楽太郎です。
最近、土の時代に作られたコンテンツの波長に合わなくてなってきました。
私もずっとそう言うのに親しんできて、嫌いになる理由も特にありません。
単純に、私が「面白い」と思う感性が世間とズレ始めているのだと思います。
人々は、もっと感覚的にものを見ていますし、小難しく解釈しなくては読み解けないものをあまり好みません。
今の人は、瞬間的に理解できるものを好む傾向にあるので、私の趣味とは合わないのです。
私も作家の端くれですから、そう言ったコンテンツを作れば喜ぶ人も増えるでしょう。
ただ、それをやったとして自分が納得していなければ、お金や人気のために時間を削っているにすぎません。
働くことで「人の役に立つ」のは、いずれ対価を得られれば役に立ったという証明にはなりません。
確かに、需要があったから供給し、それがお金や評価になって可視化されるのもあるでしょう。
しかし、実際「役に立つ」ことは目に見えづらく、それが精神的なことであればあるほど、顧みられないことでもあります。
例えば、私たちが自動販売機で缶ジュースを買っても、ゴミ箱を設置している場所はあまりありません。
売るだけ売るのは良いとしても、あとのゴミまで責任を取るのはリスクが伴うからです。
タピオカミルクティーが流行っていた頃、ゴミ捨て場が街中になさすぎて、空き缶入れにプラスチックカップが刺さっている光景をよく目にしました。
人は何かを買えばゴミが出ますし、ゴミは捨てたくなるのですが、ゴミを処分するのは手間もお金もかかります。
だからといって、捨てられない場所に無理矢理ゴミを捨てていく人たちもいます。
善意でゴミ捨てをやっていても、自分だけが集中的にリスクを負うので、だんだんバカらしくなってくるのもわかります。
「ものを売る」というのは、それだけで何かの役には立ったことにはなるのですが、売った後の方が実は大切です。
食べたら身体を壊すとか、すぐ壊れる詐欺商品だったとか、壊れた後の修理が不可能とか、「売り上げ」だけを尺度にしていたらこの状況は見えません。
実際、「ゴミを捨てさせてくれる」というだけで、私たちはかなり助かります。消費はさせられるわりには、消費で出るゴミにもコストが生じます。
「役に立つ」とは、往々にして目立たないものですが、なぜか数値で可視化できるものだと人々は思いがちです。
だから、私は売れる、売れないということを軸にして考えることはやめました。
ただ刺さる人には刺さるとか、わかってもらえれば良いというスタンスのものを作ってきました。
ただ、それが絶望的に受け入れられなかっただけで、私が悪いのでも人々が悪いのでもありません。
私は、私の良いと思うことを追求し、表現するのが仕事です。
無理に人様の真似事をして、対価を得るのが仕事であると言い切れないように思います。
とは言え、自分のやり方が今まで以上に通用しない世の中となり、どこを向いて創作するべきかを商売に落とし込むのは至難の業です。
特に絵に関しては、いずれ芸術全般もそうなるかもしれませんが、「人間がやらなくても良い」という評価に差し代わっていく可能性もあります。
絵の微細さ、表現力の豊かさ、描画の正確さ、完成までの早さ、コストの低さで言えば生成AIに人間が勝てる要素が少なすぎるのです。
生成AIがそれだけ優れている、というわけではありません。
世界中の天才クラスのアーティストの作品データを集中学習して、業界トップレベルのクオリティの作品を手前のパソコン一つで合成出力できるようにしただけです。
それどころか、58億もの学習元の作品を評価タグづけし、その膨大なデータを隠れ蓑に権利問題を有耶無耶にしているのです。
そこに権利意識や良識は毛頭ありません。
その上、アーティストが手にするべきロイヤリティを一つとして共有せず、アーティストのビジネスに競合し利益を毀損します。
これを行なっているのは、全く無関係の第三者です。
それでも、お手軽に自分の思う以上の作品を出力できるので、使いたい人はたくさんいます。
この現状に対して「どうかと思う」人々が多いことも知っています。共に活動していたこともありますし、彼らも非常に憤り、嘆かわしく思っていました。
けれど、その良識よりもタダ同然で技術が得られることに人々が流れてしまったのも事実です。
それを後押ししているのは、世界トップシェアの大企業と政府なのですから、どうしようもありません。
残念なことですが、文化芸術の面で相当なダメージが入っていくことは避けられないでしょう。
私も正直、「デジタルイラストは終わった」と思っていました。
クオリティや物量で見れば生成AIに敵わず、それを認めて生成イラストを上描きしているだけの作家もいます。
この業界で、私は真っ当に立ち回れる自信がなくなってしまい、イラストの分野からは離れていました。
ただ、反対に「人間が描くからこそ価値があるのではないか」と考え始めています。
確かに、クオリティの面で言えば生成AIを使うに越したことはないと考える人も多いです。
しかし、権利問題を技術的に抱えた生成AIは、クレジットをつけることができません。
機械学習元の権利者は概ね同意していないはずなので、コピーライトをつけようがないのです。
それだけでなく、「誰が制作したわけではない」ということは、作品にバックボーンがないということです。
よく考えてみましょう。
フランスの現代アーティスト、マルセル・デュシャンが工業製品の便器を逆さまに置いて「泉」という作品を出展した時、そのアート性を担保したのは何でしょうか。
作品の素材自体は、工場で作られた大量生産品です。それを「アート」だと言い切った行為そのものが芸術を意味すると、現代アート界では考えられています。
言語学者のソシュールが提唱した概念に「シニフィエ/シニフィアン」というものがあります。
「シニフィエ」は「意味されるもの」であり、「木」ならば「'木'と呼ばれるもの」を指します。
「シニフィアン」とは「意味する言葉」であり、「'木'と呼ばれるもの」を見た時に「木」と表現する仕組みのことを言います。
つまり、デュシャンの「泉」は、シニフィエとしては「工業製品を逆さにした便座」ですが、シニフィアンとしては「デュシャンが'泉'として表現したもの」になります。
ここで優先されるのは、むしろシニフィアンの方だということです。
仮に、デュシャンの「泉」が屁理屈だと思われていたら、この作品にまつわる逸話は美術史には残っていないはずです。
この現象がアートを定義する上で本質的な指摘だったからこそ、今日も議題に登るのです。
何が言いたいかというと、「誰が描いたかわからない、バックボーンのない作品」は、「シニフィアンが希薄」なのです。
シニフィエは、シニフィエ単体でも鑑賞に耐えうるものです。例えば、車窓から見える景色も意味を知った上で眺めるものではありません。
しかし、車窓から見える景色が、日本三景の松島だったり富士山だとわかれば、印象も意味合いも変わります。
仮に画像生成AIで出力されたランジェリー姿の美女も、名のあるキャラクターの二次創作であろうとシニフィエ単体として成立します。
例えば、二次創作キャラのランジェリー姿を有名絵師がコラボとして描いた、というのであれば話題性は桁違いでしょう。
生成AIは、この「意味合い」という手順をすっ飛ばして、技術や成果だけを手前のものにしようという企みでしかありません。
だから、権利やクレジットや棲み分けを異常なほど避けながら発展してきました。
ゆえに責任の所在を曖昧にし、オリジナルの表現に背乗りし、オリジナルを騙ることでしか正当化できなかったのです。
「シニフィエ/シニフィアン」とは、人間の基本的な認識能力、コミュニケーションの仕組みを指すだけでなく、さらに世界に対するスタンスにも当てはまります。
日本人にとって「シニフィエ/シニフィアン」が最も大きく顕れているのは、「万物に神が宿る」という精神や「九十九神」という概念に見て取れます。
また、古くから「音霊(オトダマ)」「言霊(コトダマ)」という概念を信じてきました。
「良いものには良いものが宿る」
「悪いものは悪いものを引き寄せる」
そういった価値観があるからこそ、「験担ぎ」や「縁起」という風習を大事にしてきたのです。
現代の日本人はだいぶこの感覚を忘れてしまい、ネットでならと不埒な行動を晒し、口汚い言葉を平気で使いがちです。
炎上しなければ良くて、バレなければ何も問題ないと思っています。
しかし、そう思っているのが現代人だけだとしたらどうでしょうか?
スピリチュアルの世界では常識となっている「引き寄せの法則」が起こるとすれば、自分の発した悪態が巡り巡って自分の元に返ってくることになります。
シニフィアンを希薄な状態のまま放置し、軽視し続けることは即ち「音霊言霊の軽視」であり、言葉や意味を粗末に扱えば、古くから日本人が起こると考えていた災厄を招くことになりはしないでしょうか。
現代のシニフィエ過大の状態は、視覚優位の世界であって、バランスが悪い印象を受けます。
誰も言葉を当てはめて考えようとせず、意味を与えて考えないから、現象の裏に背景があることに思い至りません。
言葉は、それ自体に「権利」はありません。
「ありがとう」という言葉は様々な人が自由に使えるありふれたものですが、自分がある場できちんと発すれば、特別な「ありがとう」になります。
それは誰かにとっても、記憶に残る「ありがとう」かもしれません。
これが「音霊言霊」であり、言葉そのものとしてはありふれているのですが、自分がある時に心から発するからこそ、かけがえのない言葉になります。
これは「言葉」だけではないのかもしれません。
ピアノだって、ショパンやバッハを弾く人は数え切れなくとも、その人にしか出せない音色があります。
音楽も理論で言えば、コード進行も楽器も出尽くしていて、それでも新しい音楽は作られ続けています。そもそも、作り手が一人ひとり違います。
大事なのは、「誰がどういう経緯で、どういった過程でこれを生み出したか」なのです。
絵だって、技術的に見れば生成AIに太刀打ちできないように見えます。
しかし、自分で研鑽を積みながらアイデアを具現化して人に伝える、そのプロセスの方が遥かに大切なのではないでしょうか。
「音霊言霊」があるように、人間が描いた絵にも「画霊(エタマ)」が宿り、その表出に本当の価値があり、真の目的を見い出すべきなのかもしれません。
現代人は、利益こそ究極の目標になってしまいました。
何かを得られなければ、何かをする価値がないと考えがちです。お金にならなければ無駄だし、評価されなければ動機にする意味もないと。
そう考えた結果、誰もが自分の足元しか見ていない偏狭な世の中にしてしまったのではないでしょうか。
しかし、本来の目的とは、自分の魂のうちにあるものです。
その魂から発せられる表現が音霊言霊となり、人の魂に伝わるのだと思います。
その「霊(タマ)」は、おそらく人間の行うあらゆる行為に宿るもので、それが芸術活動なら尚更でしょう。
今こそ、生産性や単純な品質でものを測るより、もっと違う尺度でものを見る習慣を身につけるべきかもしれません。
それによって、おかしくなった産業のあり方にも距離を取り、自分だけでもあるべき形に戻していけば、少なくとも間違ったことはしないで済みます。
今、それをするのは理不尽なほど顧みられないかもしれません。
その時、人間が数万年かけて大事にしてきたものにこそ、本当に大切なものがあることを思い出したいと思います。
いくら自分が理解されなくとも、私は自分のやり方を曲げるつもりはありません。
私は、絵に「画霊」を込めて創作を続けたいと思います。

PR
楽太郎です。
最近、どんどん世間の人々と価値観が乖離していきます。
芸能人の炎上も有名人の不祥事も、話題になる理由はわかるのですが、なぜそれにここまで気持ちを向けられるのかわかりません。
別に、それが良いとか悪いとかジャッジする気持ちもないのですが、あまりに価値観が変わったことに気づいて不思議な感覚になりました。
私も昔は時事問題とか、政治経済軍事に関して追っていましたし、それなりに言論もしていました。
しかし、その言論のソースとなる報道自体が恣意的であり、どういう角度から読み解いても真の正論には至れないことを身を持って知りました。
特に、今の言論人は話者よりもバックボーンの方が強く、政治家同様に環境の都合で解釈をわざと捻じ曲げ、簡単に事実誤認を誘導してしまいます。
学術界の権威とか、インフルエンサーがいくらそれっぽいことを言っていたとしても、いずれにしろ真実かを確かめるには時を待たないといけません。
結局、全てが明らかになった後でなければ、誰が正しいことを言っていたのかはわからないのです。
「信じるか信じないかはあなた次第」という言葉がありますが、これは無責任です。
「私は間違ったことを言っているかもしれませんが、それを信じたのはあなたの責任ですからね?」という念押しに他ならないからです。
その論法なら、どれだけ出鱈目なことを言っても責任は聞いた人の側にあるということです。
本来なら、言葉を伝える側が信憑性を明らかにした上で、誤った情報を伝える可能性に責任を持った上で発言するべきです。
こう言ったロジックで、どれだけデマが正当化され、どれだけの人が巻き込まれてきたのでしょうか。
今の世の中は、情報に関して誰も責任を取ろうとはしません。
新聞もテレビも、間違った情報を伝えても口先だけで居直り、居直っただけで許されるからこそまた偏った情報を流し続けるのです。
それはメディアに携わる人々だけでなく、私たちスピリチュアルに関わる人々も同様です。
「神様がこう仰っておられる」と言えば、「神」という最高権威の名を借りて自分の思惑を押しつけることができます。
自分が人を騙そうとしているとか、本気で信じているとか、勘違いしているとかは問題ではありません。
神の言葉を代弁するということは、話者が神の言葉にも責任を持たなければならないということです。
神様に酷く低レベルなことを言わせたり、倫理的にもおかしいことを伝えるならば、神の名を汚すことになりかねません。
よく、神様の言葉を代弁する役の発信者がいますが、それ自体が悪いと言っているのではありません。
神の代弁者は、「神様はこう言っておられる」ということだけを伝えて終わりでは、下手すると神様の言葉を聞いて誰も実践せず、有耶無耶に流して済まされてしまいます。
神様が「こう伝えて欲しい」と仰ってこられたのなら、メッセンジャーは「はい、それをお伝えすれば良いんですね」で済ますのではなく、自分自身のあり方に重ねてみたところで、自らへの反省と実践を持って神様のお言葉に応えることが大事だと思います。
神様から直観を受け取った時、そのメッセージが正しいかどうかを吟味し、情報の発信者を審神者し、本当に神のご意思かを確かめた上で伝える。
そのプロセスをより洗練されたものにするには、常に自己を研鑽し続けなければなりません。
だからこそ、反省と実践が必要なのだと私は思います。
神様のお言葉を「信じるのはあなた次第」というのは構わないかもしれませんが、自身がその言葉を補強するために検証し、実践した上で発言に責任を持つことで、神様のご意向に砂をかけずに済むのではないでしょうか。
こういった「発言・表現の自由」というのは最大限に尊重されるべきですが、昨今は自由ばかりが一人歩きしてしまって、責任を取ろうとする人はあまりいません。
誰もが情報をゴシップと都市伝説のレベルで捉えているからこそ、信憑性も自己責任であり、「騙された奴がバカ」という風潮を作り出しているのです。
この情報化の時代にあって、無責任な情報だけが無限に飛び交っているからこそ、人々はしっかりした価値観で、筋の通った思想を持つことができないのだと思います。
極論を言えば、現時点で分別がつかなければ今後も情報に振り回され続けるでしょう。
今の世だって、人々は話題の方を向いて右から左に顔を動かしているだけで、誰も根本的に世の中を良くする方法は思いつかないはずです。
「財務省を解体すれば日本は良くなる」と考えて、それが事実かどうかはともかく問題の本質をわざと逸らせることで、有利に働く勢力にも目を向けなくてはなりません。
あえて人々に解決の道を示しているようでも、仮に彼らが救世主のように見えたとしても、そこに裏があるのではないか、と考えるくらいでなければ真実には近づけないのが現代と言えます。
誰かを英雄視し、担ぎ上げて然るべき椅子に押し上げれば、このスターが世界を救ってくれるに違いないと、人々は期待しがちです。
しかし、そうやって権力を握らせた者が誰一人裏切らず、正しく世の中を変えてきたでしょうか?
