楽太郎です。
ここ数日、家庭が少し荒れていました。
父はわりと我良しでマイペースな性格なのですが、ここ数日はまるで人が変わったかのように怒りっぽくなり、同居している母にも当たり散らすようになっていました。
私も特によくわからないことをしながら実家にいるものですから、父の心象が良くないことも知っているのですが、それにしては機嫌が悪すぎるのです。
あまりにも近寄り難いので理由も聞けずにいたのですが、父の後の風呂に入った時、妙な体臭があることに気づきました。
これまであまり嗅いだことのない匂いというか、魚のような生臭さで、汚い水の中に生息していそうな生き物の匂いがしました。
私はこれを嗅いだ瞬間、「人間のものではない」と気がついて、どうやら父の豹変は憑依によるものではないかと考えるようになりました。
だからこの数日はどうにか人知れず父の除霊を試みていたりしたのですが、ようやく問題はそこにないことに気づきました。
というのも、別に父の機嫌が悪いくらいでは慣れたはずなのですが、今回に限っては父と自宅にいる間は首肩が異様に凝るし頭も痛くなってきます。
つまり霊障が激しくなるので、どうも父を中心として邪気が降りかかってきているのです。
だから何とか父を祓えないか色々やってみたのですが、どうやらこの霊障は「巡り」つまりカルマ、因果応報であることがわかりました。
私の話をすると、思春期の頃に父との関係は最悪でした。
当時は反抗期でしたし、私も少しはグレていた部分もあったので父に対する風当たりは相当強かったと思います。
子供ながらにテコでも動かない父の鈍感さには腐心していましたし、全く心が通い合わない親子関係だったので、正直言うと父のことを「呪って」いたのだと思います。
私も母も潜在的に霊能力があるので、そういう人間が人を恨むと呪力も強くなります。
父は根っからカラッとした性格の人なので、ネチネチ腹を立てることはあまりしないはずですし、この種の憑依が起きたのも私たち母子と長年暮らしているうちに憑依体質に変化したのだろうと思います。
父に取り憑いているのは「蛇(オロチ)」の邪霊で、生臭い体臭も爬虫類系の霊による性質だと考えれば辻褄が合います。
それが私が父にかけた呪いとどう関係があるかと言うと、この「蛇」というのは私から発せられた呪いそのものであるということです。
つまり、私が過去に父にかけた呪いが憑依という形で「巡り」となり、私に降りかかってきたのです。
どうもカルマや因果応報としての「巡り」というのは、宇宙法則なので神にも捻じ曲げられません。
いくら神仏を慕い加護を受けていると言えど、宇宙法則が優先されるので言ってみれば「カルマはいかなる守護も貫通する」のだと思います。
だから、最近の霊障が何となく祝詞やお経が通じないのも、自分の放った邪気が自分に戻って来ているだけだとしたら、加護をすり抜けるのも理解できるのです。
私は確かに昔からロクなことをしてこなかったのは認めているので、何が返ってきてもおかしくないな、と思います。
それはとても反省してますし、だから父に与えた呪いが今の自分に返ってくるのもしょうがないと思うしかありません。
おそらく、しばらく経てば父も元に戻るでしょうし、親子関係も自然になると思います。
だから心配はしていないのですが、それまで自分の発した呪いを甘んじて受け続けなければならないという期間を過ごすことになりそうです。
霊的な解説をすると、この「蛇」というのは実在のヘビとは実際に繋がりはないと思います。
生き物としてのヘビは確かに霊性が高いのは事実なのでしょうが、ヘビそのものに悪霊の性質がある訳ではありません。
それで言ったら悪霊の化身とされる「狸」や「狐」も実際に悪い動物になってしまいますが、全くそんなことはないのでイメージが実在の生物に当てられているだけでしょう。
ただし、「蛇的な性格」の死霊がどんどん動物性を増していけば、実際の蛇の霊も取り込んで半妖となっていく場合もあるかも知れません。
大抵の「動物霊」と呼ばれるのは元は人間で、動物的性質と深く感応すれば動物に限りなく近づくこともあるのではないでしょうか。
私がよく引用する「日月神示」にも、邪気邪霊の類として「蛇(オロチ)」「金毛(※狐のこと)」「邪気」と三つの分類が示されています。
以下に写真を示しますが、私が愛用するルノルマンカードには「蛇」「狐」「鼠」のカードがあり、それぞれが日月神示の三分類に対応しています。
ルノルマンで私が占う時にはこれらのカードが危険を知らせるので、身を守る役に立っています。
体感的に邪霊の特性で言うと、「蛇」は憎悪と執着です。
かなり粘着した強めの邪気なので、身体的な攻撃性は高いです。主に腹に留まって長期間悪さをします。かなり感情的な念が強くあまり理屈が通じません。
より本能に近い悪感情を元にしているので、人間的な心を持っておらず、その辺が実に爬虫類的です。
これが「お金」や「名誉」に対する執着と出たら、俗に言う「レプティリアン」みたいな人格になるかもしれません。
「金毛(狐)」は、嫉妬心が強く野心的で、巧妙な悪意を働かせます。
よく「狐に化かされる」と言いますが、金毛は人を欺き誤解させ、時によっては無関係な者同士を同士討ちさせたりします。
おそらく悪霊自身はそれを見て嘲笑っています。それほど悪質なのですが蛇ほど攻撃性は高くなく、どちらかと言えば享楽的です。
SNSとかで人を釣って楽しんでいる系の人のイメージに近いです。実際、この手の憑依にかかって世を掻き回しているインフルエンサーは多いと思います。
この悪霊は肩首周りから頭部に感じやすいです。後頭架筋あたりを狙ってより内部に入って来ようとします。
ルノルマンの「鼠」に関しては、ほぼ霊体としての実態はないか弱すぎて形を成していないケースが多いのではないでしょうか。私はそのまま「邪気」と読んでいます。
「邪気」とは、陽気陰気とあるように攻撃性が高い負の念です。これは悪霊に限らず残留思念や気場にも現れて、人々の感情を「何か嫌な気持ち」に誘います。
その「嫌な気持ち」に引っ張られて、人間は妙な反応を起こすようになります。
その場所を避けたり、人を嫌って非難したり、虐めたり喧嘩を売ったりしたくなるため、このエネルギーの影響を知らずのうちに受けている人が多い印象です。
「鼠」と出るくらいなので、チーズをちょこちょこ齧るようにエネルギーを少しずつ奪っていきます。
大意は感じないのですが、小さな搾取も重なれば損害になってくるので、やはり対応はしなければなりません。
私にとって邪気は肌で感じることが殆どで、主に身体現象として現れます。
手足の痺れや肩凝り、頭痛や冷や汗などの症状になりやすいので、私はずっと病気持ちなのだと思っていました。
これらの邪気が好き勝手に動き回るには、唯物史観の世はさぞかし居心地が良かっただろうなと思います。
お釈迦様が悟りをお開きになる直前、「第六天魔王」という仏魔が誘惑をして悟りを妨げたと言います。
仏教には「天魔」という概念があり、仏道に試練を与える存在として「魔」が定義されており、世にある邪悪や欲望は悟りの境地に強く立ちはだかるからこそ、より強い信心に至るのだと教えます。
私はこの考えこそ「日月神示」にも示されている「悪」の定義そのものであり、全てが全宇宙を支配する大神の一存であるからこそ悪も必要なものとして存在しており、善一方では成り立たず、それゆえに「善と悪とのあなない(和合)」が必要であると説きます。
私たちは邪気邪霊の類は消し去ろうとしますし、悪もこの世から滅ぼせば平和になると考えます。
しかし、悪は「必要悪」だから宇宙の秩序の一部として存在するのであり、決して憎むべき存在だからこの世の悪を糺す必要があるのではないと思います。
日月神示の中では、「悪が表に出るのが良くないのだ」と言います。
確かに、指定暴力団が芸能界や繁華街などで融通を効かせる分には「龍が如く」の世界だと思えますが、メディア系企業と手を組んで仕掛けるようになってくると、世の中の露悪性は一気に高まるでしょう。
今の日本も世界も、社会の露悪性の高さは皆薄々わかっているのだけれど、そこに資本と権力が集中するから誰もが黙って従わざるを得ない世の中になっているのです。
悪が表でも裏でも、融通を効かせまくっているから問題になるのだと思います。
ちょっと危険な話が続きましたが、そろそろまとめます。
私が思春期の頃に父にかけた呪いは、「蛇」の様相を呈して私に返ってきました。
呪いとはカルマであり、自分が招いた因果応報であるので信仰も加護も素通りします。
それは甘んじて受けるしかなく、ただ自分が反省し懺悔する以外には早く消し去る方法はありません。
こう言った邪気邪霊が私に襲いくるのは、一重に私の心に同じ火種があるからです。
火種も煙も外にあるものだと思いがちですし、実際に外でこれらの現象はよく見られるので自分の中にはないと錯覚します。
ただ火のあるところに煙は立たず、自分の火種と外にある火種が同じ系統のものだからこそ、自分の心にも煙が立ち、火種も煙も外部の延焼を呼びます。
自分の中に蛇や狐や鼠の心があるからこそ、彼らがやって来ます。
従って、その火種を綺麗に消し去れば煙も立たず、心の中にある蛇穴も獣道も塞いでしまえば入って来れません。
これが「自己浄化」であり、神道で言う「祓い清め」であります。
「祓い」とは、「神様に邪気や邪念を取り去って頂く」ものであるとされ、外部的な働きになります。
一方「清め」とは内部的な働きであり、自分で行うものとされます。
身体は自分で洗わなければ綺麗にならないように、自分で心を禊がなければ浄化できないのです。
ゆえに「祓い清め」というのは、神職さんに大麻を振ってもらうだけでは成就しません。
この真の「祓い清め」を、現代では誰もが行おうとせず、自分で自分を清めなくなってしまいました。
一人一人が邪気邪念を祓い清めなくなったことで、その悪感情は伝染して世に蔓延していきました。
おそらく、その一端が今の世に現れているのだと思います。
世に罪穢れが満ち、神々の祓いも願われなければ行われないものであるが故に、自然現象の中での浄化作用では追いつかなくなったのです。
だからこそ、祓いを神様にお願いするだけでなく、自分で自分を清める努力も必要です。
私だけでなく、誰もが自分で自分の汚したものは拭き取り、出したゴミはきちんと片付けなければなりません。
それは面倒くさくて自分が汚したことに後悔もするのですが、それと向き合わなければ負のカルマという借金をチャラにはできません。
貯金は借金を残したまま蓄えることができないように、おそらくカルマも幸運もそういうものなのだと思います。
悪いカルマを返済し終えた暁には、きちんと良いカルマが蓄積される仕組みなのだと思います。
それがわかる以上は、涙を流してでもコツコツ返していくしかありません。

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楽太郎です。
以前、「アセンションと霊界再編」という記事で、概念図を元に地球の次元上昇の意味について解説しました。
その中で、なぜ地球が次元上昇するかという目的に関しては触れていませんでした。
おそらく、これまでの地球における人類の魂の学びの過程で、物質文明における功罪があまりに露骨に現れたのは「環境破壊」という側面です。
人類には既に水爆や放射能兵器、遺伝子改変技術や人工ウイルス、近年では人工知能なども脅威となりつつあります。
しかし、昨今の高度技術に反比例する人類のモラルハザードは、COVID19のパンデミックを見てもわかるように「誰も大惨事に対する責任を追求されない」事態も引き起こしています。
私が思うに、人類を破滅する脅威を抑制するほどの人治の能力があまりに不足しており、モラルハザードはそのまま人類滅亡に繋がる恐れすら生じています。
もちろん、地球に存在するのは人類だけではないので、文明が崩壊した後の地球の汚染に関する問題もあり、他の生態系に対する影響も計り知れません。
そこで、物質文明に対する「進化のカリキュラム」を終えると同時に、宇宙的均衡を取り戻すために人類の霊的覚醒と神々の再支配が始まろうとしているのだと思います。
これまで人治の世界が続き、自然の摂理すら捻じ曲げられてきたのは、一重に人間よりも上位の存在が人間の行いを黙認してきたからです。
この状況はおそらく3000年以上続いてきたのでしょうが、この歴史はまさに侵略と征服と戦争の繰り返しそのものでした。
しかし、その歴史のプロセスを終了するならば、人類を支配する権限が神々に再委譲されなくてはなりません。
これまで、その支配権は主に人間側の権威と、「神に仇なす者たち」の手中にありました。
その主導権を取り戻すと同時に、神々が人類の霊性を引き上げ、低次元に神性を送り込む方法の一環として「地球の霊的レベルを上昇させる」という手段に至ったのだと思います。
そして地球の霊性を上げる大事業の一部として、これまで人間が自分たちで霊界の最下層に作り上げてきた「幽界」という霊的気場があり、その階層を取り払って地球霊が新たに気場を作り出す作業を始めました。
それが私の言う「精神界」であり、6月の夏至でほぼ完成に至ったと見ています。
この精神界こそ次元上昇した地球霊魂の作り出す霊的気場であり、「地球意識」という新たな集合意識に繋がる高い波長域なのです。
前回の記事で、「いずれ集合意識の気場は崩壊し、人々は精神界の気場を使い始めるようになるのではないか」と述べましたが、これに関して補足があります。
まるで今生きている人々の集合意識が壊れ、誰もが右往左往する中で「精神界」にだけ救いがあるように受け取られかねません。
人間誰もが集合意識にアクセスするにしても、行動原理において精神的エネルギーを抽出する気場として集合意識は存在します。
ただし、人間個人の行動原理が100%「集合意識からのエネルギー」であることは殆どなく、肉体的な活力や魂からのエネルギーも使って人々は生活します。
集合意識とは言わば、社会的なエネルギーを交流させる場であり、「共同幻想」と言い表せるものです。
例えば、男なら一生のうちにマイホームを持つとか、三十路前には結婚して幸せなゴールをするとか、特に何の根拠はないけどその実現のために人々が死力を尽くそうとするような、強烈な動機を持つ社会通念です。
これはわりと侮りがたいエネルギーで、幼少期には貧乏で虐げられたけど、社会的に成り上がり業界に君臨するほどにまでなった人もいるくらいです。
良くない出方をするならば、鬱屈とした雰囲気から生まれる社会的リンチや迫害、社会に対する憤怒の捌け口としての戦争や差別など、人間の集合意識は目に見える社会現象となることもあります。
今回の解説では、次元上昇後に起こる集合意識の崩壊と、精神界のアプローチがどのようにして起こるかを扱います。
始めに、人間が精神的なエネルギーを肉体に反映させて具現化する時、二つの方法があります。
①集合意識からの動機づけ
②自己の魂からの動機づけ
①の集合意識は先ほど述べたように、社会通念として言説化され可視的な条件による動機づけとなるパターンが殆どです。
他に無意識のレベルから起こる共同幻想も存在しますが、これらの集合意識はそれ自体として客観視されることはあまりないため、ほぼ暗黙の領域で起きていると考えて良いと思います。
②の自分の魂を由来とする動機づけは、今回のテーマでもあります。
人間は村社会を形成する以前は、だいたい自分自身の肉体的欲求を活力にして来ました。
そのエネルギーも、精神面では己の「魂」を通じて生命力として獲得しながら、人類の祖先は過酷な自然を生き抜いて来たのです。
今でも、大して考えずに肉体的な欲求から溌剌と活動する人もいますし、社会性はあまりなくても自由闊達にのびのびと生きている人もいます。
近現代の人々は集団的な制度の中で生きるからこそ、「共同幻想」という動機を手に入れ行動するメリットがありますが、集団に属さなければ自分の中に動機を見出して十分生きられる存在です。
しかし、この共同幻想を主体として行動しなければならなかった理由は、一重に「共同幻想を共有しない人間は集団に適応できない」からです。
それゆえ、欲しくもないブランドのバッグを買ったり、行きたくもない高偏差値の学校を受験しなければならない立場に置かれる人もいたでしょう。
さて、ここまで説明した上で図解します。
「霊的具現化の構図」と題をつけましたが、平たく言えば「人間がどこから気力を持ってくるか」という話です。
先に述べたように、共同幻想を擁する集合意識は、理想や欲望を共有しながら同時に「同調圧力」も内包します。
希望だけでなく、不安や義務なども伴って共同幻想は支配力を持ち、人々の選択を左右します。
この一連の働きを「外部的喚起」と称します。
それに対して、上の②でも述べた「魂からのエネルギー」は、肉体的レベルだけでなく精神的、霊的な次元からの動機づけを伴います。
個人を主体とした独立したエネルギーの供給システムを、「内在的喚起」と呼称することにします。
人間一個人が、なぜ精神的なエネルギーを自給できるかと言うと、「魂」が物質界とは別の次元と繋がっているからです。
自分の意識として知覚できる自我を「小我」とするなら、スピリチュアル的に「ハイヤーセルフ」とか「ガイド」とされる超自我は、「大我」という大枠の自我の中にありますが、それらは一言で言えば「魂を取り巻く霊団」です。
私たち個人の霊魂というのは、実は一つで独立して存在するというより、あらゆる相が寄り集まって機能していると言えます。
人は一般的に生活する中でも、他人の思念や生き霊、相手の守護霊や土地の霊と無意識に交信をしながら、様々な現象に出会い思いを巡らせます。
目に見える世界だけで説明すれば、「なんかついてない」と思うことや、奇妙な巡り合わせなどが偶然に起こるように思えますが、それらは目に見えない次元での干渉もあるのです。
この「大我」を巡る霊体の種類に関して、これだけの例が挙げられます。
- 仲間内の生き霊
- 過去世の因縁霊
- 血族の先祖霊
- 民族としての遠津祖霊
- 霊団で立場のある守護霊
- 最も高次元にいる守護神
これらが「大我」という枠組みの中にあって、個人は様々な念や導きを無意識に受け取ります。
しかし、霊的なアプローチというのはかなり大雑把なもので、ある時には小我の行動が先立つこともあったり、大きなシナリオでは大我が支配的だったりもします。
そしてこの大我の中心にいる「魂」とは、全宇宙の霊魂の母体となる「大神」から与えられた「分御霊(わけみたま)であり、言わば神の一柱でもあるのです。
現代人が「私は神だ」と言えば完全にギャグになってしまいますが、それは「神などそこら辺にいる訳がない」という常識があるからです。
しかし、人間それぞれが一柱の「神」なのだとしたら、全く条件は変わります。
私たち一般市民は、ただ働いて消費して年を重ねて老人ホームで死んでいくような、設計された生き物であるかのように思い込まされているだけです。
もし目覚めれば誰しもが現人神になれるような器でありながら、「そんなはずはない」と思い、思い込まされているから「神である」という認識に至れないのです。
だからと言って、全ての人が特殊な神通力を使えるようになる訳ではないでしょうし、神としての自覚が芽生えても変わるのは心境に過ぎないかもしれません。
しかし神だという自覚は、適当な権威や流行に振り回され、理不尽な環境に依存して人生を浪費してしまうような生き方を改めて、自己を尊重し無碍にしないことへの信念となり得るものです。
