招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「弥栄(≒繁栄)」への道

楽太郎です。

昨日は、久しぶりにペンを取ることが出来て楽しかったです。
「八十禍津姫」と「大綾津姫」のデザインも、大して悩まずパッと決まったのも嬉しかったです。

どうも8月23日の処暑、新月からガラッとエネルギーが変わっていたようです。
その日に合わせて「日月神示解説」のサイトを立ち上げ、その時に「新世界実現が理論の段階から実践の段階に移ったのではないか」という話もしました。
それから数日後には「招神万来」の移転先のサイトも立ち上げているので、今のエネルギーはかなり「実現係数」が高くなる傾向があるようです。

私はこのエネルギーの趨勢は、9月23日の秋分まで高まっていくと思います。
そして秋分点をきっかけに、これまで神々から覚醒とお祓いのエネルギーを受けてきた人々の、「立ち上がる」という態度がいよいよ可視化されると思います。
と言うより、日月神示的に「神と獣」、私の言い方では「神世と人世」の二極化において、「新時代への移行」の立場表明が秋分点では既に目に見える状態となっている、と言ってよいと思います。

その時、具体的に「世を変えよう」と発信していない人であっても、おそらく世を変えていく側の人からすれば、どっち側の人なのかを感覚的に判別がつくようになるはずです。
そして、その傾向が今後数年かけてどんどん色濃くなっていき、これまでマーブル模様だった世界が「二色」になるところまで行くのではないでしょうか。

夏至をもって開かれた地球的気場、私は「精神界」と呼んでいますが、現段階ではその気場にアクセスしている人はほんの一握りです。
しかし、近い将来に魂を磨き抜く根性のある人はその気場への到達を目指すようになり、かつて魂のレベルで「神世」の選択をした人々は、続々と覚醒して五次元に上昇していくことになるはずです。
未だその準備期間ではあるのですが、神々のご計画は寸分違わず着々と進行しているようです。

私は毎朝、海外のニュースはだいたい眺めるようにしているのですが、経済を色眼鏡で見ては政府寄りの肯定的見解に終始するマスコミが、「NVIDIAが第二四半期の業績予想を下回った」と報じた辺りから、トランプ政権批判の論調を強め、また実態経済の悪化を正直に出し始めました。

私は「いよいよ」だと思っていて、米国株急落から目まぐるしい変動の時代に突入していくと思います。
私は今後10年以内に「アメリカ合衆国」という国家は消滅すると予測していますが、現在他の名だたる国家も存続が危ぶまれる事態に陥るでしょう。

アメリカ合衆国もとい、地球上から国名が消えるような時代にあっては、もはや「これまで」の世界は事実上、維持継続が不可能になるということです。
今は誰もその予兆など感じていないかもしれませんが、それは大衆が「平和ボケ」するような情報を権力サイドが選別して世に出しているからであり、広報機関やマスメディアはもとより、放送やネットの検閲や言論統制も水面下で行われているのは周知の事実です。

「陰謀論でも良いから真実を知りたい」と思うくらいでなければ、今の世ではどう転んでも「嘘」を掴まされて道を誤ります。
私は全世界で起こるインフレや食糧難、日本の不況と米不足も同じ意図で仕組まれたものだと思っていますが、その元凶が「ダボス会議」、いわゆる「世界経済フォーラム」にあると踏んでいます。

「利権」を最大化するためには、まず世界の多様性を毀損し統合する必要があります。
そのために地球温暖化を口実にした環境エネルギーの促進や、自ら食糧問題を具現化する施策などで国際的な主導権を「経済主体」に持ち込ませるのです。
そこで交わされる「世界の問題」こそ、利権で捏ね回された「陰謀論」に基づく偏見であり、科学的には実際に根拠のない言説ですが、「政治=経済」にあっては超合理的なのです。

数十年前にあった「オゾン層の破壊によって地球温暖化が加速する」というレトリックも、オゾン層が年々塞がってきたことが科学的に判明してからは、「温暖化ガス」が原因と、いつの間にか論拠がすり替わっています。
実際のところ、地球規模で起きている変動は少なくとも数千年から数百万年のスパンで観測した上で、天体的影響も加味して科学的に俯瞰しなければ特定し得ないはずです。

「地球温暖化の被害国」と喧伝されたツバル諸島が海面上昇で沈むとしたら、今ごろ全世界の海岸が水没していなければおかしいのです。
それは単に大陸的な地盤沈下と考えた方が自然であり、全く違う因果を結びつけてレトリックとすることで、どこかで得をする人がいたという話でしょう。

ただ、こういう穿った見方も、肩書きの立派な人が適当な反論をすれば「陰謀論」にすり替えることが可能です。
名もなき有志の市民が声を上げたところで、「検閲権」を握っている権力サイドが、公的な威力で言論など簡単に捩じ伏せることができるからです。
実際のところよくわからない人たちにとっては、「偉い人の言うことは正しい」という思い込みには確証バイアスが掛かります。
だからこそ、今の世は「専門家の言うデタラメ」と「マトモに見える陰謀論」の二種類しか存在しないのです。

この「世界政府」というビジョンが語られる時、その首謀者こそ実は影の支配者ではなく、既に表に出ている「大富豪」だったりします。
普通に考えて「世界を支配したい」という幼稚な願望を抱く権力者が、人前での賞賛や評価をわざわざ避ける理由がどこにあるのでしょうか。
そして、表向きのロジックで「どうすれば彼らが一番得をする状況になるか」を逆算していけば、「ダボス会議」で話し合われる内容に突き当たるのです。
しかし、あまりに堂々としすぎていて、むしろ「陰謀」には見えないところが逆に巧妙です。

1979年に米国ジョージア州で建造されたモニュメント「ジョージアストーン」に書かれたマニフェストは、彼らの思想と全く同じなのではないか、と私は疑っています。
というか、「ジョージアストーン」自体を選民思想を持った人々が捏造したものだとしたら、「人類を5億人」にする人口削減計画も「宇宙の意志に従ってやった」と正当化できるでしょう。
だから、最後は「神々」を盾にする意図があり、その口実を元に作られたものではないかと私は考えています。

まあ、これは完全な「妄想と偏見」なので流して頂いて結構です。
しかし、彼らが現地球上で最も力を持つ者たちだとして、本当に世界は彼らの望むようになってしまうのでしょうか。
ただ、ここまで文章を読まれた方には、だいたい結論がお分かり頂けると思います。

どんな大富豪も「資本」と、それに基づく権力構造というシステムの上に成り立つ存在です。
彼らの本体は「経済」であり「お金」であり、決して思想や民族性にはありません。
そして、彼らを肥え太らせてきたのは「アメリカ合衆国」のウォール街を中心とする利権です。

金融や利権と懇ろになった業界や企業が、ロビイストを通じて影響を強めた結果、今のアメリカの「政治」となっています。
しかし、もはや政治も経済も高転びするのが目に見えている「アメリカ合衆国」を土台とした「世界政府」は、砂上の楼閣にすぎません。
まして「アメリカ」という国を潰した上で成り立つ「世界政府」には何の力もなく、何の脅威にもならないでしょう。

「アメリカ合衆国」の消失は、経済的・政治的な依存の上で成り立つ中国と、アメリカの支援なしに中東諸国を挑発し続けることのできないイスラエルも運命を共にするはずです。
その崩壊が目に見えてきた今日だからこそ、否が応でも世界は変わらざるを得ず、乱世を迎えるのは必然と言えます。

そこで、巻き込まれ滅びるしかないのが我が国「日本」であるかに見えて、実はかなり恵まれた状況にあります。
日本は大量の米国債を所有していますが、外貨準備高は西側諸国において随一であり、対外的なバランスを維持しています。
また貿易面においても、政府日銀が金融と輸出系企業を優遇するために長年円安にしてきたにも関わらず、貿易依存度が突出して高い国はありません。
仮に貿易が中座しても、外国に輸出する分を国内流通に回せば、影響はほぼゼロで抑えることすら可能です。

つまり、先進国の中では西側諸国が崩れても、日本は最も軽微な被害に留めておける可能性があります。
仮にその時が来たら、米ドルにもはや価値はなく世界中で「日本だけ何となくマシ」な状態にあれば、必然的に円が買われ国債は上昇し、日本株への投資が集中するでしょう。
そうなれば、日本だけマシな状態というより、むしろ日本だけが昂進する状況になりかねません。

そんなに上手くいくか、という感想もなくはないですが、実は米国経済崩壊には、日銀の円安政策一つで衰退した日本だからこそ、そういうシナリオが当然のように付随します。
問題は日本の政治家や官僚が相変わらずトップに居座り、外国から「日本の滅亡に協力する」ために貰うキックバックをアテにして動き続けるかどうかです。

私はこの部分だけが気掛かりですが、幸い我が国の投票システムだけはマトモなので、上手くいけば何とかできるかもしれません。
それは、これからの日本人の意識次第だと思いますし、仮に「日本だけが浮上し、外国全部沈む」状態になっても小金持ちが目先の小銭に狂うのか、微妙な感じもします。

また「日月神示」を引き合いに出しますが、神示には「宗教連合も世界政府も滅びる」と書かれています。
日月神示VSジョージアストーン」という東西預言ドリームマッチの様相を呈してますが、私は手前味噌ながら神示の示した通りになると思います。

ただ、世界経済崩壊後の日本が多少マシでも、これまでの経済システムには二度と戻らないでしょう。
これまでにあった企業体やサービスも、その頃にはすでに形が変わり、新たな産業・商業形態に移行している可能性が高いからです。
人々の意識や生活習慣が変われば、経済の形も変わります。

「世界政府」の夢が露と消えた暁には、「お金」に変わる価値が人々の中に生まれてくるはずです。

日月神示に出てくる「弥栄(やさか)」という言葉は、「末永く栄える」ことを意味しますが、これまで人々が使ってきた「繁栄」とは用法が異なる気がします。
これまでの時代における「繁栄」とは、バブルや一過性の寡占状態を指していることが多く、成功はかなり短いスパンで栄枯盛衰によって消えていきました。

「弥栄」の意味には一過性ではなく持続性がありますが、ただ浮世である以上、形あるものはいずれ崩れ消え去る運命です。
もし「形」を失っても「弥栄」するものがあるとすれば、それこそエッセンスであり、神示に言われる「・」です。
外側「◯」のモノは絶えず変化し、いずれ劣化してなくなりますが、本質であり「型」としての真髄は世代を変えて残り続けるものです。

私はこれこそ「弥栄」であり、入れ替わり立ち替わり訪れるブームに乗って、右から左に流れることを繰り返すこれまでの時代の「繁栄」とは全く異なる概念だと思います。
だいたい外側の絢爛さというのは、多くの人を集めて大金を使って多少時間をかければ必ず実現します。
しかし、お金も人の力も大して必要とせずに作り上げられる芸術は、より内面的で磨き上げられたものになります。

世が豪華なモノに溢れる「繁栄」の時代から、より洗練されたモノに満ちた「弥栄」の世は、似ているようで全く異なる栄華であり、私たちは後者の時代にこれから向かっていくのだと思います。


*自サイト「招神万来」でも、同じ記事が読めます*

招神万来 | 神様と人を繋ぐブログ

※10月末まで忍者ブログ版「招神万来」の更新は続きますが、どうぞサイトの方もよろしくお願いします。

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「神の試練」を考える

楽太郎です。

本ブログ「招神万来」を始めたのが2024年11月26日ですから、ほぼ開始から9ヶ月が経ちました。
総記事数は230本を超えています。ほぼ毎日か2.3日に1本というペースで投稿してきました。
このブログは長文記事が多いですし、さすがに全記事をご覧になられた方はおられないと思いますが、このブログは私の成長の記録となっています。

その中でも、自分の心の葛藤や思索、生き方だけでなく創作における試行錯誤も率直に書き出してきました。
人間としても、スピリチュアリストとしても、成長するタイミングと成長した後の軌跡を辿るには、かなり面白いドキュメンタリーが見れると思います。

大抵、私の文章の傾向がガラッと変わる時は、何らかの壁に打ち当たったり、好転反応で調子が落ちた後に起こっています。
そこで霊的変性が起きたことで、視野が変化して文章の内容も変わってくるのが垣間見えるので、客観的に見れば興味深くもあるでしょう。
当初から一貫しているのは、このブログは「神様との約束」から始まっており、「神様と人を繋げる」というコンセプトを元に、神様のお役に立つべく続けてきました。

普通の人なら、これだけ神徳を積めば何かしら良いことがあってもおかしくないだろう、と思われるかもしれません。
このブログは神様と繋がることができる方を中心にご覧になられていると思うので、わかる方が多い前提でお話ししますが、神様というのはそれほど甘い方々ではありません

普通の人の感覚では、神社に行ってちょっとゴミを拾ったとか、お地蔵さんを綺麗にして差し上げたから何か良いことがあるに違いない、と思われるでしょう。
私が「日月神示」がガチであると思う理由の一つに、「神様はこういうお考えをされる方たちだ」という実感がひしひしと起こるからです。
神示の中に「すぐに来るお陰は神のものではない」と書かれていますが、神様は数十年というスパンで人間をご覧になられるので、1日とか1週間くらいで「ご褒美」を考えるようなスケールの方々でないことは確かです。

だから私は9ヶ月ブログを更新し続けても、何一つ良いことはないどころか、目に見えない形での成長を感じても特にそれ以上のことはありません。
だから、私以外の人が同じことをやったとしても「さっぱり良いことないし、やっぱり神様なんていない」と思い、すぐに辞めてしまうかもしれません。
しかし、人間の価値観と神様の価値観は根本的に違いますし、人間と神様の時間感覚も違えば、「ご褒美」の感覚も全く異なります。

神様は人間ではないから、神様である

まず、神様のお陰を頂こうと思い、神様のお役目を果たそうと思うならば、まずここを抑えておく必要があります。

「神示」の中で、日月神様は「この道に入ってくる者は、始めのうちは苦労する」と仰います。
病気にもなるし、怪我もする。それは、そなたたちの巡りを取ってやっているのだ」と、日月神様は語られます。
私は実際、4月にありえない溝に足を取られて奇跡の骨折をしましたが、まさに日月神示を読み始めて間もなくの頃でした。

普通なら「この神様は疫病神かもしれない、危ないから近寄らないでおこう」と思うのは当然のことです。
しかし、神示にいう「巡り」というのは、仏教的に言えば「負のカルマ」のことだと思います。
日月神様が口酸っぱく「借銭(かりぜに)を無しにせよ」と仰るのは、私たちが他の誰かや環境に対して、知らず知らずのうちに犯している罪や業をそのままに、反省や償いもなく神様の「お陰」を頂こうとするのは、物事の順序としてあり得ないことなのかもしれません。

だから、日月神示を読み始めて「良くないこと」が起こるようになったら、それこそご神徳を頂き始めている証拠とも言えるのです。
私はむしろ、最初に「借り銭」を返すために良くないことが起こることこそ「お陰様」と思っており、なぜなら「負のカルマ」の返済がとんでもなく幸せな時とか、何かと絶好調の時とかに突然起こるよりは、わかるタイミングの時に来た方が「そういうもんだ」と思えるからです。
また、おそらく神様が志ある者には色をつけて、罪状を軽くして償わせて下さっている可能性もあります。

けれど、大抵の人はそこまで達観するのは難しいでしょうし、良くないことがあって「神様ありがとうございます」とは到底思えず、信心を辞めてしまうのも痛いほど気持ちがわかります。
しかし、私たち人間に「良いこと・悪いこと」の判断はできても、自分が知らず知らずに行った言動の善悪や意味は、自分には完全に把握できるものではありません。
その価値判断ができるのは神々だけであり、神様が帳面に自分の行いをどう記載するかなど、人間には想像もつかないのです。

だから、数週間どころか数ヶ月、数年単位の信仰で「ご利益」を頂こうとする気持ちが近視的であることは頭に入れておく必要があります。
それでも、すぐに結果が出ずに散々な目に遭いながら、踏まれ続けても信心を持ち続けるのか、そこを神様はご覧になられるのだと思います。
そして、神様からすれば「ご利益」は、人間が思うような成功とか一攫千金だけではなく、おそらく「成長」という面でもたらされることもあるように思います。

実はこの「成長」こそが神様からの最大の「お陰」とも考えられ、その価値は人間にはなかなか推し量ることができません。

私たちが肉体を持つこの世界は、雑多な価値観の人間が行き交うカオスな世界です。
全く価値観も出自も異なる者同士が出会うのですから、思うように行かず衝突も別離も日常茶飯事です。
おそらくこの地上に生まれてくる前の世界、いわゆる「霊界」と呼ばれるところでは、「似た者同士」が集まるコミュニティが世界そのものを形成していて、天と地ほどの差のある人々の交流は起こり得ないがゆえに、比較的平穏なのかもしれません。

しかし、この地上世界では国と同じ規模の資産を持つ人がいて、他方では汚い水を飲むしかない人もおり、親の言う通りに勉強だけをして生きてきた人もいれば、子供の頃から銃を持ち人を殺めてきた人もいます。
そういう雑多な世界では、様々な葛藤や争いがあり、だからこそ人生には「経験」や「学び」があります。

この「学び」というのは、人間が一度生まれてきて得る教訓だけでなく、おそらく死んでから引き継がれていく「財産」にもなり得るのだと思います。
一度きり、自分として生きて得られた体験や知識が死んで消えることなく、来世再来世に引き継がれるからこそ、「悟り」や「徳」こそ財産であり、「恩恵」となり得るのではないでしょうか。

ただ、そんな目に見えない、証明しようのない「ご利益」よりも、生きているうちに目に見える形で良い思いをしたいと思うのは当然です。
だからこそ、「試練」と「成長」という形で神様がお与えになられる「お陰」というのは、それをわかった上で受けられる人ほど優先的にもたらされるように思えます。
つまり、「ツラい」と思ってそのまま逃げたりダメになるような人にはそれなりに、成長を糧にできる人間にはさらなる「成長の機会」をお与えになるのではないでしょうか。

言ってみれば「成長の機会」というのも、普通の人間からすれば「試練」とか「災難」にしか思えず、あまりについてないことばかりだからむしろ呪われているんじゃないかとすら感じてしまいます。
しかし、逆に言えば神様から見て「成長してもらえる」と思うから恩恵をお与えになられるのであり、それはある程度見込まれていると言っても過言ではないでしょう。

私が思うに、「神様はギリギリできるか、できないかわからないことをさせたがるけど、決して無茶は仰らないし、本当の無理はさせない」と感じます。
少し背伸びをさせて成長を促すのが神様のやり方なので、しんどい目に遭遇したとしても、その困難さは「乗り越えられる」と見込まれてると考えて良いかもしれません。
だから、日月神示の日月神様はそういう微妙なラインを突いてくるところが、実に神様らしいというか、「神様ってこういう方だよな」と思う所以でもあります。

そして、本当の意味での「幸福」というのも、神様と人間では全く定義が違っていて、南国のリゾート地で悠々自適に暮らすような夢を人間は理想としますが、神々からするとその人なりの「魂の充実のさせ方」に合った生き方こそ、真の幸福と考えておられるように思うのです。
だから、自分の幻想としての幸福を求める限り、神様のご用意なされた幸福を感覚的に受け取れないこともあるのかもしれません。

とかく私たちは人間の社会しか知らず、数十年しか生きない私たちの考えや価値観と、悠久の時を眺めて来られた神々との考えや価値観が異なるのは当然のことです。
私が最近思うのは「悪」と人間が呼ぶ存在も、神々からして見れば決して憎むべき対象でないのも、何となくわかる気がするのです。

私たち人間は失敗を恐れますし、迷惑をかけた人を責め、過ちを犯したことを後悔します。
それを「悪」とする私たちは、「悪」を憎むから「悪行」を退け、その行いを忌避して社会をルールで縛ります。
神示には「大神が許すからこそ、悪は世に存在する」と語られます。

例えば、人を陥れて自分だけが得をし、それをひけらかす人をまさに「悪」と思いますが、長いスパンで見れば決して「得している」とは言い切れないかもしれません。
仮に今世で満足して一生を終えたとしても、死んだ後の世界は存在しないと誰も言い切ることができないばかりか、そのカルマを背負って次の世に渡ればどうなるかも人間に予想することはできません。

また、仮に知らずのうちに犯した罪や過ちも「学び」という一つのプロセスなのだとしたら、「過ち」というのはむしろ前向きなことであり、失敗し間違いを犯すから得られる学びがあります。
だから、この宇宙において「過ち」とは「間違いを犯す自由」そのものであり、その自由を憎むべきでも忌避するべきでもなく、「成長」の上では必要なプロセスなのでしょう。

その意味で「悪」とは、「悪を犯す自由」であり、「悪行を楽しむ自由」なのです。
例えそれが凄惨でも醜い行いであっても、宇宙的なスケールで捉えれば時間と次元を超えた「学び」がそこに用意されており、その出来事に遭遇してどう考え、どう動くかは私たち次第です。
そして、私たちにそれをとかく結論づけることは、今世においてほぼ不可能です。

私が最近思うのは、この世界を作られた神が本当に「禁止」したいものはこの宇宙にすでに存在せず、これからも誕生することがないとすれば、今あるこの凄惨さはどう考えればよいのか、ということです。
ただ、もしこの世界が本当に「映し世」であり、真の世界が肉体を離れた世界にあるのだとしたら、この世界で起こる現象も人間の行いも、二次的な意味しか持たないのかもしれません。

おそらく、それを人間の頭で考えたり、第六感をフルに働かせたとしても、決して知り得るものではないのでしょう。
だとしたら、私たちにできるのは今この目の前で起きた現実が「どういった意味を持つのか」をひたすら思索し続けるしかなく、全ての事象に意味があるのだとしたら、その一つ一つに何かしらの兆候を見つけることしかありません。

例えそれが完全に把握しきることはできないにしても、私たち人間はそこに神を見て、神のご意志を読み取ることでしか、真実と向き合うことはできないのだと思います。
「どうせわからないから知らなくて良い」とタカを括るのではなく、それを真っ直ぐに見つめるから「学び」や「成長」はもたらされるのではないでしょうか。

普通の人にとって、そこまで考えるのは敷居が高いと感じられるはずです。

けれど、神様はそれを無理に押しつけることはなく、その人それぞれに応じて、少し難しい課題を少しずつお与えになられているように思います。
もし神様に目をかけて頂いているのなら、「これは神様が何を伝えたいのだろう」と思い馳せてみた時、そこから新たな学びがあるに違いありません。