私たち人間は、いい加減に気づくべきです。
「寄らば大樹の陰」ほど危険なものはありません。
巨大な力に支配された時ほど、コインが裏返った時は悪影響も甚大になります。
そのために、リスクを分散することは大切ですし、そのための多様性であり、自由なのではないでしょうか。
「皆が同じ屋根の下にいれば安全である」
その風潮は、混迷を極める時代だからこそ本能的にそうしたくなります。
しかし、この混沌も巨大な力で世の中が縛りつけられているから生じていることには、わりと気づきにくいものです。
私たちの生活を締め付ける物価高も米不足も、実は単純に元栓をいじっている人間を何とかすれば解決する問題ではないでしょうか?
けれど、今の国民にはそれを行う術がありません。あまりに巨悪を放置しすぎて、もはや民衆が手出しできるような低い場所にはいないからです。
しかも、右から左に意見に流されているだけでは、あらゆる思考も実践も徒労に終わるでしょう。
今私たちに必要なのは、自分で状況を見極め違和感の正体を探り、極力その影響から自立することです。
そこで世の流れに左右されず、何があっても自分でいられるスキルと立場を用意しておくことです。
正直、今の日本は法治国家ではないと思います。
これだけ外国勢力に干渉されたら、やはり国内の事情は二の次になってしまいます。
この国に正しい情報が流れないのも、人々が常に注意を逸らされているのも、おかしさを訂正できないのも、その力が働いているからです。
そこで「日本」という国を守るために、あるいは立て直すために、もっと民族として本質的なことを思い出さなければいけません。
「国民」と言うならば、大戦後の占領時代に計画された国民性を指してしまいます。
今を生きる多くの日本人は疑問を抱かないでしょうが、その染みついた性癖は誰かが都合よく押しつけてきたものです。
そしてある時期まではそれで良かったのですが、時代が下り今はその仕組みが限界に来ています。
限界が来たからこそ、自分たちの力で取っ払うことができるタイミングに来ています。
今の日本人に、それをする気のない人がいることもわかります。
とは言え、現状を変えようせずに救われる人はいないでしょうし、変えようと動く人ほど自分を変える力がある人です。
この精神的な支配から脱却できた人は、古い世界のカラクリに気づき、その仕組みを理解するからこそ新しい仕組みを作っていけるでしょう。
「問題は同じレベルでは解決しない」とはよく言われます。
もし世の中を変えたいのであれば、自分が変わろうとすることです。
そして、見方が変わればできることも変わります。
それは、思うより難しいことではないはずです。
しかし、その決断には責任が伴い、責任から逃れる限り自分を変えることはできません。
私たち日本人に必要なのは、「覚悟」です。

楽太郎です。
突然ですが今日、コンビニに行ったらこんな野菜が売っていました。
このレタスを生産したのは、「舞台ファーム」という仙台市内の農業団体だそうです。
このレタスは、なんと根がついた苗ごと入っています。
コップなどに少し水を張り、土を沈めておくと常に新鮮な葉が食べられるそうです。
これが再生栽培に応用できるとは記載されていませんが、個人的に気になるところです。
早速、葉を採って胡麻油と塩でサラダを作り食べてみました。
やはり、下手に殺菌処理をされていない採れたてのレタスは、とても味わいがあってカット野菜とは比較にならない美味しさです。
今日たまたまコンビニに行ったら、200円台でこのレタスが置いてあり、少し目を疑いましたがすぐに購入しました。
最近、簡易的な自家栽培やペットボトル栽培などに興味が湧いていたので、簡単に水耕栽培ができるキットのような仕様は、非常に興味深く感じました。
こちらの企業の社長さんは農家の御子息であられるそうで、農業にイノベーションを起こすべく、エネルギー事業や輸送、テクノロジーと農業の発展に尽力されています。
農業システムの崩壊が危惧される昨今、こういった取り組みによって日本の食糧供給の課題がクリアされるといいなと思います。
こうして苗で販売すれば、カット野菜が劣化して廃棄処分になるまでの期間を伸ばすことに繋がります。
それはフードロスの削減にもなり、地球や野菜に配慮した生産体制でもあると思います。
先日の記事にも書きましたが、地球の次元上昇に適応するためには、「現代文明からの自立」は自らの波長を上げる有効な手段だと思います。
また、地球の次元上昇に合わせるためには自然と調和する意識が大事で、それに対をなすのは「大量消費」に他なりません。
これまで、「誰かが作ったもの」を購入することで私たちは便利さや利得を得て、その関係を土台にして安寧を得てきました。
例えばチョコレートですが、カカオを栽培している現地の人々がチョコレートを経済的な理由で食べられない、という話は有名だと思います。
バナナもコーヒーも、ほぼ奴隷労働に近い形で現地で栽培されたものを外貨で買い取り、それを加工したものに私たちがお金を払って口にしています。
それだけではなく、企業のコールセンターや配送サービスの運転手、芸能界のアイドルなども「やりたい」という気持ちだけでやっているものではないはずです。
私たち人間は、「やりたくないこと」でも「誰かのためになる」からこそ努力し、そのエネルギーを代償に「お金」という対価を得ています。
しかし、神様が私たちに求めていることは「才能を使って世に貢献して生きていく」ことです。
これまでの物質中心の時代が終わり、宇宙規模で新しい世界が始まろうとしている今、神様は私たち人間に「自由と自立」を促しておられます。
これからの時代、誰もが魂を自由に解放し、義務や同調圧力から人々が離れるとしたら、人々を拘束し大量生産する体制は維持できなくなるでしょう。
これまで、お金を得るために費やしていた時間とエネルギーは、お金に価値がなくなればなくなるほど、無理に得る必要性はなくなります。
現在のインフレや物価高は、いずれ誰もが耐えられなくなり、自作や自給自足の方向に舵を切らざるを得なくなるでしょう。
そこで、「必要なものを自分で賄う」という習慣が根付くことになれば、人々が社会インフラへの依存から徐々に自立していくはずです。
その時、人々は自ずと栽培技術や食料確保の方法、食品の加工技術を学んでいくことで、世の揺らぎに囚われない強かな生存戦略を確立していくことでしょう。
「舞台ファーム」のレタスのような栽培方法や、自家栽培のノウハウは、一般市民の自給的生活の足がかりとなり、農業や生産活動をもっと生活に身近なものとしていくかもしれません。
必要なものは自分で作り確保していく、そうすることで大量消費の時代はいずれ完全に終わりを迎えるでしょう。
そうなれば、無理な勤務体制でお金を得るシステムに誰もが依存し、その習慣を維持し続ける必要はなくなります。
資本主義経済システムの崩壊は、社会に頼るべき仕組みがなくなることで各個人が自分の人生に責任を持ち、自ら選択していくことになるはずです。
今、社会システムや常識に凝り固まり世の仕組みに依存し、自分の生き方を考えられない人ほど既存の経済システムが崩壊し、誰もが頼るべきものを失った時、その道標がないことに愕然とするでしょう。
普段から自分の頭で考え、あらゆる物事を疑い、自分の技術や知識や才能を磨いてきた人は、おそらくこれから先も生き残っていくと思います。
しかし、反対にその全てをアウトソーシングしてきた人は、最後まで何もできずに終わっていくのかもしれません。
それは悲しむべきことでも憐れむべきことでもなく、人として本来の在り方から逃げ続けた結果であり、彼らの運命は神様だけが決めることでしょう。
新しい時代は、人々が魂のレベルで自由と自立を獲得し、それぞれの責任で生きていく世になるはずです。
その世界にはその時代こその良さがあるでしょうが、その時代を作るためには現在の便利な物質中心の社会の崩壊を受け入れねばなりません。
その覚悟が、私たちに今最も問われています。
私には、これから先の「神様のシナリオ」というものが、ぼんやりと見え始めています。
その未来に至る過程は、壮絶なことになるのもおおよそ感じています。
ただそれは、私たち人間が立ち向かってどうなるものではなく、人間をお作りになられた神様がお決めになることですから、私たちは甘んじて受け入れるしかありません。
世は、巨悪と腐敗と矛盾が支配しており、このままでは私たち国民が吸い尽くされるのも時間の問題です。
それが明らかだからこそ、我々は一刻も早く本気で危機感をもち、動き出さなくてはいけません。
それができる人間かどうかを、神様は高いところから見ておられるのだと思います。
それでも、私には未来が信じられないほど明るく、人々が真の意味で救われる世になることも見えています。
夜明けは決して遠くはなく、それから日の登る間はずっと光に満ちています。
しかし未だ闇は深く、これからも闇は深くなり、さらに深い闇が来るでしょう。
この危機に気づいた人だけが、自分で自分を救うことになるのだと思います。

楽太郎です。
本日、春分の日ですが、やはりエネルギーの切り替わりが激しく、横になっているのも身体の重さを感じるくらいでした。
今日は何もしないでおこうと思ったのですが、横になっていると線香の匂いがしてきて、そう言えば今日はお彼岸の中日であることを思い出しました。
ちなみに、窓は閉め切っているので線香の煙が入ってくることはありません(笑)
母の買い物に付き合う形で、お彼岸用の生花を買い、軽くお供えをしてお経を上げ、ご先祖様を供養させていただきました。
いつもお世話になっているご先祖様が、喜んでくださると良いなと思います。
私は先日、ビジネスとしてはノープランでありながら開業届を改めて提出し、「楽太郎」として事業を始めました。
個人事業主として以前の屋号で始めた時は、もうちょっと事業戦略があったのですが、今はその時よりも何をしていいかわからないという、よくわからない状況です(笑)
けれど、これが神様からのお導きによるものであり、私の魂の本来やりたかったこと、やるべきことなのだとしたら、今の私が多少腑に落ちなくとも選択すべきことなのだろうと思います。
以前描いた私の絵や漫画も、改めて見直すと肩の力が入りすぎているというか、多少無理をしている感じがします。
悪くはないのですが、「これは確かにウケないかもしれない」と思ってしまいます。
その直感は冷徹というか、本当に自分の感性なのか疑わしくなります。
何となく、自分の中に自分じゃない心が芽生え始めて、それは自我が剥ぎ取られた自分の心なのか、それとも自分ではない誰かの心なのか、その判別はできないのですが、ちょうど良い塩梅で「統合」が起きているように感じます。
今の世を見回してみて、以前ほど人々が忌々しいと感じなくなりました。
単純に、前ほど邪気を受けないため敵対心を持つ必要がなくなったからだと思います。
その邪気も、人の心が邪悪だから発生しているわけではなく、人々の精神的エネルギーが停滞しているから起こってくるものです。
元々、この邪気を発する人たちも、努力して土の時代に適応した真面目な人たちであり、ずっとフワフワ生きてきた私よりは、ある意味正しい人生を送ってきた人たちとも言えます。
私は彼らに対して、やっかみや妬みを感じることはありませんが、新しい時代に合わせない、合わせようとしないから神様が立ち退くことを望んでおられるのであって、神様のご意志に従わないことが罪なのだと思います。
私も土の時代の人々には散々な目に遭わされましたが、それがあるから私は学びを経験し、彼らとは違う道から上を目指しています。
これも一つの宿命だったと言えますし、彼らにも宿命があるのだと思います。
少なくとも、今では恨み節が不思議と湧かないというか、「罪を憎んで人を憎まず」だなと思っています。
人々は互いが批判されることを恐れて、慇懃無礼ながらも何事にも穏便に済まそうとします。
競争社会だけでなく、互いが評価し合い金銭を授受するような力関係も、世の中をギクシャクさせる仕組みになっていました。
日本人は自分たちが「理想」とするシステムに雁字搦めとなり、互いを監視するようになりました。
その仕組みによって、日本人の敵が日本人になり、日本人を害し自分が利得を得るために、日本人を食い物にし、日本のあらゆるものを外国に売り払う人々がいます。
どこかで、「日本人も日本もどうでもよい」と思わせる何かがあったのかもしれませんが、その助長を止めることができなかった理由にも問題があるのです。
この国の今のおかしさは、本当に価値のあるものに金が流れるのではなく、金の流れるところに人が集まっていく構図にあります。
流行りもトレンドも、「流行らそう」という企画のもとに始まるからこそ、本当に価値のあるものが流行らないのです。
この中身のなさは、人々が頭で考えた「理想」の形ばかりを追いすぎて、自分たちの感性や心をお座なりにしてきた結果ではないでしょうか。
今思えば、これらはただの「甘え」でした。
世の流れに乗っていれば間違いはなく、皆で渡る赤信号は、皆で渡っているから「青」と同義である。
