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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「憑依」について

楽太郎です。

5月13日の満月に世界線の分岐を体感してから、見える景色が変わってきました。
私自身のエネルギーの高まりと感覚の変化は、日常生活に差し支えるほどの混乱を生じさせています。
同時に妨害のエネルギーも強くなってきましたが、おそらく本日27日の新月にまた大きな変化が起こるように思えます。

今回の新月は双子座のエリアで起こり、土星が牡羊座に入って近々のタイミングであることから、自分の人生における課題が一新されるような意味合いが強いと考えられます。
これは1996年4月以来29年ぶりであり、当時も今のように大変革の時代でした。
ちょうどYahoo!の創業が95年であり、PHSが若者に普及し始めた時です。インターネットの黎明期の始まりであり、現在のデジタル時代の幕開けでした。

私は今日の新月から、さらに新しい時代が本格的にスタートするのだと思っています。
29年前に始まったデジタル時代は、現在では過渡期を迎え、世界を自由にするはずのインターネットはアメリカという国家に掌握され、そのインフラは極度に商業化されてしまいました。
それとすれ違うように、地球は次元上昇を完了しつつあり、私の言う「神の世、神代」は実感を持って現れてきました。

私は少しエスパー的な能力があったりするのですが、よく考えれば直感で人の行動や思念を読み取れるということは、スマホでLINEに繋がっていなくても遠隔で人の様子を知ることができますし、神様からのメッセージをきちんと受け取っていればChatGPTに相談する必要もありません。

これらは自然と人間本来に備わっている能力のはずであり、おそらく誰もが習得可能であるような気がしてなりません。
この能力を使えば、特定の営利団体に数十年単位で依存しなくても無料で使いたい放題の機能のように感じるのですが、残念ながら共感する方はおられないかもしれません。

この霊能力と霊力の高まりを実感しながら、精神的な時代の到来を私は確信しています。
眉唾ながら「風の時代」「スピリチュアルの時代」と予言されていた世界に、私たちは実際に足を踏み入れているのだと思います。

ただ、この時代の空気を実感できる人とできない人がはっきり別れ、おそらくできない人の方が大半です。
この分岐点こそ5月13日の満月であり、それまでの生き方考え方が総括され、その結果に応じた世界線を人々は歩むことになります。
この変化の流れは徐々に強まり具現化し、6月21日の夏至を持って完成となるのだと思います。

昨日25日に土星は牡羊座に突入したのですが、ここ最近やたら昔のことを思い出すというか、懐古的な生温い邪気を感じながら自分の課題と向き合わざるを得ませんでした。
今考えれば、私が自分の人生を呪うような後悔の原因を作ってきたのは、決して自分だけが悪かったのではないかもしれません。

私の霊能力が開花したことで、自分の体感するエネルギーを見分けられるようになりました。
そこで自分のエネルギーの性質がわかるからこそ、他人や集団とのエネルギーの共鳴や邪気、生き霊や悪霊などの霊的な干渉を選別することができるようになります。
特に外部のネガティブな波動を持つ存在からの干渉が、これまで私の人生に多大な影響を及ぼしていたことに気づきました。

私は物心つく以前から多感な子で、両親を始め周囲の人からは「ちょっと違う子だ」と思われていました。
幼稚園に上がる前から頭痛持ちで、自分の人生を振り返ると身体の不調や心の不安定さは一種の「霊障」であり、社会や大人たちはそれを弱さや病気と捉えていましたし、私もつい最近までそうだと思っていました。

しかし、こうして自分の心に影響しているエネルギーを紐解いていくと、必ずしも自分の波長だけでそうなっているわけではないことに気づきます。
特に環境による影響の方が大きく、なぜかわからないけどやる気が出なかったり、急に酷く気分が落ち込むような時は霊障だと考えてほぼ間違いありません。

ただこれは私が悪いとか、ネガティブな波動が良くないとか言いたいのではありません。
今こうして状況を理解して改めて思うのは、この唯物的な世界観は霊障をカムフラージュするのにとても都合の良い環境だったな、ということです。

例えば頭痛がする時、目の使いすぎとかストレスとか首肩のコリだと思って薬を飲んだりマッサージをします。
しかしこの原因がネガティブなエネルギーにあることを知らなければ、対処療法のためにお金や時間を使い、根本原因にアプローチすることはできません。
これはあらゆる病気に関してもそうで、病気も霊障以外に過去世から引きずっているものとか、血族由来の因縁で負わされているとか、様々なはずです。

自分の心身に起こる不調は、自分の内面と向き合うためのサインであったりするのに、なまじ薬や病院があるからそこへ行くものだという頭があります。
それで実際に良くなることも多分にありますが、トラブルの原因がエネルギーにあるのに、医療機関にお金と時間を使うサイクルの中から抜け出すことができません。

こういう仕組みも、この世界を唯物論的な構成物だけのものだと思い込ませたい勢力からすれば、上手いこと作られているように思えてなりません。
この世界において神仏や霊的な存在は眉唾物であり、精神的な事柄も全て科学と唯物論で説明ができ、それを信じお金を使えば迷信に惑わされることはない。
そう人々に信じさせることができれば、人々は率先して幸福のためにお金を求めるようになり、神仏を否定し権威を神格化することによって、生命力のある奴隷を手にすることができるわけです。

これをして得をする存在が何かというと、特定の選民的集団か神に仇なす隠れた存在でしょう。

こうして唯物史観のフィルターでカットされてしまった神仏やスピリチュアリズムは、これまでの世界では極めて色物に見られてきました。
しかし実際のところ、宇宙法則の一部に神仏が存在し、霊界はシステムとして稼働し、人間は修行とカルマの担い手としてこの世に存在します。
その仕組みは物理的には証明できず、反面その捉え方でなければ森羅万象を解き明かすことはできません。

真実の追求を覆い隠すことに意味があるとしたら、それは「堕落」以外にありません。
つまり、この世界における目的の喪失にこそ、神に仇なす存在の目的があるのです。
この世界の本質に至らせないことこそが彼らの本質であり、光に対する闇の存在です。

そうすることで、神性を否定し人間本来の能力を封じ込め、お金のために生涯を消費する労働機械に人間を落とし込めるわけです。
人間が人間に依存する世界を作れば、人間は横並びの序列だけを気にするようになり、上には神がいて下には魔物がいる世界に気づくことができません。
そういう世界は、この世界を牛耳っておきたい勢力にとって都合が良かったに違いありません。

この世界には物質的側面と波動的側面があり、実は波動の次元にこそ世界の本質が存在するのです。
ゆえに、その本質を覆い隠してしまえば、人々は真実を知ることなく物質面だけに終始し、覚醒することなく一生を労働に注いでくれるのです。

ただ、この時代も間もなく終わりを迎えます。

もう星の巡りでは新しい世界線に突入しているので、あとはエネルギーレベルで起きていた出来事が地上に反映されるのを待つだけです。
近年「幽界」の消滅が始まっているとか、浮遊霊や生き霊が飛び交っているとか、そう言った霊現象はその一端です。

人々がやたらと取り乱したりイライラしたり、「魔が差した」ようにしか見えない事件が起きたり、悪魔が乗り移っているようにしか見えない人の言動、それらは全て気のせいではありません。
「霊障」とは目に見える死霊が肩に取り憑くという類のものだけではなくて、エネルギーレベルの干渉で起こっているものだからです。

その霊障は憑依と言って差し支えないのですが、幽体が身体に入る以外に念や霊のエネルギーが魂に干渉することも多く、その形は様々です。
そのレベルのことは誰にも日常的に起きていることであり、ゆえに霊能者が改めて言うことはないのだと思います。

近年、スピリチュアルブームで精神世界への興味が広まったのは良かったのですが、「審神者(さにわ)」という部分に注意するスピリチュアリストはあまり多くありません。
審神者とは、メッセージを与えてくれる存在が何者かを見極めることです。
私の見る限り、霊能力のある人が必ずしも高次元の存在と繋がっているわけではないと思いますし、実際にそういう人も散見します。

仮に繋がっているのが高次元だとしても、霊的なメッセージを降ろして言って終わり、というだけでは本気で世を改め人を変えたい上位存在からしてみれば、言った本人が肚に落として貰わないと意味がないでしょう。
実は「審神者」は、目で見てわかることの方が多いです。
スピリチュアルな存在が降ろしたメッセージ自体が誇張的だったり、やたら我欲が張っていたり、そのメッセージを受けた本人がフィルタリングしていたり、それを間に受けて実践することを怠っていたり、見ていてスッキリしない印象を持つことがほとんどです。

神代と人世の分岐がはっきりしてきた今、次第にスピリチュアリストたちの言うことも変わってきました。
ついこの前まではまともなことを言っていたインフルエンサーが、最近は何がしたいのか何が言いたいのかわからない、みたいな状況を散見します。