もし何か災難やついていないことがあった時には、落ち込んだり神様を逆恨みする前に、その意味を冷静に見つめてみることも大切だと、私は思います。
神様の指し示す道は決して楽ではないですが、ただ苦しいだけでないのも不思議なものです。

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世界の袋小路と「神の道」

楽太郎です。

先日、「日月神示」の全文を掲載し、今後解説をつける予定のサイトをオープンしました。

日月神示解説 | 100年も嘘は申さん。

ここ最近は本ブログでも、神示にインスパイアされた大きなテーマの記事が続きました。
私には何となく切迫した感覚があって、「書かなくてはならない」という、衝動のようなものに突き動かされていました。
おそらく、現実的な社会情勢だけでなく、霊的にも世界は逼迫した局面を迎えていたのだろうと思います。

今、ようやく「今のハイテクバブルは、ドットコムバブルの再来ではないか」という憶測が出始めましたが、マスコミのミスリードは実際の世の動きより3周くらい遅れています。
ただ、その認識でも十分通用してしまうのが今の世の怖いところであり、マスコミの角度が高ければ高いほど、現実とのギャップは大きくなります。

私たち庶民の日常感覚とメディアの大本営発表との間に、ズレを感じるのが普通なのではないでしょうか。
世を動かす「巨大なもの」は、もはや巨大な群衆の力によって動いているのではなく、少数の選ばれた者たちが絶大な力を持って、巨大な仕組みを動かしているだけです。
そこに群衆の力は働かず、外側の「仕組み」が動けば、群衆はそれに従って右へ左へ振り回されるしかありません。

この世界の行き詰まりは、強いものが強いものに有利な仕組みを使い、強大な力を持ってより強大になっていくだけの無限上昇のスパイラルにあり、それに反して弱肉強食のシステムに溢れた弱いものたちは下に沈んでいき、肥やしになっていくしかありません。
その二極化は極まり、もはや強大なものは強大になりすぎて、全体を支えてきた多様性は淘汰によって失われ、もはや新たな仕組みを作る力すら失ってしまいました。

この構造を客観的に見て、「そんなものが続くはずがない」と思うのは、決して当てずっぽうではありません。

アメリカ、中国、ロシア、EU、日本のみならず、世界は特定集団の寡頭体制に向かっており、彼らエリートが中心になって世界を合理的に「管理」するためには、実はまだまだ世界は多様すぎるし、下々には煩雑な人間が多すぎるのです。
だからこそ、彼らはより自分たちが強大になる必要があり、大衆はとことん弱体化させ自由を奪い取り、いっそ思考も消し去った方が効率が良いと考えていてもおかしくありません。

「いらない人間がこの世に多すぎる」と彼らが思う以上は、搾取や弾圧は彼らにとって善なのです。
その無駄なエネルギーを「世界平和」のために活用してあげるのだから、君たちが自分勝手な方向に発散させるよりは遥かにマシだろう、という訳です。
そして、全人類が5億人くらいになれば、バランスの良い「永遠平和の社会」が実現するのでしょう。
少数の支配集団が安全に世界を統制するには、あまり民衆が力を持つべきではないからです。

「陰謀論」というのは、権威が否定するから「陰謀」に仕立て上げることができます。

政府広報やマスコミや学閥が「嘘だ」と言えば、どんな根拠がある話も理論的に「陰謀論」にできてしまうのです。
そこでは科学的正当性も学術的価値も、レトリックと圧力で封じることが権威には可能なのです。
ただ、公式見解に否定される以前の、あらゆる仮説や憶測は「意見」であり、立派な「思想」です。

何でもかんでも、権威の俎上で「陰謀論ではないか」と批判を恐れるからこそ、近ごろの私たちは自らの考えに確信を持つに至れないのです。
しかし、そうして意見を撹乱することも仕組まれているものであり、そこに真の「陰謀」があるとしたら、それも「陰謀論」と自ら取り下げるべきなのでしょうか。

私たちは、自分の考えを口に出すことはおろか、率直に思ったことでさえ自分で否定しなくてはならないほど、何かを恐れるようになって久しいように思えます。
そうして価値観や考え方の多様性を削ぎ落とされた結果、人々はより確かなものを「強いもの」に求め、例えそれがデタラメでも、強いものはより強大になっていったのではないでしょうか。

しかし「寄らば大樹の陰」と人々が信じて巨大な権威に縋りつき、もしその大樹が木の皮を被った化け物だったとしたら、気づいた時にはもう遅いのです。
今の世間を見回してみて、この光景に心当たりがないという人はいないでしょう。
私たちは、まんまと上手いことやられたのです。

この世界を牛耳る人たち、少なくとも国際社会のトップに君臨する人々からすると、民族も文化も国家もどうでもよいはずです。
少なくとも、自分たちの集団が子々孫々と君臨する栄誉が得られたらそれで良く、彼らにとってはそれが「理想社会の実現」であり「絶対正義」に当たるからです。

だから、私たち国民が窮乏するのも、治安が乱れて社会が荒廃するのも、近い将来に世代が途絶するのも特に大した問題ではなく、彼らにとって焦眉の課題は、民衆が自分たちの脅威にならないように抑え込むことでしょう。
自分たちの体制が揺らいだら「正義」も「理想」も絵に描いた餅に終わるからです。
だから、彼らはまだまだ私たち民衆を苦しめる手を止めようとはせず、むしろ本腰を入れるのはこれからでしょう。

ただ結論を言ってしまうと、そんなやり方では多くの人々だけでなく、彼ら自身も長くは持ちません。
自分たちには富も権力もあるし、無尽蔵の資本があらゆる人々を従属させ得ることも知っている、そんな彼らの弱みは、「人間がバカであることに賭けている」ところにあります。
私たち人間には、知ろうとする欲求があり、真贋を見極める能力があり、善悪を感じ取って自らを守る感性と、未来に希望を見い出す力があります。

この世界を支配したがる人々は、その人間の本質を知らないがゆえに人間を見下し侮り、力と欲望で全てを統制できると考えているのではないでしょうか。
しかし人間の心にある、かけがえのない自尊心や思いやりは、札束の魅力でどこまで服従させることができるのでしょうか。

私たちは、そろそろ目を覚ますべきです。

とは言え「ならば、どうすればいいか」を考えた時、正直言って現行制度の上で今の体制を覆すのは不可能でしょう。
全ての元栓は厳重に管理されており、私たちには元栓を閉める力すら持たないからです。
ただ彼らも、自らを支えるシステムが愚かな大衆にあることは重々承知しており、愚集は愚衆なりに言うことを聞かせられなければ困ります。

私は、彼らが本心から焦っていると感じています。
人々が、というより自分たちの成功体験を元にしたスキームが不動ではなくなってきたこと、自分たちの腐敗物が堆積し、自分自身が腐りすぎて足元から崩壊が起きているのを、外部からですら確認できるようになってきたからです。

イスラエルによるパレスチナ住民の虐殺を全面支援するアメリカ政府が、あの体たらくなのは偶然ではありません。
もはやアメリカ製兵器はイランやロシアよりも性能が低く、中国と戦争しても勝てる見込みはないでしょう。
それは政府を意のままに操ってきた企業体の超富裕層が、あらゆる公共資金の中抜きをして実態の伴わない商売をしてきた結果であり、彼ら既得権益者たちは自らの腐敗を口先で誤魔化す以外に方法がないのです。

今まで通用してきた経験則もスキームも揺らいでいることを自覚するがゆえに、彼らはより強大になろうとし、強大になるためならあらゆる暴力も犠牲も正当化しうるのです。
これこそ、運を天に賭けているようなもので、全く科学的でも合理的でもありません。

私たちはどうするか以前に、耐えているだけで彼らの崩壊をいずれ目の当たりにするはずです。
それははっきり言って時間の問題でしょうが、とは言え指をくわえて見ていれば良いものではないと思います。
私たちは一刻も早く頭を冷やし、一人でも多く彼らの正体に気がつくべきですし、彼らの化けの皮が剥がれた後の事態も見据えておかなければなりません。

彼らは現在の世界のあらゆる既得権益に根を張っており、彼らが倒れることは、今ある社会の基盤から権力が引き剥がされることを意味するでしょう。
おそらく「どこからどこまで」と決めることができないほどの癒着と腐敗がそこにあり、それを根こそぎ取り払うまで、次の時代が始まることはないと思います。

それはお金の計算の仕方や、来月の支払いだけでなく子供の将来設計や法律や国家の枠組みに至るまで、気の遠くなるような見直しを要求されることになるはずです。
だからこそ、私は早く人々に気づいてもらいたいと思い、こうして活動しています。
実は崩壊することよりも、崩壊した後の方が大変だからです。

奇しくも、「日月神示」にはそのヒントが書かれています。

どうせオカルトだ、と思われることを否定しませんが、仮にどんなインチキであったとしても、この一連の文章には的を得た部分があるのも事実です。
この神示が、一人の絵描きが世界を変えるために机の上で必死に考えたものだとしても、私はその思想に共感します。
この神示が本当に神によるものか、人間の手によるものかは大して重要ではなく、この文書に書かれた思想は私たちの行く先を確かに導くものです。

神示には、今の世に蔓延る醜い支配者たちも、この世界においては「悪という神の役目」を潔く負った者たちであり、決して憎むなと教えます。
その考えは、高尚すぎて直感的には受け入れがたいほどです。
しかし、そうして「悪者」を探し出し、引き摺り降ろし殺し尽くし、勝った正義がまた次の敵を作り出すという悪い循環があるからこそ、一向に戦争や迫害がなくならないのも事実です。

これから平和な未来があるとして、まず必要なのは「悪を滅さねばならない」という考えを滅することではないかと思います。
その観点で、日月神示ほど正論に近い言説を私は知り得ないのです。
だからこそ、神示が眉唾かどうかではなく、書かれている教えや思想に目を向けて欲しいと思います。

そして、「日月神示解説」というサイトがその一助となるよう、私は運営を続けて行きたいと思います。

この文書は、改めて読んでみると大して予言的でも破滅的でもなく、言ってみれば教訓的なものと感じます。
その眼差しと口調には厳しさだけでなく、憐れみと優しさがあり、この神示を降ろされた「天日月神」様には、古き良き日本人の面影を感じ取ることができるのです。

もし仮に、これほど「人間的」で、思いやりのある神様がこの世を治める時代が来るのなら、その世界が良い世界でないはずがあるでしょうか。
人間に任せきってこういう世界になったのだから、いっそ神様にお願いした方が未来永劫、マシな世の中になるようにさえ思えるのです。

私は、この世が嘘と方便ばかりだからこそ、言うべきことはキッパリ言う、そんな言葉の節々に癒されながら、いつも勇気づけられるのです。

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大峠と「最後の審判」

楽太郎です。

以前、日月神示の解釈による「大峠とは何か」という記事を書きました。
そこに示した図説では、私自身の考えに基づいた解釈も含んでいたために「日月神示」の概念とは若干異なる用語を用いて説明していました。

以下に、神示のタームを使いながら「三千世界(神・幽・現界)」の図を作成したので掲載します。



神国を構成する「天国」と「霊国」のうち、天国には日の神が統治する「スメラ神国」と月の神が統治する「ユツタ神国」があると神示にあります。
その二つの天体が象徴する国については、岡本天明氏の論考と思われる「地震の巻」に詳細がありますが、神示ではないため解説は省略します。

私の考える「幽界」という霊的階層を、神示では「現界(地上世界)」と私が定義した「霊界の下層域」の間にある「中界」と呼んでいました。
この中界は、人間が一般的には死後50日ほど、長くて20年ほど滞在しながら、霊的身体に慣れる準備的な霊界であるとされます。
この「中界」が取り払われ、あるいは縮小していくことで死後の準備期間の短縮が起こり、上の霊界に上がれなかった不浄霊が地上に降りてきているのだと私は考えていました。

しかし、どうも今起こっている不浄霊の大量憑依は、「中界の縮小」だけによるものではないようです。
霊界で起こったことは現界に反映される」という法則に則るなら、春分点で分岐した「神と獣」という霊的二極化も霊界で起きたと考える方が自然です。
そして「霊界で起きたことはすでに神界で起きたことである」とするなら、神界でも霊界でも二極化が起きていたと考えることもできます。

これを敷衍すると、とんでもない結論に突き当たります。

人間が「神と獣」、私が言う「神世と人世」の魂の分岐はそのまま霊界の「神に従う魂」と「神に抗う魂」に分けられ、神界ではそれが「正神側」と「逆神側」いう構図になっているのではないでしょうか。
これが日月神示にある「神と悪神の戦い」を意味し、啓示が降ろされた80年前の時点で「神の国の奥の奥では戦いが済んでいるが、神国は真っ最中」と書かれています。

つまり岡本天明氏に神示が降りた戦中時には、まだ神界では「正神」と「逆神」の対立が激化している時期だったことになります。
奇しくも「第二次世界大戦」とは、シルバーバーチの「霊訓」によれば「地獄から上がってきた悪魔を天使が地獄に押し戻す戦いだった」と書かれていたりもします。
即ち80年前の大難の時代は、同時に「光と闇の戦い」が起こっていたと考えて良いと思います。

ただ思い返して頂きたいのは、第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカが「光の側」であったと結論づけることはできません。
そもそも当時のアメリカ大統領であったトルーマンは日本が降伏に傾いているのを知りながら、新兵器の「原爆」の実戦投入を計画し、累計で50万人に及ぶ非戦闘民間人の犠牲者を出しました。
原爆慰霊碑には、「二度と過ちを繰り返しません」と書かれていますが、なぜ原爆を落とされた被害国側が戦争を始めたことを何十年間も詫び続けなければならないのでしょうか。

大量の民間人殺傷はナチスのホロコーストに並ぶ戦争犯罪に問われるべきなのに、当のアメリカには原爆投下すら知らない人が多いそうです。
まして原爆被害がなぜ「日本が悪かったから多くの民間人が犠牲になった」みたいな解釈になっているのか、そこにアメリカが先導した戦後処理の歪みが現れているように思います。
そして、アメリカが統治した後の日本は属領地の体制のまま80年を経て、今では国家存続さえも危ぶまれるほどに、アメリカと同じ衰亡の道を歩んでいます。

そのアメリカという国家の歴史をきちんと俯瞰してみれば、この国が決してイメージ通りの自由を保証する民主主義の国ではなく、欺瞞と謀略に塗れた利権国家であることに気づくでしょう。
そしてアメリカを中心として西側諸国と東側諸国、第三勢力諸国の対立が生じ、その一端がウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻に繋がっています。

つまりは、世界中に戦争の火種を撒くアメリカという国は、一貫して戦時中から「光の側」であったとは言えません。
1930年代に世界恐慌の発端となった大不況下のアメリカは、第二次世界大戦の戦時需要を最大限に活かしてブル相場となり、「自国の金融危機は戦争で賄う」というやり方を未だに続けている国なのです。

第二次世界大戦が「光と闇の戦い」の反映であったとしても、おそらく闇の勢力が主導権を握る時代は現界ではまだ終わっておらず、これから光の勝利が訪れるとしたら現象となるのはまだ先の話でしょう。
春分点で人類に起きた霊的二極化は、これから具現化する段階にあります。
その現象がすでに霊界に起きているとするなら、9.11以降、急速に不穏になり始めた世界情勢、近年の社会的混乱と人心の腐敗、今起こっている憑依と不浄霊の大量発生も「霊界の二極化がもたらしたものである」と考えたら辻褄が合います。

そして、世に混沌をもたらしているモラルハザードが不浄霊の干渉によるものだとしたら、霊界で「逆神」の側にある神に仇なす霊人たちが地上に降りてくる説明もつきます。
霊能者やスピリチュアリストたちが「幽界の消滅が起きている」と口を揃える現象の裏には、神に従う側の霊人と神に抗うことを選択した霊人の二極化があり、「幽界の縮小」はその反映なのかもしれません。

要するに、幽界に住まう霊人であっても光に向かうことを選ぶ霊人と、光の神に仇なす勢力となった霊人がいて、霊界における大峠の一環として神に仇なす霊人たちのエクソダスが起きている可能性があります。
しかし、日月神示の文脈では「排除は悪そのもの」であり、私はこれらの逆神側の霊人たちも最終的には光に取り込まれていくのだろうと思っていました。
ただ、行き場を失った神に仇なす霊人たちが地上世界に降りてきている現状を鑑みるに、彼らはもう神界、幽界に戻ることを許されていないのではないかと考えられます。

だからこそこの地上を「幽界的」な世界にするべく、似た波長の者に憑依して地獄的状況を再現し、その破滅的現象を蔓延させているのではないでしょうか。
とすれば、春分点で人類に起きた「二極化」が、これからどう現れてくるかも想像しやすくなります。

日月神示の「神と獣」という概念は、人間の魂が大神から分けられた「分御霊」であることを踏まえると、神だった魂が獣に堕ちることを意味します。
「獣」というのは犬やカラスなどの動物のことですが、人間以外の生物は「神の魂」を持っていないため、輪廻転生することはほぼないと言われています。

つまり、「獣」に分けられた人間は今世を持って魂の輪廻を終えることを意味し、それは神に仇なす側の霊人が幽界に住むことが許されなくなったことに対応します。
人間は死後、中界の霊的準備段階を経て神界か幽界の霊界に進み、元の霊体に戻ります。
しかし、霊界に戻らずして再び地上に転生を行うことはおそらくできないでしょう。
ゆえに、神に仇なす勢力の一部となった人間は、そのうち地上に残ることだけでなく、死後に霊界に入ることすら許されなくなる可能性があります。

ただ、やはり神々が「排除」を正当化するとは思えず、ゆえに「自分がどちらにつくかを問い、その判断を委ねた末の選択」だったのだろうと思います。
実は現界においても春分点は「選択の確認」であり、5月の満月は「選択の再確認」だったのではないかと私は考えています。
だから、これらは神々が強権的に行っている排除行為ではなく、自分たちが選択したゆえの道筋であり、結論なのだと思います。

あえて言うならば、神に仇なす側を選ぶ、つまり唯物論や拝金主義の延長にある弱肉強食的な世界を選択した人々は、今世を最後にする可能性があります。
私はこの結論がこれまで薄々見えてはいたのですが、何とかその結論に至るのを避けてきました。
あまりにも救いがない話に思えるからです。
ただ、こうして筋立てて考えてみると、どうしても残酷なことを書かなくてはいけなくなってしまいました。

現在の世界情勢を考えると、象徴的なのがイスラエルによるパレスチナ侵攻です。
イスラエルは第二次世界大戦後、パレスチナに住むシオニストグループにアメリカが無償の経済的支援、武器供与を行って建国に尽力しました。
そして現在、アメリカ政府はイスラエルのロビイストグループの手玉になって国費を投じ、侵略戦争と虐殺行為の片棒を担っています。

イスラエルという国は、言わずもがなユダヤ教を国宗としています。
アメリカがイスラエルを支持しているのは、キリスト教右派がユダヤ教を支持していることに由来していると言いますが、それは表向きの言説でしょう。
おそらく、ユダヤマネーが米財界に流れてくることで必然的にイスラエル支持の政界になっているのだと思います。

ユダヤ教は「旧約聖書」を礎としますが、アメリカに多いとされるプロテスタントは「新約聖書」を教典とし、キリスト教には「最後の審判」という説話があります。
世が終わる時、キリストが再臨し「正しい者」と「正しくない者」に分けて審判を行い、「至福の命」か「永遠の罰」を与えられるかを裁くと言います。

私は、この二極化は神示の「神と獣」を表しており、「再臨前の世の終わり」こそがまさに今その時なのではないかと感じます。
そして「キリストの再臨した千年王国」は、奇しくも国常立尊が「大日月の神」となられた後に誕生する「神世」を彷彿とさせます。
仮にそれが現代に起きているのだとしたら、「最後の審判」は現在、全人類の魂のレベルで起きていることなのかもしれません。

もし「正しい者」と「正しくない者」が神によって裁かれるとしたら、イスラエルの行いは正しいのか、アメリカの行いは正しいのか、その判決は審判を待たなくてもわかるような気がします。
その判決はすでに私たちに下っているはずですが、その宣告を知るまでには若干タイムラグがあるでしょう。
おそらく、それがこれから具現化するだけのフェーズに入り、幽界の仇なす者たちが行き場を無くしたように、この地上で行き場を失くす人々も出てくるはずです。

今年で戦後80年と言いますが、我が国とアメリカとの因縁は1853年のペリー来航に遡ります。
往年の江戸幕府の「体たらく」は否定しようもないのですが、幕末の混乱期を経て欧米型の軍事国家となった日本は、対外戦争を繰り返した果てに敗戦国となり、今では自衛権もろくに持たない属国同様の国家となってしまいました。
その歴史の延長で、アメリカの犯す様々な国家的犯罪に追従する姿勢に、我が国は甘んじているのです。

「日月神示」には「自由も共産も共倒れ」とありますが、まさに今の世相に見えるのではないでしょうか。
世界が「アメリカの側に立つか、中国の側に立つか」で諍いが起こる中、神示はそのどちらにも寄辺はなく「神の政治を行う神の国」にあると言い、しかし必ずしも日本を意味しないと言われます。

「神国」とは、神を頂点とする統治国家のことを指し、それが新たな世の中心となっていくとされます。
我が国日本が真の「神国」となり、新たな世界の中心となる国に生まれ変われるかは、今を生きる私たちにかかっています。

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「神」と人の関係

楽太郎です。
ここ最近「日月神示」関係の記事が増えていますが、日に日に神示が現実味を帯びていると感じています。

日月神示は当て字や謎記号が多く、直感的に読み解ける人は少ないかもしれません。
他の人がどういう風に読み解いているかはわからないのですが、おそらく「大地震が起こる」とか「富士山が爆発する」というように、具体的な予言として捉えている人が多いのではないでしょうか。

神示には「天地ひっくり返るということは、身魂がひっくり返ることぞ」とあり、私の見解では神示に登場する名詞は大抵、霊的比喩だと受け取っています。
例えば「奥山」は神人のグループソウルが集う場所、「富士(ニニ)」は唯一無二の魂と身体を意味していると捉えていて、むしろ固有名詞として考えない方が全体的な話が頭に入りやすいです。

私が日月神示を「神の言葉」と認識するのは、実は具体的な予言の部分ではありません。
神示には「三大実践主義」が唱えられており、「弥栄実践、祓い実践、神(例の記号)実践」とあります。
そして、禊祓いの実践には、「省みる、恥じる、悔ゆる、畏る、悟る」の5つの働きが必要だと説きます。