そうやって責任を集団に負わせることで、責任を自分が負う必要も感じず、ゆえに気楽に生きてこれました。
自分の頭で考えなくてもそこそこ楽しく生きていける、いつまでも神様仏様は私たちをニコニコ見守っていて、地球はいつまでも無限の恵みを与えてくれる。
そう安心しきって、自分たちの文明が百年も千年も何となく続いていくという妄想に囚われていただけです。
だから自分の人生や他人の利害や、地域や国や地球の未来について、大して考えなくてもいいと甘えていたのだと思います。
それが最近になって、ようやくマズイと気づく人々が増えてきて、いい加減に目を覚まし始めたように見えます。
私を含め、この日本の悪い流れを止められなかったのは、私たちが無知や無関心のまま知ろうとしなかったことにもあります。
ただ知ったとて、いくら止めたくても悪い流れが大きすぎて抗いようがなかったのも事実です。
「ああすればよかった、こうすればよかった」というのは、正直数えきれないほどあるのですが、過去に遡って解決はできないので、これから何とかしていくしかありません。
人々の邪悪さが問題なのではなく、人々の価値観や生き方に対する考え方が偏っていただけで、何が悪いということもないはずです。
強いて言うなら、この流れを作って人命を肥やしにしてきた人々がいるということでしょう。
しかし、彼らが作ったシステムに安寧を覚え、私たちが生活を介して加担してきたのも事実です。
この世の「悪」を終わらせるのではなく、「悪習」を終わらせればいいだけです。
そこに、血を流す必要は全くありません。
人々が、根こそぎ反省し心を入れ替えれば、誰も血を流さずに済むからです。
悪い人間は、引きずり下ろせば自ずと滅びます。
もし新しい時代を作るなら、救世主に全てを担わせて大衆が救われるような革命ではなく、人それぞれが世を救う行動を起こせば、誰も命を落とさずに革命を成し遂げることは可能でしょう。
そのために、どこかの救世主に寄りかかるのではなく、自分自身が救世主たろうとすることだと思います。
「それが絵空事かどうか?」は、これからの人々、日本人の心にかかっています。
この春分がそのきっかけになるといいな、と思っています。
その変革の一助になるべく、私はやっていくと神様に誓いました。
何ができるか、何をすべきかは未だにわかりませんが、こう考えている人間が私一人ではないことを確信しています。

楽太郎です。
だんだん覚醒が進むにつれ、これまでの人の時代にあった違和感の正体が明らかになってきました。
私は生まれつき憑依体質なだけでなく、エネルギーや波動を無意識に感じ取る能力がありました。
そこで思念や邪気を受けると、それを体内に留めてしまうため、様々な不調と隣り合わせでした。
「人間は自分が思っていたような存在ではなかった」
それが最近になって、ようやくわかったことです。
人を信じ、人と生きていけば幸せになれると思っていましたが、人は私が思っていたような存在ではありませんでした。
最近、街を歩くと「もうこの世界は持たない」と感じます。
私としては、ずっと思い違いであって欲しいと思っています。私はどの道この世界で生きられなくとも、その他大勢の人は何とか生きていられるでしょう。
別に、私にとって正しい世の中にならなくとも構いません。ただ、大勢の人にとって幸福な世なら何の問題もありません。
今朝、地元の小さな神社に祝詞を奏上するために伺いました。
禊祓詞の二段目あたりから喉が苦しくなり、大祓詞を奏上し始めてから咳が出始めて、中断したり間違ったりすることはできないので、我慢しながら何とか唱え終えました。
咳が出たのは今日この時だけなので、おそらく邪気です。この祝詞を妨害する邪気は、「神に仇なすもの」の類です。
私は、人々の邪気が煮詰まりすぎて、この邪気のように神へ仇なし始めているのではないか、と考えています。
街ゆく人々を観察した時、人々の波動が淀んでいるのを感じます。
スマホを見ながら歩く人はスマホに、カップルで歩く人は恋人に、友達と歩く人は友達しか視界に入っていないように見えます。
外側の世界から自分を守るため何かに依存し、その心の支えを絶対視し、信仰によって自我を保とうとしているとしか思えません。
それが神様ならまだいいのです。
神様に繋がるには、自分自身と繋がる必要があるからです。
神様の座るべき心の場所に、神様でないものを置けば、自分自身と繋がることは難しくなります。
依存の対象を信仰している間は、自分自身を見つめなくて済むからです。
彼らの異常なほどの周りの見えなさは、依存しているものに注視しているため視界が狭く、身の回りのことに目が配れなくなっているのかもしれません。
近くを通っても全く他人がいるという認識ができず、マナーの悪さも自覚できなかったり、私はびっくりすることが増えました。
自分たちで閉じた心の世界を作り出し、その依存でできた空間でエネルギーのやり取りをしているので、波動が淀んでいます。
確かに、外の世界や現実を直視すれば、傷つき不安になり生きていけない気持ちにもなるでしょう。
カップルも友達も、ずっと死ぬまでお互いが絶対に切れない関係でいられたらそれでいいかもしれません。
よしんば、私はそうであって欲しいとすら思います。しかし、この世界で生きるのは、残念ながらそう簡単なことではありません。
心の拠り所とする何かや相手が、ある日目の前から消えた時、目の前にあった昨日とこれから一人になる明日までの短い時間では、人は立ち直ることができないのです。
だからこそ、人は一人でも生きていけるように、確かなものを心に抱いて強くならなければいけません。
しかし、人間はなぜか一人で生きていくことを極端に恐れるあまり、自分に向き合うことを避けます。
そして何かに無理に依存するからこそ、信じたいものと現実との矛盾に苦しみ、どうにもならない邪気を内側に向けていくのです。
自分たちが変わりたくない、生き方を変えたくないという思いは、自ずと邪気になっていきます。
世の中は腐敗と巨悪が蔓延り、どんどん悪くなっていくのを目の当たりにしながら、変わることを恐れるがゆえに不平不満をどうすることもできないのですから、無理はありません。
神様は、そうやって今までの時代にしがみつく人々に、新しい時代を作るために変わって欲しいと思っておられるでしょう。
しかし、人間はそれでも自分を見つめ、何かをやり直そうと思わず、それゆえに不平不満をどんどん溜め込んでいくばかりです。
そこで発生した邪気こそ、まさに「神に仇なすもの」になりつつあります。
果たして、この世界を作ったのは誰でしょうか。
地球を作り、生命を育み、人類を生んだのは誰でしょうか。
人間にずっと恵みを与えてきたのは誰でしょうか。
人間を導き、今日の文明を作らせたのは誰でしょうか。
私は、神に仇なし始めた人間が、これからどうなるのかを考えた時、優しい言葉で表現することはどうしてもできません。
その危機感をひしひしと感じるからこそ、私はこの世界も生活も、そう長くは持たないだろうと感じます。
いや、私一人がそう思い実際には何もなくて、大勢の人々がこれからも何不自由のない暮らしが続くことに越したことはありません。
どこかで世界経済が崩壊しても、日本の外貨準備金で乗り切れたらいいでしょう。
外国の軍事支援を受けず、日本人が政治を自分たちで立て直し、自力で独立国家を確立すればいいでしょう。
しかし、今の日本人にそれができるでしょうか?
私には、右にも左にも行くことができないようにしか見えないのですが、それでもこのまま何とかなるのでしょうか?
もし私が一人で思い違いをしているだけにしても、私は神様を信じ、魂の示す道にしか進むつもりはありません。
どうせ行っても戻っても荊の道です。
この国に住む人々は、皆それを薄々わかっているはずです。
どの道、このままにしていたらどうにもならず、いずれ嫌でも変わらなければいけない日が来ます。
「自分たちの生活が脅かされる」という現象が目の前に現れた時に。
どうせ変わらなければいけない日が来るのだから、一日も早く心を決めたらいいのです。
それができなければ、遅かれ早かれ世の中に押しつぶされて生きてはいけないでしょう。
実は、それだけが確実なことなのです。
今、世は何もかも値上がりし、人々はお金を使いたくないがゆえにできるだけ安いものを欲しがります。
しかし生活の質は下げたくないし、できるなら工夫もしたくない。
「お金は欲しいけど、大事なのはお金じゃないことはわかっている」
「でもお金が必要だから、多少納得できないことをするのは仕方ない」
「自分がやりたいことはわからないし、どうせ夢なんて叶わないから、やっぱりお金さえ稼げればいい」
このチグハグな動機で、人々は毎日のルーティンを頼りに生きています。
何をしたらいいのかはわからないけれど、お金さえあれば何とかなるから、大切なのはお金じゃないけど、やっぱりお金が欲しい、お金さえ稼いでいれば間違いはない。
拝金主義、過剰にモノを消費する時代は終わったのに、逆にお金を欲するようになっている。
そう考えて行動する人たちを見て違和感を覚えているのは、私だけでしょうか。
誰もが本当のことを言わないからこそ、世に本当のことが知られず、誰も本当のことに気づかないのです。
少なくとも少しおかしいと思えば、そこから突き詰めて考えていけばいいだけです。
「日本人は変わってしまった」と思いますが、いつからはっきり変わったとは言えないからこそ、昔の日本人がまだいる感覚で世の中を見てしまいます。
しかし残念ながら、もう昔の日本人はいないのです。
私は、誰に何を求めることはありません。
自分一人でもやっていきますし、例え世の力になれなくとも、自分の心に嘘をつかずにやっていくだけです。
幸い、私の心の中には神様がいます。
だから怖いものはありません。

楽太郎です。
今日は皆既月食の満月です。
私の自宅からも月食を観測しました。風速8メートルの風が一日中吹いており、今現在もかなりの轟音です。
満月に合わせて、強風で邪気を吹き飛ばしているような気がしてなりません。
これで人間の感情が収まればいいのですが、おそらく無理でしょう。
この風の音を聞くと、神様の怒りを感じざるを得ません。
私は今朝から何となく落ち着かなくて、行動が全て雑というか、精細に欠く感じでした。
満月の影響からか神経の昂ぶりがひどいなと思い、今日は気をつけて生活することにしました。
ジワジワと蛇の生殺しみたいに悪くなっていく世の中で、人々の苛立ちや不満を邪気としてひしひしと感じます。
私は全てが神様のご計画だと思って受け止めているため、苛つく人々にあまり同情はしません。
人々が困るのも魂の修行かカルマでしょうし、それ自体は仕方ないと思いますが、私の視界の中で惨い光景は見たくないな、とそれだけは感じます。
私は特にHSPなので、視界に入った時点で色々なことに同調してしまうのを危惧しています。
莫大なカルマを返さざるを得なくなった日本社会ですが、ぶっちゃけもっとカルマが深い国はいくらでもあるでしょう。
あまり神様の手の内を明かすと怒られそうですが、カルマの返済が比較的早い段階で来たのは、世界に対する日本の優位性と関係があるのではないかと思っています。
諸外国に比べ日本はカルマが低い方ですが、日本という国土に対するカルマの蓄積など、神様からすればそれが大問題のはずです。
神様がこれまで何万年と守ってこられた土地というだけではなく、何百世代にも渡るご先祖様たちの
血と汗と涙が染み込んだこの地は、ご先祖様たちが今も眠り、ずっと守って受け継いできた、命よりも大切なものだったはずです。
その土地を資産に見立て、矢鱈とビルを建て住宅地にし無計画に開発した挙句、山を拓いて太陽光パネルで埋め尽くし、日本人が少なくなったからと外国人に喜んで住まわせています。
この光景を神様やご先祖様がどう見ているのかを、日本人は考えたことがあるでしょうか。
いや、あるにしてもこの国を牛耳る集団には、この発想が微塵もないことくらいはわかります。
どうしてこんな国になってしまったのか、一体どうすればいいのか、私は考えると気が滅入ります。
数十年前まで、日本は世界一の経済大国でした。
その頃と今を比較してもしょうがないのはわかりますが、何をどのように間違えたら今のような国になってしまうのでしょうか?
当然、制度や政治上の問題もあるでしょう。
人口動態の問題もあります。しかし、それ以上に決定的だったのは、人々の「価値観」だと思います。
思い出してみてほしいです。
この数十年で、地域の商店街は軒並み郊外型ショッピングセンターに駆逐されました。
買い物をするにしても、ネットの方が品揃えが良く配送も早いです。その代わり実店舗のメリットはだいぶ失われました。
本はデジタルやネットに代替され、紙の本を買う人は少なくなり、電子書籍は外国の企業が販売代理店になっています。
音楽も映像もメディアがデジタル化し、サブスクもスマホも外国企業がサービスを一元化しています。
このプロセスの中で、日本の商業の多様性がだいぶ失われてしまいました。
それは「時代の流れ」と人は言うでしょうが、その時代の流れとは、「便利さと利得」だけを選択していった結果なのではないでしょうか?
