癖が出たというか、ファンというより日本人なら誰もが「ラブリー」とか「愛し愛されて生きるのさ」みたいな底抜けに明るいポップソングを歌って欲しいと思っているのでしょうが、そこで我を出すあたり小沢さんらしいなと思います。

ただ、やはりどの曲も破天荒な楽観主義と人生讃歌が小沢さんの作品の真髄にあって、今何となく「この世界がつまらない」と思って生きる人々には良いカウンターになると思います。
そう言ったパンクさが今の時代には必要であり、神様はこの世を変えうる人々にそのメッセージを送っているのだと思います。

日本人よ、今こそ飾り立てられた古い衣を脱ぎ捨て、心地良い大和の衣を着直そう」と。

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「アセンション」とは何か

楽太郎です。

今朝、不思議な夢を見ました。
深夜の小学校を歩いていて、中学校の頃の担任とすれ違いました。
今ではお互いにいい歳になってますから、私の記憶の反映か空似だと思います。
購買部が開いていて、そこが玩具売り場のようになっていましたが、校舎全体が暗く誰もいません。

玩具を覗くと、「SDガンダム」のプラモデルが埃を被って山積みになっていました。
SDガンダムは私の子供時代を象徴するコンテンツだったので、酷く懐かしかったのですが不思議と興味が沸きませんでした。

場面が変わって、クリーチャーと女性が戦うバイオハザードのような映像を見ました。
怖いとかいうより「前に見た感じがする」と思って私はモヤモヤしていました。
その映画はVHSとしてデッキから出てきて、レンタルビデオだったようで、これまた懐かしくなりました。
けれどVHSはもうほぼ流通しておらず、私の記憶の中の存在であり、過去は過去のもので懐かしく愛おしいのですが、私の心は動かないのです。

本日6月25日、厳密に言えば夜が新月です。
私はこの夢を今朝見て、心理的に古い世界から抜け出たのだとわかりました。
おそらく、この新月から「神世」が動き出すことになるのだと思います。

ここ数日、自分の肉体レベルで徐々に邪気や憑依を抑え込み始めていました。
これまで、そう言った悪影響は肉体を通じて心や思考に到達して、あれこれと私の意識に介入してきていました。
私はこの影響をモロに受けて、病気になったりおかしな言動をしてしまうこともあったのですが、まさかそれを霊障などとは自覚しようがなかったのです。

これまでの物質主義の時代は、科学的でない見解は眉唾物とされ、白い目で見られる風潮がありました。
それらは迷信であり、その迷信を信じるような人は病気で、病気だからこそおかしな目に遭うのだ、と思われていました。
そうして「精神医療」というものが普及して、心の問題は医者に頼るようになりました。
私もかつて鬱病で長年苦しみましたが、実際に投薬治療で寛解したとは言えず、今思えば霊障以外に考えられません。

そして、今ではそれらが憑依であったことを知り、憑依してくる存在が何かを知っているからこそ、真の対処ができるようになりました。
もちろん、全ての精神疾患が霊障だと言うつもりはありませんし、精神医学を否定するわけではありません。
しかし、そういう解釈が全ての世界だからこそ、真の問題解決に辿り着けなかったことを理解したのです。

そして、私を苦しめてきた憑依体はこれまでの物質主義、経済至上主義の時代を作り上げてきた存在であり、人の欲望を支配し自らの利益と思惑を水面下で浸透させてきた勢力です。
その連中になぜ私が狙われ続けたかと言うと、私が「命(みこと)持ち」として天界からの使命を与えられ生まれてきた人間だからとわかりました。

こう言うと私自身を特別に持ち上げている言い方になってしまいますが、そうではなく「命持ち」の人々はかつて、街中ですれ違えるくらいにはたくさん目にすることができたのです。
彼ら「命持ち」は、神界に近い霊界の記憶を残して生まれてきた人々が多かったので、純粋で優しい人ばかりでした。

生まれ持って感性が豊かで善良な性格であるため、成長して世間に馴染む過程で世の邪気に当てられてしまい、その性質を変えやすかったのです。
感性が純粋なので、闇に染まると闇に染まり切ってしまい、実際に罪に染まるか病気になるか、様々な形で魂を曇らせた人がたくさんいました。
魂が限りなく白に近い状態で生まれたからこそ、多様な色に塗れたこの世界の色に染まり、本来の色を保ち続けるのは困難だったのです。

神の使命を背負って生まれながら、その使命に目覚めることなく埋もれてしまった人が多く存在していて、「命持ち」、いわゆるスターシードと呼ばれる人々自体、それほど珍しいわけではありません。
そんな彼らも、最近は誤情報や変な思い込みに惑わされて覚醒の妨害を受け、新しい気場の解放に立ち会えない人も出てきてしまいました。

その中で私だけが稀有みたいに見えるのは、それだけ多くの脱落者がいて、私はコテンパンにやられながら意地だけで残った、という感じに近いです。
それは運命とか才能とか言うより、私が性根から捻じ曲がって我が強いため、「負けてたまるか」という気持ちだけでここまでやって来ただけなのです。

逆に言えば、私が決して純粋無垢ではなく天邪鬼だったからこそ、何があっても穿った目で見て反発し抵抗して来たのだと思います。
私が下手に意地汚いからこそ、ここまで残ったとも言えます。
これまでたくさんの命持ちがいたでしょうし、実際に私も数多く出会って来ましたが、だいたいが魂を曇らせてしまいました。
だから、私だけが特別で優秀な訳ではないのです。

これまでの世界が「金とモノ、ステータス」が全ての社会で、物質的に目で見える事柄しか存在しないような空気にすることで、心や魂を軽視し神をなきものにしようとする働きがありました。
「なぜ神がいながらそう言う世になったのか」という問いに対して、極論的に言えば「人類の学びの過程であるべきカリキュラム」と一言で言い切れます。
ただし、私を始め命を捨てる寸前まで叩き落とされ、現に様々な理由で命を失った人々が膨大な数に及ぶ中で、そう言い切ってしまうのはあまりに短絡的かもしれません。

物質中心の世は確かに便利な機械や道具に溢れて、欲望を満たすシステムも充実していて、その中で豊かに生きようと思えば夢もありました。
人々は決して嫌々働いてきた訳ではなく、それだけやり甲斐もあり、努力に応じた報酬も豊富にあって、賑やかで楽しくもあったのです。
だから一概にこの文明が悪いとは言い切れず、ゆえに「学びのプロセス」と位置づけて良いと思います。

そこで我々がどんな「学び」をするかと言うと、物質中心の豊かさを追い求めたところで、決して個人の幸福も世の平和も理想も実現しえない、という教訓なのだろうと思います。

今、目に見えるシステムとしての「お金」があらぬ形で暴走し、人間たちの意思を超えた仕組みとして文明全体を破綻させつつあります。
少数の選民意識を持つエリートたちが、自らの欲望のままに戦争を起こし、バブルを起こし、制度を歪め、貧富の差を拡大させ、文化も秩序も混沌に追いやっています。

この時代が終わる時、それを目の当たりにした人々は「お金やモノだけ追い求めても、どうにもならなかったんだな」と気づいて、新しい豊かさの模索を始めるでしょう。
その諸行無常にこそ学びがあり、その知恵に立って初めて新しい文明が立ち現れてくるはずです。
地球を散々掘り返して汚し荒廃させ、そうして惑星を廃棄寸前まで使い込んだ人類が反省し、考えと行動を改め再び地球と共存する道を歩み始めるのです。

そして、この転換期に新しい世界を作り出す存在として「命持ち」が、この時代に集中するかのように生まれてきました。
一般的な言葉で言えば「スターシード」と呼ばれる人々は、この時代を変革するために天から送り込まれてきた魂たちです。
しかし前述の通り、その多くが芽を出さないまま埋もれていってしまいました。

それで神々の計画は影響があったのかと言うと、おそらくそれも神々の計画のうちで、現時点でスケジュールは寸分違わず遂行されているはずです。
私がよく例に出す日月神示は、80年前の戦中に岡本天明翁に降ろされたものですが、実はよく読んでみると第二次世界大戦時より現代の方が表現と一致します。
その啓示において、「世界の大峠」が九分九厘まで神によって不利な状況になることも示されているのです。

暴走するユダヤマネーにトチ狂ったアメリカが、さらにトチ狂ったイスラエルのイランへの挑発をサポートし、あわや中東戦争になろうとしている今、そのアメリカは莫大な国債利払いを払いきれるかどうかわからない状況で、誇大宣伝と共に各国の政治に介入して制度をアメリカ有利に作り替え、これからも帝国的支配を維持するつもりでいます。

現在の世を見回して、昔のように良くなると思う人は皆無でしょうし、軽く世相を眺めただけでは時代の趨勢を読むことはできません。
どう考えてもこれから世界は終わる、というギリギリのところまで人類と神々は追い詰められるように見えるでしょうが、そのことも「日月神示」には示されているのです。

その神々の計画の中で、数々の目覚めを体験した人々が今、たくさん出てきているのを私は知っています。
かく言う私もその一人としての自覚はあり、この時代を変えるための命持ちは確かに存在します。
スピリチュアル業界の言い方をするならば、私たちは「アセンション(次元上昇)」の導き手であり、人類の意識的発展を促すべく宇宙から送り込まれたエージェントであります。

この夏至に完成し、今宵の新月から始動する新たな精神の気場を「精神界」と私は呼ぶことにします。
これまで「神世」と私が呼んできた世界は、この精神界の気場を使う人々が神と共に繁栄する時代と位置づけます。
この精神界は、かつて「幽界」と呼ばれていた霊界の最下層が取り払われ、その霊的空間に地球の霊的次元が上昇したことで出現しました。

その霊的な場は「地球意識」に共鳴しやすく、それゆえに地球の神々の意識と感応しやすいのです。
これまで人々は幽界的なエネルギーに依存し、人間の集合意識は低い次元にありました。
しかし、この精神界と接続し、地球意識と同調して思考し活力とする人々は、人間の集合意識とは異なる気場に属して暮らすことになります。

そう言った特殊な感性を持った人々は、今の段階では社会的にほぼ埋もれているはずです。
あまりに意識が高すぎて、これまでの世では根を張れなかった、むしろ根を張らなかった気合いの入った人たちであり、下手に力を持っていないからこそ新しい時代を切り拓く力があるのです。
そう言う人たちがいよいよ動き出し、活躍し始めるフェーズに入って行きます。

この時代に立ち会うために生まれてきて、これまでを耐えてきた人々も多かったはずです。
そして、今を生きる子供たちやこれから生まれてくる子や孫は、新しい時代を生きるためにこの霊的世界を共有していくのです。
全てが光り輝くまでに、いくつの深い闇を通らなければならないのか、それは想像できません。
これから私たちは文明の崩壊を具に見ることになるはずです。それは目も当てられない状況になるかもしれませんし、決して明るいものだけを見ていることはできないでしょう。

しかし、いずれ光に満ちた弥栄の世を作るために、これら神の命を授かった人々の活躍なくして訪れることはあり得ません。
その困難を乗り越えられる魂だからこそ、これからの時代を担っていくのだと思います。


【追記】

ここに「アセンション(次元上昇)概念図」を掲載します。


科学的に言えば、「次元」とは空間的な軸を指し示しており、決して「霊的なレベル」を意味する概念ではありません。
だから「5次元宇宙」と言う呼び方も私としては直感的ではないと感じるのですが、一般用語に準えることにしました。

今の物質次元が空間的に「4次元」であると位置づけ、そこに変更はありません。
霊的次元では上のレベルを「5次元」とし、そこを「霊界」と取ります。
日月神示では神界、幽界、現界という概念になっていますが、私としては幽界は霊界の最下層に位置しており、今はその階層が取り払われて地球霊の気場になっていると捉えています。

幽界の縮退の根拠については、霊能者の話を無闇に信じた訳ではなく、実際に「地縛霊」の減少と共に浮遊霊の増加と、憑依と霊障による生き霊の大量発生を認識しているからです。
実際に私は死んでいる訳ではないので霊界のことは知り得ないのですが、現実界でこのような霊的次元の変化を察するに、幽界で何かが起こっていると考えて間違いないでしょう。

奇しくも、この数年のスピリチュアル業界の話題は「地球の次元上昇」であり、地球霊魂の位相的変化は私自身も体感しています。
ゆえに、惑星規模の気場の変化は間違いなく起こっていると思います。
これらを総合すると、幽界消失と地球の次元上昇は無関係ではなく、幽界の位置に地球霊魂が新たな気場を創出したと考えれば辻褄が合います。

「地球霊魂」とは、言ってみればこの地球の土地それぞれの精霊の霊団であり、私たちが産土神として接する大地の神々との繋がりもある星の集合霊です。
惑星規模の霊団の上昇が「アセンション」という位相変化であり、この霊界の再構築をそう呼んでいたのではないか、と考えています。

ゆえにこの次元上昇は完了しつつあり、その始動の時を迎えたと私は見ています。
地球はこの先も霊的に上昇し続けるかもしれませんが、人間からすれば「精神界=地球意識の気場」の確立をもってアセンションは完了したと捉えて良いはずです。

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「神世」の完成

楽太郎です。

本日6月21日、いよいよ待ちに待った「夏至」が訪れました。
現在の体感ですが、これまでの季節分点で起こるエネルギーの変化は、外部的な流れに合わせるのに苦労することが多かったように思います。
しかし今回の夏至は、感じたことのないエネルギーの変化にぶち当たるというより、今まで捉えようとして捉えきれなかった流れをしっかり掴めるようになった、という感覚に近いです。

ゆえに、すでに自分の中にあった不安定なエネルギーにしっかり乗ることができるようになった、という表現が最もしっくり来ます。
だからこれまでの節気であった「合わせさせられている」強制感はあまりありません。
つまり、これまで半分足を踏み入れていた気場だからこそ、エネルギーの変化に違和感を抱くことはないのだと思います。

日常の中でこの数日、「らしくない」感じの変化を起こしている人も目にするようになりました。
これまでやたら感情的だった人が大人しくなり、少し理性的に振る舞い始めました。
いつもフワフワした短文を書いていたような人が、急に抽象的な長文を書くようになったのを見ました。

これはどう考えても「火」のエレメントの変質であり、要は「形而上学的なエネルギーの強まり」です。
火のエレメントは、純度の高い正の働きをする時に哲学的な様相を持って現れます。
神性というのは哲学的なエネルギーですから、人々の思考の抽象度が高まるのは理に叶っています。

このエネルギーの純度の高さと強度を観察するに、この分点から人々に意識改革が起こって来るのではないかと思います。
これまで違和感に気づきながら、モヤモヤしていた状態から思考がクリアになり、思いもつかない発見やロジックを見出して突破口を開き始める、そんな気がします。

実は、私は春分あたりから何となく「世界線が変わったのではないか」と疑念を抱いていました。
それは私が体感的に神世のエネルギーと触れ合っているだけでなく、2025年問題にあるような不慮の出来事がタイムラインから遠ざかっているような気がしていたのです。

半年前あたりには、崩壊する建物や廃墟、死して蠢く人々など、夢にしろ白昼夢にしろ不穏なビジョンがたびたび見えていました。
しかしこの数ヶ月、ほぼそういう予知は感じなくなり、むしろ別の形でソフトランディングするのではないか、という感覚の方が強くなって来ました。

