招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

邪気と運と運命

楽太郎です。

今日は2月12日、満月です。
だからか、同居している両親がいつになく朝からピリピリしていました。
私はここ毎晩、集合意識に潜り込む夢を見て、身体がガチガチに凝り固まる霊障が出ていました。

起きている間は意識的に波動を上げられるのですが、やはり寝たら無防備になるらしく、そこを邪気に襲われているようです。
この現象は身体の不調とか色々考えましたが、結局霊障ということに落ち着きました。

スピリチュアルリーダーの話によると、数年前からアセンションに対する妨害が発生していたらしく、それを「サイキックアタック」と表現しておりました。
全てを信用したわけではないですが、これは神代の実現を阻みたい勢力の力はあるだろうな、という気はしているので、個人的には眉唾ではないと思います。

その邪気は、生霊に乗ることで力を増幅させるのかもしれません。人間にしては、生霊の力が強すぎると感じることもあるからです。

朝、ふと地元の氏神神社に呼ばれている気がして、天気も良くなかったのでどうかなと思ったのですが、やはり行くことにしました。
近いうち神棚を作らなければいけないと考えていたので、氏神様のご神璽はいずれ拝領せねばならなかったのもあります。

道すがら、ひどい邪気を放つ人が道にいて、どうしてもすれ違わなければならず焦りました。
見た瞬間、「人間レベルの邪気ではない」と思いました。
悪霊に取り憑かれた人、とかではなく「魔物」という認識に近いです。
少なくとも、私は霊的に彼を人間だと認識できませんでした。

ですので、できるだけ近づきたくなかったのですが、通り道なので仕方なくすれ違うことにしました。
何かブツブツ言っているので、余計におぞましいと感じました。
人々の邪気は高まってはいると思ってましたが、ここまで人間離れした邪気を背負う人がいるのか、と少しびっくりしました。

あまりにすごい邪気なので、逆に興味が湧きました。そこで、しばらく遠目から彼を見ていました。
すると掃除係の方に話しかけていたので、何か聞きたいことがあったのかもしれません。
たぶん私が彼に話しかけられていたら、邪気を浴びて半日は寝込んでいたと思います。
お守りと塩を持参して、本当に良かったと思いました。

とりあえず神社に着いて氏神様に参拝し、目的のご神札を頂いて帰路に着きました。
神社を出る際、門前で唾と痰を吐き散らす人がいて、これもびっくりしました。

この人を見た瞬間、「魂が汚れているから、本能的に神様に助けを請いに来たのだ」と感じました。
やはり、確実に邪気を危険水域まで溜め込んでいる人は増えて来ている印象です。
彼は鳥居の前でお辞儀をしていたので、人間はよくわからない生き物だな、と思いました。

こういう「魔物的邪気」を帯びた人は、近ごろたびたび目にするようになって来ました。
邪気を帯びる人もわかりやすくなって来ているというか、これからさらに極端になってくると思います。

私は一目で人のエネルギーの内容まで見ることはできませんが、エネルギーが内向きの人、外向きの人で出す波長が違うな、というのは感じます。

エネルギーが外向きの人は、分類するなら子供から若者、運動をしている人、子供と関わりが深い大人、ペット連れの人が目で見る限り多い印象です。
その人たちが意識面で神様や目に見えないものをどれだけ信じているかはわかりませんが、「生命体のポジティブなエネルギー」の近くにいる人、わりと本人などは、比較的元気なのかもしれません。

逆にエネルギーが内向きの人は、容姿ではなく姿勢とか佇まいから、鬱屈とした波動を放っているのがわかります。
おそらく赤の他人に依存したり、人が作ったもので心を落ち着けていると、自分の魂の声を黙らせてしまうのだと思います。
彼らを見ると、人間本来の気の流れが滞っているように見えますし、生命体としてのエネルギーを喚起できていないのではないでしょうか。

スピリチュアルの世界では、この次元上昇で二極化とか、五次元と三次元世界の分離とか言われます。
私は「神代」と「人世」で区別している概念ですが、これが現実世界でどういう形で具現化するのか、若干不透明だと感じる部分はありました。

私は最近、これは「運気」という形で個人に降りかかってくるのでは、と思うようになりました。

あまりこういうことは言うべきでないのですが、私が朝にすれ違った男性は、ここまで邪気を溜め込むと後は犯罪に走るか、そのエネルギーを自分に向けて病気になるか、という二択しかないように思います。

邪気の何が悪いかと言うと、気の枯れから起きる意欲の喪失によって、するべきではない選択をするようになるからです。
人に対して当たり散らしたり、楽をしようとして良くないことをしてみたり、出来心でするべきではないことに手をつけてみたり、などです。

魔が差した行動は、いずれ良くない結果になって跳ね返って来ることがほとんどです。
それは当事者からすると、「ついてない」と感じるかもしれません。
因果応報なのですが、わざと良くない行動を選択してしまう、それがまさに「運気」だと思います。

信仰心を持つ人は、この邪気から率先して神様に守ってもらえるため、災難や運の下落を避けることができます。
邪気の影響を受けないので気力が充実しやすく、ゆえにエネルギーが高い状態で安定し、発想力や創造性を発揮して行動することも可能になります。
そういう人は、前向きな行動を起こすので周りに良い影響を及ぼし、結果として幸運を引き寄せます。

現実的には、こういう仕組みで「二極化」は現れてくるのではないでしょうか。
これまでの世では、生まれの良さや資産規模で決まっていた二極化が、「運」という目に見えないものに支配され、どうにもならない人は本当にどうにもならなくなるのだと思います。

そういう時代に人々はどう考えるようになるかと言うと、神社に行って神頼みするとか、ゲン担ぎをしたりジンクスや占いを信じるようになるはずです。
社会は物理的なハックでは身動きが取れなくなるので、目に見えない存在に頼るしかなくなるからです。
そうするうちに人は内面と向き合わざるを得なくなり、世の雰囲気はより精神的になっていくでしょう。

その時、スピリチュアルへの評価、神仏への再評価が起こります。
この一連の流れは、どう見ても「神様のご計画」のように思えてなりません。




家を出た時には一面の曇り空でしたが、神社から帰る時には青空になっていました。
帰り道、登り龍のような雲を見て、思わずカメラを向けてしまいました。

私は飛行機雲を「龍雲」と言いきるつもりはありませんが、どうしても満月の日との関連を考えざるを得ませんでした。
今日の街の邪気の帯び方はいつになくおかしいと感じましたし、地面から暗い気が噴き出しているようにも感じました。
気の流れ的に、龍たちが動いていてもおかしくないな、と思います。

どうもこの先、多くの人々にとってはあまり良くないことばかり起こる気がします。
さりとて、私も安心できる立場ではありませんし、
自分のことをしっかりやっていくしかないでしょう。

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変革の風を起こす

楽太郎です。

今朝、散歩していたら川に白鳥がいました。
この白鳥は、数年前から一匹でこの川付近に棲みついているようです。
私はその子を見るたび、「寂しくないのだろうか」と思います。

ただ、鳥たちは人間のように遠慮しながら生きる動物ではないので、何の不満もないのかもしれません。
時折、鷺や鴨たちと一緒にいるので、寂しくはないかもしれません。

鳥たちは他の種族でもこうして群れて共存できるのに、肌の色や生まれが違うだけで分かり合えない種族もいるのは、皮肉なことです。

川辺で、鴉が餌を探していました。
鳥たちは、餌を探す行為を「生きるために仕方ない」とは思っていないでしょう。

「生きることは義務だ」と思うような生物は、そもそも長い淘汰の中で生き残ることはできなかったはずです。
人間以外の動物は、自分が生きること自体に目的や喜びを見出し、その行為を面倒くさがることはないでしょう。

しかし、人間は違います。
ものを食べるために、家賃を払うために、やりたくないことをしたり、死なない選択をするために、仕方なく毎日を生きていたりします。
そうやって自分たちの社会を生きづらいものにした結果、子供たちが減り若者たちは活気を失い、自分たちではどうしようもなくなってしまいました。

その穴を埋めるために外国人を呼び込み、日本の文化や国土を投げ売り、日本人は米も満足に食べられなくなっています。
私は、もうこのまま行くところまで行くのだろうな、と静観しています。

この世には、「禍事」が浄化という形で溢れています。

人々はまだ、世の中が選挙一つでひっくり返るとか、アメリカの大統領が諸悪の根源をぶっ潰してくれる、そうすれば全てが良くなると思い込んでいます。
噴出する世の悪事を正義感で叩いていけば、いずれ世の中は正常になり、発展する社会に戻ると信じています。
しかし、私からして見れば、そうならないのも神様のご計画の一部です。

神様は、仏教に「天魔」という概念があるように、悪魔意識を巧みに利用されているように見えます。
日本の新紙幣は、私は始め「持ちたくない」とすら思いました。
あれは、日本人の価値観に背くデザインだと思いますが、あのセンスの悪さが逆にお金に対する執着心を阻害する効果があるかもしれません。
それを狙ったのなら、あえて良くない波動を紙幣に込めたことで、人々の意識は変わざるを得ないはずです。

この場合、日本の金融を牛耳る権力集団の悪意を逆手に取った、神々の奸計であるとも言えます。
同時に、世のスキャンダルはわかりやすい形で炎上します。
大衆は自らの正義感でこの問題を叩きますが、その「正義」も「悪意」も神様は禍事に使っておられるように思います。
そこには、あらゆるタイミングの一致や偶然も関わっているように見え、それらが噛み合うことで社会の禍事が顕在化しているように見えます。

つまり、人間社会で起こる「禍事」は、「悪意」「正義」「偶然」という三つの要素を歯車にして噴出しています。

神様がお力を示される時は、主に自然現象や偶然が多いのですが、時に人間の心も利用されます。
もちろん本人の自由意志でしょうが、そう仕向けることは神様なら可能なはずです。
そうして、人間界の禍事と浄化は、あくまで人間同士の次元で起こし、解決させようとしている気がしてなりません。


これから時代が変わり「神代」になる前提の話をすれば、私は人世の崩壊時には明治維新や戊辰戦争のような内戦もありうるのではないか、とかつては思っていました。
しかし、神様と繋がり神様のお顔を伺う限りは、より文化的かつ合理的なイノベーションによって世を塗り替えていって欲しい、と思われているように思えてなりません。

それは、これからの世に勝海舟や西郷隆盛が必要というより、むしろ福澤諭吉や渋沢栄一のような実業家に世の変革を担ってもらいたいのではないか、と思うのです。

神様のお力なら、自然の力を利用すれば諸悪の根源を物理的に抹殺することは容易でしょう。
しかしそれをしないのは、神の力だけで人の世界を変えることに意味がないからではないでしょうか。

神様は、人間が自分たちの力で変化を起こし、世を立て直すことが必要なプロセスだと考えておられるのだと思います。
人間がどういう世界が新しい世界に相応しいかを考え、その目的のために自分たちで社会を変えていく、その手順を踏まずして神代は訪れないということでしょう。