そして大神から別れた分霊である以上、神性のエネルギーも魂の根源から湧き上がってきます。
あらゆる業界にいる「天才」と呼ばれる人々、どう考えても天から遣わされたとしか思えない奉仕精神に満ち溢れた人は、この神性を発露していると言っても過言ではありません。
彼らがある意味オリジリティを発揮しているように見えるのは、自身の魂から引き出した独自の神性を使っているからです。
つまり、自らの神性に繋がることが「才能」の発露であるとも言えます。
これまでは、①集合意識からのエネルギー、②魂からのエネルギーの二種類で動機づけをほぼ賄ってきた人類ですが、次元上昇した世界では「③地球意識からのエネルギー」が加わります。
①と②のエネルギーは、自らの利益のために自由に使うことができ、使い方によっては我田引水のような、「我良し」の環境を作り出すことにも使われていました。
しかし、新たな地球意識の気場である「精神界」が開かれたことで、新たな周波数のエネルギーを地上に降ろすことができるようになりました。
これが地球の次元上昇によって構築されたものである以上、この高い波長域は「相互精神」に基づく性質があります。
つまり、「人のため」「地球のため」と奉仕や愛情に深い動機をもつ時、この気場からエネルギーの供給を受けることができるのです。
これまでの「我良し」という思惑ではアクセスできない気場であり、それゆえ条件づけられた人にしか開かれないと言えます。
その条件は、深いレベルからの「自己浄化」と密接な関係があります。
そもそも、全ての優先順位において自分が最上位に立つような人は、地球意識を持ち合わせるのが難しいと思います。
それ以上に目に見えない世界を信じ、自分より上に霊的存在や神々を置いて敬い、その導きに謙虚になろうとする者でなければ浄化も覚醒も進みません。
従って、この新しい霊的気場を使えるか使えないかは完全に「本人次第」であり、それには覚醒に至るまでの精神的な修行も必要なのです。
確かに、春分点や5月の満月でどうやら「人々の線引き」が行われたのは間違いなさそうなのですが、「地球意識」という概念を知った時点で、すでに地球意識にアクセスできるタイムラインにいるのかもしれません。
「なんか面倒くさそうだから別にいい」と大抵の人は思われるでしょう。
しかし前回の解説で述べたように、今後はこれまでの拝金主義、物質主義を中心とした「共同幻想」は崩壊していくと思います。
人間の集合意識全般が、というよりは古い共同幻想が解体されていくはずです。
なぜなら、これまでの文明を形成してきた資本主義という金融システムが、これから轟沈していくからです。
目に見える形では、アメリカを中心とした西側陣営の混乱と崩壊、社会主義帝国連合の瓦解という形で現れてくると思います。
それほど動乱の世となれば、これまでの成功法則をなぞる人生に意味は成さなくなります。
そう言った成功のフォーマットが失われた社会では、個人の幸福や目的に人々はフォーカスするようになるはずです。
これまでの時代の闇が浮き彫りになり、人々に教訓と後悔を突きつける時、誰もが新しい目的意識を探し求め、より良い世界を作り出すために相互精神に目覚めていくことでしょう。
そのために開かれた気場が「精神界」です。
私には全てが神々によって計画されながら、決して平坦でも美しくもないこれまでの世界があって、しかしその道を辿ることでしか人類の正しい進化はないのだと、この仕組みを見て改めて考えさせられます。

楽太郎です。
ここ最近、私自身の「感情」について見つめ直す機会が訪れていました。
近所の公園の造成工事が、半年前に完成していてもおかしくないのに未だに敷石の一つもなく、草木一本植え終わっていません。
コンビニの棚には変わり映えしない品ばかり並び、品質も量もどんどん落ちていくのに値段だけが跳ね上がっていきます。
皆が無気力になり言い出すリスクを避け、何も言わず何もしないからこそ、世の中はますます力あるものたちの思惑通りになっています。
そこに関わる個人は良しとしていなくても、組織や社会が決めたことであれば従わざるを得ません。
その当事者を一概に責められないでしょうが、かと言って加担している事実を無関係にすることもできないでしょう。
その組織や社会も、彼らだけでなく私をも巻き込んだ上で、もしかするとどうにもならない流れの中にあるのかもしれません。
こういう光景を毎日見ていると気にしないフリをするのも難しくなり、いい加減に何とかならないのか、と遺憾の意が込み上がってきます。
実際に怒ってはいなくても、積み重なる猜疑心で腹の底では抱えきれない怨念を抱え込んでいるのかもしれません。
どこかで理不尽さを感じている人々も、私自身もこの世界が変わる日を心待ちにし、一刻も早くその時が来て救われることを願っているように思います。
私に降り掛かる霊障に関しても、いつ終わるのかという気持ちはあります。
「いつか」終わるのはわかります。けれど、その「いつ」なのかが重要にも関わらず、出口が見えないゆえに不安や疑念は付きまといます。
いつか状況が変わる日を待ち日々を耐え忍びながら、それでも目に見える光景は何一つ変わらず、人々は依然として変わる兆しを見せません。
そのもどかしさと焦りの中で、私は神様に「早く時代を変えてくれ」と願い続けています。
しかし、もし神々が時代を変えようと事を起こしたとして、それが必ずしも私が望む形の変化であるとは限りません。
例えば、3人に1人くらいが亡くなるような世となれば、確かに時代は変わるし世界も変わるでしょうが、それは決して私が望むような光景ではありません。
だから「世を変えて欲しい」という願いには、ある種の理想、言い方を変えればエゴが潜んでいます。
「変革の夢」には個人的な条件づけがあって、その願いが叶うことを神様に求めているのです。
果たして、そんな一個人の願いを神様は受けられるのでしょうか。
この世界に感じるもどかしさは、私だけが特別に感じているわけではないはずです。
他の大多数がおかしいと思っているし、出来れば変わって欲しいと思っているでしょう。
誰もが自分自身が正しいと信じ、「こうすれば世は良くなる」と考えています。
けれど、その考え方に固執しているうちは、目の前で一向に変わらない物事がもどかしくなり、顔色一つ変えようとしない人々を憎らしくも感じるかもしれません。
そんな私自身に、「我良し」の感情がないと言い切れるでしょうか。
世の中が綺麗に変わることを自分で「善」だと感じても、それが他の当事者にとっては悪夢かもしれません。
同時に、彼らにとっての楽園は私にとっての「地獄」だったりします。
どちらが正しくこの世に相応しいか、で言えば私も彼らも等価の存在です。
神様からすれば、善も悪もその時代ごとに必要な役割を与えているだけで、本来なら優劣も要不要もないはずなのです。
そんな世の中に、私は意固地になって「間違っている」とぶつけ、躍起になって自分の正しさを証明したくなります。
一刻も早く証明して溜飲を下げたいけれど、世が一向に改まろうとしないからもどかしくなり、どうなっているんだ、早くしてくれと焦りの感情が湧き上がってきます。
それは完全に「我欲」であり、欲であるが故に叶わぬ苦しみを覚え、苦しむからますます救いを求めるのです。
では、この苦しみは我欲を捨てれば良いのかと言えば、その前に気をつけるべきことがあります。
世は「諸行無常」であり、結論を言うといずれ時代は変わりますし、世も変わっていくでしょう。
おそらく、私が神様から受けているメッセージの通りに世は移ろい、結果的にそうなっていくはずです。
しかし問題は、「それがいつかわからないから、耐えられそうにない」と感じて不満に思うことにあります。
つまり、我欲があるから「自分の思い通りにならない時間」を耐えるのが苦しいと感じています。
例えその動機が「世を良くしたい」という善意であっても、我意は我意なのです。
ではその我欲を持って願いが叶わないのは不自然なことかと言えば、願望が叶わないのは世界のデフォルトです。
それが個人の手に負えない巨大なことで、特に不特定多数の人が関わる世であれば尚更です。
そういった念では動きようのないものを動かそうとし、それを望むから叶わず、叶わないという不満が邪気になります。
では、一個人の力では到底及ばない物事はどうしたらいいのかと言うと、それこそ超常的な存在に頼るしかありません。
つまり、神に委ねるしかないのです。
ものすごくシンプルな結論なのですが、この答えになかなか辿り着けないのが人間というものです。
人間は自分の思考で目の前のことを何とかしようとして、例え目の前にないことでも思考を巡らせ、何らかの手段を取れば解決できると考えがちです。
そのやり方で、大体のことは対処できてしまうからです。けれども、それゆえに「人間の力ではどうにもならないこと」も、何とかできるに違いないと錯覚してしまうのです。
中国では毎年乾季になると、「降雨ロケット」なるものを飛ばすそうです。
ロケットに積載した特殊な化学薬品の反応により、雲の水分を結合させることで一時的に雨を降らせることができると言います。
しかし中国の異常気象はもはや日常茶飯事であり、気候が荒れるのも元を辿れば、度重なる環境破壊に端を発します。
そこで雨を降らせたいからとロケットで気象操作をしますが、地球規模の自然サイクルの中でのバランスは全く考慮されておらず、その行動によってどんな影響があってもおかしくありません。
けれど、人間は知らなければないものだと思いたがる生き物ですから、降雨ロケットの環境への悪影響について語る人がいようものなら、特に中国であれば尚更存在することは許されないでしょう。
科学技術を万能だと信じるのもそうですが、科学的な理論と実践が成り立てば、全てのものがコントロール可能であると人間は錯覚します。
しかし現実の世界では、どのように「バタフライエフェクト」が発生するかを完全に予測できず、それは人智を超えた領域です。
それゆえ、人間が万物を理解して全てのことを成し遂げられるという考え方は、実は身の丈に合っていません。
ここで「神に委ねる」というのは、一見責任を放棄して何もしないことを推奨するように思えます。
仏教には「他力本願」という言葉があり、「他力」という神仏の力を本命とせよという意味ですが、これには「自力を尽くした上で」という大前提があります。
自分のするべきことはしっかりやるのだけれど、自分の手の届かないそれ以上のことはもはや神様に任せるしかないのです。
何もかも自分の意志でやろうとして、目の前のことを一つ一つ思い通りに動かそうとするから、そうならない時に不満が募ります。
当然、自分の力でコントロールできるものとできないものがあり、どこまでも自分の手が及ぶと思うことこそ思い込みであり、実際はそうならないことの方が多いです。
何かを思う通りに事を成そうとすれば我意が宿り、我欲が起こるゆえに不満も覚えます。
その考えに固執するから苦しみが生まれるのであって、そのループから解放されるためには、あえて思考を手放してみることです。
そして、人間よりも大きな物事はやはり神々の領域であることを知り、神様の行う領域に極力口を挟まないことです。
そうして神を信じきるからこそ、自然な成り行きに任せることができるようになります。
これは頭ではわかっても、感覚で理解するのはなかなか難しいでしょう。
人間は考えを行動に移す時、できる限り思想を忠実に実践しようとします。
神に自らの意思を委ねる時は、心で感じることをただ実地に移すという感覚に近いのです。
それは同じように見えますが、人は頭で考えてやることほど我意を行動に移すことが多く、感覚や心で動く時は余計な思考を伴わないものです。
「自分の意思を神に委ねる」というのは、ものすごく不審に感じられるかもしれません。
ただ思い出していただきたいのは、私たちが子供の頃、社会問題や戦争のニュースを眺めながら、自分の無力さを現実に映し見て不安を覚えていたでしょうか。
両親や大人たちが特別頼りになるわけでなくても、何とかなるような楽観的な気持ちでいたし、それは決して世の中に対して無知だったからではないはずです。
心理学では、人間の不安は9割が取り越し苦労だと言われます。
子供の頃に未来に不安があまりなかったのは、無意識に自分より大きな存在に身を委ねていたからです。
自分が小さくか弱い存在だと知っているからこそ、委ねきるしかないことも無意識に理解していたのです。
しかし、大人になれば何にでも責任を持たなくてはならなくなり、できる限り自分の手で何とかしなければいけなくなります。
そうした自助努力の世界にどっぷり浸かることで、「委ねる」ということができなくなっていくのだと思います。
この世界は右でも左でも権威というものはどうも信じきれず、どこを見回しても胡散臭く、疑心暗鬼に駆られて不安に陥ることもあります。
けれど、それを感じているのは自分一人ではなく、自分よりも地位がある人でさえ心の支えがなく、不安を抱えていたりします。
まして人間が千人や万人より集まったところで、誰が先頭に立とうと変えられるものは僅かでしょう。
だからこそ、人間の手が及ばないことには「神の手」を期待するしかありません。
それは全てを捨て、ひたすら神仏に拝めばいいということではなく、自分のできることをやった上で、自分の手では叶えられないことも潔く認めるのです。
そして、願いが叶うことを神仏に託すこと自体、人間としてできる限界のことだったりします。
それ以上のことを願い、人間の限界以上のことを自分で叶えようとすれば、上手くいかないのは当たり前のことです。
世を変えるための戦いも、戦うことそのものよりも「戦おう」とするから辛くなっていき、挑むから相手から挑まれるのであり、進んで出て行かなくても戦わなければならない時は戦うしかありません。
「世を良くしよう」という真面目さは時に愚直さとなり、愚直がゆえに無謀にもなり得るのです。
それは決して、綺麗事だからと全てを肯定する理由にはなりません。
私は、日々のニュースや日常で起こる目の前のことに嫌気が差し、気が滅入る時もあります。
世にある一つ一つのことにも、「どうしてこうなんだ」と「こうすれば良いのに」と考えるほど、自分以外の人が間違っているように感じてしまいます。
けれど、「世が良くなって欲しい」という綺麗な願いも、自分の手の届かぬところにある我欲だとしたらおそらく完璧には叶わないでしょうし、生きる上では単なる重荷になります。
その荷物があまりに重くて一歩一歩が苦しいと感じるのなら、いっそのこと荷物を神様に預けてみたら良いのです。
私たちは自分の力で何でもできると思いがちで、何でもやらなければならないと考えます。
けれど、人間が自分の頭で考えて実現できることはたかが知れています。
おそらく、自分で抱えても神様に持って頂いても、わりと見える景色は変わらないかもしれません。
人間にとって、これは盲点だったりする部分です。
私たちは真面目であるがゆえに、努力を尽くそうとし頑張りすぎてしまいます。
そして、人間としてできる限界以上のことまでやってしまおうとし、疲れてしまうのは神様から見てもやりきれないかもしれません。
神様に身を委ねきれないことは、神を信じきれないことと同じです。
もし安心できないのであれば、人間としての考えを一度手放してみれば、もう少し神様にお任せすることができるかもしれません。
私たち人間が思うようにできることは、本当にごく一部です。

楽太郎です。
先日、「瀬織津姫想像図」という神をも恐れぬ記事を書き、そこで私の印象としての瀬織津姫様を描かせて頂きました。
私が心の中で感じる瀬織津姫様は、神様だから当然なのかもしれませんが、もの凄く真面目な方だなと思いますし、メッセージの鋭さの中にも柔らかさを感じます。
決して私がイラストに描いたような容姿で全てを物語れるわけではなく、思うに神様という存在は人間にとって限りなく「概念」に近いのです。
神は霊界より上の階層に暮らす高次元存在であるので、人間が霊として認識するレベルよりも遥かに抽象度が高い存在です。
あまりに波長が高いため、人格としての知覚より情報やエネルギーとしての感覚が先立ちます。
神様にも個性や考え方があるように私には見受けられるのですが、おそらく霊的存在は高次元に至るほど抽象度が高くなり、より純粋な概念に近い存在になっていくような気がします。
だから、私の描いた瀬織津姫様が実際にそのお姿である可能性は、どの程度あるかさえ疑わしいと思います。
ただ霊界も神様の世界も人間には量りかねるもので、「妄想する分には自由」ということにしておいて欲しいです。
それでも私の感じる瀬織津姫様の印象と私が実際の女性や架空のキャラクターに重ねてきた異性の理想像は、どうも瀬織津姫様が原型である気がしてなりません。
私はだいぶ幼少期からオタクが入っていたのですが、漫画のキャラクターを追い求めたりアイドルの追っかけをするオタクも、自分の心にある理想的存在への憧れから始まります。
その理想像は、自分自身の深層心理にある「自分の魂の欠けた部分」であり、心理学的に言えば「アニマ・アニムス」と呼ばれるオリジナルです。
私はユング心理学のスピリチュアル性はそれほど評価していないのですが、オタクが「アイドル」を求める傾向と心理的不協和の関連は深いと思っています。
私にとって「瀬織津姫命」という存在がどういう意味を持つのか、その謎はこれから数十年かけて解き明かすことになるのかもしれません。
ただ私の清純な女神を求める心は、私だけにあるものではなく、世には芸能界のアイドルを追っかける中年男性はたくさんいます。
もしかすると、私も彼らも同じプロトタイプの女性像を無意識に追い求めているに過ぎず、その行動の現れ方が違うだけなのかもしれません。
以前の記事で書きましたが、そのアイドルやスターを求める心こそ、人間が失った神性を取り戻したいという欲求であり、もちろん芸能人も人間ですし神聖にはなれないわけですが、人々はどうしても夢を見たがります。
そしてオタクは、それが夢だとわかっていても夢を追い求める存在であり、私たちは時に自嘲気味に「空想と現実の区別がつかない」様を面白がるのです。
オタクという種族は、それゆえ一般大衆から気色悪く見られますが、実際は偽情報やマスコミのデマを間に受けておかしな行動に走る人々ほど「空想と現実の区別がつかない」人が多いです。
オタクは、自分たちがあり得ない幻想を追い求めていることを知っている分、半分目覚めています。
自分が完全に虚構の世界にいることに気づかず、何の疑いもない状態の方が危険なのです。
おそらく、人々は芸能人や成功者だけに「神性」を見て憧れ追い求めるだけでなく、身近にいる人や伴侶、愛するペットや大事にしているモノ、ブランドや「お金」も人間にとっては神の象徴に置き換わるのだと思います。
魂から湧き上がる神性への欲求は、本来なら信仰という形で直接神に向かう以外に、人間は「神っぽい何か」でそれを埋めようとします。
現実的に目に見える「神っぽいもの」で神性に対する欲求をあり合わせることで、魂の渇望は一時的に癒えていきます。
しかし、あくまでそれは神性の代用であって、神的霊性には置き換えられません。
例えば恋人に理想の異性像を見て、神に奉仕するように付き合っても相手は一人の人間であり、理想はいつか壊れます。
神の代用品が人であろうとモノだろうと、形あるものは完全に神になり変わることはできません。