便利さと利得を優先した結果、大衆は大企業の製品やサービスだけを求めるようになり、中小企業は大企業の寡占に耐えきれず駆逐され、大企業の寡占は腐敗と癒着を産み、現状のような多様性のない経済を形成しているように見えます。
今、何かを起業したりサービスを始めるにしても、大企業の傘の下で風呂敷を広げるか、大企業相手に仕掛けるしかありません。
圧倒的なシェアの中でビジネスを始めれば、最初からハンデを持つかマージンを取られることが前提となります。
サービスの内容によってはサービス元に検閲され、規約は法律以上に融通が効かないものになります。
この産業形態の一元化によって、あらゆる業者は同じことしかやらなくなっていきます。
同じことしかやらなくなるということは、想像力や多様性が失われ、挑戦もイノベーションも阻害されることになります。
思えば昭和の頃、いくら若者の人口が多かったにしても、パソコンもスマホもない時代で午後5時上がりの勤務をしていて、日本は世界一の経済大国になりました。
しかし今、これだけデジタル技術が進み外国人の手が入り、しかも残業までこなしているのに人手不足で万年給料が上がらないわけです。
果たして、この現象を「技術が高度化して業務が複雑化した」の一言で済ませられるでしょうか?
私には「便利さと利得」の追求が社会を複雑にし、その仕組みがこの国から国富と国民の幸福を奪っているように思えてなりません。
システムのどこかに致命的な陥没があって、そこから日本人のエネルギーが大量に流出している。
このことを、もっと本気で追求するべきなのです。
日本人の真の問題は、問題に対しての流されやすさです。
自分で考えるよりも権威筋の話を聞き、納得して世間話程度で話を済ませ、何かをした気分になることです。
それは、残念ながら原因を知ったことにも、問題を解決に向かわせたことにもなりません。
このことにすら気づかない鈍感さが、今の状態を作り出したのではないでしょうか。
今の日本人は、目に見えないものに意識を向けるのが一番難しいのだと思います。
目に見えないものに意識が向かないから、自分が見えている以上のものを知ることができないのです。
優しさも愛情も理解も、目に見えないものだからこそ認識できず、ゆえに優しくできず、愛情を向けられず、理解することもできません。
他人の心がわからないから自分の心もわからず、問題に対して何をしたらいいのかわからないのでしょう。
世界の全てが目に見えるものしかないから、自分を幸せにするものを目に見えるものだけで揃えようとし、自分を不幸にする原因も目に見えるものだけにしか見つけることができません。
そして問題を解決する方法も、目に見える手段しか取ることができないわけです。
その唯物的な世界はある意味シンプルで、一次元的な世界ゆえに難しく考えなくてもいい世界です。
そのお手軽さに浸かりきったせいで、日本人は自分の頭で問題を掘り下げる能力が欠落してしまったのだと思います。
この国を本気で取り戻そうと思うのなら、自らの正義のために世を変えようとするのではなく、世の善悪を軸にして動くべきなのではないでしょうか。
世の善悪とは法律やルールではなく、「良心」です。
今こそ、日本人の本来の価値観を呼び戻し、この良心で秩序を戻していくことが必要だと思います。
日本人は古来から、「目に見えるもの」に「目に見えないもの」を見てきました。
それが万物に神を見る精神であり、八百万の世界観です。
この肝心の部分を蔑ろにして、この国は取り戻せません。
私は、まだ間に合うと思います。
少なくとも、大難はまだ小難にすることは可能です。
悲惨な光景を目にする前に、一人でも多くの人に目覚めて欲しいと思います。

楽太郎です。
明日14日は皆既月食を伴う満月だそうで、かなり大型の浄化が起こりそうです。
私は相変わらずアセンション反応でダウン中です。
それどころか、瀬織津姫様の神社のWEBおみくじで今週二回目の「凶」が出ました。
毎日おみくじを引いて、凶が出ることすら数日前までなかったのに、これだけ続く上に内容は「大人しくしてなさい」です。
瀬織津姫様が仰るのですから、神様の言う通りにしなければなりません。
ちなみに、私が毎日おみくじを引く崇敬神社「瀧澤神社」のサイトはこちらです。
よろしければアクセスしてみて下さい。
この浄化作用の中で、私のキャリアの実績やこれからの予定までリセットを促されています。
昨日の朝に起きたら、これまで人にウケるように無理して作風を作っていたことに気づきました。
私としてはそう意識したことはありませんし、むしろ売れるなら望ましいくらいに思っていました。
自分の絵柄や作風にあまり違和感はありませんでしたし、むしろ気に入っていました。
昨日、以前描いた「瀬織津姫命」のイラストを見た時も、なぜか気持ち的にしっくり来なくなっていました。
どう表現したらいいのかわかりませんが、「子供っぽいな」と思い、何となく気恥ずかしくなりました。
昨日の朝に初めてそう思うようになりましたし、これまで全くその角度で感じたことがありませんでした。
これも浄化の作用なのかな、と思います。
おそらくこれだけ感じ方が変わると、以前のような作風を維持することは難しくなるかもしれません。
この期に及んで作風を変える、というのもかなり思い切っていますが、いずれにしろこれだけやって売れないのですから、変化はむしろ喜ぶべきでしょう。
私はわりとタッチを自由に変えられる方ですが、自分にしっくり来る作風は吟味する必要がありそうです。
徐々にですが、体で感じるエネルギーの流れが自然になり始めている感じがします。
もうすでに私の魂は先が読めていて、神様と話も済んでいるのに、私の心だけがついていけてないのかもしれません。
おそらく私は数年前から、この変化のために様々な準備をしてきたのだと思います。
今、世の中は通常運行でこの先もやっていこうとしています。
この世界を支配する権力構造が盤石すぎて、揺らぎながらも一応は崩壊を見せてはいないため、何も変化がないように見えています。
街の風景や店の雰囲気を見れば一目瞭然ですが、これは単なる不況の空気ではありません。
工事現場は、簡単な工事なのになぜか数ヶ月かけて一向に終わりませんし、店の店員も会社の社員もどこか投げやりです。
今回の不況の違和感は、「何とかこれを乗り越えよう」という気持ちが誰からも感じないことです。
この社会の裏側と、上の方でおかしな仕組みができている。
この不自然さは、勘のいい人ならすでに気づいているでしょう。
日本人は、根本的に何かがおかしくなってしまいました。
おそらく、この資本主義の競争社会の中で「消費」のために費やされたエネルギーは、世の仕組みにある澱みに全て吸収され、もはや絞り出す余力もないのでしょう。
そうして気が枯れた人々は、「穢れ」を社会にもたらすようになりました。
それはここ数年の話ではなく、数十年かけて日本人は負のカルマを蓄積してきたのです。
私の半生は、人の世で成功するために挑戦するというより、この「穢れ」から魂を守るための防衛戦だったのだと思います。
神代を作るのが魂の目的なのですから、人世のラウンドはゴングが鳴るまで立っていれば「勝ち」だったのでしょう。
日本社会でのやりづらさは、優しさや親切心、努力や誠実さ、そういった人間としての美徳が形ばかりは評価されても、内実は軽視されていたことにあります。
私が人に対して無邪気に接しても、その純粋さは必ず陰で嘲笑われていました。
裏切られ心が塞ぐたびに、嘲笑を振り払うため知識や実力を身につけ、強くなろうとしてきました。
その原因が「人と魂の毛色が違うから」などと気づきようもなく、私は自分と他人を呪い続けていました。
けれど、今になってみればお互いの相性が絶望的に悪かっただけで、呪いをかけ合う道理などどこにもなかったのです。
今、その呪いを解くための浄化が私に起こっています。
人と自分にかけた呪いこそが私のカルマであり、このカルマの解消はもうじき終わるはずです。
これまでの半生は、人世が終わり神代に至るタイミングに合わせて計画された、魂の「カリキュラム」だったのだと思います。
それにしては酷い授業内容でしたが、私が落第しまくったせいで偏差値の低い学級に放り込まれていたのかもしれません。
ただ、人間は魂の修行のために生まれて来ると言われていますが、目の前の出来事が予め修行だとわかれば修行になりません。
「罰」だと思って打たれる鞭と、突然打たれる鞭では痛さが違います。
例えば、私の目の前に神様が現れて、「これから試練が来るから耐えなさい」と言われたら、どんな困難も「修行なんだな」と割り切って難なく乗り越えたかもしれません。
わからないからこそ不安になり、本気で問題にぶち当たり、真の修行を経験します。
神様も「いるかいないかわからない」ように振る舞い、試練も「修行かどうかわからない」という現象で現れるため、人間にとっては見分けることすらも修行になるのでしょう。
要は、何事も不運は「修行」、幸運は「神様からのご褒美」と思って切磋琢磨していれば生き方に困ることはありません。
人と神が繋がっているのだとしたら、生きるというのは人間が思うよりシンプルなことなのかもしれません。
人は神の「分霊(ワケミタマ)」を頂いて生まれてくると言われますが、神の一部であることは自分の中に神が宿っている、ということです。
おそらく、魂に宿る神の声に従って生きていけば、誰もが過不足なく生きられるのだと思います。
魂の赴くままに生きることで才能を開かせ、その行動によって調和のとれた人生になっていくはずです。
しかし、人間は生きていく上で欲は出ますし、気が枯れて邪気が溜まると、下手な知恵に頼り邪に楽をしたくなります。
その言動が咎められることなく、むしろ他の人も同じようにし始めたら、調和は乱れ誰もが邪な方法で楽をしたがるはずです。
現代社会で起きている事象は、まさにこれではないでしょうか。
この世に蔓延った邪気を浄化するには、神々の祓いと人の培った「カルマ」の解消がなくてはなりません。
神様はそれを人間に促すために動かれています。
神々が「罪穢れ」を浄化するのは、本来は神の一部である人間が穢れを祓うことで神性を取り戻し、あるべき姿で生きていくことができるからだと思います。
本来の姿で生きる人間は、よほどのことがない限り順当に幸せになれるのです。
神様はひたすら、人間に思い直して欲しいと願い、そうするようにずっと促されているように思います。
このことをもっと人間が受け止めて、素直に自らの心や神様の声に耳を傾けたらいいのに、と思うのは私だけでしょうか。
今朝、散歩をしていて、道を這うカタツムリを踏んでしまいそうになりました。
このままでは危ないと思ったので、近くの茂みに置いてあげました。
そこがこの小さな子が大きくなるのに適した場所か、カタツムリが好む場所だったかは、私にはわかりません。
私はそのカタツムリを拾って助けてあげることはできても、その子の命に最後まで責任を取れるわけではありません。
しかし、神様は違います。
神様なら、この子が大きくなるまで見守ることも、うまく生き延びられるように導き続けることもできます。
人間の一挙手一投足、頭の中の機微に至るまで見通し、肉体を持たず時間の概念がないからこそできることです。
その命を面倒見ようと思えば、最後まで世話をすることもできるでしょう。
私は誰かの幸せを願い、何かをしてあげたいと思ったとしても責任を持ち続けることはできません。
それでも、神様はそれができ、ゆえに愛情や慈悲を惜しみなく人に施しておられるのです。
この素晴らしさは、人間には簡単に理解することはできないでしょう。
神の存在と恩恵を知る者は、神の愛情や慈悲を受けられるがゆえに、いち早く幸福を手にすることができるのだと思います。
人は、もっと神様を信じればいいのに、と思います。
人にとって目に見えないということが、それほど許容できないことなのでしょうか。

楽太郎です。
現在、好転反応中につき身動きが取れません。
絵を描くとかの騒ぎではないので、興味あることを調べています。
最近、巷でよく「働く」とは「傍(はた)を楽にする」ことだと言われているのですが、ずっと「本当かなあ?」と思っていたので、この機会に調べてみました。
私が参考にしたのは、坂本小見山さんの動画です。「働く」の語源についてまじめに考えてみた
これによると、言語学的に考えて「働く」の語源は「徴(はた)る」か「はた(はた)-らく」の派生であるのが有力らしく、「傍を楽にする」は掛け言葉、いわゆる「当て字」だそうです。
かなり権威筋も使っている用語だけに、これは目から鱗が落ちました。
スピリチュアルな人は特に、神秘に偏るからこそ科学的な目線を失いがちです。
いくら神様と繋がっていると言えど、半生をかけて研究してきた人の学識を蔑ろにすることはできません。
私はこの気づきから、言語学的視点から「神」の語源を調べられないか、と思いつきました。
今回、私が参考にしたのは以下のサイトです。
和風原論 神からカミへ
国語学者の阪倉篤義氏によれば、「カミ」は「クマ」と近い言語グループに属するそうです。
かつて神の御料を「カムシロ」「クマシロ」と呼んでおり、「クマ」は山奥にいる神聖な存在を指したとされています。
確かに、「熊」は山奥にいる生態系の頂点にいる生物であり、かつては人間が太刀打ちできない脅威であったはずです。
また、熊本県には「珠磨郡」がありますが、この「球磨(くま)」には昔、大和王権に抵抗した「熊襲」がいたとされます。
ちなみに、球磨郡の北方には「玉名市」があり、ここは神武天皇の母上であらせられる「玉依姫」ゆかりの地です。
「玉名大神宮」は、おそらく我がご先祖様、菊池則隆公が建立した神社であり、公の御息女「玉依姫」の墓石が祀られております。
同市内にある「伊倉南八幡宮」は、かつて熊襲鎮静を祈願して南向きに建立されたそうですが、このすぐ南には球磨郡があります。
玉依姫命の「玉」とは「霊」を差すと言われますが、この「玉」は「クマ」には語音的にならないとしても、「球磨」となれば勾玉やその関連もあるのかもしれません。
この辺は、学術的に深く検証してみたいところです。
ともかく、「クマ」と「カミ」はとても近い語形だそうです。
「クマ」は「山、川、道などの曲がって奥まった場所」を指し、母音を変換した「カム」がi母音をつけて名詞系に変化したのが「カミ」であるとしています。
つまり、「奥まった隠れた地にいるもの」を「クマ、カミ」と言っていた可能性があります。