だから、多少醜い争いや汚行に心が磨り減ろうと、それに目を背けず、人間たちが自分たちで社会をどうしていくかを考えなければならないのだと思います。


今日、アップされた「日月神示」の朗読動画で、興味深い一節がありました。

日月神示・梅の巻「第十八帖」 | シンジツヲツナグ

おそらく著作権侵害には当たらないと思うので、ここに本文を転載します。

第18帖

「自分で自分のしていること分かるまいがな、神がさしているのだから人間の頭では分からん、仕組み通りに使われて身魂の掃除の程度に使われて、使い分けられているのじゃぞ、早く人間心捨てて仕舞って神の申す通りに従って下されよ、それがお主の徳と申すものじゃぞ、一家の為めぞ、国の為めぞ、世界の民の為めだぞ、天地の御為めだぞ、今までに無かったこと今度はするのじゃから、合点出来んのも道理じゃ、道理じゃ、始めは戦いで争で世の建て替えする積りであったが、あまりに曇りひどいから、戦ばかりでは隅々までは掃除出来んから、世界の家々の隅々まで掃除するのじゃから、その掃除中々じゃから、戦許りでないぞ、家の中キチンと食物大切にするのが、開の御用と申してあろうがな、今度の岩戸は、開っぱなしじゃ、褌要らんと申してあろう」

この節に日月神様や日本の神々の温度感が集約されていると思います。
神様は、人間を間引いて世を変えるおつもりというより、命までは取らずとも人間に心を改めて貰えたらそれが何より、と考えておられるのだと思います。

だからこそ、神様は文化的、精神的な面で、平和的に平和な世を作っていって欲しいのだと思います。
神様が私に「闇の勢力と戦え」と仰らない理由の一つであり、それは人々の心の変化で起こせるものだからだと思います。

神代は、神様の愛と人類の友情で繋がる世界であると私は思っています。
だから、心で世の中を変えていく、それが全てではないでしょうか。

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「神代」VS「人世」

楽太郎です。

世の中が、ますます騒然としてきました。
2025年は色々あると噂されてきましたが、一部のインフルエンサーの方はすでに「再生が始まっている」と仰っています。

その真偽はさておき、世はまだ崩壊期に差し掛かったばかりで、見た限りでは崩壊しきるまでだいぶかかるように思えます。
ある一つの大企業が壊れ切るのでも、2025年以内に納まるとは言えないかもしれません。

確かに新しい芽は芽吹きつつあるかもしれませんが、それを踏み荒らす環境は何一つ変わっていません。
世の中は、混沌としてきてるだけで1ミリも良くなってはいないのが実感です。

世界中の戦争も、依然と続いています。
ウクライナ侵攻に関して、私は静観しています。
あれはDSとロシアの正義の戦いだと仰る方もいます。

しかし、あの戦争はウクライナという小国がいかにNATOを後ろ盾にしようと、ロシアが脅威を感じて侵攻を開始する理由にはなりません。
ロシアが戦争をしたくなければ戦線を撤退し、現在の掌握地域を交渉材料にして和平を結ぶことは容易なはずです。
何故、国家が崩壊寸前になっても戦争を続けなければならないのか。私には、「戦争をすること」自体が目的のように思えてなりません。

転じてウクライナ軍は、西側諸国から資金援助や武器供与を受けつつ、新兵器の開発を進めています。
私は、「新しい戦争形態の確立」というのがこの戦争のメインテーマなのではないかと考えています。

アメリカ大統領にトランプ氏が返り咲き、アメリカ国内も騒然として来ました。
ロサンゼルスの山火事や飛行機の衝突事故、あくまで私の直感にすぎないのですが、「よくこれほど堂々と証拠隠滅や暗殺ができるな」と思います。

テックバブルは、全く衰えを見せません。
トランプ大統領就任時に、背後にはマグニフィセント7の壮々たる面々が並んでいました。
トランプ大統領は、どう見てもDSの息のかかった大富豪たちと、米国のための取引をしたのではないでしょうか。

DSには「軍事産業系」と「金融系」「テック系」「医療・製薬系」の、主に4つの流派があるように見えます。
軍事産業はしばらく戦争が続く以上は安泰でしょう。製薬産業も、疫病には事欠かない世相です。米テックに対する投資は金融が支えていますが、金融システムはもう持たないと思います。
中国の経済危機と米国の負債、世界中の国家的デフォルトの可能性、それらが瓦解する寸前なのは手に取るようにわかります。

しかし、この経済危機の中で、特にハイテク分野以外で外貨を稼ぐ手段のない米国は、やはりビッグテックに依存し続けるしかないのではないでしょうか。

トランプ大統領は、FRB議長のパウエル氏とは犬猿の仲だと言われています。
ただ、アメリカ経済の生命線を握っているのはFRBなので、下手にバブル崩壊の引き金を引けば、共和党の支持が落ちるのは明白です。
だからこそトランプ氏はバブル崩壊を避け、本気で経済をソフトランディングさせたいはずです。

その鍵となるマグニフィセント7は、今では世界中のデジタル産業を牛耳り、今後はAI分野でも覇権を握るものと予想されます。
アメリカとEUの仲の悪い理由の一つが、EU圏内ではIT産業が軒並み米国テックに潰されてしまうため、IT分野が成長しないからです。
米国テックは、スマホやPC、AIのプラットフォームを掌握する限り、とりあえず外貨は自由に稼げる状態を維持し続けるでしょう。

それに加え、近年米国テックが開発を進めている分野は生体デバイスと不老不死技術です。
これには日本政府も「ムーンショット計画」として一枚噛む、きな臭い分野でもあります。
これは金融システムが崩壊した後の、DSの新たな支配構造の一部であるような気がしてなりません。

人々はデバイスによって繋がり、やるべきことはAIがサポートしてくれ、お金を稼ぐためにハイテクを用いて、病気も忽ち治る不死の身体を手に入れる。

それはまさに「神のいない世界の楽園」です。
神の代わりにAIがあり、AIの上に超富裕層がいるわけです。
これこそ「人世」の最終形態であり、人間は一切の努力や悩みから解放される代わりに、魂の自由を失うのです。

この世界は、もう目前でしょう。
しかし、これを本物の「神様」はどうご覧になっているのでしょうか。

この世は、魂の修行として生まれてくる場所です。
今生が楽しかなく、あるいは楽を得るための地獄がある世界で、税金のようなサブスクを払うために働き、救いの道がハイテクを使うことだとしたら、どうでしょうか。

人々は、神様の声を聞こうとはしないでしょう。
人生の答えを全てテクノロジーが握っているのですから、誰もがお金を払って解決したいはずです。
しかし、それだと魂の修行にはなりません。

少なくとも私には、自分自身を見つめ才能を伸ばし、目に見えない世界を信じて自由を掴み取るよう、神様は促してこられます。
神様が「イーロン・マスクを信じればあなた方は救われます」と仰ったことは一度もありません。

私は、これが答えなのではないかと思います。

これからの世がどういう世界になるのか、私には予想がつきません。
私の勝手な正義が通用することのない世界でも、私は構わないのです。
しかし、目に見えない存在や神々、人間の尊厳や自由が貶められる世界であってはならないと思います。

米国テックの権現たる生成AIを、私が蛇蝎の如く嫌うのは、あれが「人間の努力や才能を嘲笑う」用途にしか使われていないからです。
魂の発露である才能は、神様が一人ずつお与えになった恩寵とも言えます。
「お金を払えば才能などいらない」というアイデアは、私には到底受け入れることができません。

神様はその光景をどうご覧になっているかは存じませんが、私はこの世の理と神を信じます。
人の支配する世界は、やはり人が君臨するためにあらゆる行いを人に強いる世界なのです。
そこに魂の自由はないからこそ、私は神様のいる世界に人を連れていきたいのです。

現在の浄化と立て直しの波が、どこまで進むのかはわかりません。
ただ、支配者が古い人間から新しい人間に変わっただけでは、この世の地獄はまだまだ続きます。
やはり、人間の上には神様に居てくださり、自然や動物と隣り合って生きるのが人間という存在だと思います。

私は、その時代が来ることを願って止みません。

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「繋がれる」神様

楽太郎です。
昨日から瀬織津姫様の新しいイラストを描き始めました。

私は以前、かなり集中することで神様っぽいメッセージを降ろすやり方をしていました。
それにはかなり強い念とコンディション、タイミングが噛み合っていなければ再現性がありませんでした。

ただ、最近は無理に神様から言霊的なメッセージを受け取ろうとするのをやめ、身の回りの変化や事象に神様のメッセージを見つけて、勝手に解釈するやり方をしています。
この方法で神様のお導きを受けると、「メッセージを貰わねば!」みたいな気合を入れる必要もなく、変に緊張することもないので気が楽です。

リラックスしていると、かなりインスピレーションが入りやすくなりますし、周りの変化に気づきやすくなります。
ぶっちゃけ、自分のエネルギーの何割に神様の干渉が入っているかわからないくらいです。

瀬織津姫様のイラストを描き始めたのも、神様が「描きなさい」と言ってきたわけではありません。
けれど、なぜか魂の向きでそうなってしまい、エネルギー的になぜか後押しが入っています。
これに関しては、自分でもなぜこの行動をしているのか理解はしにくいです。

ふと思いついたことがあります。
神様が吹き込んだものかわかりませんが、ここに書いてみようと思います。
これからお話することは、戯れごとだと思ってください。


私は瀬織津姫様のデザインを自分で考え、そのイメージを元にイラストを描いています。
人間が事象として神様をキャラクター化するのは、今に始まったことではありません。

例を挙げれば、「大国主命」様や「事代主命」様は、記紀の記述だけではどういう神様かイメージが伝わりづらいと思います。
しかし、七福神の「大黒様」や「恵比寿様」となれば、日本人なら誰もがイメージをしやすくなります。

さらに言えば、「サンタクロース」はキャラクターとして確立していますし、親しみやすさやキャッチーさは社会に浸透しやすい要素であることがわかります。

日本人が神社に行く時、神明造の古びたお社を前にすると「厳しい神様」をイメージしたり、神様は目に見えないので想像すらできなかったりします。
しかし、この時「大黒様」や「恵比寿様」ならある程度イメージができると思います。

私は、「神様のキャラクター化」を通して、神様に対する親しみを広げられないか考えています。

これは、神様でキャラクタービジネスをしようというのではありません。
神様は実在されるので、日本全国津々浦々、本気で繋がろうと思えば繋がれる存在です。

例えば、ドラえもんや孫悟空は完全に架空のキャラクターなので、感性で繋がることは不可能です。
しかし、AKB48やジャイアンツの選手は、実在するので直接会ったり握手したりすることはできます。

神様なら例えキャラクター的なイメージでも、心の中では実際に誰もが繋がれるわけです。
これは、現代人にとってかなり新しいコンテンツと言えるのではないでしょうか?