それが何故かと言えば、形あるものはいずれ形を変えていきますが、神は不変であるからです。
この世が諸行無常であり、自分が追い求める行為を繰り返すたびに信仰の象徴は変わりますが、追い求めるイデアはずっと変わりません。
それを気づくまでに人間は長い時間をかけてしまうのですが、人生をかけてこの結論に辿り着けない人もたくさんいます。
むしろ、これまでの世は欲望と消費という市場経済
によって、自分の真の欲求が「神」という存在に向かうことを誤魔化し、その気づきから逸らされ続けていました。
私自身ですら、ことスピリチュアルにのめり込むまでは、単なるオタクとして二次元コンテンツのキャラクターを追い求めてきましたし、そういった関連のコンテンツを作ってきました。
そのことに全く何の違和感も持っていないどころかオタ活も推し活も楽しいもので、むしろやり甲斐すら感じていました。
しかし、奇遇にも「瀬織津姫命」という女神をきちんとお祀りするようになってから、自分の中のフラフラした渇望感は徐々に薄れていきました。
自分が霊的に求めてきたのは「信仰」であり、神との繋がりによって人間社会では得られない霊性を補給し、目に見えない存在の導きによって迷いがなくなることだったのです。
魂のレベルで感じる不足感や不安の解決方法が、まさか「神社に参拝して特定の神様のご神札を拝領してきちんとお祀りする」ことであると、どうすればこの答えに辿り着けるものなのかと未だに思います。
なんか、わざと簡単に答えが出ないような引っ掛け問題を出されて、とてつもなく長い時間をかけてその問題を解かせられてきた、そんな風にも感じるのです。
その答えがなぜこの数年で急に解けるようになってしまったのかわかりませんが、そこに神様の思惑があるならば、正解が出るまでバカでもわかるヒントをギリギリまで出してもらっていたのかもしれません。
だから余計に瀬織津姫様には頭が下がるというか、どうしても神の導きというものを否定することができない立場に置かれてしまったのです。
この出来事と「地球の次元上昇」という時期の関連は不明ですが、何らかの役割が私に与えられているのは間違いないのだろうと思います。
瀬織津姫様が自らを明かした上で私を導き、こうしてご自身の創作をお許しになられていることは、今の時代だからこそなのかもしれません。
神様は、おそらくこれまでの時代では表に出たくても出て来れない状態にあったのだと思います。
私の感覚では、今は神社に行っても神様から積極的に人間の相手をして頂けないように感じます。
おそらく、少しずつ時間をかけて神様たちは人間から距離を取るようになって行ったのだと思います。
日本人は神のご利益と言えば現世利益と考えがちなのですが、その恩恵は神々をきちんとお祀りし、奉仕するから得られたご神恩だったのです。
第二次世界大戦によって焼け野原となった日本は、物不足の世にあって復興に尽力しなければならなくなりました。
その復興を後押ししたのは戦勝国のアメリカだったのですが、モノ作りが盛り上がり物質的に豊かになっていくにつれ、戦争中に神も仏もないことを悟った日本人は、ますます神仏を敬わなくなりました。
そうして始まった戦後教育は自虐史観と左翼思想に染め上げられ、その教育システムによって支えられるアカデミズムと学歴社会によって、日本人の思想は唯物史観に変わっていったのです。
その後の経済発展と国際化によって、日本人の精神文化は完全に後手に回っていきました。
拝金主義が蔓延り、物質的な目に見える幸福の形を追い求めることは、日本人が本来望む性質のものを違う形で供給し続けてきたのです。
そうして荒廃した人々の感受性は、今の社会的混乱に繋がっています。
いくら求めても消費しても満たされないのは、本来求めているものが違うからです。
今の人々には、それが何であるかを知る術はほとんどありません。
しかし、こうして瀬織津姫様を始め前に出て来られる神様が現れたことは、新しい兆しかもしれません。
YouTubeなどでも、神の代弁をする人も増えて来ました。
これはそれぞれが個人的に受けたメッセージを個人的に解釈して個人のやり方で表現しているものなので、誰が真実で誰が間違っているということはなく、それぞれの発信のあり方を神様がお許しになられていることの方が重要です。
もちろん、その啓示を与えているのが神様ではないパターンもあり、注意は必要です。
例えば私が瀬織津姫様からメッセージを受けて知らせても、「瀬織津姫様はそんなことは言わない」という人も中にはいるでしょうし、審神者の能力もそれぞれ違います。
結局は、神様のメッセージを受け取って行動する人間がどんな役割を演ずるのかが本質であって、事実云々ではないと思います。
ある種の啓示を間に受けて、それを現実にどう反映させていくかにスピリチュアリズムの本質があるのです。
今、スピリチュアルな分野だけでなく多くの人に神々は強くアプローチしており、それはおそらくこれまでの歴史になかったことです。
それほど神様が前面に立って動かれる世というのは、明らかに画期的と言わざるを得ません。
地球が次元上昇する件にあって、人類は西洋的物質文明の円熟期にありました。
それと入れ替わるように立場を変えられた神様たちを鑑みれば、やはり時代はこれから根本から変わって行くのでしょう。
それは「神々の帰還」を意味します。
これまで、神々はなりを潜めていたからこそ人間は好き勝手にやれたのです。
しかし神々が何千年か越しに秩序を司る時代になれば、もう少しはマシな世になるかもしれません。
私をそれを「神世」と呼んできましたし、ずっと待ち望んできました。
その世界がいよいよ到来した、そんな感じがします。

楽太郎です。
今回の記事は11日午前5時に迎える満月、日本では現在進行形で10日夜に訪れている満月についてです。
これについて書くつもりはなかったのですが、少し霊的な兆候があったので解説しておこうと思います。
今日が満月だと予め調べもしなかったのですが、今日に限って世に漂う霊たちが騒がしいことと満月に因果関係があることに先ほど気づき、合点が行きました。
今朝、久しぶりに体感しうる霊障にしては大きいと感じてましたし、気場も荒ぶっていて家族にも兆候が垣間見えたので、何故か気になっていました。
私にとって憑依は日常茶飯事ですし、それも最近になって波長の高まりと共に霊力で抑え込めるようになっていたので、今日に限って深刻には考えませんでした。
ただ午前中に散歩していた時、道ですれ違う人々との波長と妙にかち合うというか、エネルギー的にぶつかるのを感じてあまり良い気分にはなりませんでした。
人々の集合意識と地球意識の気場が相剋している時に感じる波長の乱れには独特な空気感があって、それをこの時に見出してはいたのですが、「なぜ今日に限って?」という理由が見つからず、ずっと不可思議に思っていました。
何となく今日は「自分のことに専念する日だ」と感じてましたし、世の出来事に関するお役目も与えられている気はしなかったので、ますます今日の月齢に関して意識していませんでした。
ただ、この数日「感情」に関するテーマが宇宙的にピックアップされているのは感じていました。
7月6日に投稿した「戦いは終わった」という記事は、そのまま「感情」がテーマになっている文章です。
霊障が一段落し感情の落ち着きを取り戻したことで、再び自分本来の波長を取り戻し、過去にやり残したことに取り掛かっても良い状況になりました。
その投稿の翌日の7月7日午前中、大きな地震が起こった時に感じるような、劇的な磁場の乱れを突如感じました。
私は咄嗟に地震だと思い、避難しようか一瞬考えたのですが、蛍光灯の紐を見ると揺れていなかったので、どこか遠くで大きな地震でもあったのかな、とその時は思いました。
けれどこの日、東北地方で特に大きな地震はなく、まるで地割れが伴うような地震的な波動との因果も説明がつかなかったのです。
しかし、この不可思議な点と点が「満月」というテーマで結びついて、合点が行きました。
この地震的な波動というのは、人々の集合意識に関する精神的土壌、つまり「人世」の気場に起こった地割れであり、その変動はおそらく今日の満月に向けて起こっていたのだと思います。
「満月」はこの数ヶ月、一つのテーマに関する「浄化」という側面がありました。
それは「人への感情的依存」であったり「モノへの執着」や「未来への意識」であったり、様々なテーマがフォーカスされ、天からその浄化が促される時には、天の意思に抗う人間たちの感情が「邪気」となって暴走していたのです。
そのため、満月の日は特に気の乱れが激しくて、私は妙にテンションがおかしかったり頭痛がしたりと、様々な変調を感じることも多く、家族や人々の行動を見る限りどうも一時的に荒れる傾向にありました。
そして今日の満月の浄化は、再び人々の「感情」に対するピックアップが起きています。
先ほど、30年くらい前に住んでいた近所の光景が突如思い浮かんで、思い出すのも難しかった風景を不気味なほどアリアリと思い出してしまい、このインスピレーションがどうも関係があるようなのです。
今回の浄化のエネルギーは人々がこれまでの世に対して抱く執着、「懐古主義」と言っても良い、昔の繁栄に縋りつく感情ゆえに変化を受け入れない、そんな想念に対してお祓いが行われているのだと思います。
その布石として、7日に人世の気場が揺さぶりを受け、おそらくその時に何らかの地割れを伴いました。
ここ最近、世の「リバイバルブーム」がより加熱しているのが個人的に気になっていて、もはや過去のレガシーにしかお金が集まらない仕組みなのではないかと訝しく思っていたのですが、どうもこの潮流に対して神々からの指摘が入ったようです。
多くの人々は尚これまでの時代で通用した常識や価値観でまだ世が成り立つと思い込んでいて、どうも彼らはその固定観念を変える気はありません。
人々が未だ技術革新に幻想を抱いていて、ほぼ確実に「AI革命」は絵に描いた餅で終わるはずなのに、その狂信と古い時代に対する執念は同根のものです。
NVIDIAが時価総額4兆ドルという常軌を逸した熱狂をもたらしながら、その足元に横たわる不正や疑惑に人々は目を向けようとはしません。
技術革新はこれまで繁栄の基盤であり、技術万能主義に対する信仰と実益に裏打ちされていました。
しかし、ここ四半世紀の技術革新はほぼ頭打ちで、誇大宣伝によるユーフォリアと失望をひたすらローテーションするだけでした。
それでも、ほぼ全世界の人々は技術革新というフォーマットが全てを解決すると未だに信じており、それは古い時代に通用したスキームに依然しがみついているだけです。
現在開催中の大阪万博も、これまで通りの選挙活動で政治を良くしようという運動も、過去のコンテンツの焼き直しに至るまで、結局は「昔は良かった」というノスタルジーと「今まで通りのやり方で上手くいく」という通念に対する執着から生まれるものです。
その感情が天から浄化を促される時、人々の無意識下の抵抗感が大きすぎて激しく動揺が起こり、それが気場の振動を伴ったのだと思います。
私はこれを地震繋がりで「2025年7月問題」に準える気は毛頭ありませんし、そんなこじつけで納得できる人はいないと思います。
ただ言えるのは、霊的な次元で起こったことは現実世界に何らかの形で必ず反映するということです。
それは実際に地震なのかもしれませんし、例えば株の大暴落かもしれませんし、それを今の段階で断言することはできません。
しかし、私がこのブログでエネルギーの流れが急に変わったことをたびたび指摘してきたように、この辺りで何らかの切り替えが起こるのはおそらく間違いないと思います。
それがどのような形であるにせよ、それは私たちの日常感覚を変えるものかもしれません。
それに不安はつきまといますし、私も煽るつもりではないのですが、これが天が人々に促している課題であり、浄化すべき事柄になっていることに私たちが抗っても仕方ないのです。
何が起こるにせよ、私たちはもはや古いやり方にしがみつき、同じことを繰り返してもいずれ立ち行かなくなるだけです。
そのやり方に依存するのは、「変化」を恐れ新しいやり方を拒んでいるからです。
その執着がある限り、新しい潮流は生まれず世は黙って衰退していくしかありません。
この現状をどう捉えてどう考えるかは、今を生きる私たち次第です。
今日は、その反省を促すきっかけを人々に与えて回るような、そんな夜です。

楽太郎です。
先日、「アセンションとは何か」という記事を書きました。
その後、体感を含めて情報を更新したかったので、追記することにしました。
前回の記事で、「これからも地球は次元上昇するかもしれないが、精神界という地球意識の気場は完成したので人間にとってはアセンションは完了した」と書きましたが、この見方はほぼ変わっていません。
ただ、昨今の地球環境の変動、特にラニーニャ現象などによる猛暑を見ていると、「これも地球の次元上昇の一環なのではないか」と考えられるのです。
ゆえに、未だ地球は次元上昇の途上にあると考えられます。
動物たちを眺めていて、ここ数年で習性が変化したように見えます。
カラスも猫も犬も、鴨などの自然動物も知能が上がり共存的になっている印象を以前から持っていました。
これに関して動物学者の方々の見解はわかりませんが、私にはそう感じることがままあるのです。
動物たちの霊性の変化は、地球の次元上昇と関係が深いのではないでしょうか。
「アセンション」という概念が流行り始めたのは2000年代後半で、その頃は「2012年」と言われていました。
実際のところ、霊的次元での変動が始まったのはその頃かも知れず、現世への物質的変換が起こったのは2018年か19年あたりではないでしょうか。
その頃あたりから徐々に酷暑が厳しくなり、2020年にはコロナが流行しました。
中国では、ゼロコロナ政策でマンションの門が施錠されたことで、台風や地震などの災害があっても逃げられない住民がニュースになりました。
また全世界的な山火事や活火山の噴火など、自然環境の劇的な変化は「地球のエネルギーの変動」によるものではないかと考えられます。
そして、地球の環境変化は依然として続いており、おそらくアセンションは未だ進行中と見てよいと思います。
人間に関しては、スピリチュアル界隈で長年言われてきた「人類の霊的二極化」はほぼ完了し、これから具現化する段階に入りますが、その途上における人間の目に見える変化はまだ始まっていないでしょう。
前回の「アセンション概念図」では地球がすでにスッポリと新次元(幽界跡地)に移行したように描いていますが、これに関しては「まだ移行途中で何割かは低次元にある」としたいと思います。
そして、「もうすっかり幽界はなくなってしまった」と思っていたのですが、私への霊的干渉からの体感と世の中の動きを見るに「まだまだ幽界の人たちは元気」という感想に落ち着きました。
アセンションは神々の世界を巻き込んだ霊界の大構造改革であり、確かにその計画において人間の念によって作り出された予備的霊界である「幽界」が、大幅に縮小され整理されつつあるのは事実だと思います。
霊界は仏教的に言えば「成仏した霊の世界」なので、この世に未練を残すような不浄霊は高い波長域に上がっていけません。
その気場にいた不浄霊たちが幽界の解体に伴って場所を追われても、霊性が低ければ改まって上がれない者たちも出てきます。
そして、行き場をなくした不浄霊は地上の現世に大量に移住を始めました。
それが昨今の人間心理の荒廃と、浮遊霊の増加にあるのではないかと考えています。
こういった幽界の不浄霊は、生きていた頃の執着や欲望や怨念をそのまま引きずっているがゆえに高い波長域の霊界に上がっていけません。
その霊体が生きている人間に干渉すれば、その人の本性が増幅され理性的な部分が眠っていきます。
私は人心の変化は「憑依」によるものではないかと考えていて、それは「肩や背中にくっついている」という現象だけではなく、人間の集合意識やソウルグループに干渉することで、霊的には観測しがたい憑依現象となっているのではないでしょうか。
急にキレやすくなった人、自己中心的にしか考えられない人、狂ったように欲望に忠実な人、モノに対する執着が異常な人、およそ「人間らしい心でない」という印象の人々は、そういった影響を受けている可能性があります。
前置きが少し長くなりましたが、新しい概念図を掲載します。
4次元宇宙(現世)の霊的階層の上部に、幽界との接続領域、ここでは「幽界干渉域」があるとしています。
この階層は物質の「エーテル層」とほぼ重なっていて、より物理的なアプローチが可能になっています。
よく「モノに霊が宿る」というオカルト話がありますが、それはこの次元で起こるものです。
人間に対する憑依もそうですが、他の生物にも無機物のモノにも霊的なアプローチは可能です。
私は「細菌」もこの憑依の影響を受けるのではないかと考えていて、昨今のCovid-19も霊的な因果がありそうだなと感じています。
この霊的階層に人間の集合意識の気場があり、人々はこの気場に接続することで精神的なエネルギーを手に入れています。
これまでで言うなら「モノ中心」のモチベーションや競争意識、比較による動機づけなどを促して人々の精神的な柱となっていました。
そして、この気場は徐々に削られてきてはいるのですが、人間の念の総量が大きすぎるために依然支配的で、頑として未だ機能を続けています。
しかし、人間よりも上位の階層の霊や神々は、この気場をいずれ取り去ることを考えておられるように思います。
今の混沌とした世界情勢を作り出したのも、地球環境が破壊され汚染されてしまったのも、人間の拝金主義や唯物史観から生まれたのは事実だからです。
その傾向を改めないことには、地球に次元上昇を起こした理由になりません。
だからこの気場を使うことはいずれ殆どできなくなるのではないか、と私は見ています。
では、この世界がこれまで「悪」に支配されていたのかと言えば、それほど単純な話ではありません。
確かに現代を牛耳っているのは、アメリカ政府のマネーを動かす複数のロビイストグループや、その背後を取りまとめている何者かがいるのは事実でしょうし、彼らが世界の混沌を利用して利潤を得ているのも間違いないでしょう。
しかし、この金融を中心とした経済が今の物質的な豊かさの源泉であり、私たち一般市民はその仕組みを利用して便利さや娯楽を手にしています。
この物質中心の世界を「悪」とするなら、現代人の殆どが悪人になってしまいます。
確かにそのカルマは多少あるにせよ、これまではそうした時代にするという神々の大きな計画があり、単に物質主義の功罪を伴う世界だったのでしょう。
ただそれによって人間の精神的生活や文化が歪みられてしまったのも事実で、日本の伝統文化の衰退や神社仏閣への軽視、宗教的慣習の否定などもあったのです。
ここで、今を生きる現世人を取り巻く状況を考察したいと思います。
ここで言う「霊人」とは現世に生きる人々が輪廻転生をする元となる霊であり、人間の魂の姿であると言って良いでしょう。
その上位にいる「高次元霊人」とは、いわゆる仏や天使と人々が呼ぶ高級霊であり、神に近い存在の霊たちです。
そして、日本の神社に祀られる天津神国津神八百万の神々、仏の中でも菩薩と呼ばれる高位の仏、諸外国の宗教上の神々はこの神界に属します。
人間が古来から信仰してきた自然神や文化神が「正神」であるとするなら、この物質中心の文明を切り拓いて「神が必要のない」世の中にした神々を「逆神」と呼ぶことにします。