この時期を境に、精神世界と人間との関係性も変化しているように見えます。
精神世界に繋がれる人はより精神性を求められ、その観念を生き方に降ろすことがテーマになっているのだと思います。
だから混乱が起きていますし、ついて行けない人も多いのではないでしょうか。

スピリチュアルな世界の本格的な到来は、実にシビアな現実に現れていると思います。
私自身、新たな課題に直面して自分でも何をしていいかわからなくなる時があります。
そこで自分に芯を通し、やるべきことをきちんと降ろして忠実に行動できるかが試されています。

神々からすれば、神代に上がるから特別な人材だと思っておられないように感じます。
慢心したり取り違えするような人間は惜しまず弾く、そこに神様は妥協しないのだと思います。
その心の隙間を常に魔の類が狙っていて、隙あらば覚醒の芽を摘み取ろうとしてきます。
だからこそ、油断せず常に己と向き合う緊張感が大切です。

実はこういうことを書くと、私がサイキックアタックや憑依に狙われる可能性が高くなるので避けたいのですが、今回は特に神様からのオーダーで書かざるを得ませんでした。

私は、神様から降りてきたインスピレーションは自分の一部だと思っているので、できる限り実践する方針でいます。
だから神様から降ろされたことは、わりとそのまま形にするようにしています。
ただ、あまりに真正面から正直なことを書いてしまうので、霊的な障害がしばしば発生します。

だから私としては気が進まないのですが、神様には逆らえません。
おそらく、これから神様のインスピレーションを反古にしたり自分のために使うような人は、神様から能力を外されていく気がします。
いくら信仰心があっても、神様に見放されたら元も子もありませんし、私は神様についていくだけです。

ただ神様、できるなら私をもっと強くお守りくださるとありがたいです。
今回は闇の存在について言及しているので、特に…。

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「悪」とは何か

楽太郎です。

仏教の世界には「回峰行」という修行があります。
この修行は念仏を唱えながら山々の参拝所を巡り、何十キロに及ぶ踏破を千日行うというものです。

仙台市秋保の慈眼寺の住職であられる塩沼亮潤和尚は、奈良県の金峯山で千日回峰行を達成された大阿闍梨であり、現在は執筆や公演活動などをされています。
塩沼和尚に関する記事からのお話ですが、「悟り」に至る上で最後まで課題となるのが、「人を嫌う気持ち」だそうです。
そして精神的な自由を手にするためには、「忘れきる、捨てきる、許しきる」という手放しが大切であると説かれています。

確かに、自分の感情を手放す時に最も根深い執着が「憎しみ」や「嫌悪」かもしれません。
「否定したい気持ち」とは、ただ単に不利益をもたらす敵対者を排除したい欲望から来るものだけではなく、自分が自分らしく生きるための信念とか、自分を守るために必要な自己保存欲とか、人間が生きる上で備わっている根源的な感情です。

自分が過去にされた嫌なことは、時が経てば別の見方ができて許せるようになったり、忘れてどうでも良くなってくるものです。
しかし、例えば今目の前で人を殴っている光景を見たり、明らかな詐欺の電話を受けたりしたら当然のように腹が立ちます。
この時に自分が当事者になりながら平然と笑って返せるようになるには、相当な精神的成長が必要です。

「悪」とは何か、と考えます。

今の世に蔓延る悪は、大抵は悪の顔をしていません。
往々にして悪とは、バイキンマンのように悪者顔をしてのさばっているのではなく、立派な肩書きと綺麗なイメージで善業をしているように振る舞うものです。
むしろ人に白い目で見られる程度の悪は可愛いものであり、本当の巨悪ほど目に見え難く、むしろ一般的には好意の対象であったりします。

現代におけるその巨悪が何なのかここでは語りませんが、例えを出したいと思います。

ある時、真心のある牛乳屋さんが、美味しい牛乳をたくさんの人に飲んでもらいたいと言い、毎朝無料で牛乳配達を始めました。
その牛乳はとても美味しくて、地域でたちまち評判になり、注文が殺到しました。
ただ無料ではサービスが続けられないので、割安価格で牛乳を定期配達することにしました。
地域住民は安くて美味しい牛乳が毎日飲めるので、とてもありがたがりました。

しかし牛乳屋は儲けに味を占め、次第に配達の値段を上げ始めました。
地域住民は多少の値上げなら致し方ないと思ってしばらく黙ってましたが、徐々に我慢しづらいレベルの価格になってきました。
では安く別の牛乳屋を選ぼうとしますが、その牛乳屋がほぼ業界を独占しており、替えとなるサービスがほとんどありません。

それで値段に不満を抱えながらその牛乳屋の牛乳を飲み続けるか辞めるか、という話になるのですが、特殊製法で作られた牛乳の味に魅了された地域住民は、簡単に牛乳配達を諦めることができません。
牛乳を飲むことを諦めない限り、その牛乳屋の牛乳だけを一生飲み続けることになります。
そして、牛乳の価格はその牛乳屋の言い値です。

これは例え話ですが、心当たりはないでしょうか。
始めは「良い」と思われて人々に受け入れられ広まったのだけど、後々になって欲が出て改悪されていると気づいた時には、代替手段がほぼ存在しない。
自分が諦めれば済む話だけれど、その手段を採用しなければ関わることすらできない。
今の世の中をコントロールしている大体の仕組みは、これと似たようなものです。

こういった形の支配が、支配を支配と思わせない形で私たちの足元に広がっています。
そこには明確な作為と策略が練られているのに、普通に暮らす上では「便利なサービス」だと思って享受しています。
その当たり前と日常の中にある思惑に鈍感であり続ける限り、思惑の中にある悪意にも気づかず、知らずのうちに悪事に加担していたりもするのです。

「3と7」を取引してイーブンに見せるようなビジネスは、消費者にWIN WINと思わせておきながら実際は向こうの方が遥かに取り分が多いのが特徴です。
それに気づかせないためにサービスを綺麗で公平なものに見せ、作為など存在しない顔をして人々から搾取をし続ける、そんな構図が世に蔓延っています。

この「悪」を悪と思わない人がほとんどです。
むしろそういう世の中なのだから、目鯨を立てる方がおかしい、と。
私は自分の目線ではこれ以上醜悪な仕組みはないと思いますが、他の人々からすれば疑う余地も感じないかもしれません。

これを目の当たりにして、許せるかどうかを自分に問い続けるのは「苦行」とすら感じます。

ただ、悪とはやはり「正義」の対極にある存在であり、それは光と闇のように、どちらか片方が存在するから背反が生まれる性質のものでしょう。
自分を正義だと思うから悪を立てねばならず、向こうも自らを正義だと思うからこちらが悪になり、ゆえに争わなければいけません。
つまり、自分が間違っていると思えば、相手が間違っていても仮に正しくても、敵対する理由にはならないはずです。

「正義」も「悪」も実際には見えないもので、人間が恣意的にレッテルを貼り、色分けするから形となって現れるものです。
目に見えて「憎むべき悪」があるから、色が目につく限り攻撃せざるを得ず、色がある限り平和にならないと考えれば、色をつけたもの全てを排除し滅ぼすことが絶対的な正義となり得ます。
そうして行われてきた人類の過ち、そして今もなお堂々と行われる民族浄化やジェノサイドは、「正義」がこの世に存在するからこそ、力のある正義側に「悪」とされた力なき人々が受ける暴力でもあります。

人間は、「悪」がある限りこの世に平和がなく、悪が存在しない世界こそが善なる完全な世界だとイメージします。
しかし、正義を完遂するには悪を根絶しなければならず、その正義も一方から見れば悪そのものです。
つまり、正義が存在する以上は悪があり、悪が存在する以上は正義を持って戦わねばならず、平和は永久に実現しません。

他人が悪に見えて仕方ない、許せないと思う気持ちがすぐに改められないのが人間です。
嫌いだし腹が立つならお互いに顔を合わせなければ良いだけで、気に入らないなら見ないようにして、それぞれが望む暮らしをし互いに干渉しなければ問題ありません。
しかしなぜか人間は、腹を立てたがり攻撃をしたがり、「棲み分ける」という選択に頭が及びません。
自分が気持ち良く暮らすためには、嫌いなものや憎むべき人がこの世から消え去ってくれないとダメだと思ってしまうのです。

この感情は、自分にはないと言い切れません。
それゆえ、頭ではわかっていても肚の底で綺麗さっぱり割り切るには成長が必要なのです。
確かに自分が傷ついた時、損をした時は誰かのせいにしたくなります。
けれど、そういう時ほど自分に起こった「良くないこと」は悪に結びつけず、自分の生き方を改めるための「気づき」にすることはできないでしょうか。

何か良くないことが起こる時というのは、自分の生き方や他人との関係において、そのままのやり方では上手くいかない、という暗示でもあります。
何か原因があるから起こる凶事は、実際に理由があるから発生するものです。
ゆえに、それに気づいて手放すものを手放す、そうすることは自分を成長させ同じ凶事を引き起こさないための対処法となります。