熊襲は山に隠れし山賊的な部族であり、また古代の巫女も山奥に一人住んでいたと言われますから、山奥にいる人々は隠れた存在であるがゆえに、「クマ」と関連づけられたのかもしれません。
また、「カミ」にはもう一つ始原があり、「カミ」は「シモ」と対を成す「モト」を意味する言葉であったとされています。
「川上」や「川下」という概念に近く、川上は山奥にある水源であることが多いことから、「クマ=カミ」の語彙と親和性があるとされます。
ただし、以下のブログ記事によると、「上(カミ)」と「神(カミ)」の「mi」における上は甲類、神は乙類の語系で、言語の系統が違うそうです。
「神」の語源
この記事の興味深い部分は、川上に用いられる「上」は、水を指す「kalm-」という発音に相似性があり、「ka」も「mi」も水を指す言葉であった可能性があります。
そう言えば、「川」も「kawa」と発音をします。
また、川下の「下」は、「sam-」から来る言語郡から派生しており、「島」や「霜」に繋がっているそうです。
心なしか、伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みに近いイメージがあります。
冷静に考えると川上の水源は山奥深くにあり、人が立ち入ることができない秘境です。
そこに目に見えない神秘的な存在がいるはずと、太古の人々が想像するのは自然なことです。
私はここで、この「kami」という語は主に淡水を指していることに気づきました。
淡水の神様で思いつくのは「瀬織津姫命」です。
水源や滝、川や泉にお祀りされている神様の代表格が瀬織津姫命様です。
人間は海水では生活できないので、文明は大抵淡水のある場所に発展してきました。
古来より日本人もそうで、私は「神の原型が瀬織津姫命にあるのではないか?」と大胆な推論を立ててみることにしました。
余談ですが、日月神示では、神を「火水」と表記していますが、これは日月神様の洒落た言い回しであると思います。
「火」の「ka」は音読みなので中国由来の読み方であり、「神」の「ka」はむしろ当てるなら「日」の方が相応しいと思います。
「日」は「五日」などと使うように、古来から「ka」という使い方をされてきました。
「神」を「日水」とするなら、伊勢神宮に祀られている天照大御神の荒御魂が瀬織津姫命だとされているイメージとも一致しますが、あくまで妄想です。
さらに妄想を広げると、邪馬台国を治めた「卑弥呼」の「呼」が感嘆詞でないとするなら、「比咩子」「日實子」であり、「日水子」の当て字もできると面白いなと思いました。
なお、「日ミ子」は「ヒミコ」「カミコ」であり、神格を取ると「巫女(みこ)」となる、と空想に近い推論もできるかもしれません。
ここら辺は、言語学的な検証をしたらめちゃくちゃな話になるかもしれませんがw
「クマ=カミ」がいると思われる最有力な場所は、水源がある山頂付近であり、太古の人々は山に神が宿ると考えていただけに、恵みを産む淡水の源に神を想像したのかもしれません。
かつて、大和朝廷を悩ませた土蜘蛛は、地方部族が信仰する巫女であったとも言われており、卑弥呼も山奥に住んでいたことから、「巫女=比咩」と山奥にいる女神の親和性は高かったのかもしれません。
話を戻すと、日が昇るのは山の頂上からであり、山の奥にある水源とも遠からず連想できます。
またここで、「太陽」と「水源」の相関を見ることは可能です。
ゆえに、私は「神の原始イメージは瀬織津姫命にこそある」と学閥・神道界無視の持論を掲げ、本記事を締めようと思います。
瀬織津姫様しか勝たん‼︎

楽太郎です。
先日、崇敬する氏神神社に「神様の絵を描いて生業としていきます」という誓願を立てて来ました。
そこで御神前にて「大祓詞」を奏上し、絵馬を書いて奉納しました。
私が稼ぎ口を失ったのは悪いことのように思えますが、ある意味タイミングが良かった、とも考えられるかもしれません。
時代が切り替わる今、これまでのやり方を続けることが許されなくなってきているからです。
多くの人々はまだ気づいていませんが、世界のルールはもうすでに変り始めています。
世界的に唯物主義、拝金主義の延長では何も解決できなくなりつつあります。
ゆえに、これまでのやり方を暗黙に続けていれば、いずれ「ルール違反」になってしまうでしょう。
その審判は「神様」です。
これからの世界を動かすのは、悪魔に唆された人間などではなく、元の座に戻られた神様であることを、私たちは目にするはずです。
そのタイミングで稼ぎ口を失ったことは、すなわち神様から「もうそろそろ撤退しなさい」と促されたとも言えます。
ただ現実的には、人間として努力できる限りをしても通用しないことを悟ってしまった、とも言えます。
それは安易に世の中のせいにできるのですが、単に私のやり方や才能では大衆の心を掴むようなものを作れなかったということでしょう。
その悔しさはありますし、時間が許すならばまだ挑戦したい気持ちもあります。
しかし、どうやらもう時間切れのようです。
神様は言っておられるのだと思います。
「そろそろ遊びはやめて、本気で仕事を始めなさい」と。
しかし主たる稼ぎ口を失った以上、どうやってお金を得ればいいのか、ビジョンは全く見えません。
「楽太郎」としての絵に需要があるとは、今のところ思えません。
私の評判は自分からは測りかねるので、この先がどれだけ希望があるかも見えません。
ただ今の世界が終わるからと言って、人間としての望みが全て絶たれるわけではありません。
時代が変わるだけなのですから、その時代に合った幸せを見つければいいだけでしょう。
ある時、途方に暮れながら街を歩いていました。
「これから何を目的にして生きていこうか」と悩んでいた私は、あることに気づきました。
人々は、これまで社会や企業が用意したものを人生の目的として受け入れてきました。
その信仰心が剥がれ、真の目的がここにはないと人々が悟る時、誰もが自分の内に答えを探すしかなくなるでしょう。
そこで私が思ったのは、自分の内にある目的は外に結果として求めることではなく、自分の内面にあるプロセスこそ目的とするべきではないか、と。
例えば、私たちが荒野に一人ポツンと置き去りにされたとします。
荒野に一人、地平線をどれだけ辿っても誰も助けてくれそうにありません。
その絶望的な状況の中で、この荒野で生き延びようとするのはナンセンスだと、諦めたくなるかもしれません。
ただ、その理不尽なほど致命的な状況でも、自分が生きようとする限り助かる可能性はあります。
その時、行動の動機となるのは死に対する恐怖に限らず、自分の生命力や生への渇望もあるはずです。
この生存本能は言語や道理を超え、生命を持った存在としての底力そのものです。
生命体は、そのエネルギーを使う権限を最大限に有した存在であり、故にどれだけ理不尽であろうとも命は存在することを目的とするはずです。
現代人は、この生命力を削がれてしまいました。
好きな人が身近にいないと死んでしまうとか、好きなものが食べられないと生きる価値がないとか、わりと人は平気で言います。
それこそ、ゴミを食べてでも生き延びるとか、生き物を捕まえて食べるとか、そういうことをしてまで生きたいと思う人はあまりいないかもしれません。
これまでは恵まれた環境にあったからこそ、生命体としての本能を発揮せずとも生きてこれました。
生命体は、この本能を発揮する時ほど本来の力を発揮します。生命体にとって、本能を呼び覚ますことそれ自体が喜びであり、快楽を伴うはずです。
野生の動物たちを見て、いつも食べ物を探して大変そうだなとか、寒くて不安そうだとか心配ではないのかとか、ぬくぬくと生きている側の人間は思うでしょう。
しかし、食べ物がなくて鬱病になった動物や、食べ物を探すことに嫌気が差して自殺するような動物を見たことがありません。
つまり、あらゆる生物の中で人間だけが生きていくことに不安を覚えているのです。
生きる目的は、不幸にならないために生きることにあるのではなく、自分の生きることそのものに見出すべきだと思います。
例え荒野に一人置かれて、そこで自由に生きていける瞬間に喜びを見出すような、自分の内側から湧き上がる力を頼りに生きていけばいいのかもしれません。
自由とは、与えられた条件でしか得られないものです。
無限に選択肢があるならば、どこから手をつけていいかわからず、手をつけてもすぐに目移りしてしまうはずです。
自分に限定づけられた条件があり、不自由だからこそ持てるものを好きに活用していくことができます。
これが「自由」です。
生命体、そして人間も、この自由を使い不自由ながら幸福になることができます。
幸福になるためのあらゆる諸条件は、自由そのものの中にあります。
自由の中にこそ目的は見出されるべきであり、その目的は幸福に至るプロセスにこそ宿っているのです。
それは「命を楽しむこと」です。
荒野で喉が渇いたならば、水を飲む方法を探し、その探究を楽しむことができます。
その探究には才能やアイデアが必要ですが、仮にその材料が揃っていない状態で荒野に捨てられれば、「どうやって死のうか」と考え始めるのも無理はないでしょう。
おそらくこれからの時代は、ここで自分の内側にある力を引き出し、発想を行動に移せる人間だけが生きていける、あるいは活躍していける世になるはずです。
私は、それが新しい時代のルールであり、神様の意図なされた世界なのではないかと思っています。
どれだけ絶望的な状況でも生きようと足掻き、むしろその足掻きを楽しむような人。
そういった人々が魂の曇る世界を打ち壊し、新しい時代に風穴を開けていくのだと思います。
今の世を「タイタニック」だと表現した人がいました。
確かに、座礁したタイタニックが沈没するのは目に見えているので、各自が持ち寄った救命ボートで各自が脱出すれば、皆が助かります。
しかし「世界一の豪華客船が沈むはずがない」とか「皆まだ船内にいるから大丈夫」とか、「救命ボートに乗ったところでどうなる」と思い、行動しない人たちがいます。
ここで言う「救い」とは、救命ボートに乗って救助船に助けられたり、陸地に上がらなければ助からないことを意味するのではありません。
自ら救命ボートを自分の手で出したこと自体、その決意そのものが救済を意味するのではないかと私は思います。
結局、今までのやり方を改められる、改めようと思うからこそ新しい時代に適応することができます。
その新しい時代はこれまでの延長にはないので、自分で新しい発想をしていかなければならなくなります。
その思考をアウトソーシングしてきた人々は、新しい時代になっても何をしていいのかわからないはずです。
そこで、どうしても「目的を持つ人」と「目的を持たない人」がはっきり分かれ、目的を持つ人は自分の生そのものに目的があるからこそ、どんな難局でも強く生きていけるはずです。
神様が人間と共にある時代、「神代」は決して神々が人間を審査して選り分けるのではなく、人間が自ら志願して条件を整えるからこそ渡っていける世界なのだと思います。
タイタニックが沈没しきる前に、自ら運命を決めてしまった人は多いでしょう。
しかし「神代」を選んだ人は、これから適応していけばいいだけなので、あとは淡々と準備を進めるべきです。
そのプロセスは単に、「楽しめばいい」のです。
自分に与えられた条件の中で、持てる自由を最大限に活用して挑戦していく、その挑戦こそがエキサイティングなものであり、喜びに満ちた本来の生き方なのではないでしょうか。

楽太郎です。
人生が折り返した、という実感があります。
その瞬間は、おそらく早池峯神社に参拝した日にあります。瀬織津姫様をきちんとお祀りするようになってから、気持ちに芯が通った感じがします。
その変化を如実に感じると同時に、もはや自分が思っていたような存在ではなくなったことも感じます。
頭で考えて習慣を変えたり、気まぐれでは絶対に起こり得ない心の変化です。
胸の奥底にある熱源は、何でもできた、あの若い頃の感覚を思い出させてくれました。
もし、この熱源を「魂」と呼ぶのなら、目には見えない「霊魂」は存在するのでしょう。
自分の真実の姿が霊魂であるとしたら、その延長には神が存在するはずです。
神様は、目には見えません。
写真に写ったり、映像に入る不可思議な現象はあれど、神様が何かに映り込むことはほぼありません。
私には神様が人間の心にだけ現れ、面にお出にならないことは意図的なものではないかと思います。
神様は目には見えない存在ですが、感覚を研ぎ澄ませば感じることは可能です。
ただその感覚はあくまで個人的なもので、客観的に証明することができないからこそ、「疑念」を乗り越えなければ信じることができません。
その「疑念」こそが一つの試練や、修行の過程だとしたらどうでしょうか。
神を信じるには、人間同士が持つ唯物論的な価値観を否定し、目に見えないものを大切にし、人の言葉よりも自分の思想を柱にしていかなくてはなりません。
それは現代を生きる人間にとって、合理的ではありません。
神などおらずお天道様は見ておらず、単純に目に見えるお金と力だけを信じていれば、大して難しく考えなくても楽に生きてこれたからです。
ただ、その考えでは人間は本質的に成長しないのです。
今、世に蔓延る不正や癒着を見れば、そこに人間の未熟さが存在してはいないでしょうか。
「自分さえ良ければいい」という不誠実さが、嘘と虚飾を広げ、その考えに全く無関係な人までも巻き込んで混沌を生み出しているように思えてなりません。
「目に見えないものを信じるのは合理的ではない」と思うこと自体が、この世界の形に合っていないとしたらどうでしょうか。
目に見えないものを知覚する能力を、「神などいない」という考えで置き換えるならば、人間の感覚そのものを否定することにならないでしょうか。
今、世の中で起きている災難の原因はここにあり、「便利さ」というテクノロジーを選び取った人間が、人間本来の内面性を蔑ろにした結果「人間らしさ」を失い、人々が内面的な問題で苦しんでいるように思えるのです。
テクノロジーの便利さがあれば、確かに苦労も減りますし、楽に生きられます。
しかし、だからと言って「楽」が即ち「幸福」とは限らず、「楽」に生きるためにあったお金や地位などの条件は、常に揺れ動く脆いものです。
そう言ったすぐに移りゆくものを信じ、目に見える確かさだけを追い求めた結果、今の混沌とした世では余計に確かさは見えてこないはずです。
もし、今の混乱自体が人々にとって、一人ひとりの試練を意味するとしたらどうでしょうか。
これまで目に見えるものだけを信じてきたからこそ、目に見えるものだけでは現実が成り立たなくなり、その崩壊を見て右往左往します。