とは言え、2025年7月問題を否定する要素はありませんし、日月神示では「旧暦9月6日」ということがしきりに言われており、そうでなくても南海トラフなどの自然災害のリスクは依然あります。
ただ感じるのは、神々が「災害やカタストロフで人々を変革する」というシナリオを選ばなかったのではないか、と私は何となく感じています。

この「平和的なエネルギー」は温かく優しい反面、鋭くて強い部分もあります。
少し邪な感情がある人がこの気に触れると混乱するでしょうし、生理的に受け付けない人も中にはいると思います。
けれども、このエネルギーを受け止めることができた人は、おそらく内面から湧き上がる力に押し上げられ、思ってもみない衝動で行動を起こし始めるような、そんな印象を抱きます。

現に、私はどんどん多動になってきており、多動だけど決してやり散らかす訳でもなく、小さいことを一つひとつ片付けながら廻る、という感覚に近いです。
これまで感じていた霊障や憑依は、私がお祓いや自己浄化によって因縁を断ち切る前に、波動が強まって自分の「気」で邪気を抑え込めるようになったことに気づき、少し驚いています。
おそらくこれが、「神世の気場を使う」ということです。正しく神を感じ、神の力が宿るという感じがします。

しかし反面、自分の気が強まりすぎて肉体的になっているというか、逆にスピリチュアル的な部分が感じにくくなって来ました。
これまで、精神的なエネルギーで駆動してきたからこそ、神や霊的感覚を強く感じていました。
ただ神世の気場に入ると、「身体と魂と神性が一つになる」ようで、言ってみれば神様と自分の意識が分離した状態にある必要がないのです。
ゆえに、これまで以上に自分らしくあり自由でありながら、神の意志は強く神の意識の中で行動している、そんな実感があります。

ゆえに、この気場のエネルギーを汲み取る人ほど、神を意識しなくなる気がします。
それは無神論、物質主義に堕ちることではなく、神を宿すからこそ神に無自覚となり、神を忘れながら神の声を聞く状態になります。
だからこそ神を特に意識しなくなり、信仰心や宗教的習慣は相変わらず大切なのですが、それだけに頼ることはなくなるかもしれません。

「神世」という気場が完成し、このエネルギーを降ろして使う人が増えるにつれ、占いや宗教などスピリチュアルな知識に関して無頓着でありながら、優秀な感性を持ったスピリチュアリストが誕生していくことになると思います。
これまで「気づき」をしていた人々がいよいよ目覚めて、覚醒を深化させていくフェーズの中で、神性を取り戻して生き方を変えていく人も増えていくはずです。
私は、この変化はどんなカタストロフよりも世を変える力となっていくのではないか、そう感じずにはいられません。

しかし、これら「目覚める世界線の人たち」に神世の気場が開かれるとして、去年の冬至点以降「目覚めを選ばなかった人たち」がどうなるかは正直わかりません。
これは神々が何度も念押しした確認事項で、いわゆる五次元世界との分岐、日月神示で言う「神と獣の道」で破滅的な方をあえて選んだ人々を神々はどうするおつもりなのか、人間である私には図りかねます。
ただ神様がなされることには無駄がないので、やはり何かしらの意味があるのだろうと思います。

私が長らく戦ってきた憑依と霊障は、ここ数ヶ月の話ではなかったのです。
生まれてこの方、憑依から抜け出せたことが殆どなかったと言っていいくらいです。
そこで襲う憑依体は、明らかに「神に仇なす者たち」の部類であり、私を苦しめてきた霊団が現在の人間社会を作り出した者たちと同一存在なのは確信しています。

彼らの支配する「お金とモノ」の世界は、単純な幸福のメカニズムでありながら、精神的な豊かさを否定し神を無きものにする思惑がありました。
人間は「細胞で作られたロボット」であり、魂など存在しないからこそ神も存在せず、あらゆる精神的事象も物理現象であり、科学的処方で全てがコントロールできることにしたかったのです。
そうすることで医療や製薬、果てには電脳の分野で人間を金づるにし続けることができます。

人間の精神活動も肉体活動も、全てを「消費活動」に結びつければ、人生を通じて経済システムの歯車として搾取し続けることは可能でしょう。
これが「神に仇なす者たちの計画」であり、私たちはまんまと術中にハマっていたわけです。
あらゆる悩みも、自分らしく生きられない苦悩も、「人間はお金を稼ぐ生き物である」という思い込みと幸福への義務感から生じてきたのです。

ただ、それも間もなく終わりを迎えます。
金融を主軸とした経済文明は全世界で修正不可能な状態に入りつつあり、少なくとも3年以内に世界経済の中心にあるアメリカは崩壊するはずです。
私は、我が国に自然的なカタストロフが起こらずとも、日本という国家の傘となり柱となっているアメリカが崩れることの影響の方が決定的なのではないか、と思っています。

ゆえに近年スピリチュアル業界を騒がせてきた「2025年問題」は、カタストロフと変革による立て直しを矮小化している印象を拭い去れませんでした。
現実的にこうして未曾有の変化が予測できるのに、いつ起きてもおかしくない自然災害や食糧危機にばかり気を取られるのもおかしな話だと思うのです。
仮に、iPhoneが使えなくなるとかGoogleがサービスを停止するとか、そう言った具体的なことが起こる可能性もありながら、そうなった場合のことを考えている人はあまりいません。

神世の気場はかつて「幽界」と呼ばれていた、霊界の最下層を払拭して新たに作り出した波長の高い霊域です。
地球が次元上昇することで、現界と呼ばれる物質次元は霊界により近い場所に位置することになります。
神々がこの気場を作るために幾年もかけて幽界を整理し、世の邪気を浄化し続けて来ました。

私自身もそれに参加して気場を作り上げてきたのは、人の世を形成する「神に仇なす者たち」の領域を削り取っていくことを意味しました。
そして、その気場がいよいよ完成したということは、神々のご計画は寸分違わず遂行され、古い秩序が滅び新たな世界が生み出されることを意味します。
つまり神々の奪還であり、神に仇なす者たちの退却です。

私は、ずっとこの時を待っていたのだと思います。
これまで何十年も耐えてきた日々は、この時を体験するための準備だったのでしょう。
何の因果かはわかりませんが、私は使命を持ってこの時代に立ち会うことになっていたようです。
私の半生はかなり酷いものでしたが、それも報われる時に来たのかもしれません。

私は、私をこれまで苦しめてきた人や目に見えないものに対して、滅べばいいとは思っていません。
全ては神々より大いなる神のご意志であり、悪も闇もその一つの役割を演じてきただけに過ぎないことを理解しているからです。

むしろ、わかりやすい形で滅ぶよりも、気づいて改心し、反省しながら余生を淡々と生きてくれれば良いと思っています。
彼らの行いに対して懲らしめられるべきとは思いますが、滅んで欲しいと願っているわけではありません。
彼らのことは大嫌いですが、私としては嫌いな部分がなくなればそれで良いのです。

私はやはり、人間というものを放って置けません。
人間たちは私をコテンパンにしてくれましたが、私の頼りにする人も大切な人も、皆同じ人間です。
その愛憎の中に生きていることが人間である証であり、人間である以上は彼らのために生きることになるのです。

人間は嫌なところも沢山ありますし、正直疲れます。
けれど、人間に嫌悪しながら、それでも愛してしまうのが私の人間たる由縁です。
そんな彼らのために生きることが私の使命であり、また神様もそうするように願っているように思えてなりません。

なぜこんな運命を背負うことになったのか、一生かけてわかるものでしょうか。
ただ一つ言えることは、そのうち報われる予感がするのです。
それがどんな形なのか分かりませんが、決して悪くはならない、そんな気がするのです。

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「お祓い」とは何か

楽太郎です。

6月21日に太陽が蟹座に入り、夏至となります。
それを前にしてか、本日17日には火星が獅子座から乙女座に入ります。
火星は昨年11月4日に獅子座に入り、12月には逆行となりました。戦いの星である火星が獅子座に入る時期は、「闘争や自己表現」がテーマとなります。
それが6月17日あたりで滞在を終えます。

奇しくも、先日11日の満月を境にエーテル体と神世の気場が接続し始めたのを体感してから、憑依による霊障が遠のくのを確信しました。
しかし、それに比例して悪意の密度が高まり、憑依としては高度な対応が必要になって来ました。

思い返せば去年の火星獅子座入りあたりからスピリチュアルな話題に目覚め、その時期あたりから「神世」という概念を意識して色々と学び、実践と自己浄化に取り組むようになりました。
そして、絵も言われぬ謎の霊障がその頃から付き纏い始め、不調の中で内省を極める過酷な日々が続きました。

生霊だけでなく呪いによるものや、悪霊よりも大きな力を持った存在、あらゆる憑依を体験しました。
今考えればこれも私に課せられた修行の一種だったのでしょうが、この憑依との戦いも火星乙女座入りを気に終わるかもしれません。
というのも、一昨日からかなり類を見ない霊障に襲われて、それを振り解くには新しいアプローチを試みなければならなかったからです。

これらの霊障が顕著になった昨年末の火星獅子座入りと、12月21日の冬至点とは無関係だったとは思えません。
神世への選別が始まったのと同時に苛烈化した霊障は、やはり次元上昇を妨げる目的があったのだろうと思います。
そして、火星獅子座期が終わる頃に急に熾烈になった憑依は、おそらくこれが「最後の山場」なのだろうと思います。

今回がなぜか「最後」だと思う理由は、この憑依を呼び寄せている原因が何となくわかったからです。
それは、私の中に幽界の存在を引き寄せる「幽界的観念」があるからであり、つまり私に「悪意」があるということです。
人の不幸を望み、破滅を喜ぶような浅ましさが私の心にあるからこそ、悪魔的な存在を引き寄せてしまっていたのです。

魂が同じ性質によって引き寄せられることを、スピリチュアル的には「エーテルコード」と言いますが、日月神示的な言い回しで「霊線」と呼ぶことにします。

私の心に「何かを憎む心」があるから、その憎悪に幽界的存在が感応し、魂の霊線を辿って憑依が可能になるのです。
この「霊線」を断ち切ってしまえば、原理的には幽界からのアプローチを止めることができるはずです。

そのためには、私の心にある「幽界的部分」を浄化し、つまりは憎悪や悪意を私の心から消していくことです。
ただ、このレベルの手放しは一朝一夕でできるようなものではありません。
それでも、この霊線が私の心に残り続ける限り、いくら魂が神世にあっても憑依は続いてしまうのでしょう。

私は、この憑依に関して基本的に間違った認識をしていたようです。
憑依に対して「祓い」を行う時、その感覚は「除霊」に近いものでした。「祓法によって邪霊を払い除けよう」とすることは、そこに敵愾心をどうしても発生させてしまいます。
自分の身体の不調も精神的な不安定さも、「邪霊のせいだ」と思えば思うほど、幽界的存在との対立を深める要因になっていたのだと思います。

要するに、私が霊障を問題視して憑依を邪魔なものとして認識するから、延々とやり合うことになるのです。
それはむしろ幽界側にとっては望ましい状況で、互いにやり合っているうちは私の覚醒や進行を妨害することができるはずです。
だから、この関係を断ち切るためには、私が常日頃から抱いている私自身の攻撃的な欲望をよく内省する必要があったのです。

私が常日頃から抱く「腹立たしさ」の正体は、単に「悪を憎む心」にあります。
あらゆる不正や欺瞞が横行し、それを取り締まる気配も希薄で、人々がその状況を黙認していることへの怒りです。
先日の「怒りを捨てるな」という記事でお話したように、この怒りの感情も浄化して正しい動機にするなら全く問題はありません。

しかし、「浄化できない怒り」というのが問題で、例えば目の前を歩いている人が突然ゴミを投げ捨てるとか、人に罵声を浴びせているのを目撃するとか、そういった直感的な怒り、感情として自然に抱いてしまう怒りをどう処理するのか、という課題が依然として残り続けるのです。
その「何かを悪として憎む心」が自分のエゴイズムから発生するならば、自分自身を内省し浄化していく必要があります。
究極的には、「悪を悪と認識しない」レベルまで意識を持って行ければ、悪に対して過剰な憎悪を抱くことはなくなるでしょう。

ただ、考え方として悪の存在がこの世にあるべきシステムの一部であるにしても、その悪を完全に許し切れるのか、あるいは悪事がもたらされたことに感謝し、「悪事に対してありがとう」と言えるほど達観できるのか、という現実的なハードルをどう考えたら良いのでしょうか。

思い返せば、女子高生を拉致して監禁しレイプして暴行死させた上、遺体をコンクリート詰めにして沈めた少年グループ、ある会社に侵入してガソリンを撒いた上に火を放ち、逃げ惑う人々を刺して数十人を犠牲にした男、この有様をどうすれば「悪業を行ってくれてありがとう」と考えられるのでしょうか?

私はこれを思う時、悪は滅するには生温いとすら感じますし、できれば永遠に地獄の炎で焼かれて欲しいとすら思います。
しかし、それを人間の感覚ではなく宇宙や神々の視点で考えるならば、「これも世の摂理としては必要なことだった」と言えるとしたら、これらの出来事はどう解釈したら良いのでしょうか。

常々、人を貶め暴利を貪る連中ばかりが表通りの真ん中を歩くような、不条理極まりないこの社会を私は苦々しく思って来ました。
ただ、これも神々が「必要なプロセスだ」と仰るのだとしたら、その意味を考えてみたいのです。

私はこれを考える時、「水槽」が頭を過ぎります。
今、この社会において「ホット」なのは、権力とお金とステータスを持ち、軽快に生きる人々です。
彼らは物質や目に見える価値観に対して非常に強いパッションを持っているからこそ、この弱肉強食の社会を勝ち上がってこれたのでしょう。
彼らが水槽の中にある「熱湯」なのだとしたら、温かい水ほど軽いので水槽の上層部に溜まります。

彼らのようには物質主義の競争社会を勝ち上がれなかった人々は、温度が低い分底部に沈み滞留します。
それが世に言う「勝ち組負け組」であり、これは水槽の上澄の人々が名付けた仕組みです。
この上層に上がるために、私たちはこれまで目に見える価値観を追い求め、ステータスを必死で手に入れようとして来ました。

しかし、それほど単純な世界ではないのです。
水槽の中も循環し、高温と低温の水、淀んだ水と澄んだ水、色のついた水と透明の水、様々な水質が同じ水槽の中にあります。
私たちが社会を認識する時、この水槽全体を俯瞰してものを考えることが殆どできません。
どこかの位置の水を抽出して、そのサンプルを複数揃えて分析するに過ぎないのです。

そして「悪」とは、この水槽の中で最も淀んだ熱い汚水に宿るものであり、それがある時に別の水域へ紛れ込んで禍事を起こすのだと思います。
ただ、それは水槽全体で見れば、一定量の淀みの中で特に高い濃度の汚水であるだけで、その水が水槽の淀みを吸収している分、他の水質はクリアでいられるのです。

確かにこの汚水が清浄な水に流れ込めば、そこに悲劇を見出してしまうでしょう。
しかし全体で見れば、いずれ「起こる可能性がある」現象であり、そこで起こらずとも別の場所、別の形、別のタイミングで起こったはずです。
ゆえに、俯瞰した視点で考えれば混沌とした現実世界において、全く理不尽なことが起きるのも世界のバランスの中では必然とも言えるのです。