「悪」を見た時に腹立たしく思うことを、未熟のせいにすれば良いわけでもないと思います。
むしろ「悪」は悪と認識するから気づけるのであり、自分の心にある正義も悪と感ずる心も、人間本来の精神的な働きそのものです。
大事なのは、「悪を責めてはいけない」という無抵抗主義こそが正義だと思うことではありません。

「正義」という概念も、「悪」という概念も、そのものを消し去ることはできません。
できるのは自分が正しいと思い込む心を手放すことであり、相手を悪と決めつける心を手放すことだけです。
それは正義への執着を消すことであり、「悪」を認識し気づきとした上で、悪が気づきを与える存在という以上の意味を持たないということです。

目の前にはない、理想や概念としての「悪」を滅ぼそうとするなら、地球上を飛び回ってまだ見ぬ巨悪を倒すために殺戮を続けなくてはならないでしょう。
そこまでしなくても、地球は広いので自分が気の合う人たちと同じ土地で暮らせば良いだけの話です。
この理屈が通じない人たちに対しても、ただ単に自分が棲み分けて国境線を引けば済みます。

もし向こうが国境を越えて攻撃してくるなら、その時に正々堂々と迎え撃てばいいでしょう。
中途半端に「平和主義」を謳い、無抵抗こそ美学のように死に花を咲かせると、今の日本のように外国人が何をしても言い返せない国になってしまいます。
それでは社会はおろか、自分も大切な人も守りきることはできません。

悪とは気づきを与えてくれる凶事の象徴に過ぎず、悪意はせいぜい自分が得をするとか、人を破滅に陥れるとか、そういった目的しかありません。
つまり、高い理想を理性的に構築することを善とするなら、悪はその妨害を目的にすることしかできません。
悪意は応じるから応酬をせざるを得なくなりますが、それは悪意に対して悪意を返すから起こります。
ゆえに悪意に対抗するには、厳しい態度と善意だけが有効です。

暗く澱んだ感情は、明快で筋が通り、思いやりのある気持ちを最も苦手とします。
明確な悪意に対して、敵対しないという態度は相手を骨抜きにすることでしょう。
それは決して戦いを放棄するということではなく、悪意に対する戦い方は不戦的だという意味です。
悪の排除に目鯨を立てるよりも、理想を実現するために善業を重ねる方がよほど前向きですし、実際それ以外に世の中を良くする方法があるのでしょうか。

罪を憎まず人を憎まず」の精神こそ、悪を受け入れ正義を手放すことに繋がります。
ただ、人々がこの意識に至るまでは長い道のりかもしれません。

最後に、「悟り」について語りたいと思います。

冒頭で取り上げた「千日回峰行」ですが、天台宗の比叡山が本家です。
比叡山の千日回峰行は7年間続けられ、1日30キロの山々の礼拝所を念仏を唱えながら巡り、それを800日続けた後に100日間を60キロ、最終段階である100日間に1日84キロを踏破し、最後の日々は睡眠時間2時間、14時間に渡る回峰行となるそうです。

この厳しい修行を終えた満行者は歴代で51名しかいません。
その厳しい荒行の歴史に名を残す大阿闍梨に、「正井観順」というお坊さんがおられました。
この方は千日回峰行を一度ならず2555日間続けられ、回峰行中に倒れ亡くなられたそうです。

観順和尚は明治から大正にかけての方で、元は津軽の豪農の家で生まれ、自身も豪商として活躍されていました。
しかし自身が協力した選挙での不正や、親戚との金銭トラブルなどに嫌気が差し、当時最大の海難事故であった瓊江丸殉死者の霊を弔ったことを機に、本格的に仏門に入られました。
ただ、宗門では比較的高齢で経歴が浅かったこともあり、厳しい修行に臨もうと回峰行の真髄に目覚めていかれました。

冒頭にご紹介した塩沼和尚は厳しい修行が即ち悟りに至るのではないと説かれていますが、無心に山を巡り念仏を唱え仏と心を一つにすることは、生きながら煩悩を手放す行為そのものであり、悟りの実践なのではないかと思います。
つまり観順和尚は、回峰行の中にこそ悟りを見出されたのかもしれません。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、人間の欲は備わっているものであり、煩悩自体を消し去ることはできないと悟られました。
欲や煩悩は「悪」と誤解されがちですが、その悪の要素を取り去ってしまうと人間としての心も手放すことになります。
しかし、人間が人間である以上、捨てられるのはこだわりや執着だけであり、概念や感情そのものまで捨て去ることはできないのです。

従って、「悟り」とは惑わない心そのものであり、その心における許しこそが悟りと言えるのではないでしょうか。
だからこそ、異なる意見を持つ者と出会って平常心でいるのは難しく、ただそこで無闇に争わず、相手を許す心苦しさの中にこそ成長があり、気づきや「悟り」への道があるのかもしれません。

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日本をどうするか?

楽太郎です。

今回は、世界経済の切り口から日本の今後について語りたいと思います。
結論から言うと、これから世界恐慌が起こります。
経済的に説明すれば、今アメリカのトランプ政権が目指しているソフトランディングは失敗します。

トランプ政権、1兆ドル超の26年度国防予算要求へ-13%余り増額 | Bloogberg

米政府から5月2日に発表された2026年財政年度予算請求額によると、国防費は前年度比13・4%増の1兆119億ドル(約145兆7000億円)で、政策的支出を示す「裁量的経費」は前年度予算の22.6%削減、歳出削減額は全体で1630億ドル(約23兆6000億円)となっています。
この削減対象となった分野は、エネルギー・農業・環境政策・教育・住宅補助・都市開発・海外支援などで、ほぼ国防費以外は全削減の割に予算請求額は過去最高となりました。

トランプ大統領は去年の大統領選で反戦平和と財政緊縮を打ち出して当選したはずですが、イーロン・マスクと共に肝入りの歳出削減に乗り出したものの、この予算案を見ると軍事費以外の予算を削減して軍事費に回しているだけに過ぎないように思えます。
アメリカの国防総省に費やされる予算は、不正支出や不明瞭な会計が多く、監査法人から何度も財務諸表を突き返されるほど会計に関してブラックな組織です。

国防予算はイスラエルのガザ侵攻に横流しされ、F16戦闘機などが無償供与される形となります。
ウクライナ侵攻ではウクライナ軍の軍事支援に渋りつつ、天然資源の差押えやAI兵器の開発を強要しながら、イスラエル軍が更地のようなパレスチナ自治区を空爆するために米国の税金が使われるのです。

トランプ大統領は、ペンタゴンの言い値通りの予算を捻出したように見え、果たしてトランプ大統領は選挙公約を遵守する気があるのか、疑わしくなってきました。
トランプ大統領が公約に掲げていたDSの糾弾や人身売買に関する摘発が有耶無耶になっているとは言いませんが、この予算案を見ると少なくとも米政府の放漫財政にメスを入れる気はないように思えます。

あれだけ威勢が良かった報復関税政策に関しても、諸外国からの反発に耐えきれず弱腰となり、猶予期間を設けることで混乱を避けているだけです。
トランプ大統領が推進するアパレルなど製造業の国内回帰は現実的でなく、製造業を中国など人件費の低い国々の競争力に匹敵するレベルにするなら、大量に移民を入れて低賃金で働かせなければ低価格競争に勝つことはできません。

移民に反対しているトランプ政権が米国民を低賃金で働かせるのは不可能に近く、しかも低収入の市民が高インフレの経済を支えることは難しいでしょう。
つまり、トランプ政権は真逆のことを言いながら真逆のことをやっているのです。
ただしトランプ大統領が意図的にグレートリセットの引き金を引くつもりはなくても、このままだと意図せずとも必然的にトリガーを引くことになるはずです。

アメリカの調査会社「バンク・オブ・アメリカ」のファンドマネージャーに対するアンケートでは、これまで米国投資を牽引してきた米国株・株式一般・テクノロジー・エネルギーは弱気含みとなり、電力や債券、ユーロ圏やイギリス株などに移っているそうです。

今のアメリカ経済を支えるテクノロジー分野、マグニフィセント7が牽引するS&P500の時価総額は過去最高域に達しながら、実は水面下では海外投資家の評価に戦々恐々とする現実があります。
実は、海外投資家の持つ米国株は20%弱の18兆5000億ドルと言われており、これまでAIバブルを蒸して外国から投資を呼び込んできた米国は、彼らの顔色一つで奈落の底に落ちる危険が常に隣り合わせです。

ミシガン大学の調査では、現在のアメリカの景況感、インフレ率共に1980年来最悪であり、FRBが鉛筆を舐めて出している統計を好意的に捉えたとしても、経済政策に関して悪手しか打っていないトランプ政権が、経済学200年の歴史を塗り替える快挙、つまりは奇跡のソフトランディングが可能かと言えば、私は全くそうは思いません。