神示は口酸っぱく「身魂を磨け」と書かれているのですが、日月神示はどうも神道の指南書か思想書として読んだ方が本質に近い気がします。
神様という存在は、決して甘やかすようなことは言いませんし、ギリギリ乗り越えられるかわからないくらいのハードルの課題やアドバイスを常に出されます。
私としては「神様が言いそうなこと」と感じるのもあり、ゆえに日月神示を特別視するのです。

人間というのは現金なものですから、受験に受かることや意中の人と結ばれることなどを神様にお願いしますが、大抵は金さえあれば望みは叶うことを知っているため、祈願も具体的内容だったりします。
しかし、神様はもっと精神的に人間に成長してもらい、心の豊かさから生活の豊かさを手に入れて欲しいと願っておられるように思います。
だから、人間にとって神様のお心はなかなか理解できず、それゆえに神徳がどういうものかもわかりません。

そして、神様が考える「善悪」と人間の考える「善悪」も微妙に異なるのです。
人間は人間同士の社会や価値観に基づいて、例えば「自分を犠牲にして奉仕するのは尊い」とか、「全ての人と争わず仲良くすれば良い」と考えます。
しかし神様から見ると、「他人に尽くして不幸になるくらいなら、まず自分のことを大事にして欲しい」と考えられるでしょうし、「悪人と仲良くしても自分が損するだけで全然良いことではない」と思われるでしょう。
しかし、人間の心ではそういう善業をしているのだから報われるべきだ、と考えていたりもします。

ただ冷静に考えてみるとわかるのは、明らかに不可能なことや損になることを率先してやればうまくいかないのは当たり前であり、神様が叶える以前に努力自体が間違っていたら不幸になるに決まっています。
それを人間は「神様に願ったのに叶わなかった」と思うのですが、むしろ叶わない方が無難であるような事例もたくさんあるのではないでしょうか。

「成功したい」とか「お金が欲しい」というのもそうで、人間の願いをそのまま叶えたとしても、違う形で現れたら不幸の原因になることすらあります。
「好きな人と結婚できますように」という願いが叶っても、下手に良くない相手と結婚して不幸になるより、願いが叶わない方が良かったパターンすらあるかもしれません。

私が思うに、神様は「道理とタイミングと順序」というのをすごく重要視されます。
例えば行動の筋道が違っていたら意味はなく、タイミングを合わせるには待つ必要があったり、優先順位が違えば成就しなかったりするのでしょう。
神様は時間を超越した存在ですから、恐ろしく長いスパンで物事を見られているのですが、人間はすぐに結果を求めるのでそこにもズレが生じます。

人間が想像する「幸せの形」と、神様が思われる「幸せ」は微妙にズレがあるからこそ、人間から見て神様の導きはすぐに理解できないのだと思います。
その認識のズレは、人間にとって見れば神様を「厚かましい親」のようにしか感じず、あたかも反抗期の子供のように自分で好き勝手にやりたくなるのでしょう。
果たして、人間にとって神の意思を理解しきることは可能なのでしょうか。

そもそも人間が「神」の考えを感じ取ることができるのは、人間の心に神性が存在するからです。
人間は「神」を外部に確固として存在するように感じるかもしれませんが、実際は人間の「魂」と神の気が感応するから感じ取ることができます。
それは人間の魂が大神から分け与えられた「分御霊」という神だからであり、同じく神であるからこそ繋がることが可能なのです。

神示にもその内容は示されていますが、魂が神と繋がったと言えど、「肉体まで神に合わせる必要はない」とも説かれています。
その時、人間からすれば自分の身体に「神が宿った」ように感じますが、実際は魂と神の魂が繋がっているから一体になったように感じます。
自分に神様が宿っているとするならば、仮に寝るにもお風呂に入るにもいちいち神様と相談して行うのはキリがないでしょうし、昔から神に仕える人ほど厳しい生活態度を要求されたことが念頭にあるのかもしれません。

人間が神を理解しがたいのは、そもそも人間の見ている部分と神の見ている主な部分に開きがあるからです。
私の感覚では、神様は私たちの行動を見るにしても観点が違うというか、「魂の状態」を最も観察されておられるように思います。
例えば、私たちがトイレに行くにせよ酒の席でハメを外すにせよ、神様に観察されているとしたら人間は少し気恥ずかしく感じるでしょうし、実際に日常生活から神秘的な要素は感じにくいものです。

しかし、例えるならRPGをプレイしているのが自分だとしたら、神様はおそらくゲームの進行状況ではなく、ゲームをプレイしている最中のリアルな反応を観察されておられるのだと思います。
つまり、プレイヤーキャラがいつ薬草を使おうがエンカウントから逃げようが、一つ一つのことはどうでもよく、そういう選択をした時のゲーマーの顔色を見て、楽しんでいるのかつまらないのかを気にされているのではないでしょうか。

人間はゲームのプレイ内容にばかり気を取られて、スコアを気にしたりオンラインで出会った対戦相手と競ったりしますが、たかだかゲームに一喜一憂してプレイ自体を楽しまなくなるより、楽しくやれる状態にあることを願っておられるように感じます。
もし神様が私たちがコントローラーを握っている姿をすぐ側でご覧になられているとしたら、神様と人間の様子をまた遠目からご覧になられている神様がいて、上位の神様がそれをご覧になられて、とずっと連なっていくのが神々の世界なのかもしれません。

だとしたら、人間と神様の認識にズレが生じるのも納得がいきます。
人間は「もっとレベリングしたらあのボスが倒せる」とか「レア武器を手に入れて差をつけたい」と思い、その願いが成就したらもっとゲームを楽しめると思い込んでいます。
しかし、ゲームをうまくやる以上に好奇心やゲームを楽しもうとする気持ちの方が重要で、それがあれば別にプレイヤーキャラが強かろうが弱かろうが、楽しいものは楽しいはずです。

神様は後者の楽しみ方を望んでおられて、人間は前者の考え方でないとゲームを楽しめないと思っています。
ゆえに「心持ち」や「姿勢」が大事なのであって、具体的な条件ばかりを気にする人間との視野とは微妙に重なりません。
ゆえに、精神的な事柄にまず目を向けるように、神様はそのことを先に伝えたいのだと思います。

とは言え、人間は抽象的な理解は難しいものですから、神様の願いの意味さえわからない場合も多いのです。
この辺が「親の心子知らず」というか、人間が目に見えない存在を蹴って自分たちで好き勝手にやりたいのも、思春期の子供を持つ気持ちでおられるのだと思います。

人間は神を「自分を無条件で幸せにしてくれる存在だ」という思い込みがあるからこそ、自分の願いが叶わず不幸な目に遭うほど、神様の存在を疑います。
しかし、人間はこの世に「魂の修業」として生まれてくるのであって、決して楽して良い思いばかりをして生きるためではありません。
そこで起こる不遇にも「学び」や「気づき」が隠され、自分の行いが巡りとして現れていることに人間は気づきません。

しかし、神様の目線からは全てに説明のつく事柄であり、それゆえに人間からは「奇跡」とか「不遇」と思うことも、俯瞰的に見れば「必然」であり「道理」なのだと思います。
それに気づいていくのもまた、人間の成長であり進化でもあるのかもしれません。
神様からすれば、そこに気づいて学ぶことが「導き」であり、不遇に感じることも真の幸福に至る道筋を示しているのだから、一時的な不幸感に囚われて欲しくないはずです。

そろそろ、人間は成人して大人になるべき時期が来たのではないでしょうか。
この世界は自分たちの思うようにはならず、結局「お金とモノ」の世界では本当に欲しいものは手に入らず、その仕組みが壊れて身動きが取れなくなったことも悟るべきです。
そこで反省し、「親の忠告は本当だったな」と思い直して、神様と向き合えば少しは大人になれたと実感できるはずです。

この学びは人類にとって真の進化であり、個人の精神的成長だけでなく、文明レベルでの教訓を意味します。
そんな苦労も破綻もしないに越したことはないと私たちは思いますが、一度失敗してみないとわからないのも人間なのです。
神様の「愛の鞭」は、親が子を深く愛するがゆえに、本気で叱る気持ちそのものなのだと思います。

「日月神示」では、その試練を「大峠」と表現しますが、この苦難は社会現象や国際情勢として現れるというより、各個人の心の中で起こる試練であり、外側の出来事が問題の本質ではないように感じます。
世に起こる禍事は、心に変化を起こすための外部的条件に過ぎず、そこに解決を見い出して終わりにするためにあるのではないと思います。
やはり、大峠は「ミタマ」に起こるのであって、まさに自分の心に向き合う機会を「大峠」と言っているのかもしれません。

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「大峠」とは何か

楽太郎です。

日月神示とは何か」「日月神示解説」、「日月神示解説補足」と立て続けに「日月神示シリーズ」の投稿をしてきましたが、今回は現在進行形と思われる「三千世界の大洗濯」こと「大峠」に関する解説になります。

解説とは言え、あくまで私個人の見解なので予めご容赦下さい。
日月神示に語られる「大峠」とは、「天日月大神」が天地を統治する「ミロクの世(弥栄の世・神世)」に至るまでの「神界・幽界(霊界)・顕界(現界)」の建て替え・立て直しとされます。
天日月大神とは日本神話で語られる「国常立尊大神」とされ、記紀では「素戔嗚命」に比定されます。

「国常立尊」の御神名にあらせられる「国(くに)」とは「地(クニ)」であり、即ち「地常立尊」とは「地球と月の支配神」と解釈して良いと思います。
月は潮の満ち欠けと「夜」を象徴する天体であり、「滄海原」と「夜の食す国」と「天下」を治めるとする素戔嗚命の神格と符号します。
その国常立尊が「岩戸開き」の後に高天原とその象徴である太陽を司ることで、「天日月大神」として神・幽・顕の三千世界を統治すると神示にあります。

今回は、「日月神示解説補足」で触れた「アセンション(次元上昇)」と霊界の関係について深掘りしたいと思います。
例によって、図解を含めながら説明します。



これらの論考は、日月神示「地震の巻」と「龍音の巻」の本文から類推しました。
なお、「地震の巻」に関しては謎の記号と図像のみの帖、天明氏の論考と思われる霊界解説が含まれており、厳密には日月神の神示とは見なされていません。
今回の解説は、宗教家であられる岡本天明氏の見解も踏まえています。

日月神示及び天明氏によれば、「三千世界」と言われる「神界」「幽界」「顕界」のうち、神界には天人の住む「天国」と天使の住む「霊国」、幽界には「陽霊人」「陰霊人」が住まうとされています。
しかし、私の文脈では「神界」には「神と天使」が住み、「霊界」には天使に連なる高級霊までのヒエラルキー、その下には地獄的想念の霊人たちが限りない層を成して住まうと想定しています。
そして、死後に50日ほど過ごす「幽界」を挟み、地上人の住まう「現界」があると考えています。

ゆえに、神示の文脈からは若干ズレるのですが、ほぼ階層として同じ構造です。
この「神界」と「霊界」を合わせて「天界」とし、現界と地上の霊的気場「霊気層」を含めて「地界」と考えています。

人間は生前、死後と霊界に魂を置き「霊人」として生活しますが、私の感覚だと存命中も霊界に魂の本体があり、地上の生活と連動しながら存在し続けているように思います。
人間は睡眠時に「魂の里帰り」をすると言われますが、神示や天明氏の論考の中にも「霊界での出来事は顕界と連動する」と書かれているので、私は生まれ変わり中も大我の中で霊界と魂が繋がっていると考えています。

「地震の巻」の中で天明氏は、「天国的想念の方向は明るいので進みやすいが、地獄的想念の方向には光がないので暗く、それゆえ進みにくい」というようなことを書かれています。
神示の中にも「霊界は上がりやすく堕ちにくい」と書かれていて、どうやら中間的な層として死後すぐに行く仮の霊界があり、そこから段階を経て自らの想念に近い霊的コミュニティに向かっていくと考えられます。

図では、その霊的ヒエラルキーを格子構造として表現しています。
本文には「霊界には空間がない」と書かれているので、おそらく実際はもっと非連続的なのでしょうが、一つの空間世界に雑多に存在するわけではなく、かなりニッチな空間世界が縦横無尽にあると解釈できるため、このような構造にしました。

「地震の巻」には人間は死後50日程度を幽界の準備的場所で過ごし、最長20年そこで留まるケースはあるがそれぞれの想念に近い霊的世界に進んでいくと書かれています。
私はこれを一般的な「幽界」の定義に当てはめて考えています。
そして、地獄的想念を持った霊人たちは一般的に「地獄」に近い場を作り上げますが、厳密にはもっと細分化された空間世界だと考えられます。
また天国的想念も「天国」に近いコミュニティを形成していきますが、上位に行くほど霊的な階層は高くなるので、神界に近づけば近づくほど「天国的」になっていくのだと思います。

厳密には、霊界の最上部付近と神界の天使の住まう層は連続していそうですし、霊界と言われる「五次元世界」の上層には天使が住むとされているので、それほど違いはないかもしれません。
その「天使」は、私たち人間からして見れば十分「神様」と考えて良い存在であり、特に人間の守護につくことが多いと言われています。
ゆえに、天使以上の霊的存在は一般的に「神」と考えてよく、神の上には神が存在し、その更に上に神が、と神々の階層も無限に広がっていくと言われています。
その神々も、より高位になればなるほど抽象化し、「大神」と呼ばれる御神格は神界の上層におられると考えられます。

ここまでが構造的解説ですが、生前・死後の霊人は存命中の人間にアプローチをかけてくることがあります。
ただし本文の解説では、浄化した高級霊ほど暗示的な干渉を伴い、低級霊ほど具体的な現れ方をすると書かれています。
「天国的想念の霊人」が生きている人間にアプローチするなら、加護や福運を伴う干渉を行うでしょうが、「地獄的想念の霊人」ならば呪いや災い、或いは病的な人格変化などに現れるはずです。
これを私たちは、「ガイド」とか「守護霊」とか、「邪霊」とか「悪魔」とか形容したりするのだと思います。

おそらく「幽霊」と呼ぶものは、幽界と霊気層、エーテル体とも呼ばれる半霊反物質の層をまたがっていて、あまりに地上への物質的執着が強すぎて霊界に進んでいけないのだと思います。
これが次の図説のキーポイントで、「幽界の消失」と「地球の次元上昇」と深い関わりがあります。




「大峠以前」の三千世界では、「幽界」が現界と霊界のクッションの役割を果たしていました。
しかし、地球が次元上昇すると霊的三次元だった地上世界は四次元となります。
しかしそこには幽界という霊界の準備場があったため、その気場を払って浮上することになります。

そこで幽界を取り払うと何が起こるかと言えば、幽界が縮小するに従って死後のインターバル期間は短くなり、幽界に居座りたかった不浄霊は行き場を無くします。
例えて言うなら、市役所のホールが小さくなっていくのに、手続きにくる人の数が変わらなければ所内にはいつまでも人を溜めておけないので、手続きも簡略化して流れをスムーズにするでしょう。
幽界の不浄霊にとって霊界は明るくて進みやすい反面、まだ地上に未練があるので上がるのは難しく、かと言って地獄的想念の場は暗すぎて進みにくいのです。

だから彼らはまた地上に戻ろうとして、エーテル層と幽界の狭間を浮遊するか、人やモノに憑依して執着や未練を晴らそうとします。
これがアセンションに伴う「憑依と浮遊霊の大量発生」の原因ではないかと考えていて、憑依された人間は邪念が強くなるので他の人に対して「生霊」という念を飛ばします。
人間の強い念はそのまま「呪い」となるので、呪いをかけられた人の心身はおかしくなり、故にまた他の人に生霊を飛ばすことになります。

今日の社会的混乱と人心の乱れは、ここから起きているのではないかと私は推察しています。
地球が次元上昇するために「幽界」を取り払うことで、行き場を無くした「幽霊(幽界人)」が地上で憑依や霊障を引き起こし、それを助長する地獄的想念の霊人、そして人間の浄化と覚醒を妨げる「神に仇なす者たち」によって、悪の勢力が隆盛しているのが昨今なのではないでしょうか。

では、「大峠」以後の三千世界がどうなるのか、考えてみたいと思います。

人間の死後にインターバルとしての「幽界」が取り払われたということは、死後すぐに霊界に行かなくてはならないことを意味します。
人間の霊的レイヤーも地球と共に四次元に上昇しているので、四次元地球自体が幽界の役割を果たすことになります。
幽界は日本神話で言えば「黄泉の国」であり、仏教で言う閻魔大王の裁きの場でもあります。
日月神示でも語られる「神と獣」の選別、バシャールの語る「ポジティブとネガティブ列車」、私が扱ってきた「神世と人世」という二義的世界は、今その魂の分岐が明確になったことで、死後の行末が現段階ですでに生きながら決められたとも考えられます。

人間が現世に生まれるのは霊人の「魂の修業」のためでもあるので、地上世界が次元上昇することで直接的な霊魂の修業の場となれば、霊魂としてはより高次元に近づきます。
つまり、人間は四次元(スピ的には五次元)の地球で生きながらにして幽界と同じ霊的次元に生き、霊界の行き先が早々に決まるため、死後すぐに霊界に入ることができるわけです。
まして、人々はこれから霊格や「徳」を高めていくターンに入るため、死後に物質的執着を取り除くインターバルを設ける必要性も薄れます。

「日月神示」では、繰り返し「悪は悪ではない」「善と悪の和合こそ真の善」と語ります。
もし「悪は滅ばされるべき」と考えるなら、大峠時に「獣」とされた人々は、死後霊界に入ることを許されず消滅するか、別の次元の地獄的気場に押し込められることになるはずです。
しかし、「悪は大神が許すから存在する」と語られており、悪は必要悪ゆえに宇宙から消滅するべきではありません。

だからこそ、私は「獣」とされた人々もそのまま「地獄的想念のグループ」に直行することになるのではないかと考えました。
しかし、「生まれ変わり」というのは本来、霊人がより高い階層に行くために修業する意味を持っているので、向上心のない霊人はわざわざ地上に転生したりはしないはずです。
かと言って、意地悪い霊人が永久に改心しないとは言い切れず、どこかの段階で「人間に生まれ変わって修業したい」と思うかもしれません。

全ての魂は大神の「分御霊」から生まれ出た神であるので、その自由意志は尊重されるでしょう。
従って、霊人はいくら自らの霊的コミュニティに留まったと言えど、地上に降りた人間は全て高いレベルの霊的修業を行うことになり、全霊魂が改心と浄化に向かう以外のベクトルが用意されていないのです。

つまり、どんな邪悪な性質を持った霊魂も「大峠」で散々痛い目を味わった後は、必然的に改心か霊的浄化に向かうしかありません。
だからこそ、「善も悪も改心させる」と日月神示では豪語されているのだと思います。
そして、善も悪も誰もが悔い改めて結果的に改心していくのだとしたら、世界はどう考えても弥栄えていく道しかないのです。

「世界を一列一平にして一つの神で治める」と神示にあります。
「地獄的想念」と「天国的想念」の霊人社会が神界を中心に遍く統治されるとしたら、その頂点に位置するのが神界(高天原)を新たに支配する「天日月大神」です。
以前の解説で述べたように、これまで「月と地球」を支配していた国常立尊大神こと素戔嗚命は、高天原を支配する「天照大御神」の権威も嗣ぐことになるため、実質的に「三千世界の支配神」となります。
ゆえに、天日月大神の直接統治が神界、霊界、現界と遍く行き渡る「ミロクの世」となり、末長く弥栄ていくのだと思います。


ということで、独断と偏見と勝手な解釈で「大峠」の意味について考えてみました。
私自身、死んだことがあるわけではない(死にかけたことは何度もある)ので霊界解説に関しては完全な受け売りなのですが、一応筋は通っていると思います。

毎日胸が焼けるようなニュースと、白々しい顔をした偉い人たちの顔を見て居た堪れない日々を送っていますが、神示の言うように彼らも悪という御用をしっかりこなしているのだ、と考えて納得するようにしています。
正直に言うと「早く地獄に堕ちればいいのに」と思う気持ちもない訳ではないですし、己の無力感と向き合うこともあります。

ただ、誰しもが幸せになることを求め、それが例え我良しであるとしても、全ての人間を殺して回らなければ気が済まないような悪人はいません。
どんな人間にも幸せになる権利はあり、そのやり方が多少周りを犠牲にするだけのことで、その行為は宇宙に許されているから存在します。

ただ、彼らのやり方がもう時代に合わないというだけのことであり、TPOを弁えないがゆえの罪なのです。
次に電車の席に座りたい人がいるのに、降りるべき駅で降りずに座席で横になっていれば困る人がいますし、要は順番を守って欲しいだけなのです。
そして、その座席が空くのを次の時代に生きる人々は静かに待っています。

けれど、いずれコワモテの駅員さんが駆けつけて、彼らの肩を叩く時が来るでしょう。
私たちはその時を待っていれば、晴れてグリーン席に座れるのです。
その電車は、逆さまだった世界がさらにひっくり返り、「神秘」というビックリ箱が開いた「弥栄の世」に向かっていくはずです。

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日月神示解説補足

楽太郎です。

昨日、「日月神示解説」という記事を書きました。
そこでは、新たに世界を支配する神格が「天日月大神」であり、高天原と黄泉の国と葦原中津国、いわゆる神界と霊界と現世を統べるという話をしました。

今回は、前回の解説記事に加えると蛇足になりそうだった事柄について付記していきたいと思います。
さて、日月神示に予言されていた「三千世界の大洗濯」と「五枚の岩戸開き」と、昨今スピリチュアル界隈の中心的テーマだった「アセンション(次元上昇)」には密接な結びつきがあります。

本ブログでも度々取り上げていますが、新月と満月の周期で毎月異なる形で霊的浄化のウェーブが発生していました。
ある時には「過去への執着」であったり「人への感情的依存」であったりしました。
そのテーマが月の満ち欠けによって現れると、浄化に抵抗する人々の集合意識は邪気を生み出し、霊的な暴走をする傾向があったのです。
だから私は満月の日は大抵頭が痛く、まともに動けない日もままありました。