私たちは、こういった悲劇を繰り返さないために啓蒙活動をしたり、社会保障を作ったり法律を変えたりしますが、未だ犯罪そのものを撲滅することはできません。
「悪」という水槽の中の不可分な「淀み」を全て攫い出し、綺麗な透明の水だけにすれば平和的理想の社会が実現すると人々は考えます。
しかし、水は自ずと変質していくものであり、どんな清水も淀めば腐ってしまうのです。

こう考えると、「悪」とは必然的に存在してしまうものであり、必要悪こそが悪そのものとも考えられます。
従って、悪人や犯罪は確かに許しがたいものであっても、その個人的感情から上の視点に立ち、全体から意味を考えることこそ大事なのだと思います。

これが人だけでなく、悪霊や邪気といった類の存在もこの世界のシステムの一部なのだとしたら、その働き自体はこの世に必要なものでしょう。
例えば、私たちが全く身体を気遣わず適当な生活をすれば、いずれ風邪を引いて身体を壊すように、この世にウイルスが存在するから健康に気を遣うようになります。

同じように、マイナスの働きがあるからこそマイナスがあることに気づき、気づきがあればゼロに戻そうともプラスにしようとも考えます。
「悪」とは、バランサーの方側を受け持つ存在にしか過ぎないのではないでしょうか。

私は憑依に気づいた時、「祓い」によって悪霊や邪気を遠ざけようと考えていました。
しかし、祓っても祓っても終わることのない憑依の中で、本当に祓わなければならないのは「自分」だったことに気づいたのです。
私が憑依を払い除ければ済むと思うことは、自分は清浄な存在で何も悪くなく、霊障を受けるような心当たりも責任もない、と考えているのと同じです。
その考えにこそ「悪」が宿り、それゆえにこの「悪心」を断ち切らなければ根本的な祓いにはならなかったのです。

神仏に「祓い」を祈願する時、自分の外側にある厄や邪気を何とかしようと考えがちですが、本当の祓いとは自分自身に対して行わなければならないのだと思います。
自分に疾しさがあるから、その霊線を辿って疾しい存在が近寄って来るのです。
それならば、自分の疾しさそのものを浄化すれば、その霊線は断ち切れるはずです。

ここまで考え至り、私はこの世の「悪」に対してどういう感情を持てば良いのか、見えてきた気がします。

よく考えれば、神道の「祓い」も仏教の「供養」も、煩悩や邪気を浄化することで心を平穏に保ち、幸せに生きるというテーマは同じです。
それは死霊だけでなく、今を生きる自分自身の心にも大切なことです。
浮かばれぬ感情や念によって起きる執着は、肉体があろうがなかろうが手放しが必要なものであり、それゆえに祓い清められることで浮かばれるのでしょう。

日月神示にある「悪を抱き参らせる」とは、悪意への供養、救済であり、世界の罪穢れを請け負った存在に対する癒しなのだと思います。
それこそが「悪との和合」であり、悪を滅ぼす悪にならずに悪を善とする実践となるのです。

「供養こそが救済」と言う考え方において、神道も仏教もほぼ一致します。
それゆえ、飛鳥時代に仏典が日本に伝わった時、神道との共存が図られたのは宗教的目的が一致していたからかもしれません。
神道の究極の目的は「祓い清めによる救済」であるからこそ、人間は真の幸福のために魂の浄化を神々に促され続けるのです。

だから私は、少し時間はかかるかもしれませんが、この怒りをコツコツと浄化していくことにしました。
人の揚げ足を取りたくなるのは性格ですし、その性格の悪さが傍若無人な批判癖に繋がっているとも言えます。
この頑固さが悪を作り出し、私の心に憎しみや怒りを生み出しているのだとしたら、本当の原因はここにあるのです。

いつかこの感情を祓い清められた時、目の前で起こる悪事に達観しながら、「ありがとう」と言える境地にも至れるのかもしれません。
そこまでできたら仙人か神様の領域ですが、いざそうなってみるのも面白いかもしれません。

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満月とアセンション

楽太郎です。

本日、6月11日は満月です。
ここ数日、自分のエネルギーがはっきり塗り変わるのを感じていて、この変化と憑依の影響も混ざり合いコントロールが難しい状況が続いていました。
ただ霊障を突き崩すようなフィジカルなエネルギーの湧出が、「血の気」と表現しても良いくらいの生命力となり行動が活性化しています。

どうやら、新しい次元に完成しつつある気場からエネルギーを降ろすには、肉体レベルでの次元上昇が行われる必要があったようです。
通常、肉体は三次元空間の縛りを受けていますが、身体を取り巻く霊体の層は少し上の階層にあります。
スピリチュアル用語で「エーテル体」「アストラル体」と呼ばれる魂のレイヤーに当てはまるのですが、この時期にエーテル体と神世の気場との接合が行われているようです。

私はここ数週間、下手すると何年か憑依と霊障に付き纏われてきたのですが、憑依による別エネルギーを分別できるくらいには客観視できるようになり、その邪気と精神的に距離を取ることで霊障から離脱しやすくなっていました。
しかし、やはり憑依を外すと自分の霊体にダメージが入ったこともわかり、ただ次々と憑依されるためエーテル体の修復が間に合わず、常に魂のレイヤーが損傷している状態が続いていました。
ただエーテル体が次元上昇することで、憑依体の影響範囲、憑依の波長範囲を切り抜けつつあり、それゆえ霊障もかなり収まってきたのです。

肉体が三次元にあるのは変わらないので、仮に殴られたら痛いのは同じなのですが、身体霊が神世に移行したことで憑依体、いわゆる生き霊や浮遊霊の類とは違う霊的空間に入ったのだと思います。
つまり、彼らの干渉範囲とは別の気場にあり、影響の及ぶ周波数帯から離れたため、肉体レベルでの影響が弱まってきたと言うことです。

この時期に「エーテル体の次元上昇」が起こるということは、私が6月21日を持って神世の気場が完成すると予見していた事象が現実味を帯びて来ました。
私自身、ここまで具体的に体感するとは思わなかったのですが、それがまさか霊障の緩和として現れてくるとは予想外でした。
実際、何年か前の体調感に戻ってきましたし、身体のエネルギーの流れが自然になった感じがします。

ここ数週間は、憑依の影響もあって過去のトラウマと長らく戦っていたのですが、憑依体は過去の記憶を思い出させることで人世への執着を促していたのだろうと思います。
この憑依体は悪魔とか悪霊とか一言で言えるような単純な存在ではなく、「これまで人の時代を作っていた者たちの霊」と呼べるものです。
善にも悪にも役割があり、彼らは「物質中心の世を作る」という正義を貫いてきた霊団であり、その手段として神仏や精神性を否定する世を作り上げて来たのです。

だから、霊的に覚醒をしてこれから精神性の高い時代を作っていく、神の声を聞いて働くことのできる人々の気場「精神界=神世」が完成すると、古い時代を形成してきた幽界的存在の居場所がなくなります。
それゆえ、ここ数ヶ月は特に覚醒と浄化を志す人々への妨害が絶えず、あらゆる形で強い干渉があったのは、新しい意識層が霊界に作られるのを阻止するためだったのでしょう。

人間不信、トラウマ、誘惑、チャンス、誤信、トラブル、事故、懐古、情け、裏切り、罪悪感、同調圧力。
誰にもある心の弱いところに付け入って、そこに気持ちが囚われるようでは目覚めや手放しは進みません。
これが「邪気」の働きであり、このトリックを自己反省の中で見破り、自ら手放しと浄化をした人だけが上昇していくことができたのです。

だから、少し気を休めると潜り込まれる危険があり、私はこの緊張感から全く落ち着くことができませんでした。
誰かに依存していたらその人自身が道を外れている可能性もあり、それゆえ疑心暗鬼に駆られながら唯一信じられる、信じなくてはならないのは神仏だけであり、私はその信仰心一つでここまでやって来ました。

私が誰よりも幸運だと思うのは、瀬織津姫命への格別の信仰心というか、恋慕に近い感情と謎の忠誠心があったことです。
この感性は誰にも共有しようのないもので、独特の観念であるがゆえに厳しい中を乗り越えて来れたのだと思います。

ただ、今こうして一瞬楽になったからと言って、これからも楽だという保証はありません。
夏至に神世の気場が完全に開かれれば、全く違う生き方を始める人々もいるはずです。
そこは前人未到というか、人類が足を踏み入れたことのない精神的領域であり、この先は何があってもおかしくないでしょう。

日月神示によれば、この領域に足を踏み入れた者を「神人」と呼び、「臣民」に対する「役員」という表現をしています。
「神人」とは、私がこのブログで当初から扱ってきた「現人神」のことであり、ついに生きながら神を目指す人々が誕生することになります。

人間が「神」になるということは、人間が目を塞ぎたくなることにも目を向け、感情に囚われず神の目で神の力を使うことを意味します。
それができる人間はおそらく一握り中の一握りで、それがあまりに過酷な試練であるからこそ、脱落することも容易にあるはずです。
「神人になることが目指せる時代になった」というだけで、実際に現人神が雨後の筍のように生えてくるわけではないと思います。
それはそれで、新しいハードルがまた生まれたということなのではないでしょうか。

この満月に至るまで、人々が妙な落ち着きを持ち始めているのを具に見ていました。
多くの人々が何かを「覚悟」したというか、安心感にも近い静謐が世にある気がします。
それはまるで判決を待つ被告のような、沈黙の中の静けさに近いような印象です。

おそらく、魂の次元では自分の将来が目覚めと神世にあることへの安堵感、反対にこれから修羅の道を歩むことになる未来への覚悟、その二つの感情が漂っているように思えてなりません。
やはり春分を機に、人々の深層意識はかなりの変化を迎えたのだろうと思います。
私は誰かを見て「この人は神世の人だ」とはっきりわかることはありませんが、それぞれの魂の選択は自分だけが深いところでわかるものではないでしょうか。

私自身も含め、誰が救い確定で誰の下に集まっていけば助かる、みたいなことは誰にもわかりません。
確かに波長の低い人はそのまま負のスパイラルに陥っていく可能性は高いですが、深層心理や魂のレベルはそう簡単にわかるものではないでしょう。
反対に、今キラキラした波長を放っている人がずっとそうであるとは限らないわけで、やはり安易に見分けられはしないはずです。

その因果を握っておられるのは今や神々であり、自分に疾しいことがあれば相応の結果が返って来ることは誰しも覚悟しなければならないでしょう。
これからカルマの精算が人々に求められるのであれば、その過去の行いを自分以外に知る存在があるとすれば、神々だけです。
ゆえに個々人にそれぞれ違う現象が降りかかる、そんな不確定な世界線に私たちは突入しています。

特に、今ある絶対的な権威や正義を司る者が、神々からどう見えているかなど人間には測りかねません。
だからこそ、人やモノや組織に依存せず、自分自身の力で生きていけるように神々はずっと促して来られたのです。
その不安と混乱の時代だからこそ、自分を信じ目に見えないものを信じ、神仏を信じ抜くことが求められているのです。

近いうちに記事に書こうと思いますが、そう遠くない将来、私たちが今当たり前に使っているモノがどんどん消えていくことになるでしょう。
その世界で人やモノや組織に依存していたら、おそらく心が持ちません。
そうなる前に、目覚める人から先に進むべきなのだと思います。

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新しい世界の「場」

楽太郎です。

来週から木星が蟹座に入るなど、星の巡り的にも強いスクエアを組み始めて物事の流れが変わる印象があります。
奇しくも6月11日の満月に向けて人々の集合意識が強固となり、同時に幽界の影響力も極大化しているように思えます。
これは夏至に向けて新しい気場が形成されつつあるためであり、この気場が完成するとそのエネルギーを人々が降ろして使えるようになります。

その気場を私は「神世」と呼んでいます。

これまで幽界と呼ばれていた5次元の霊界層は、ここ数年で大幅に縮退しました。
その空いた空間に新しい周波数帯の層が作られ、これまで霊界は人が肉体を離れなければ干渉できない世界でしたが、私たちの住む次元が1次元上昇したことで、生きながらにアクセスできる霊界として立ち現れてきます。

その周波数帯はかなり抽象的で、より根源的なエネルギーと相性の良い気場です。
従って、ある程度浄化された魂にとってはホームグラウンドのように闊達に立ち振る舞えることでしょう。
しかし純粋な精神の場なので、ノイズとなるような波長は弾き出されます。

現在の人間界にはノイズが多すぎるため、この雑念を取り払わなければ純度の高い周波数帯にアクセスすることはできません。
そのため、ここ数年は地球の次元上昇と共に人間界には気づきと浄化が促されてきたのです。

この計画を主導されてこられたのは、私の認識では日本の神々なのではないかと考えています。
ただ、日本の神々だから外国に干渉していないとかいう訳ではなく、日本の神々が外国では「天使」とか「宇宙人」とか、そう呼ばれながら働かれているような気がしてなりません。

都市伝説的に日本は「世界の雛形」という話がありますが、実際に我が国は世界でも類を見ない古い文明史を持つ土地にあり、精神文化として卓越した風土にありました。
日本の「大和」という精神は、グローバリズムや多様性などの小手先のレトリックに止まらない、「あなない(助け合い、和合)」の概念にあるからこそ、今の混迷を極める世界情勢にあって大きな役割を果たせるのです。

その精神の復活と、神々の働きは連動しているように思います。

完全に袋小路に入った文明社会から人々は救い出され、新たな歴史のフィールドに乗ることで人類は存亡の危機を免れるでしょう。
しかし、そのためには世界の構造そのものを変える必要があり、それは決して人間の自助努力でどうにかなるレベルにはありません。
それができるのが神々しか存在し得ないからこそ、今こうして霊界を巻き込んだ変革が起こっているのだと思います。

この新しい気場は、元は「幽界」と呼ばれる霊界の最下層の跡地に作られた訳ですが、そもそも幽界は元々あった次元ではなく、人間が霊界に上がる準備場として自分たちで作り上げた階層であったそうです。
つまり人間の思念、霊体が作り上げてきた世界であり、新しく作り替えられる際にはこの層が取り払われ、それが縮小すると同時に中にいた不浄霊が地上に流入してきました。

それがここ四半世紀に起こった世界的混乱の理由なのだと私は推測します。

特に世界を牛耳るアメリカが特筆して変調をきたしたのが9.11同時多発テロ以降であり、これが起きたのが2001年です。
そして、この頃から声高に叫ばれるようになったのが「グローバリズム」であり、このアメリカ主導の国際秩序に我が国が追従したことで、より日本は衰退への足を早めてしまいました。

これまでの世界を作り出してきた金融中心の文明社会は、18世紀フランス革命を機にロスチャイルド一族の影響下で発展してきました。
近代ヨーロッパの動乱を皮切りにアメリカ大陸に押し寄せた西洋人は、現地住民を殺戮し辺境に追いやり、プランテーションのためにアフリカ諸国から多数の奴隷を集めました。
この国は歴史の汚点を引きずり現在もなお有色人種への偏見が強く、その差別観は経済的な格差として如実に現れています。