投資家やエコノミストや経済評論家は、自分が損さえしなければ良い人たちが多いので、本当のことを言う人はかなり少ない世界です。
そこで出回るデータや論評は、はっきり言って有象無象に過ぎません。
何を楽観視して何を危険視するかが問われますが、「誰も真実のデータを出していない」可能性もあり、警戒はしても楽観視するような情報ほど注意する必要があるでしょう。

このソフトランディングに失敗すれば、アメリカに訪れるのはスタグフレーション、つまり景気後退とインフレのダブルパンチによる経済崩壊です。
これによりリーマンショックを超える米国株と国債の大暴落、基軸通貨ドルの失墜と世界経済のバランスの崩壊、脆弱なユーロ経済圏や西側諸国、我が国日本も例外なくアメリカの恐慌に巻き込まれて行くでしょう。

この数年、アメリカのマグニフィセント7が牽引してきた米国の株式市場は、4月以降の取引営業日の2割が2%前後、株価が乱高下しているというデータが存在します。
マグニフィセント7と言えば、生成AIブームの火付け役であり、GoogleもMicrosoftも独占禁止法で司法省に目をつけられている企業であり、生成AIの特性上、著作権法や個人情報などの人権を無視して開発を進めているハイテク分野でもあります。
権利的に見て社会的・文化的な影響を全く顧みることのない技術開発は、実際はアメリカの株価を牽引するための広告として使われていたりします。

果たして、これまで100兆ドル以上を費やして一つのアプリでしかない、正確性も権利面もあやふやな生成AIが文字通りの「AI革命」が成し遂げられないまま、テック株の大暴落に巻き込まれるとしたら、果たしてシリコンバレーの富裕層が夢描いた「AIユートピア」は実現するのでしょうか。

これらのビッグテックへの投資は、アメリカの中堅より上の大銀行が主体であり、それこそバンク・オブ・アメリカやJPモルガンなどの金融機関です。
米国株・国債の大暴落を受けて焦げつくのはこれらの金融機関であり、大して命に関わりのないアプリに莫大な投資をし続けられるとは思いません。

AI開発は、明確な革新技術となり得るものですが、AIロボットやデバイスの製造には全世界にサプライチェーンが確立していなければ安定供給は難しく、どうしてもiPhoneのように寡占企業による専売特許になって行かざるを得ません。
そのため今日のような不安定な国際状況では、生産と流通の面で課題が多すぎるのです。

生成AIに関しては誇大広告の部分が多分にあり、実際に現時点で言えば大層な技術ではありません。
AIバブルが崩壊すれば内実を知ることになると思いますが、現状はAIのユーフォリアの渦中にあるため、人々はなかなか耳を傾けないでしょう。

さて、アメリカが仕掛けたポンジスキームと言うべきAIバブルに乗っかり、日本政府高官や官僚組織、政治家や大企業と学閥のお偉いさんはさぞかし豊かになったことと思います。
それを尻目に、アメリカの経済崩壊が起きたら日本も巻き込まれるのかと言う話ですが、経済評論家の間ではわりと楽観的な意見が主流です。

日本には1.2兆ドルの外貨準備高があり、国内経済の基盤が盤石なため、諸外国に比べると比較的軽微だろうと言われています。
90年代の不動産バブルは大体アメリカから仕掛けられましたが、バブルの予後が最悪だっただけで崩壊自体は経済にさほど深刻ではなかったようです。
日本は未だに国内資本率では世界トップクラスの優良国であり、純粋に政治家と官僚に恵まれないだけの国なのです。

ただ、国家のトップにいる人々が日本人にとって最大のネックであり、国民が今すぐ目覚めたとしても打つべき手段はほとんどないでしょう。
落とすべき政治家の次に出てくる候補者を消去法で選ばなければいけない国が、奇跡的に復活するはずがありません。

現状、ただでさえ物価高で人々の労働意欲が低下している時に、消費行動が爆上がりする要因は皆無です。
食品も値上がり、流通も細くなっている実態経済において、世界恐慌と関税戦争に巻き込まれただけで一般市民の生活はますます逼迫するでしょう。
スピリチュアル業界では「2025年問題」とか言われますが、南海トラフ地震の脅威も身近にある中、大恐慌と大規模災害が重なれば手も足も出ない状況に置かれるのは目に見えています。

このカタストロフは目前に迫っており、これは脅しでも予言でも何でもなく、大不況下で大災害が起これば極度の混乱状態となり、にわかに復興できないのは冷静に考えれば誰でもわかります。
だからこそ、日本人には一人でも多くこの危機感を共有したいと思うのです。

日本人は戦後80年間、外国の富裕層や企業が雇うロビイストが贈収賄をすることで、実質的に動かされてきた米国政府の言いなりになって来ました。
それでも、日本人は優秀な民族なので、島国根性と言われながら独自の技術や文化を発展させ、産業として世界に認められました。
しかし、そこで「世界」というものを意識し始めて、日本はダメになったように見えないでしょうか。

現在、リバイバルブームで注目を浴びる製品やコンテンツの殆どが、90年代までに日本国内向けに作られたものです。
2000年代に入ると「グローバリズム」なるものが台頭し、外国資本だけでなく海外文化への受け入れも急速に進んで行きました。
日本企業が「世界」と言うものを意識し、西側諸国のルールや価値観をスタンダードにして行った結果、国内産業が衰退し外資系企業が隆盛する今の現状があるように思えてなりません。

日本の良い部分は形式化し、むしろ真髄に近い部分を海外に持っていかれ、日本人が外国の模倣を受け入れるしかない現状を鑑みるに、やはり上手いことやられてしまったと考えられると思います。
日本人は日本の国内市場を意識し続ける限り、独自の経済圏を保守し続けることができたのではないでしょうか。
日本が不動産バブル崩壊から立ち直れず、ダラダラと衰退の一途を辿る要因となったのは、一重に日銀の度重なる失策と円安政策にあります。

そもそも、日本の購買力平価に比較して円の通貨価値は半値に近く、実は国際競争力において覇権を取れる実力を持ちながら、日本政府はわざとそれを回避してきました。

日本が円安方針を取れば海外への輸出は黒字化し、貿易赤字が膨らめば企業収益は上がります。
国民に債務が増大すると、自己資本以外に資産を持たない市民に借金をさせることで、政府や大企業、資産家はますます潤います。
特に国内の輸出企業はグローバル化に成功した企業が多く、大企業がほとんどを占めるがゆえに影響力は甚大です。

こうして国民を貧しくさせることで利潤を得てきた人々がいる一方、家族を作れず少子化に拍車がかかった若者世代は豊かになりづらく、人材不足の穴埋めをするために外国人を斡旋することで儲けている人々もいます。
そして、物価高が続くのも日銀が円安方針を変えないからであり、その理由は円高が進むと昨年8月の米国株大暴落のような「円キャリートレード」の巻き戻しがトリガーとなり、米国経済は再び大暴落の憂き目に遭う恐れがあるからです。

つまりは、全てアメリカを中心とした国策であり、アメリカの支配下にある限り日本は復活できないどころか、一緒に破滅する必要のない日本までもが奈落の底に引きずり降ろされるということです。
この事態を私たちが止めることはできないとしても、ここまで見えても何もしない方が不可思議と言うものです。

ただし、今から政治活動に熱心になったところで時すでに遅しと言わざるを得ません。
現状でも国内がここまで荒れている上に、世界経済の崩壊は日本の立て直しよりも先にやって来ます。
だから私の考えとしては、ハードランディングへの備えをしつつ、動乱の起こる日本をどう作り直して行くか、と言うところに頭が向いています。

おそらく、現時点でその規模まで予測することは不可能です。
ただ明確に言えることは、日常的に手に入るものは入手できるかわからなくなり、食卓に並ぶ食べ物も、いつも通っている店もいつまであるかわからないと言うことです。
何となく今の生活が続いていくという頭でいたら、気持ちが追いつかなくなるかもしれません。

だからこそ、社会や経済に対する依存を極力減らし、自分自身も文明から自立できるような準備をしていくべきだと思います。
少なくとも、食糧難が長期化した時に何を食べて生きていくか、心身を病まず健康的に生活できるのか、想像を巡らせるところから始めてみてはどうでしょうか。

この記事をここまで読んでいただければわかると思いますが、全ては「アメリカ」という国家のエゴ、あるいはその背後にいる少数の人々の匙加減に100年近く振り回されて来たのが、我が国日本です。
このカラクリを知り、知った上でどう判断して生きていくか、その立場でものを考えてこそ日本の未来をしっかり見ることができるでしょう。
そして、自分一人でも何ができるかを考え、自分一人でも行動する信念と勇気を持つことです。

今こそ、「日本人よ立ち上がれ」とは言いません。
何も知らず、何もやらずに死にたくなければ、この世界と日本という国に対して、本気で向き合わなければいけない時が来たのだと思います。