そして、去年の夏至から強烈な力を発揮し始めた季節分点は、二十四節気の巡りを利用して一つの区切りとなっていたようです。
昨年末の冬至には「神世」か「人世」を選ぶかの選択が問われ、ほぼ今年の運勢を決めるような目標設定を求められました。
そして今年の春分と5月の満月で、二度「神世」か「人世」を選ぶかの確認が行われました。
なぜ重ねて「選択の意思決定」が神々から問われたのかと言えば、日月神示でいう「神の道と獣の道」で人々を選分け、境界線を引くことで次の時代に進ませる人々を選ばれたのだと思います。

このように、太陽や月と地球の周転だけでなく、太陽系の星々や星座の逡巡とも影響し合いながら、宇宙的なスケジュールと並行して「アセンション」は進められてきました。
これらの占星術的な天体の巡りは、本来何十万年も前から予定されていた事柄であり、そのスケジュールに合わせてテーマが地上に降ろされ社会的な影響を生み出すことを考慮すれば、「アセンション」も「神々の浄化作戦」も、遥か昔から仕組まれていたのかもしれません。

奇しくも、日月神示を降ろされた「日月神」の御神名にある「日月」とはを示し、天体周期と密接な繋がりのある言葉です。
それゆえ、終戦一年前に岡本天明氏に降ろされた日月神示が、80年の月日を経て現代の私たちの目前に再現されることは、正しく「神からの啓示」に他ならないのではないでしょうか。

ゆえに、地球の次元上昇と天日月大神による新世界の到来は、どうも無関係とは考えにくいのです。

前回の解説で、一度目の岩戸開きは「伊奘冉命と伊弉諾命の再会」を意味すると書きました。
神話では伊奘冉命は火加具土命をお産みになられ、火傷が原因で黄泉の国に赴き、そこで黄泉大神となられました。
日月神示の霊界解説によれば、地上を巡る「気」が天上にそのまま還らず、傍に逸れて地獄的想念が溜まった場が「幽界」であるとされます。
昨今、スピリチュアル界隈では妙な話があり、「幽界が消失し始めているのではないか」というのです。

私はこれに関して実感があって、浮遊霊と生霊の大量発生の裏で、不浄霊の憑依も活発化しているのではないかと仮説を立てていました。
世には人間の心を無くしたような過激な人間が増え、その過激な人間を持て囃す過激な集団も増殖し、その背景の裏に私は「邪霊の憑依」を感じています。
つまり、幽界が縮退するにつれて行き場を無くした地獄的想念の不浄霊たちは、地上に居場所を求めた結果、似た想念の人間を苗床にし始めたのではないでしょうか。

従って、元々「獣」としての傾向が強かった人は、不浄霊の憑依が加わることで「獣化」が進行します。
ただ、憑依に対する「祓い清め」とは自ら行う意志がなければ浄化されないため、「神の道を選ぶか獣の道を選ぶか」を神々に問われた時、魂のレベルでの自由意志による決断を迫られたのです。
邪霊の憑依を受け入れ神を拒んだ者は、自らの意志で「獣の道」を進むのを選んだことになるため、今後は神に救われることのない道を歩むことになるはずです。

大神からの「分御霊(ワケミタマ)」である人間の魂は神の一柱であり、例え天界の神々と言えど神の一柱である人間の自由意志を無理に変えるわけには行かないのでしょう。
ゆえに、「自分の意志で次の時代を選ぶのか、このまま留まるのか」を選択させたのだと思います。
仮に神の道を進まないからと言って天罰が下るわけではなく、あくまで「神の加護から外される」だけでしょうが、それは迫り来る不幸を回避できないことを意味します。

従って、人間の「獣化」と世の動乱、アセンションとの相関は「幽界の消失」という面からも説明ができます。
しかし私の自説である「幽界の消失」と次元上昇した「地球の霊的気場=精神界」の出現は深い関係があり、幽界の消失で空いた霊的気場にスッポリ収まる形で「地球霊魂の気場」が作り上げられたとするなら、その霊的次元の創出にこそアセンションの真の目的があったと考えられるのです。

奇しくも、一度目の岩戸開きによって伊奘冉命が伊弉諾命と再会できるとしたら、黄泉大神としての任が解かれたとも解釈でき、つまり幽界が消失したからその国を治める必要が無くなったとも考えられるのです。
そして、これまで伊奘冉命は千引きの岩によって黄泉の国に閉ざされていたからこそ伊弉諾命と遭うことが叶わなかったので、黄泉の国を治める必要がなくなれば千引の岩を置く必要もなく、ゆえに両神は何千年、何万年越しに逢瀬を果たすことができるのです。

「地球」を支配しているのは国常立尊であり、神示によると日本列島は「国常立尊の影」であるとされます。
言わば、地球そのものが国常立尊大神の「御身体」であり、地球霊魂が「国常立尊大神の御霊体」であるとも考えられます。
だからこそ、幽界跡地に地球霊魂が上昇し、そこで新たな霊的気場を作るのは理に叶っているのです。
そして、地球霊魂であられる国常立尊大神=天日月大神と魂で繋がる人間こそ「神人」であり、新たな世界の礎となっていく人々なのだと思います。

このブログを遡ればわかると思うのですが、私がずっと「神世に上がるため」と表現して必死に自己浄化に専念してきたのは、次元上昇した地球の霊的気場にアクセスするには相当な精神的修行が必要だったからです。
それは「霊格」と言ってもよく、常識的な人格とは違う徳の高さであり、神示が「ゴモク(汚いもの)を捨てよ」「御魂を掃除せよ」と口酸っぱく述べられるのは、「我良し」という考えを持っていては地球意識を共有することができないからだと思います。

ゆえに「ミロクの世」が弥栄えるのは、我良しの考えは結果論で言えば合理的ではなく、人々が互いにWINWINの関係しか築かなくなるとしたら、必然的に繁栄し続けるしかないのではないでしょうか。
しかし逆に考えれば、今は誰もが「我良し」という悪に染まっているから一方的にWINLOSEなのだけど、長い目で見ればLOSELOSEだから先細り、世が行き詰まっていると考えることもできます。

その件に関しても神示には説かれていて、「世は金で治めて金で潰して、地固めする」とあります。
日本は戦後復興から高度経済成長、バブル崩壊から低成長の現代に至るまで、ずっと「拝金主義」の時代でした。
人々は精神的な豊かさよりも物質的・肉体的な価値を追い求め、ゆえに経済や社会が行き詰まっても「お金があれば幸せになれる」という目的意識から外れることができず、経済的利益を得る以外の発想を持つことができません。

今起こる日々のニュースを見ても、「法律に書かれていなければ何をやっても良い」「多少道理は違えても成果を出すべき」「お金があれば幸せになれるのだから金儲けは悪ではない」という考えが蔓延り、道徳的善悪が「利益=善」というロジックにすり替わっているのです。
だからこそ、成功や利益のためなら全てが奨励されるべき、という風潮の中で社会的制度もモラリティもおかしくなっているように思えます。

そもそも、物物交換の補助的手段でしかなかった「貨幣」という概念が、今では人の人生も魂も支配する仕組みになっています。
言ってみれば現代は「金で固まった世」であり、金で固まっているからこそ搾取と欺瞞に満ちた社会経済が固定化し、その毒が回って国家レベルで自家中毒にかかり、瀕死の状態にあるのです。
それがもし「金で潰される」のなら、こうして袋小路に入った文明社会も、全ては人類と世界のステップアップに必要な過程であり、世の建て替え・立て直しのために用意されたステージだったのでしょう。

ゆえに、これから先に起こることは大体予想できますし、私にはそっくりそのまま正規ルートのシナリオを辿るしかないように思えます。

人間は逆立ちしては生きられません。
しかし今の人々は頭を逆さにして、お尻を上に向けて両手で歩いているのです。
お尻が頭の位置にある人々が多いからこそ、世の中はおかしなことばかり起こっています。
今の世は逆さまの世界であり、心や思考があるべき場所に欲望が収まり、心ある者は損をし軽率な者はますます栄えます。

もちろん逆立ちは人間本来の立ち方ではないため、何をしても苦しいのは当然です。
誰もが違和感を感じ、できるならやめたいのだけれど、皆が逆立ちして生活しているから足を地面に降ろすことができないのです。
けれど、誰かが「やっぱり普通に歩くのがいいわ」と言い始めたら、徐々に逆立ちを恥ずかしがる人も出てくるのではないでしょうか。

人間は頭を上に向けて、両足でしっかり地に足をつけて生きるべき動物なのです。
常に息苦しいのは逆立ちをしているからであり、頭に血が下りていれば楽しくも生きられないでしょう。
そうして人々が本来のあり方・生き方を取り戻していけば、人類は自然と弥栄えていくはずです。

私は日月神示を信じるべきと言うつもりはありませんし、日本の神々への信仰を全ての日本人や世界中の人に押しつける気もさらさらありません。
むしろ、自分の信じる神秘的存在を追求し、身の回りに奇跡を感じて生きることこそ理想なのではないでしょうか。

ただ、この薄汚れた世界で人を信じれないとしたら、目に見えない存在を一旦は信じてみても良いと思います。
まして神を信じられなければ、自らを徹底的に信じてみることです。
おそらく、その姿を神々は見守り、時にはそっと背中を押すことでしょう。
いつも陰に「神様」はおられるのです。

人間が本来の姿となり、心と魂を取り戻した世界が、これから訪れる「神が再来した時代」です。
その世界が開けるまでの苦難を日月神示では「大峠」と表現しています。
その間の困難は想像を絶するでしょうが、そのトンネルの先には、必ず光の差す出口があります。

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「日月神示」解説

楽太郎です。

以前、「日月神示とは何か」という記事を書きました。
そこでは、「国常立尊大神」が三貴神の「素戔嗚命」と同一神であること、その国常立尊大神が高天原の最高神であられる天照大御神の権威も継承し、最高神の座に鎮まることが「日嗣(ひつく)」を意味し、天と地上を治めるのが「ミロクの世(神世)」であるという解説をしました。

伊弉諾命が阿波岐原で潔斎を行なった時にご誕生なされた三貴子は「天照大御神・月読命・素戔嗚命」の三柱にあられます。
しかし、あらゆる古伝書や神話にも、月読命の業績が記されているものは殆どありません。
「日本書紀」には、保食神が饗応の宴に際して口から食べ物を吐き出しているのを見た月夜見命は、激昂して保食神を斬り殺してしまいます。
「古事記」において、素戔嗚命は宴の席の裏で大宜津姫命が御饌を吐き出していたのを見るという、月夜見命と同様のエピソードがあります。

これらの説話の類似性から、長らく月読命と素戔嗚命の同一説が語られていました。
日本神話では高天原を支配するのが太陽神であられる天照大御神ですが、月読命が「天の一部」「夜の食す国」と「滄海原の汐の八百重」、素戔嗚命が「夜の食す国」「滄海原」と「天下」を治めたと記紀には記されています。
つまり天照大御神と月読命と素戔嗚命の三柱で「高天原と夜の食す国と地上世界」を治め、象徴的天体としてそれぞれ「太陽と月と地球」を司ることになりますが、月読命と素戔嗚命で「夜の食す国」「滄海原」を二柱で統治していることになります。

これは、直感的に不自然に思います。
神話として明快な叙述をするなら、「天照大御神は太陽を司り、高天原を統べる」「月読命は月を司り、夜の食す国=黄泉の国を統べる」「素戔嗚命は地球を司り、葦原中津国を統べる」とすれば、神話的構図はシンプルになります。
しかし、「黄泉の国」を支配するのは黄泉大神であられる伊奘冉命であり、「夜の食す国」は黄泉を差すのではなく、「夜の治める地(くに)」を意味し、厳密には「夜の地球」です。
ゆえに、月読命と素戔嗚命の統治権の揺らぎは、「月読命と素戔嗚命の神績を意図的に二分割したからではないか」と考えられます。

「記紀」は、飛鳥時代から奈良時代に続く朝廷政権の混迷期にあり、かなり政治的な文脈が織り込まれているので注意が必要です。
当時は諸豪族の勢力に睨みを効かせたり忖度する必要があったので、物部氏や大伴氏、蘇我氏や中臣氏の文脈を考慮に入れて記述的なバランスを取ったと思われる部分も見られます。
朝廷周辺の豪族には海部氏や秦氏や尾張氏も強い権限を有し、「月神」を信仰する海洋系氏族の影響も充分考えられます。 

「記紀」はおそらく虚偽の事実を書く意図は全くなく、ただ文脈通りに書けば波風が立つため、敢えて複雑な叙述トリックを使って有耶無耶にしている部分が多いと思います。
日本神話は大陸起源の人類学的神話が引き継がれており、長らく文字が存在せず口承によって神話が成立したからこそ、これほど複雑なロジックを必要としないはずです。

今回は「日月神示」の解説なので読後感に従うならば、「月読命(大神)」は素戔嗚命であり二柱が同一の神格を指すとすれば、「月」「夜の食す国」と「滄海原と大地(地球)」を統治するのが素戔嗚命であると考えて良いと思います。
記紀には亡くなった母の伊奘冉命を慕って、素戔嗚命が黄泉の国に行きたがるエピソードが挿入されており、伊奘冉命は火加具土命をお産まれになられた後に亡くなり、その後黄泉の国を治める「黄泉大神」になったとされています。
「黄泉国」は黄泉大神であられる伊奘冉命が治めるので、「夜の食す国=黄泉の国」ではなく、実際には地球と地球の衛星たる「月」が素戔嗚命の直接統治下にあると考えたら腑に落ちます。

「月読(ツキヨミ)」という神名の語源は「暦(コヨミ)」と関係が深く、どうやら「日」を元にした暦の換算と「月」を元にした換算を合わせて「日月」と呼んでおり、その風習は現在にも受け継がれています。
古代から人々は祭祀や収穫の時期を読むには、太陽と月の周回を観察し、その暦を元に祭事を行ってきました。
それゆえ「日=太陽」と「月」の周回軌道を読むことがそのまま宗教化されても、何の不思議もありません。

現代科学によると、月は「巨大(または複数)の惑星の衝突」によって飛散した惑星物質が地球の周回上で結合し、月になったとする説が最も有力です。
月には地球上の組成物質だけでは成り立たず、他の惑星の組成も確認されつつ大部分は地球の破片です。
つまり、月は「地球と兄弟」とするのが妥当であり、実際に地球と月を支配する神が同一であっても筋が通ります。

また、人間は「3」を聖数とする習性があり、天と地を支配するのが「三柱」にすると感覚的に落ち着くのです。
しかし、三貴子の神話以外でも「天御中主神・高神産霊神・神産霊神」、「火遠理命・火照命・火須勢理命」を始め、二項対立を敢えて避けるために記述のない神格を置く例が存在します。
故に天照大御神と素戔嗚命(月読命)の一対で高天原と葦原中津国を事実上治めている、と考えたら矛盾はなく、それは後述する「伊弉諾命と伊奘冉命の別離」とそれに伴う黄泉の国の支配体制も一つの文脈として成り立つのです。

つまり、三千世界を構成する高天原・葦原中津国・黄泉の国のうち、「高天原を治めるのは天照大御神」「葦原中津国を治めるのは素戔嗚命」しかし、「黄泉の国を治めるのは伊奘冉命」と正直に明文化すると三貴子に当て嵌まらず、違和感が出てしまいます。
そのため、帳尻を合わせるためにも「月」と「夜の食す国」を設定し、「夜の地球」を「黄泉の国」にミスリードしているのではないでしょうか。
そのため素戔嗚命に一柱二役になってもらい、「月読命」の神名を冠させて頂いていたと考えるのが自然です。

ここからは、「月読命は素戔嗚命と同一神である」という前提で話を進めます。

神話学的に「素戔嗚(すさなる)」という神名の由来は、「凄い勢いで功績を成し遂げた神」という意味が語源だとされています。
日月神示の文脈で言えば素戔嗚命は国常立尊大神であらせらるので、かつてこの世界を造り固めて支配した神とされます。
国常立尊は、記紀の記述によれば「造化三神」「別天津神」に次いでお産まれになられた神であり、神代七代の始めにして、その後に伊弉諾命と伊奘冉命がお産まれになり、伊弉諾命の御子神が素戔嗚命なので、時系列で考えると世代が合いません。

これに関して記紀では、造化三神も別天津神も神代七代も一世代ずつご誕生になられてはいるものの、実はそれぞれの代に親子関係は明記されていません
つまり、造化三神の後に別天津神二柱がご誕生された後、国常立尊と豊雲野尊がお産まれになられてますが、国常立尊と豊雲野尊の間に伊弉諾・伊奘冉の二柱を含む地祇五代がご誕生なされた訳ではありません。
事実、伊弉諾命と伊奘冉命に「親神」が存在しないということになっています。
これに関して、どう考えたらいいのでしょうか。

記紀では、天孫降臨の際に天照大御神の指南役として登場し、実際に天孫である瓊瓊杵命の補佐を行ったのは「高神産霊神」です。
高神産霊神は造化三神の一柱であり、天御中主神がご誕生してすぐにお姿を隠された後、神産霊神と共に多くの高天原の神々をお産みになられました。
本来なら、天照大御神の天孫降臨を助けるのは、親神であられる伊弉諾命の役割ではないでしょうか。伊弉諾命に親神は存在しませんから、「高神産霊神=伊弉諾命」という解釈が可能です。

高神産霊神と神産霊神、伊弉諾命と伊奘冉命が同じ御神格であるとするなら、なぜ神名を分ける必要があったのでしょうか。
高神産霊神と神産霊神は思金命や太玉命、少那彦命など高天原に坐す神々をお産みになられましたが、伊弉諾命と伊奘冉命は「神産み」「国産み」をした後、伊弉諾命は単神で皇祖神であられる三貴子をお産みになられました。
つまり、高神産霊神と伊弉諾命はよく似た業績を持ちながら、レイヤーの違う役割を演じているのです。

高神産霊神が「高天原の神々の親神」なら、伊弉諾命は「皇祖神の親神」になるのです。
おそらく、記紀的文脈では「高神産霊神が三貴子をご誕生させた」とするには、系譜的に都合が悪かったのではないでしょうか。
ゆえに、高神産霊神が国常立尊の上位神、伊弉諾命が素戔嗚命の親神であったとしても矛盾はありません
従って、国常立命と素戔嗚命が世代が違うように思えるのは、記紀の叙述トリックを回避すれば説明がついてしまうのです。

日月神示では、地上を支配する神であられる国常立尊が高天原の「日を嗣ぐ=王権を担う」ことで「天と地を支配する=一つにする」と語られます。
神示に幾度も登場する「てんし様」という言葉は、「天嗣(天を継ぐ)」を意味し、また「天司(天を司る)」でもあると読み取れます。
国常立尊が素戔嗚命と同一神であり、天照大御神の玉座を継ぐことを意味しても世代的に矛盾はありません。
ゆえに、月と地球を支配する素戔嗚命が太陽さえも統べる時、大日月地を治める御神格となられるのです。

では、天照大御神が国常立尊とほぼ同時期にご誕生なされた「豊雲野尊」と同一神であるかと言うと、それを裏付ける論拠は何一つなく、天照大御神と豊雲野尊を結びつける言説は殆ど存在しません。
しかし、日月神示の文脈を一部共有する大本教の説では、豊雲野尊は国常立尊の妃神であり、国常立尊のご隠退と合わせて自らも「坤」の方角にお隠れになられたと言います。
天照大御神は素戔嗚命との「誓約(うけい)」によって数多の神々をお産みになられましたが、儀式的ではあるにせよ姉と弟の作業による神産みなので、普通に考えると違和感があります。

大本によると豊雲野尊もご隠退なされていることになりますが、日月神示では天照大御神は岩戸隠れの後、「偽の岩戸開き」によって騙そうとした神々に騙された神が姿を現し、本物の天照大御神はまだ岩戸の中に閉ざされたままだと語られています。
これは由々しき話であり、これがどういう文脈であろうと日本神道を揺るがす内容に変わりはありません。

しかし日月神示に準拠すれば、天照大御神の岩戸隠れを含む「五度の岩戸閉じ」が起こったことで、世が闇の世となっていったと語られます。
そして日月神示は、その五度閉じられた岩戸が一斉に開かれる時が来ると告げ、その時こそ「大峠」を迎えると説きます。

日月神示にたびたび出てくる「鳴門(なると)」という言葉は、「成る戸=十(と)」の意であると考えて良いでしょう。
神示の中で、「八の世界が十の世界になる」と説かれています。
そしてこの仕組みが、岩戸開きのキーワードになってくるのです。

神示の中に、伊弉諾命が単神で八柱お産みになられたとされていますが、別の文脈では伊奘冉命と「八尋殿」を地上に設けた際、四方と八方角が発生したとも書かれています。
よく神示に出てくる「12345678」は、ここまでの数字を指します。
そして「9」は「コ=光(こう)」であり、「高天原」を意味し、「10」が「ト=透(とお)」即ち常(とこ)世、黄泉の国、霊界(幽界)を示すと考えられます。

「12345678」が八方向の空間、葦原中津国を指すのであれば「9(高天原)」と「10(黄泉の国)」が合わさり10カウントになれば、「成る十(鳴門)」が完成するのです。
「大峠」とは「三千世界の大洗濯」を意味し、高天原・葦原中津国・黄泉の国の建て替え・立て直しのことです。
つまり、「12345678910」の完成(=成る十)こそが神示で語られる「鳴門の仕組み」と考えられ、岩戸開きそのものを示すのです。
ただ一方、これで岩戸開きは完全には達成されないと言われます。

岩戸隠れの時に天照大御神を呼び出すための催しが執り行われた際、天細女命が奏上した巻物には「12345678910」と書かれていたけれども、正しくは「012345678910」でなければならなかったと書かれています。
この「0」というのは日月神示独特のメタファーで、「・(キ)」に対応する「◯(ミ)」であり、外側の様相を示しています。
ここで言う先頭の「0」は、「◯」の真ん中に「・」の入った記号であり、そのまま「」を意味すると説かれています。

即ち、これまで天照大御神が岩戸から出て世界を支配していても、真の天照大御神はまだ岩戸の中におられるので先頭の「0」が足りなかったのです。
この先頭の「01」と最後の「10」が合わさると「ニ十ニ」になると神示では述べられていますが、正直このロジックは私には説明がつきません。
しかし、こうして揃った「ニ十ニ」が「富士(ニニ)の仕組み」であると述べられています。

この「富士」という言葉と「ニニ」という数字は、日月神示を読み解く上での重要ワードです。
「フジ」は「不ニ(二つとして同じものがない)」という意味と、「神の国の山」が転じて「唯一無二の神が宿る身体」という意味があるように思います。
日月神示のコアとなる「神人」という概念は、ここに通じ、また「岩戸開き」の鍵となるのです。