この非人道的とも思える歴史を持つ国が、我が国日本が宿主としているアメリカであり、その関係に依存し続けたからこそ現在の日本がこの有様になっていると言っても過言ではありません。
そもそも日本人は縄文時代に大陸から渡ってきた渡来系民族と混血し、弥生時代以降も渡来文化を受け入れ多様性を伴い発展してきた民族ゆえ、民族浄化の歴史は確認できず、やはり諸外国とは異なる精神風土があるのです。

日本は神々との関係が深い国でありながら、幽界の干渉の強い国家の影響を受け入れたせいで、神々との繋がりをほぼ失ってしまいました。
かつて神の住まうとされた山々や土地が、不動産として外国人に売り払われ、ソーラーパネルで埋め尽くされ重金属汚染を引き起こし、日本人が代々守ってきた土地は尊厳を失っています。
これを数千年、「産土神」として人間に祀られてきた大地の神々が黙って見ているはずもなく、この状況を引っくるめての大変革が起ころうとしている気がしてなりません。

私は最近、憑依の規模が日に日に高まっているのを感じているのですが、その強度を推し量るとやはり終局が近いのだろうと思います。

アメリカ経済はトランプ大統領の暴走を抑え込むのに必死ですが、相互関税政策の推進を抑制している間はダウも高値で安定し、見せかけの繁栄を示すことで外貨を呼び込んでいます。
しかしトランプ関税発表以降、米国株と米国債は連動して上下するようになり、これまで「株価が上がれば国債は下り、国債が下がれば株価が上がる」という投融資の逃げ道がなくなってしまいました。
それゆえ、現在の米国債はベア(弱気)相場に突入しています。

アメリカへの投資が懸念を抱かれることにより、円キャリートレードなどでドルを買っていた外国人投資家がドルを売って他国通貨を買い戻すようになると、ドルも値下がりします。
そのため、アメリカ経済はドル安株安国債安のスパイラルに陥り、しかも金利の上昇はより国債価格を下げることになります。
それゆえ、トランプ大統領がFRBのパウエル議長に高圧的に利下げを要求しているのですが、これは高いところから水が流れている事象に物申しているだけに過ぎません。

従って、アメリカ経済は完全に奈落の底に落ちるシナリオに突入したと断言できるでしょう。
世界経済を牛耳るアメリカに追従する日本は、このままでは共に奈落の底に引き摺り込まれます。
残念なことに、この悪しき予定調和を打ち破れる人材は、まだ我が国には一人もいません。

金融経済の世界は、完全に幽界的存在の影響を受けています。

私はそれを、「人世」と呼んでいます。
これまで西側諸国の文明を支配してきた幽界的存在は「お金」という概念によって人類を支配してきた者たちであり、その思惑と人間の欲望は非常に相性の良いものでした。
このシステムが人々を支配し、人々の目的であり幸福の指標とし続ける限り、人間は本来の性質を発揮して自由に生きることはできません。

そして、このシステムが終わりを迎えつつある今、その背後には世界のバランスを元に戻そうとする神々の働きがあります。
そこには日本の神々だけでなく、どうやら各大陸の各地の産土神、人々が「精霊」と呼んでいた存在も活動しているように見えます。
そして、その主導的役割を演じているのが日本の神々であり、我が国の総氏神であられる天照大御神の御働きであります。

日本の神々がこの宇宙的大変革において重大な役割を果たしていることは、私たち「日本人」の使命も大きいということです。
奇しくも、近年はスピリチュアルブームがあり、若い人でも神社に関心を持つ人が増えました。
そして、世界でも突出して優れた精神文化を擁してきた私たち日本人は、この新生した気場に最もアクセスしやすい立場にあるのです。

今こそ、日本人はこの世界の疑惑に気づき、その仕組みから一歩離れて世界を俯瞰し、己の心と向き合う時です。
そこで自分の魂に目覚めた日本人は、新しい時代のエネルギーを手にして、新しい世界の礎を築き始めることが可能になるはずです。

これから「目覚め」を体験する人々は、覚醒の世界線をこれまでの人生で選んだ人たちです。
それゆえ、これから起こる出来事は自分のカルマの延長であり、その気づきと学びの中でより魂を磨ける人たちです。
神々はその人々を祝福し、これからの未来を応援することでしょう。
そして、次の世界はそうした人々が中心になることを、神々は望んでおられるのです。


今回は、当初に書こうと思っていた記事の内容とはどんどんズレていったため、何となくスキゾチックな文章になってしまいました。
とは言え、テーマとしては一貫しているので無意味な内容ではなかったと思います。

今、霊的な妨害が激しく体調を整えるだけでも大変ですが、神様からのお役目も別のところであったりして、なかなか絵が思うように描けません。
最近、面白いアイデアを思いついたので少しずつ進めています。若干ビックリされるのではないでしょうか。

続報にご期待下さい。

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僕が僕であるために

楽太郎です。

6月11日には満月、21日の夏至を控え、いよいよ神代の気場が整いつつあるのを実感します。
同時に人々の労働意欲が形骸化し、動機となるエネルギーの部分が空洞化して希薄になってきたように見えます。
そして気場の完成を阻止しようと、これまで以上に霊的な妨害が激しくなっています。

神代の分岐点から「邪気」は認識しづらくなっていたのですが、そのネガティブな波動は「憑依」という形で襲ってきます。
邪気は肌感覚に近い部分で影響を感じていたのですが、憑依はより内面的な影響をもたらしたりします。
突然悲しくなったり、何の根拠もなくイライラしたり、自分の通常の波長をしっかり認識していなければ、この影響を見極めることができません。

私が憑依の影響を最も強く受けるのは、睡眠中です。
人間はスピリチュアル的に言えば、睡眠中に「魂の里帰り」をすると言われています。
魂が高次元に一旦戻り、意識の調整を行っている間は肉体がガラ空きになることを意味しますが、そうである以上に意識が働いていなければ霊的な防御は弱まるでしょう。
つまり、魂との繋がりが最も薄くなった睡眠中を見計らって、悪鬼悪霊の類が身体を乗っとろうとして憑依しに来るのです。

だいぶ前からブログにも書いていたのですが、睡眠中に人間の「集合意識」に潜り込む夢を頻繁に見ていました。
その夢は、行ったことのない街や店舗、廃墟などをひたすら巡るという夢で、棚の商品の種類も鮮明に思い出せるほど具体的です。
そこには全く象徴性も過去の記憶との関連もなく、ひたすら別の世界の街並みを旅するだけの内容です。

この夢を見た次の日には、決まって身体が動かないほど痛く、全身の筋肉が硬直しています。
私はこれをずっと自律神経失調症とか、副腎疲労とか思って医学的な対処をしていたのですが、最近になってこれは霊障だと気づきました。

私が就寝中に憑依を受けている間、その憑依体とは霊的に繋がるために記憶やビジョンを共有していたのだと思います。
つまり、私に対して憑依してきた霊体とは人間の集合意識、つまり「人世」そのものだと言っていいと思うのですが、その奥にいるのは人世を作ってきた幽界の存在、人々の集合意識を支配してきた闇の存在です。

私がこうして寝込みを襲われるのも、新しい時代の創造を妨げるためであり、神代の実現を阻むためです。
現に異常な霊障を抱えるせいで、仕事はおろか日常生活すら支障をきたす状態にありました。
ただし、この憑依にも一つメリットはあって、毎日コツコツ憑依を取り除くたびに少しずつ霊力と霊的直感が向上するのです。

このブログを始めの方から読んでいただくとわかるのですが、最初の頃はスピリチュアリズムを聞き齧ったレベルで何となく書いていたのですが、どんどん具体性が上がり内容も実感を持つようになりました。
それは私が神代に上がるために自己浄化と探究を続けてきただけでなく、憑依と霊障を取り払いながら霊的覚醒を積み上げてきた軌跡とも言えるのです。

この半年間は特に、現実的には悩みの原因となるようなしがらみを積極的に手放し、むしろどんどん悩みや不安から解放されていくはずが、霊障による不調は逆に増えていきました。
憑依は魂のレベルでプレッシャーとなり、また神代に上がれないかもしれない不安や焦燥感も相まって、自分の意識の及ばないところに常に軸足を置いている感覚がありました。
そのため、何となく日常に空白感があるというか、現実に気持ちがない状態がずっと続いていたように思います。

この私の感覚や思想は、おそらく他のスピリチュアリストとは相容れない部分も多いと思います。
私自身、スピリチュアル業界や界隈の話題には全く関心がなく、あまり積極的に調べたいとも思いません。
スピリチュアリズムとは「実践」であり、直感を信じて生きる道そのものだと考えているからです。
だから、業界的な常識よりも知的好奇心とか、理論的な価値に重きを置いています。

ゆえに「自分はなんか違う」という感覚は常にありますし、「間違っている」と思われることも多分にあるのだろうとは感じています。
しかし、スピリチュアリズムとは「内的探究」そのものであり、自分の主観で全ての事柄が説明でき、その実践でより良く生きられるならばそれで良いと思います。
不安になることもままあるのですが、だからと言って納得がいかない概念や説明を腹に据えるのは難しく、だからこそ腹落ちすることが大切だと思っています。

あらゆるスピリチュアル的な議論において、批判の目を向けられるならば私も批判の応酬をしたくなる気持ちもないわけではないです。
ただ極論を言ってしまえば、人間風情がどう目覚めようと高次元の存在からはどう思われているかを完全に把握する術はありません。
つまり、私たちが何が正しい、間違っていると議論したところで、神様からすれば「全部違う」と思われている可能性もゼロではないのです。

だから、スピリチュアリズムにおいて客観的な真実性や証明というのはほぼ意味をなさないのではないか、と私は思います。
客観的に全てが法則的に説明可能ならば、それは「科学」です。科学は唯物史観であり、唯物主義はスピリチュアリズムの対極をなす存在です。
ゆえに、スピリチュアリズムの定義から考えれば、あえて主観的で独断専行でも問題がないのです。

私たちは、自分が勝たなければ正しいことにならない、と錯覚しがちです。

「僕が僕であるために」という尾崎豊の曲があります。
その中に「僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない」と歌詞にあります。
昔はこの曲を聴いて、世間の同調圧力に抗わなくては自分が飲み込まれ、自分らしく生きるためには力をつけなくてはならないと思い込んでいました。

ただ今考えれば、同調圧力と戦っている時点で圧力勢力と同じ価値観を共有しているわけで、つまり同じ穴のムジナだから争う必要があるのです。
「問題は同じレベルでは解決しない」とはアインシュタインの言葉ですが、問題意識のレベルを一段高くしてみるとあっさり解決の糸口が見えてしまう、というのはよくある話です。

私が思う「僕が僕であるために」一番大切なことは、「争わない」ということだと思います。
つまり、戦わなくては自分でいられないような状態から抜け、戦わなくても自分でいられる状態を作り出すことです。
戦っても戦わなくても、勝っても負けても自分でいられる方法を探すのがベストなのではないか、と私は思います。
そして、勝たなければ手に入らなかったものも、戦わなくても手に入る方法を探せばいいのです。

「戦わずして勝つ」とは孫子の兵法ですが、戦えば確実に何らかの損害は被るので、できる限り戦わないに越したことはありません。
それでも守るべきものや得る必要のあるものはあります。
それを近現代の人々は「無抵抗主義こそ平和主義」だと勘違いし、戦わない美学を祭り上げたせいで大事なものがどんどん奪われていきました。
ただ、戦うとは必ずしも相手を攻撃し傷つけるということではありません。

戦うとは、自分を貫くことであり自分を守るということです。
相手に対して正義を強制することではなく、正しさというロジックで論破することではなく、自分の信念を曲げないということです。

実は正しいか正しくないかは、時間と共に証明されることの方が多いのです。
20世紀初頭にラジウム水が身体に良いと販売されたり、他にもチクロという発癌性甘味料も建築資材のアスベストも、後の時代になるまでは誰も疑いなく使用していました。
それが「間違っている」と人々に啓蒙するには、時の巨大権力と全面対決しなければならなかったのです。

しかし今の巨悪が蔓延る時代、一つ一つのことに目鯨を立てて争っていたのでは埒が飽きません。
だからこそ、戦うよりも逃げる、戦わないという選択を取る方が自分を守れます。
そして自分だけは正しい方法を取り、自分以外の人がどれだけ間違っていたかは時間に証明させれば良いのです。

もし自分のやり方が本当に正しければ、最終的に自分が生き残るだけです。
その姿を見て、人々は何が正しかったのかを知ることができます。
それは正しさや運の良さ以上に、優秀さや先見の明を発揮することで、勝利で得られたものに近いものを最終的に手にすることができるはずです。

正義には強さではなく、優秀さを用いて事実を持って証明するべきです。
「良いもの」はどんどん広まっていき、やがて間違いや欠点を補って世の中を修正していきます。
それが本当にクレバーなら人々はそのやり方に憧れ、誰も傷つくことなく問題は解決します。

代替」こそが問題解決の唯一の方法であって、問題を根本的に無くそうとする発想は究極的にジェノサイドに行きつきます。
ナチスドイツのホロコースト、現代イスラエルのガザ侵攻、その根元に共存の意志はなく有か無かの二元論しかありません。
有か無かとは「勝つか負けるか」であり、そのレベルで考えているうちは平和など実現しません。

今の世界に必要なのは絶対正義ではなく世を良くする「良いアイデア」なのに、そこに思い至らないから争いが絶えないのです。

だから私は、人と論争することに価値があるとはあまり思いません。
人の意見にインスパイアされたことを自分で考えて勝手にそうすれば良いだけで、他人を凹ませなくてはならない道理は一つもありません。
ゆえに私は何を言おうと自由なはずですし、自由がゆえに攻撃はされるでしょうが、それに抗わないことが私が私である唯一の方法です。

ただ、間違っていると自分が気づくのも大切ですし、他人の意見を聞くべきではなく、世の中に何もしないというのも違います。
自分の目的や信念のためには、やむを得なければ論争や理論武装も手段として取るべきですし、戦いから逃げることが正解なのではないことは先ほど書いた通りです。
私たちはとりあえず自分を守るべきであり、自分を守るために力をつけないといけません。決して誰かを打ち倒すためではなく、逃げ道を作るためでもありません。

憑依と霊障の話から、だいぶテーマが大きくなってしまいました。
この霊的妨害も、これまでの物質文明を維持してきた古いエネルギーが新しい時代のエネルギーの前では壊れるしかなく、ゆえにこちらと拮抗するのも当然なのです。
私は「人世をぶっ壊してやろう」と思っているわけではないですが、この賞味期限の切れた世界が役割を終えない限りは新しい世界は来ないので、私からすれば致し方ないという印象です。

だから神様と共にあることを決めた人間としては、神様がそう願われるのだからと割り切って攻撃を受け切るしかないと思っています。
しかし、その対価として尋常ならざる霊的抵抗力を身につけつつあるため、悪いことばかりではないような気がします。
私が神様と一緒に作りたいのは戦いも争いも必要のない世界であり、その世界こそ「才能」が正義に変わって正しさを証明する時代です。