その動揺の解決が、「目に見えないものの存在を知る」ことなのだとしたら、人々は一つ学びを得るでしょう。
人間にとってその学びは、一つの災難にしか見えないかもしれません。
しかし、その学びを得て成長した人間は、目で見えるものだけの世界」を捨て、「目で見えないもの」と「目に見えるもの」が混在する新しい世界を発見するはずです。
それこそが世界の真実であり、それゆえ人間は本来の世界観を取り戻すことができるのだと思います。
そのプロセスにおいて、人間は学び終えるまで学びの価値は理解できないはずです。
そして学んだと言えど、必ずしも学びの価値の大きさを理解したとは言えないかもしれません。
しかし、その知恵を得たことで人間はさらに自由な精神を手に入れ、より多様な生き方を選択していけるようになるでしょう。
「知恵」とは情報や知識を超えた、最もシンプルで応用の効く能力です。
テクノロジーがあれば、例えば自分で火を起こしたり暖を取る技術を身につける必要がありません。
しかし知恵があれば、世の中がどれだけ変わっても自分の手で欲しいものを作り出すことができるようになります。
この能力こそが真の「自由」であり、豊かさとも言えるのではないでしょうか。
決して豊かさとは資産にあるのではなく、知恵があるからこそ自由であり、いかなる状況でも生きていける自信が安心となり、その心の平穏は幸福に繋がるのだと思います。
この豊かさを手に入れる手段こそ「知恵」であり、知恵こそが本当の恵みであると言えます。
神様がそれを授けて下さる存在なのだとしたら、神様がお与えになられる試練や学びの機会は、人間には辛くとも素直に受け止め、学ぶに越したことはありません。
目に見えないものを信じず、成長する意志のない者ほど学びから遠ざかり、真の自由や豊かさを手にすることはできないでしょう。
人間は、嫌なことやうまくいかないことがあれば、ただついていないだけだと思いがちですが、その不運の裏には学びの機会があり、神様のお導きがあります。
そこで問題ときちんと向き合い、知恵を得て乗り越えるからこそ、次に同じ問題と出会って苦しむことがありません。
その成長は人間の心を豊かにし、自然と幸せにしてくれるはずです。
だから、今の世で起きている事象に一喜一憂することなく、そこで起きている現象の原因や意味を考え、「何を学ぶか」を考えてみることが大切です。
決して目の前のことに振り回されず、そこで得た気づきを実践し現実に反映させていけば、世の中に芯が通っていくでしょう。
そのためには、まず「目に見えるもの」だけの世界を疑い、「目に見えない世界」を想像することです。
この混沌とした世の中を生きるのも、良くしていくのも実際は難しいことではないのかもしれません。
自分の生き方を、世の中の仕組みをシンプルにするだけで、あらゆる問題は一気に解決していくと私は思います。
その気づきや知恵こそ、神様から頂く一番の恵みなのかもしれません。

楽太郎です。
今日は、妙に波長が乱れてずっと横になっていました。
好転反応に近い不調ですが、つい最近ある行動をしたことが実績解除になったらしく、タイムラインが切り替わったことで違う波長のエネルギーが流れ込んできたのかもしれません。
こういう日は何もしないに限るので、神様のことについて調べていました。
以前、瀬織津姫様のお祀りをしっかりするよう進言され、参拝とご神札の授与を計画していたのですが、今尚どこの神社に参拝するかが決まらずにいます。
これに関してだけは、全く何のインスピレーションも導きも降りてきません。
私が変に考えすぎているだけなのか、最初から見当違いだったのか、それすらわからなくなるくらい模索し続けています。
3月3日は上巳の節句であり、瀬織津姫様のお誕生日とされているそうです。
この日は邪気を祓うことで女子の成長を願うとされ、この祓いが祓戸大神であられる瀬織津姫様と関連づけられたのだと思います。
だから、その日に合わせて自宅に瀬織津姫様のご神札をお招きしたかったのですが、間に合わないかもしれません。
今日一日ずっと調べ物をしていたのですが、最終的には「妥協するか」という段になっています。
そもそも、「瀬織津姫命」をご祭神としてお祀りされている神璽でなければ瀬織津姫様をお祀りできないのか、瀬織津姫様と同一視されている神様の神璽をお祀りし、強引に瀬織津姫様として崇敬することが許されるのか、それが白黒つかないのです。
瀬織津姫命は、「記紀」編纂時に持統天皇の命で故意に秘匿された形跡が伺えます。
これに関しては憶測の域を出ず、あらゆる歴史家や宗教者がその謎に取り組んでいますが、その帰結を決めるものは何もないはずです。
実際におられる神霊と、記紀や伝承を基にする神々の出自が一致する割合はどれくらいなのでしょうか?
私には、神様は人間の定義に合わせてご降臨なされているようにしか感じないので、神々は人間界の設定を借り、「その体で」顕現なされているだけなのではないか、と仮説を立てています。
人間を作り人間を支配せし神々が、人間の憶測や伝承によってご自身の立場を変えられるとはどうしても思えません。
ゆえに神様について考える時、二つのレイヤーで考察する必要があります。
- 実在の神霊としての位相:知覚的解釈
- 伝承や政治などの文脈としての位相:物語的解釈
「知覚的解釈」は、この物質次元における人間や自然に対してアプローチする時、エネルギー体(またはアストラル体)として知覚されるレベルの解釈を指します。
霊能者が神の声を聴いたり見たりする時に介在する力、自然や偶然が作用する時に生じる意図性など、現象として立ち現れてくる存在としての神です。
産土神や自然の神々、魂の内在神など、世界に現実として見出しうる位相となります。
「物語的解釈」とは、「記紀」の記述や神社の由緒、土着的な伝承など、歴史的文脈に基づく神々の定義づけや解釈を指します。
日本の国土に古くから信仰されてきた神々も、政治的な理由で祭祀を改められたり、記紀成立以降は名称や由緒を上書きされてきました。そして明治初期の廃仏毀釈や神仏分離によって、名称を改めながら祭祀されるようになった土着の神々もいます。
こう言った、歴史的文脈的には矛盾を孕むような多様性を内在しながら、人々はこの由緒に従って信仰していきます。ある意味、一般的な認識のレベルにおいて現実的なレイヤーになります。
私の感覚からすると、「知覚的解釈」と「物語的解釈」はニアリーイコールの関係というか、「そうであるけどそうではない」のが実際ではないかと思います。
物語的解釈は古くからの伝説やお伽話、あるいは政治的な思惑による文脈変更など、かなり人間の恣意性が入り込んでいます。
しかし、その物語的解釈をイメージとして刷り込まれた人間に対して、神様が全く無関係な神格として現れたり、メッセージを送ることはほぼないでしょう。
例えば、伊邪那岐命がご祭神の神社に、唐突に菅原道真公が現れたという話は聞いたことがありません。摂社としてあれば別ですが、少なくとも日本の神社に聖母マリアが現れたことはないはずです。
それでも、大山祇命がお祀りされている神社では、やはり大山祇命と思われる神霊がそれっぽく現れて下さるのです。
これは「知覚的解釈」ではご祭神の顕現と取ることが可能ですが、由緒書きを辿れば本来のご祭神とは違う系統の神霊である可能性もあるでしょう。
この時、「受けたメッセージは勘違いなのか」という疑念が湧いてくるのですが、おそらく大事なのは真偽ではないのかもしれません。
神様と私たちの関係を、人間と猫に例えて考えてみればわかると思います。
猫は、人間を「大きい猫」だと思っているそうです。飼い主にお母さんの面影を見て、それがおじさんでも母猫だと思って甘えます。
人間は猫に対して、「私はあなたのお母さんではないよ」と真面目に説得はしないでしょう。おそらく、したところで完全に理解はできないはずです。
これと同じように、宇宙の真理や人間の宿命を知り尽くした神々は、自分たちの認識のレベルに人間が到達できるなど微塵も思わないでしょう。
猫に言葉が通じないように、神の理を人間にそのまま伝えることはできません。
だから「こういうもの」だと思って、神様は人間に関わっておられるのだと思います。
そうであれば、「物語的解釈」の多少の誤差は神様にとっては許容範囲なのかもしれません。
ただ、明らかに侮辱的な思惑で神様の取り違えをしたらお咎めになられるでしょうが、本気で信仰するうちはお許しになられるはずです。
私には、神様のシステムが「市役所」のように思えてなりません。
各神社にお祀りされている神様は、一応は系統がはっきりしています。
自分が「保険福祉部」の部長に取り次いでもらいたい時、生活相談課の窓口に行っても担当者を経由して何とか取り計らってもらえるはずです。
例えば、とある神社の「天神摂社」にお祀りしても、その摂社の神様を通じて最終的に菅原道真公に話が行くとか、そういうことなのではないでしょうか。
おそらく、各神社におられる神様はユニークな土着の神霊だと思います。
その神様の上司が神宮とか大社におられたり、あるいは氏神神社が地域全体を仕切っているがゆえに他の神様との上下関係はないとか、様々なのかもしれません。
少なくとも各神社の神様が何らかの形で繋がっており、神格の設定に合わせて、人間に「その体で」関わっておられるのではないか、と私は考えています。
長くなりましたが、まとめると「物語的解釈」で繋がる神様は実際違う可能性が高いが、神様はそれを踏まえた上で人間に関わっておられる、というのが私の仮説です。
その文脈の客観的な矛盾や食い違いは、信仰心の尊重によって十分保証されうるものです。
その穴埋めをするのが「知覚的解釈」であり、これは「自分がそう直感した」ことが重要なので、物語的解釈を超越して成立しうる文脈です。
おそらく、元は神社の興りとなった動機も、純粋な「知覚的解釈」によるものなのかもしれません。
そもそも、日本の八百万の信仰は太古の昔、人間が自然物に神を見て、自然の恵みに感謝したり、恵みを乞うために神々をお祀りしたのが始まりです。
それは素朴な霊的直感であり、非言語的な解釈だったはずです。
だからこそ、祭祀の原型はこの「知覚的解釈」にあるとも言えます。
しかし、人間が社会の中で神々を崇拝するようになると、「物語的解釈」による神仏への評価が行われるようになりました。
この二つの局面によって、信仰は持ちつ持たれつの関係で続いてきました。
ただ、現代は情報化しすぎたため、「由緒」や神社仏閣への規模や権威が、神々への評価を規定してはいないでしょうか。
人間にとっての神様の人気度は、神々の権威と直接的な関係はないはずです。
今こそ、「知覚的解釈」に基づく自由さから、神々と繋がる時代なのではないでしょうか。
神様は、「どうせ違うから自由に繋がって欲しい」と思っておられる気がしてなりません。
確かに、高名な霊能者であってもその認識の正しさを証明することは不可能です。
証明することができないのですから、間違いも正解もないはずで、どの道人間には神様の全てがわかる訳がありません。
だから、もっと自由に神様と繋がろうとし、神様と繋がることについて疑う必要もないのでしょう。
要は、自分が繋がりたい神様と繋がり、お導きを受けられたらいいだけの話なのです。
そこに勘違いがあろうとなかろうと、最終的に間違いなく幸せになれたらそれでいいのかもしれません。
私はまだ瀬織津姫様を追い、どこに行くべきかを決めあぐねています。
ただ、大事なのは形ではないのかもしれません。
おそらく、私はどのお札をお祀りしても、心の深いところで繋がっている神様に近づくことができるはずです。
けれど、薄ら「近場で手っ取り早く済ませても同じなのでは?」と思っている私を、瀬織津姫様がどうお感じになられているのでしょうか…。
不届の私には、残念ながら瀬織津姫様のお気持ちを察することはできません…。

楽太郎です。
一昨日、「邪を赦す」という記事を書きました。
あの記事で辿り着いた結論はどうやら正解だったらしく、邪気の干渉がだいぶ弱まりました。
なぜ考え方を変え、立場を表明しただけでこれほど邪気の干渉がマイルドになったのか、説明はつきません。
私の霊性に仮に変化が起きたにせよ、「愛と慈悲の波動」は邪気に対する唯一の対抗策であるような気がします。
人の嫌な気に当てられた時、その不快感から攻撃を仕返してやりたくなるのが人の常です。
けれども、そこで対抗心を燃やして実際に応酬を始めてしまえば、相手は喜んで攻撃します。
邪気は、争いや諍いが人の幸福や成長を妨げることを知っているので、人間の怒りや義憤を利用します。
邪気にとって許しがたいのは「幸福と愛」そのものであり、傷つけ争い合えなければ意味がないのかもしれません。
イエスの教えにある「左の頬を打たれたら右の頬を差し出せ」ではありませんが、打たれるがままが尊いと言いたいのではありません。
殴る人間を殴り返すのが得策ではないのは明らかですが、まず殴るような人間からは距離を取り、一先ず攻撃を受けないようにするべきです。
「左の頬を打たれたら逃げる」
その上で、人を攻撃するような人間は相手にせず、自分が最大限の幸福を手に入れることが最大の防御であり、反撃です。
邪悪な人間に対しても、邪気に対しても、その対応の仕方は同じで構わないと思います。
「闇の存在」が人を負の感情で支配し、愛や幸福を破滅させるのが目的だとしたら、愛や幸福を守るために怒りの感情を使うことは、即ち自分自身が闇の力を使うことを意味します。
実は、怒りの力を使わずとも反撃や防御をすることは可能です。攻撃は怒りがあるから行うことができる、と思うのは錯覚であり、淡々と戦略と戦術を行使すれば冷静に撃退することは可能です。
武道経験のある方の話だと、よく「感情的になれば弱くなる」と言われます。
確かに、頭に血が上っている状態では、相手の次の手を冷静に予測することはできません。
そのピンチで相手を読む余裕があるからこそ、勝負に勝つことができます。
この一連の過程において、「怒り」はむしろ足を引っ張ります。
今、世では炎上が盛んです。
人々は正義感や義憤に駆られて行動を起こしているようですが、そこで「怒り」の力を使ってはいないでしょうか。
某官庁のデモは、善悪は別として注意すべきだと思います。
SNSの炎上でもそうですが、怒りによる行動は「感情を発散させてガス抜きをする」目的で使われることがあるからです。
「行動を起こしたからには、何とかなるだろう」という安堵感は、実際に効力がなくても発生しうる感情です。
もし、デモを仕組んだ人間が、それを見越して計画しているとしたらどうでしょうか?