私の描く瀬織津姫様が、実在の瀬織津姫様や同定される神霊と似ているとか、同じであるはずはありません。
しかし、私の描いた瀬織津姫様のイメージがあれば、瀬織津姫命の神霊へのアクセスは容易になるかもしれません。

それはあたかもクリスマスにサンタクロースにお願いするように、瀬織津姫様にお願いする人が増えるということです。
頑張れば瀬織津姫様だけでなく、武甕雷命様や天児屋命様のように、なかなかお姿が想像できない神様にも、人間が抱きやすいイメージに描くことは可能です。

神道では御本尊が彫像であることはほぼありませんが、仏教では仏像が祈祷の対象となっています。
よく仏像は偶像崇拝と揶揄されますが、これは完全な誤解です。お釈迦様は偶像崇拝を禁じておられるからです。

仏教が仏像を安置するのは、求道者が「仏様」をイメージしやすいようにする為、と言われています。
仏様を拝む時、仏像に宿る仏様を拝んでいるのではなく、仏像を参考にして仏様を拝んでいるのです。
それは、仏像から仏様のお姿をイメージし、より仏様にアクセスしやすくする機能があるのだと思います。

つまり、神様に対する明確なイメージを持つことで、神社などから神様に繋がることは(理論的には)ハードルが下がると言えます。
とは言え、自分で神様に繋がってみると、全くイメージが違ったということもあるでしょう。
その時には、「自分が繋がる神様」のお姿を、自らイメージし、表現してみたらいいのです。

そうやって、「自分から見たマイ神様」みたいな輪が広がっていくとすれば、もっと人々が神様を身近に感じ、神様と繋がる人も増えてくるのではないでしょうか。

余談ですが、神様をガッツリ信仰し始めた私を、両親は少し気味悪がっています。
戦後の新興宗教団体は悪目立ちすることばかりしてきたので、親世代では宗教に対して忌避感が強いのです。
ただ、神道は精神分化や習俗であって、厳密に言えば宗教ではありません。この誤解があるから、八百万の神霊や国家神道の神々も軽視されがちなのです。
現代の日本人の宗教観は、残念ながら今はこのレベルです。

ただ、これから神代となり神様が実在することが前提の世となれば、神様の存在がより身近になり、神様をピックアップした事業も伸びてくるでしょう。
その点において、日本のキャラクター文化は、神様の世界ととても相性が良いように思えます。

今、経営で頭を悩ませている神社も、もう少し楽に運営できるようになるかもしれません。
その善し悪しは神様でなければ計りかねる部分ではあるのですが、神様の影響力が増すのは確実であると思います。

戯言とか、絵空事と受け取っていただいても構いません。
私は、神様と人間がもっと仲良く暮らす世界になれたらいいな、と思うので一応考えてみました。

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神様の考え方

楽太郎です。

ここ数日、全く仕事に力が入らないというか、おそらく神様からのミッションを魂が優先しているのだろう、という気がしています。
神様への興味や知識が増えて、神々の世界やこの世の仕組みを知るための道筋が、次から次へと見えてくるようになりました。

瀬織津姫様について調べるのもそうです。
おそらく神様は、神々の世界での常識を早く私に知ってもらいたいとか、考えて欲しいと思っておられるのかもしれません。

私の考えが正しいと言うつもりは毛頭ありませんが、とりあえずは追求する姿勢を崩さないように促しているように思えます。
神様が私たちに今やらせたいのは、才能を発揮したりお役目を果たす以上に、新しい時代に適応するための準備をさせることなのかもしれません。

私の場合は、前のめりにやってもうまくいかない時期なのは承知なので、どっしり構えて回り道を選択しています。
「俺は何をやっているんだろう?」とは思うのですが、なぜか充実感があるというか、不思議と不安も疑念もありません。

神様がこれほど世界の仕組みをテーマとして私に考えさせようとするのは、おそらく神様の視点でものを考えられる人間がもっと出てきて欲しいのだと思います。

この世界が神代に変わっても、共通の世界観がなければバラバラな集団になってしまうはずです。
そこはスピリチュアリストの弱いところというか、具体的な思想性と神秘性は重ならない部分があるからだと思います。

私が神代について考える時、現在も連綿と続く社会構造やテクノロジーが新しい時代にそっくり引き継がれてしまう気がしてならず、それについて不安や嫌悪感はあります。
けれど、それは私の個人的な好き嫌いとか善悪の感情であって、それがそのまま神様の価値観であるとは限りません。
人間にとっての正義は神の世界の正義とは一致せず、全次元の仕組みを理解しているかどうかで違いが生まれるのだと思います。

私にはこの世にあるモノで「忌まわしい、滅びて欲しい」と思うものはたくさんあります。
神様からすれば、文明は人間が自らの内在神を呼び起こして作り上げたものなので、基本的に善し悪しをジャッジするようなものではないのかもしれません。

確かにスマホも銃も覚醒剤も、機能的には忌まわしい面はあるにしても、それが世界に存在するべきか否かを神様が決めることはないように見えます。
昔からそうなのでしょうが、殺傷兵器である剣や銃も善し悪しは別として「一応あるもの」なのだから、あるものを使って上手くやればいい、という発想が神様には基本的にあるのかもしれません。
現世のあり方をまず肯定するというのが、神様のこの世に対する考え方なのかもしれません。

ただ、神様にはどうやら許しがたい部分もあるらしく、私にはそれが「魂を曇らせる行動」であるような気がしてなりません。
人間がこの地球に魂の修行として生まれてくるとしたら、修行にならない生き方を最も嘆かれるはずです。

例えば、SNSはシステムそのものとして善悪はないとしても、機能に依存して道を踏み外したり、影響されすぎて精神を病んでしまえば、魂の修行に支障が出てしまいます。
モルヒネだって、現象として善悪があるわけではなく、良いように使えば麻酔になり、悪く使えば覚醒剤として社会悪となります。

神様からして見れば、この世にある全ての現象はモノの捉え方、使い方次第で良くもなったり悪くなったりするものなので、それが何であろうと良い使い方をすれば問題ない、というお考えなら確かに理に叶っています。
ただ、人間は物事を悪いように用いることが多いので、神様は常にそれを憂慮されているのだと思います。

人間が良くない行動を起こすのは、妙な入れ知恵や思い込みによって自分の魂とは違う判断をしたり、魂の未熟さから衝動に走ってしまう場合がほとんどです。
その行動は魂の修行の一環であるとも言えますが、神様からすれば、悪行を行うことよりも「魂の修行に背く」状態だけが、良くないように見えているのではないでしょうか。

そうやって魂を曇らせたまま、周りを巻き込んだり自ら修行を降りる選択をされると、魂の輪廻はうまく回らなくなるはずです。
魂の循環が滞ると、微生物から連なる魂の進化や神界の構造にまで影響が及ぶはずです。
人間から目に見えない世界の仕組みからすれば、その秩序を乱すものが最も障害となるでしょう。

私は食事をする時、今食べている豚や魚がどういう気持ちで死んでいったのか、考えることがあります。
動物たちを観察すると、人間とは違い自分たちが捕食されることを根深く恨んだりはしないように見えます。
「あー、俺もこれまでか。しょうがない」
という感じで、死に対してとても潔いのです。

冷静に考えると、川の小魚も自分が食べられるたびに気場を荒らしていたら、この世は成り立ちません。
「一寸の虫にも五分の魂」と言いますが、虫も鳥もそれぞれが個体として寿命を全うし、あるいは捕食されて養分となることで、魂の修行をしているのかもしれません。

だからと言って、人間が生き物たちの生死を握り、無差別に殺傷して良いということではないでしょう。
逆に、神様たちから見れば食べ物を粗末にしたり、環境を意味もなく荒らしたり、生命を蔑ろにすることの方が問題に映るかもしれません。

その行動をいつまでも省みない人間、反省して直そうとしない人間は、確かに学ぶ必要があるように思えます。
それも魂の修行と言えますが、今神様たちがやろうとしているのは、このことなのかもしれません。

神々は、おそらく完膚なきまでに人類を痛めつけようとは考えておられないと思います。
神様は人間の在り方を問題にされているのであって、人間という存在そのものをどうにかしようとされているようには思えないのです。

ただし、人間が思いのほか強情なら、多少鞭の数は増えていくかもしれません。
だからこそ、神様の考え方を持った人間に増えて欲しいし、その考え方を磨いていって欲しいと思われているのではないでしょうか。

その重要性を、私は無意識に認識しているのかもしれません。
他にやるべきことは沢山あるのですが、どうしてもこっちに気が向いてしまうのです。

「神様の世界はどうなっているんだろう?」と。

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「瀬織津姫命」を考える

楽太郎です。

先日、仙台市内の瀧澤神社に参拝しました。
その時、久しぶりに街を歩きながら思い出の地巡りをしました。
その時浮かんだ言葉は、「兵どもが夢の跡」です。

あの頃、私もそうですが若さにかまけて「自分は無敵だ」と思った若者たちばかりでした。
その時に競い合った人々も今は散り散りになり、思い出の場所も跡形もなく、全てが夢だったようにすら思えます。

ずっと過去の辛かった出来事や後悔に執われ、あの場所に戻ることすらできなかったばかりか、心の傷の痛みを思い出してはクヨクヨしていました。

けれど、もはや現実的には影も形もなく、あの時代の光景は自分の記憶の中にしかありません。
それは、記憶という自分の作り出した世界にしか存在しない出来事で、この苦しみは自分が作り出しているものです。

問題は、それが「もう存在しない」ことを認識しながら、記憶の中に埋めた心のわだかまりをいかに丁寧に掘り起こし、綺麗に洗い流すかという工程にすぎなかったのです。

昨日は、瀬織津姫様のご神気にかなり当てられていたらしく、過去の幻想を「記憶」だと信じ込んでいることに気づかせるために、あえて思い出の地を巡らせたのかもしれません。
実際、夢の跡を見て回ったことで、「全て終わったことなのだ」という実感が湧き、私の心にも一つの区切りがつきました。

その時、瀬織津姫様とは神社参拝を通してのご縁はなかったのですが、神社から私のことをご覧になられていたかもしれず、なぜ私と瀬織津姫様に自然とご縁が繋がったのかも感じることができました。

今、瀬織津姫様を我が家でお祀りするために、大きな神社へ参拝に行くことを計画しています。

これに関しては、神様からのインスピレーションが不思議と降りてきません。これはあえて「調べなさい」ということなのだと思っています。
むしろ、何日もかけて瀬織津姫様の情報を追うことが、一つの試練なのかもしれません。

瀬織津姫命様は「大祓祝詞」の後半に一度出てくるだけの神様で、瀬織津姫様を主祭神としてお祀りしている神社は思うほど多くありません。

昨今のスピリチュアルブームもあって、瀬織津姫命様は最も脚光を浴びている神様と言えます。
ただ、人気があるからこそ騙りなども散見され、便乗商法もとても多いように感じます。
審神者をしようとしても、元の神様の性格もはっきりとしていないので、言うに任せている印象です。

私はその真偽について何とも言えませんが、瀬織津姫様が仮に様々な人の脳裏に働きかけておられるとしたら、それに触発される人が増えるのも納得できます。
瀬織津姫命様を意識し始めたことを神の働きと解釈するなら、そう不思議なことでもないかもしれません。

江戸時代初期に書かれたとされる「ホツマツタエ」では瀬織津姫命は天照大御神の配偶神であるとされます。
この場合の天照大御神は、饒速日命とも須佐之男命とも考えうるそうです。
あるいは、瀬織津姫命は水の女神そのものであり、縄文から続く地母神に近い神様であるとするなら、太陽神や月神と共に柱を成す神格なのかもしれません。

瀬織津姫命様を巡る神社について調べていると、あらゆる同一説が入り乱れ、瀬織津姫様に一番近い神社はなかなか見つけられません。
私は先日、「産土神の復活」という記事を書きましたが、あれは瀬織津姫様についてツラツラ書いているうちに、頭の中にはない結論に至った不思議な記事です。

私は「瀬織津姫様は元の名前に戻して、きちんとお祀りして欲しいのではないか」とその時は思っていました。
今読み返してみると、「大和族に書き換えられた名前は嫌だ」とは、どうも神様が仰るとは思えません。
神様からすると大事なのは、水の神様として、産土神としてきちんとお祀りされることの方だと思います。
けれど、現代人は弁天様や龍神様のご利益にばかり目が行って、要の水神として感謝されたり、水の恵みをありがたがる風潮がほとんどありません。
そして神様という存在は本来、土地や氏族を守る存在であり、産土神として「この場所を守っているんですよ」ということを、もっと意識して欲しいはずです。