それこそが神代、弥栄の世であると思います。

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人の「神性」について

楽太郎です。

追加で販売開始した備蓄米が入手困難だそうです。
その件について家族とも話し合うのですが、私は米が今後食べられなくなる可能性が高いため、節米と代替食品への切り替えを家族に勧めています。
しかし、この危機感はなかなか説得しても理解してもらえず、何となく米は通常の価格に戻っていくだろう、という楽観的な考えを改めてもらうことができません。

両親は「お金さえあれば、米は食べ続けられる」と言います。

しかし現在の米不足の状況を鑑みても、買えるところがなければお金をいくら持っていても買うことができません。
実はそれが問題で、東日本大震災の時にはカップ麺を買うために雪の中を2時間も列に並びました。
買うためには売る側がいなければならないため、ものを売る側に売れるものがあるような状況でなければ、そもそも買うことはできません。

仮に米がこれ以上高騰して本当のお金持ちだけが米を買える状況であれば、一般市民はお金持ちが出す金額より高いお金を出さなくては米を買えなくなります。
お金持ちがようやく懐に入れられるような希少品を、一般人がどうやって手に入れるつもりなのでしょうか。

この構図をなぜか理解できないようで、どう説明しても「もしも」の話が通じず頭を悩ませています。
私が家族を引っ張っていかなくてはならないのは理解しているため、生命に関わることである以上、食糧難に自分も家族も巻き込まれないようにするのに骨が折れます。

「米がないなら小麦を食べればいいじゃない」とシリアルやパン食、パスタ類を考えている人がいますが、トランプ関税が発動すれば小麦が今の価格水準である保証はどこにもありません。
アメリカという国は日本人がどうなろうと知ったことではないので、遺伝子組み換えの小麦ですら平然と輸出しますし、その価格を操作して自国に都合の良い取引をし、日本人にどんな影響があるかなど考えてはくれないでしょう。

私たち日本人は、この国で生きていくにはどうしたらいいかを本気で考え直さなくてはならない時に来ています。
しかし、この危機感を抱いて動く人は今のところあまりいません。
むしろ、不安はあるけど何となく良くなっていくような気がするとか、そこまで変わらずにこの日常感がダラダラ続くと思っているのではないでしょうか。

この「何となく今の時代が続いていく感覚」は、私が自分を浄化するプロセスで体感した「邪気」の一種でした。
この感覚に包まれるとスピリチュアルなことはどうでも良くなり、物質中心の経済は何の変化もなく続き、人間も時代も変わることなく同じ日常の中にあり続けるのではないか、という錯覚に陥ります。

この感覚は魔法にかかったように現実認識が麻痺した状態となり、この国を取り巻く状況に良い兆候が何一つないのにも関わらず、薄っすら世の中が良くなっていくような気さえしてきます。
そして昔のようにショッピングモールは賑わい出し、物価上昇も収まってラーメンも普通に食べられる時代に戻る、そんな幻想を抱き始めます。

それが「錯覚」だとわかるのは、きちんとニュースを分析し、目で見える現実の社会を具に見るからこそ、「そんなことはあり得ない」と理解するのです。

この邪気は禍々しさや攻撃性がなく、むしろ生温かい優しさに包まれているからこそ、取り込まれた時に何となく安心感を覚えます。
その安堵に引き寄せられることによって、現実の問題を直視する動機を失い、疑問を抱くことや思考そのものを停止させてしまいます。

よく考えれば、この種の邪気は非常に巧妙だと思います。

邪気は本質的に人を不幸に引き摺り込むのが目的であり、結果的に陥れられるのなら痛みや苦しみを感じさせる必要がないのです。
そして、邪気の真の役割は人間の「覚醒を阻むこと」であり、人間がきちんと邪気を分別し、一直線に覚醒するだけなら邪気は存在する意味がなくなります。
「悟り」の対極にあるのが邪気であり、つまり地球上の全人類がお釈迦様のようなら世界に邪気は存在し得ないからこそ、その妨害が唯一の存在意義なのです。

私は最近、特に「憑依」について考える時、これまでの物質中心の社会、お金というシステムに支配された時代を牛耳ってきたのは「神に仇なす者たち」だと確信します。
それは悪魔とか単純なものではなく、神を退け幽界の影響力を隅々まで巡らせるような、巨大な悪意を持った存在です。

その悪意は、戦後の日本に蔓延りこの四半世紀で特に肥大化したように思います。
少なくとも20年前の日本人は、もっと素直に「才能」を評価し、他者との違いも寛容に受け止める自由な雰囲気がありました。
しかし、今の日本人は他人との違いが許せず、自分のルールに合わない者に容赦なく批判を浴びせるようになりました。
グローバリズムとか、多様性の時代とか言いますが、時代の雰囲気とは全く逆です。

あらゆるビジネスが「人を楽しませること」を基準としなくなり、いかに低コストで最大の利潤を産むかを重視し、結果が伴わないものは悉く価値がないと切り捨てます。
そうして人々に必要な物資もサービスも縮小していき、人を楽しませるという目的は形骸化していきました。
「人が楽しむ=評価=数字」であり、数字にならなければ人にとって価値はなく、その意味で奉仕精神は利益に反することになり、ビジネスの精神的側面は徐々に削られて行きました。
むしろ「おもてなし精神」は、企業による過剰なサービスの強制として横行しています。

この精神文化の衰退こそ、日本が経済において推進力を失った根本原因であり、この病理に至った理由こそ「拝金主義」という価値観にあったのではないでしょうか。
日本人は高度経済成長期以前からお金が好きな民族であったとは言え、わりと「日本人らしさ」の中で、豊かな発想を育てる風土がありました。
しかしこの四半世紀、その空気が薄れていったと感じるのは私だけでしょうか。

私が同世代の人々を見回して感じるのは、若い頃はもっと自由闊達で純粋な目で世の中を見て、違和感を情熱に変える力を持っていた印象が、今は消え失せてしまったように見えることです。
私も彼らも時代の軋轢の中で、真面目で優秀な人ほど潰され、自由にものを言う人ほど口を塞がれました。
高潔な人ほど権力に取り込まれ追従せざるを得なくなり、信念を貫く人ほど病んでいきました。

彼らが今どうしているかを見回すと、かつての面影を残した人はほとんどいません。
その姿を見ると、人間の良い部分ほど潰されていったようにも感じるのです。
彼らは才能豊かな人たちばかりでしたが、企業や社会のあり方では下手な利用のされ方に巻き込まれてしまったように思えてなりません。

「才能」とはおそらく人間に宿る神に最も近い性質で、その心こそ「神性」そのものです。
才能を発揮することや、愛に目覚めたり人生の悟りを得ることは、自らの神性による力です。

もしこの世界が神性を封じ込めることで成立していたとしたら、邪気が人々の目覚めを阻害する理由になり得ます。
唯物的な経済システムの中では、人間の心よりもロジックが通用した方が大衆をコントロールしやすいからです。

この世界を牛耳る存在が「神に仇なす者」であるならば、人々の覚醒の芽を摘み取り無知蒙昧な状態にしておくことは、自分たちの支配を行う上で最も理想的なはずです。
だからこそ元々神性の強い人々、素直で心ある優秀な人たちほど、これまでの世界では踏み躙られる存在であり続けたのではないでしょうか。

私もその一人と言うには烏滸がましいのですが、これまで息をするように人を陥れるタイプの輩とは戦ってきました。
だからこそ彼らの思考パターンはだいたい読めますし、読めるからこそ先んじて手を打つ方法も熟知しています。
ここまでタフになるには相当な生傷を受けましたが、こうでもしなければ自分を守って来れなかったでしょう。

今でも、神性とかけ離れた性質の人ほど階層構造をのし上がる社会であるのは変わりません。
しかし、その時代を終わらせるために私は神様を信じて行動しています。
そして時代は新しく切り替わりつつあり、これからは神性を大事にする人々の世界になっていくだろうと感じています。

現在の拝金主義的な経済システムは、目に見えて限界を迎えています。
その頂点にいるヒエラルキーの人々は、「金と権力」に特化してきた人々であるため、精神性やモラルに欠ける傾向にあります。
その所業は金と権力があったから見過ごされてきたようなもので、権威が崩れるような出来事があれば全てが明るみになるでしょう。

それを見て、人々は初めて気づくのだと思います。
自分たちが美しく飾り立てられた虚像を理想にしてきたことに。
そして、自分たちが人間本来の性質を蔑ろにして、神という存在に唾を吐いてきたことを。

「これからそれを思い知ることになる」と言えば、脅しのように聞こえてしまうでしょうか。
ただ、それはこれまで自分の心を守るためにずっと耐えてきた人々からすると、決して怖い話ではないと思います。
むしろ福音であり、これからはやっと自分らしく素直に生きられる時代になるというなら、救いになるはずです。

私は自分の過去だけでなく、自分らしく生きようとして踏み躙られ、心を病み生きることすら諦めようとした人々を思えば、どうしても時代を変えたくなるのです。
私なんかよりも才能も人格も優れた人はゴマンといましたが、世の中に抗えなかった人々もたくさん見てきました。
新しい時代はそういった人が純粋に認められ、誰もが自由に表現をできる世界にしたいのです。

私一人でもやる、という気持ちですが私の後ろには神様がいてくださると信じています。
未来を生きる子供たちには、その自由な空気の中でのびのびと成長して欲しい、そう願ってやみません。

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人は神様と共に

楽太郎です。

昨日は一日中雨が降っていたせいで、近所の川が増水していました。
いつもはキラキラして流れている透明な川面は、茶色く淀んで強い流れとなっていました。
この河川はきちんと護岸工事がされているので、これまでも氾濫することはありませんでした。
しかし、昭和以前の時代なら水害に見舞われたことは度々あったかもしれません。

いつもは澄んだ川が増水するとまるで別の様相となってしまう姿は、かつて河川が「龍」に例えられたのもわかる気がします。
普段は生活用水に使い遊び場にもなる川辺が、ある時には住民に牙を剥くとしたら、恐怖そのものです。
ゆえに、自然の恵みとして川の神に感謝する一方、水害にならないために神を鎮め祀るのも納得できます。

各地方に自治体や藩が置かれ、かつては豪族が地方を治めていましたが、それ以前では村や集落の及ぶ範囲で何キロ、数十キロに及ぶ河川の治水工事をすることは困難だったはずです。
川辺は生活や農耕に適した環境でありながら、雨などが降ると氾濫し、村を飲み込んだことも度々あったでしょう。

素戔嗚命の八岐大蛇退治は治水事業に準える説もありますが、少数で護岸工事を行うには人手が足りず、大規模に事業を行うなら資金や資材も必要になったはずです。
村や集落のレベルでは実現は難しく、地方を取りまとめる権力者に陳情し、協力を仰ぐことで治水事業は完了し後世に残る功績となったのでしょう。

それでも、場所によっては治水工事が進まず、近代になるまで手付かずの忌み地も確かに存在しました。
そういう場所ではやはり水神をお祀りして、荒魂を鎮めるような祭祀が行われたはずです。
ただ近代になって土木機械が普及すると、人間の力だけでどこでも計画通りに工事をすることが可能になったので、改めて水神をお祀りし鎮魂する必要もなくなったのだと思います。

人間は自然環境を自分たちで意のままに操れるようになったからこそ、天候や防災などを神仏に願い頼ることをしなくなりました。
同時に自然の恵みに関しても、水道などのインフラが整備されたことで「あるのが当たり前」になり、特に生活の利潤に感謝することもなくなりました。

人間は、自分たちが豊かで安全ならば神仏はなくても良い、と考えがちなのだと思います。

私たちが神社仏閣に行く時、願うのは合格祈願や縁結び、金運招福などで、ほぼ自分たちのことだけです。
人として幸福であるためには、社会や人からお金や権力という恵みを受け取ることになるため、神仏に対して願うのは対人関係になりがちです。
それは善し悪しではないのでしょうが、人間の現金さを神様たちはどうご覧になられているのでしょうか。

私の感じる神様という存在は、目に見えないですが実に理性的で愛情深く、とても献身的です。
本当に人間のことを考えて行動して下さる一方、きちんとお祀りして欲しいと願っておられる気がしてなりません。
神様のお心はなかなか人間には察するのは難しいのですが、神様はやはり神社仏閣で丁重に祭祀されることを望んでおられるように思います。

だから、神社の権利を外国人に売却したり、無人だからと社殿を取り壊してソーラーパネルを建てたり、法人の運営のために営利事業に躍起になったり、そういった神仏を軽視する事態を危惧されているように思えてなりません。
確かに現代は神社の運営も厳しく、人手不足も相まって維持管理が難しいのは事実ですが、現実面だけでなく神様のことを第一に慮る気持ちが大切なのではないでしょうか。

現代の私たちにとって古びた小さな社に見えたとしても、ご先祖様たちが願いをかけて大切に守ってきた遺産であり、神様との約束があったからこそ鎮座されている聖域です。
何も知らなければ古びた無用な土地にしか見えずとも、何百年という時を越えてご先祖様を見守ってきた神様がおられる場所を、私たちが当然のように軽視して良いとは思えません。

今こそ、神々と人間とのあるべき関係を見直して見るべき時ではないでしょうか。
奇しくも、地球は次元上昇をして星の巡りは「風の時代」に突入し、物質文明は終わり精神文化の時代に移り変わっていきます。
人間が本来あるべき心持ちに戻る時、神々は私たちのすぐ身近な存在になることも必然であるような気がします。

私は近所の川面を眺める時、瀬織津姫様のことをよく考えます。
将来、清らかな川の近くに瀬織津姫様の神社を建立することが私の夢です。
それだけでなく、街によくある川と呼べないようなドブ川を再び綺麗な清流に戻せないかと考えています。

それは果てしなく困難な道のりで、正直どうやっていいのかわからないレベルです。
しかし、何十年かかろうとそれを成し遂げた時、瀬織津姫様はとても喜んで下さる気がしてなりません。

「瀬織津姫命」という御神格は、古代において河川が「饗土(くなど)」と呼ばれる境界であり、塞の神としての意味合いから転じて魔を祓い罪穢れを清める存在とされてきました。
しかし河川は山の合間を縫って流れるものであり、山から豊穣の神が田畑に降りてきて収穫を終えると山へ帰り、翌春に再来すると古代の人々は考えました。
その神をお迎えする神事を「サオリ」、山の神を迎える女性たちを「早乙女」と呼びました。

全国にお祀りされる「大山祇神」という山神は、女性であると考えられている土地が多いそうです。
「瀬織津」という言葉は、語源的に「瀬に降る」だと思います。
何が川に降りるかと言えば、「サ=稲」の神ではないでしょうか。

山から降りてくる豊穣の女神は、山から流れる川に沿って田畑にやって来ます。ゆえに瀬織津姫命は「沙織津姫」であり、「サ(稲霊)の神」とも考えられます。
瀬織津姫様は私たちが思っているよりも異なる役割を持ち、想像だにしていない働きをされてきた神様なのかもしれません。

神道は日本政府の神社本庁がほぼ取り仕切っていますが、国家神道と本来の自然発生的な神道は似て非なるものだと私は思います。
日本人は太陽信仰よりも山岳信仰や磐座信仰の方が歴史が古く、それゆえ自然神や「サ神」との関係はもっと根が深く広範囲に渡っていたのではないでしょうか。