日月神示では「神と悪神の戦い」と表現していますが、同じ文脈で「悪神の働きは大神のご計画の一部であって悪ではない」と書かれています。
本来の神々の働きが「陽」だとしたら、逆は「陰」であり、日月神示にはその両方が存在するのが真の理だと言われています。
だからここでは「神の存在に抗う神」として逆神を定義しています。
どんな犯罪者にも検察と弁護側が用意されるように、相反する性質が両立することで公平性が保証される仕組みは存在します。
実際に神々の世界にその構図があるかは別として、あえて逆の役割を演じる存在によって均衡が保たれるのは理に叶っているのです。
そして、その逆神の意志を最も忠実に行う勢力というのが、物質世界への執着の強い幽界的存在です。
おそらく、これまで人間に物質面でのサポートを行い、開発や戦略に対するインスピレーションを与えてきたのは逆神の側です。
幽界的存在はその方針への信仰心が強いために、霊性を向上して高い波長域に行くことを拒むか困難だった者たちであり、彼らの波長の影響をもろに受ける人々がいるのです。
物質次元に対する執着心が強い彼らが同じ波長を持つ人間に干渉することで、幽界を追い払われても人間の肉体を通して現世に居場所を見つけることができます。
そうして低級霊の憑依を受ける人々が増えることで世が荒れ、憑依を受けた人間が生き霊を他人に飛ばし、受けた者同士で呪い合うという地獄絵図が生まれてしまいました。
これらは時代が移行する過渡期だからと結論づけることは可能なのですが、それほど無機質に言い切るには心苦しいものです。
全ては神々よりも上位の神のご意向とは言え、あまりに地上では凄惨なことが起こりすぎていて、私たち人間が現状を慮る心苦しさは、おそらく神々も一緒です。
私は、神様のお気持ちを察するとその感覚に間違いはないのだろうと思ってしまいます。
今現実の世界に起きている出来事、これから起こる出来事も神界、霊界、現界を巻き込む「大いなる学びの過程」なのだと思います。
それは人間だけでなく神様たちにとってもそうで、未曾有のことなのだと「日月神示」には書かれています。
私はスピリチュアル的な言説の中で日月神示は本物だと思っていて、なぜかは具体的には説明しにくいですし「霊的感覚でそう思う」としか言えません。
この書を読めば、神示が出された戦中ではなく戦後80年の今年に当てられていることを何となく実感するでしょうし、なぜかはわからなくてもこれから起こることも大体予想ができます。
この時代もこれまでの時代も、これからの時代も、「正しいか間違っているか」を超越した世界の成長のために必要だったことでしょうし、それは人智を遥かに上回る出来事です。
その「大いなる学び」のために用意されたのが今とこれからの時代であり、その変革たる「大峠」への理解を深めることで、私たちは自分たちの目の前を照らしてゆけるのかもしれません。
【追記】
「日月神示」は岡本天明氏が1963年に逝去されており死後50年以上が経過しているため、現在は著作権が発生していません。
そのため全文を掲載したサイトがあります。
以下のサイトは広告もなく、スマホでも見やすいため是非ご紹介します。
日月神示全文
本サイトの管理人であり、著作者でおられる及川明さんには感謝と共に御礼申し上げます。

楽太郎です。
6月21日夏至に「精神界」の気場が完成し、25日の新月から神世の時代が始まったことを実感しています。
以前として世に変革の波は出て来ず、邪気も浮遊霊による霊障も収まる気配はないように思います。
精神界という新たな霊的空間にアクセスできる人々は、こうした幽界的影響から相対的に距離を取っている状態ですが、それゆえに襲いくる邪気の強度は比例して高まっているはずです。
私の体調がとても不安定だなと思うのは、憑依が抜けている状態と霊障を受けている状態では天と地ほどの落差があることです。
憑依を受けている間は殆ど重病なんじゃないかみたいな錯覚すら受けるのですが、それが取り払われると天国にいるような感覚になります。
やはり、普段は精神界に接続していると高い波長の平和的なエネルギーを受けて、何でも許せるような気持ちになるのですが、憑依体の悪意の強さは身体で受けきれないレベルになりつつあります。
正直、もう少し霊障に関しては穏やかになると思っていたのですが、逆にエゲツなくなってきているようで、しかし私が次元上昇にしくじっているわけではなさそうです。
体感としては、これまでになかったエネルギーの高まりの中にあって、「霊障は肉体レベルで抑え込める」という感覚になってきました。
これほど強い霊障を受けるのは、私が常日頃から「神に仇なす者たち」を再三ブログなどで挑発しまくっているからで、これだけ神様と共にお祓い作業をしていたら、それは狙われるだろうという納得感もあります。
この「抑え込める」という感覚がどこから来るのか考えてみれば、これまで憑依に対しては受身的というか、来るものから耐えるという防戦一方の感覚がありました。
ただ最近は少し違くて、私がまるで自分で挑みに行って戦っているような、そんな力強さを感じています。
現実面では具合が悪くて寝ているしかないような時にも、私の霊体は違う次元で目に見えない者たちを相手にやり合っている、そういう印象があります。
常々思うのですが、人間は自我がコントロールしていて、ハイアーセルフが全てを知っており何もかも取り仕切っている、というのは若干違うのではないでしょうか。
ハイアーセルフは「霊界の自我」であって、それは魂として自分で感じ取れるのですが、その魂は自分自身に対して対話的な存在ではなく、むしろずっと沈黙しているように思えるのです。
そのハイアーセルフ自体も、おそらく過去世から因縁のある霊人たちや現世の先祖霊、現代に関わる人々からの生き霊、外的に存在する不浄霊や精霊や神々、そういった雑多な霊的コミュニティが存在していて、その霊団の中心にいるのが霊体としての自分なのではないかと思います。
だから何かインスピレーションを受ける時、特にメッセージや言葉を受け取る時は、最終的に自分の言葉に置き換えられるとしても、その発信源は自分の魂を取り巻く霊団から送られてくるのが殆どで、自分にはない波長だから「メッセージ」としての外部的要素を持ちうるのではないでしょうか。
よく人間は寝ている時に魂が身体を抜け出して、魂の故郷に戻るという話を聞きますが、私たちは霊魂であるのが本来の姿であり、この世は修行のために用意された仮初の仕組みですから、実際の働きがあの世で起こっていると考えるのは辻褄が合います。
スピリチュアルの世界でも「霊主身従」と言われますが、霊界という沈黙の世界に真の自分がいて、その命令を受けたこの世の自分が、「自由に物事を考えて行動している」と錯覚しているだけのような気もします。
日月神示など伝統的な心霊書でも、「霊界で起こったことが現実界に反映される」という話があり、その認識は遍く全世界にあります。
つまり、やはり私たちの本体は目に見えない世界こそにあって、その本当の私が様々な霊人と関わり合い、折衝をしたり反発したりして現実界の私の現象に立ち現れてくるのだと思います。
だから、私が現実界で人間の集合無意識にアプローチし、その背後に蠢く「神に仇なす者たち」を挑発しまくって、目に見えない霊的世界でバチバチにやり合っているというのは意外に考えられるのです。
「争いなんて野蛮だ」と思われるかもしれませんが、おそらくこの世界の浄化は日月神示でも言われている「正神と悪神の戦い」の中で起こっており、人間が平和が良いと言っていても神様たちはおそらく戦っている最中です。
人間のために戦ってくださる神様にばかり戦いを背負わせて、守られている人間が「争いなんてヤダヤダ」と言っているわけにはいかないのではないでしょうか。
だからこそ私は精神界の気場の防衛に参加してきたという実感があるわけですし、今バチバチに戦いをしているという感覚もあります。
ただ先ほど書いたように、この「戦い」も感覚が変わってきて「攻めに転じた」という印象があります。
これまでの防衛的な意識では、やはりどこか耐え忍ぶ部分があり、状況を守り通すことで精一杯という感じでした。
けれど最近は「やってやる」という前のめりな勢いがついてきて、現実の行動もそのエネルギーを受けて積極的になってきました。
この「反転攻勢」の感覚は、やはり精神界の気場の完成と始動において無関係ではないと思います。
おそらく、私が神様たちと共にお祓いをしている相手は、「人治の世界」を支配してきた存在です。
彼らを倒すというより霊的浄化や改心を促して回っているのだと思うのですが、彼らを弱体化させることは「人世の気場」を削り取っていくことを意味します。
つまり、この反転攻勢は盤石すぎて飽和した状態から身動き一つ取れなくなった世界を切り崩し、風穴を開けていくことになると思います。
だから石破総理とトランプ大統領の就任以降、特に何も変わらずダラダラ悪くなっていく世界は、これから霊的次元からの変化が反映していくことになるはずです。
今、この状況でどれほどの人が精神界の気場からエネルギーレベルの変革を行っているのか、私には判断がつきません。
しかし、霊的な次元は時空を超越しているので、参加者が実際に知り合いでなくても霊団としてすでに繋がっていることはあり得ます。
その人々が実際に出会わなくても、霊的次元で済む話なら出会うことはないかもしれません。
そこら辺は神々のご計画の範疇というか、必要な時に必要な者たちが巡り合わされていくのだろうと思います。
先日、国内回帰して復活した小沢健二さんの新曲「演歌がいいから」を聴きましたが、ああいう日本を代表する人が日本文化への憧憬と海外文化への懐疑を直接曲に表現するというのは、感慨深いと思いました。
おそらく、日本の神々からの「温故知新」というメッセージを正しく受け取っている人は思ったより多いかもしれません。
それだけアメリカ始め社会情勢のレベルで「何やってんの」という空気になっているのも現実にあるわけですが、そうでなくとも感性の鋭い人は似たようなインスピレーションを受けているのだと思います。
小沢健二さんに関しては往年のファンで、復帰以降も新曲共によく聴いています。
単なる感想ですが、「東大900番講堂講義」あたりで小沢さんの癖が出たというか、ファンというより日本人なら誰もが「ラブリー」とか「愛し愛されて生きるのさ」みたいな底抜けに明るいポップソングを歌って欲しいと思っているのでしょうが、そこで我を出すあたり小沢さんらしいなと思います。
ただ、やはりどの曲も破天荒な楽観主義と人生讃歌が小沢さんの作品の真髄にあって、今何となく「この世界がつまらない」と思って生きる人々には良いカウンターになると思います。
そう言ったパンクさが今の時代には必要であり、神様はこの世を変えうる人々にそのメッセージを送っているのだと思います。
「日本人よ、今こそ飾り立てられた古い衣を脱ぎ捨て、心地良い大和の衣を着直そう」と。

楽太郎です。
今朝、不思議な夢を見ました。
深夜の小学校を歩いていて、中学校の頃の担任とすれ違いました。
今ではお互いにいい歳になってますから、私の記憶の反映か空似だと思います。
購買部が開いていて、そこが玩具売り場のようになっていましたが、校舎全体が暗く誰もいません。
玩具を覗くと、「SDガンダム」のプラモデルが埃を被って山積みになっていました。
SDガンダムは私の子供時代を象徴するコンテンツだったので、酷く懐かしかったのですが不思議と興味が沸きませんでした。
場面が変わって、クリーチャーと女性が戦うバイオハザードのような映像を見ました。
怖いとかいうより「前に見た感じがする」と思って私はモヤモヤしていました。
その映画はVHSとしてデッキから出てきて、レンタルビデオだったようで、これまた懐かしくなりました。
けれどVHSはもうほぼ流通しておらず、私の記憶の中の存在であり、過去は過去のもので懐かしく愛おしいのですが、私の心は動かないのです。
本日6月25日、厳密に言えば夜が新月です。
私はこの夢を今朝見て、心理的に古い世界から抜け出たのだとわかりました。
おそらく、この新月から「神世」が動き出すことになるのだと思います。
ここ数日、自分の肉体レベルで徐々に邪気や憑依を抑え込み始めていました。
これまで、そう言った悪影響は肉体を通じて心や思考に到達して、あれこれと私の意識に介入してきていました。
私はこの影響をモロに受けて、病気になったりおかしな言動をしてしまうこともあったのですが、まさかそれを霊障などとは自覚しようがなかったのです。
これまでの物質主義の時代は、科学的でない見解は眉唾物とされ、白い目で見られる風潮がありました。
それらは迷信であり、その迷信を信じるような人は病気で、病気だからこそおかしな目に遭うのだ、と思われていました。
そうして「精神医療」というものが普及して、心の問題は医者に頼るようになりました。
私もかつて鬱病で長年苦しみましたが、実際に投薬治療で寛解したとは言えず、今思えば霊障以外に考えられません。
そして、今ではそれらが憑依であったことを知り、憑依してくる存在が何かを知っているからこそ、真の対処ができるようになりました。
もちろん、全ての精神疾患が霊障だと言うつもりはありませんし、精神医学を否定するわけではありません。
しかし、そういう解釈が全ての世界だからこそ、真の問題解決に辿り着けなかったことを理解したのです。
そして、私を苦しめてきた憑依体はこれまでの物質主義、経済至上主義の時代を作り上げてきた存在であり、人の欲望を支配し自らの利益と思惑を水面下で浸透させてきた勢力です。
その連中になぜ私が狙われ続けたかと言うと、私が「命(みこと)持ち」として天界からの使命を与えられ生まれてきた人間だからとわかりました。
こう言うと私自身を特別に持ち上げている言い方になってしまいますが、そうではなく「命持ち」の人々はかつて、街中ですれ違えるくらいにはたくさん目にすることができたのです。
彼ら「命持ち」は、神界に近い霊界の記憶を残して生まれてきた人々が多かったので、純粋で優しい人ばかりでした。
生まれ持って感性が豊かで善良な性格であるため、成長して世間に馴染む過程で世の邪気に当てられてしまい、その性質を変えやすかったのです。
感性が純粋なので、闇に染まると闇に染まり切ってしまい、実際に罪に染まるか病気になるか、様々な形で魂を曇らせた人がたくさんいました。
魂が限りなく白に近い状態で生まれたからこそ、多様な色に塗れたこの世界の色に染まり、本来の色を保ち続けるのは困難だったのです。
神の使命を背負って生まれながら、その使命に目覚めることなく埋もれてしまった人が多く存在していて、「命持ち」、いわゆるスターシードと呼ばれる人々自体、それほど珍しいわけではありません。
そんな彼らも、最近は誤情報や変な思い込みに惑わされて覚醒の妨害を受け、新しい気場の解放に立ち会えない人も出てきてしまいました。
その中で私だけが稀有みたいに見えるのは、それだけ多くの脱落者がいて、私はコテンパンにやられながら意地だけで残った、という感じに近いです。
それは運命とか才能とか言うより、私が性根から捻じ曲がって我が強いため、「負けてたまるか」という気持ちだけでここまでやって来ただけなのです。
逆に言えば、私が決して純粋無垢ではなく天邪鬼だったからこそ、何があっても穿った目で見て反発し抵抗して来たのだと思います。
私が下手に意地汚いからこそ、ここまで残ったとも言えます。
これまでたくさんの命持ちがいたでしょうし、実際に私も数多く出会って来ましたが、だいたいが魂を曇らせてしまいました。
だから、私だけが特別で優秀な訳ではないのです。
これまでの世界が「金とモノ、ステータス」が全ての社会で、物質的に目で見える事柄しか存在しないような空気にすることで、心や魂を軽視し神をなきものにしようとする働きがありました。
「なぜ神がいながらそう言う世になったのか」という問いに対して、極論的に言えば「人類の学びの過程であるべきカリキュラム」と一言で言い切れます。
ただし、私を始め命を捨てる寸前まで叩き落とされ、現に様々な理由で命を失った人々が膨大な数に及ぶ中で、そう言い切ってしまうのはあまりに短絡的かもしれません。
物質中心の世は確かに便利な機械や道具に溢れて、欲望を満たすシステムも充実していて、その中で豊かに生きようと思えば夢もありました。
人々は決して嫌々働いてきた訳ではなく、それだけやり甲斐もあり、努力に応じた報酬も豊富にあって、賑やかで楽しくもあったのです。
だから一概にこの文明が悪いとは言い切れず、ゆえに「学びのプロセス」と位置づけて良いと思います。
そこで我々がどんな「学び」をするかと言うと、物質中心の豊かさを追い求めたところで、決して個人の幸福も世の平和も理想も実現しえない、という教訓なのだろうと思います。
今、目に見えるシステムとしての「お金」があらぬ形で暴走し、人間たちの意思を超えた仕組みとして文明全体を破綻させつつあります。
少数の選民意識を持つエリートたちが、自らの欲望のままに戦争を起こし、バブルを起こし、制度を歪め、貧富の差を拡大させ、文化も秩序も混沌に追いやっています。
この時代が終わる時、それを目の当たりにした人々は「お金やモノだけ追い求めても、どうにもならなかったんだな」と気づいて、新しい豊かさの模索を始めるでしょう。
その諸行無常にこそ学びがあり、その知恵に立って初めて新しい文明が立ち現れてくるはずです。
地球を散々掘り返して汚し荒廃させ、そうして惑星を廃棄寸前まで使い込んだ人類が反省し、考えと行動を改め再び地球と共存する道を歩み始めるのです。
そして、この転換期に新しい世界を作り出す存在として「命持ち」が、この時代に集中するかのように生まれてきました。
一般的な言葉で言えば「スターシード」と呼ばれる人々は、この時代を変革するために天から送り込まれてきた魂たちです。
しかし前述の通り、その多くが芽を出さないまま埋もれていってしまいました。
それで神々の計画は影響があったのかと言うと、おそらくそれも神々の計画のうちで、現時点でスケジュールは寸分違わず遂行されているはずです。
私がよく例に出す日月神示は、80年前の戦中に岡本天明翁に降ろされたものですが、実はよく読んでみると第二次世界大戦時より現代の方が表現と一致します。
その啓示において、「世界の大峠」が九分九厘まで神によって不利な状況になることも示されているのです。
暴走するユダヤマネーにトチ狂ったアメリカが、さらにトチ狂ったイスラエルのイランへの挑発をサポートし、あわや中東戦争になろうとしている今、そのアメリカは莫大な国債利払いを払いきれるかどうかわからない状況で、誇大宣伝と共に各国の政治に介入して制度をアメリカ有利に作り替え、これからも帝国的支配を維持するつもりでいます。
現在の世を見回して、昔のように良くなると思う人は皆無でしょうし、軽く世相を眺めただけでは時代の趨勢を読むことはできません。
どう考えてもこれから世界は終わる、というギリギリのところまで人類と神々は追い詰められるように見えるでしょうが、そのことも「日月神示」には示されているのです。
その神々の計画の中で、数々の目覚めを体験した人々が今、たくさん出てきているのを私は知っています。
かく言う私もその一人としての自覚はあり、この時代を変えるための命持ちは確かに存在します。
スピリチュアル業界の言い方をするならば、私たちは「アセンション(次元上昇)」の導き手であり、人類の意識的発展を促すべく宇宙から送り込まれたエージェントであります。