ゆえに、「鳴門」と「富士」の仕組みが岩戸開きの要であり、それは「012345678910」の「ひふみ=(日月)」が完成することを示します。
何かと謎記号と数字の多い日月神示ですが、こういう読み解き方をすると見えてくるものがあります。

国常立尊大神が支配する「三千世界」とは、八方向の地上世界(葦原中津国)、九(光)の世界である高天原、十(常世)の世界である黄泉の国を意味します。
黄泉の国は、伊奘冉命が黄泉大神として治めているとされます。
しかし黄泉の国と葦原中津国を隔てる「千引きの岩」が取り除かれると、伊奘冉命は伊弉諾命との間にある岩戸が解かれ、二柱がようやく再開して和合すると述べられています。

日月神示の中で語られる「五度の岩戸閉じ」の中で、伊弉諾命と伊奘冉命の別離は「一回目の岩戸閉じ」であったとされます。
伊奘冉命は火加具土命をお産みになった際に火傷を負われて亡くなられましたが、その後に亡くなった伊奘冉命を追って黄泉の国に赴かれた伊弉諾命は、その際に仲違いをしてしまいます。
伊奘冉命は黄泉大神となり、どうやらそのまま黄泉の国を統治し続けられたようです。

日月神示の霊界解説では、地上を巡った「気」が天上まで還らず、横に逸れたことで誕生したのが「幽界」であるとされます。
「大祓詞」では、祓戸大神が祓い清めを行う際、速佐須良姫命が根の国底の国に流れ込んだ罪穢れを「さすらい」消し去るとあります。
記紀の中で、伊奘冉命と伊弉諾命の口論の際、仲を取り持った女神が「菊理姫命」であり、伊奘冉命の妹とも御子神であるとも言われます。

人間は死後、霊界に上がる前に準備段階として「幽界」に上がるという説があります。
心霊学的には人間の念が作り上げた霊的気場であるとも語られ、ここには霊界へ上がる霊も停まれば、地獄的想念を持つがゆえに霊界へ戻れず、不浄霊として残り続けるそうです。

つまり、神界と霊界と現界の間にイレギュラーに発生した霊的階層であるからこそ、改めて大神が統治する必要があったのだと思います。
それは初めから計画されていたのだと思いますが、いずれにしろ伊奘冉命と伊弉諾命は別れ、その間は「千引きの岩」で閉ざされてしまいました。
これが「一度目の岩戸閉じ」です。

二度目の岩戸閉じは、「素戔嗚命に罪を着せた時」とされます。
記紀では素戔嗚命は「天津罪」を犯して高天原を荒らしまくったため、その罰として髪と爪を抜かれて高天原を追放されます。
日月神示と、その前身とも考えられる「大本教」の説話において、素戔嗚命こと国常立尊は厳しく天地を治めたため、その厳格さに反抗した神々によって弾圧され、「艮の方角=日本列島」に封じられたと語られています。

記紀では素戔嗚命の暴虐にお怒りになられた天照大御神が「岩戸隠れ」をなさったので、国常立尊ご隠退の経緯に繋がるのではないでしょうか。
天照大御神が岩戸にお隠れになられ、「騙そうとした神々」が「騙した神」を顕現させて「偽の岩戸開き」をしたと述べられているので、文脈で考えたら天照大御神は「閉じ込められた」と考えた方が自然だと思います。
冷静に考えたら、天照大御神が自ら岩戸に引きこもったのなら、気が改まれば自ら姿を現したはずです。
しかし、「偽の天照大御神」が御顕現なされていることを大御神は知り得ておられるはずで、それでも未だ岩戸の中におられるということは、そこに他意があるようにしか思えません。

四度目の岩戸閉じは、「神武天皇の時」とされます。
大国主命から国譲りがなされ、瓊瓊杵命が天孫降臨をした後にその子孫の神倭磐余彦命は日向を発ち、東征を始め大和に辿り着いて橿原に朝廷を開きます。
この功績を「岩戸に隠した」と神示には書かれていますが、匂わせている感じもします。

ヤマト王権成立以前には「倭国大乱」があり、実際に弥生後期には各地で戦闘が激化したのは考古学的に証明されています。
葦原中津国の豊葦原瑞穂国を平和に治めるためには、この武力による騒乱を鎮める必要があったのだと思います。
そして、実際に「卑弥呼」を擁立し、太陽神祭祀を礎とする宗教国家「大和」が日本各地を政治的に平定していくことになります。

ここで「神の直接統治」ではなく、「天皇の間接統治」が始まったことで、歴史的には「神代」から「人代」へ転換していくことになりました。
しかし、数世代後の大和朝廷は内部の覇権争いと領地争奪の中心となり、平安時代の朝廷の没落から次第に武士の世となっていきます。
この歴史にも「闇」があり、騒乱の時代になっていく過程はある種の岩戸閉じかもしれません。

最後に、神示の中でははっきりと五度目の岩戸閉じは「仏魔の渡来」であると書かれています。
飛鳥時代には日本に仏教が伝来しましたが、そこでは神道保守派の中臣氏と仏教推進派の蘇我氏の間で権力争いが発生しました。
それで朝廷は一時混乱しましたが、その後は仏教が浸透し各地で神仏が習合していきました。

それを日本の神々がどう受け取ったのかは図りかねるのですが、神道とは本来経典がなく、自然信仰に近いために各々の信念や霊的感覚が柱となってきました。
しかし仏教には経典があり、厳密な戒律も存在します。
人々は教えを守るために経典に頼り、そこに救いを求める流れは神道の自主性とは異なる性質もあります。

私自身は神道の導きも仏教の教えも矛盾はないと思っているのですが、「教科書通り」の宗教は神々のお考えとはズレがあるかもしれません。
神仏習合によって日本人に馴染んだ信仰も、欧米の価値観に引き摺られた明治政府の「神仏分離」によって、また違う形に変貌させられてしまいました。
「六度目の岩戸閉じ」があるとしたら紛れもなく「黒船来航」だと思うのですが、とりあえず以上の五回の岩戸閉じが闇の世をもたらしたと日月神示には書かれています。

先ほど、岩戸開きによって「伊弉諾命と伊奘冉命が千引きの岩が取り除かれたことで再会を果たす」と書きました。
それが一度目の岩戸閉じに対応した岩戸開きだとすれば、二度目の岩戸開きは素戔嗚命が罪を背負い、大本教で言う「艮の金神」としての封印が解かれ、国常立尊が「天日月大神」として新たに高天原の王座に就くことを示すと考えられます。

そして、岩戸開きの際には「天照大神・天照皇大神・日の神」が揃ってお出ましになると神示には書かれており、それが三度目の岩戸閉じに対応します。
おそらく、これまで闇の世を支配していた「偽の天照大御神」がご退位なされたので、本物の天照大御神が岩戸から出られ、その頃には高天原の最高位は天日月大神となられた素戔嗚命が引き継いでいるのだと思います。

四度目の岩戸閉じは置いといて、五度目の岩戸閉じに関しては、仏教では「末法の世」が終わると、弥勒菩薩が治める「弥勒の世」が訪れると説きます。
仏教の原典では「弥勒の世」は気の遠くなるほど先の時代を指すのですが、日月神示では大峠が終わり天日月大神が治める時代を「ミロクの世」と呼んでいます。
つまり、「ミロクの世」が近い将来に到来してしまえば、仏教の究極的世界である「弥勒の世」が実現してしまうことになり、仏教のタイムラインが終了してしまうのです。

これは仏教信奉者として由々しき事態というか、自分でも書いていいのかと思ってしまうのですが、とりあえず「日月神示」の解説なのでご容赦ください。
一先ず話を進めますが、四度目の岩戸開きを飛ばしたのは本気で書きたくないからです。
しかし、ここまで書いてしまったら仕方ありません。

四度目の岩戸閉じは神武天皇の折、神が人になり変わる必要があった、と神示には示されています。
かなり濁した書き方になっているように感じますが、要は「神が人となって地上を統治せざるを得ない理由」があったからです。
そして「人が神になり変わって統治する時代」が終了するということは、神が地上と人を直接統治する時代に戻ることを意味し、「人が神の代理として統治する」必要がなくなるということです。
つまり、天皇が政治的役割を終えることを意味します。

もうこれは◯されてもおかしくないのですが、「象徴天皇だからセーフ」みたいな話にならないでしょうか。
もし私が血祭りに挙げられたら、日月神様が責任を持って天国に導いてくださることを期待します。

これらの「岩戸」が何を閉ざしていたのかと言えば、神の道に他なりません。
つまり、神と繋がり自らを祓い清め、清廉潔白に「弥栄」に生きる道が閉ざされたことで、人々は罪穢れ、迷い苦しみ憎み争い、災いや禍事を受けるようになったのです。
だからこそ、日月神示では口酸っぱく「御魂磨き」を勧め、それは改心と悔い改めであると言います。

そして、おそらく現在進行中の「大峠」を乗り越える唯一の術はそこにあり、「神と獣」が分かれた世で「神人=真の臣民」であれと説くのです。
神道では、全ての日本人が「天の益人」とされます。
人間は大神から魂を分け与えた「分御霊(ワケミタマ)」であり、それぞれが神の一柱です。
神とは、大神の配下でありながら家臣でもあり、つまり人々は「臣民」という大神自ら擁する民だからこそ、大いなる加護を授かるのです。

この神示を降ろしたのは、文脈から察するに「天日月大神」の補佐をする「天日月神」です。
神々の世界には「大神」という王の中の王がおり、「神」という王たちが存在するようです。
「地(くにの)日月大神」も同時に存在し、おそらく天日月大神と同神格なのだと思いますが、「地日月神」は「臣民」即ち目覚めた人間たちであると言います。

冒頭とも重なりますが、「日月」は本来「暦」を指し、奇しくも神示の中では具体的な日付が語られていたりもします。
「3月3日」「5月5日」など、艮の金神の調伏儀礼の日とも重なります。
そして何度も強調される「旧暦9月8日」の真意はわかりませんが、何らかの意味があるのでしょう。

それが「五度の岩戸が一斉に開かれる日」なのか、「国常立尊大神が高天原の王座に即位される日」なのか、それは不明です。
日月神が暦(時間)を司るとすれば、その予言が80年前に岡本天明氏に降り、第二次世界大戦の行末と将来における地球の次元上昇、「三千世界の大洗濯」こと大峠の到来、新たな世界を統べる天日月大神のご顕現を言い当てられたとしても不思議ではありません。

神々の世界は地上世界とは異なる時間軸にあり、また時間と空間の概念も異なると言います。
そして、神界や霊界で起こった出来事は必ず地上世界に再現されるとされ、神示の中では「神界の建て替えの真っ最中」だと書かれています。
つまり、80年前にはリアルタイムで神界の洗濯が行われており、それが霊界を通じて80年越しに現世に反映されていくのだと思います。

もし未来の出来事が神界に既に起こっているならば、神々が現代において和気藹々とご活躍されていることを鑑みるに、やはり「悪神」は退き神界には平和が訪れているのだろうと思います。
そして現世を生きる私たちは、その後に続くことになるのでしょうし、続かなくてはなりません。

この世には未だ悪が蔓延り、人々は暗闇の中で進む光を見失い、動揺が広がっています。
そこに差す光が「日=霊=神(ヒ)」の光なのだとしたら、岩戸によって閉じられた神の道はそこに示されているのでしょう。
これから人々が進む道は「神の道」にあり、それは日本人が受け継いできた縄文時代からの自然神への信仰に始まり、産土神や祖神への崇拝、そして「神道」という国家的祭祀にあります。

「天津神」「国津神」「八百万の神々」が坐す多神信仰の国日本は、一神教の国家がもたらす喧騒の歴史とは一線を画し、連綿と刻まれた独自の系譜を持ち、それを「大和(やはと)魂」と称してきました。
その精神こそ、現在の混迷極まる世界に一閃の光を投げかけるのではないでしょうか。
だからこそ、今日「日月神示」が再び日の目を浴び、注目されているのだと思います。

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人類の「二極化」について

楽太郎です。

昨日の30日、カムチャッカ半島沖でM8.8の地震があり、日本中の海岸に1mから3m規模の津波が押し寄せました。
私はこの通知を受けた時、ついに大地震が起きたのだと思いましたが、よく見ると震度は1程度でした。
よく調べたところ、カムチャッカ半島中央部の火山が噴火したことで、千島海溝プレートが連動し500キロ規模の地殻破壊が起こったとされます。

地震と言えば連想するのが、スピリチュアル界隈で持ちきりだった「2025年7月問題」です。
この地震を持って「7月予言は本当だった」と話題にすることには大した意味はないと思います。
予言が当たろうが外れようが、実際に被害を受けておられる方は国内外問わずいる訳で、下手に話題にして消費するのは私が東日本大震災で被災した当時、被害を見て楽しんでいた人たちと心情的には変わりません。

ただ、完全な憶測に過ぎないのですが、私が「世界線が変わった」と感じていた現象の一つが今回のカムチャッカ沖地震なのかもしれません。
スピリチュアルの界隈では「7月問題」はなくなった、やっぱりあるという議論になっていましたが、これを持って「小難シナリオに置き換わった」と結論づけるのが落とし所なのではないでしょうか。

後出しになるようで恐縮ですが、私は個人的に「九州か北海道の大地震」という情報を以前から掴んでいて、こう言った不安は煽るべきではないので敢えて明言はしてきませんでした。
しかし、千島海溝プレートならば4分の1くらいは言い当てた結果になるのですが、どっちみち後出しじゃんけんに全く意味はありません。

私は春分以前の世界線、タイムラインではこの地震でもっと壮絶な被害が起こるシナリオだったのではないかと思います。
特に起きたのが30日ですし、「やっぱり7月予言なんて嘘だったんだよ」と胸を撫で下ろすタイミングで来る絶妙な間の良さは、やはり仕組まれていたようにも感じます。

夏至以降、私は「何となく何も起こらない気がする」と思い始めて、むしろ日照りの方を心配していました。
それでも日本列島の大半に津波が及ぶというのは只事ではなく、やはり何かあるのだろうと思います。
感覚的に「大難シナリオ」はなくなったのだと思いますし、仮に小難シナリオの悲惨さが筆舌に尽くし難くても、もう一つのシナリオはさらに悲惨である可能性を考えると多少マシに思えるかもしれません。

このシナリオに切り替わった大きな理由は、「目覚めた人々が神々の想定以上に多かった」からだと私は思います。
これまでの数年間の災厄は人々に目覚めを促す「サイン」であり、それは神々が禍事を通じて人々の改心を促していたのでしょう。
そして、変化を望み覚醒の道を選択した人々が多かったからこそ、「もうこの国の連中はこうでもしないとわからん」と、神々から大きな鉄槌を下されるシナリオを回避したのだと思います。

特に、この物価高と米不足と猛暑の中で、避難やモノ不足が起きたら混乱の度合いは想像を絶します。
しかも災害用の備蓄米は市場に放出されているので、転売業者と市民との米の奪い合いも起きたでしょう。
その上に渇水や酷暑の影響もあり、経済的な打撃以上に社会的な混乱は避け難く、今の日本人にそれを行儀よく乗り越えるモラルがあるとは思えません。

私は常々「日本人はこの20年で根本的に変わってしまった」と思っているのですが、こうして日本の国内情勢が悪化してもなお、小難シナリオに進んだことは不幸中の幸いでしょう。
人間の目覚めに関しては、兼ねてからスピリチュアル界隈でも「人類の二極化」が話題となり、次元上昇を境にして魂の選別が起こるという話がありました。
このブログでも長らく扱ってきた「人世」と「神世」の分岐も、同じテーマのものです。

私は以前から、これまでの「人世」は終わるから、次の「神世」に移行しよう、という話をしてきました。
神世に行くためには、「我良し」の考えを捨て、自己浄化を進めながら上位存在、いわゆる神と繋がっていくことが大切です。
神世に進めればおそらく将来は開かれるのですが、引き続きお金やモノやステータスなど、拝金主義によって作られた価値観を信仰し続ける人は、「人世の崩壊」と共に沈没していくはずです。

これは高名なスピリチュアリストであるバシャール氏が「ネガティブ列車」と「ポジティブ列車」と呼んだ人類の霊的二極化であり、言わば魂における人類の選別です。
奇しくも80年前に岡本天明氏に降りた「日月神示」では「神と獣に分かれる」と示されています。
そこでの神とは謂わゆる「神人」であり、自身の神と繋がった人々のことです。しかし神に繋がるのが人間本来の状態であり、神と繋がらない状態の人間はただの欲望を持つ肉体であり、ゆえに「獣」なのです。

これまでの世は消費経済だったので、より上手く稼いでより上手く消費した人がクールに見えるように社会的風潮が作られ、そういう雰囲気に社会全体が加工されていました。
人々はその成功者をモデルにして今風の生き方を築き上げ、その成功スキームを指針にしながら集団化していったのです。
そこに精神性や思想があるのかと言えば、より感覚的な欲望に傾倒し、自分が望まなくても自らの将来的利益のために行動することすらありました。

しかし、現代はそれほど景気の良い時代でもなく、モノもサービスも飽和し、誰もが歳を取って改めて興味を覚えることも減ってしまいました。
経済、社会構造共に形骸化していく中にあって、拝金主義以外に行動原理を知らない人々は、仮に立ち行かないとわかっていても過去のスキームを踏襲し続けるしかないのです。
その原動力は「欲望」であり、むしろ善悪や社会規範は金儲けや利得の邪魔になるので、余計に「我良し」の考えに染まっていきます。

それに対して精神性やモラル、自分自身を本当の意味で大事にする人というのは、この欲望と消費のシステムに不一致だからこそ外れていってしまうのです。
ゆえに、形骸化し続ける消費構造に執着し、自身の利益や欲求を優先する人々との乖離はここで起こります。
「目に見えないもの」を選んで形骸化した世界を否定するか、「目に見えるもの」を選んで形骸化する世界を肯定するか、ここに「神と獣」の境目があります。

これまで、その社会的様相は「貧富」という形でも現れてきました。
全てとは言えないまでも、やはり金儲けには人心は返って邪魔になるのが世の常だったのです。
利益を最大化するには人間を人間として扱っているとコストがかかり過ぎるため、そう言った手段を取らない人間ほど社内でも業績を上げ、組織でも社会でも階層を登っていく仕組みがありました。

下の人間は自分も成功したいので、そのサイコパス的モデルに敢えて追従しようとします。
利益を最大化するための「サイコパスモデル」に人々が染まっていった結果、モノ作りもサービスも口だけになり、その上にしっかり利益は回収しなければならないからこそ、そのやり方を徹底した組織によって歪な経済になっていったのです。

そうやって歪んでいった社会が「人世」であるとするなら、精神性を重んじ新たな世界を創出しようと踏み出す人々が「神世」の中心となっていきます。
それまでの世が「貧富」の二極化を促す世の中だとしたら、これからの世は「善悪」の二極化となる時代です。
地球が次元上昇をした「五次元世界」、私の言い方ならば地球意識の気場である「精神界」が中心となって起こる時代は、これまで人治の世界にあったような因果律ではなく、人間より上位の存在が主導権を持ち因果律を握ることになる時代です。

これまで阿漕なやり方でも人々を騙し通せれば大金を得られ、社会的地位が手に入り権力も持てた時代だったからこそ、善悪による因果は人間の作為によって歪めることもできたのです。
被害者も告発者も金を握らせれば黙らせることができ、社会的な圧力や実際の暴力によって抗議を完全に封じ込めることもできたからです。

ただ昨今のSNSの使い方にも見られるように、人間としての精神性を元にその因果を跳ね除け、その意志の裏で神々が守護をつける時代になりました。
それゆえ、悪どいことはまず見抜かれ、立場関係なく批判される時代になりつつあります。
人々の心に徐々に神性が芽生え、見え透いた欲望はすぐに指摘されてしまうからこそ、これから悪は栄えない時代になっていくはずです。

従って、「善良さ」や「誠実さ」を人々は好むようになり、逆に悪どさや我良しの感覚は忌避されていき、欺瞞を見抜く速度も速くなるため悪人が利益にありつけなくなります。
それゆえに、社会的な実相として「神と獣」はほぼ行動規範として現れ、獣は傍若無人であるが故に理性ある人々に嫌われ、闘争を好むので同類と無益な争いを続けるでしょう。
彼らはそうやって善良な人々から忌避され、いずれ社会の主流から外れていくはずです。

もし世界の支配構造が変わり、神々が主導権を握るならば「福徳」も「金運」も人間より上位の存在によって配分されるでしょう。
これまでの「金運」は貨幣そのものを指しますが、新しい金運によってもたらされるのが人徳によるものだとすれば、それは返礼品やサービスや人間関係の豊かさかもしれません。
それによって得るのは結果的に「富」になりますが、貨幣の授受を出発点としない点が以前と異なります。

その富が神々の分配によるものだとしたら、鍵となるのは「人徳」であり「善良さ」です。
我良しという考えを悔い改め、どれだけ他人を慮り環境に気を遣い、自分以外のものに奉仕できるかです。
それは人の目に見えて得をする「陽徳」と、誰にも知られない「陰徳」があり、仏教では陰徳こそ真の徳であるとされます。

多くの人は、「徳」を積んでも「得」にならないと考えるがゆえに、得になることしか考えません。
しかし、神々の世界では人間が知らないこともしっかり帳面につけているので、陰徳が何にもならないように感じてもいずれ何かの形で必ず現れるのです。
最近、スピリチュアル界隈で「宇宙銀行」という概念が流行っていますが、あれは陰徳に対する天の仕組みそのものです。
「業(カルマ)」にも良いカルマと悪いカルマがあるように、善い行いも必ず自分に返ってくるのです。

ただ、人間はやはり目に見えるものが確実に思えますし、結果も早く欲しがるものです。
それでも長いスパンをかけて、あらゆる障害を乗り越えて一つのものを信じ、一つの行いを続けることが人間としての立派な修行になっていきます。
そうして徳を積むことが今世に生まれてきた魂の目的であり、決して楽に気持ちよく生きるためではありません。

そして、自分だけが気持ちよく生きるため、我良しとする人々の行いによって社会は混乱し、制度が歪められ社会規範が崩壊しています。
彼らは自分の正しさをアピールするために強引にルールすら曲げようとしますが、そのやり方もじきに通用しなくなるでしょう。
それを見て心ある人々が反省し改善しながら、教訓を元に人間が人間本来のあり方に戻っていくのが、これからの世界なのです。