そこでヤマト王権は「倭国」を統一するための宗教政策を各地に普及させていきました。
飛鳥時代、大和王朝は国家神道を制定するために、全国に広がる「サ神信仰」を封じる必要があったと考えられます。
それにより、天照大御神を女神とするならば瀬織津姫命は権威が大きく、サ神の男性格である猿田彦大神や大物主、大山祇神などの由緒を変える必要があったのではないでしょうか。

実際に、「瀬織津姫命」が祓戸神以外で主祭神とされる神社は、六甲山を除けば九州南部か東海以北に限られています。
神社にお祀りされている御神格は、わりと人間の都合で左右されていることが多く、古くは記紀編纂時の宗教改革や神仏分離政策の影響をもろに受けています。
そういう政治上のゴタゴタを見直すのも、神様と人間の関係を考える上で外すことはできないかもしれません。

私は、神々と人間との関係がより自然な形に戻るような活動をしていきたいと思います。
そのための試みは多少斬新に見えるかもしれませんが、それが神様からのお役目だと考えています。

人間は物質中心の時代が長く続いたせいで、神様の話をすると怪訝な顔をする人が多いのですが、その感性の方が歴史的にはイレギュラーなのです。
そういった誤解を解きながら、八百万の神々と共にあった日本人との新しい関係も模索していきたい、私はそう思っています。

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「憑依」について

楽太郎です。

5月13日の満月に世界線の分岐を体感してから、見える景色が変わってきました。
私自身のエネルギーの高まりと感覚の変化は、日常生活に差し支えるほどの混乱を生じさせています。
同時に妨害のエネルギーも強くなってきましたが、おそらく本日27日の新月にまた大きな変化が起こるように思えます。

今回の新月は双子座のエリアで起こり、土星が牡羊座に入って近々のタイミングであることから、自分の人生における課題が一新されるような意味合いが強いと考えられます。
これは1996年4月以来29年ぶりであり、当時も今のように大変革の時代でした。
ちょうどYahoo!の創業が95年であり、PHSが若者に普及し始めた時です。インターネットの黎明期の始まりであり、現在のデジタル時代の幕開けでした。

私は今日の新月から、さらに新しい時代が本格的にスタートするのだと思っています。
29年前に始まったデジタル時代は、現在では過渡期を迎え、世界を自由にするはずのインターネットはアメリカという国家に掌握され、そのインフラは極度に商業化されてしまいました。
それとすれ違うように、地球は次元上昇を完了しつつあり、私の言う「神の世、神代」は実感を持って現れてきました。

私は少しエスパー的な能力があったりするのですが、よく考えれば直感で人の行動や思念を読み取れるということは、スマホでLINEに繋がっていなくても遠隔で人の様子を知ることができますし、神様からのメッセージをきちんと受け取っていればChatGPTに相談する必要もありません。

これらは自然と人間本来に備わっている能力のはずであり、おそらく誰もが習得可能であるような気がしてなりません。
この能力を使えば、特定の営利団体に数十年単位で依存しなくても無料で使いたい放題の機能のように感じるのですが、残念ながら共感する方はおられないかもしれません。

この霊能力と霊力の高まりを実感しながら、精神的な時代の到来を私は確信しています。
眉唾ながら「風の時代」「スピリチュアルの時代」と予言されていた世界に、私たちは実際に足を踏み入れているのだと思います。

ただ、この時代の空気を実感できる人とできない人がはっきり別れ、おそらくできない人の方が大半です。
この分岐点こそ5月13日の満月であり、それまでの生き方考え方が総括され、その結果に応じた世界線を人々は歩むことになります。
この変化の流れは徐々に強まり具現化し、6月21日の夏至を持って完成となるのだと思います。

昨日25日に土星は牡羊座に突入したのですが、ここ最近やたら昔のことを思い出すというか、懐古的な生温い邪気を感じながら自分の課題と向き合わざるを得ませんでした。
今考えれば、私が自分の人生を呪うような後悔の原因を作ってきたのは、決して自分だけが悪かったのではないかもしれません。

私の霊能力が開花したことで、自分の体感するエネルギーを見分けられるようになりました。
そこで自分のエネルギーの性質がわかるからこそ、他人や集団とのエネルギーの共鳴や邪気、生き霊や悪霊などの霊的な干渉を選別することができるようになります。
特に外部のネガティブな波動を持つ存在からの干渉が、これまで私の人生に多大な影響を及ぼしていたことに気づきました。

私は物心つく以前から多感な子で、両親を始め周囲の人からは「ちょっと違う子だ」と思われていました。
幼稚園に上がる前から頭痛持ちで、自分の人生を振り返ると身体の不調や心の不安定さは一種の「霊障」であり、社会や大人たちはそれを弱さや病気と捉えていましたし、私もつい最近までそうだと思っていました。

しかし、こうして自分の心に影響しているエネルギーを紐解いていくと、必ずしも自分の波長だけでそうなっているわけではないことに気づきます。
特に環境による影響の方が大きく、なぜかわからないけどやる気が出なかったり、急に酷く気分が落ち込むような時は霊障だと考えてほぼ間違いありません。

ただこれは私が悪いとか、ネガティブな波動が良くないとか言いたいのではありません。
今こうして状況を理解して改めて思うのは、この唯物的な世界観は霊障をカムフラージュするのにとても都合の良い環境だったな、ということです。

例えば頭痛がする時、目の使いすぎとかストレスとか首肩のコリだと思って薬を飲んだりマッサージをします。
しかしこの原因がネガティブなエネルギーにあることを知らなければ、対処療法のためにお金や時間を使い、根本原因にアプローチすることはできません。
これはあらゆる病気に関してもそうで、病気も霊障以外に過去世から引きずっているものとか、血族由来の因縁で負わされているとか、様々なはずです。

自分の心身に起こる不調は、自分の内面と向き合うためのサインであったりするのに、なまじ薬や病院があるからそこへ行くものだという頭があります。
それで実際に良くなることも多分にありますが、トラブルの原因がエネルギーにあるのに、医療機関にお金と時間を使うサイクルの中から抜け出すことができません。

こういう仕組みも、この世界を唯物論的な構成物だけのものだと思い込ませたい勢力からすれば、上手いこと作られているように思えてなりません。
この世界において神仏や霊的な存在は眉唾物であり、精神的な事柄も全て科学と唯物論で説明ができ、それを信じお金を使えば迷信に惑わされることはない。
そう人々に信じさせることができれば、人々は率先して幸福のためにお金を求めるようになり、神仏を否定し権威を神格化することによって、生命力のある奴隷を手にすることができるわけです。

これをして得をする存在が何かというと、特定の選民的集団か神に仇なす隠れた存在でしょう。

こうして唯物史観のフィルターでカットされてしまった神仏やスピリチュアリズムは、これまでの世界では極めて色物に見られてきました。
しかし実際のところ、宇宙法則の一部に神仏が存在し、霊界はシステムとして稼働し、人間は修行とカルマの担い手としてこの世に存在します。
その仕組みは物理的には証明できず、反面その捉え方でなければ森羅万象を解き明かすことはできません。

真実の追求を覆い隠すことに意味があるとしたら、それは「堕落」以外にありません。
つまり、この世界における目的の喪失にこそ、神に仇なす存在の目的があるのです。
この世界の本質に至らせないことこそが彼らの本質であり、光に対する闇の存在です。

そうすることで、神性を否定し人間本来の能力を封じ込め、お金のために生涯を消費する労働機械に人間を落とし込めるわけです。
人間が人間に依存する世界を作れば、人間は横並びの序列だけを気にするようになり、上には神がいて下には魔物がいる世界に気づくことができません。
そういう世界は、この世界を牛耳っておきたい勢力にとって都合が良かったに違いありません。

この世界には物質的側面と波動的側面があり、実は波動の次元にこそ世界の本質が存在するのです。
ゆえに、その本質を覆い隠してしまえば、人々は真実を知ることなく物質面だけに終始し、覚醒することなく一生を労働に注いでくれるのです。

ただ、この時代も間もなく終わりを迎えます。

もう星の巡りでは新しい世界線に突入しているので、あとはエネルギーレベルで起きていた出来事が地上に反映されるのを待つだけです。
近年「幽界」の消滅が始まっているとか、浮遊霊や生き霊が飛び交っているとか、そう言った霊現象はその一端です。

人々がやたらと取り乱したりイライラしたり、「魔が差した」ようにしか見えない事件が起きたり、悪魔が乗り移っているようにしか見えない人の言動、それらは全て気のせいではありません。
「霊障」とは目に見える死霊が肩に取り憑くという類のものだけではなくて、エネルギーレベルの干渉で起こっているものだからです。

その霊障は憑依と言って差し支えないのですが、幽体が身体に入る以外に念や霊のエネルギーが魂に干渉することも多く、その形は様々です。
そのレベルのことは誰にも日常的に起きていることであり、ゆえに霊能者が改めて言うことはないのだと思います。

近年、スピリチュアルブームで精神世界への興味が広まったのは良かったのですが、「審神者(さにわ)」という部分に注意するスピリチュアリストはあまり多くありません。
審神者とは、メッセージを与えてくれる存在が何者かを見極めることです。
私の見る限り、霊能力のある人が必ずしも高次元の存在と繋がっているわけではないと思いますし、実際にそういう人も散見します。

仮に繋がっているのが高次元だとしても、霊的なメッセージを降ろして言って終わり、というだけでは本気で世を改め人を変えたい上位存在からしてみれば、言った本人が肚に落として貰わないと意味がないでしょう。
実は「審神者」は、目で見てわかることの方が多いです。
スピリチュアルな存在が降ろしたメッセージ自体が誇張的だったり、やたら我欲が張っていたり、そのメッセージを受けた本人がフィルタリングしていたり、それを間に受けて実践することを怠っていたり、見ていてスッキリしない印象を持つことがほとんどです。

神代と人世の分岐がはっきりしてきた今、次第にスピリチュアリストたちの言うことも変わってきました。
ついこの前まではまともなことを言っていたインフルエンサーが、最近は何がしたいのか何が言いたいのかわからない、みたいな状況を散見します。

この時期を境に、精神世界と人間との関係性も変化しているように見えます。
精神世界に繋がれる人はより精神性を求められ、その観念を生き方に降ろすことがテーマになっているのだと思います。
だから混乱が起きていますし、ついて行けない人も多いのではないでしょうか。

スピリチュアルな世界の本格的な到来は、実にシビアな現実に現れていると思います。
私自身、新たな課題に直面して自分でも何をしていいかわからなくなる時があります。
そこで自分に芯を通し、やるべきことをきちんと降ろして忠実に行動できるかが試されています。

神々からすれば、神代に上がるから特別な人材だと思っておられないように感じます。
慢心したり取り違えするような人間は惜しまず弾く、そこに神様は妥協しないのだと思います。
その心の隙間を常に魔の類が狙っていて、隙あらば覚醒の芽を摘み取ろうとしてきます。
だからこそ、油断せず常に己と向き合う緊張感が大切です。

実はこういうことを書くと、私がサイキックアタックや憑依に狙われる可能性が高くなるので避けたいのですが、今回は特に神様からのオーダーで書かざるを得ませんでした。

私は、神様から降りてきたインスピレーションは自分の一部だと思っているので、できる限り実践する方針でいます。
だから神様から降ろされたことは、わりとそのまま形にするようにしています。
ただ、あまりに真正面から正直なことを書いてしまうので、霊的な障害がしばしば発生します。

だから私としては気が進まないのですが、神様には逆らえません。
おそらく、これから神様のインスピレーションを反古にしたり自分のために使うような人は、神様から能力を外されていく気がします。
いくら信仰心があっても、神様に見放されたら元も子もありませんし、私は神様についていくだけです。

ただ神様、できるなら私をもっと強くお守りくださるとありがたいです。
今回は闇の存在について言及しているので、特に…。

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「悪」とは何か

楽太郎です。

仏教の世界には「回峰行」という修行があります。
この修行は念仏を唱えながら山々の参拝所を巡り、何十キロに及ぶ踏破を千日行うというものです。

仙台市秋保の慈眼寺の住職であられる塩沼亮潤和尚は、奈良県の金峯山で千日回峰行を達成された大阿闍梨であり、現在は執筆や公演活動などをされています。
塩沼和尚に関する記事からのお話ですが、「悟り」に至る上で最後まで課題となるのが、「人を嫌う気持ち」だそうです。
そして精神的な自由を手にするためには、「忘れきる、捨てきる、許しきる」という手放しが大切であると説かれています。

確かに、自分の感情を手放す時に最も根深い執着が「憎しみ」や「嫌悪」かもしれません。
「否定したい気持ち」とは、ただ単に不利益をもたらす敵対者を排除したい欲望から来るものだけではなく、自分が自分らしく生きるための信念とか、自分を守るために必要な自己保存欲とか、人間が生きる上で備わっている根源的な感情です。

自分が過去にされた嫌なことは、時が経てば別の見方ができて許せるようになったり、忘れてどうでも良くなってくるものです。
しかし、例えば今目の前で人を殴っている光景を見たり、明らかな詐欺の電話を受けたりしたら当然のように腹が立ちます。
この時に自分が当事者になりながら平然と笑って返せるようになるには、相当な精神的成長が必要です。

「悪」とは何か、と考えます。

今の世に蔓延る悪は、大抵は悪の顔をしていません。
往々にして悪とは、バイキンマンのように悪者顔をしてのさばっているのではなく、立派な肩書きと綺麗なイメージで善業をしているように振る舞うものです。
むしろ人に白い目で見られる程度の悪は可愛いものであり、本当の巨悪ほど目に見え難く、むしろ一般的には好意の対象であったりします。

現代におけるその巨悪が何なのかここでは語りませんが、例えを出したいと思います。

ある時、真心のある牛乳屋さんが、美味しい牛乳をたくさんの人に飲んでもらいたいと言い、毎朝無料で牛乳配達を始めました。
その牛乳はとても美味しくて、地域でたちまち評判になり、注文が殺到しました。
ただ無料ではサービスが続けられないので、割安価格で牛乳を定期配達することにしました。
地域住民は安くて美味しい牛乳が毎日飲めるので、とてもありがたがりました。

しかし牛乳屋は儲けに味を占め、次第に配達の値段を上げ始めました。
地域住民は多少の値上げなら致し方ないと思ってしばらく黙ってましたが、徐々に我慢しづらいレベルの価格になってきました。
では安く別の牛乳屋を選ぼうとしますが、その牛乳屋がほぼ業界を独占しており、替えとなるサービスがほとんどありません。

それで値段に不満を抱えながらその牛乳屋の牛乳を飲み続けるか辞めるか、という話になるのですが、特殊製法で作られた牛乳の味に魅了された地域住民は、簡単に牛乳配達を諦めることができません。
牛乳を飲むことを諦めない限り、その牛乳屋の牛乳だけを一生飲み続けることになります。
そして、牛乳の価格はその牛乳屋の言い値です。

これは例え話ですが、心当たりはないでしょうか。
始めは「良い」と思われて人々に受け入れられ広まったのだけど、後々になって欲が出て改悪されていると気づいた時には、代替手段がほぼ存在しない。
自分が諦めれば済む話だけれど、その手段を採用しなければ関わることすらできない。
今の世の中をコントロールしている大体の仕組みは、これと似たようなものです。