瀬織津姫様を水の女神として、水に係る産土神と見るならば、名前よりも本来の形でお祀りしてもらう方が優先的かもしれません。
近年、山を切り崩したり森林を伐採したり、水脈を破壊することで水源や水量に影響があるケースが増えています。
大地の神様なら、まず最初にここを嘆かれるのではないでしょうか。

完全に私の憶測なのですが、「瀬織津姫命」とは神々のソウルグループ、あるいはそれを司る神格の一つなのかもしれません。
此処に各神社におわす水源や川の神様がいて、それぞれの神様の繋がりをまとめているのが「瀬織津姫命」という象徴であるように私は思います。

神様から見たら、人間が自分たちにどういう名前をつけようと、その名前の意味や定義に縛られるとはどうしても思えません。
ましてや、人間が廃仏毀釈で名前を強引に変えたとしても、神々の世界で諍いが起こるはずもないでしょう。

確かに神社や祭神名の歴史的経緯は議論になりうるのですが、産土神として何万年、何千年も土地を守ってきた神としてのアイデンティティの方が強いわけで、その本質は縄文から続くアニミズムに他ならないのかもしれません。
この長い人の歴史の中で、神界のコミュニティのあり方は多少変わったかもしれませんが、神様が人々の信仰と共にある存在という事実は不変であるように思えます。

私は瀬織津姫様の神社を調べていくに当たり、宗像系、厳島系、三島系、八幡系、早池峰系、などの系統を比較することに大した意味はなく、「日本の水の女神」というプロフィールに焦点を当てるべきだと考えるようになりました。

瀬織津姫は記紀には登場しないので、その正統性を歴史的に保証できるのは「大祓祝詞」しかありません。
ここで瀬織津姫は、あらゆる罪穢れを洗い流す祓いの神として登場します。
瀬織津とは、古来から川と海の中間のことであり、川で流された土砂などを海に吐き出す様が、祓い清めの定義と一致したのでしょう。
そもそも水自体が生命の源であり、物質的な汚れを流す作用は、水の本質的機能とも言えます。

日本では、水の神々のソウルグループ、あるいはそれを取りまとめる神格が存在し、人間たちはそちらの神様たちを「瀬織津姫命」として認識してきたのかもしれません。
けれど、「記紀」を編纂する持統天皇の治世から、何らかの理由で「瀬織津姫命」という神名は違う形にせざるを得なかったのだと思います。

現代でも静岡や岩手の一部地域では、瀬織津姫命が主祭神の神社が数多くあります。
早池峰神社系列の神社は歴史的に旧豪族の奥州安倍氏、宗像氏の影響が残っていたため、瀬織津姫命という神名は変更を免れたのかもしれません。

だから、瀬織津姫命様をお祀りする神社について、由緒や神名にこだわりすぎるのも違うことに気がつきました。
厳島摂社の弁財天様をお祀りしても、瀧澤神社の瀬織津姫様をお祀りしても、おそらく最終的に繋がれる神様は一緒なのかもしれません。
その信仰心が最も重要なのであって、神様のメッセージやエネルギーをきちんと受信できるようにする方が肝心なように思います。

神様の世界は、よほどの能力者ならともかく、私のような小童には覗き見ることすらできません。
しかし、信仰心とそれを示す行動さえあれば、形にこだわらず神様はお力添えをして下さるのかもしれません。

だから、あまり難しく考えないようにしたいと思います。
瀬織津姫様のご神気を感じることの方が、現実的には大切なのですから。

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産土神の復活

楽太郎です。

先日、ある方からお導きがありまして、とある理由で瀬織津姫様について調べています。

瀬織津姫命様は浄化の神様と言われており、水と深い関係があります。
瀧や川に関わるお社には、瀬織津姫様が関係していることが多いです。
ただし瀬織津姫様は、宗像三女神の市杵島姫命、弁才天、十一面観音、天照大御神の荒御魂など、他の系統の神々と同定されることも多く、それゆえにあらゆる結びつきがある神様でもあります。

瀬織津姫様の神社を全国津々浦々調べてみると、私のよく参拝する賀茂神社も、強引に解釈すれば瀬織津姫様の神社とも言えます。

地元の賀茂神社は、賀茂県主の氏神であることがわかっています。
賀茂県主の御先祖は須佐之男命様まで遡れるそうで、出雲系の神社であることがわかります。

この神社の謂れでは、塩竈神社を代々祀る神主の一族が、個人的にお祀りしていた糺洲宮から、江戸時代に伊達綱宗公の命を受けて遷宮した神社とされています。

賀茂神社は賀茂分雷命と玉依姫の二柱、八咫烏神をお祀りしています。
八咫烏は神武東征の際、神武天皇を大和まで案内した天照大御神の使いとされていますが、この八咫烏は鴨建角身命と同一視されているので、賀茂神社では八咫烏神も賀茂神としてお祀りしています。

八咫烏神は太陽の化身とされ、天照大御神に繋がります。
ただここで「八咫烏神=賀茂神=賀茂分雷神=天照大御神」とし、下宮の玉依姫を瀬織津姫とすることもできますが、やや安直でしょう。

ここで、一考に値するブログ記事を見つけました。

伊達家の信仰と瀬織津姫神

伊達家の氏神である亀岡八幡宮では、ご祭神を応神天皇・神功皇后・玉依姫命とし、比売大神を玉依姫とされているそうです。
瀬織津姫命を主祭神とする和布刈神社の由緒には、「宇佐宮正殿之姫ノ大神ト同体、天照大神之御荒魂三女神也、賊敵降伏ノ神ニシテ玉依姫ト奉称」と記されているそうです。
つまり、「比売大神=玉依姫=瀬織津姫=天照大御神」となり、天照皇大御神の荒御魂に行き着くのです。

しかし、神話的歴史的解釈では賀茂神社を伊勢神宮の形でイメージするのは容易いのですが、その解釈は可能だとしても曲解すぎる印象です。
それでも、表向きの由緒や伝来では全く違う神格の敬称となりながら、歴史的由来を紐解いていけば違う系統の神様である可能性も高いのです。

明治維新に伴う神仏分離で、由来が曖昧だった神様や神仏習合して色々な由来を持った神様が、神社本庁の政策で名称を変更された神格も多かったのは事実です。
その時に由緒も書き直され、歴史的な経緯以上に強い上書きをされてしまいました。


ここでガラッと話が変わるのですが、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」という映画を思い出します。
主人公の千尋は湯婆婆に名前の一部を奪われて、自分の名前を取り戻すために神々の試練を経験していきます。
その登場人物の「ハク」は、人間たちに汚された川の龍神でありながら、その本来の自分を忘れてしまい、千尋の手助けによって自分が白龍であったことを思い出します。

この「名前を捨てた神」「名前を変えられた神」が自らの名前を取り戻して復活を果たすというのが、この映画の裏テーマなのかもしれません。

さらに話が変わりますが、精神学協会の代表である積哲夫さんという方は、「2024年に物語宇宙に刻まれた『記紀』の結界が解かれた」という話をされています。
私はこの話と数名のスピリチュアリストが言及していた「古き神々の復活」という話は、繋がっているのではないかと考えています。

瀬織津姫様について調べているうちに、「瀬織津姫」という名称は意図的に上書きされているのではないか、という疑念が湧いてきました。
瀬織津姫命は弁才天や龍神やその他の名義にされているだけで、「川や瀧、海の水と浄化に関わる」という性格は一貫しています。
瀬織津姫命を主祭神と明記している神社は、実はそう多くはなく、同定された神名の方が一般的だったりします。

岩手には瀬織津姫命を祭神とする早池峰神社が数多くあります。この地には出雲系の名残が多くあり、だからこそ瀬織津姫命の由緒がそのまま残ったとも考えられます。
ちなみに私のご先祖様はおそらく陸奥菊池氏で、かつて盛岡周辺の地に住んでおられた可能性が高く、その出自は出雲地方にあります。
出雲族は大和族から逃れるように、河北に移り住んだように思えます。

「ホツマツタエ」という秘伝書は偽書とされながらも、天照大御神の配偶神は瀬織津姫命であるとされています。
私は「瀬織津姫命は謎の神ではなく、意図的に名前を隠された神なのでは?」という仮説を立て始めました。
伊勢神宮の荒祭宮が伝来では瀬織津姫命であるとされているのは有名ですが、それだけでなく出雲族や日高以北を支配していた蝦夷の土着の神々が、意図的に大和系の神々に名前を上書きされているのは歴史を紐解けば明らかです。

瀬織津姫命が様々な神々の名称に置き換わられ、もしその名称をあるべきものに戻せるならば、それを望まれるのではないでしょうか。

ここで話をまとめると、今この日本において神々の働きが強くなっていることと、日本の立て直しに係る神界の動きは関連があるような気がします。
これまでの歴史的構造から変化が起こるとしたら、それは人世の抑圧からの解放であり、「古き神々の復活=産土神の復権」でもあるのではないでしょうか。

これまでの時代で人々が維持しながらも変えてきた神々の形と、取り壊してきた神々の座す環境。
人々は大地からの恵みを忘れ、土地に対する感情や記憶を失ってしまいました。
その現状を産土神様たちは、どうご覧になったのでしょうか。

戦争末期に岡本天明氏に降ろされた日月神示によると、「三千世界の大洗濯」は神界の立て直しも含まれるそうです。
つまり、神界の構造改革も地上の変革と同時に起きており、日本の復活は産土神の復権を持って達成されるのではないでしょうか。

それは私たちの土地を守護し、恵みをもたらす産土神が、本来の姿と名前を取り戻した世であり、私たちはその世界に向かっているように思えます。
それならば、これまで封印されていた神々が動き出し、禍事を生じて世を曲げ直し、神の統べる世界にこの世を戻していくのも納得できます。

それは、これまで塗り替えてられてきた神の名が人世から解放され、土着の神々が本来の存在を取り戻す「ハク」のような覚醒と奇跡を、神々は起こそうとされているような気がしてなりません。

皆様は、これを読んでどうお感じになりますでしょうか。

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「気」とビジネス

楽太郎です。

最近、気になっていることがあります。
YouTubeでヒーリングの動画を見ることがあるのですが、波動を感じるものは確かに感じるということです。

これは本当にどういう仕組みなのでしょうか。
録画はGoPROやスマホでやるとして、mp4とか avi形式で保存したデータをYouTubeのサーバーにアップロードし、スマホなどのアプリで無作為に再生され、あるいは保存されるにも関わらず「波動」も再現可能なのです。

そもそも、波動をなぜデジタルに変換し、電磁波に乗せてデータを再生してもエネルギーが伝わるのか、これもかなり謎です。

この現象を、私なりに仮説を立ててみました。
「波動」とは「情報」のエネルギーなのではないでしょうか。

霊感商法で売られている「波動水」の話をするわけではないのですが、よく「○○○Hzの音波を当てた水は美味しくなる」という話を聞きます。
この理論は、「○○○Hzの音波というプラスの情報が加わったか加わっていないかの差」という表現として「波動」の特質を説明しています。

私自身も試したわけではないので何とも言えませんが、これがプラシーボなどではなく、実際にモノに情報という波動が付加された結果が人の心に現れるとしたら、それが価値として認識されるのかもしれません。