「我良し」という考えで欲を持てば、叶わぬ不満は邪気となり、邪気は邪霊を呼び自分自身が目に見える悪鬼となっていきます。
これは決してオカルトではなく、実際に人間としての心を失っている人たちの行動が証明しています。
彼らをあくまで「極端な自由さを持った人々」にしようとする風潮こそ、真の悪意が潜んでいるのです。
神々がそれを見て良しとされるはずはなく、やはり彼らもいずれ浄化を求められていくはずです。

「人類の二極化」と言いましたが、一度運命のルートが決まったからと言って、何をどう足掻いても不幸にしかならない宿命が存在するとは、私にはどうしても思えません。
いかなる悪を行おうと、その悪は宇宙を作った大神が許されているから存在したことで、悪は悪として許されなければなりません。
しかし、それは「懺悔と贖罪」を持ってきちんと償われるべきものです。
きちんと改心し、全てを理解した上で出直す分には、新しい時代の生き方は誰にでも開かれるような気がします。

人間には「自由意志」が存在し、それは小我の考えではなく「神の影」による魂の自由であると「日月神示」では語られています。
私たち人間一人一人は、大神から魂を分け与えられた「分御霊(ワケミタマ)」であり、各々が神の一柱に他なりません。
いかに邪神と言えど神は神、誰もが光を取り戻せる可能性を私は信じています。

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「カルマ」について

楽太郎です。

先日、「悪霊の正体」という記事の中で、私の過去のカルマの一現象として父の憑依があり、そこから呪いを受けているという話をしました。
その後、私の自己浄化が進むにつれて父も正気を取り戻し、いつもの親子関係に戻りました。

この山を乗り越えたから過去の私の行いが精算されたというと、それほど単純な呪いを父にかけていた気はしないので、まだまだカルマは精算して行かなければいけないのだと思います。
今回の霊障が軽くなったのは、一つのウェーブが終了したに過ぎず、まだ違う形でカルマの精算は迫られてくるのでしょう。

私はこの数年かけて、長年積み上げてきた「負のカルマ」を精算する流れにありました。
「業(カルマ)」とは仏教用語で、一般的には悪いものばかりを指すように扱われますが、「因果応報」という「自分のした行いは何であれ自分に返ってくる」という宇宙法則の中では、良い行いも悪い行いも全て「カルマ」です。
良い行いも悪い行いも「報い」としていずれ起こり、悪い行いの報いから今世で逃げ切れたとしても、来世に持ち越せば次はもっと理不尽な不幸に見舞われることになります。

だから、早いうちに悪いカルマは返済し、これから悪いカルマを積まないために改心して気をつけて生きていけば良く、背筋を正して生きていくのに越したことはありません。
もちろん、今の人生における人格では、過去世の自分の行動の責任を取ろうにも赤の他人のように思えますし、他人の尻を拭くようで理不尽にも感じるでしょう。
しかし、現世の自我こそ「仮初」のものであって、本体は霊体であり魂です。ゆえに、仮初の自分が理不尽な目に遭い苦痛を味わうことが、自分が過去世に他人に味合わせた苦痛の再現となるのです。

「覆水盆に返らず」という諺がありますが、器に入れた水が溢れたとして、また水を入れても同じ状態の水にはなりません。
一度溢れた水はもう取り返しがつかないので、水を器から溢さないように気をつけるのがベストです。
これは人生にも対人関係にも言えることですが、誰かを傷つけて関係が完全に戻ることがあまりないように、人を常に思いやる努力をすることが大切です。

私は父との関係について反省し改心したつもりですが、それでも過去の過ちは消えるわけではありません。
だからこそ少しずつ懺悔しながら、父を慮り父から赦しを得ることに感謝しながら、関係を大切にして行こうと思っています。

しかし、こういうことは10代の思い上がった若者にはわかりませんし、ましてや後期高齢者になってもわからない人はザラにいます。
特に唯物主義で現金主義の現代では、こんな話は忌み嫌われて誰もが耳を塞ぎたがります。
だから誰も語らず、高名なお坊さんが言うから説得力のあることで、普通の人はこの法則に気づく機会すらありません。

私が「人を思いやることが第一」だと気がつくまでには相当な道のりがあり、それも多くの人々に迷惑をかけてきたからこそ、ここまでカルマを溜めてしまったと言えます。
これまでの時代が酷かったので不可抗力と言えばそれまでなのですが、悪いことをして迷惑をかけたのは事実であり、「知らなかった」で罪は帳消しにはなりません。

近現代は人治の世だったので、「知らなかった」と言えば「じゃあしょうがないな」で許される世界だったのです。
けれど宇宙法則は継続しているので、人間の世界で許されて悠々自適に人生を終えても、来世はどうなるかなど人智は及びません。
その罪の重さ、どういう経緯で罪を償うのか、それは神々だけが説明ができることです。
ゆえに、現世で良い思いをしただけの悪人が死後どうなるかは、人間に推し量れるものではありません。

私たち人間は、こうして生きているだけで知らず知らずのうちにカルマを溜めてしまうのですが、神道的に言えば「罪穢れ」です。
罪穢れは祓い清めることで取り払われ、晴れて健康で幸福な人生を歩むことができます。
けれども、自ら行いを悔い改めようとしなければ、負のカルマも罪穢れも蓄積していくだけです。

私は仙台在住ですが、東北では2週間近く危険水域の猛暑が続いています。
近所の川も干上がり始め、渇水の心配もあり、このままでは田畑に水を供給できず農産物の不作も懸念されます。
人類は宇宙にフロンティアを求めて火星に移住しようとしていますが、それ以前に日照りで水不足に陥る状況すらまともに手を打つことができません。

私は今、自分だけでなく日本人全体に「カルマの解消」が迫られており、この夏の猛暑もその一環のような気がしています。
それどころか、2020年ごろから日本には良くないことしか起こっていません。
パンデミックや情報社会特有の混乱、社会制度の悪用、外国人移民によるトラブル、能登半島沖地震、インフレに伴う物価高、人工的な米不足。

災害は置いておいて、社会の混乱は日本人が自分たちで何とかできた範疇の事柄です。
政治に関しては我関せずかマスコミの言う通りに投票して今の状況にあり、社会全体のモラルの低下も日本人がまともな思想を持たずにやってきたからです。
一人一人が自分に芯を持って物事を判断して行動していれば、このような状況は回避できたはずです。

自然環境に関しては、「天気」というくらいですから神様のご気分次第です。
それでも、減反を放置して米を食べてこなかった日本人が、今になって米が高くて食べ難くなり、この日照りで稲が不作となればいよいよ「天罰」の気配すら出てきました。
日本人はこれまで食べ物を大量に作ってそのまま捨てるような飽食の時代が長く続いてきたので、食後のデザートはおろか日に日におかずが一品ずつ少なくなっていく生活に直面しているのは、何の因果でしょうか。

これはどう考えても巡りのようにしか思えず、私たちはこれまでの生活で蓄積してきた「負のカルマ」を返済していくフェーズに入っているのかもしれません。
先日の記事で書いたように、因果応報による不幸や災難は、宇宙法則なので神々の守護を貫通するのです。
そして、おそらく負のカルマは善のカルマ、即ち善業を積んだことによる福徳によって相殺される性質ではない気がします。

例えば、某有名アイドル始め芸能人がスキャンダルで引退することが相次いでいますが、「あんなに色々な人を楽しませたのだから無罪放免にすべきだ」と言う人はあまりいません。
実際、過去に色々やっていた人は社会的信用を失くすことで報いを受ける結果になりました。
過去に良い行いをしたからと言って悪い行いが無くなるわけではなく、やはり「悪いことは悪い」のは人治の世界でも変わりません。

「良い行い」をして人々から得た対価によって富や幸福を手に入れることと、「悪い行い」をして人を陥れて得をした罪は、全く違う性質の事柄です。
だからこそ、「負のカルマ」は負のカルマとしての返済を求められるのだと思います。
それは結果的に自分の善業すら汚してしまうものになり、実際に問題を起こした有名人に対して「ファンだった」とすら言えない空気になってしまいました。

おそらく、カルマの解消は神々から求められる時、応じた瞬間に発動するものなのだと思います。
「応じる」というのは、霊的次元の話であり現世における人格的反応を必ずしも意味しません。
借金の借用書を出された時に、お金を借りたのは自分なのだからと、大人しく有り金を差し出すか物品の差押えを選ぶかは本人次第です。
借金の取り立てから逃げ続けることもできますし、借金のアテを他の金融業者に頼ることもできますし、「金なんて借りてない」と開き直って暴れ回ることもできます。

ゆえに、借入の返済は素直に借金を返す良心のある人から先に始まります。
おそらく、それは霊的な次元における「カルマの返済」に関しても同様であり、悪人ほどカルマの返済時に起こる不幸は後回しになっていくはずです。
しかし、後回しにしている間も借金をし続けているようなものなので、神々からすれば利子がついていくことでしょう。

それは「罪を償おうとしない」という負のカルマに繋がっていくからです。
従って、カルマの解消が遅ければ遅いほど降りかかる不幸は大きくなり、破産した時の悲惨さも目を当てられなくなるでしょう。
私のカルマの返済状況を見てもかなり酷いものだと思うのですが、私自身全く善良に生きてきたとは言えないまでも、私以上に酷い行いをしてきた人々はザラにいます。
下手すると、地獄に堕ちるだけでも足りないような状況に陥る人だっているはずです。

こういう話をすると、ニーチェが「ツァラトゥストラ」に語らせた弱者のルサンチマンみたいに見えますし、「言っても実際そうはならないでしょ」という感じになるのもわかります。
これまでは人治の世界だったので、被害者の告発も問題の提起も誰かに金を握らせれば封じ込めましたし、当事者を全員この世から消してしまえば最悪なかったことにできたのです。

しかし、それは「今までの時代は」の話です。

おそらく、2020年以降この国にカルマの精算が迫られているからには、もはや神々に対して言い逃れが許されない状況が始まっているのだと思います。
「因果応報」が規則通りに発動する世界線になったからこそ、「絶対的権威」とされていたものが容易に脱落していく世となってきました。
その厳格さは、これまでの時代にはなかったことです。

「日月神示」では、国常立神が高天原を再び支配することによって未来永劫の「弥栄の世(ミロクの世=神世)」が始まるとされます。
それまでの三千年は「闇の時代」であり、神の道への岩戸が閉ざされたことによって訪れたと言われます。
そして、「天照大御神の岩戸隠れ」の時、騙そうとした神々が騙された神を引っ張り出したことで、その一つは起こったと語られます。

もし高天原の最高神が大日月大神たる国常立神に代替わりし、或いは地球を支配する神格が変わるならば、この世のルールが厳格な形に変わっても不思議ではありません。
そして神示の中で日月神が語るように、「大峠」は魂や霊界を中心として起こるものであり、そのキーワードが「改心=祓い清め」であると言います。
ゆえに大峠というのは、人類の歴史上最大の「負のカルマの精算」であり、それを乗り越えて借金ゼロにして始まる世界が「弥栄の世」なのではないでしょうか。

借金の取り立てに訪れる怖い人は、実際に悪いかどうかはともかく「金を貸した事実」があるから借入主に返済を迫るのです。
借金取りに来るような人は強面ですし、怖いので不幸にも感じるかもしれず、それは現実には「禍事」のように見えるでしょう。
禍事が起きれば呪われているとか、どうしてこんな不幸が起こるのかと嘆きたくなるはずです。

しかし「禍事」というのは、悪いことが世に起こることで世を正常に戻す働きがあるのです。
「禍」という漢字は、古代の中国で骨を焼いて吉凶を占ったことに由来します。
それに日本人が「マガ」と当てたのは、どうやら「関節は曲がる」からだそうです。
つまり、日本人からすれば禍事は「物事が曲がること」、即ち自然に上手くいっていた流れが歪み、上手く行かなくなることが「災い」として考えられたのだと思います。

イメージの話をすると「真っ直ぐに伸ばした関節は曲がることもあり、曲がったら自分の力で真っ直ぐに伸ばせる」のです。
物事が曲がることで悪い出来事が降りかかるならば、「曲がったことを知らせる」のが禍事であり、物事が捻じ曲がっていることを象徴するのが「悪」の役割です。
だから、私たちの目の前に起こる不幸、「禍事」は祓い清めのきっかけのために起こるものであり、罪穢れの危険値を知らせるものなのです。

だからこそ、自らに悪事が起きれば犯人探しや責任の追求をして終わらせるものではなく、人々が本当にしなければならないのは自己の反省と実践です。
自分たちが知らずのうちに積み上げた罪穢れゆえに自らに降りかかる災いや禍事だからこそ、その罪と向き合って償っていくことが求められます。
それは「全く自分には関係がない」と感じるかもしれませんが、罪の形が違うだけで災いが降りかかる以上、やはり何がしかの因果はあるのです。

この「カルマの解消」の時、口だけや気持ちだけで罪と向き合っても意味はありません。
思考と言葉と行動、つまり身口意が一緒になっているからこそ、実際に身の回りの後片付けが進みます。
それは心を正しく持ち、自分の行いを受けきるくらいの気持ちでなければ難しいでしょう。
おそらく、大切なのは「もう悪いことはしません」という禁則を立てることではなく、「自ら繰り返さない状況にすること」です。
即ち環境を変えるために動くことが償いであり、罪滅ぼしであり実践となるのです。

おそらく、この日本に降りかかる「禍事」は、これから無神論者でも「なんかあるんじゃないか」と思うレベルまで現象化していくはずです。
そして全人類が「神は存在する」と思うところまで行かなくても、大抵の人が今までのやり方に懲り懲りする程度には反省させられそうな気がします。
そこで日本人を始め世界中の人々が懺悔をしきれば、状況を悪くするような物事が見直される以上、それからは明るい世となっていくはずです。

私はこの数ヶ月、特に夏至以降は特に「非日常感」があって、何となく現実感が薄いというか、日々の冗談のような悪いニュースに共感する気持ちも以前とは違います。
何となく神秘の世界に入っているような、そんな不思議な感覚です。

これが新しい世界に差し掛かるからこそ起こっていることだとしたら、やはり「大峠」は始まっており、神世は近いのだと思います。
ただ、それまでの辛抱がどれくらいか、いつまで続くかは誰にもわかりません。

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「神」について

楽太郎です。

本ブログは、もともとスピリチュアルなテーマを扱う目的で開設しました。
私の本業は絵描きですし、言説とはあまり相性の良くない職種であるため、完全に身元を隠してやっていくつもりでした。

しかし去年の年末にインスピレーションを受け、「瀬織津姫命」のイラストを描いてブログに投稿したのをきっかけに、少なくとも本業に関しては明かさなくてはいけなくなりました。
絵描きというのは世間的には花形の職業ですから、本ブログでも長文の記事よりイラストや漫画を掲載した方が上手くいくでしょうし、実際その方が更新を楽しみにされる方も増えると思います。

私も実はそうしたいのも山々で、絵を優先できれば自ずと生活は充実していくはずです。
しかし、私自身は神様のお導きを受けているという自覚はあるので、その優先順位に従えば「絵や漫画は最後尾」になってしまいます。
だから私も正直、苦虫を噛み潰す気分で一つ一つの行動を決めているのですが、自分の創作を最優先にしたい気持ちとお導きの内容との食い違いには、葛藤すら覚えます。

私が優先的にしなければいけないのは、このブログを利用した啓蒙活動と霊的な修行のようです。
本ブログはバズるとか話題になるという枠組みを目的にしておらず、縁ある少人数の方々にインスピレーションを配れたらいいなと思ってやっています。
その縁ある人というのは、おそらく神々が引き寄せた人たちで、そこで起こる気づきに何らかの霊的な意味があるのだと思います。

今は肌感覚でも霊感的にも、世界は重要な局面にあると感じていて、神のお導きを受けるタイプの人というのは時期的に、何らかの霊的なミッションに重点が置かれているのではないでしょうか。
夏至で「精神界」という地球意識の気場が完成し、その稼働が始まっていく中でやはり妨害も苛烈になっていますし、その一つの手段として混乱を誘発するような仕手も激しくなっています。

ライトワーカーにはそのお役目も与えられている時期であり、尚且つ地球の次元上昇に貢献する人たちなので、自分自身の霊的な浄化と成長も同時に促されているように感じます。
だから思うように身動きが取れない時期なのは、霊的なシークエンスが優先されているからで、「今はそういう時期だ」と考えるしかありません。
冷静に考えて、人類と地球の命運を左右する時期にイラストだ漫画だと頭を回す時間は、確かに優先順位は低くなるかもしれません。

私も「お前は何をやっているんだ」と思われているのは、重々承知しているのです。

けれど、この世界は人間が思うよりずっとシンボリックな世界で、言ってみれば「呪術的」なのです。
天界や霊界が地上世界と連動するためには、この世で「現象」というシンボルが動くことによって意味づけが行われ、そのロジックが上の次元に反映していきます。
反対に、天界や霊界から物事が地上に降りる時には、神々に意味づけされたシンボルが地上世界に現象を起こすことで、地上に高次元の意志が反映されます。

つまり、上位世界と地上を繋げるには「儀式」が必要で、それは実際に神棚を拝むとかペンタクルを描くとかいうことだけでなく、霊的に意味づけされた手順を現象化することを意味しています。
その「意味づけ」を与えるのは人間より上位の世界に住まう存在であり、そのロジックは人智を超えているため普通の人間の感性では理解が及ばないでしょう。
ゆえに、側から見ても自分自身からでも、「何をやっているんだ?」という感覚を覚えるのは自然なことで、けれども霊的なトリガーを引かなければ天界の意志は地上に降りてこないので、不思議なことをさせられている気分になるのです。

正直言って、人間として常識人であればあるほど、このナンセンス感に疑義を覚え、耐えられない人もいるでしょう。
そうした「常識人」は人間社会の枠組みに適応しきった人が多いので、その分目に見えるものに思考を委ねる傾向があるように思えます。
それを乗り越えて「目に見えない力」を感じて動くには、やはり常識を捨てなければならない部分もあります。

ここで言う「常識」とは、唯物論を中心とした科学と社会経済の枠組みの思考であり、それがあるから宗教も神秘も胡散臭く見られる原因を作り出してきたと言っても過言ではありません。

現代は、人類史上かつてないほどの「無神論」の時代です。
例えば、昔は河川が氾濫すればどうしようもない災害となったので、祠や神社を建てて神様にお祈りをしていました。
しかし治水技術が発達し、土木工事が機械で行われ完璧な護岸工事がなされることで、神仏に願わずとも人間の力でどうにかできるようになりました。

そうすると、訳の分からないところに立っている古いお社は、土地の無駄だし取り去ってしまおう、となるわけです。
そうして人々の記憶から祭祀の意義は消え去り、意識から神々への祈りは薄れていきました。
受験も恋愛も叶いにくいので神様にお祈りはしますが、スマートデバイスやお金やルックスがあれば人間社会で叶わない願いは殆どありません。

人間が人間に頼れば全ての願望が叶う世の中になったから神は不用となり、目に見えない存在が嘲笑われる世となったのです。
しかし、人間が用を足せれば神の手が必要なくなっただけで、神々の存在が消えるわけではありません。

「神はいない」と人々は思います。

現に神仏にいくら願掛けをしても叶わないこともあり、いくら善良に生きていても悪魔のような連中に踏み躙られて終わっているではないか、と。
確かにそれは一理ありますし、私もかつてはそう思っていました。
しかし、神とは「人間」ではないので、人の世の価値観や論理をそのまま高次元の存在に当てはめて考えるべきではありません。
神というのは、人間ではないから神なのであり、人間の期待や幻想を叶えるために存在するわけではないのです。

神は、霊能力がある人でも知覚するのは難しいと言われます。
人間が幽界にいる不浄霊や霊界からの存在を感じ取れるのは、地上にある程度近く低い次元に現れるからです。
神々はそれよりも高い次元にある存在なので、人間からしてみればより抽象度が高くなります。

つまり、地上世界と神々との間の次元的な隔たりが大きく、神の波長が高すぎるがゆえに世に現れにくいと言えます。
では、神々がもっと姿を現せば人間は信仰心を持ち神々の言うことを聞くのに、なぜそうなさらないのでしょうか。
私が思うに、神々は人間と隔たる状況をわざと作り出し、あえてそうしているのだと思います。

「神が存在しない」かのように見えれば、神の存在について人々は疑心暗鬼になります。
誰もが確信を持てなくなるのを利用して、逆に神が存在するかしないか判断できない微妙な立場に、むしろ人間を置いているのです。
その環境に置かれた人間は、自分の経験と思考を元に神が存在するかしないか判断しますが、神々はむしろそれをご覧になられているのでしょう。

つまり、それが神々の基本的なスタンスです。
そうして心から神を信じるか、目に見えるものよりも目に見えないものを大切にする心があるのか、人間を試されるのです。
そして、それでもあえて神を信じる者を選り分け、深い信心を持つ者には神の恵みを与えます。

そうするのは、人間という存在が「目に見える世界」への執着から離れ、「目に見えない存在を信じる」というプロセスに至ることが魂の成長であるからです。
つまり、「信仰心を持つ」こと自体が人間として一段上のステージに上がることを意味するのです。
それが人間がこの地上に生まれてくる一つの目的であり、それを身を持って知ることが魂の成長になるのだと思います。

この一連のプロセスは、普通の人間には高度すぎて大抵は理解できません。
そんなことより、新しいゲームを買って遊んでいた方が楽しいですし、お金を稼ぐために頭を巡らせた方が実際に得です。
しかし、なぜ人間がこの世に生まれてきたかと言えば、理不尽なことだらけの地上世界で「人間」としての体験を積み重ねることで「人生」を知るためです。

この世には不遇にも早逝する人もあれば、何の苦労もなく一生遊び倒して死んでいく人もいます。
人間心からすれば不公平に見えますし、不公平であるがゆえに「神も仏もない」と感じます。
それでも、それぞれが一つの人生にテーマがあり、その課題を履修して命を終え、魂はまた次の学びへ向かっていきます。
その本当の意義は、普通の人間から見てわかるものではありません。