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新しい時代の「金運」

楽太郎です。

ここ数日は、無意識に過去の記憶が噴き出してくる現象に遭遇しています。
突然、何十年も忘れていた出来事や光景が思い浮かび、懐かしさと同時に奇妙な違和感を覚えます。

何の前触れもきっかけもなく古い記憶が呼び起こされることで、昔あった場所や人が今どうしているかを調べたくなったりします。
そうして追憶に費やす時間は、意識が過去に向かう限り建設的な思考ができません。

この「懐古志向」の流れは、邪気の一種ではないかと思います。

この邪気はこれまでの殺伐としたエネルギーとは違い、愛着や良い思い出を媒介とするために邪気とは認識しにくいです。
しかし、覚醒を阻害し引き戻すエネルギーに変わりはなく、この邪気は自分の中の過去に対する後悔や、「昔は良かった」という感情に巣食います。

この保守的な邪気は、おそらく集合意識の具象化であり、人々がこれまでの価値観で生きることができなくなったことによる反動形成ではないでしょうか。
つまり、これからの時代を生きる指針が見つからないため、懐古主義の大キャンペーンを張り、古いやり方を再び指標に据えようとしているのだと思います。

つまり、これまでと同じやり方を続けるための同調圧力であり、逆に言えば同じことを続ける以外は新しいことを目標にしない、という意思決定でもあります。
自己模倣と再生産だけを延々と繰り返せば、これまでの物質中心の短絡的な世界を維持し続けられると人々は無意識に思っているのでしょう。
しかし、水槽の中で澱んだ水を循環しているに過ぎないので、いずれ長くは持たないはずです。

この懐古志向の邪気は、劣等感や愛着や憧れなど人の柔らかい心の部分を刺激し、温かい感情を苗床にする分タチが悪いのです。
この擬態した邪気は、優しさを疑いもなく持ち続ける限り古い時代のマインドに押し流す力があります。
何となく心の隙間に入り込まれて、人世のエネルギーに引き戻されてしまった人もいるかもしれません。

神代に上がる人々が出てくる時期に、この種の罠は巧妙な悪意を感じます。
人世に押し戻そうとするエネルギーに触れると、何となく危機感が麻痺した状態になり、この平和で微妙な社会がダラダラと続いて、いずれ世の中がジワジワ良くなっていくのではないか、と錯覚し始めます。
しかし、その平和ボケした感情こそが邪気であり、警戒感を解かれた意識は搾取に疑いもなく浸かり切って抜け出せなくなってくるはずです。

「お金」が万能である時代は未来永劫変わらず、どれほど荒れた世であっても経済の中心にいれば、食うに困らず今まで通りの幸福を手に入れられる、そう思い込むようになってきます。

しかし地球が次元上昇をして、神々が主導権を握る世になるべく動いているのは、そう言った拝金主義と特定の支配階級による帝国主義が役割を終えようとしているからです。
何故この期に及んで、神々がなぜ新しい資本主義社会をわざわざ作る必要があるのか、その理由を考えればこれまでの経済の延長に神々の望む世があるとは思えないでしょう。

これまで人間中心の経済活動が全てだった時代では、各個人が望まなくても人や組織の下で働き、労働力を「お金」に変換して生活をして来ました。
そこでは、自分の意志や才能とは関係なく、他者からの要求に基づき賃金のために取引することを優先し、むしろそのために我欲や信念を捨てるのが望ましいとまでされています。
その文明圏において、お金はあらゆるものを手にすることができる手段である一方、モノやサービスを生み出すために各々が自らの意志とは無関係に使役される構図がありました。

神々は、この仕組みにメスを入れようとしているのだと思います。

お金が中心になる世界においては、各個人の価値観や生き方、発想や個性を型に嵌めることで大衆を扇動し、消費行動をコントロールして来ました。
その仕組みで最も美味い汁を吸うのはごく少数の特権階級だけであり、多くの人々は何の疑いもなく奴隷的使役を強制されているのです。

これから「風の時代」だからと、自由な気風で生きていくことを理想としながら、同時に自分以外の人々は会社や工場で一生働き続け、自分だけがその恩恵を享受し続けられるという発想は矛盾します。
魂の赴くままに自由でありたいと願うのであれば、誰かが奴隷的でいて欲しいと思う心こそ、古い時代のマインドそのものです。

神々は人間が掌握してきた「貨幣」という物質的なエネルギーを、次の時代仕様に変えようとしています。
それは今日の資本主義経済が袋小路に入り、大規模なポンジスキームが横行している現状を見れば、常識的な目で見ても限界だとわかると思います。
世界通貨たる米ドルの崩壊と金の暴騰、そのバランスが壊れた瞬間、金融主体の時代は終焉を迎えることでしょう。

では新しい時代の「お金」とはどんな意味を持つのでしょうか。

ここで言う「お金」とは、貨幣や取引通貨だけのことを指すのではありません。
まさに「富」と同義であり、物質的なエネルギーだけでなく精神的、人との繋がりや信頼などから得られるあらゆる所有物を指します。

つまり、円やドルなどの基軸通貨として流通の形を取らずとも、エネルギーの循環や交換が物理的な現象となって、各々の手元に届くのが新しい時代の「お金」だと思います。
これまでは基軸通貨のドルが世界経済を支配していたからこそ、巨大な帝国主義が大手を振る時代だったと考えられます。
ゆえに、円やドルに代替するあらゆる取引手段での流通が可能になれば、資本による経済的支配のルールからは解放されるはずです。

それは具体的にどんな形になるかわかりませんが、モノとサービスを交換するだけなら当事者が直接取引すれば良いだけですし、貨幣でなくともクーポンやトークンがあれば商業取引は可能です。
あくまで国家経済の支配から逃れた取引が実現すれば良いのであり、要は代替手段が限りなくあればそれに越したことはないという話なのです。

今もそうですが、人間社会では他人からお金をもらうために人に奉仕するという仕組みになっています。
「お金」を得るには人間を富の源に置かなければなりませんでしたが、よく考えれば人から貰わず、人にやってもらわなくても「ゼロ」から作り出すことは可能です。
野菜や穀物にしても、土に種を蒔いて水をやり続けて育つ分にはあまり元手はかかりません。
紙にしろ墨にしろ、自然にあるものを加工すれば自分の手で生み出せるもので、自分で作ることができれば他人からモノを買う必要がなく、あるいは自分の手元にあるモノを人に譲ることもできます。

「ゼロ」からお金を作り出す仕組みに気づけば、「金運」を宝くじやお金持ちとのコネに賭けずともお金は巡ってくるでしょう。
新しい時代の金運とは単一の「貨幣」に特化したものではなく、複合的総合的なもので様々やルートや形態を持って現れてくるものだと思います。

そのプロセスにおいて、お金とは物質次元のことだけではなく、「エネルギーそのもの」だと言っても過言ではありません。
例えば真心を込めた商品があったとして、その付加価値がそのままお金になるわけではなく、愛情がエネルギーとして変換され、そのエネルギーを受け取った人が対価を払いたくなるのが、本来の商業のあり方です。

いくらラベルに「真心こもった」と書いたところで、精神的なエネルギーの交換が行われなければ、人々は相変わらず安くて無機質な工業製品を求めるでしょう。
ただ、作り手の人柄や思い、それ以上に磨かれた技術による高度な作品性がエネルギーとして人々に伝わることで、結果的に商品価値に繋がっていくはずです。

ゆえに、新しい時代において「金運」とは一度エネルギーに変換され、エネルギーの質と量に応じて貨幣価値などの形で具現化されていくでしょう。
その仕組みにおいて、コマーシャリズムの資本力で如何様にでも価値を決められた経済は役割を終えていくはずです。

私の話をするなら、現時点でお金の巡りは非常に悪いです。
その反面、植物を育てるセンスや予知などのスピリチュアル的な能力が目覚めたことで、自分の才能を富に結びつけやすくなりました。
通常の「お金」として縁遠くなりながらも、別の形でお金を稼ぐ手段を幾つも身につけたのです。

自然の恵みが無償であるように、自分の才能に係る知識や技術はタダのものであり、ゆえに無から有を生み出す力こそ本来の「金運」なのかもしれません。

その発想や活力を与えて下さるのは神様であり、神への信仰心こそ金運そのものであると言っても過言ではないと思います。
お金は「目に見えるもの」「人間が持っているもの」だと思うからこそ、この成り立ちを理解することができません。
お金が目に見える形でなければ不安なのもわかりますが、それゆえ目に見えない形のお金を信じれば、本当の金運が巡って来るのかもしれません。

それができる人間はこの世に数少なく、陰徳のような修行を伴うからこそ、この金運を掴める人は限られているはずです。
ただそのような行いほど神様の願いだったり、神々からのお役目であったりするわけで、だからこそ誰にでも手にすることができるわけではないかもしれません。

人間は評価や対価が目に見えてないと、すぐに諦めてしまいます。
ただ、真心のあるやり方はすぐに結果になり難く、それゆえに誰に見られてるかわからなくてもやる、くらいの心構えが必要です。
けれども、こういう直向きなところを、人も神様も注意深く見るものです。