以前、霊能者の方とお茶を飲む機会があり、その時「料理は感情の入り方で全く味が違う」と話されていました。
その方は、感情の良し悪し、あるいは素材や工程に関わる意識、価値観の善悪も味に出るという話をされていました。

その話で特に興味深かったのは「知識や情報にもエネルギーがあり、その背後にある力も影響する」と仰られていて、つまり情報の質もエネルギーの出所と相関関係がある、という話をされていました。

これらを総合すると、「込められた波動や念の良し悪しが、対象物に宿り因果を引き起こす」ということです。

つまり、デジタルの動画に波動が乗る現象は、「良い波動や念を込めた動画だから、その波動が出る」というシンプルな事象に過ぎないのではないでしょうか。
特に修行を積まれた本物のヒーラーが、波動を送ることに特化した動画を配信されてるのですから、波動が伝わるのも当然かもしれません。

波動が情報のエネルギーなのだとしたら、情報が二進数のデータに変換され、デジタル化しても変容しないことの説明にもなります。

よく「丹精真心込めて」という話を聞きますが、真心や愛情を込めたものは特に精度が高いからというより、独特の温かさのようなものが良いと感じる面があります。
クオリティや価格感からすると、工業製品の方が無機質で手に取りやすいかもしれませんが、ハンドメイドの温もりを選択肢に含めると比較はできないかもしれません。

これは、アートの世界にも当てはまります。
近年、手描きの絵画はめっきり流通しなくなりました。絵がデジタル中心となり、人々が絵画を目にするのも美術館に意図して入らない以外は、ほぼメディアで目にするはずです。

しかし画像生成AIが登場すると、これまで正直に手で描いていたプロの作品よりも、無料でクオリティの高いイラストが出力できるようになり、わざわざ人に描いてもらう必要がないどころか、「人の描いたものである必要もない」というところまで来てしまいました。

これに関しての良し悪しは論じませんが、YouTubeのサムネなどに画像生成AIが使われているのを細かく見ると、わりと気になる箇所はあります。
けれど、費用対効果の面で見れば、賑やかしにはなるし多少おかしなイラストでも皆そこまで注意深く見ない、という前提で成立しているように見えます。

この画像生成AIの普及によって、イラストレーターの受注数は大幅に減少しました。
ただ、それはそれでイラストレーターも市場に対して差別化を図っていく必要もあります。

私が考えているのは、仮にデジタルにも波動を乗せられるとしたら、その工程は生成AIには再現できず、ゆえに波動がハンドメイドの付加価値になるのではないか、という点です。

よく何かの娯楽を通して「元気が出た」と人は言いますが、この「気」は波動やエネルギーとも言えます。

この「気」は決してクオリティでは再現できない、生の気迫のようなものが伝わるからこそ感じるものです。
先の料理の話でもそうですが、この「気」は作り手の波動であって、それが籠もれば価値に繋がることもあり得るのです。

私は以前、このブログに瀬織津姫様と須佐之男命様のイラストをアップしました。
その制作過程では神様の霊圧を感じながら描きました。実際、私のイラストを見て何かを感じるかは分かりませんが、このロジックでは「神様」の絵に波動を込めることも可能なはずです。

つまり、神様と繋がり神様から受けた波動をそのまま絵に載せると、神様のお力やご利益のある絵に変わり、その付加価値は特別なものになるのではないか、と私は思うのです。

ただ、「恵比寿様のご神気にあやかれる、福を呼ぶイラスト!」とかを販売に出しても、よくある霊感商法の一種にしか過ぎません。
波動が乗ったメリットを活かすのなら、それを享受した人に実際にご利益があり、本当にそう感じられることが大切です。
問題は、私にそれができるかということです。

私の能力は自分なりに高まっていると思う時もありますが、まだまだ蚊が鳴く程度に違いありません。
だからこそ、これからエネルギーワークの習得などを通して波動を作品に込められるようにしたらどうか、と考えています。

その先にあるビジネスは、もう私の頭にはあったりします。
それをやりたいかというと、まだまだ優先度は引く、準備も相当かかりそうだと感じます。
ただ、一生を通して細々と食えそうだな、と思えるプランではあります。

これから神代が具現化し、誰もが「神様」というコンテンツを親しむようになれば、スピリチュアルと絡めたビジネスもより日の目を見るのではないでしょうか。
その時にすでに実績があれば、かなりの先行者利益を得られるはずで、神様が仰る「金運」とはこのことも含まれるのではないか、と私は思います。

今でも土の時代の構造物はビクともしない頑丈さがあります。
古い森が焼き払われ、そこから新しい森として芽が出て花を咲かせ、大樹になるのは自分がちゃんと育っていく必要があります。

その姿は現時点で想像しにくいですし、実際に風穴が空いてくれなければ何も始まりません。
けれど、それは神様が勝手にやってくれるものではなく、自分たちがイノベーションを起こしていかなければ、地上に具現化することができないのです。
いくら構造物が更地になろうと、コンクリートを突き抜けて育つ力が植物になければ、花も咲かないでしょう。

それは勇気のいることですし、とてつもなく骨が折れるかもしれません。
しかし本当にやりたいことをやって望み通りの成果が出せる世になろうとしているのですから、もっと大胆に考えて良いのだと思います。

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神様と「感謝」

楽太郎です。

先ほど、賀茂神社に参拝して帰宅しました。
神様に呼ばれている気がして、雪が舞っていたのですがいずれ晴れると思い、徒歩で行くことにしました。

雪が強くなってきたので、ちょっと間違ったかなと正直思いました。
ただ神社が見えると、暖かい気持ちになったのでこちらの神様とは相性が良いんだろうな、と思いました。

神様には特にお願いごともないので、感謝の気持ちだけをお伝えさせていただきました。
手水舎で禊ぎをした時点でかなり凍えたので、温かいコーヒーでも飲んで雪が止むのを待つことにしました。

前回参拝した時にもお見かけした、高齢の女性が境内におられました。
その時も気になったのですが、その方はおそらくかなり能力のある方で、神様とお話ができる方だと思います。
毎日、こちらの神社に通われているのかもしれません。

その女性がご神木と話をしておられる姿を見ながら、私も真似できないかなと思いました。
ちょっと手を触れてみたのですが、やはり何もわかることはありませんでした。
ただ、もの凄く強いエネルギーのようなものを感じたので、私自身の霊感は確実に高まってきているかもしれません。

一息ついた時にお社に呼ばれた気がして、拝殿に戻りました。
遠目に茅葺き屋根や木鼻を眺め、さてそろそろ帰ろうかなと思った瞬間、急に陽が差して暖かくなってきました。
鳥居を出る頃にはすっかり雪も止んだので、わりと予想は当たるんだな、と思いました。

帰り際にラーメン屋に寄り、昼食を摂ることにしました。
身体もすっかり冷え切っていたので、熱いラーメンはすごくありがたかったです。
チャーシューを食べた時に、これほどラーメンに感謝する人はいないだろう、くらいの気持ちが溢れてきました。

この時、神様は「感謝」という気持ちを人々に思い出して欲しいのではないだろうか、と思いました。

このお店も流行っているとは言えませんが、この繊細な味を何十年も続けるには相当な努力をしてこられたはずです。
私は美味しいラーメンだと思うのですが、人からすれば「どこでも食べられる味」とか思うかもしれません。
ただ、このラーメンがまた明日、いつでも食べられるという保証はありません。

私たちはいつも次があると思いがちで、人にせよモノにせよ、替えはいくらでも効くと考えてしまいます。
けれど、次はなく替えが効かないことに気づいた時、ありがたみを思い出した時にはすでに遅いのです。

人間は何でも替えが効くと思い、人もモノも食べ物も粗末にしがちで、今になってその当たり前が怪しくなってきています。
勘の良い人は気づき始めた頃かもしれませんが、まだまだ現代人は取り返しが効くと思っているでしょう。

神様からしたら、地球の力や生命の代償として頂いた恵みに感謝できる人間には、恩恵を与えてもいいと思うかもしれません。
しかし全く恩も感じず、地球や生命や神仏も蔑ろにする人間には、自分の立場をいい加減に思い知ってもらいたいはずです。

神様がやろうとしているのは、人間に謙虚さや感謝を取り戻させるような、宇宙的な改革なのではないでしょうか。

だとしたら、金と力で回る人世で米粒一つに感謝せざるを得ない世とは、一体どういうものか想像に難くありません。
欲深い人間にそこまで学ばせるには何が必要なのかを考えると、これから起こることもだいたい予想できます。

そんなことを考えながら帰路を歩いていると、もしかして今日は私にこれを気づかせるために神社に呼んだのかな、と思いました。
私の気のしすぎかもしれませんが、こう考えた瞬間に耳のあたりの空気がピタっと止まった気がしました。

これが神様のメッセージなのかはわかりませんが、神様のお立場からすると、土地も生命も食べ物も粗末にするような人はお嫌いでしょう。
これから神様が主導権を握られるのだとしたら、感謝の気持ちを持つ人間には優先的に恵みが行き届くようにしたいはずです。
神様が仕切る世であれば、それこそが福運であり、豊かさを招く第一条件なのかもしれません。

私はそう思った時、大人はともかく子供たちにこれを伝えなければ、と思いました。
今の子供たちが大人になる前には、世の中が荒れて食べ物の大切さが自然に身につくかもしれませんが、それをあえて教えられる大人がどれほどいるのでしょうか。

食べ物に感謝するとか、人の仕事をありがたく思うとか、そういうのは当たり前すぎて、あえて言う人はいなくなりました。
いなくなった結果、この当然のことを誰も考えなくなったからこそ、フードロスと物価高が同時に起こる奇妙な世が出来上がったのではないでしょうか。

そう考えたら、やはり全ての日本人が思い直すまで相当なことが起こるんだろうな、という気しかしません。
日本人は知能が衰えたとは言え、一応馬鹿ではないのでいずれ気がつくでしょうが、まだサイレンの音に気づく人は少なく、まだ危機を本気で信じてはいないと思います。

2025年1月末にして、これだけの事件が頻繁してもまだ序の序なんだろうな、と私は感じています。

P.S. 
神社に参拝したことで霊力を補充していただき、だいぶ楽になったのですがラーメン屋で邪気を拾ったらしく、店を出た後の方が元気がなくなりました。

私の霊的な防御力は相当低いようです。
早く何とかしなければいけないかもしれません。

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搾取、権利、思いやり

楽太郎です。

先日、私が支援していた「生成AI被害による裁判」クラウドファウンディングの進捗報告が来ました。

生成AIは、世界中のテック企業が推進する次世代テクノロジーだと言われています。
ただ、「AI」と名前を冠していても、人々が想像する自律型のAIは「汎用AI(GUI)」と呼ばれます。
しかし、生成AIはGUIとは似て非なるものです。

生成AIは、全世界のネットにあるデータにアクセスするリスト(データセット)からプロンプトに応じて元データを引っ張ってきて、コラージュして出力します。
GUIと違うのは、「自律思考」の要素がないことです。この技術は、「生成型検索エンジン」と揶揄されています。

この仕組みは、ネット上にある著作物をクローリング(巡回)して勝手にタグ付けし、必要とあらば生成AI側で合成材料に持ってきます。
これは基本的に「オプトアウト制」と呼ばれ、個人の著作物が機械学習に使われて良いかの可否は、「自分の作品がAI学習に使われていたと判断でき、それが嫌ならサービス元に申請することができる」という仕組みです。
オプトイン(許可制)では、素材使用の賛同者がいなければデータが集まらないため、現時点では大したものが出力されません。