この夏至に完成し、今宵の新月から始動する新たな精神の気場を「精神界」と私は呼ぶことにします。
これまで「神世」と私が呼んできた世界は、この精神界の気場を使う人々が神と共に繁栄する時代と位置づけます。
この精神界は、かつて「幽界」と呼ばれていた霊界の最下層が取り払われ、その霊的空間に地球の霊的次元が上昇したことで出現しました。
その霊的な場は「地球意識」に共鳴しやすく、それゆえに地球の神々の意識と感応しやすいのです。
これまで人々は幽界的なエネルギーに依存し、人間の集合意識は低い次元にありました。
しかし、この精神界と接続し、地球意識と同調して思考し活力とする人々は、人間の集合意識とは異なる気場に属して暮らすことになります。
そう言った特殊な感性を持った人々は、今の段階では社会的にほぼ埋もれているはずです。
あまりに意識が高すぎて、これまでの世では根を張れなかった、むしろ根を張らなかった気合いの入った人たちであり、下手に力を持っていないからこそ新しい時代を切り拓く力があるのです。
そう言う人たちがいよいよ動き出し、活躍し始めるフェーズに入って行きます。
この時代に立ち会うために生まれてきて、これまでを耐えてきた人々も多かったはずです。
そして、今を生きる子供たちやこれから生まれてくる子や孫は、新しい時代を生きるためにこの霊的世界を共有していくのです。
全てが光り輝くまでに、いくつの深い闇を通らなければならないのか、それは想像できません。
これから私たちは文明の崩壊を具に見ることになるはずです。それは目も当てられない状況になるかもしれませんし、決して明るいものだけを見ていることはできないでしょう。
しかし、いずれ光に満ちた弥栄の世を作るために、これら神の命を授かった人々の活躍なくして訪れることはあり得ません。
その困難を乗り越えられる魂だからこそ、これからの時代を担っていくのだと思います。
【追記】
ここに「アセンション(次元上昇)概念図」を掲載します。
科学的に言えば、「次元」とは空間的な軸を指し示しており、決して「霊的なレベル」を意味する概念ではありません。
だから「5次元宇宙」と言う呼び方も私としては直感的ではないと感じるのですが、一般用語に準えることにしました。
今の物質次元が空間的に「4次元」であると位置づけ、そこに変更はありません。
霊的次元では上のレベルを「5次元」とし、そこを「霊界」と取ります。
日月神示では神界、幽界、現界という概念になっていますが、私としては幽界は霊界の最下層に位置しており、今はその階層が取り払われて地球霊の気場になっていると捉えています。
幽界の縮退の根拠については、霊能者の話を無闇に信じた訳ではなく、実際に「地縛霊」の減少と共に浮遊霊の増加と、憑依と霊障による生き霊の大量発生を認識しているからです。
実際に私は死んでいる訳ではないので霊界のことは知り得ないのですが、現実界でこのような霊的次元の変化を察するに、幽界で何かが起こっていると考えて間違いないでしょう。
奇しくも、この数年のスピリチュアル業界の話題は「地球の次元上昇」であり、地球霊魂の位相的変化は私自身も体感しています。
ゆえに、惑星規模の気場の変化は間違いなく起こっていると思います。
これらを総合すると、幽界消失と地球の次元上昇は無関係ではなく、幽界の位置に地球霊魂が新たな気場を創出したと考えれば辻褄が合います。
「地球霊魂」とは、言ってみればこの地球の土地それぞれの精霊の霊団であり、私たちが産土神として接する大地の神々との繋がりもある星の集合霊です。
惑星規模の霊団の上昇が「アセンション」という位相変化であり、この霊界の再構築をそう呼んでいたのではないか、と考えています。
ゆえにこの次元上昇は完了しつつあり、その始動の時を迎えたと私は見ています。
地球はこの先も霊的に上昇し続けるかもしれませんが、人間からすれば「精神界=地球意識の気場」の確立をもってアセンションは完了したと捉えて良いはずです。

楽太郎です。
本日6月21日、いよいよ待ちに待った「夏至」が訪れました。
現在の体感ですが、これまでの季節分点で起こるエネルギーの変化は、外部的な流れに合わせるのに苦労することが多かったように思います。
しかし今回の夏至は、感じたことのないエネルギーの変化にぶち当たるというより、今まで捉えようとして捉えきれなかった流れをしっかり掴めるようになった、という感覚に近いです。
ゆえに、すでに自分の中にあった不安定なエネルギーにしっかり乗ることができるようになった、という表現が最もしっくり来ます。
だからこれまでの節気であった「合わせさせられている」強制感はあまりありません。
つまり、これまで半分足を踏み入れていた気場だからこそ、エネルギーの変化に違和感を抱くことはないのだと思います。
日常の中でこの数日、「らしくない」感じの変化を起こしている人も目にするようになりました。
これまでやたら感情的だった人が大人しくなり、少し理性的に振る舞い始めました。
いつもフワフワした短文を書いていたような人が、急に抽象的な長文を書くようになったのを見ました。
これはどう考えても「火」のエレメントの変質であり、要は「形而上学的なエネルギーの強まり」です。
火のエレメントは、純度の高い正の働きをする時に哲学的な様相を持って現れます。
神性というのは哲学的なエネルギーですから、人々の思考の抽象度が高まるのは理に叶っています。
このエネルギーの純度の高さと強度を観察するに、この分点から人々に意識改革が起こって来るのではないかと思います。
これまで違和感に気づきながら、モヤモヤしていた状態から思考がクリアになり、思いもつかない発見やロジックを見出して突破口を開き始める、そんな気がします。
実は、私は春分あたりから何となく「世界線が変わったのではないか」と疑念を抱いていました。
それは私が体感的に神世のエネルギーと触れ合っているだけでなく、2025年問題にあるような不慮の出来事がタイムラインから遠ざかっているような気がしていたのです。
半年前あたりには、崩壊する建物や廃墟、死して蠢く人々など、夢にしろ白昼夢にしろ不穏なビジョンがたびたび見えていました。
しかしこの数ヶ月、ほぼそういう予知は感じなくなり、むしろ別の形でソフトランディングするのではないか、という感覚の方が強くなって来ました。
とは言え、2025年7月問題を否定する要素はありませんし、日月神示では「旧暦9月6日」ということがしきりに言われており、そうでなくても南海トラフなどの自然災害のリスクは依然あります。
ただ感じるのは、神々が「災害やカタストロフで人々を変革する」というシナリオを選ばなかったのではないか、と私は何となく感じています。
この「平和的なエネルギー」は温かく優しい反面、鋭くて強い部分もあります。
少し邪な感情がある人がこの気に触れると混乱するでしょうし、生理的に受け付けない人も中にはいると思います。
けれども、このエネルギーを受け止めることができた人は、おそらく内面から湧き上がる力に押し上げられ、思ってもみない衝動で行動を起こし始めるような、そんな印象を抱きます。
現に、私はどんどん多動になってきており、多動だけど決してやり散らかす訳でもなく、小さいことを一つひとつ片付けながら廻る、という感覚に近いです。
これまで感じていた霊障や憑依は、私がお祓いや自己浄化によって因縁を断ち切る前に、波動が強まって自分の「気」で邪気を抑え込めるようになったことに気づき、少し驚いています。
おそらくこれが、「神世の気場を使う」ということです。正しく神を感じ、神の力が宿るという感じがします。
しかし反面、自分の気が強まりすぎて肉体的になっているというか、逆にスピリチュアル的な部分が感じにくくなって来ました。
これまで、精神的なエネルギーで駆動してきたからこそ、神や霊的感覚を強く感じていました。
ただ神世の気場に入ると、「身体と魂と神性が一つになる」ようで、言ってみれば神様と自分の意識が分離した状態にある必要がないのです。
ゆえに、これまで以上に自分らしくあり自由でありながら、神の意志は強く神の意識の中で行動している、そんな実感があります。
ゆえに、この気場のエネルギーを汲み取る人ほど、神を意識しなくなる気がします。
それは無神論、物質主義に堕ちることではなく、神を宿すからこそ神に無自覚となり、神を忘れながら神の声を聞く状態になります。
だからこそ神を特に意識しなくなり、信仰心や宗教的習慣は相変わらず大切なのですが、それだけに頼ることはなくなるかもしれません。
「神世」という気場が完成し、このエネルギーを降ろして使う人が増えるにつれ、占いや宗教などスピリチュアルな知識に関して無頓着でありながら、優秀な感性を持ったスピリチュアリストが誕生していくことになると思います。
これまで「気づき」をしていた人々がいよいよ目覚めて、覚醒を深化させていくフェーズの中で、神性を取り戻して生き方を変えていく人も増えていくはずです。
私は、この変化はどんなカタストロフよりも世を変える力となっていくのではないか、そう感じずにはいられません。
しかし、これら「目覚める世界線の人たち」に神世の気場が開かれるとして、去年の冬至点以降「目覚めを選ばなかった人たち」がどうなるかは正直わかりません。
これは神々が何度も念押しした確認事項で、いわゆる五次元世界との分岐、日月神示で言う「神と獣の道」で破滅的な方をあえて選んだ人々を神々はどうするおつもりなのか、人間である私には図りかねます。
ただ神様がなされることには無駄がないので、やはり何かしらの意味があるのだろうと思います。
私が長らく戦ってきた憑依と霊障は、ここ数ヶ月の話ではなかったのです。
生まれてこの方、憑依から抜け出せたことが殆どなかったと言っていいくらいです。
そこで襲う憑依体は、明らかに「神に仇なす者たち」の部類であり、私を苦しめてきた霊団が現在の人間社会を作り出した者たちと同一存在なのは確信しています。
彼らの支配する「お金とモノ」の世界は、単純な幸福のメカニズムでありながら、精神的な豊かさを否定し神を無きものにする思惑がありました。
人間は「細胞で作られたロボット」であり、魂など存在しないからこそ神も存在せず、あらゆる精神的事象も物理現象であり、科学的処方で全てがコントロールできることにしたかったのです。
そうすることで医療や製薬、果てには電脳の分野で人間を金づるにし続けることができます。
人間の精神活動も肉体活動も、全てを「消費活動」に結びつければ、人生を通じて経済システムの歯車として搾取し続けることは可能でしょう。
これが「神に仇なす者たちの計画」であり、私たちはまんまと術中にハマっていたわけです。
あらゆる悩みも、自分らしく生きられない苦悩も、「人間はお金を稼ぐ生き物である」という思い込みと幸福への義務感から生じてきたのです。
ただ、それも間もなく終わりを迎えます。
金融を主軸とした経済文明は全世界で修正不可能な状態に入りつつあり、少なくとも3年以内に世界経済の中心にあるアメリカは崩壊するはずです。
私は、我が国に自然的なカタストロフが起こらずとも、日本という国家の傘となり柱となっているアメリカが崩れることの影響の方が決定的なのではないか、と思っています。
ゆえに近年スピリチュアル業界を騒がせてきた「2025年問題」は、カタストロフと変革による立て直しを矮小化している印象を拭い去れませんでした。
現実的にこうして未曾有の変化が予測できるのに、いつ起きてもおかしくない自然災害や食糧危機にばかり気を取られるのもおかしな話だと思うのです。
仮に、iPhoneが使えなくなるとかGoogleがサービスを停止するとか、そう言った具体的なことが起こる可能性もありながら、そうなった場合のことを考えている人はあまりいません。
神世の気場はかつて「幽界」と呼ばれていた、霊界の最下層を払拭して新たに作り出した波長の高い霊域です。
地球が次元上昇することで、現界と呼ばれる物質次元は霊界により近い場所に位置することになります。
神々がこの気場を作るために幾年もかけて幽界を整理し、世の邪気を浄化し続けて来ました。
私自身もそれに参加して気場を作り上げてきたのは、人の世を形成する「神に仇なす者たち」の領域を削り取っていくことを意味しました。
そして、その気場がいよいよ完成したということは、神々のご計画は寸分違わず遂行され、古い秩序が滅び新たな世界が生み出されることを意味します。
つまり神々の奪還であり、神に仇なす者たちの退却です。
私は、ずっとこの時を待っていたのだと思います。
これまで何十年も耐えてきた日々は、この時を体験するための準備だったのでしょう。
何の因果かはわかりませんが、私は使命を持ってこの時代に立ち会うことになっていたようです。
私の半生はかなり酷いものでしたが、それも報われる時に来たのかもしれません。
私は、私をこれまで苦しめてきた人や目に見えないものに対して、滅べばいいとは思っていません。
全ては神々より大いなる神のご意志であり、悪も闇もその一つの役割を演じてきただけに過ぎないことを理解しているからです。
むしろ、わかりやすい形で滅ぶよりも、気づいて改心し、反省しながら余生を淡々と生きてくれれば良いと思っています。
彼らの行いに対して懲らしめられるべきとは思いますが、滅んで欲しいと願っているわけではありません。
彼らのことは大嫌いですが、私としては嫌いな部分がなくなればそれで良いのです。
私はやはり、人間というものを放って置けません。
人間たちは私をコテンパンにしてくれましたが、私の頼りにする人も大切な人も、皆同じ人間です。
その愛憎の中に生きていることが人間である証であり、人間である以上は彼らのために生きることになるのです。
人間は嫌なところも沢山ありますし、正直疲れます。
けれど、人間に嫌悪しながら、それでも愛してしまうのが私の人間たる由縁です。
そんな彼らのために生きることが私の使命であり、また神様もそうするように願っているように思えてなりません。
なぜこんな運命を背負うことになったのか、一生かけてわかるものでしょうか。
ただ一つ言えることは、そのうち報われる予感がするのです。
それがどんな形なのか分かりませんが、決して悪くはならない、そんな気がするのです。

楽太郎です。
6月21日に太陽が蟹座に入り、夏至となります。
それを前にしてか、本日17日には火星が獅子座から乙女座に入ります。
火星は昨年11月4日に獅子座に入り、12月には逆行となりました。戦いの星である火星が獅子座に入る時期は、「闘争や自己表現」がテーマとなります。
それが6月17日あたりで滞在を終えます。
奇しくも、先日11日の満月を境にエーテル体と神世の気場が接続し始めたのを体感してから、憑依による霊障が遠のくのを確信しました。
しかし、それに比例して悪意の密度が高まり、憑依としては高度な対応が必要になって来ました。
思い返せば去年の火星獅子座入りあたりからスピリチュアルな話題に目覚め、その時期あたりから「神世」という概念を意識して色々と学び、実践と自己浄化に取り組むようになりました。
そして、絵も言われぬ謎の霊障がその頃から付き纏い始め、不調の中で内省を極める過酷な日々が続きました。
生霊だけでなく呪いによるものや、悪霊よりも大きな力を持った存在、あらゆる憑依を体験しました。
今考えればこれも私に課せられた修行の一種だったのでしょうが、この憑依との戦いも火星乙女座入りを気に終わるかもしれません。
というのも、一昨日からかなり類を見ない霊障に襲われて、それを振り解くには新しいアプローチを試みなければならなかったからです。
これらの霊障が顕著になった昨年末の火星獅子座入りと、12月21日の冬至点とは無関係だったとは思えません。
神世への選別が始まったのと同時に苛烈化した霊障は、やはり次元上昇を妨げる目的があったのだろうと思います。
そして、火星獅子座期が終わる頃に急に熾烈になった憑依は、おそらくこれが「最後の山場」なのだろうと思います。
今回がなぜか「最後」だと思う理由は、この憑依を呼び寄せている原因が何となくわかったからです。
それは、私の中に幽界の存在を引き寄せる「幽界的観念」があるからであり、つまり私に「悪意」があるということです。
人の不幸を望み、破滅を喜ぶような浅ましさが私の心にあるからこそ、悪魔的な存在を引き寄せてしまっていたのです。
魂が同じ性質によって引き寄せられることを、スピリチュアル的には「エーテルコード」と言いますが、日月神示的な言い回しで「霊線」と呼ぶことにします。
私の心に「何かを憎む心」があるから、その憎悪に幽界的存在が感応し、魂の霊線を辿って憑依が可能になるのです。
この「霊線」を断ち切ってしまえば、原理的には幽界からのアプローチを止めることができるはずです。
そのためには、私の心にある「幽界的部分」を浄化し、つまりは憎悪や悪意を私の心から消していくことです。
ただ、このレベルの手放しは一朝一夕でできるようなものではありません。
それでも、この霊線が私の心に残り続ける限り、いくら魂が神世にあっても憑依は続いてしまうのでしょう。
私は、この憑依に関して基本的に間違った認識をしていたようです。
憑依に対して「祓い」を行う時、その感覚は「除霊」に近いものでした。「祓法によって邪霊を払い除けよう」とすることは、そこに敵愾心をどうしても発生させてしまいます。
自分の身体の不調も精神的な不安定さも、「邪霊のせいだ」と思えば思うほど、幽界的存在との対立を深める要因になっていたのだと思います。
要するに、私が霊障を問題視して憑依を邪魔なものとして認識するから、延々とやり合うことになるのです。
それはむしろ幽界側にとっては望ましい状況で、互いにやり合っているうちは私の覚醒や進行を妨害することができるはずです。
だから、この関係を断ち切るためには、私が常日頃から抱いている私自身の攻撃的な欲望をよく内省する必要があったのです。
私が常日頃から抱く「腹立たしさ」の正体は、単に「悪を憎む心」にあります。
あらゆる不正や欺瞞が横行し、それを取り締まる気配も希薄で、人々がその状況を黙認していることへの怒りです。
先日の「怒りを捨てるな」という記事でお話したように、この怒りの感情も浄化して正しい動機にするなら全く問題はありません。
しかし、「浄化できない怒り」というのが問題で、例えば目の前を歩いている人が突然ゴミを投げ捨てるとか、人に罵声を浴びせているのを目撃するとか、そういった直感的な怒り、感情として自然に抱いてしまう怒りをどう処理するのか、という課題が依然として残り続けるのです。
その「何かを悪として憎む心」が自分のエゴイズムから発生するならば、自分自身を内省し浄化していく必要があります。
究極的には、「悪を悪と認識しない」レベルまで意識を持って行ければ、悪に対して過剰な憎悪を抱くことはなくなるでしょう。
ただ、考え方として悪の存在がこの世にあるべきシステムの一部であるにしても、その悪を完全に許し切れるのか、あるいは悪事がもたらされたことに感謝し、「悪事に対してありがとう」と言えるほど達観できるのか、という現実的なハードルをどう考えたら良いのでしょうか。
思い返せば、女子高生を拉致して監禁しレイプして暴行死させた上、遺体をコンクリート詰めにして沈めた少年グループ、ある会社に侵入してガソリンを撒いた上に火を放ち、逃げ惑う人々を刺して数十人を犠牲にした男、この有様をどうすれば「悪業を行ってくれてありがとう」と考えられるのでしょうか?