こういった形の支配が、支配を支配と思わせない形で私たちの足元に広がっています。
そこには明確な作為と策略が練られているのに、普通に暮らす上では「便利なサービス」だと思って享受しています。
その当たり前と日常の中にある思惑に鈍感であり続ける限り、思惑の中にある悪意にも気づかず、知らずのうちに悪事に加担していたりもするのです。

「3と7」を取引してイーブンに見せるようなビジネスは、消費者にWIN WINと思わせておきながら実際は向こうの方が遥かに取り分が多いのが特徴です。
それに気づかせないためにサービスを綺麗で公平なものに見せ、作為など存在しない顔をして人々から搾取をし続ける、そんな構図が世に蔓延っています。

この「悪」を悪と思わない人がほとんどです。
むしろそういう世の中なのだから、目鯨を立てる方がおかしい、と。
私は自分の目線ではこれ以上醜悪な仕組みはないと思いますが、他の人々からすれば疑う余地も感じないかもしれません。

これを目の当たりにして、許せるかどうかを自分に問い続けるのは「苦行」とすら感じます。

ただ、悪とはやはり「正義」の対極にある存在であり、それは光と闇のように、どちらか片方が存在するから背反が生まれる性質のものでしょう。
自分を正義だと思うから悪を立てねばならず、向こうも自らを正義だと思うからこちらが悪になり、ゆえに争わなければいけません。
つまり、自分が間違っていると思えば、相手が間違っていても仮に正しくても、敵対する理由にはならないはずです。

「正義」も「悪」も実際には見えないもので、人間が恣意的にレッテルを貼り、色分けするから形となって現れるものです。
目に見えて「憎むべき悪」があるから、色が目につく限り攻撃せざるを得ず、色がある限り平和にならないと考えれば、色をつけたもの全てを排除し滅ぼすことが絶対的な正義となり得ます。
そうして行われてきた人類の過ち、そして今もなお堂々と行われる民族浄化やジェノサイドは、「正義」がこの世に存在するからこそ、力のある正義側に「悪」とされた力なき人々が受ける暴力でもあります。

人間は、「悪」がある限りこの世に平和がなく、悪が存在しない世界こそが善なる完全な世界だとイメージします。
しかし、正義を完遂するには悪を根絶しなければならず、その正義も一方から見れば悪そのものです。
つまり、正義が存在する以上は悪があり、悪が存在する以上は正義を持って戦わねばならず、平和は永久に実現しません。

他人が悪に見えて仕方ない、許せないと思う気持ちがすぐに改められないのが人間です。
嫌いだし腹が立つならお互いに顔を合わせなければ良いだけで、気に入らないなら見ないようにして、それぞれが望む暮らしをし互いに干渉しなければ問題ありません。
しかしなぜか人間は、腹を立てたがり攻撃をしたがり、「棲み分ける」という選択に頭が及びません。
自分が気持ち良く暮らすためには、嫌いなものや憎むべき人がこの世から消え去ってくれないとダメだと思ってしまうのです。

この感情は、自分にはないと言い切れません。
それゆえ、頭ではわかっていても肚の底で綺麗さっぱり割り切るには成長が必要なのです。
確かに自分が傷ついた時、損をした時は誰かのせいにしたくなります。
けれど、そういう時ほど自分に起こった「良くないこと」は悪に結びつけず、自分の生き方を改めるための「気づき」にすることはできないでしょうか。

何か良くないことが起こる時というのは、自分の生き方や他人との関係において、そのままのやり方では上手くいかない、という暗示でもあります。
何か原因があるから起こる凶事は、実際に理由があるから発生するものです。
ゆえに、それに気づいて手放すものを手放す、そうすることは自分を成長させ同じ凶事を引き起こさないための対処法となります。

「悪」を見た時に腹立たしく思うことを、未熟のせいにすれば良いわけでもないと思います。
むしろ「悪」は悪と認識するから気づけるのであり、自分の心にある正義も悪と感ずる心も、人間本来の精神的な働きそのものです。
大事なのは、「悪を責めてはいけない」という無抵抗主義こそが正義だと思うことではありません。

「正義」という概念も、「悪」という概念も、そのものを消し去ることはできません。
できるのは自分が正しいと思い込む心を手放すことであり、相手を悪と決めつける心を手放すことだけです。
それは正義への執着を消すことであり、「悪」を認識し気づきとした上で、悪が気づきを与える存在という以上の意味を持たないということです。

目の前にはない、理想や概念としての「悪」を滅ぼそうとするなら、地球上を飛び回ってまだ見ぬ巨悪を倒すために殺戮を続けなくてはならないでしょう。
そこまでしなくても、地球は広いので自分が気の合う人たちと同じ土地で暮らせば良いだけの話です。
この理屈が通じない人たちに対しても、ただ単に自分が棲み分けて国境線を引けば済みます。

もし向こうが国境を越えて攻撃してくるなら、その時に正々堂々と迎え撃てばいいでしょう。
中途半端に「平和主義」を謳い、無抵抗こそ美学のように死に花を咲かせると、今の日本のように外国人が何をしても言い返せない国になってしまいます。
それでは社会はおろか、自分も大切な人も守りきることはできません。

悪とは気づきを与えてくれる凶事の象徴に過ぎず、悪意はせいぜい自分が得をするとか、人を破滅に陥れるとか、そういった目的しかありません。
つまり、高い理想を理性的に構築することを善とするなら、悪はその妨害を目的にすることしかできません。
悪意は応じるから応酬をせざるを得なくなりますが、それは悪意に対して悪意を返すから起こります。
ゆえに悪意に対抗するには、厳しい態度と善意だけが有効です。

暗く澱んだ感情は、明快で筋が通り、思いやりのある気持ちを最も苦手とします。
明確な悪意に対して、敵対しないという態度は相手を骨抜きにすることでしょう。
それは決して戦いを放棄するということではなく、悪意に対する戦い方は不戦的だという意味です。
悪の排除に目鯨を立てるよりも、理想を実現するために善業を重ねる方がよほど前向きですし、実際それ以外に世の中を良くする方法があるのでしょうか。

罪を憎まず人を憎まず」の精神こそ、悪を受け入れ正義を手放すことに繋がります。
ただ、人々がこの意識に至るまでは長い道のりかもしれません。

最後に、「悟り」について語りたいと思います。

冒頭で取り上げた「千日回峰行」ですが、天台宗の比叡山が本家です。
比叡山の千日回峰行は7年間続けられ、1日30キロの山々の礼拝所を念仏を唱えながら巡り、それを800日続けた後に100日間を60キロ、最終段階である100日間に1日84キロを踏破し、最後の日々は睡眠時間2時間、14時間に渡る回峰行となるそうです。

この厳しい修行を終えた満行者は歴代で51名しかいません。
その厳しい荒行の歴史に名を残す大阿闍梨に、「正井観順」というお坊さんがおられました。
この方は千日回峰行を一度ならず2555日間続けられ、回峰行中に倒れ亡くなられたそうです。

観順和尚は明治から大正にかけての方で、元は津軽の豪農の家で生まれ、自身も豪商として活躍されていました。
しかし自身が協力した選挙での不正や、親戚との金銭トラブルなどに嫌気が差し、当時最大の海難事故であった瓊江丸殉死者の霊を弔ったことを機に、本格的に仏門に入られました。
ただ、宗門では比較的高齢で経歴が浅かったこともあり、厳しい修行に臨もうと回峰行の真髄に目覚めていかれました。

冒頭にご紹介した塩沼和尚は厳しい修行が即ち悟りに至るのではないと説かれていますが、無心に山を巡り念仏を唱え仏と心を一つにすることは、生きながら煩悩を手放す行為そのものであり、悟りの実践なのではないかと思います。
つまり観順和尚は、回峰行の中にこそ悟りを見出されたのかもしれません。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、人間の欲は備わっているものであり、煩悩自体を消し去ることはできないと悟られました。
欲や煩悩は「悪」と誤解されがちですが、その悪の要素を取り去ってしまうと人間としての心も手放すことになります。
しかし、人間が人間である以上、捨てられるのはこだわりや執着だけであり、概念や感情そのものまで捨て去ることはできないのです。

従って、「悟り」とは惑わない心そのものであり、その心における許しこそが悟りと言えるのではないでしょうか。
だからこそ、異なる意見を持つ者と出会って平常心でいるのは難しく、ただそこで無闇に争わず、相手を許す心苦しさの中にこそ成長があり、気づきや「悟り」への道があるのかもしれません。

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日本をどうするか?

楽太郎です。

今回は、世界経済の切り口から日本の今後について語りたいと思います。
結論から言うと、これから世界恐慌が起こります。
経済的に説明すれば、今アメリカのトランプ政権が目指しているソフトランディングは失敗します。

トランプ政権、1兆ドル超の26年度国防予算要求へ-13%余り増額 | Bloogberg

米政府から5月2日に発表された2026年財政年度予算請求額によると、国防費は前年度比13・4%増の1兆119億ドル(約145兆7000億円)で、政策的支出を示す「裁量的経費」は前年度予算の22.6%削減、歳出削減額は全体で1630億ドル(約23兆6000億円)となっています。
この削減対象となった分野は、エネルギー・農業・環境政策・教育・住宅補助・都市開発・海外支援などで、ほぼ国防費以外は全削減の割に予算請求額は過去最高となりました。

トランプ大統領は去年の大統領選で反戦平和と財政緊縮を打ち出して当選したはずですが、イーロン・マスクと共に肝入りの歳出削減に乗り出したものの、この予算案を見ると軍事費以外の予算を削減して軍事費に回しているだけに過ぎないように思えます。
アメリカの国防総省に費やされる予算は、不正支出や不明瞭な会計が多く、監査法人から何度も財務諸表を突き返されるほど会計に関してブラックな組織です。

国防予算はイスラエルのガザ侵攻に横流しされ、F16戦闘機などが無償供与される形となります。
ウクライナ侵攻ではウクライナ軍の軍事支援に渋りつつ、天然資源の差押えやAI兵器の開発を強要しながら、イスラエル軍が更地のようなパレスチナ自治区を空爆するために米国の税金が使われるのです。

トランプ大統領は、ペンタゴンの言い値通りの予算を捻出したように見え、果たしてトランプ大統領は選挙公約を遵守する気があるのか、疑わしくなってきました。
トランプ大統領が公約に掲げていたDSの糾弾や人身売買に関する摘発が有耶無耶になっているとは言いませんが、この予算案を見ると少なくとも米政府の放漫財政にメスを入れる気はないように思えます。

あれだけ威勢が良かった報復関税政策に関しても、諸外国からの反発に耐えきれず弱腰となり、猶予期間を設けることで混乱を避けているだけです。
トランプ大統領が推進するアパレルなど製造業の国内回帰は現実的でなく、製造業を中国など人件費の低い国々の競争力に匹敵するレベルにするなら、大量に移民を入れて低賃金で働かせなければ低価格競争に勝つことはできません。

移民に反対しているトランプ政権が米国民を低賃金で働かせるのは不可能に近く、しかも低収入の市民が高インフレの経済を支えることは難しいでしょう。
つまり、トランプ政権は真逆のことを言いながら真逆のことをやっているのです。
ただしトランプ大統領が意図的にグレートリセットの引き金を引くつもりはなくても、このままだと意図せずとも必然的にトリガーを引くことになるはずです。

アメリカの調査会社「バンク・オブ・アメリカ」のファンドマネージャーに対するアンケートでは、これまで米国投資を牽引してきた米国株・株式一般・テクノロジー・エネルギーは弱気含みとなり、電力や債券、ユーロ圏やイギリス株などに移っているそうです。

今のアメリカ経済を支えるテクノロジー分野、マグニフィセント7が牽引するS&P500の時価総額は過去最高域に達しながら、実は水面下では海外投資家の評価に戦々恐々とする現実があります。
実は、海外投資家の持つ米国株は20%弱の18兆5000億ドルと言われており、これまでAIバブルを蒸して外国から投資を呼び込んできた米国は、彼らの顔色一つで奈落の底に落ちる危険が常に隣り合わせです。

ミシガン大学の調査では、現在のアメリカの景況感、インフレ率共に1980年来最悪であり、FRBが鉛筆を舐めて出している統計を好意的に捉えたとしても、経済政策に関して悪手しか打っていないトランプ政権が、経済学200年の歴史を塗り替える快挙、つまりは奇跡のソフトランディングが可能かと言えば、私は全くそうは思いません。

投資家やエコノミストや経済評論家は、自分が損さえしなければ良い人たちが多いので、本当のことを言う人はかなり少ない世界です。
そこで出回るデータや論評は、はっきり言って有象無象に過ぎません。
何を楽観視して何を危険視するかが問われますが、「誰も真実のデータを出していない」可能性もあり、警戒はしても楽観視するような情報ほど注意する必要があるでしょう。

このソフトランディングに失敗すれば、アメリカに訪れるのはスタグフレーション、つまり景気後退とインフレのダブルパンチによる経済崩壊です。
これによりリーマンショックを超える米国株と国債の大暴落、基軸通貨ドルの失墜と世界経済のバランスの崩壊、脆弱なユーロ経済圏や西側諸国、我が国日本も例外なくアメリカの恐慌に巻き込まれて行くでしょう。

この数年、アメリカのマグニフィセント7が牽引してきた米国の株式市場は、4月以降の取引営業日の2割が2%前後、株価が乱高下しているというデータが存在します。
マグニフィセント7と言えば、生成AIブームの火付け役であり、GoogleもMicrosoftも独占禁止法で司法省に目をつけられている企業であり、生成AIの特性上、著作権法や個人情報などの人権を無視して開発を進めているハイテク分野でもあります。
権利的に見て社会的・文化的な影響を全く顧みることのない技術開発は、実際はアメリカの株価を牽引するための広告として使われていたりします。

果たして、これまで100兆ドル以上を費やして一つのアプリでしかない、正確性も権利面もあやふやな生成AIが文字通りの「AI革命」が成し遂げられないまま、テック株の大暴落に巻き込まれるとしたら、果たしてシリコンバレーの富裕層が夢描いた「AIユートピア」は実現するのでしょうか。

これらのビッグテックへの投資は、アメリカの中堅より上の大銀行が主体であり、それこそバンク・オブ・アメリカやJPモルガンなどの金融機関です。
米国株・国債の大暴落を受けて焦げつくのはこれらの金融機関であり、大して命に関わりのないアプリに莫大な投資をし続けられるとは思いません。

AI開発は、明確な革新技術となり得るものですが、AIロボットやデバイスの製造には全世界にサプライチェーンが確立していなければ安定供給は難しく、どうしてもiPhoneのように寡占企業による専売特許になって行かざるを得ません。
そのため今日のような不安定な国際状況では、生産と流通の面で課題が多すぎるのです。

生成AIに関しては誇大広告の部分が多分にあり、実際に現時点で言えば大層な技術ではありません。
AIバブルが崩壊すれば内実を知ることになると思いますが、現状はAIのユーフォリアの渦中にあるため、人々はなかなか耳を傾けないでしょう。

さて、アメリカが仕掛けたポンジスキームと言うべきAIバブルに乗っかり、日本政府高官や官僚組織、政治家や大企業と学閥のお偉いさんはさぞかし豊かになったことと思います。
それを尻目に、アメリカの経済崩壊が起きたら日本も巻き込まれるのかと言う話ですが、経済評論家の間ではわりと楽観的な意見が主流です。