生成AIは、数とパワーの世界です。より多くの学習データがあれば、多様な出力が可能になり、それがアプリの精度に直結します。
現在は、ほぼ全ての生成AIはオプトアウト制であり、のべつ幕なしに世界中のデータを学習素材として回収します。
この生成AIサービスは、法的に保護された著作物すら素材として扱うため、世界中で訴訟が起こされています。

人間は学習すれば、学習した記憶を全て引っ張り出して、一から十まで回想してから知識を応用したりはしません。
抽象度の高い知識の雛形があれば、無限に応用が可能だからです。
しかし、生成AIを「人間と同じ思考手順を取って生成している」と思っている人は少なくありません。
本当に「自我」があるプログラムだと。


ある人気のイラストレーターがいて、誰かがイラストレーターの作品を生成AIにインプットし、その出力物をイラストレーターの名義を詐称して世に出したり、類似的な作品を自分名義で発表して収益化する、そんなことが可能になりました。

しかし、生成AIを通した時点で著作権侵害には当たらなくなるため、作品を素材として使われたクリエイターは泣き寝入りするしかありません。
生成AIの処理プロセスがブラックボックスなため、自身の作品が流用されたことが明確でも、その証明をするのが技術的に難しいからです。

先のクラウドファウンディングは、自身のイラストを生成AIに取り込まれ不本意な形で収益化されたイラストレーターと、生成AIユーザーの裁判です。
結審までに2年かかるそうで、昨年12月にようやく第一回の公判が開かれました。
実際にこの問題は2年前から始まっているので、4年以上の時間が費やされることになります。

この話を聞いて、「あー、AIが人類の新しい未来なのだから、権利とかしょうがないよね」と納得する方はどれほどいるのでしょうか。
私は、思っている以上に多いと思います。

私の立場で言えば、私が描いた作品が生成AIで加工され、全く無関係な人が別の目的で利益を得るわけです。
私には何の利益もないどころか、作風を量産されることで差別化が図れなくなり、商売が難しくなっていきます。

これが横行したら、創作活動がバカらしくなってしまう方もいるでしょう。
実際にそうして、私は筆を折る人を数えきれないほど見てきました。

そのため、業界やクリエイティブの世界そのものを守るための活動を続けてきました。
けれど、このままだと遅かれ早かれ自分も筆を折らざるを得なくなると思います。

…いや、思いました。

これが過去形なのは、私はこれからも絶対に諦めないからです

スピリチュアルとの出会いとすれ違うように、人の世はこのまま行くところまで行くと確信しました。
この世を覆う闇が深すぎて、もはや人間の力ではどうにもならないと悟ったのです。
人間よりも強い力にしか、この世界を変えることはできない、と。


新しい世界とは、一体何なのでしょうか。

この世がどんどん便利になっていき、寝ていても食事が口に運ばれるような社会で、病もなく長寿で無限の暇を持て余しながら、魂だけを置き去った世界。
才能の変わりにプログラムがあり、アイデアだけで一瞬でお金が動くような世界は、本当に人類が到達すべき楽園なのでしょうか。

人間の本質は、何十万年経っても変わりません。
人間は嘘をつく人が嫌いだし、ズルして調子に乗る人も嫌いだし、人に迷惑をかけて顧みない人も嫌いです。
その代わり、誰よりも実直に努力してきた人、自分の頭で考えて行動する人、人に正直で誠実な人、こういう人に信頼が集まります。

人は結局、真面目にコツコツ努力する人が好きです。

おそらく、人間のこの性質はこれから何万年経っても変わらないでしょう。
「美徳」とは、人類にとって普遍的であり、時空を超えて魂に刻まれた価値観なのだと思います。
その「美徳」を捨てた世界は楽園ではなく、真逆の様相を呈するでしょう。

では、私たちが新しく進むべき理想の世界とは何でしょうか。
第一に、人々が自分の尊厳を守られる世界でなければなりません。

人々が個々に尊重される世界は、大まかに言って「人権」が担保されなければなりません。
人権があるからこそ、どんな権力者であろうと人を蹂躙し、搾取することは許されないのです。

ただ、人権は「自由意志の尊重」でもあります。
私が悪を世界から消し去りたくても、悪と目された人の権利も保障されなければなりません。
その両者が互いに潰し合わずにどう共存するのか、どうすれば調和に向かうのか、その寛容さを受け入れなければ人権を正しく認識することはできません。

とても難しいことだと思います。
人は、自分の無意識の行いが他人からの搾取であるとすら気づきません。
ルールや法律すら、自分が罰せられなければギリギリまで守る必要はない、とさえ考えています。

この生成AI問題を追っていて感じたのは、「権利?イノベーションのためなら邪魔になるよね」と思っている人が想像以上に多かったことです。
「権利は大事だ」という話が、そもそも通じない人がとても多いのです。
権利とは、自分の存在や行いが不当に侵害されないための防波堤です。その意味の重さを、自分に置き換えて考えることができないようなのです。

けれども、その価値観ではこれから先の世を生きていくことはできないでしょう。

今世界に起こっている浄化は、こういう人たちに最も降り注いでいるとも言えます。
既存の価値観や社会構造に疑いを持たず、ハックを使い金さえ稼げれば豊かな人生があると思っていた人たちは、価値観の崩壊や社会の揺らぎが起これば自分の豊かさの定義が崩れ去るからです。

自分を守るには、他者を大事にすることが一番です。
いくら自分が強くても、周りの人を常日頃から足蹴にしていれば、自分が弱くなった時にまずいことになります。
自分が不当に搾取されないためには、他者を尊重し互恵的な関係を築くことです。

これからの時代、それが「当たり前」の世になっていけばいいなと思います。
むしろその方が、社会的に合理的だからです。持続可能な社会だからこそ、人々は安心して暮らせます。

そういった世を作るために必要なのは「優しさ」とも言えますが、厳密に言えば「思いやり」です。
相手がして欲しくないことはあえてしない、それ以前に相手のことを知ろうとする気持ちです。

そういう段階から、世は改まらなければならないと思います。
この気持ちの切り替えは簡単ではないかもしれません。けれど、いずれそうせざるを得なくなる流れが来ることでしょう。

誰が懲らしめられたら済むという話でもありません。思いやりのある社会なら、理不尽な問題は起こりえないというだけの話です。

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愛と感情の歯車

楽太郎です。
今回は、「感情」についての話をします。

私は昔から、集団行動が苦手でした。
別にそれは私が周りに合わせられないから、という理由だけではありません。
多人数の中にいると、色々な念や気を浴びることがストレスになり、緊張して混乱したり疲れてしまったりしたからです。
よく考えれば、私は幼少の頃から少人数に溶け込むのは平気でも、幼稚園がすごく苦手でした。
その頃から頭痛持ちで、騒がしい群衆と関わることにいつも不快感を抱えてました。

私は今になったからよくわかるのですが、それは霊感、霊媒体質によるもので、外部のエネルギーの影響、言うなれば邪気を受けすぎるのだと思います。

若い頃はそれを「弱さ」だと信じ込んで、気合いと根性が全ての業界で叩き上げを経験しましたが、最終的に心身が壊れてしまいました。
結局、それはどうにもならない感受性であったと気づくまで、恐ろしいほど時間がかかりました。

今でも、街を歩けば負のエネルギーを拾ってしまいます。
特に今は、街の沈み方が異常です。
良い気分で外出しても、街の重苦しい気を受けて落ち込んで帰ってくることもしばしばです。
人が歩かなくなった地元の街を見ていると、昔の賑やかな風景を思い出し、「どうしてこうなったのか」と知らずのうちに考えてしまいます。

その感情は、何だかんだ言ってこの街が好きだったからです。
頭では仕方がないとわかっていても、まだ心の奥底では納得ができないのです。
人の暗い念や重苦しい気を受けるのは、私が感じすぎる以上に、人の苦しむ姿や落ち込む姿を見ると共感してしまい、周波数が噛み合ってしまうからです。

これまでHSPとして生きてきましたが、他人をあえて見ないとか、他人のことをわざと考えないようにすることで、多感さを埋め合わせていました。
けれどその生き方では四面楚歌に追い込まれるだけで、結局は自分らしくあろうとするなら、この多感さを受け入れなければなりませんでした。

今改めて思うのは、感受性に蓋をすることはできても、性質を変えることはできないということです。
そう感じてしまうのは仕方ないし、その感じ方のせいで不安になったり怒りを覚えたとしても、それも仕方のないことです。

感じやすいという性質を変えることはできないとしても、感覚から湧き上がる感情を何とかすることはできます。
感情は自分の意志で抑えることも、考え方や捉え方を変えることで感情そのものを変えることもできます。
それは簡単なことではありませんが、自分の素直な感覚を否定せずにうまく生きていくには、その方法を取るしかないと思います。

私が不安や怒りに押し流されそうになるとき、自分のロジックも妄想的になっていることに気づきます。
「今、自分はすごく感情的だ」と思うだけでも、今の状態を俯瞰して見ることができます。

大抵、人間の感情が揺さぶられる時は、自分の思い込みが揺さぶられた時です。
以外と、怒りや不安の根底にあるのは、現実を受け入れられない悲しみであったり、愛情を感じていたゆえの悲しみであったりもします。

私は人間の感情は全て、「喜び」と「悲しみ」という原始的な感情から派生したものだと考えています。
悲しいと感じる出来事に呼応して、防衛反応として不安になったり怒りを覚えたりするのだと思います。
同時に、喜びは自分が生きていく上で有利になる、人から認められたり報酬を受けたり、美味しいものを食べたり笑ったり、生を加速させるために湧き上がる感情です。

この喜びをもたらすものこそ、「愛」だと思います。
神々や自然がもたらす恵みも愛と言えますが、人が自らの生を尊重され、思いやりを受けて大事に生きていける、その環境を媒介にするのが愛ではないでしょうか。

ただ、愛は単なる感情だと誤解されがちです。
私が考えるには、愛には水属性以外のエレメントも必要で、火、土、風、水、全てのエレメントがバランス良く整わなければ回ることができません。

火が強ければ情熱が空回り、
水が強ければ感情に溺れ、
風が強ければ理を押しつけ、
土が強ければ形にこだわる。

正しく愛を伝えるには、自分自身が自立しており、また他者も独立した存在として尊重できなければなりません。
感情的に依存した関係では、愛の歯車はうまく回らないのだと思います。

この世に不安になる事件や争い事が絶えないのは、人々がこの愛の仕組みを理解できていないからではないでしょうか。
「好き」というだけでは、愛情は表現できません。
相手を思いやるには、相手のことを知り考えるだけの知性がなければ、きちんと伝えることが難しいと思います。

現代人は精神的なこと、形而上学的なテーマに関してほぼ考えてこなかったと言っていいと思います。
だから、心理学で仕組みがわかっても、他人に共感することができない人が増えました。
人間とは何か、心とは何か、それがあやふやなまま社会の仕組みが壊れていく今日に至り、人生の目的や人間関係の在り方を見つめ直すべき時に来たからこそ、多くの人が混乱し始めているのではないでしょうか。

いくら不安や怒りを共有したところで、現実の歯車を回さなければ何一つ解決はしません。
自分たちが恐慌をポルノグラフィティにするよりも先に、もっとやるべきことや気づくべきことがあります。