私はこれを思う時、悪は滅するには生温いとすら感じますし、できれば永遠に地獄の炎で焼かれて欲しいとすら思います。
しかし、それを人間の感覚ではなく宇宙や神々の視点で考えるならば、「これも世の摂理としては必要なことだった」と言えるとしたら、これらの出来事はどう解釈したら良いのでしょうか。
常々、人を貶め暴利を貪る連中ばかりが表通りの真ん中を歩くような、不条理極まりないこの社会を私は苦々しく思って来ました。
ただ、これも神々が「必要なプロセスだ」と仰るのだとしたら、その意味を考えてみたいのです。
私はこれを考える時、「水槽」が頭を過ぎります。
今、この社会において「ホット」なのは、権力とお金とステータスを持ち、軽快に生きる人々です。
彼らは物質や目に見える価値観に対して非常に強いパッションを持っているからこそ、この弱肉強食の社会を勝ち上がってこれたのでしょう。
彼らが水槽の中にある「熱湯」なのだとしたら、温かい水ほど軽いので水槽の上層部に溜まります。
彼らのようには物質主義の競争社会を勝ち上がれなかった人々は、温度が低い分底部に沈み滞留します。
それが世に言う「勝ち組負け組」であり、これは水槽の上澄の人々が名付けた仕組みです。
この上層に上がるために、私たちはこれまで目に見える価値観を追い求め、ステータスを必死で手に入れようとして来ました。
しかし、それほど単純な世界ではないのです。
水槽の中も循環し、高温と低温の水、淀んだ水と澄んだ水、色のついた水と透明の水、様々な水質が同じ水槽の中にあります。
私たちが社会を認識する時、この水槽全体を俯瞰してものを考えることが殆どできません。
どこかの位置の水を抽出して、そのサンプルを複数揃えて分析するに過ぎないのです。
そして「悪」とは、この水槽の中で最も淀んだ熱い汚水に宿るものであり、それがある時に別の水域へ紛れ込んで禍事を起こすのだと思います。
ただ、それは水槽全体で見れば、一定量の淀みの中で特に高い濃度の汚水であるだけで、その水が水槽の淀みを吸収している分、他の水質はクリアでいられるのです。
確かにこの汚水が清浄な水に流れ込めば、そこに悲劇を見出してしまうでしょう。
しかし全体で見れば、いずれ「起こる可能性がある」現象であり、そこで起こらずとも別の場所、別の形、別のタイミングで起こったはずです。
ゆえに、俯瞰した視点で考えれば混沌とした現実世界において、全く理不尽なことが起きるのも世界のバランスの中では必然とも言えるのです。
私たちは、こういった悲劇を繰り返さないために啓蒙活動をしたり、社会保障を作ったり法律を変えたりしますが、未だ犯罪そのものを撲滅することはできません。
「悪」という水槽の中の不可分な「淀み」を全て攫い出し、綺麗な透明の水だけにすれば平和的理想の社会が実現すると人々は考えます。
しかし、水は自ずと変質していくものであり、どんな清水も淀めば腐ってしまうのです。
こう考えると、「悪」とは必然的に存在してしまうものであり、必要悪こそが悪そのものとも考えられます。
従って、悪人や犯罪は確かに許しがたいものであっても、その個人的感情から上の視点に立ち、全体から意味を考えることこそ大事なのだと思います。
これが人だけでなく、悪霊や邪気といった類の存在もこの世界のシステムの一部なのだとしたら、その働き自体はこの世に必要なものでしょう。
例えば、私たちが全く身体を気遣わず適当な生活をすれば、いずれ風邪を引いて身体を壊すように、この世にウイルスが存在するから健康に気を遣うようになります。
同じように、マイナスの働きがあるからこそマイナスがあることに気づき、気づきがあればゼロに戻そうともプラスにしようとも考えます。
「悪」とは、バランサーの方側を受け持つ存在にしか過ぎないのではないでしょうか。
私は憑依に気づいた時、「祓い」によって悪霊や邪気を遠ざけようと考えていました。
しかし、祓っても祓っても終わることのない憑依の中で、本当に祓わなければならないのは「自分」だったことに気づいたのです。
私が憑依を払い除ければ済むと思うことは、自分は清浄な存在で何も悪くなく、霊障を受けるような心当たりも責任もない、と考えているのと同じです。
その考えにこそ「悪」が宿り、それゆえにこの「悪心」を断ち切らなければ根本的な祓いにはならなかったのです。
神仏に「祓い」を祈願する時、自分の外側にある厄や邪気を何とかしようと考えがちですが、本当の祓いとは自分自身に対して行わなければならないのだと思います。
自分に疾しさがあるから、その霊線を辿って疾しい存在が近寄って来るのです。
それならば、自分の疾しさそのものを浄化すれば、その霊線は断ち切れるはずです。
ここまで考え至り、私はこの世の「悪」に対してどういう感情を持てば良いのか、見えてきた気がします。
よく考えれば、神道の「祓い」も仏教の「供養」も、煩悩や邪気を浄化することで心を平穏に保ち、幸せに生きるというテーマは同じです。
それは死霊だけでなく、今を生きる自分自身の心にも大切なことです。
浮かばれぬ感情や念によって起きる執着は、肉体があろうがなかろうが手放しが必要なものであり、それゆえに祓い清められることで浮かばれるのでしょう。
日月神示にある「悪を抱き参らせる」とは、悪意への供養、救済であり、世界の罪穢れを請け負った存在に対する癒しなのだと思います。
それこそが「悪との和合」であり、悪を滅ぼす悪にならずに悪を善とする実践となるのです。
「供養こそが救済」と言う考え方において、神道も仏教もほぼ一致します。
それゆえ、飛鳥時代に仏典が日本に伝わった時、神道との共存が図られたのは宗教的目的が一致していたからかもしれません。
神道の究極の目的は「祓い清めによる救済」であるからこそ、人間は真の幸福のために魂の浄化を神々に促され続けるのです。
だから私は、少し時間はかかるかもしれませんが、この怒りをコツコツと浄化していくことにしました。
人の揚げ足を取りたくなるのは性格ですし、その性格の悪さが傍若無人な批判癖に繋がっているとも言えます。
この頑固さが悪を作り出し、私の心に憎しみや怒りを生み出しているのだとしたら、本当の原因はここにあるのです。
いつかこの感情を祓い清められた時、目の前で起こる悪事に達観しながら、「ありがとう」と言える境地にも至れるのかもしれません。
そこまでできたら仙人か神様の領域ですが、いざそうなってみるのも面白いかもしれません。

楽太郎です。
本日、6月11日は満月です。
ここ数日、自分のエネルギーがはっきり塗り変わるのを感じていて、この変化と憑依の影響も混ざり合いコントロールが難しい状況が続いていました。
ただ霊障を突き崩すようなフィジカルなエネルギーの湧出が、「血の気」と表現しても良いくらいの生命力となり行動が活性化しています。
どうやら、新しい次元に完成しつつある気場からエネルギーを降ろすには、肉体レベルでの次元上昇が行われる必要があったようです。
通常、肉体は三次元空間の縛りを受けていますが、身体を取り巻く霊体の層は少し上の階層にあります。
スピリチュアル用語で「エーテル体」「アストラル体」と呼ばれる魂のレイヤーに当てはまるのですが、この時期にエーテル体と神世の気場との接合が行われているようです。
私はここ数週間、下手すると何年か憑依と霊障に付き纏われてきたのですが、憑依による別エネルギーを分別できるくらいには客観視できるようになり、その邪気と精神的に距離を取ることで霊障から離脱しやすくなっていました。
しかし、やはり憑依を外すと自分の霊体にダメージが入ったこともわかり、ただ次々と憑依されるためエーテル体の修復が間に合わず、常に魂のレイヤーが損傷している状態が続いていました。
ただエーテル体が次元上昇することで、憑依体の影響範囲、憑依の波長範囲を切り抜けつつあり、それゆえ霊障もかなり収まってきたのです。
肉体が三次元にあるのは変わらないので、仮に殴られたら痛いのは同じなのですが、身体霊が神世に移行したことで憑依体、いわゆる生き霊や浮遊霊の類とは違う霊的空間に入ったのだと思います。
つまり、彼らの干渉範囲とは別の気場にあり、影響の及ぶ周波数帯から離れたため、肉体レベルでの影響が弱まってきたと言うことです。
この時期に「エーテル体の次元上昇」が起こるということは、私が6月21日を持って神世の気場が完成すると予見していた事象が現実味を帯びて来ました。
私自身、ここまで具体的に体感するとは思わなかったのですが、それがまさか霊障の緩和として現れてくるとは予想外でした。
実際、何年か前の体調感に戻ってきましたし、身体のエネルギーの流れが自然になった感じがします。
ここ数週間は、憑依の影響もあって過去のトラウマと長らく戦っていたのですが、憑依体は過去の記憶を思い出させることで人世への執着を促していたのだろうと思います。
この憑依体は悪魔とか悪霊とか一言で言えるような単純な存在ではなく、「これまで人の時代を作っていた者たちの霊」と呼べるものです。
善にも悪にも役割があり、彼らは「物質中心の世を作る」という正義を貫いてきた霊団であり、その手段として神仏や精神性を否定する世を作り上げて来たのです。
だから、霊的に覚醒をしてこれから精神性の高い時代を作っていく、神の声を聞いて働くことのできる人々の気場「精神界=神世」が完成すると、古い時代を形成してきた幽界的存在の居場所がなくなります。
それゆえ、ここ数ヶ月は特に覚醒と浄化を志す人々への妨害が絶えず、あらゆる形で強い干渉があったのは、新しい意識層が霊界に作られるのを阻止するためだったのでしょう。
人間不信、トラウマ、誘惑、チャンス、誤信、トラブル、事故、懐古、情け、裏切り、罪悪感、同調圧力。
誰にもある心の弱いところに付け入って、そこに気持ちが囚われるようでは目覚めや手放しは進みません。
これが「邪気」の働きであり、このトリックを自己反省の中で見破り、自ら手放しと浄化をした人だけが上昇していくことができたのです。
だから、少し気を休めると潜り込まれる危険があり、私はこの緊張感から全く落ち着くことができませんでした。
誰かに依存していたらその人自身が道を外れている可能性もあり、それゆえ疑心暗鬼に駆られながら唯一信じられる、信じなくてはならないのは神仏だけであり、私はその信仰心一つでここまでやって来ました。
私が誰よりも幸運だと思うのは、瀬織津姫命への格別の信仰心というか、恋慕に近い感情と謎の忠誠心があったことです。
この感性は誰にも共有しようのないもので、独特の観念であるがゆえに厳しい中を乗り越えて来れたのだと思います。
ただ、今こうして一瞬楽になったからと言って、これからも楽だという保証はありません。
夏至に神世の気場が完全に開かれれば、全く違う生き方を始める人々もいるはずです。
そこは前人未到というか、人類が足を踏み入れたことのない精神的領域であり、この先は何があってもおかしくないでしょう。
日月神示によれば、この領域に足を踏み入れた者を「神人」と呼び、「臣民」に対する「役員」という表現をしています。
「神人」とは、私がこのブログで当初から扱ってきた「現人神」のことであり、ついに生きながら神を目指す人々が誕生することになります。
人間が「神」になるということは、人間が目を塞ぎたくなることにも目を向け、感情に囚われず神の目で神の力を使うことを意味します。
それができる人間はおそらく一握り中の一握りで、それがあまりに過酷な試練であるからこそ、脱落することも容易にあるはずです。
「神人になることが目指せる時代になった」というだけで、実際に現人神が雨後の筍のように生えてくるわけではないと思います。
それはそれで、新しいハードルがまた生まれたということなのではないでしょうか。
この満月に至るまで、人々が妙な落ち着きを持ち始めているのを具に見ていました。
多くの人々が何かを「覚悟」したというか、安心感にも近い静謐が世にある気がします。
それはまるで判決を待つ被告のような、沈黙の中の静けさに近いような印象です。
おそらく、魂の次元では自分の将来が目覚めと神世にあることへの安堵感、反対にこれから修羅の道を歩むことになる未来への覚悟、その二つの感情が漂っているように思えてなりません。
やはり春分を機に、人々の深層意識はかなりの変化を迎えたのだろうと思います。
私は誰かを見て「この人は神世の人だ」とはっきりわかることはありませんが、それぞれの魂の選択は自分だけが深いところでわかるものではないでしょうか。
私自身も含め、誰が救い確定で誰の下に集まっていけば助かる、みたいなことは誰にもわかりません。
確かに波長の低い人はそのまま負のスパイラルに陥っていく可能性は高いですが、深層心理や魂のレベルはそう簡単にわかるものではないでしょう。
反対に、今キラキラした波長を放っている人がずっとそうであるとは限らないわけで、やはり安易に見分けられはしないはずです。
その因果を握っておられるのは今や神々であり、自分に疾しいことがあれば相応の結果が返って来ることは誰しも覚悟しなければならないでしょう。
これからカルマの精算が人々に求められるのであれば、その過去の行いを自分以外に知る存在があるとすれば、神々だけです。
ゆえに個々人にそれぞれ違う現象が降りかかる、そんな不確定な世界線に私たちは突入しています。
特に、今ある絶対的な権威や正義を司る者が、神々からどう見えているかなど人間には測りかねません。
だからこそ、人やモノや組織に依存せず、自分自身の力で生きていけるように神々はずっと促して来られたのです。
その不安と混乱の時代だからこそ、自分を信じ目に見えないものを信じ、神仏を信じ抜くことが求められているのです。
近いうちに記事に書こうと思いますが、そう遠くない将来、私たちが今当たり前に使っているモノがどんどん消えていくことになるでしょう。
その世界で人やモノや組織に依存していたら、おそらく心が持ちません。
そうなる前に、目覚める人から先に進むべきなのだと思います。

楽太郎です。
来週から木星が蟹座に入るなど、星の巡り的にも強いスクエアを組み始めて物事の流れが変わる印象があります。
奇しくも6月11日の満月に向けて人々の集合意識が強固となり、同時に幽界の影響力も極大化しているように思えます。
これは夏至に向けて新しい気場が形成されつつあるためであり、この気場が完成するとそのエネルギーを人々が降ろして使えるようになります。
その気場を私は「神世」と呼んでいます。
これまで幽界と呼ばれていた5次元の霊界層は、ここ数年で大幅に縮退しました。
その空いた空間に新しい周波数帯の層が作られ、これまで霊界は人が肉体を離れなければ干渉できない世界でしたが、私たちの住む次元が1次元上昇したことで、生きながらにアクセスできる霊界として立ち現れてきます。
その周波数帯はかなり抽象的で、より根源的なエネルギーと相性の良い気場です。
従って、ある程度浄化された魂にとってはホームグラウンドのように闊達に立ち振る舞えることでしょう。
しかし純粋な精神の場なので、ノイズとなるような波長は弾き出されます。
現在の人間界にはノイズが多すぎるため、この雑念を取り払わなければ純度の高い周波数帯にアクセスすることはできません。
そのため、ここ数年は地球の次元上昇と共に人間界には気づきと浄化が促されてきたのです。
この計画を主導されてこられたのは、私の認識では日本の神々なのではないかと考えています。
ただ、日本の神々だから外国に干渉していないとかいう訳ではなく、日本の神々が外国では「天使」とか「宇宙人」とか、そう呼ばれながら働かれているような気がしてなりません。
都市伝説的に日本は「世界の雛形」という話がありますが、実際に我が国は世界でも類を見ない古い文明史を持つ土地にあり、精神文化として卓越した風土にありました。
日本の「大和」という精神は、グローバリズムや多様性などの小手先のレトリックに止まらない、「あなない(助け合い、和合)」の概念にあるからこそ、今の混迷を極める世界情勢にあって大きな役割を果たせるのです。
その精神の復活と、神々の働きは連動しているように思います。
完全に袋小路に入った文明社会から人々は救い出され、新たな歴史のフィールドに乗ることで人類は存亡の危機を免れるでしょう。
しかし、そのためには世界の構造そのものを変える必要があり、それは決して人間の自助努力でどうにかなるレベルにはありません。
それができるのが神々しか存在し得ないからこそ、今こうして霊界を巻き込んだ変革が起こっているのだと思います。
この新しい気場は、元は「幽界」と呼ばれる霊界の最下層の跡地に作られた訳ですが、そもそも幽界は元々あった次元ではなく、人間が霊界に上がる準備場として自分たちで作り上げた階層であったそうです。
つまり人間の思念、霊体が作り上げてきた世界であり、新しく作り替えられる際にはこの層が取り払われ、それが縮小すると同時に中にいた不浄霊が地上に流入してきました。