現在の金融が一人歩きする数字の世が改まるならば、健全な商業の時代に戻っていくでしょう。
その時代の「富」は、きちんとエネルギーを循環する能力を持った人々が持つべきでしょうし、そういう善意ある人たちによって新しい世界の経済が築かれていく気がしてなりません。

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「神代」とは何か

楽太郎です。

先ほど、散歩をしていたところすごい光景を見ました。
薄曇りの雲の向こう、太陽を取り囲む広い円形の虹がかかっていました。

あまりに不思議な光景で唖然としました。
スマホも持ってきていなかったため、残念ながら写真に収めることはできませんでした。
こういう神秘的な光景は、カメラで撮って見せびらかせば良いというものでもないので、これはこれで良かったかもしれません。

13日の深夜の満月から、確かに何かが変わりました。
私の目線からは、見える景色が全て美しく感じ、木々や自然の風景がまるでジブリアニメか新海誠監督映画のような、キラキラした空想的なイメージと重なります。

出会う人それぞれが輝いていて、以前のような良くない波長を感じ取れず、全ての人が善人であるかのような印象に見えます。
確かに波長の高い低いは感じますが、基本的に邪気を感じません。

身体が軽く、頭の一つ上のあたりに意識がある感覚で、若干フワフワします。
息をしているだけで脳が蕩けそうになるというか、何も意識しなくても気持ちが良いのです。

不思議なことに気がついたのは、眼鏡をしていないのにやけに物がハッキリ見えるということです。
私は目のピントが合ってる感覚について、これまでの近視そのものが霊障だったのかもしれないと思いました。

これほど感覚が変化した理由は一つで、私の魂が「神代」に上がったからだと思います。

歩きながら、「神代」とは何かを考えていました。

私が神代と言って上がることを目指してきた世界は、特別な異世界という訳ではありません。
ただ普通の意識の波長域とは違うというか、現実的に目に見える世界は変わらないのですが、高い次元のエネルギーと感応しやすいという特徴があります。

そのエネルギーの波長を捉えることによって、インスピレーションや想像力が刺激されます。
この波長域の向こうに人々が言う、神々や天使や精霊などの高次元の存在がいるのでしょうが、実際に何か特別なものが見えるわけではないと思います。

この高い波長域に意識がある限り、ネガティブなエネルギーは受け取りづらくなります。
目に見える現実が違うということは、引き寄せる現象も変わってくるということです。
ポジティブな波長は前向きで発展的な展開をもたらし、世がどれほど混乱してもカオスの波動に飲まれることはないでしょう。

ここに至るまでに様々な試練がありましたが、おそらく神仏に対して無自覚で、どのような信念であっても「来る人には来た」という世界線だと思います。
私自身は、「神代か人世の人か」という線引きはあまり意味がない気がしています。
その人それぞれに引き寄せる事象が違うだけで、これまでの世界のように運の良い人は運が良いし、不運続きの人は不運が続くようなものです。
それぞれの人に人生のテーマがあり、それを他人がどう批評しても意味のないことです。

ただこれまでの時代と明確に違うのは、「魂を人格よりも優先する」ことが出来た人に幸運が巡って来るということです。
魂を人格より上位に置く、つまり頭で考え欲望や感情で動くよりも、心の奥底から湧き出る力を優先させて行動することを言います。
魂とは神から与えられたものであり、ゆえに魂と繋がることで神のエネルギーを自分に降ろすことができます。

そのためには「心」と向き合う能力が重要で、自分自身の魂と繋がるからこそ、自分本来の力や才能を引き出すことができます。
心と向き合い、自分の本音や本当にやりたいことを知るのはとても難しく、感情的なもたれ合いや依存があれば、それを手放さなくてはこの感覚を自分のものにすることができません。

神代に上がるための修行とは、「浄化に始まり浄化に終わる」というものでした。
そのための浄化は、自分の波動をクリアにすること以上に、社会的な依存や精神的な依存から自立し、自分自身のエネルギーを自分のために使えるようにしなければなりません。
自分のエネルギーを自分のために使えるからこそ、余剰なエネルギーは他人に分け与えたり、世の中のために使うことができるわけです。

しかし、私を含めて人々は生きる上で働かなければならず、「お金」を得るためには自分のエネルギーを労働に変換する必要がありました。
ただ、働くことはしょうがないにしても仕事を人生の全てと考えず、自分の人生の指針を生きる道筋として定め、現在のルーティンから精神的に自立すれば今の職場まで投げ出す必要はありません。

神代に上がるために、神様が重要視されていたのは、自分自身のエネルギーを自分自身のものに出来るかにかかっていたのです。
そのプロセスにおいて、自分のエネルギーを社会のシステムに依存したり、他者からエネルギーを搾取して自分の支えにしていた人は、当然ながら自分のエネルギー源を自分の元に取り戻すことができません。

そのエネルギーこそ、「分身霊(ワケミタマ)」として人それぞれに授けられた魂の力であり、この生命力を引き出す過程を人や何かに依存している以上は、自己の独立性を得られません。
自分で生命力を引き出す能力が乏しいため、そういう人は他人を使役してエネルギーを奪ったり、富や財産を吸い上げて物質的なエネルギーを自分に集めたりしました。

ただ長い間、これまでの社会にエネルギーを搾り取られた人々が残り滓のようになってしまったため、企業や政府はもう搾り取れそうにない日本国民を見限り、外国人を大量に呼び寄せてエネルギー源を代替しているのです。
そういう仕組みに気づき、実際には完全に抜け出せなくとも、精神的な自立を守り抜いた人は次の世界に足を踏み入れることができたのだと思います。

神様は、そう言った搾取の枠組みの中に目的意識を見出し、自分を疎かにして生きるのはやめようと促しておられたのだと思います。
だから、「自分のエネルギーを自分のために使う」には、あくまで独立独歩の精神が必要でした。

神様は心ある人々の心根を立たせるために、これまで手放しや浄化を促すような気づきを社会に与えてきたのです。
世に起こる悪夢としか呼びようのない事象も、究極的に言ってしまえば人間に気づきと目覚めを促すために起こされたと言って良いと思います。

普通に見れば破滅的で暗澹たるものにしか見えませんが、ここで人々が心を改めて立ち上がることこそ、神様が意図したことだったのでしょう。

私には、数週間前に「水と油」のビジョンが突然見えました。

ここで言う「水」というのは人々の感情であり、感情で繋がったり離れたりしているうちは、水に漂う油も一つになることはできません。
油がまとまるには、水のような「感情」ではなく同じ意識、同じ目的である必要があります。
その目的意識こそ「魂」からの繋がりであり、感情で似たもの同士で繋がっているだけでは、目的意識が一つになることは困難です。

だからこそ、独立独歩の精神で生きる人々が理性と情熱で繋がって行ける場を神様が用意しました。
それが「神代」であり、新しい世界の基盤となるエネルギーの空間なのです。

私はここまで到達した人が多いのか少ないのか、まだ今のところ認識できていません。
おそらく波長の高い低いでわかるのは当面先のような気がします。
しかし、見回す限り人々の波長域が全体的に開放的になっている印象があります。

私は未来に関して全く悲観していませんが、喜ばしい時代になるには悲惨な過程を経験しなくてはならないと思います。
今、この世界や社会に巣食う搾取の仕組みは、想像以上に悪辣で、複雑に足元まで張り巡らされています。
これを取り除くためには、ジワジワ世の中が良くなっていく程度では不可能で、どうしても大変革は避けられないように思います。

結論的に、「こうすれば助かるだろう」と言う目論見はほぼ通用しないはずです。
その誰にも予測し得ないカタストロフを凌ぎ切るには、自分の直感と神様からのメッセージが頼りです。

逆に言えば、それさえあれば生き残れるかもしれません。
人間の人智を超えた法則が発動する世界、「神代」がいよいよやって来ました。

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「神代」の分岐

楽太郎です。

本日5月13日、午前1時56分に満月を迎えました。
私はなぜかこの時間帯に自然と目が覚めました。
これまでやたらと身体が痺れたり痛かったのですが、全体的に楽になっているのを感じました。

ここで「神代と人世の分岐」がはっきり行われたのを実感しました。

昨夜は炊飯器のスイッチを押し忘れたり、ブログの記事も散漫になってなかなか纏まらなかったり、色々と感覚が狂って頭も身体もチグハグな状態でした。
翌日の深夜には満月となるため、夕方から波長が乱れ始めるのは説明がつく気がします。

最近、ルノルマンカードの占術を覚えて、今起きている感覚の狂いについて出してみたところ、「道」というカードが出ました。
ルノルマンの「道」は「分岐点」「選択」「ターニングポイント」を示すカードです。
私は直感的に、「ああ、今この瞬間に分岐が起きているんだ」とはっきり理解しました。