本来向かうべき批判と、対抗に向かうエネルギーを全く違う方向に逸らされていたら?
正義感や義憤は、上手いこと相殺し沈静化されてしまうわけです。
そうなれば、「愛国」は単なるポルノになって終わります。
日本人に思い出して欲しいのですが、日本がかつて太平洋戦争に突入した際、マスコミはどういう煽動で国民を巻き込んだでしょうか?
今回はマスコミではなく、さらに裏にある枠組みが仕掛けているとしたら?
日本人には、改めて冷静に考えていただきたいです。
日本は誰もがわかる通り、あり得ないほど貧しい国になってしまいました。
けれど、たった30年前は世界一の大国だったわけです。世界をリードする技術、治安、社会制度、文化の豊かさ。
それは失われて久しいですが、今の日本はリードしていた分野が悉く劣化していったからこそ没落していきました。
これは、実に不自然なことです。
日本の良いところが、優先的に劣化していったように見えないでしょうか?
産業やサービスの分野だけではなく、日本人の伝統を重んじる気風、自然環境と共存する知恵、品質を大事にする精神。義理、人情。そう言った、日本人に脈々と受け継がれてきたメンタリティです。
それらがダメになって、今その上に乗っかっているものを改めて見てみると、日本をダメにしたものの正体が見えてくるはずです。
そこで何か思うところがあるとしたら、その気づきは決して「陰謀論」ではなく、あなたの「慧眼」です。
その原因は具体的な組織の固有名詞より、もっと根源的な問題にあると気づくはずです。
もしそれがわかるとしたら、日本がこれから日本を取り戻す方法も具体的に見えてくるでしょう。
「良かったものを取り戻すために何をすれば良いか」だけを考えればいいだけだからです。
方法論は、具体的だからこそすぐに結果が出るものです。
もし、「日本を頭から強烈に押さえつけているもの」がわかったとしても、その解決に怒りや感情は不要です。
「ダメになったもの」の代わりにかつて日本人が選択したものを、合理的に払いのけて「良いもの」に戻していくプロセスを淡々と進めればいいだけだからです。
残すべき感情を強いて言うなら、「真心」や「優しさ」かもしれません。
古き良き日本人が自らの技術に込めた思い、サービスをする上で大事にした心得、それはマニュアルだけで真似できるものではなかったはずです。
逆に言えば、「今ダメになりつつあるやり方」の真逆をやり始めてもいいのかもしれません。
それこそが、ご先祖様たちがやってきた古き良きやり方になるでしょう。
だから新しいやり方を模索する上で、難しいことを考える必要はないと思います。
人間にとって、日本人にとって本質的なものを選べばすぐに答えは出るものだからです。
「温故知新」は、現代人にとって新しすぎるだけではなく、ご先祖様たちが私たちのために脈々と受け継ぎ、遺してくれた宝物と言えます。
その知恵を感謝して受け取れば、これから何が起きても穏やかな気持ちで暮らせるはずです。
そして、その知恵こそがこれからの日本を照らす光になるでしょう。
今、「土の時代」の構築物がようやく崩壊を始めました。
私から見れば、20世紀のうちに壊れておいた方が良かった仕組みばかりです。
これが壊れきるまでは数年かかるでしょうが、その次に壊れるのは「風の時代」仕様の古い構築物です。
今、風の時代の申し子となっているメディアも、後に時代の洗礼を受けるでしょう。
それらの構築物も、土の時代に作られたものなので本格的な風の時代には不向きです。
何ごとにも栄枯盛衰があります。ただ、時代にとって不要になったものは悪ではなく、役目を終えたから交代していくだけです。
そこに感謝をしながら私たちは学び、技術や知恵を後世に繋げていくのでしょう。
かつてのご先祖様たちのように、私たちは偉業を残さなければなりません。

楽太郎です。
2025年のエネルギーの流れが落ち着いてきて、だいぶ先が読めるようになってきました。
そこで得た実感は、「人世は本当に終わる」ということです。
これまで半信半疑でしたが、炙り出される問題の規模を見て、小手先三寸で世の中がガラッと良くなると思う人もいないのではないでしょうか。
現実面だけでなく、次第に「世界の法則」そのものが変わってきたようにも思います。
人々の「念」がこれまで以上に現象化しやすくなっているように感じます。
生霊も飛びやすくなっていますし、引き寄せの確率や強度も高まってきているように見えます。
邪気も肉眼で見えやすくなってきていますし、自分の発した呪いがすぐに巡って返ってくるはずです。
世の暴露を見てもわかるように、容易に嘘が見破られるようになってきました。
これは人々にサイキック能力がついたというより、法則的に嘘が炙り出される仕組みになってきたからではないでしょうか。
嘘も詐欺も通用しなくなるとしたら、人間の思考の大部分が通用しなくなるということです。
そのルールの上では、魂のエネルギーが中心となる力場が形成されていくのかもしれません。
やはり、この世界は高い次元に移行しているのは間違いないようです。
これまでの世界で通用したやり方が、徐々に通用しなくなってきているのでしょう。
「神代」とは、神様が地球の支配権を取り戻した世界です。そこでは、人間の頭で考えてやるようなことは、神様からのお咎め一つで実現しません。
神様が人間の自己実現の決定権を握るということは、人類にとってはとてつもない大変革です。
スピリチュアルに親しい人ならもう常識ですが、これからほぼ全人類が新しいやり方と直面することになるでしょう。
それによって破滅する人もたくさんいるはずです。
けれども、破滅を選択したのは自分であり、破滅から抜け出す道を探そうとするのも自分の意志です。
それ自体に同情する必要もありません。世界と人類を作った神々がそうするように決めただけで、それ以上の意味を人間には伺い知ることができないからです。
人間が出来るのは、あくまで環境に適応して生きていくことだけです。
思い返せば、人世とは「唯物論的世界」でした。
唯物主義とは、物質と科学の世界です。神や精霊や魂は存在せず、そういった迷信を科学で解き明かし、文明の一部に帰属させていく考え方です。
その文明では、万物の価値の軸になるのが「お金」です。お金の価値が生じないものは、存在価値のないものです。
人間が幸福になるためには、生まれ持った資質だけでなく、「お金」があれば無限に着飾ったり、人を意のままに操ったり、自分の肉体そのものも限界まで改造することができたわけです。
お金があれば老後の心配もなく、ほどほどに遊んで暮らせられるからこそ、安心と平和の象徴でした。
人々はその安心感を「幸福」と呼んでいました。
しかし、やりたくないことや労働と引き換えに、お金という対価を得てきたわけです。
拝金主義という唯物史観が、これまで数百年間の人世を形成してきたと言っても過言ではありません。
富に対する限りない執着は、戦争を金儲けの道具に使い、金儲けのために大衆の心を支配し、金儲けのために弱者を餌食にしたり煽動することが平気で行われてきました。
現代で言えば、それは「共産主義」という唯物史観によって広く流布しています。
しかし拝金主義における支配欲の発露は、マルクス主義にだけ影響しているわけではありません。
その影響が悪い形で出ているのは、むしろ資本主義経済の方です。
資本主義経済の民主国家ですら、一部のオリガルヒに政治的主導権を握られ、彼らが秘密裏に搾取する完璧な構造が構築され続けています。
人々は彼らをDSと呼びますが、その本質にあるのは選民思想であり、自分たちを神の座に置く唯物論です。
それが全ての構造的問題を引き起こしているのに、人々は同族嫌悪で同じ穴のムジナを叩いて回るだけです。
今、本当に人々がしなければならないのは、必ずしも官庁へのデモであったり、アメリカの大統領に願いを託すことでもないはずです。
自分には何もできないとしても、まず何が本当に問題なのかについて、自分だけでも気づくことです。
人々の気づきは次第に広がり、後に自然な形でムーブメントとなり、自ずと世の中を変えていくでしょう。
現代の経済システムの終わりは、拝金主義の終わりを意味しています。
お金以外に生きる目的を見い出す時、人は何をするべきか何を大事にするべきか、その考えを再構築するタイミングに差し掛かっています。
今、全ての問題の責任を外部に求め、自前の正義で他人を批判して回るべき時ではありません。
真の問題は何か、その問題のために何をすべきか、一人一人が自分の内面と向き合い、出来ることを探す時なのです。
思想とは、他人を批判するための武器ではありません。
思想を理論武装の道具に使い、自己を正当化して他者を平伏す目的で使うべきではないのは、右でも左でも同じことです。
世の中を正しい方向に導きたいのであれば、自身の発言力を求めるだけではなく、自分自身が実践し行動することが大切です。
思想とは、あくまで生き方に活かして実践するべきものです。
実践するからこそ働きかけ、人々に影響を与えることが出来るのだと思います。
それは他人に行動を強要したり、価値観を人に押し付けることを意味しません。
この部分を履き違えてきたからこそ、人々は思想を嫌い、主張する人間を忌み嫌う風潮が出来上がったのではないでしょうか。
言ってみれば、思想とは語るべきものではないのかもしれません。
議論は確かに大切ですが、自分が活用する上では他者を論破する必要はないからです。
自分が正しいと思うことを、自分が正しく実践すれば良いだけで、他者が介在する余地はあまりありません。
私のこの意見すら、何の価値も評価もなくても構わないのです。
それが正しかろうと正しくなかろうと、自分が思う正論ほど人には好かれないものです。
その場合、正論は必ずしも感情的ではないからです。感情的ではない意見は、人に共感されにくいという性質があります。
正論は人に押し付けるものではなく、自分の信念として言動の柱にしていくためにあると思います。
要は、自分の道標にすれば良いだけで、集団目標にするからおかしなことになるのです。
これは、言論を生業としている人ほど受け入れ難いものでしょう。
しかし、正しさを目に見える力に変換した時点で、その思想は理論武装になっているのです。
脇差は常に振り回すものではなく、武士の誇りとしてあえて抜かないでおくべきものです。
安易に力を誇示しない美徳こそ、思想の奥深さの一つの表現であるように思います。
これから、人の時代は混乱期を経て、猛烈な反省期に入っていくことでしょう。
その時、思想や信仰の偉大さが再発見されるはずです。
それまで、正論は忌み嫌われ続けるでしょうが、それが思想のあるべき姿です。
誰にも知られず、理解されず、ただ黙々と行動に移される、それこそが信念というものだからです。

楽太郎です。
最近、ようやくエネルギーが乗ってきて、やることに力が入るようになってきました。
特に神様について調べたり考えている時間は、かなり気持ちも乗っています。
その反面、仕事周りのことに関しての意欲は持ちづらいです。
これまで、社会で評価を得たり、お金を稼ぐこと自体に仕事のモチベーションがありました。
しかし、これだけ世の仕組みが明らかとなり、混乱し騒然とする中では、社会に対して目的を見出しようがありません。
これまでのやり方では収入を得ること自体、環境的に難しくなり、かと言って無理にやり方を変えたとしても、産業基盤自体が崩れていく可能性もあります。
これでは八方塞がりで、どう収入を得たらいいかわかりません。
これを神様はどう思っておられるのか、私は考えることがあります。
人々が経済的利益を中心に作り上げた社会は、人からお金を貰うことに対して目的を持ち、半ば自己犠牲的に奉仕することで対価を得てきました。
やりたくない仕事でも、社会や企業の要求であればそれを卒なくこなすのが一人前であり、資産をうまく使ってステータスを上げてこそ成功であると言われてきました。
ただ、そうした自己犠牲は、他者に犠牲を強いる環境を作り出してしまいました。
皆が大して望まないやり方でお金を稼ぐのが当たり前になると、人々の欲求は次第に刹那的になり、経済が悪化するにつれて心は乾いていきました。
現代は自己犠牲の対価として労働があり、労働とは自分のエネルギーや時間を消費することを意味します。
そして、いくら働いても働いても豊かになれない社会は、長い時間をかけて老若男女問わず、人々の気力を吸い尽くしていきました。
その経済というピラミッドの最上部には、人々を支配したい層がべったり張り付いており、搾取を続けることでパワーを増してきました。
それをなるべく人々に気づかせないよう様々な仕組みを作り、うまく操ってきたわけです。
けれども、人々のお金への信仰心や資本主義の枠組みそのものが弱体化してくると、呪いが解けてカラクリに気づく人々も増えてきました。
今、資本を中心とした世が崩壊し、新しい流れが生まれつつある中、古い経済や社会のあり方を続けている人々に古いアプローチをしても、先細るだけで積み上げることは難しいでしょう。
だからこそ、大衆的な感覚にアプローチするのではなく、もっと本質的というか、自己探究的なテーマを持って活動していくよう、神様は促しておられるように思います。
それに関して、私は何となく「自分のやることをわかってくれる人がいるだろう」と、未だ人々に対して正当な評価をしてくれることを期待し、それを目的とする意味がないような気がしています。
まず、自分が認められるためには、人に認められる行動をしなければなりません。
ただ多くの人は、これを「人に迎合することである」と考え、人々の顔色を伺いながら自分のやり方を考えます。
しかし、人に認められるというのは「自分の才能が人に理解される」ことを意味します。
才能が人に認められるには、確かに人にわかりやすい形で才能を示す必要があるでしょう。
ただし、「迎合する」のと「わかりやすくする」ことは全く違うプロセスであり、ここを履き違えてはいけません。
例えて言うと、歌舞伎を現代風のミュージカルにしたら、多くの人は直感的に理解しやすくなります。
反面、古典的な歌舞伎の良さは失われるでしょう。
歌舞伎を現代人にわかるような仕組みに変えることは、物事を根本的に変えることを意味しません。
それこそ、別にスクリーンで演出的に補完したり、事前にパンフレットなどで現代語訳を注釈したりすれば敷居は下がります。