それがここ四半世紀に起こった世界的混乱の理由なのだと私は推測します。
特に世界を牛耳るアメリカが特筆して変調をきたしたのが9.11同時多発テロ以降であり、これが起きたのが2001年です。
そして、この頃から声高に叫ばれるようになったのが「グローバリズム」であり、このアメリカ主導の国際秩序に我が国が追従したことで、より日本は衰退への足を早めてしまいました。
これまでの世界を作り出してきた金融中心の文明社会は、18世紀フランス革命を機にロスチャイルド一族の影響下で発展してきました。
近代ヨーロッパの動乱を皮切りにアメリカ大陸に押し寄せた西洋人は、現地住民を殺戮し辺境に追いやり、プランテーションのためにアフリカ諸国から多数の奴隷を集めました。
この国は歴史の汚点を引きずり現在もなお有色人種への偏見が強く、その差別観は経済的な格差として如実に現れています。
この非人道的とも思える歴史を持つ国が、我が国日本が宿主としているアメリカであり、その関係に依存し続けたからこそ現在の日本がこの有様になっていると言っても過言ではありません。
そもそも日本人は縄文時代に大陸から渡ってきた渡来系民族と混血し、弥生時代以降も渡来文化を受け入れ多様性を伴い発展してきた民族ゆえ、民族浄化の歴史は確認できず、やはり諸外国とは異なる精神風土があるのです。
日本は神々との関係が深い国でありながら、幽界の干渉の強い国家の影響を受け入れたせいで、神々との繋がりをほぼ失ってしまいました。
かつて神の住まうとされた山々や土地が、不動産として外国人に売り払われ、ソーラーパネルで埋め尽くされ重金属汚染を引き起こし、日本人が代々守ってきた土地は尊厳を失っています。
これを数千年、「産土神」として人間に祀られてきた大地の神々が黙って見ているはずもなく、この状況を引っくるめての大変革が起ころうとしている気がしてなりません。
私は最近、憑依の規模が日に日に高まっているのを感じているのですが、その強度を推し量るとやはり終局が近いのだろうと思います。
アメリカ経済はトランプ大統領の暴走を抑え込むのに必死ですが、相互関税政策の推進を抑制している間はダウも高値で安定し、見せかけの繁栄を示すことで外貨を呼び込んでいます。
しかしトランプ関税発表以降、米国株と米国債は連動して上下するようになり、これまで「株価が上がれば国債は下り、国債が下がれば株価が上がる」という投融資の逃げ道がなくなってしまいました。
それゆえ、現在の米国債はベア(弱気)相場に突入しています。
アメリカへの投資が懸念を抱かれることにより、円キャリートレードなどでドルを買っていた外国人投資家がドルを売って他国通貨を買い戻すようになると、ドルも値下がりします。
そのため、アメリカ経済はドル安株安国債安のスパイラルに陥り、しかも金利の上昇はより国債価格を下げることになります。
それゆえ、トランプ大統領がFRBのパウエル議長に高圧的に利下げを要求しているのですが、これは高いところから水が流れている事象に物申しているだけに過ぎません。
従って、アメリカ経済は完全に奈落の底に落ちるシナリオに突入したと断言できるでしょう。
世界経済を牛耳るアメリカに追従する日本は、このままでは共に奈落の底に引き摺り込まれます。
残念なことに、この悪しき予定調和を打ち破れる人材は、まだ我が国には一人もいません。
金融経済の世界は、完全に幽界的存在の影響を受けています。
私はそれを、「人世」と呼んでいます。
これまで西側諸国の文明を支配してきた幽界的存在は「お金」という概念によって人類を支配してきた者たちであり、その思惑と人間の欲望は非常に相性の良いものでした。
このシステムが人々を支配し、人々の目的であり幸福の指標とし続ける限り、人間は本来の性質を発揮して自由に生きることはできません。
そして、このシステムが終わりを迎えつつある今、その背後には世界のバランスを元に戻そうとする神々の働きがあります。
そこには日本の神々だけでなく、どうやら各大陸の各地の産土神、人々が「精霊」と呼んでいた存在も活動しているように見えます。
そして、その主導的役割を演じているのが日本の神々であり、我が国の総氏神であられる天照大御神の御働きであります。
日本の神々がこの宇宙的大変革において重大な役割を果たしていることは、私たち「日本人」の使命も大きいということです。
奇しくも、近年はスピリチュアルブームがあり、若い人でも神社に関心を持つ人が増えました。
そして、世界でも突出して優れた精神文化を擁してきた私たち日本人は、この新生した気場に最もアクセスしやすい立場にあるのです。
今こそ、日本人はこの世界の疑惑に気づき、その仕組みから一歩離れて世界を俯瞰し、己の心と向き合う時です。
そこで自分の魂に目覚めた日本人は、新しい時代のエネルギーを手にして、新しい世界の礎を築き始めることが可能になるはずです。
これから「目覚め」を体験する人々は、覚醒の世界線をこれまでの人生で選んだ人たちです。
それゆえ、これから起こる出来事は自分のカルマの延長であり、その気づきと学びの中でより魂を磨ける人たちです。
神々はその人々を祝福し、これからの未来を応援することでしょう。
そして、次の世界はそうした人々が中心になることを、神々は望んでおられるのです。
今回は、当初に書こうと思っていた記事の内容とはどんどんズレていったため、何となくスキゾチックな文章になってしまいました。
とは言え、テーマとしては一貫しているので無意味な内容ではなかったと思います。
今、霊的な妨害が激しく体調を整えるだけでも大変ですが、神様からのお役目も別のところであったりして、なかなか絵が思うように描けません。
最近、面白いアイデアを思いついたので少しずつ進めています。若干ビックリされるのではないでしょうか。
続報にご期待下さい。

楽太郎です。
6月11日には満月、21日の夏至を控え、いよいよ神代の気場が整いつつあるのを実感します。
同時に人々の労働意欲が形骸化し、動機となるエネルギーの部分が空洞化して希薄になってきたように見えます。
そして気場の完成を阻止しようと、これまで以上に霊的な妨害が激しくなっています。
神代の分岐点から「邪気」は認識しづらくなっていたのですが、そのネガティブな波動は「憑依」という形で襲ってきます。
邪気は肌感覚に近い部分で影響を感じていたのですが、憑依はより内面的な影響をもたらしたりします。
突然悲しくなったり、何の根拠もなくイライラしたり、自分の通常の波長をしっかり認識していなければ、この影響を見極めることができません。
私が憑依の影響を最も強く受けるのは、睡眠中です。
人間はスピリチュアル的に言えば、睡眠中に「魂の里帰り」をすると言われています。
魂が高次元に一旦戻り、意識の調整を行っている間は肉体がガラ空きになることを意味しますが、そうである以上に意識が働いていなければ霊的な防御は弱まるでしょう。
つまり、魂との繋がりが最も薄くなった睡眠中を見計らって、悪鬼悪霊の類が身体を乗っとろうとして憑依しに来るのです。
だいぶ前からブログにも書いていたのですが、睡眠中に人間の「集合意識」に潜り込む夢を頻繁に見ていました。
その夢は、行ったことのない街や店舗、廃墟などをひたすら巡るという夢で、棚の商品の種類も鮮明に思い出せるほど具体的です。
そこには全く象徴性も過去の記憶との関連もなく、ひたすら別の世界の街並みを旅するだけの内容です。
この夢を見た次の日には、決まって身体が動かないほど痛く、全身の筋肉が硬直しています。
私はこれをずっと自律神経失調症とか、副腎疲労とか思って医学的な対処をしていたのですが、最近になってこれは霊障だと気づきました。
私が就寝中に憑依を受けている間、その憑依体とは霊的に繋がるために記憶やビジョンを共有していたのだと思います。
つまり、私に対して憑依してきた霊体とは人間の集合意識、つまり「人世」そのものだと言っていいと思うのですが、その奥にいるのは人世を作ってきた幽界の存在、人々の集合意識を支配してきた闇の存在です。
私がこうして寝込みを襲われるのも、新しい時代の創造を妨げるためであり、神代の実現を阻むためです。
現に異常な霊障を抱えるせいで、仕事はおろか日常生活すら支障をきたす状態にありました。
ただし、この憑依にも一つメリットはあって、毎日コツコツ憑依を取り除くたびに少しずつ霊力と霊的直感が向上するのです。
このブログを始めの方から読んでいただくとわかるのですが、最初の頃はスピリチュアリズムを聞き齧ったレベルで何となく書いていたのですが、どんどん具体性が上がり内容も実感を持つようになりました。
それは私が神代に上がるために自己浄化と探究を続けてきただけでなく、憑依と霊障を取り払いながら霊的覚醒を積み上げてきた軌跡とも言えるのです。
この半年間は特に、現実的には悩みの原因となるようなしがらみを積極的に手放し、むしろどんどん悩みや不安から解放されていくはずが、霊障による不調は逆に増えていきました。
憑依は魂のレベルでプレッシャーとなり、また神代に上がれないかもしれない不安や焦燥感も相まって、自分の意識の及ばないところに常に軸足を置いている感覚がありました。
そのため、何となく日常に空白感があるというか、現実に気持ちがない状態がずっと続いていたように思います。
この私の感覚や思想は、おそらく他のスピリチュアリストとは相容れない部分も多いと思います。
私自身、スピリチュアル業界や界隈の話題には全く関心がなく、あまり積極的に調べたいとも思いません。
スピリチュアリズムとは「実践」であり、直感を信じて生きる道そのものだと考えているからです。
だから、業界的な常識よりも知的好奇心とか、理論的な価値に重きを置いています。
ゆえに「自分はなんか違う」という感覚は常にありますし、「間違っている」と思われることも多分にあるのだろうとは感じています。
しかし、スピリチュアリズムとは「内的探究」そのものであり、自分の主観で全ての事柄が説明でき、その実践でより良く生きられるならばそれで良いと思います。
不安になることもままあるのですが、だからと言って納得がいかない概念や説明を腹に据えるのは難しく、だからこそ腹落ちすることが大切だと思っています。
あらゆるスピリチュアル的な議論において、批判の目を向けられるならば私も批判の応酬をしたくなる気持ちもないわけではないです。
ただ極論を言ってしまえば、人間風情がどう目覚めようと高次元の存在からはどう思われているかを完全に把握する術はありません。
つまり、私たちが何が正しい、間違っていると議論したところで、神様からすれば「全部違う」と思われている可能性もゼロではないのです。
だから、スピリチュアリズムにおいて客観的な真実性や証明というのはほぼ意味をなさないのではないか、と私は思います。
客観的に全てが法則的に説明可能ならば、それは「科学」です。科学は唯物史観であり、唯物主義はスピリチュアリズムの対極をなす存在です。
ゆえに、スピリチュアリズムの定義から考えれば、あえて主観的で独断専行でも問題がないのです。
私たちは、自分が勝たなければ正しいことにならない、と錯覚しがちです。
「僕が僕であるために」という尾崎豊の曲があります。
その中に「僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない」と歌詞にあります。
昔はこの曲を聴いて、世間の同調圧力に抗わなくては自分が飲み込まれ、自分らしく生きるためには力をつけなくてはならないと思い込んでいました。
ただ今考えれば、同調圧力と戦っている時点で圧力勢力と同じ価値観を共有しているわけで、つまり同じ穴のムジナだから争う必要があるのです。
「問題は同じレベルでは解決しない」とはアインシュタインの言葉ですが、問題意識のレベルを一段高くしてみるとあっさり解決の糸口が見えてしまう、というのはよくある話です。
私が思う「僕が僕であるために」一番大切なことは、「争わない」ということだと思います。
つまり、戦わなくては自分でいられないような状態から抜け、戦わなくても自分でいられる状態を作り出すことです。
戦っても戦わなくても、勝っても負けても自分でいられる方法を探すのがベストなのではないか、と私は思います。
そして、勝たなければ手に入らなかったものも、戦わなくても手に入る方法を探せばいいのです。
「戦わずして勝つ」とは孫子の兵法ですが、戦えば確実に何らかの損害は被るので、できる限り戦わないに越したことはありません。
それでも守るべきものや得る必要のあるものはあります。
それを近現代の人々は「無抵抗主義こそ平和主義」だと勘違いし、戦わない美学を祭り上げたせいで大事なものがどんどん奪われていきました。
ただ、戦うとは必ずしも相手を攻撃し傷つけるということではありません。
戦うとは、自分を貫くことであり自分を守るということです。
相手に対して正義を強制することではなく、正しさというロジックで論破することではなく、自分の信念を曲げないということです。
実は正しいか正しくないかは、時間と共に証明されることの方が多いのです。
20世紀初頭にラジウム水が身体に良いと販売されたり、他にもチクロという発癌性甘味料も建築資材のアスベストも、後の時代になるまでは誰も疑いなく使用していました。
それが「間違っている」と人々に啓蒙するには、時の巨大権力と全面対決しなければならなかったのです。
しかし今の巨悪が蔓延る時代、一つ一つのことに目鯨を立てて争っていたのでは埒が飽きません。
だからこそ、戦うよりも逃げる、戦わないという選択を取る方が自分を守れます。
そして自分だけは正しい方法を取り、自分以外の人がどれだけ間違っていたかは時間に証明させれば良いのです。
もし自分のやり方が本当に正しければ、最終的に自分が生き残るだけです。
その姿を見て、人々は何が正しかったのかを知ることができます。
それは正しさや運の良さ以上に、優秀さや先見の明を発揮することで、勝利で得られたものに近いものを最終的に手にすることができるはずです。
正義には強さではなく、優秀さを用いて事実を持って証明するべきです。
「良いもの」はどんどん広まっていき、やがて間違いや欠点を補って世の中を修正していきます。
それが本当にクレバーなら人々はそのやり方に憧れ、誰も傷つくことなく問題は解決します。
「代替」こそが問題解決の唯一の方法であって、問題を根本的に無くそうとする発想は究極的にジェノサイドに行きつきます。
ナチスドイツのホロコースト、現代イスラエルのガザ侵攻、その根元に共存の意志はなく有か無かの二元論しかありません。
有か無かとは「勝つか負けるか」であり、そのレベルで考えているうちは平和など実現しません。
今の世界に必要なのは絶対正義ではなく世を良くする「良いアイデア」なのに、そこに思い至らないから争いが絶えないのです。
だから私は、人と論争することに価値があるとはあまり思いません。
人の意見にインスパイアされたことを自分で考えて勝手にそうすれば良いだけで、他人を凹ませなくてはならない道理は一つもありません。
ゆえに私は何を言おうと自由なはずですし、自由がゆえに攻撃はされるでしょうが、それに抗わないことが私が私である唯一の方法です。
ただ、間違っていると自分が気づくのも大切ですし、他人の意見を聞くべきではなく、世の中に何もしないというのも違います。
自分の目的や信念のためには、やむを得なければ論争や理論武装も手段として取るべきですし、戦いから逃げることが正解なのではないことは先ほど書いた通りです。
私たちはとりあえず自分を守るべきであり、自分を守るために力をつけないといけません。決して誰かを打ち倒すためではなく、逃げ道を作るためでもありません。
憑依と霊障の話から、だいぶテーマが大きくなってしまいました。
この霊的妨害も、これまでの物質文明を維持してきた古いエネルギーが新しい時代のエネルギーの前では壊れるしかなく、ゆえにこちらと拮抗するのも当然なのです。
私は「人世をぶっ壊してやろう」と思っているわけではないですが、この賞味期限の切れた世界が役割を終えない限りは新しい世界は来ないので、私からすれば致し方ないという印象です。
だから神様と共にあることを決めた人間としては、神様がそう願われるのだからと割り切って攻撃を受け切るしかないと思っています。
しかし、その対価として尋常ならざる霊的抵抗力を身につけつつあるため、悪いことばかりではないような気がします。
私が神様と一緒に作りたいのは戦いも争いも必要のない世界であり、その世界こそ「才能」が正義に変わって正しさを証明する時代です。
それこそが神代、弥栄の世であると思います。

楽太郎です。
追加で販売開始した備蓄米が入手困難だそうです。