私が「神代」「人世」と言う二極化世界は、物質次元は共有しながら、魂の次元が異なる世界線を指します。

同じニュースを見て、同じ配達業者から荷物を受け取り、好きなアーティストの話ができるような日常空間にありながら、それぞれの魂の質によって起こる現象が違います。
ある一方にはポジティブなエネルギーが満ち、良い波動を持った巡りがやってきます。
とある一方にはなぜか不運が続き、気分は落ち込みネガティブな波動は自ずと悪事を引き寄せます。

この奇妙な現象傾向が「神代と人世の二極化」です。

神代とは神様が加護につく人々の世界線で、人世とは幽界の干渉が強い、神に見放された世界線です。
この両者ははっきり線引きはされているものの、おそらく神代から人世に堕ちるのは容易く、人世から神代に上がるのは相当難しい、そう言った魂の境界線です。

経緯を振り返れば、2024年9月22日の秋分で大きな切り替わりがあり、私はまだこの時にはっきりとスピリチュアルな領域に足を踏み入れていませんでした。
やたらと目に見える景色がプリズムがかっており、私は目がおかしくなったのかと疑いました。
空を見上げれば、異様に空が近いと感じるようになり、まるで迫ってくるようでした。
街は何となく特撮映画のミニチュアみたいに見え始め、オモチャの街を歩いているような感覚がしたりしました。

去る12月21日の冬至点で、きっぱりとエネルギーが変わりました。
この頃には見よう見真似でスピリチュアリズムを齧り始め、この「招神万来」と言うブログも始めていたので、その頃の記事もあります。
あまりに波長の切り替わりが大きく、魂の浄化や手放しも同時に起こっていたため、かなりグロッキーな状態が続きました。
この頃は何もしてないのにとても辛い時期で、あまり思い出したくありません。

それから今日までの半年間は、ひたすら浄化と手放しの期間でした。
邪気や生霊の干渉もあり、体調的にも精神的にも不安定な状態が続きました。
その中で環境の社会的な状態の悪化や、やることなすことがうまくいかない状況も重なり、全く前が見えない時期が続きました。
しかし懺悔と感謝の日々を送る中で、私の魂の不要な部分は取り除かれ、精神的なしがらみからどんどん解放されて行きました。

実は、神代と人世の世界線の分岐は、3月20日の春分を境に一度線引きされています。
ただ正式には仮決定で、今日の満月までの1ヶ月半、再審査と再決定までの予備期間だったと考えて良いと思います。

本日5月13日の満月は、その本決定がされました。
だからこのエネルギーがきっぱりクリアになったのも、実際に分岐が起こったからだと思われます。

これまでの半年間は、「神代」に上がるまでの試験期間だったと考えて良いかもしれません。
試験を受けてでも神様の治める未来に進みたいと思わない人は、そのまま人世に残る選択をしました。
しかし人世は「お金」と人への依存を媒介にした物質的なエネルギーの場であるため、金融経済の縮退と比例して悪化していくことは避けられません。
人治の世界なので、仮にトラブルに巻き込まれたらなかなか抜け出せないかもしれません。

そして、神々が新しく主導権を握る世界こそ、これからの時代である「神代」です。
この世界線が分岐したということは、これから二つの世界の切り離しが進むことになります。
同じ空間を共有しながら身の回りに起こる出来事が違うという、非常に奇妙な世界になっていくはずです。

「神代」は、去年の秋分の時点で大まかな振り分けがあり、新世界への「案内状」が来る人には届きました。
冬至までに各々の素性に伴う審査があり、そこで概ね合格とされた人は、神代と人世の国境線まで進み、段階的に国境を越えました。

去る春分で神代への入国審査があり、入国ゲートで引き止められているような状態が続きました。
この期間が実は肝で、入国審査場での態度を審査官である神様は冷静に観察なさっていました。
そして、この間の再審査で適格かに疑義が出された入国希望者は、帰国を促されることになるはずです。

つまり、「神代への入国が許されない」事態になってしまったのです。
残念ながらここまで来て、新世界の土を踏むことなく引き返す人たちが出てしまいました。

そしてこれから6月21日の夏至を持って、しばらくこの入国管理局は閉鎖されます。
それまでに神代の人々は、就労資格を得たりして新しい世界に住所を移して行くことになるでしょう。
夏至を境に神代と人世は分離し始め、入国審査の合否も各々にはっきり届きます。

すごく酷な話をするようですが、実は神代への入国審査は二段構えだったのです。
ここで神代に渡ったからと、慢心して好き勝手やり始めた人は神様に目をつけられていました。
これまで努力してきた人も多かったはずですが、ここで油断したことで残念ながら人世に強制送還されることになります。

神代に入るにはビザが必要で、入国許可の取得には一切の経歴が必要ない一方、魂の「霊格」と「人格」が神々にチェックされました。

霊格とは魂の質に関わる部分で、根からの清廉潔白さや生真面目さとして現れます。
人格は、これまでの社会で積み上げた社会性、強調性や思いやり、全体的な精神のバランスを指し、霊格と人格の両性質が噛み合って一つの魂として判断されます。

この霊格と人格に掛かる霊的年齢は、肉体年齢とは比例しないのも特徴です。
10代の少年少女であろうと、転生回数によって魂の習熟度は違いますし、人格年齢に至っては育った環境や学習機会がしっかりしていれば問題ありません。
多少基準に届かなくても、神様はある程度の遊びを作って見込みとし、比較的簡単な目星としたはずです。

ここで神様が注視されていたのは、いくら成熟度が基準に届かなくても、成長の見込みがあるかどうかです。
慢心した態度で研鑽を怠ったり、神の意見に背くような素振りがあれば、審査の基準値に到達していても失格とされたのです。
非常に残念ですが、中途半端に入国を許してしまえば、彼らが神代の中に擬似的な人世を作ってしまいかねなかったでしょう。

「神代」と言うからには、神を人間の上位に置く人間関係が理想です。
しかし、感情的な繋がりと内輪の強調を重んじる集団は、自ずと人世と変わりない社会を形成していくはずです。
あくまで、「神」という概念を持っていなくとも、魂のレベルで神の意志を降ろしてくれる人々が中心になければならないのです。

神様はそのことを非常に危惧されていました。
そのため、詳細は明かさず秘密裏に再審査が行われていたのです。

この情報が私に降りてきた時、激しく動揺しました。
自分の直感も知覚能力も疑いたくなりましたが、スピリチュアリストである以上、ここまで激しい啓示を跳ね除けるわけには行かなかったのです。

今でも疑いたくなる気持ちはありますが、この感覚を否定することは第六感に伴う神の存在を否定し、また自らの直感を否定することは私自身の魂を否定することになります。
一人の人間として、ここまで厳しい修行を重ねて得てきた知見を、都合が悪いからと錯覚や気のせいにするわけにはいきませんでした。

おそらく、ここから世界は激しく動き始めます。
人世の世界が堅固である限り、神様の治める神代の世界は広がっていくことができません。
今の世界はほぼ人の支配する世界です。それを神々と神の側についた人々が取り戻すには、人間の支配領域は巨大すぎるのです。

人間をお作りになられたのは、宇宙を創造した神々に他なりません。
従って神の下位に存在する人間は、その影響下から絶対に逃れることができません。

その光景を見て、私を含め全ての人が嘆き悲しむことになるかもしれません。
これまでの世界を取り仕切っていた幽界的存在と、人間同士で作り上げた経済システムは急速に崩壊の一途を辿ることになるはずです。

しかし、その試練が終わらなければ新しい時代も新しい世界も開かれません。

そして、この一連の大変革期こそ80年前に岡本天明翁に降ろされた「日月神示」、そこに示された「大峠」が始まります。
いよいよ、世界が洗い直される時が来たのです。

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お金と搾取について

楽太郎です。

前回の記事に書きましたが、私の夢は崇敬する瀬織津姫様に立派な神社を建立することです。
今のところ、「瀬織津神社」という社名にしたいと思っています。

全国に瀬織津姫命を主祭神とする神社は珍しく、龍神や弁財天、不動明王や宗像三女神としてお祀りされていることが多いようです。
瀬織津姫様は祓戸大神として有名ですが、滝や川などに神社が鎮座されていることがほとんどです。
神社を建立する時には、清流のある土地か滝が近くにあるような水辺が理想的だと考えています。

瀬織津姫命様を勧請する際には、我が家で崇敬神社とさせて頂いている「早池峯神社」からお招きしたいと思っています。
早池峯神社は岩手県の早池峰山系に五社存在しており、実際に可能かはわからないのですが、ご縁があれば是非お願いしたいです。

先日、ふと早池峰山を登山している私の姿がビジョンとして見えました。
早池峰山は結構な登山コースがあるので、素人が単独でサラッと登れるような山ではありません。
その光景が脳裏に浮かんだ時、大きいリュックを背負った私の近くには何人も仲間がいるようでした。

神社に瀬織津姫様をお招きするには、当然ながら一人では絶対に不可能ですし、早池峰山からご神魂を勧請する際にはその道のプロの協力が必要です。
だからビジョンのように仲間を集い、早池峰山を登山して早池峰神社の奥之院にお詣りするにも理に叶っているのです。
それは私の予知なのか白昼夢なのかわかりませんが、何となく現実感はあると思いました。