私は、それがまず「他人に気づくこと」だと思います。
自分に与えられた恵みや愛情への気づきも、自分以外のものに目を向けなければ気づくことができません。
そして、自分がこれまで依存していたことを知り、そこから自立しようと意を決し、他者を独立した存在として思いやる。
こうして初めて、愛の歯車が動き始めるのだと思います。


かく言う私も、それができているとは言えません。
人に気持ちが依存しているからこそ、反省すべきこともあります。
けれど誰もが修行中なのですから、これからうまくやればいいのです。

感情的なのは人間であるがゆえだし、感情的だからと言って恥ずかしいわけでもなく、それでポカしても暖かく笑える世の中であれば、誰も傷つかないのです。
この世がそんな平和で呑気な雰囲気になればいいな、と私は思います。

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スピリチュアルと幸福

楽太郎です。

最近、気になっていることがあります。
私の近所に、空き地を公園にする工事が行われているのですが、その作業が全く進んでいません。

今年は雪も降らないし暖かい日も多いわりに、施工期間が春まで延びました。
業者の方も、敷地内を歩いているだけで重機も作業も動いているところをあまり見ないので、不思議だなと思って見ています。

何か外部的な理由があるのかもしれません。
予算が降りないとか、部品が届かないとか、他の業者のスケジュールが合わないとか。
ただ、そうしている間に従業員に給料は払われているわけで、工期が延びた分の工費は増えていきます。
その資金を捻出しているのは、市民です。

私はこれを見て、日本の縮図だなと思います。
組織や集団としての歯車は回っていないのに、金だけが流れてどこかへ消えていく。
全体として「何かをやり遂げよう」という意志で動けばすぐできることでも、意志がないから歯車をうまく回せず、実行する力もないのです。

皆、自分が何をしたいのか、何をすべきなのか見えなくなっているのかもしれません。
拡大解釈すれば、人々が信じられる価値観が揺さぶられ、社会も会社もマスコミも芸能人もエンタメもお金も未来も、あらゆるものが信じられなくなっています。
その中で、自分が何を信じて生きていけばいいのか、皆が悩み始めているように見えます。

その点においては、私は天性の天邪鬼というか、人様と違うことを率先してやる分には才能があると思っています。
ただ、私以外の九分九厘以上の人々は私よりまともでしょうから、どんなに私が正しかろうと浮きます。
それでも私自身が心を曇らせずに生きていられること自体が証明しているのかな、と思っています。

スピリチュアルを信じる私としては、目に見えず自分にしか分からないものを感じて生きるので、その不安感は独特なものです。
この世界にも能力差や権威性のようなものがあるため、影響を受けてしまう要素もたくさんあります。

ただここで私が気をつけているのは、仮にそれが真実だと思ったとしても、あえて生きづらくする選択をしないということです。
スピリチュアルは結局、精神的な幸福を求めるプロセスなので、自分自身のためにやるというのが中心的なテーマです。

信念も大事ですが、使命感に駆り立てられて自己犠牲をしてしまうなら、幸福とは真逆の方向に行ってしまいます。
他人にパンを与えて自分が餓死するのは人様から見れば美しいかもしれませんが、神様から見れば「何やってるの」という感じに見えると思います。

魂の求めに応じる時、私は子供の心に戻ります。
子供の心は小悪魔的なところもあるので、そのまま出せば社会規範に触れます。
多くの人は、その魂の抑制を思考や習慣で押さえ、ルールで手懐けています。

人生の修行を経験して魂を成長させてきた人は、直感のレベルで何をしていいか何をして良くないのかがわかります。
それでも、人の生まれや性格には一長一短があるので、全てを統一された善悪に置き換えることはできないでしょう。

霊的な説明をすると、良い部分だけを集めると最終的に平均的な性質に慣らされてしまうのだと思います。
だからこそ神様は人に生まれつき個性を与え、一長一短あるように作られたのではないでしょうか。

その一長一短は、人間からしてみれば平均的であった方が扱いやすいので、抑圧して形を変えることで集団行動を効率化してきました。
ただそれは思考による個性、魂の操縦なので複雑なルールで縛らなければいけませんでした。
そのルールという鎖が壊れた瞬間、わがままにやりたい人はどっと溢れるのでしょう。

本当の成長とは、学校で丸暗記させられたことに忠実になるのではなく、経験することで魂が整っていくことを言うのだと思います。

この世界には一長一短、光と闇があるから違いが生まれます。
闇は光を知ることで光を学び、光は闇を知って闇を学ぶ。
その相互作用があるから成長があり、同質で同レベルの馴れ合いの中でそれを促すのは難しいかもしれません。

仏教に「天魔」という概念があるように、神様は闇の存在もうまく遣われるようです。
魔が神の一部であるという話は、堕天使ルシファーが悪魔の王サタンと同一であるという宗教観にも見て取れます。

ルシファーは神の次に神に近い存在だったと言われます。光に近い者ほど、闇を抱えてしまうと深刻になるのかもしれません。

キリスト教的世界観では光と闇が常に戦っていますが、日本の八百万の世界では光も闇も地続きの存在です。
日本神話では、高天原も黄泉の国も対立しているわけではなく、それぞれが世界の一部として共存し、役割をこなしています。
これこそが「統合」ではないかと思います。

個人的に解釈する中で、神様が私に「闇と戦え」と仰ったことがありません。
光と闇がぶつかれば対消滅するからか、光と闇が統合することができないからか、どちらかの理由があるのだと考えます。

光と闇が共存すれば、その高みにあるのは清濁併呑のワンネスです。
清濁併呑には、「愛」という共存の意志がなければ存立できません。
それは限りなく強い光かもしれませんが、ただ純粋なだけではない、深い悟りと慈悲に満ちた境地ではないのでしょうか。

私は、ここに到達するのが霊魂の目標なのではないかと思います。
だから、人に個性があり一長一短があり、良いところと悪いところがあり、けれどもそれが良い調和の状態こそが理想的な形なのではないでしょうか。

浄土真宗の親鸞聖人は、とてもすごい修行をされた方ですが「煩悩はなくならない」と悟られ、衆生を選ばれました。
私はそこに、地に足のついたスピリチュアリズムがあるのではないかと思います。

どう頑張っても、人の一生のうちでは変えられない性質や課題はあります。
しかし、その悪い部分があるから幸せになれないということはありません。
悪い部分、弱い部分があっても、自分だけでなく周りに補うものがあれば、人はありのままに生きて幸せになることができます。

ありのままに生きて、それが何となく認められたら、だいたいの人は満たされた生き方になるのではないでしょうか。
そういう世になるには、あまりに道のりが遠すぎるような気がします。

まあ、私一人だけ意気込んでもしょうがないので、そういう世が来るように神様にお祈りするだけです。

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世直しの仕方

楽太郎です。

この数日、エネルギーが上がってきて、インスピレーションが次々と入ってきてます。
これでは一つ一つ覚えられないので、記事を書かないと忘れてしまいます。

最近になって、神様の価値観というか、神様たちのスタンダードな考え方が掴めてきました。
神様は至ってシンプルなことしか仰いませんし、問題を複雑にするのも、受け取り方を複雑にするのも人間です。
しかし、人間はシンプルなことをするのが苦手なようです。

昨今の世は慌ただしくはありますが、特に特筆すべきなのは、第47代アメリカ大統領に就任したトランプ氏です。
日本人はトランプ氏を英雄とか救世主みたいに思っている人が多いように見えますが、私の考えは違います。

トランプ氏がどういう人物であれ、これから何をするのであれ、彼は米国を第一に何とかしたいのであって、「トランプ大統領が日本を救ってくれる」という保証はどこにもありません。
アメリカからすれば、日本が永久に植民地であってくれた方がありがたいでしょう。本国の負債を外国という名義なら実質的に押しつけることができるからです。

逆に、「日本はアメリカも中国もロシアもどう出ようが関係ない、我が国は独立を取り戻す」という気概がなければ、いずれ神にも見放されます。
日本列島におられる神々は、日本人に愛想を尽かしていることをもっと気にするべきだと思います。

私は最近、「禍事」の意味を考えます。
この禍事が真相の炙り出しであり、それによって人々に気づきを促しているというのが私の見解です。
ただ現象面では、ゴシップや社会問題として噴出し、そこから組織が物理的に解体されていく様子を見ながら不思議に感じています。

現在進行形のマスコミ絡みの騒動は、わりと権威寄りのトップ層から切り崩されています。
しかし、世には腐り切ったトップなんてザラにいますし、例えば週刊文春が絨毯爆撃を行なったとしても、全ての不正を暴ききることはできません。

私が思うに、「禍事」は上と下からの突き上げ、突き下ろしが同時に起こっています。
大企業などの権威筋はパワーのある組織にしか切り崩しができませんが、その組織よりパワーのある集団に同じことを仕掛けるのは不可能でしょう。
トップの頭がすげ変わっただけではトカゲの尻尾切りにすぎないので、やはり組織内部から変わる必要があります。

その時、一人一人の構成員の考え方が変わることで、組織は下から動かされていくのだと思います。
組織の構成員には家族もいれば友人もおり、それ以前に一人の人間なので、評判の悪い組織にいるのは居心地も悪く、自分としても納得しがたいでしょう。

神様は、こうして二方向のベクトルから圧を加えることで、浄化を促しているように見えます。
おそらく、これはソフトパワーで起きている「禍事」であり、物質面よりも精神面でかかるインパクトです。
とするなら、「ハードパワーの禍事」も神様は用意されているでしょう。
それはここであえて書く必要のないことです。皆さんも、薄々わかっておられると思います。

神様がこういう形で世の建て替えを進めておられるのは、一重に人間に変わって欲しいからです。
厳密に言えば、「神様と一緒に世の中を作ってくれる人々」が主導する人間界にしたいのだと思います。

それには、目に見えないものとの感覚を大切にし、天からのメッセージを素直に聞き、優しい心を持った人が増える必要があります。
けれど、この評価は人間界の尺度ではできません。

私は、クリエイティブの業界で才能のある人、徳の高さも兼ねた人をたくさん知っています。
そこでは人に尽くし、善業のために身を捧げている人もよく知っています。
ただ人のために徳を積みながらも、視点が人間界の問題に定まりすぎているため、神様の存在には気がつかない人もいます。

残念なことですが、いくら人のために尽くしても、人間界の英雄が神代の人材とは限らないのです。

人類はこの数百年間、ずっと「右か左か」で争ってきました。今も尚そうです。
しかし右と左を選ぶのではなく、本当の正解が「上」であったことに気づく人はあまりいません。

人間なら「真ん中」を選べば良いと思うでしょうが、右に寄った人からはそこが真ん中だと思い、真ん中の人が左にいるように見えます。
だから諍いが絶えないのです。
けれど「上」を選べば、右も左も真ん中も全部同じように見えるはずです。そこでは神様が正しい道を示して下さるので、ブレることがありません。

私は、これが日本の神道に教義が存在しなかった最大の理由だと思うのですが、この話は長くなるので割愛します。

おそらく、最終的に全ての権威が相対化される時、唯一残る権威が「神仏」になると思います。
けれど、人間が勝手に作って祭り上げた権威ではなく、本当に私たち人間を作り育んだ神様という存在が、私たちの上に戻られるのは至極当然ではないでしょうか。