その件について家族とも話し合うのですが、私は米が今後食べられなくなる可能性が高いため、節米と代替食品への切り替えを家族に勧めています。
しかし、この危機感はなかなか説得しても理解してもらえず、何となく米は通常の価格に戻っていくだろう、という楽観的な考えを改めてもらうことができません。
両親は「お金さえあれば、米は食べ続けられる」と言います。
しかし現在の米不足の状況を鑑みても、買えるところがなければお金をいくら持っていても買うことができません。
実はそれが問題で、東日本大震災の時にはカップ麺を買うために雪の中を2時間も列に並びました。
買うためには売る側がいなければならないため、ものを売る側に売れるものがあるような状況でなければ、そもそも買うことはできません。
仮に米がこれ以上高騰して本当のお金持ちだけが米を買える状況であれば、一般市民はお金持ちが出す金額より高いお金を出さなくては米を買えなくなります。
お金持ちがようやく懐に入れられるような希少品を、一般人がどうやって手に入れるつもりなのでしょうか。
この構図をなぜか理解できないようで、どう説明しても「もしも」の話が通じず頭を悩ませています。
私が家族を引っ張っていかなくてはならないのは理解しているため、生命に関わることである以上、食糧難に自分も家族も巻き込まれないようにするのに骨が折れます。
「米がないなら小麦を食べればいいじゃない」とシリアルやパン食、パスタ類を考えている人がいますが、トランプ関税が発動すれば小麦が今の価格水準である保証はどこにもありません。
アメリカという国は日本人がどうなろうと知ったことではないので、遺伝子組み換えの小麦ですら平然と輸出しますし、その価格を操作して自国に都合の良い取引をし、日本人にどんな影響があるかなど考えてはくれないでしょう。
私たち日本人は、この国で生きていくにはどうしたらいいかを本気で考え直さなくてはならない時に来ています。
しかし、この危機感を抱いて動く人は今のところあまりいません。
むしろ、不安はあるけど何となく良くなっていくような気がするとか、そこまで変わらずにこの日常感がダラダラ続くと思っているのではないでしょうか。
この「何となく今の時代が続いていく感覚」は、私が自分を浄化するプロセスで体感した「邪気」の一種でした。
この感覚に包まれるとスピリチュアルなことはどうでも良くなり、物質中心の経済は何の変化もなく続き、人間も時代も変わることなく同じ日常の中にあり続けるのではないか、という錯覚に陥ります。
この感覚は魔法にかかったように現実認識が麻痺した状態となり、この国を取り巻く状況に良い兆候が何一つないのにも関わらず、薄っすら世の中が良くなっていくような気さえしてきます。
そして昔のようにショッピングモールは賑わい出し、物価上昇も収まってラーメンも普通に食べられる時代に戻る、そんな幻想を抱き始めます。
それが「錯覚」だとわかるのは、きちんとニュースを分析し、目で見える現実の社会を具に見るからこそ、「そんなことはあり得ない」と理解するのです。
この邪気は禍々しさや攻撃性がなく、むしろ生温かい優しさに包まれているからこそ、取り込まれた時に何となく安心感を覚えます。
その安堵に引き寄せられることによって、現実の問題を直視する動機を失い、疑問を抱くことや思考そのものを停止させてしまいます。
よく考えれば、この種の邪気は非常に巧妙だと思います。
邪気は本質的に人を不幸に引き摺り込むのが目的であり、結果的に陥れられるのなら痛みや苦しみを感じさせる必要がないのです。
そして、邪気の真の役割は人間の「覚醒を阻むこと」であり、人間がきちんと邪気を分別し、一直線に覚醒するだけなら邪気は存在する意味がなくなります。
「悟り」の対極にあるのが邪気であり、つまり地球上の全人類がお釈迦様のようなら世界に邪気は存在し得ないからこそ、その妨害が唯一の存在意義なのです。
私は最近、特に「憑依」について考える時、これまでの物質中心の社会、お金というシステムに支配された時代を牛耳ってきたのは「神に仇なす者たち」だと確信します。
それは悪魔とか単純なものではなく、神を退け幽界の影響力を隅々まで巡らせるような、巨大な悪意を持った存在です。
その悪意は、戦後の日本に蔓延りこの四半世紀で特に肥大化したように思います。
少なくとも20年前の日本人は、もっと素直に「才能」を評価し、他者との違いも寛容に受け止める自由な雰囲気がありました。
しかし、今の日本人は他人との違いが許せず、自分のルールに合わない者に容赦なく批判を浴びせるようになりました。
グローバリズムとか、多様性の時代とか言いますが、時代の雰囲気とは全く逆です。
あらゆるビジネスが「人を楽しませること」を基準としなくなり、いかに低コストで最大の利潤を産むかを重視し、結果が伴わないものは悉く価値がないと切り捨てます。
そうして人々に必要な物資もサービスも縮小していき、人を楽しませるという目的は形骸化していきました。
「人が楽しむ=評価=数字」であり、数字にならなければ人にとって価値はなく、その意味で奉仕精神は利益に反することになり、ビジネスの精神的側面は徐々に削られて行きました。
むしろ「おもてなし精神」は、企業による過剰なサービスの強制として横行しています。
この精神文化の衰退こそ、日本が経済において推進力を失った根本原因であり、この病理に至った理由こそ「拝金主義」という価値観にあったのではないでしょうか。
日本人は高度経済成長期以前からお金が好きな民族であったとは言え、わりと「日本人らしさ」の中で、豊かな発想を育てる風土がありました。
しかしこの四半世紀、その空気が薄れていったと感じるのは私だけでしょうか。
私が同世代の人々を見回して感じるのは、若い頃はもっと自由闊達で純粋な目で世の中を見て、違和感を情熱に変える力を持っていた印象が、今は消え失せてしまったように見えることです。
私も彼らも時代の軋轢の中で、真面目で優秀な人ほど潰され、自由にものを言う人ほど口を塞がれました。
高潔な人ほど権力に取り込まれ追従せざるを得なくなり、信念を貫く人ほど病んでいきました。
彼らが今どうしているかを見回すと、かつての面影を残した人はほとんどいません。
その姿を見ると、人間の良い部分ほど潰されていったようにも感じるのです。
彼らは才能豊かな人たちばかりでしたが、企業や社会のあり方では下手な利用のされ方に巻き込まれてしまったように思えてなりません。
「才能」とはおそらく人間に宿る神に最も近い性質で、その心こそ「神性」そのものです。
才能を発揮することや、愛に目覚めたり人生の悟りを得ることは、自らの神性による力です。
もしこの世界が神性を封じ込めることで成立していたとしたら、邪気が人々の目覚めを阻害する理由になり得ます。
唯物的な経済システムの中では、人間の心よりもロジックが通用した方が大衆をコントロールしやすいからです。
この世界を牛耳る存在が「神に仇なす者」であるならば、人々の覚醒の芽を摘み取り無知蒙昧な状態にしておくことは、自分たちの支配を行う上で最も理想的なはずです。
だからこそ元々神性の強い人々、素直で心ある優秀な人たちほど、これまでの世界では踏み躙られる存在であり続けたのではないでしょうか。
私もその一人と言うには烏滸がましいのですが、これまで息をするように人を陥れるタイプの輩とは戦ってきました。
だからこそ彼らの思考パターンはだいたい読めますし、読めるからこそ先んじて手を打つ方法も熟知しています。
ここまでタフになるには相当な生傷を受けましたが、こうでもしなければ自分を守って来れなかったでしょう。
今でも、神性とかけ離れた性質の人ほど階層構造をのし上がる社会であるのは変わりません。
しかし、その時代を終わらせるために私は神様を信じて行動しています。
そして時代は新しく切り替わりつつあり、これからは神性を大事にする人々の世界になっていくだろうと感じています。
現在の拝金主義的な経済システムは、目に見えて限界を迎えています。
その頂点にいるヒエラルキーの人々は、「金と権力」に特化してきた人々であるため、精神性やモラルに欠ける傾向にあります。
その所業は金と権力があったから見過ごされてきたようなもので、権威が崩れるような出来事があれば全てが明るみになるでしょう。
それを見て、人々は初めて気づくのだと思います。
自分たちが美しく飾り立てられた虚像を理想にしてきたことに。
そして、自分たちが人間本来の性質を蔑ろにして、神という存在に唾を吐いてきたことを。
「これからそれを思い知ることになる」と言えば、脅しのように聞こえてしまうでしょうか。
ただ、それはこれまで自分の心を守るためにずっと耐えてきた人々からすると、決して怖い話ではないと思います。
むしろ福音であり、これからはやっと自分らしく素直に生きられる時代になるというなら、救いになるはずです。
私は自分の過去だけでなく、自分らしく生きようとして踏み躙られ、心を病み生きることすら諦めようとした人々を思えば、どうしても時代を変えたくなるのです。
私なんかよりも才能も人格も優れた人はゴマンといましたが、世の中に抗えなかった人々もたくさん見てきました。
新しい時代はそういった人が純粋に認められ、誰もが自由に表現をできる世界にしたいのです。
私一人でもやる、という気持ちですが私の後ろには神様がいてくださると信じています。
未来を生きる子供たちには、その自由な空気の中でのびのびと成長して欲しい、そう願ってやみません。

楽太郎です。
昨日は一日中雨が降っていたせいで、近所の川が増水していました。
いつもはキラキラして流れている透明な川面は、茶色く淀んで強い流れとなっていました。
この河川はきちんと護岸工事がされているので、これまでも氾濫することはありませんでした。
しかし、昭和以前の時代なら水害に見舞われたことは度々あったかもしれません。
いつもは澄んだ川が増水するとまるで別の様相となってしまう姿は、かつて河川が「龍」に例えられたのもわかる気がします。
普段は生活用水に使い遊び場にもなる川辺が、ある時には住民に牙を剥くとしたら、恐怖そのものです。
ゆえに、自然の恵みとして川の神に感謝する一方、水害にならないために神を鎮め祀るのも納得できます。
各地方に自治体や藩が置かれ、かつては豪族が地方を治めていましたが、それ以前では村や集落の及ぶ範囲で何キロ、数十キロに及ぶ河川の治水工事をすることは困難だったはずです。
川辺は生活や農耕に適した環境でありながら、雨などが降ると氾濫し、村を飲み込んだことも度々あったでしょう。
素戔嗚命の八岐大蛇退治は治水事業に準える説もありますが、少数で護岸工事を行うには人手が足りず、大規模に事業を行うなら資金や資材も必要になったはずです。
村や集落のレベルでは実現は難しく、地方を取りまとめる権力者に陳情し、協力を仰ぐことで治水事業は完了し後世に残る功績となったのでしょう。
それでも、場所によっては治水工事が進まず、近代になるまで手付かずの忌み地も確かに存在しました。
そういう場所ではやはり水神をお祀りして、荒魂を鎮めるような祭祀が行われたはずです。
ただ近代になって土木機械が普及すると、人間の力だけでどこでも計画通りに工事をすることが可能になったので、改めて水神をお祀りし鎮魂する必要もなくなったのだと思います。
人間は自然環境を自分たちで意のままに操れるようになったからこそ、天候や防災などを神仏に願い頼ることをしなくなりました。
同時に自然の恵みに関しても、水道などのインフラが整備されたことで「あるのが当たり前」になり、特に生活の利潤に感謝することもなくなりました。
人間は、自分たちが豊かで安全ならば神仏はなくても良い、と考えがちなのだと思います。
私たちが神社仏閣に行く時、願うのは合格祈願や縁結び、金運招福などで、ほぼ自分たちのことだけです。
人として幸福であるためには、社会や人からお金や権力という恵みを受け取ることになるため、神仏に対して願うのは対人関係になりがちです。
それは善し悪しではないのでしょうが、人間の現金さを神様たちはどうご覧になられているのでしょうか。
私の感じる神様という存在は、目に見えないですが実に理性的で愛情深く、とても献身的です。
本当に人間のことを考えて行動して下さる一方、きちんとお祀りして欲しいと願っておられる気がしてなりません。
神様のお心はなかなか人間には察するのは難しいのですが、神様はやはり神社仏閣で丁重に祭祀されることを望んでおられるように思います。
だから、神社の権利を外国人に売却したり、無人だからと社殿を取り壊してソーラーパネルを建てたり、法人の運営のために営利事業に躍起になったり、そういった神仏を軽視する事態を危惧されているように思えてなりません。
確かに現代は神社の運営も厳しく、人手不足も相まって維持管理が難しいのは事実ですが、現実面だけでなく神様のことを第一に慮る気持ちが大切なのではないでしょうか。
現代の私たちにとって古びた小さな社に見えたとしても、ご先祖様たちが願いをかけて大切に守ってきた遺産であり、神様との約束があったからこそ鎮座されている聖域です。
何も知らなければ古びた無用な土地にしか見えずとも、何百年という時を越えてご先祖様を見守ってきた神様がおられる場所を、私たちが当然のように軽視して良いとは思えません。
今こそ、神々と人間とのあるべき関係を見直して見るべき時ではないでしょうか。
奇しくも、地球は次元上昇をして星の巡りは「風の時代」に突入し、物質文明は終わり精神文化の時代に移り変わっていきます。
人間が本来あるべき心持ちに戻る時、神々は私たちのすぐ身近な存在になることも必然であるような気がします。
私は近所の川面を眺める時、瀬織津姫様のことをよく考えます。
将来、清らかな川の近くに瀬織津姫様の神社を建立することが私の夢です。
それだけでなく、街によくある川と呼べないようなドブ川を再び綺麗な清流に戻せないかと考えています。
それは果てしなく困難な道のりで、正直どうやっていいのかわからないレベルです。
しかし、何十年かかろうとそれを成し遂げた時、瀬織津姫様はとても喜んで下さる気がしてなりません。
「瀬織津姫命」という御神格は、古代において河川が「饗土(くなど)」と呼ばれる境界であり、塞の神としての意味合いから転じて魔を祓い罪穢れを清める存在とされてきました。
しかし河川は山の合間を縫って流れるものであり、山から豊穣の神が田畑に降りてきて収穫を終えると山へ帰り、翌春に再来すると古代の人々は考えました。
その神をお迎えする神事を「サオリ」、山の神を迎える女性たちを「早乙女」と呼びました。
全国にお祀りされる「大山祇神」という山神は、女性であると考えられている土地が多いそうです。
「瀬織津」という言葉は、語源的に「瀬に降る」だと思います。
何が川に降りるかと言えば、「サ=稲」の神ではないでしょうか。
山から降りてくる豊穣の女神は、山から流れる川に沿って田畑にやって来ます。ゆえに瀬織津姫命は「沙織津姫」であり、「サ(稲霊)の神」とも考えられます。
瀬織津姫様は私たちが思っているよりも異なる役割を持ち、想像だにしていない働きをされてきた神様なのかもしれません。
神道は日本政府の神社本庁がほぼ取り仕切っていますが、国家神道と本来の自然発生的な神道は似て非なるものだと私は思います。
日本人は太陽信仰よりも山岳信仰や磐座信仰の方が歴史が古く、それゆえ自然神や「サ神」との関係はもっと根が深く広範囲に渡っていたのではないでしょうか。
そこでヤマト王権は「倭国」を統一するための宗教政策を各地に普及させていきました。
飛鳥時代、大和王朝は国家神道を制定するために、全国に広がる「サ神信仰」を封じる必要があったと考えられます。
それにより、天照大御神を女神とするならば瀬織津姫命は権威が大きく、サ神の男性格である猿田彦大神や大物主、大山祇神などの由緒を変える必要があったのではないでしょうか。
実際に、「瀬織津姫命」が祓戸神以外で主祭神とされる神社は、六甲山を除けば九州南部か東海以北に限られています。
神社にお祀りされている御神格は、わりと人間の都合で左右されていることが多く、古くは記紀編纂時の宗教改革や神仏分離政策の影響をもろに受けています。
そういう政治上のゴタゴタを見直すのも、神様と人間の関係を考える上で外すことはできないかもしれません。
私は、神々と人間との関係がより自然な形に戻るような活動をしていきたいと思います。
そのための試みは多少斬新に見えるかもしれませんが、それが神様からのお役目だと考えています。
人間は物質中心の時代が長く続いたせいで、神様の話をすると怪訝な顔をする人が多いのですが、その感性の方が歴史的にはイレギュラーなのです。
そういった誤解を解きながら、八百万の神々と共にあった日本人との新しい関係も模索していきたい、私はそう思っています。