これが「輪廻転生」と言われるものです。

そして人生というのは、同じことを繰り返してもあまり長く続きません。
いくら遊び倒していても、怠惰な生活を送っていても時代的にいつか終わりは来ます。
今は社会的に成功していても、いつ転落するかわからず市場も経済も様変わりしていきます。
まだ若いと思っていても、いずれ歳を取り「ああはなりたくないな」と思っていた老いに一歩ずつ近づいていきます。

人間は自分が思う以上に儚く、一生なんてあっという間に終わります。
自分の肉体は永遠に維持したいと思いますが、身体はすぐに衰え傷つき病むもので、基本的に使い捨てられる運命にあります。
その宿命を人間は受け入れがたいがために何とかしようと努力しますが、宇宙の摂理には抗えません。

人間にしろ電化製品にしろ、新しいものは何でも新しいうちは良いのです。
しかし、経年劣化するのは宇宙の法則で、古くなれば壊れて使えなくなっていきます。
ただ、古くなっても変わらない部分があるとしたら、それが本質というものです。
そして、時間と共に味わいが出て、古くても良いのが「本物」です。

現代人はなかなかこの論理に気づかず、納得できないのです。
常に新しいモノ、新しい刺激を求めてそれに時間も興味も使っているからこそ、「不変」というものに気がつきません。
そして「普遍であり不変」であるのが神であるからこそ、儚く移りゆく人間の心には理解が及ばない存在に見えてしまいます。

今の人々は、科学技術とお金があれば何でも願いが叶うと思っています。
しかし、水田に水が張れなくなるほどの今夏の日照りについて、人類としてなす術があるのでしょうか。
そもそも、降雨も山からの湧水も人間の手が一つも及ばないものを、人間は当然の如く享受していながら、自分たちの思うようにはできないという限界に気づいていません。

中国のように日本も降雨ロケットを飛ばして、この夏の日照りを解消するべきなのでしょうか。
こういう時に昔の日本人なら、雨乞いの儀式をして神々にお祈りしてきました。
それで実際に救われてきたからこそ、何万年も「信仰」という文化は絶えなかったのです。

何が変わるべきで、何が変わるべきではないのか。
何を変えるべきで、何を変えてはならないのか。

その答えの先に、神様はいます。

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「悪霊」の正体

楽太郎です。

ここ数日、家庭が少し荒れていました。
父はわりと我良しでマイペースな性格なのですが、ここ数日はまるで人が変わったかのように怒りっぽくなり、同居している母にも当たり散らすようになっていました。

私も特によくわからないことをしながら実家にいるものですから、父の心象が良くないことも知っているのですが、それにしては機嫌が悪すぎるのです。
あまりにも近寄り難いので理由も聞けずにいたのですが、父の後の風呂に入った時、妙な体臭があることに気づきました。

これまであまり嗅いだことのない匂いというか、魚のような生臭さで、汚い水の中に生息していそうな生き物の匂いがしました。
私はこれを嗅いだ瞬間、「人間のものではない」と気がついて、どうやら父の豹変は憑依によるものではないかと考えるようになりました。

だからこの数日はどうにか人知れず父の除霊を試みていたりしたのですが、ようやく問題はそこにないことに気づきました。
というのも、別に父の機嫌が悪いくらいでは慣れたはずなのですが、今回に限っては父と自宅にいる間は首肩が異様に凝るし頭も痛くなってきます。
つまり霊障が激しくなるので、どうも父を中心として邪気が降りかかってきているのです。
だから何とか父を祓えないか色々やってみたのですが、どうやらこの霊障は「巡り」つまりカルマ、因果応報であることがわかりました。

私の話をすると、思春期の頃に父との関係は最悪でした。
当時は反抗期でしたし、私も少しはグレていた部分もあったので父に対する風当たりは相当強かったと思います。
子供ながらにテコでも動かない父の鈍感さには腐心していましたし、全く心が通い合わない親子関係だったので、正直言うと父のことを「呪って」いたのだと思います。

私も母も潜在的に霊能力があるので、そういう人間が人を恨むと呪力も強くなります。
父は根っからカラッとした性格の人なので、ネチネチ腹を立てることはあまりしないはずですし、この種の憑依が起きたのも私たち母子と長年暮らしているうちに憑依体質に変化したのだろうと思います。
父に取り憑いているのは「蛇(オロチ)」の邪霊で、生臭い体臭も爬虫類系の霊による性質だと考えれば辻褄が合います。

それが私が父にかけた呪いとどう関係があるかと言うと、この「蛇」というのは私から発せられた呪いそのものであるということです。
つまり、私が過去に父にかけた呪いが憑依という形で「巡り」となり、私に降りかかってきたのです。

どうもカルマや因果応報としての「巡り」というのは、宇宙法則なので神にも捻じ曲げられません。
いくら神仏を慕い加護を受けていると言えど、宇宙法則が優先されるので言ってみれば「カルマはいかなる守護も貫通する」のだと思います。
だから、最近の霊障が何となく祝詞やお経が通じないのも、自分の放った邪気が自分に戻って来ているだけだとしたら、加護をすり抜けるのも理解できるのです。

私は確かに昔からロクなことをしてこなかったのは認めているので、何が返ってきてもおかしくないな、と思います。
それはとても反省してますし、だから父に与えた呪いが今の自分に返ってくるのもしょうがないと思うしかありません。
おそらく、しばらく経てば父も元に戻るでしょうし、親子関係も自然になると思います。
だから心配はしていないのですが、それまで自分の発した呪いを甘んじて受け続けなければならないという期間を過ごすことになりそうです。

霊的な解説をすると、この「蛇」というのは実在のヘビとは実際に繋がりはないと思います。
生き物としてのヘビは確かに霊性が高いのは事実なのでしょうが、ヘビそのものに悪霊の性質がある訳ではありません。
それで言ったら悪霊の化身とされる「狸」や「狐」も実際に悪い動物になってしまいますが、全くそんなことはないのでイメージが実在の生物に当てられているだけでしょう。

ただし、「蛇的な性格」の死霊がどんどん動物性を増していけば、実際の蛇の霊も取り込んで半妖となっていく場合もあるかも知れません。
大抵の「動物霊」と呼ばれるのは元は人間で、動物的性質と深く感応すれば動物に限りなく近づくこともあるのではないでしょうか。

私がよく引用する「日月神示」にも、邪気邪霊の類として「蛇(オロチ)」「金毛(※狐のこと)」「邪気」と三つの分類が示されています。
以下に写真を示しますが、私が愛用するルノルマンカードには「」「」「」のカードがあり、それぞれが日月神示の三分類に対応しています。
ルノルマンで私が占う時にはこれらのカードが危険を知らせるので、身を守る役に立っています。




体感的に邪霊の特性で言うと、「蛇」は憎悪と執着です。
かなり粘着した強めの邪気なので、身体的な攻撃性は高いです。主に腹に留まって長期間悪さをします。かなり感情的な念が強くあまり理屈が通じません。
より本能に近い悪感情を元にしているので、人間的な心を持っておらず、その辺が実に爬虫類的です。
これが「お金」や「名誉」に対する執着と出たら、俗に言う「レプティリアン」みたいな人格になるかもしれません。

「金毛(狐)」は、嫉妬心が強く野心的で、巧妙な悪意を働かせます。
よく「狐に化かされる」と言いますが、金毛は人を欺き誤解させ、時によっては無関係な者同士を同士討ちさせたりします。
おそらく悪霊自身はそれを見て嘲笑っています。それほど悪質なのですが蛇ほど攻撃性は高くなく、どちらかと言えば享楽的です。
SNSとかで人を釣って楽しんでいる系の人のイメージに近いです。実際、この手の憑依にかかって世を掻き回しているインフルエンサーは多いと思います。
この悪霊は肩首周りから頭部に感じやすいです。後頭架筋あたりを狙ってより内部に入って来ようとします。

ルノルマンの「鼠」に関しては、ほぼ霊体としての実態はないか弱すぎて形を成していないケースが多いのではないでしょうか。私はそのまま「邪気」と読んでいます。
「邪気」とは、陽気陰気とあるように攻撃性が高い負の念です。これは悪霊に限らず残留思念や気場にも現れて、人々の感情を「何か嫌な気持ち」に誘います。
その「嫌な気持ち」に引っ張られて、人間は妙な反応を起こすようになります。
その場所を避けたり、人を嫌って非難したり、虐めたり喧嘩を売ったりしたくなるため、このエネルギーの影響を知らずのうちに受けている人が多い印象です。
「鼠」と出るくらいなので、チーズをちょこちょこ齧るようにエネルギーを少しずつ奪っていきます。
大意は感じないのですが、小さな搾取も重なれば損害になってくるので、やはり対応はしなければなりません。

私にとって邪気は肌で感じることが殆どで、主に身体現象として現れます。
手足の痺れや肩凝り、頭痛や冷や汗などの症状になりやすいので、私はずっと病気持ちなのだと思っていました。
これらの邪気が好き勝手に動き回るには、唯物史観の世はさぞかし居心地が良かっただろうなと思います。

お釈迦様が悟りをお開きになる直前、「第六天魔王」という仏魔が誘惑をして悟りを妨げたと言います。
仏教には「天魔」という概念があり、仏道に試練を与える存在として「魔」が定義されており、世にある邪悪や欲望は悟りの境地に強く立ちはだかるからこそ、より強い信心に至るのだと教えます。

私はこの考えこそ「日月神示」にも示されている「悪」の定義そのものであり、全てが全宇宙を支配する大神の一存であるからこそ悪も必要なものとして存在しており、善一方では成り立たず、それゆえに「善と悪とのあなない(和合)」が必要であると説きます。
私たちは邪気邪霊の類は消し去ろうとしますし、悪もこの世から滅ぼせば平和になると考えます。
しかし、悪は「必要悪」だから宇宙の秩序の一部として存在するのであり、決して憎むべき存在だからこの世の悪を糺す必要があるのではないと思います。

日月神示の中では、「悪が表に出るのが良くないのだ」と言います。
確かに、指定暴力団が芸能界や繁華街などで融通を効かせる分には「龍が如く」の世界だと思えますが、メディア系企業と手を組んで仕掛けるようになってくると、世の中の露悪性は一気に高まるでしょう。
今の日本も世界も、社会の露悪性の高さは皆薄々わかっているのだけれど、そこに資本と権力が集中するから誰もが黙って従わざるを得ない世の中になっているのです。
悪が表でも裏でも、融通を効かせまくっているから問題になるのだと思います。

ちょっと危険な話が続きましたが、そろそろまとめます。
私が思春期の頃に父にかけた呪いは、「蛇」の様相を呈して私に返ってきました。
呪いとはカルマであり、自分が招いた因果応報であるので信仰も加護も素通りします。
それは甘んじて受けるしかなく、ただ自分が反省し懺悔する以外には早く消し去る方法はありません。

こう言った邪気邪霊が私に襲いくるのは、一重に私の心に同じ火種があるからです。
火種も煙も外にあるものだと思いがちですし、実際に外でこれらの現象はよく見られるので自分の中にはないと錯覚します。
ただ火のあるところに煙は立たず、自分の火種と外にある火種が同じ系統のものだからこそ、自分の心にも煙が立ち、火種も煙も外部の延焼を呼びます。

自分の中に蛇や狐や鼠の心があるからこそ、彼らがやって来ます。
従って、その火種を綺麗に消し去れば煙も立たず、心の中にある蛇穴も獣道も塞いでしまえば入って来れません。
これが「自己浄化」であり、神道で言う「祓い清め」であります。

「祓い」とは、「神様に邪気や邪念を取り去って頂く」ものであるとされ、外部的な働きになります。
一方「清め」とは内部的な働きであり、自分で行うものとされます。
身体は自分で洗わなければ綺麗にならないように、自分で心を禊がなければ浄化できないのです。

ゆえに「祓い清め」というのは、神職さんに大麻を振ってもらうだけでは成就しません。
この真の「祓い清め」を、現代では誰もが行おうとせず、自分で自分を清めなくなってしまいました。
一人一人が邪気邪念を祓い清めなくなったことで、その悪感情は伝染して世に蔓延していきました。

おそらく、その一端が今の世に現れているのだと思います。
世に罪穢れが満ち、神々の祓いも願われなければ行われないものであるが故に、自然現象の中での浄化作用では追いつかなくなったのです。
だからこそ、祓いを神様にお願いするだけでなく、自分で自分を清める努力も必要です。

私だけでなく、誰もが自分で自分の汚したものは拭き取り、出したゴミはきちんと片付けなければなりません。
それは面倒くさくて自分が汚したことに後悔もするのですが、それと向き合わなければ負のカルマという借金をチャラにはできません。
貯金は借金を残したまま蓄えることができないように、おそらくカルマも幸運もそういうものなのだと思います。

悪いカルマを返済し終えた暁には、きちんと良いカルマが蓄積される仕組みなのだと思います。
それがわかる以上は、涙を流してでもコツコツ返していくしかありません。

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新しい行動原理

楽太郎です。

以前、「アセンションと霊界再編」という記事で、概念図を元に地球の次元上昇の意味について解説しました。
その中で、なぜ地球が次元上昇するかという目的に関しては触れていませんでした。

おそらく、これまでの地球における人類の魂の学びの過程で、物質文明における功罪があまりに露骨に現れたのは「環境破壊」という側面です。
人類には既に水爆や放射能兵器、遺伝子改変技術や人工ウイルス、近年では人工知能なども脅威となりつつあります。
しかし、昨今の高度技術に反比例する人類のモラルハザードは、COVID19のパンデミックを見てもわかるように「誰も大惨事に対する責任を追求されない」事態も引き起こしています。

私が思うに、人類を破滅する脅威を抑制するほどの人治の能力があまりに不足しており、モラルハザードはそのまま人類滅亡に繋がる恐れすら生じています。
もちろん、地球に存在するのは人類だけではないので、文明が崩壊した後の地球の汚染に関する問題もあり、他の生態系に対する影響も計り知れません。

そこで、物質文明に対する「進化のカリキュラム」を終えると同時に、宇宙的均衡を取り戻すために人類の霊的覚醒と神々の再支配が始まろうとしているのだと思います。
これまで人治の世界が続き、自然の摂理すら捻じ曲げられてきたのは、一重に人間よりも上位の存在が人間の行いを黙認してきたからです。
この状況はおそらく3000年以上続いてきたのでしょうが、この歴史はまさに侵略と征服と戦争の繰り返しそのものでした。

しかし、その歴史のプロセスを終了するならば、人類を支配する権限が神々に再委譲されなくてはなりません。
これまで、その支配権は主に人間側の権威と、「神に仇なす者たち」の手中にありました。
その主導権を取り戻すと同時に、神々が人類の霊性を引き上げ、低次元に神性を送り込む方法の一環として「地球の霊的レベルを上昇させる」という手段に至ったのだと思います。

そして地球の霊性を上げる大事業の一部として、これまで人間が自分たちで霊界の最下層に作り上げてきた「幽界」という霊的気場があり、その階層を取り払って地球霊が新たに気場を作り出す作業を始めました。
それが私の言う「精神界」であり、6月の夏至でほぼ完成に至ったと見ています。
この精神界こそ次元上昇した地球霊魂の作り出す霊的気場であり、「地球意識」という新たな集合意識に繋がる高い波長域なのです。

前回の記事で、「いずれ集合意識の気場は崩壊し、人々は精神界の気場を使い始めるようになるのではないか」と述べましたが、これに関して補足があります。

まるで今生きている人々の集合意識が壊れ、誰もが右往左往する中で「精神界」にだけ救いがあるように受け取られかねません。
人間誰もが集合意識にアクセスするにしても、行動原理において精神的エネルギーを抽出する気場として集合意識は存在します。
ただし、人間個人の行動原理が100%「集合意識からのエネルギー」であることは殆どなく、肉体的な活力や魂からのエネルギーも使って人々は生活します。

集合意識とは言わば、社会的なエネルギーを交流させる場であり、「共同幻想」と言い表せるものです。
例えば、男なら一生のうちにマイホームを持つとか、三十路前には結婚して幸せなゴールをするとか、特に何の根拠はないけどその実現のために人々が死力を尽くそうとするような、強烈な動機を持つ社会通念です。

これはわりと侮りがたいエネルギーで、幼少期には貧乏で虐げられたけど、社会的に成り上がり業界に君臨するほどにまでなった人もいるくらいです。
良くない出方をするならば、鬱屈とした雰囲気から生まれる社会的リンチや迫害、社会に対する憤怒の捌け口としての戦争や差別など、人間の集合意識は目に見える社会現象となることもあります。

今回の解説では、次元上昇後に起こる集合意識の崩壊と、精神界のアプローチがどのようにして起こるかを扱います。
始めに、人間が精神的なエネルギーを肉体に反映させて具現化する時、二つの方法があります。

①集合意識からの動機づけ
②自己の魂からの動機づけ

①の集合意識は先ほど述べたように、社会通念として言説化され可視的な条件による動機づけとなるパターンが殆どです。
他に無意識のレベルから起こる共同幻想も存在しますが、これらの集合意識はそれ自体として客観視されることはあまりないため、ほぼ暗黙の領域で起きていると考えて良いと思います。

②の自分の魂を由来とする動機づけは、今回のテーマでもあります。
人間は村社会を形成する以前は、だいたい自分自身の肉体的欲求を活力にして来ました。
そのエネルギーも、精神面では己の「魂」を通じて生命力として獲得しながら、人類の祖先は過酷な自然を生き抜いて来たのです。

今でも、大して考えずに肉体的な欲求から溌剌と活動する人もいますし、社会性はあまりなくても自由闊達にのびのびと生きている人もいます。
近現代の人々は集団的な制度の中で生きるからこそ、「共同幻想」という動機を手に入れ行動するメリットがありますが、集団に属さなければ自分の中に動機を見出して十分生きられる存在です。

しかし、この共同幻想を主体として行動しなければならなかった理由は、一重に「共同幻想を共有しない人間は集団に適応できない」からです。
それゆえ、欲しくもないブランドのバッグを買ったり、行きたくもない高偏差値の学校を受験しなければならない立場に置かれる人もいたでしょう。

さて、ここまで説明した上で図解します。



霊的具現化の構図」と題をつけましたが、平たく言えば「人間がどこから気力を持ってくるか」という話です。
先に述べたように、共同幻想を擁する集合意識は、理想や欲望を共有しながら同時に「同調圧力」も内包します。
希望だけでなく、不安や義務なども伴って共同幻想は支配力を持ち、人々の選択を左右します。
この一連の働きを「外部的喚起」と称します。

それに対して、上の②でも述べた「魂からのエネルギー」は、肉体的レベルだけでなく精神的、霊的な次元からの動機づけを伴います。
個人を主体とした独立したエネルギーの供給システムを、「内在的喚起」と呼称することにします。

人間一個人が、なぜ精神的なエネルギーを自給できるかと言うと、「魂」が物質界とは別の次元と繋がっているからです。
自分の意識として知覚できる自我を「小我」とするなら、スピリチュアル的に「ハイヤーセルフ」とか「ガイド」とされる超自我は、「大我」という大枠の自我の中にありますが、それらは一言で言えば「魂を取り巻く霊団」です。

私たち個人の霊魂というのは、実は一つで独立して存在するというより、あらゆる相が寄り集まって機能していると言えます。
人は一般的に生活する中でも、他人の思念や生き霊、相手の守護霊や土地の霊と無意識に交信をしながら、様々な現象に出会い思いを巡らせます。
目に見える世界だけで説明すれば、「なんかついてない」と思うことや、奇妙な巡り合わせなどが偶然に起こるように思えますが、それらは目に見えない次元での干渉もあるのです。

この「大我」を巡る霊体の種類に関して、これだけの例が挙げられます。

  • 仲間内の生き霊
  • 過去世の因縁霊
  • 血族の先祖霊
  • 民族としての遠津祖霊
  • 霊団で立場のある守護霊
  • 最も高次元にいる守護神

これらが「大我」という枠組みの中にあって、個人は様々な念や導きを無意識に受け取ります。
しかし、霊的なアプローチというのはかなり大雑把なもので、ある時には小我の行動が先立つこともあったり、大きなシナリオでは大我が支配的だったりもします。

そしてこの大我の中心にいる「魂」とは、全宇宙の霊魂の母体となる「大神」から与えられた「分御霊(わけみたま)であり、言わば神の一柱でもあるのです。
現代人が「私は神だ」と言えば完全にギャグになってしまいますが、それは「神などそこら辺にいる訳がない」という常識があるからです。
しかし、人間それぞれが一柱の「神」なのだとしたら、全く条件は変わります。

私たち一般市民は、ただ働いて消費して年を重ねて老人ホームで死んでいくような、設計された生き物であるかのように思い込まされているだけです。
もし目覚めれば誰しもが現人神になれるような器でありながら、「そんなはずはない」と思い、思い込まされているから「神である」という認識に至れないのです。

だからと言って、全ての人が特殊な神通力を使えるようになる訳ではないでしょうし、神としての自覚が芽生えても変わるのは心境に過ぎないかもしれません。
しかし神だという自覚は、適当な権威や流行に振り回され、理不尽な環境に依存して人生を浪費してしまうような生き方を改めて、自己を尊重し無碍にしないことへの信念となり得るものです。

そして大神から別れた分霊である以上、神性のエネルギーも魂の根源から湧き上がってきます。
あらゆる業界にいる「天才」と呼ばれる人々、どう考えても天から遣わされたとしか思えない奉仕精神に満ち溢れた人は、この神性を発露していると言っても過言ではありません。
彼らがある意味オリジリティを発揮しているように見えるのは、自身の魂から引き出した独自の神性を使っているからです。
つまり、自らの神性に繋がることが「才能」の発露であるとも言えます

これまでは、①集合意識からのエネルギー、②魂からのエネルギーの二種類で動機づけをほぼ賄ってきた人類ですが、次元上昇した世界では「③地球意識からのエネルギー」が加わります。

①と②のエネルギーは、自らの利益のために自由に使うことができ、使い方によっては我田引水のような、「我良し」の環境を作り出すことにも使われていました。
しかし、新たな地球意識の気場である「精神界」が開かれたことで、新たな周波数のエネルギーを地上に降ろすことができるようになりました。

これが地球の次元上昇によって構築されたものである以上、この高い波長域は「相互精神」に基づく性質があります。
つまり、「人のため」「地球のため」と奉仕や愛情に深い動機をもつ時、この気場からエネルギーの供給を受けることができるのです。
これまでの「我良し」という思惑ではアクセスできない気場であり、それゆえ条件づけられた人にしか開かれないと言えます。