日本には1.2兆ドルの外貨準備高があり、国内経済の基盤が盤石なため、諸外国に比べると比較的軽微だろうと言われています。
90年代の不動産バブルは大体アメリカから仕掛けられましたが、バブルの予後が最悪だっただけで崩壊自体は経済にさほど深刻ではなかったようです。
日本は未だに国内資本率では世界トップクラスの優良国であり、純粋に政治家と官僚に恵まれないだけの国なのです。

ただ、国家のトップにいる人々が日本人にとって最大のネックであり、国民が今すぐ目覚めたとしても打つべき手段はほとんどないでしょう。
落とすべき政治家の次に出てくる候補者を消去法で選ばなければいけない国が、奇跡的に復活するはずがありません。

現状、ただでさえ物価高で人々の労働意欲が低下している時に、消費行動が爆上がりする要因は皆無です。
食品も値上がり、流通も細くなっている実態経済において、世界恐慌と関税戦争に巻き込まれただけで一般市民の生活はますます逼迫するでしょう。
スピリチュアル業界では「2025年問題」とか言われますが、南海トラフ地震の脅威も身近にある中、大恐慌と大規模災害が重なれば手も足も出ない状況に置かれるのは目に見えています。

このカタストロフは目前に迫っており、これは脅しでも予言でも何でもなく、大不況下で大災害が起これば極度の混乱状態となり、にわかに復興できないのは冷静に考えれば誰でもわかります。
だからこそ、日本人には一人でも多くこの危機感を共有したいと思うのです。

日本人は戦後80年間、外国の富裕層や企業が雇うロビイストが贈収賄をすることで、実質的に動かされてきた米国政府の言いなりになって来ました。
それでも、日本人は優秀な民族なので、島国根性と言われながら独自の技術や文化を発展させ、産業として世界に認められました。
しかし、そこで「世界」というものを意識し始めて、日本はダメになったように見えないでしょうか。

現在、リバイバルブームで注目を浴びる製品やコンテンツの殆どが、90年代までに日本国内向けに作られたものです。
2000年代に入ると「グローバリズム」なるものが台頭し、外国資本だけでなく海外文化への受け入れも急速に進んで行きました。
日本企業が「世界」と言うものを意識し、西側諸国のルールや価値観をスタンダードにして行った結果、国内産業が衰退し外資系企業が隆盛する今の現状があるように思えてなりません。

日本の良い部分は形式化し、むしろ真髄に近い部分を海外に持っていかれ、日本人が外国の模倣を受け入れるしかない現状を鑑みるに、やはり上手いことやられてしまったと考えられると思います。
日本人は日本の国内市場を意識し続ける限り、独自の経済圏を保守し続けることができたのではないでしょうか。
日本が不動産バブル崩壊から立ち直れず、ダラダラと衰退の一途を辿る要因となったのは、一重に日銀の度重なる失策と円安政策にあります。

そもそも、日本の購買力平価に比較して円の通貨価値は半値に近く、実は国際競争力において覇権を取れる実力を持ちながら、日本政府はわざとそれを回避してきました。

日本が円安方針を取れば海外への輸出は黒字化し、貿易赤字が膨らめば企業収益は上がります。
国民に債務が増大すると、自己資本以外に資産を持たない市民に借金をさせることで、政府や大企業、資産家はますます潤います。
特に国内の輸出企業はグローバル化に成功した企業が多く、大企業がほとんどを占めるがゆえに影響力は甚大です。

こうして国民を貧しくさせることで利潤を得てきた人々がいる一方、家族を作れず少子化に拍車がかかった若者世代は豊かになりづらく、人材不足の穴埋めをするために外国人を斡旋することで儲けている人々もいます。
そして、物価高が続くのも日銀が円安方針を変えないからであり、その理由は円高が進むと昨年8月の米国株大暴落のような「円キャリートレード」の巻き戻しがトリガーとなり、米国経済は再び大暴落の憂き目に遭う恐れがあるからです。

つまりは、全てアメリカを中心とした国策であり、アメリカの支配下にある限り日本は復活できないどころか、一緒に破滅する必要のない日本までもが奈落の底に引きずり降ろされるということです。
この事態を私たちが止めることはできないとしても、ここまで見えても何もしない方が不可思議と言うものです。

ただし、今から政治活動に熱心になったところで時すでに遅しと言わざるを得ません。
現状でも国内がここまで荒れている上に、世界経済の崩壊は日本の立て直しよりも先にやって来ます。
だから私の考えとしては、ハードランディングへの備えをしつつ、動乱の起こる日本をどう作り直して行くか、と言うところに頭が向いています。

おそらく、現時点でその規模まで予測することは不可能です。
ただ明確に言えることは、日常的に手に入るものは入手できるかわからなくなり、食卓に並ぶ食べ物も、いつも通っている店もいつまであるかわからないと言うことです。
何となく今の生活が続いていくという頭でいたら、気持ちが追いつかなくなるかもしれません。

だからこそ、社会や経済に対する依存を極力減らし、自分自身も文明から自立できるような準備をしていくべきだと思います。
少なくとも、食糧難が長期化した時に何を食べて生きていくか、心身を病まず健康的に生活できるのか、想像を巡らせるところから始めてみてはどうでしょうか。

この記事をここまで読んでいただければわかると思いますが、全ては「アメリカ」という国家のエゴ、あるいはその背後にいる少数の人々の匙加減に100年近く振り回されて来たのが、我が国日本です。
このカラクリを知り、知った上でどう判断して生きていくか、その立場でものを考えてこそ日本の未来をしっかり見ることができるでしょう。
そして、自分一人でも何ができるかを考え、自分一人でも行動する信念と勇気を持つことです。

今こそ、「日本人よ立ち上がれ」とは言いません。
何も知らず、何もやらずに死にたくなければ、この世界と日本という国に対して、本気で向き合わなければいけない時が来たのだと思います。

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新しい時代の「金運」

楽太郎です。

ここ数日は、無意識に過去の記憶が噴き出してくる現象に遭遇しています。
突然、何十年も忘れていた出来事や光景が思い浮かび、懐かしさと同時に奇妙な違和感を覚えます。

何の前触れもきっかけもなく古い記憶が呼び起こされることで、昔あった場所や人が今どうしているかを調べたくなったりします。
そうして追憶に費やす時間は、意識が過去に向かう限り建設的な思考ができません。

この「懐古志向」の流れは、邪気の一種ではないかと思います。

この邪気はこれまでの殺伐としたエネルギーとは違い、愛着や良い思い出を媒介とするために邪気とは認識しにくいです。
しかし、覚醒を阻害し引き戻すエネルギーに変わりはなく、この邪気は自分の中の過去に対する後悔や、「昔は良かった」という感情に巣食います。

この保守的な邪気は、おそらく集合意識の具象化であり、人々がこれまでの価値観で生きることができなくなったことによる反動形成ではないでしょうか。
つまり、これからの時代を生きる指針が見つからないため、懐古主義の大キャンペーンを張り、古いやり方を再び指標に据えようとしているのだと思います。

つまり、これまでと同じやり方を続けるための同調圧力であり、逆に言えば同じことを続ける以外は新しいことを目標にしない、という意思決定でもあります。
自己模倣と再生産だけを延々と繰り返せば、これまでの物質中心の短絡的な世界を維持し続けられると人々は無意識に思っているのでしょう。
しかし、水槽の中で澱んだ水を循環しているに過ぎないので、いずれ長くは持たないはずです。

この懐古志向の邪気は、劣等感や愛着や憧れなど人の柔らかい心の部分を刺激し、温かい感情を苗床にする分タチが悪いのです。
この擬態した邪気は、優しさを疑いもなく持ち続ける限り古い時代のマインドに押し流す力があります。
何となく心の隙間に入り込まれて、人世のエネルギーに引き戻されてしまった人もいるかもしれません。

神代に上がる人々が出てくる時期に、この種の罠は巧妙な悪意を感じます。
人世に押し戻そうとするエネルギーに触れると、何となく危機感が麻痺した状態になり、この平和で微妙な社会がダラダラと続いて、いずれ世の中がジワジワ良くなっていくのではないか、と錯覚し始めます。
しかし、その平和ボケした感情こそが邪気であり、警戒感を解かれた意識は搾取に疑いもなく浸かり切って抜け出せなくなってくるはずです。

「お金」が万能である時代は未来永劫変わらず、どれほど荒れた世であっても経済の中心にいれば、食うに困らず今まで通りの幸福を手に入れられる、そう思い込むようになってきます。

しかし地球が次元上昇をして、神々が主導権を握る世になるべく動いているのは、そう言った拝金主義と特定の支配階級による帝国主義が役割を終えようとしているからです。
何故この期に及んで、神々がなぜ新しい資本主義社会をわざわざ作る必要があるのか、その理由を考えればこれまでの経済の延長に神々の望む世があるとは思えないでしょう。

これまで人間中心の経済活動が全てだった時代では、各個人が望まなくても人や組織の下で働き、労働力を「お金」に変換して生活をして来ました。
そこでは、自分の意志や才能とは関係なく、他者からの要求に基づき賃金のために取引することを優先し、むしろそのために我欲や信念を捨てるのが望ましいとまでされています。
その文明圏において、お金はあらゆるものを手にすることができる手段である一方、モノやサービスを生み出すために各々が自らの意志とは無関係に使役される構図がありました。

神々は、この仕組みにメスを入れようとしているのだと思います。

お金が中心になる世界においては、各個人の価値観や生き方、発想や個性を型に嵌めることで大衆を扇動し、消費行動をコントロールして来ました。
その仕組みで最も美味い汁を吸うのはごく少数の特権階級だけであり、多くの人々は何の疑いもなく奴隷的使役を強制されているのです。

これから「風の時代」だからと、自由な気風で生きていくことを理想としながら、同時に自分以外の人々は会社や工場で一生働き続け、自分だけがその恩恵を享受し続けられるという発想は矛盾します。
魂の赴くままに自由でありたいと願うのであれば、誰かが奴隷的でいて欲しいと思う心こそ、古い時代のマインドそのものです。

神々は人間が掌握してきた「貨幣」という物質的なエネルギーを、次の時代仕様に変えようとしています。
それは今日の資本主義経済が袋小路に入り、大規模なポンジスキームが横行している現状を見れば、常識的な目で見ても限界だとわかると思います。
世界通貨たる米ドルの崩壊と金の暴騰、そのバランスが壊れた瞬間、金融主体の時代は終焉を迎えることでしょう。

では新しい時代の「お金」とはどんな意味を持つのでしょうか。

ここで言う「お金」とは、貨幣や取引通貨だけのことを指すのではありません。
まさに「富」と同義であり、物質的なエネルギーだけでなく精神的、人との繋がりや信頼などから得られるあらゆる所有物を指します。

つまり、円やドルなどの基軸通貨として流通の形を取らずとも、エネルギーの循環や交換が物理的な現象となって、各々の手元に届くのが新しい時代の「お金」だと思います。
これまでは基軸通貨のドルが世界経済を支配していたからこそ、巨大な帝国主義が大手を振る時代だったと考えられます。
ゆえに、円やドルに代替するあらゆる取引手段での流通が可能になれば、資本による経済的支配のルールからは解放されるはずです。

それは具体的にどんな形になるかわかりませんが、モノとサービスを交換するだけなら当事者が直接取引すれば良いだけですし、貨幣でなくともクーポンやトークンがあれば商業取引は可能です。
あくまで国家経済の支配から逃れた取引が実現すれば良いのであり、要は代替手段が限りなくあればそれに越したことはないという話なのです。

今もそうですが、人間社会では他人からお金をもらうために人に奉仕するという仕組みになっています。
「お金」を得るには人間を富の源に置かなければなりませんでしたが、よく考えれば人から貰わず、人にやってもらわなくても「ゼロ」から作り出すことは可能です。
野菜や穀物にしても、土に種を蒔いて水をやり続けて育つ分にはあまり元手はかかりません。
紙にしろ墨にしろ、自然にあるものを加工すれば自分の手で生み出せるもので、自分で作ることができれば他人からモノを買う必要がなく、あるいは自分の手元にあるモノを人に譲ることもできます。

「ゼロ」からお金を作り出す仕組みに気づけば、「金運」を宝くじやお金持ちとのコネに賭けずともお金は巡ってくるでしょう。
新しい時代の金運とは単一の「貨幣」に特化したものではなく、複合的総合的なもので様々やルートや形態を持って現れてくるものだと思います。

そのプロセスにおいて、お金とは物質次元のことだけではなく、「エネルギーそのもの」だと言っても過言ではありません。
例えば真心を込めた商品があったとして、その付加価値がそのままお金になるわけではなく、愛情がエネルギーとして変換され、そのエネルギーを受け取った人が対価を払いたくなるのが、本来の商業のあり方です。

いくらラベルに「真心こもった」と書いたところで、精神的なエネルギーの交換が行われなければ、人々は相変わらず安くて無機質な工業製品を求めるでしょう。
ただ、作り手の人柄や思い、それ以上に磨かれた技術による高度な作品性がエネルギーとして人々に伝わることで、結果的に商品価値に繋がっていくはずです。

ゆえに、新しい時代において「金運」とは一度エネルギーに変換され、エネルギーの質と量に応じて貨幣価値などの形で具現化されていくでしょう。
その仕組みにおいて、コマーシャリズムの資本力で如何様にでも価値を決められた経済は役割を終えていくはずです。

私の話をするなら、現時点でお金の巡りは非常に悪いです。
その反面、植物を育てるセンスや予知などのスピリチュアル的な能力が目覚めたことで、自分の才能を富に結びつけやすくなりました。
通常の「お金」として縁遠くなりながらも、別の形でお金を稼ぐ手段を幾つも身につけたのです。

自然の恵みが無償であるように、自分の才能に係る知識や技術はタダのものであり、ゆえに無から有を生み出す力こそ本来の「金運」なのかもしれません。

その発想や活力を与えて下さるのは神様であり、神への信仰心こそ金運そのものであると言っても過言ではないと思います。
お金は「目に見えるもの」「人間が持っているもの」だと思うからこそ、この成り立ちを理解することができません。
お金が目に見える形でなければ不安なのもわかりますが、それゆえ目に見えない形のお金を信じれば、本当の金運が巡って来るのかもしれません。

それができる人間はこの世に数少なく、陰徳のような修行を伴うからこそ、この金運を掴める人は限られているはずです。
ただそのような行いほど神様の願いだったり、神々からのお役目であったりするわけで、だからこそ誰にでも手にすることができるわけではないかもしれません。

人間は評価や対価が目に見えてないと、すぐに諦めてしまいます。
ただ、真心のあるやり方はすぐに結果になり難く、それゆえに誰に見られてるかわからなくてもやる、くらいの心構えが必要です。
けれども、こういう直向きなところを、人も神様も注意深く見るものです。

現在の金融が一人歩きする数字の世が改まるならば、健全な商業の時代に戻っていくでしょう。
その時代の「富」は、きちんとエネルギーを循環する能力を持った人々が持つべきでしょうし、そういう善意ある人たちによって新しい世界の経済が築かれていく気がしてなりません。

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