あくまで、顧客のレベルに合わせることがマーケティングの全てではないということです。
だからこそ「やり方を変える」ことが目的の水準を下げることになってはいけないと思います。
目的を変えず、それでも人々が理解しやすくなる工夫をするのが、本来するべき努力なのではないでしょうか。
神様は、他人を軸にやるべきことを決めるのではなく自分軸で目的を持ち、それをどう具現化して他者を惹きつけていくか、いい意味で「自己中心的」であることを求めておられる気がしてなりません。
けれども、ここで「自己中心的」であることは、もはや既存のコンテンツが飽和した環境になる中で、目新しいだけでは全く見向きもされません。
私自身、その状況と戦い続けたからこそ今があるわけで、理想論では太刀打ちできないのも現実です。
だから今は、「目先の利益を取るか」「未来のための布石を打つか」の二択しかない状況だと思います。
今、後者を選んだとしても大した利益には繋がらないでしょう。逆に前者なら、明らかに先細るだけです。
どちらを選んでも苦境の中、自分軸を貫くことは並大抵の覚悟ではありません。
それゆえ、例え自分のことであってもモチベーションが上がらず、やるべきことを自分で決めたつもりが、いまいち覚悟が固まらない状況が続いていました。
けれども、「神様をもっと身近にする」という使命感が降りてきた時、「神様」という目に見えない顧客が私の心の中に立ち現れ、神様のために何かをすることに対して、並々ならぬモチベーションが湧き上がってきました。
人世では、移りゆく人々がどう繋がり、いつ離れるのかを予想できません。
経済の状況、市場の変化、人々の需要、そういった外的環境に左右されていたら自分軸など通しようがないでしょう。
けれども、「自分軸でやる」ことにはある種の普遍性があり、「神様を顧客にする」ことは浮世の人々に目的を見出すより、ある意味で堅実なのではないか、と私は思うようになりました。
「誰かの役に立つ」ことの自覚は、本質的にモチベーションになり得るものです。
実際、その対象は今生きている人間ではなくても、未来の人であったり神様であったり、自分自身であっても構わないはずです。
神は、外側に存在するとは限りません。
人々の魂は神の「ワケミタマ」であると言われます。
いわゆる「魂魄」という概念において、精神における霊は「人間の神霊」であるとされます。
この神霊が人間には誰しも宿っており、自我とは別の意志を持つ自意識によって、私たちは神々と繋がることができるのだと思います。
神に目的を見出す時、それは外面的世界におられる神々だけではなく、自分の内なる神の求めに応じるということでもあります。
それが「魂の表現」であり、それこそが「真の自分軸」であるとも言えます。
人のためにやるのではなく、神のためにやることは結果的に自分自身のためにもなるのだと思います。
自分の内なる神と外の神々の意識の違いは、普通の人間には見分けることすら難しいはずです。
私たちが他人と比較したり、社会的評価に揺れることがあるのは当然です。
しかしその時代はもうじき崩れ去るでしょう。そうなる前に、些か時期尚早であろうと、人に目的を見出すのではなく自分の目的を選択していくべきかもしれません。
神が喜ぶことをする、それは自分自身の深い部分の喜びを追求することに等しく、自分が喜ぶことは他人が喜ぶことになっていく。
その本質的な「歓喜の共有」こそが、本来のビジネスの形だったのかもしれません。
これを今の社会でやるのは勇気のいることですし、とてもリスクのある挑戦です。
ただ冷静に考えて、誰もが先細る世にあって破滅が早いか遅いかの違いではないのでしょうか。
どうせ破滅するなら、早い段階でどん底を味わっておいた方が早く先に進めます。
いずれ誰しもが道標を失い、自分で道を探すようになる時、その地図自体も人のアドバイスも当てにならないとしたら、道開きの方法を編み出すことで誰かが救われるのかもしれません。
この数年で私が経験した泥沼の状況は、いずれ誰かを救う道なのかもしれません。
今朝、不思議な夢を見ました。
仲間らしき人々と廃墟を探索していたら、当たり前のようにゾンビが徘徊を始めて、避難場所を探そうとしました。
そこに年寄りなのか子供なのかわからない男性が話かけてきて、ポスターにあるお寺を指差して「ここに来たら皆助かる」と話をします。
私はなぜか、まずそのお寺を調べようと思い、ポスターのQRコードをスマホで読み取ろうとしました。
しかしその瞬間、スマホが縦に割れて壊れました。
カメラが使えないばかりか、私はゾンビのことは忘れてスマホを買い替えることに頭を悩ませました。
特にオチはないですが、そんな夢です。
これは私の勝手な解釈なのですが、今の世界から救われるには神仏の元に集まるしかない。
それを探すのに、スマホは必要ない。
スマホとは外の世界や人々と繋がるためのツールだが、それが壊れたら確かに不安かもしれない。
ただ安住の地は自分の頭で考え、探し求めてたどり着くものであり、その先に目的の場所はある。
今は本当に廃墟とゾンビだらけの街を彷徨っているような気持ちでも、いずれ仲間と出会い安心できる場所に行くことができる暗喩なのかもしれません。
そのためには、目で見えるデジタルの世界に答えを探すことなく、自分の頭と目に見える世界をヒントに探し続けるしかないのでしょう。
それを夢の中で、思い悩む私に神様が教えてくださったのかもしれません。
いよいよ、人の世を捨てる時が近いように感じます。
厳密には、人世というより「大衆に迎合する人々の時代」と言うべきかもしれません。
個々人が、自分の心に従って生きられる世になれば、それほど人々は窮屈な思いをせずとも、幸せに豊かになれる世界が訪れる気がしてなりません。

楽太郎です。
先ほど、「禊祓詞」をテーマにした記事を投稿しました。
その記事で書きたいことがあったのですが、文脈がブレるので触れられなかったことがあります。
それは、「禊祓詞」で「祓戸大神」は伊弉諾命の下で罪穢れを祓う役目の神々として登場することです。
祓戸大神とは、「瀬織津姫命」「速秋津姫命」「速佐須良姫命」「息吹戸主命」の四柱であるとされます。
この「祓戸大神」は、国津神として列記されることがありますが、「天津祝詞」で言えば「天津神」の格なのではないか?と思うのです。
この「禊祓詞(天津祝詞)」は成立がはっきりしていて、元は平田篤胤の国学の一環でまとめられた「天津祝詞之太祝詞事」で、文化12年(1816年)に成立したとされています。
平田篤胤自身の憶測も一部入っているように見えますが、少なくともこの祝詞では、祓戸大神の扱いは「大祓詞」での扱いと変化はありません。
「大祓詞」は、平安時代の928年に発行した「延喜式」の中に書かれています。
延喜式は伊勢神宮の祭祀を担当した中臣氏族が編纂したもので、中臣氏は天津神を祖として国家祭祀を司った一族です。
平田篤胤は、「禊祓詞」を編纂した際に「この祝詞は中臣家系の秘儀ゆえ、延喜式にも書かれなかったのではないか」としています。
私は、瀬織津姫命について調べているうち、「瀬織津姫命は天津神なのではないか?」という仮説に手ごたえを感じつつあります。
「祓戸大神」の説明に戻りますが、「瀬織津姫命」とは「山から降りる川の流れが海に入り込む様」が、「河川の土砂を海洋に放出する=穢れを祓う」というイメージで擬人化された神様のように思えます。
「速秋津姫命」の「秋津」とは「開き津」であり、つまり「港=水戸」を指します。
速秋津姫命は伊弉諾命と伊奘冉命の「国生み」の際に生まれた水戸神であるとされます。
「速」とは「勢いがある様」を指すらしく、河口に降りた土砂が海に吐出される様を表しているとも言えます。
「速佐須良姫命」は江戸時代の国学者、本居宣長によると大国主命の配偶神であられる「速須世理姫命」と同一視しました。
ただ、「速佐須良」は言葉的には「すごく」と「勢い」というニュアンスを含み、「佐須良」は即ち「さすらふ=流離い」を指します。
岩波古語辞典によれば、「頼るところもなく、定まるところもなく、移りまわる」様であるとされ、現代で使われる言葉と同じようです。
祓戸大神の役割としては「海に排出された汚泥をどこかに押し流す=穢れを消滅させる」現象を指すようです。
この「祓戸三女神」に「息吹戸主命」が加わって祓戸四神となるわけですが、息吹戸主命だけは水や海に関係せず、風や流れそのものの役割を担っているように思えます。
しかも、息吹戸主命だけは男神であり、三女神とは明らかに性質が違います。
まとめると、「祓戸大神」は自然現象と禊祓のプロセスの擬人化であり、自然神としての役割を強く持っている神々なのではないでしょうか。
自然の神格化とは、いわゆる原始宗教やアニミズムであり、その性格が強い神格は天照大御神を代表とした「天津神」のグループに属するはずです。
しかし、祓戸大神の一柱である瀬織津姫命は、天津神であるという扱いを受けてはいません。
これは何を意味するのでしょうか。
瀬織津姫命は、中臣氏が編纂した「大祓詞」の中に登場するのみで、「記紀」には書かれていません。
ただ、水源や滝壺、川や泉などには瀬織津姫命と同一視される「白龍」「市杵島姫命=宗像三女神」「弁才天」が祀られています。
ここからは、「市杵島姫命」と瀬織津姫命の関係について書いていきたいと思います。
瀬織津姫命は宗像三女神の市杵島姫命としばしば同一視され、「宗像大社」や「厳島神社」でお祀りされている市杵島姫命を「瀬織津姫命」として崇敬する風習もあります。
ただ宗像三女神で言えば、市杵島姫命よりも「湍津姫命」の方が関連があると思います。
「大祓詞」の一文に、以下の件があります。
「高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣といふ神」
この「多岐つ」が「湍津」と同一視され、海の女神である宗像三女神と関連づけられている理由にもなります。
その論拠として、瀬織津姫命と湍津姫命がニ柱一緒に祀られることがない、という話もあります。
瀬織津姫命が市杵島姫命と同一視された理由の一つに、「天照大御神荒御魂説」と「神大市姫説」が繋がってくるように思います。
天照大御神はかねてから男神説があり、伊勢神宮荒宮は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」であるとされます。
この「天疎向津媛」が「天高いところから海に向かって流れる様」と文字通りに解釈され、これは瀬織津姫を彷彿とさせます。
江戸時代の写本とされる「ホツマツタエ」では、瀬織津姫命は「天照大神」の配偶神とされます。
この場合の「天照大神」は須佐之男命か瓊瓊杵命を指すようです。
須佐之男命の妻は二人いて、大山津見命の孫に当たる「櫛名田姫命」と「神大市姫命」です。
須佐之男命が本地垂迹によって牛頭天王となった際、神大市姫は「南海龍女」となり、龍と結びつけられました。
そして、市杵島姫命は神大市姫と「市」という文字で共通し、また同一視されることによって、海の女神の市杵島姫命は「龍」と関連づけられることになりました。
そして、最終的に川や滝の守り神である瀬織津姫命と結びつけられたのだと思います。
瀬織津姫命は、山の水源から河口までの治水を網羅するので、「海の守り神」としてもあながち遠い存在ではありません。
しかし瀬織津姫命は記紀に登場しないため、明確に誰の御子神なのか、配偶神はいるのかなどの詳細は不明です。
ただ、瀬織津姫命が天津神であると困る理由は存在したはずです。
「記紀」の編纂時に持統天皇は、最高神であられる天照大御神を絶対にしておきたかったでしょう。
天照大御神は女神なので、高天原に同じくらい権威のある瀬織津姫命が列聖されていると、絶対性が毀損すると考えたのかもしれません。
神道の真髄は「神々による罪穢れの祓い」なので、国生みの神である伊弉諾命の直系に祓いの神がいると、非常に都合が悪かったとも考えられます。
だからこそ、持統天皇以降の治世では、治水の神は別の神名に変換されることになったのではないでしょうか。
神奈川県の江ノ島にある江島神社は、日本三大弁財天社と呼ばれています。
ここには、天女の伝説があります。
深沢という地で、五頭龍が大暴れして川を氾濫させたり、地震を起こしたりして人々を困らせていました。
ある日、天女が降りて人々のために島を作ると、その姿を見た五頭龍は天女に一目惚れし、求婚をしました。
そこで天女は「もう暴れないと誓ったら結婚してあげよう」と約束をします。
改心した五頭龍は天女と結ばれ、この地を治めるために尽力したとのことです。
江島神社では弁財天をお祀りしていますが、実際には宗像三女神の奥津宮、中津宮、辺津宮を総じて主祭神「江島大神」としています。
穿った見方かもしれませんが、江島大神は瀬織津姫命なのではないか、と思うのです。
「瀬織津姫命」という神名での祭祀がタブーとなったとしても、水神を祀る人々の気持ちが変わるはずはなく、それなら別の名前でお祀りしよう、となるのではないでしょうか。
「龍と結婚して地を治める」という性質は、どう考えても白龍と同一視される川の女神、瀬織津姫命を連想させます。
なぜ瀬織津姫命が宗像三女神に同定されたのかを考えると、宗像三女神は「国津神」だからだと思います。
記紀編纂時に、天照大御神と同レベルの天津神がいるとやりにくいはずです。どうせなら、国津神として扱った方が融通が効くでしょう。
しかし神格が周知されている以上、「瀬織津姫命」という神名は動かすことはできません。
だから、「湍津姫命」や「市杵島姫命」に置き換え、瀬織津姫命という神名だけを上書きしたのではないでしょうか。
水神を「弁財天」とするのも、天津神である瀬織津姫命を外来神であるサラスバティーに同定してしまえば、天津神であることは隠せるはずです。
だから私たち日本人は、自覚しないところで瀬織津姫様を崇敬しているのかもしれません。
私の仮説では「瀬織津姫命は天津神」という考えですが、これは全て推理にしかすぎません。
それが正しいかどうかも、学術研究を経ようと喧喧諤諤となるはずですし、結論は出ないかもしれません。
けれども、この探究はこれからも個人的に続けていくつもりです。
瀬織津姫様の秘密がわかった時、神様の謎が解ける気がしてならないのです。