その条件は、深いレベルからの「自己浄化」と密接な関係があります。
そもそも、全ての優先順位において自分が最上位に立つような人は、地球意識を持ち合わせるのが難しいと思います。
それ以上に目に見えない世界を信じ、自分より上に霊的存在や神々を置いて敬い、その導きに謙虚になろうとする者でなければ浄化も覚醒も進みません。

従って、この新しい霊的気場を使えるか使えないかは完全に「本人次第」であり、それには覚醒に至るまでの精神的な修行も必要なのです。
確かに、春分点や5月の満月でどうやら「人々の線引き」が行われたのは間違いなさそうなのですが、「地球意識」という概念を知った時点で、すでに地球意識にアクセスできるタイムラインにいるのかもしれません。

「なんか面倒くさそうだから別にいい」と大抵の人は思われるでしょう。
しかし前回の解説で述べたように、今後はこれまでの拝金主義、物質主義を中心とした「共同幻想」は崩壊していくと思います。

人間の集合意識全般が、というよりは古い共同幻想が解体されていくはずです。
なぜなら、これまでの文明を形成してきた資本主義という金融システムが、これから轟沈していくからです。
目に見える形では、アメリカを中心とした西側陣営の混乱と崩壊、社会主義帝国連合の瓦解という形で現れてくると思います。

それほど動乱の世となれば、これまでの成功法則をなぞる人生に意味は成さなくなります。
そう言った成功のフォーマットが失われた社会では、個人の幸福や目的に人々はフォーカスするようになるはずです。
これまでの時代の闇が浮き彫りになり、人々に教訓と後悔を突きつける時、誰もが新しい目的意識を探し求め、より良い世界を作り出すために相互精神に目覚めていくことでしょう。

そのために開かれた気場が「精神界」です。
私には全てが神々によって計画されながら、決して平坦でも美しくもないこれまでの世界があって、しかしその道を辿ることでしか人類の正しい進化はないのだと、この仕組みを見て改めて考えさせられます。

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神に委ねよ

楽太郎です。

ここ最近、私自身の「感情」について見つめ直す機会が訪れていました。

近所の公園の造成工事が、半年前に完成していてもおかしくないのに未だに敷石の一つもなく、草木一本植え終わっていません。
コンビニの棚には変わり映えしない品ばかり並び、品質も量もどんどん落ちていくのに値段だけが跳ね上がっていきます。
皆が無気力になり言い出すリスクを避け、何も言わず何もしないからこそ、世の中はますます力あるものたちの思惑通りになっています。

そこに関わる個人は良しとしていなくても、組織や社会が決めたことであれば従わざるを得ません。
その当事者を一概に責められないでしょうが、かと言って加担している事実を無関係にすることもできないでしょう。
その組織や社会も、彼らだけでなく私をも巻き込んだ上で、もしかするとどうにもならない流れの中にあるのかもしれません。

こういう光景を毎日見ていると気にしないフリをするのも難しくなり、いい加減に何とかならないのか、と遺憾の意が込み上がってきます。
実際に怒ってはいなくても、積み重なる猜疑心で腹の底では抱えきれない怨念を抱え込んでいるのかもしれません。
どこかで理不尽さを感じている人々も、私自身もこの世界が変わる日を心待ちにし、一刻も早くその時が来て救われることを願っているように思います。

私に降り掛かる霊障に関しても、いつ終わるのかという気持ちはあります。
「いつか」終わるのはわかります。けれど、その「いつ」なのかが重要にも関わらず、出口が見えないゆえに不安や疑念は付きまといます。
いつか状況が変わる日を待ち日々を耐え忍びながら、それでも目に見える光景は何一つ変わらず、人々は依然として変わる兆しを見せません。

そのもどかしさと焦りの中で、私は神様に「早く時代を変えてくれ」と願い続けています。
しかし、もし神々が時代を変えようと事を起こしたとして、それが必ずしも私が望む形の変化であるとは限りません。
例えば、3人に1人くらいが亡くなるような世となれば、確かに時代は変わるし世界も変わるでしょうが、それは決して私が望むような光景ではありません。

だから「世を変えて欲しい」という願いには、ある種の理想、言い方を変えればエゴが潜んでいます。
「変革の夢」には個人的な条件づけがあって、その願いが叶うことを神様に求めているのです。
果たして、そんな一個人の願いを神様は受けられるのでしょうか。

この世界に感じるもどかしさは、私だけが特別に感じているわけではないはずです。
他の大多数がおかしいと思っているし、出来れば変わって欲しいと思っているでしょう。
誰もが自分自身が正しいと信じ、「こうすれば世は良くなる」と考えています。
けれど、その考え方に固執しているうちは、目の前で一向に変わらない物事がもどかしくなり、顔色一つ変えようとしない人々を憎らしくも感じるかもしれません。

そんな私自身に、「我良し」の感情がないと言い切れるでしょうか。

世の中が綺麗に変わることを自分で「善」だと感じても、それが他の当事者にとっては悪夢かもしれません。
同時に、彼らにとっての楽園は私にとっての「地獄」だったりします。
どちらが正しくこの世に相応しいか、で言えば私も彼らも等価の存在です。
神様からすれば、善も悪もその時代ごとに必要な役割を与えているだけで、本来なら優劣も要不要もないはずなのです。

そんな世の中に、私は意固地になって「間違っている」とぶつけ、躍起になって自分の正しさを証明したくなります。
一刻も早く証明して溜飲を下げたいけれど、世が一向に改まろうとしないからもどかしくなり、どうなっているんだ、早くしてくれと焦りの感情が湧き上がってきます。
それは完全に「我欲」であり、欲であるが故に叶わぬ苦しみを覚え、苦しむからますます救いを求めるのです。

では、この苦しみは我欲を捨てれば良いのかと言えば、その前に気をつけるべきことがあります。
世は「諸行無常」であり、結論を言うといずれ時代は変わりますし、世も変わっていくでしょう。
おそらく、私が神様から受けているメッセージの通りに世は移ろい、結果的にそうなっていくはずです。
しかし問題は、「それがいつかわからないから、耐えられそうにない」と感じて不満に思うことにあります。

つまり、我欲があるから「自分の思い通りにならない時間」を耐えるのが苦しいと感じています。
例えその動機が「世を良くしたい」という善意であっても、我意は我意なのです。
ではその我欲を持って願いが叶わないのは不自然なことかと言えば、願望が叶わないのは世界のデフォルトです。
それが個人の手に負えない巨大なことで、特に不特定多数の人が関わる世であれば尚更です。

そういった念では動きようのないものを動かそうとし、それを望むから叶わず、叶わないという不満が邪気になります。
では、一個人の力では到底及ばない物事はどうしたらいいのかと言うと、それこそ超常的な存在に頼るしかありません。
つまり、神に委ねるしかないのです。

ものすごくシンプルな結論なのですが、この答えになかなか辿り着けないのが人間というものです。
人間は自分の思考で目の前のことを何とかしようとして、例え目の前にないことでも思考を巡らせ、何らかの手段を取れば解決できると考えがちです。
そのやり方で、大体のことは対処できてしまうからです。けれども、それゆえに「人間の力ではどうにもならないこと」も、何とかできるに違いないと錯覚してしまうのです。

中国では毎年乾季になると、「降雨ロケット」なるものを飛ばすそうです。
ロケットに積載した特殊な化学薬品の反応により、雲の水分を結合させることで一時的に雨を降らせることができると言います。
しかし中国の異常気象はもはや日常茶飯事であり、気候が荒れるのも元を辿れば、度重なる環境破壊に端を発します。

そこで雨を降らせたいからとロケットで気象操作をしますが、地球規模の自然サイクルの中でのバランスは全く考慮されておらず、その行動によってどんな影響があってもおかしくありません。
けれど、人間は知らなければないものだと思いたがる生き物ですから、降雨ロケットの環境への悪影響について語る人がいようものなら、特に中国であれば尚更存在することは許されないでしょう。

科学技術を万能だと信じるのもそうですが、科学的な理論と実践が成り立てば、全てのものがコントロール可能であると人間は錯覚します。
しかし現実の世界では、どのように「バタフライエフェクト」が発生するかを完全に予測できず、それは人智を超えた領域です。
それゆえ、人間が万物を理解して全てのことを成し遂げられるという考え方は、実は身の丈に合っていません。

ここで「神に委ねる」というのは、一見責任を放棄して何もしないことを推奨するように思えます。
仏教には「他力本願」という言葉があり、「他力」という神仏の力を本命とせよという意味ですが、これには「自力を尽くした上で」という大前提があります。
自分のするべきことはしっかりやるのだけれど、自分の手の届かないそれ以上のことはもはや神様に任せるしかないのです。

何もかも自分の意志でやろうとして、目の前のことを一つ一つ思い通りに動かそうとするから、そうならない時に不満が募ります。
当然、自分の力でコントロールできるものとできないものがあり、どこまでも自分の手が及ぶと思うことこそ思い込みであり、実際はそうならないことの方が多いです。
何かを思う通りに事を成そうとすれば我意が宿り、我欲が起こるゆえに不満も覚えます。

その考えに固執するから苦しみが生まれるのであって、そのループから解放されるためには、あえて思考を手放してみることです。
そして、人間よりも大きな物事はやはり神々の領域であることを知り、神様の行う領域に極力口を挟まないことです。
そうして神を信じきるからこそ、自然な成り行きに任せることができるようになります。

これは頭ではわかっても、感覚で理解するのはなかなか難しいでしょう。
人間は考えを行動に移す時、できる限り思想を忠実に実践しようとします。
神に自らの意思を委ねる時は、心で感じることをただ実地に移すという感覚に近いのです。
それは同じように見えますが、人は頭で考えてやることほど我意を行動に移すことが多く、感覚や心で動く時は余計な思考を伴わないものです。

「自分の意思を神に委ねる」というのは、ものすごく不審に感じられるかもしれません。
ただ思い出していただきたいのは、私たちが子供の頃、社会問題や戦争のニュースを眺めながら、自分の無力さを現実に映し見て不安を覚えていたでしょうか。
両親や大人たちが特別頼りになるわけでなくても、何とかなるような楽観的な気持ちでいたし、それは決して世の中に対して無知だったからではないはずです。

心理学では、人間の不安は9割が取り越し苦労だと言われます。
子供の頃に未来に不安があまりなかったのは、無意識に自分より大きな存在に身を委ねていたからです。
自分が小さくか弱い存在だと知っているからこそ、委ねきるしかないことも無意識に理解していたのです。
しかし、大人になれば何にでも責任を持たなくてはならなくなり、できる限り自分の手で何とかしなければいけなくなります。
そうした自助努力の世界にどっぷり浸かることで、「委ねる」ということができなくなっていくのだと思います。

この世界は右でも左でも権威というものはどうも信じきれず、どこを見回しても胡散臭く、疑心暗鬼に駆られて不安に陥ることもあります。
けれど、それを感じているのは自分一人ではなく、自分よりも地位がある人でさえ心の支えがなく、不安を抱えていたりします。
まして人間が千人や万人より集まったところで、誰が先頭に立とうと変えられるものは僅かでしょう。

だからこそ、人間の手が及ばないことには「神の手」を期待するしかありません。
それは全てを捨て、ひたすら神仏に拝めばいいということではなく、自分のできることをやった上で、自分の手では叶えられないことも潔く認めるのです。
そして、願いが叶うことを神仏に託すこと自体、人間としてできる限界のことだったりします。
それ以上のことを願い、人間の限界以上のことを自分で叶えようとすれば、上手くいかないのは当たり前のことです。

世を変えるための戦いも、戦うことそのものよりも「戦おう」とするから辛くなっていき、挑むから相手から挑まれるのであり、進んで出て行かなくても戦わなければならない時は戦うしかありません。
「世を良くしよう」という真面目さは時に愚直さとなり、愚直がゆえに無謀にもなり得るのです。
それは決して、綺麗事だからと全てを肯定する理由にはなりません。

私は、日々のニュースや日常で起こる目の前のことに嫌気が差し、気が滅入る時もあります。

世にある一つ一つのことにも、「どうしてこうなんだ」と「こうすれば良いのに」と考えるほど、自分以外の人が間違っているように感じてしまいます。
けれど、「世が良くなって欲しい」という綺麗な願いも、自分の手の届かぬところにある我欲だとしたらおそらく完璧には叶わないでしょうし、生きる上では単なる重荷になります。
その荷物があまりに重くて一歩一歩が苦しいと感じるのなら、いっそのこと荷物を神様に預けてみたら良いのです。

私たちは自分の力で何でもできると思いがちで、何でもやらなければならないと考えます。
けれど、人間が自分の頭で考えて実現できることはたかが知れています。
おそらく、自分で抱えても神様に持って頂いても、わりと見える景色は変わらないかもしれません。

人間にとって、これは盲点だったりする部分です。
私たちは真面目であるがゆえに、努力を尽くそうとし頑張りすぎてしまいます。
そして、人間としてできる限界以上のことまでやってしまおうとし、疲れてしまうのは神様から見てもやりきれないかもしれません。

神様に身を委ねきれないことは、神を信じきれないことと同じです。
もし安心できないのであれば、人間としての考えを一度手放してみれば、もう少し神様にお任せすることができるかもしれません。
私たち人間が思うようにできることは、本当にごく一部です。

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神々の帰還

楽太郎です。

先日、「瀬織津姫想像図」という神をも恐れぬ記事を書き、そこで私の印象としての瀬織津姫様を描かせて頂きました。
私が心の中で感じる瀬織津姫様は、神様だから当然なのかもしれませんが、もの凄く真面目な方だなと思いますし、メッセージの鋭さの中にも柔らかさを感じます。
決して私がイラストに描いたような容姿で全てを物語れるわけではなく、思うに神様という存在は人間にとって限りなく「概念」に近いのです。

神は霊界より上の階層に暮らす高次元存在であるので、人間が霊として認識するレベルよりも遥かに抽象度が高い存在です。
あまりに波長が高いため、人格としての知覚より情報やエネルギーとしての感覚が先立ちます。
神様にも個性や考え方があるように私には見受けられるのですが、おそらく霊的存在は高次元に至るほど抽象度が高くなり、より純粋な概念に近い存在になっていくような気がします。

だから、私の描いた瀬織津姫様が実際にそのお姿である可能性は、どの程度あるかさえ疑わしいと思います。
ただ霊界も神様の世界も人間には量りかねるもので、「妄想する分には自由」ということにしておいて欲しいです。
それでも私の感じる瀬織津姫様の印象と私が実際の女性や架空のキャラクターに重ねてきた異性の理想像は、どうも瀬織津姫様が原型である気がしてなりません。

私はだいぶ幼少期からオタクが入っていたのですが、漫画のキャラクターを追い求めたりアイドルの追っかけをするオタクも、自分の心にある理想的存在への憧れから始まります。
その理想像は、自分自身の深層心理にある「自分の魂の欠けた部分」であり、心理学的に言えば「アニマ・アニムス」と呼ばれるオリジナルです。
私はユング心理学のスピリチュアル性はそれほど評価していないのですが、オタクが「アイドル」を求める傾向と心理的不協和の関連は深いと思っています。

私にとって「瀬織津姫命」という存在がどういう意味を持つのか、その謎はこれから数十年かけて解き明かすことになるのかもしれません。
ただ私の清純な女神を求める心は、私だけにあるものではなく、世には芸能界のアイドルを追っかける中年男性はたくさんいます。
もしかすると、私も彼らも同じプロトタイプの女性像を無意識に追い求めているに過ぎず、その行動の現れ方が違うだけなのかもしれません。

以前の記事で書きましたが、そのアイドルやスターを求める心こそ、人間が失った神性を取り戻したいという欲求であり、もちろん芸能人も人間ですし神聖にはなれないわけですが、人々はどうしても夢を見たがります。
そしてオタクは、それが夢だとわかっていても夢を追い求める存在であり、私たちは時に自嘲気味に「空想と現実の区別がつかない」様を面白がるのです。

オタクという種族は、それゆえ一般大衆から気色悪く見られますが、実際は偽情報やマスコミのデマを間に受けておかしな行動に走る人々ほど「空想と現実の区別がつかない」人が多いです。
オタクは、自分たちがあり得ない幻想を追い求めていることを知っている分、半分目覚めています。
自分が完全に虚構の世界にいることに気づかず、何の疑いもない状態の方が危険なのです。

おそらく、人々は芸能人や成功者だけに「神性」を見て憧れ追い求めるだけでなく、身近にいる人や伴侶、愛するペットや大事にしているモノ、ブランドや「お金」も人間にとっては神の象徴に置き換わるのだと思います。
魂から湧き上がる神性への欲求は、本来なら信仰という形で直接神に向かう以外に、人間は「神っぽい何か」でそれを埋めようとします。
現実的に目に見える「神っぽいもの」で神性に対する欲求をあり合わせることで、魂の渇望は一時的に癒えていきます。

しかし、あくまでそれは神性の代用であって、神的霊性には置き換えられません。
例えば恋人に理想の異性像を見て、神に奉仕するように付き合っても相手は一人の人間であり、理想はいつか壊れます。
神の代用品が人であろうとモノだろうと、形あるものは完全に神になり変わることはできません。
それが何故かと言えば、形あるものはいずれ形を変えていきますが、神は不変であるからです。

この世が諸行無常であり、自分が追い求める行為を繰り返すたびに信仰の象徴は変わりますが、追い求めるイデアはずっと変わりません。
それを気づくまでに人間は長い時間をかけてしまうのですが、人生をかけてこの結論に辿り着けない人もたくさんいます。
むしろ、これまでの世は欲望と消費という市場経済
によって、自分の真の欲求が「神」という存在に向かうことを誤魔化し、その気づきから逸らされ続けていました。

私自身ですら、ことスピリチュアルにのめり込むまでは、単なるオタクとして二次元コンテンツのキャラクターを追い求めてきましたし、そういった関連のコンテンツを作ってきました。
そのことに全く何の違和感も持っていないどころかオタ活も推し活も楽しいもので、むしろやり甲斐すら感じていました。
しかし、奇遇にも「瀬織津姫命」という女神をきちんとお祀りするようになってから、自分の中のフラフラした渇望感は徐々に薄れていきました。

自分が霊的に求めてきたのは「信仰」であり、神との繋がりによって人間社会では得られない霊性を補給し、目に見えない存在の導きによって迷いがなくなることだったのです。
魂のレベルで感じる不足感や不安の解決方法が、まさか「神社に参拝して特定の神様のご神札を拝領してきちんとお祀りする」ことであると、どうすればこの答えに辿り着けるものなのかと未だに思います。
なんか、わざと簡単に答えが出ないような引っ掛け問題を出されて、とてつもなく長い時間をかけてその問題を解かせられてきた、そんな風にも感じるのです。

その答えがなぜこの数年で急に解けるようになってしまったのかわかりませんが、そこに神様の思惑があるならば、正解が出るまでバカでもわかるヒントをギリギリまで出してもらっていたのかもしれません。
だから余計に瀬織津姫様には頭が下がるというか、どうしても神の導きというものを否定することができない立場に置かれてしまったのです。

この出来事と「地球の次元上昇」という時期の関連は不明ですが、何らかの役割が私に与えられているのは間違いないのだろうと思います。
瀬織津姫様が自らを明かした上で私を導き、こうしてご自身の創作をお許しになられていることは、今の時代だからこそなのかもしれません。
神様は、おそらくこれまでの時代では表に出たくても出て来れない状態にあったのだと思います。

私の感覚では、今は神社に行っても神様から積極的に人間の相手をして頂けないように感じます。
おそらく、少しずつ時間をかけて神様たちは人間から距離を取るようになって行ったのだと思います。
日本人は神のご利益と言えば現世利益と考えがちなのですが、その恩恵は神々をきちんとお祀りし、奉仕するから得られたご神恩だったのです。

第二次世界大戦によって焼け野原となった日本は、物不足の世にあって復興に尽力しなければならなくなりました。
その復興を後押ししたのは戦勝国のアメリカだったのですが、モノ作りが盛り上がり物質的に豊かになっていくにつれ、戦争中に神も仏もないことを悟った日本人は、ますます神仏を敬わなくなりました。

そうして始まった戦後教育は自虐史観と左翼思想に染め上げられ、その教育システムによって支えられるアカデミズムと学歴社会によって、日本人の思想は唯物史観に変わっていったのです。
その後の経済発展と国際化によって、日本人の精神文化は完全に後手に回っていきました。
拝金主義が蔓延り、物質的な目に見える幸福の形を追い求めることは、日本人が本来望む性質のものを違う形で供給し続けてきたのです。

そうして荒廃した人々の感受性は、今の社会的混乱に繋がっています。
いくら求めても消費しても満たされないのは、本来求めているものが違うからです。
今の人々には、それが何であるかを知る術はほとんどありません。

しかし、こうして瀬織津姫様を始め前に出て来られる神様が現れたことは、新しい兆しかもしれません。

YouTubeなどでも、神の代弁をする人も増えて来ました。
これはそれぞれが個人的に受けたメッセージを個人的に解釈して個人のやり方で表現しているものなので、誰が真実で誰が間違っているということはなく、それぞれの発信のあり方を神様がお許しになられていることの方が重要です。
もちろん、その啓示を与えているのが神様ではないパターンもあり、注意は必要です。

例えば私が瀬織津姫様からメッセージを受けて知らせても、「瀬織津姫様はそんなことは言わない」という人も中にはいるでしょうし、審神者の能力もそれぞれ違います。
結局は、神様のメッセージを受け取って行動する人間がどんな役割を演ずるのかが本質であって、事実云々ではないと思います。
ある種の啓示を間に受けて、それを現実にどう反映させていくかにスピリチュアリズムの本質があるのです。

今、スピリチュアルな分野だけでなく多くの人に神々は強くアプローチしており、それはおそらくこれまでの歴史になかったことです。
それほど神様が前面に立って動かれる世というのは、明らかに画期的と言わざるを得ません。

地球が次元上昇する件にあって、人類は西洋的物質文明の円熟期にありました。
それと入れ替わるように立場を変えられた神様たちを鑑みれば、やはり時代はこれから根本から変わって行くのでしょう。
それは「神々の帰還」を意味します。

これまで、神々はなりを潜めていたからこそ人間は好き勝手にやれたのです。
しかし神々が何千年か越しに秩序を司る時代になれば、もう少しはマシな世になるかもしれません。

私をそれを「神世」と呼んできましたし、ずっと待ち望んできました。
その世界がいよいよ到来した、そんな感じがします。

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