そうなった時、人々は今まで神様のおられるべき場所におかしなものを座らせていたことを反省し、全ての禍が解かれ浄化された世界が訪れるのだと思います。
それが「神代」であり、私たちが実現せねばならないことです。

神代は、意気揚々と戦いながら作るものではなく、神様と和気藹々と楽しく暮らしていたらいつのまにか実現していた、というものかもしれません。
神様は、私に「闇の勢力と戦え」と仰ったことは一度もありません。逆に、「世を照らせ」というメッセージの方が強い気がします。

きっと、希望や喜びの心が光となり、それが唯一の神代を手繰り寄せる方法なのかもしれません。
そのためには、暗い世相に引っ張られず、明るい気持ちで楽しく生きることだと思います。

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ニューアナログの時代

楽太郎です。

これから神代がどういう経済になるか、ようやく考えがまとまってきたので、書いてみようと思います。
今回、スピリチュアルはあまり関係ないかもしれません。

人々はまだ、「SNSでバズる=成功」というスキームに夢中になっています。

私は、今後はデジタル分野のリセットが行われると考えています。
これに関しては記事が長くなるので割愛しますが、少なくともSNSで不特定多数にアプローチする集客モデルは、一旦縮退するのではないかと思います。

SNSは、自分のアイデアを発信して同じ趣味や目的の人と繋がるのには有効なツールですが、近年ではインプレ収益や宣伝のために何でもやる業者が目立ちすぎて、目的が評価にすり替わっています。

私の感覚からすると、神様はこういうのがあまりお好きではないように感じます。
つまり金儲けのために、他者の興味がありそうなことに合わせ、自分のやることを決めているからです。
もちろん、他人軸でものを考えること自体が悪いわけではありません。
しかし、自分より他者の判断を優先すること、しかも目的が承認や金稼ぎというのは前時代的な発想としか思えません。

この「評価経済」というのが曲者で、世の評価軸は基本的にマスメディアや企業群、あるいは権力者が恣意的に作成できるものです。
人々は知ってか知らずか、その評価軸に従って判断し、話題にしてお金を使います。

誰も興味ある人を見たことないのに、「今、巷で大流行の!」というのを見たことはないでしょうか。
それでも、盛り上がっているという印象だけで何となく近寄ってしまう人もいます。
こういう人をカモにして、ビジネスモデルを維持してきた業界もたくさんあります。

風の時代は、コミュニティの時代と言われています。
おそらく、不特定多数にアプローチするよりも、よりニッチで求心力の高い分野で商売をする方が効率が良く、持続的なビジネスになる時代だと思います。

大儲けをせずとも回っていく経済になるならば、細々と好きなことをやりながら不自由なく暮らせるレベルで人々は満足し、だいたいそれで良いという風潮になっていくのではないでしょうか。

その世界線で、最もお金を使うコンテンツは「体験」になると思います。
社会的価値よりも個人的価値観が優先されるため、「自分にとって高い価値がある」と思うものにお金を払うようになるとしたらどうでしょうか。

例えば、B'zのライブで指定席が取れるとしたら、50万円くらいポンと出す人は多いはずです。
同じように、もしある歌手が全く有名でなくとも、それほど価値があると思う人がいれば、一席50万円のライブができてしまうのです。

私はこういうビジネスモデルを想像するたび、「神代的だな」と思います。

同じ価値観の人たちで集まり、集落からコンパクトシティを形成する現象も起こりうるかもしれません。
仮に資本主義が終焉を迎えるとしたら、円を使うよりも地域内でトークンを使用した方がお得に暮らせるはずです。
街の形態も、郊外一極集中型ではなく、昭和のような商店街で各々が好きなものを仕入れて売る、という形になるかもしれません。

そうなれば、そのコンパクトシティは各自が好きなことと義務を同時に果たしながら、マイペースで暮らすことも可能になるはずです。
無理に収益を上げたり、世界に撃って出る必要もないので、高すぎる努力目標を掲げなくて良いのです。

技術的なことに関しては、「これからの世界はこうなるだろう」と予想するのは難しくありません。

私が思うに、電子制御モデルのテクノロジーは物理的劣化が早いため、長期的な経済合理性から、アナログ的な高精度技術が再評価される流れになるのではないでしょうか。
それが人が再び「ものづくり」を始める、「ニューアナログ」の時代だと思います。

これからの文明を想像する時、「神様から考えるとどうだろうか」と思い巡らすと、見えやすいかもしれません。
モノにせよ人にせよ、一つ一つのものが大事にされる世であれば、下手に環境を犠牲にすることがありません。

神様からしてみれば、人間が「のびのびと自由に楽しく暮らす」生き方をして欲しいと思っておられるでしょう。
その点で見れば、「努力せず、学びもせず、自分の頭で考えない」ことに使われるビジネスは、神様に好まれないかもしれません。

人は魂の修行としてこの世に生まれてきますが、同時に生命の喜びを表現するためでもあります。
苦しみが全くない、楽しかない世界は魂の成長も喜びもありません。
寝転ぶような生き方は、神代では通用しない生き方になるのではないでしょうか。

未来がこういう時代になるとしたら、死ぬほど嫌な人もいると思います。
そういう人は、古い価値観で支え合う人の世で集まって暮らせばいいでしょう。
けれど、私はこういう未来が実現したら素敵だと思いますし、その喜びをいち早く体験し、良ければたくさんの人と共有したいです。

私は、今の時代の「寄らば大樹の陰」という雰囲気が嫌いです。
利益や便利さを享受したからと言って、一部の大企業や権力者に支配される世はおかしいと思います。

テクノロジーやビジネスの発展はもっと開かれるべきですし、帝国的支配の圧力が解かれることでそれは促進されます。
このシステムが崩壊を迎えるとしたら、次の時代はもっと自由で、努力が報われる社会を作りたいのです。

それが、私の想像する「神代」です。
きっと神様も、遠くないものをお望みだと思います。
私たちには、自分たちで作っていける世が必要なのです。

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この世の問題は、生き方の問題

楽太郎です。
先日、今の時代を測る上で象徴的だなと思った出来事がありました。

十日戎で献米をしたので、神社からの返礼品が家に届きました。けれど、厳密には誤配で近所の家に届けられてしまいました。
荷物の届け通知はメールで来ていたので、その旨を運送会社に連絡し、しばらくして配達員から電話が来ました。

配達員によると、「住所の記載漏れがあった」とのことで、私としては謝罪は求める気持ちはなかったのですが、いかにも「自分は悪くない」という物言いには少しカチンと来ました。
「夜に荷物を誤配先から引き上げて自宅に再配達する」という話をつけて待つことにしました。

最近、この運送会社も色々と複雑な事情にあると聞いてはいたので、ご時世かなと思っていました。
神様的にはどうお感じなのだろう?と思いましたが、「高見の見物でよい」と仰っている感覚でした。

ただ、夜になっていつ再配達が来るのかわからないのも困るので、コールセンターに電話してみました。
これは、自分でもやる必要がないことだとはわかっていましたが、少し好奇心で探りを入れてみることにしました。

結論を言うと、コールセンターの対応も最悪でした。
最初から最後までモンスタークレーマー扱いされて、個人情報を根掘り葉掘り聞かれました。
その時の対応は「住所に記載漏れがあったのだから、原因は送り先にある」という印象です。

送り先は神社なのですが…
荷物も奉納品の返礼なのですが…

その電話をしてから十数分後に、荷物の再配達が来ましたが、ちゃんとした専属のドライバーの方でした。
けれども、何となく斜に構えた印象でした。

私はこの一件で、全く怒りはなかったのですが、今の日本人を考える上で参考になるものを見させられたな、と思いました。

配達員がもの凄くタイトで、精神的・時間的余裕がないのは見て取れました。ケアレスミスに対して、きちんと反省する余裕がないほどなのだろうと思います。
コールセンターの方も、さんざんカスタマーハラスメントの対応をしてきたせいか喧嘩腰で、まともな話に持っていく気がないように思えました。

この出来事の本質は、「自分は悪くない、他に原因がある」という他責思考にあると思います。
ただ、自分が悪くないと正当化できるとしても、自分の考える正しさとは仕事を甘くこなすことなのか、と私は疑問に思います。

彼らも色々大変なんだろうな、と心底感じます。
トップや組織の体質は、末端の従業員にはどうしようもありません。
自分のキャリアや生活を考えると、簡単に抜け出せないのもすごくよくわかります。
けれど、いつまで自分の人生を「仕方ない」と言い訳しながら生きていくつもりなのかな、と老婆心ながら思ったりもします。

実は、今の日本人を支配している問題の本質が、ここに現れているのではないでしょうか。

自分の生きる軸を「当たり前」の生き方に沿うように置いて、皆が仕方なく仕事をしているから、自分も仕方なく仕事をするのは当然だ、と。
世の中が悪くなっても自分にはどうしようもないし、自分がうまくいかないのは自分が悪いわけじゃない。
きっと原因は色々あって、どうしようもなく大きな問題もあって、それが悪いんだから仕方ない。

「だから自分は悪くない」

その他責思考は、あたかも自分が正しく見えるでしょう。
けれど同じように、それ以上に複雑な状況でも、自分軸を守って自ら道を切り拓いていく人はいます。
その動機づけをしないのは自分の選択であって、それは決して自己責任云々ではなく、妥協を選ぶ意志が自分自身にあるのです。

誰もがそう考えるからこそ、日本という国は沈んでいく一方なのではないでしょうか。

この国がおかしいのは政治家が悪い、マスコミが、富裕層が、高齢世代が、官僚が、あの企業が、あの思想が、あの国が、と問題の所在を外部に作ることで、自分自身を反省するチャンスを見送った結果、今の現状があるのではないかと思います。

仮に問題がそこにあるとして、自分は一体何の行動を起こし、何を変えようとしてきたのか。
それを自信を持って言える人は、どのくらいいるのでしょうか。

今、この世界で起きている問題の「炙り出し」は、他人軸で物事を考え、自分という存在を外部に依存させてきた人々に、「そろそろ気づいたらどうだ」と神様が伝えたいのではないでしょうか。

あれほど絶大な影響力のあった人物や組織がガラガラと崩れていく中、「一生寄りかかれるほど絶対的なものはないのだ」と見ることはできないでしょうか。

そして、人々がそれに気づき「では自分はどうしようか」と考え始める時を、神様は待っておられるのかもしれません。
自分に立ち返って人生を再定義する時、これまでの生き方を新しくすることができるからです。

その気づきが人々に広がる時、「今までのこれはおかしかった」と自ら世直しに動き始めるのだと思います。
おそらく世に起きる禍事は、この気づきのために起こされているものなのかもしれません。


私は最近、心底思います。
人生は、「もう一度ある」と思うことでも二度と叶わないことがあります。
あの人と会うことや、あの場所に行ってみること、また食べたいもの、それはまた機会があるとその時は思えますが、気づいたら永遠の別れになります。
人はそれを理解したとしても、その喪失感にいつの間にか慣れてしまいます。

人生は、恐ろしいほど取り返しがつきません。
けれど、新しくやり直すことはいくらでもできます。

同じ状況には至れなくても、それ以上の境遇には至れるのです。
その時、自身の後悔や反省を活かして応用するからこそ、人生はより豊かになっていくのだと思います。

私の半生は、まさにそれを思い知るためのものでした。
だからこそ、「いつでもやり直していいのだ」と私は伝えたいのです。
人生は短いですが、わりと色々なことができるのですから。

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