私が個人で主催して神社を建立するには、並大抵の道のりではないでしょう。
当然、その道のプロを集めるわけですから資金が必要です。また、依頼に足る社会的信頼と実績が必要ですし、コネクションも巡り合わせも重要です。

ただ、この目的を果たそうとして前のめりになりすぎると、うまくいかないかもしれません。
神社建立の資金が欲しいあまり、お金お金となってしまっては、目的が手段にすり替わってしまいます。
お金持ちに近づけばお金が手に入るのは当たり前で、お金があれば目的が叶いやすくなるのも当然です。

「お金」は目的達成のために必要な手段ですが、神様は手段を目的化してでも願いを叶えて欲しいとは思われないでしょう。
自分の真の目的が「神様を喜ばせる」ことである以上、手段は選ぶべきなのです。

神様が、「お金」という仕組みを壊すために人間から金運を取り上げたことを思い出さなくてはなりません。

お金を手に入れる手段が人間に依存し、人間同士でエネルギーを循環させている限り、お金は二次元的な流れであり続けます。
そこに神様の介入する余地はなく、あくまで人間の需要と供給だけで成立する仕組みだからこそ、現在の拝金主義的な文明社会が作り上げられたのです。

特定のビジネスモデルや企業やクリエイターがいくら善良であろうと、人間も組織もいつか変質し、衰退して終わりを迎えます。
利益を中心にした仕組みが回転し続ける限り、そのサービスや商品が末長く良心的であり続けるという保証はどこにもありません。
いくら神様が人間の思考や言動に介入したところで、人間が自身の利益のために便利さや欲望を優先させてしまえば、元の木阿弥です。

人間は長い間、その栄枯盛衰を自分たちの社会の枠組みでコントロールしようとしてきました。
予想可能な「成功」という仕組みがあることで、どれほどの人々が自分の個性や生き方を捨て、同じ方向に群がっていたのかを考えねばなりません。
神々による世界の立て直しにおいて、神様が最も問題視されたのは人間本来のあり方を否定し、目に見えて存在する「お金」だけを目標にして生きることだったはずです。

目に見える形で「お金」というものが増えたり減ったりしなければ、不安なのはわかります。
それこそ時の運や環境が重なって流行ったり廃れたりするものを、人々は右へ左に追い駆けてきました。
その栄枯盛衰を予期することがビジネスチャンスであり、その機運を捉えることを人々は「金運」として崇めてました。

金運というのも難しく、神様にお願いするだけでは駄目で、正しい信仰と普段の行いがセットでなければなりません。
そして「神様のご意志」をきちんと聞いて実行するというお役目を果たしてこそ、巡ってくるものではないでしょうか。

私が神様なら、真面目なサービスで実直にやっているか以上に、誰の目に見えないところできちんとやっているかを見ます。
表だけで取り繕って与える印象だけで、わりと人間はコロッと騙されます。
人間は騙されてもしばらく気がつかないかもしれませんが、お天道様は決して騙されません。
この一見「善良さ」を装った商売が、今の世にどう貢献しているのかを認識できなければ、どんな時代でも同じことを繰り返すでしょう。

人間は「性善説」を好みますが、特に日本人はその善良さを逆手に取られ、今の有様があることに未だ気づきません。

私が思うに、神様の考える「善悪」と、人間の考える「善悪」はかなり違います。
人間は目で見て理解できる範囲で真善美を判断しますが、神様がご覧になられているのは「魂」のレベルであり、天界の常識で人間をご覧になられています。

神様のお考えや常識が、私たち人間に簡単に理解できるはずがありません。
だからこそ、理不尽であったり予期しない出来事に一喜一憂するのがこの世界です。
しかし人間は「安定」をこの世に求めるからこそ、自分たちの力だけで完成する「経済」というエネルギーの場を作り出しました。

今の経済を中心とした文明社会は、自分のエネルギーを他者や企業のために使い、「お金」に変換することで成り立つ仕組みです。
そこでは、自分のエネルギーを自己犠牲的に献上するほど、「真面目」とか「忠実」などと美徳扱いされてきました。
しかし、その美徳はこの社会経済を維持するため、仕組みの一部として機能したのも事実です。

自分のエネルギーを労働としてお金に変換し、企業や人に奉仕することで評価を得るシステムに忠実なほど美徳とされたわけです。
その中でも成功者は、経済の枠組みを保つためにメディアや業界でフィーチャーされ、その姿を輝かしく見せ、理想のモデルとすることで人々のマインドを作り上げました。

社会奉仕としてのビジネスがあり、ビジネスの上での自己犠牲は美しいとされてきました。
しかし、実はその美しさの背後に悪意があったからこそ、いくら働いても楽にならざる、貧しい国となったのが近年の我が国ではないでしょうか。

我々日本人が「おもてなしの心」や「企業努力」として美化してきた奉仕精神の背後に、人々の労働を媒介として肥大化してきた権力構造が存在します。
この国の中枢にいる権威筋は、人々の勤労意欲をエネルギー源として駆動し、未だに圧倒的な影響力を持っていることを忘れてはなりません。

この社会において、搾取に忠実であることが「善良」とされるため、世には批判が許されない風潮がありました。
自分のエネルギーを可能な限り献上するのが美徳であり、人々が美徳を追い求めるほど労働に変換されたエネルギーは吸収され、消耗してしまいます。
その自己犠牲は社会の同調圧力によって固定化され、人々は愚痴はこぼせても反発することが許されませんでした。

人間にとって、エネルギーとは神様から与えられるもので、人間の身体に備わる生命力は本来自分のためにあるものです。
精神的なエネルギーは、神の分身霊から湧き出る神性を抽出し、思考や行動に変換させています。
ただの物質だと思われている自然や動物のエネルギーも、素材を取り出して加工し、それを身体の一部として取り込むことで私たちは生きることができます。
本来、人間が社会に貢献する上で役に立つ才能や元気は、一人ひとりが生きるために神が授けているのです。

しかし、これまでの社会では、人々がそのエネルギーを即座に換金するために使っていました。
自分の健康な生活を保つために必要なエネルギーが不足すれば身体を壊す原因になり、精神を病んでしまい命を絶つことすらあります。
けれど、エネルギーを使い切ってもそれに相応しい対価など、この社会においてほぼ得られないのです。

お金は確かに万能ですが、全てに使えるからと言って全ての物が手に入るわけではありません。
しかし、拝金主義の世では資本と権力さえあれば事実はおろか、一般認識すらも捻じ曲げることができました。
そうして現実を唯物的な世界にすることで、人間の持つ形而上学的なエネルギーを効率よく物質に変換してきたのです。

ただ、そのエネルギーの循環システムは今、限界を迎えつつあります。

まず、この現状を把握するにはエネルギーの循環を全体的に捉える必要があります。
もし通常の流れで一向に進まなかったり、改善せず悪化していく一方だとしたら、どこかに循環の障害があるということです。
人々が発展に向けて勤勉に努力しているのに、衰退が加速する一方なのは明らかにおかしいのです。

唯物主義という閉鎖空間でエネルギーを循環させ、資本として流通させる仕組みも、いかに莫大なエネルギーであろうと陥没が大きければ総量は減り、目づまりが大きければ閉塞を発生させ、循環はいずれ減衰していきます。
つまりこの社会では、どこかでエネルギーが漏れており、誰かがエネルギーを吸い上げているからうまくいかないのです。

これが、我が国に今蔓延っている停滞の原因です。

ただ、この停滞を打ち破るにはエネルギーを阻害している原因を取り除くことが必要ですが、今の日本人にそれを行う能力はありません。
いかなる権威に縋ろうと、今ある権威が真の意味で人々や社会を守りきれなかったからこそ現状があり、今ある権威によって世を糺すのは現実的ではなく、それゆえ新しいやり方が必要なのです。

神の視点で見れば、人間がこうして自身の生命エネルギーを換金し消耗していく仕組みは、決して美徳には感じられないでしょう。
人間が自分らしくあり、健康にのびのびと生きてこそ魂の喜びがあり、生の価値があります。
たかだか一瞬の快楽や、不安を打ち消す安定のために、人生の時間や生命力を犠牲にするのは勿体ないと感じておられるに違いありません。

人間の価値観では正しいと思われてきた勤勉さが、これまでの社会の枠組みの中では残念ながら裏で悪用されてきたのです。
それゆえ、人間社会で「善」とされてきた行いは、必ずしも神の目線では善とは言い切れないはずです。
魂の本来のあり方を抑圧するような生き方は、実際に人間本来の生き方ではありません。

「お金」とは望む生き方を実現する上で、生活と自由を保つための道具にしか過ぎません。
しかしその道具を手に入れることを目的化したために、お金という道具を求めて人々は生き方を決めるようになってしまいました。
それを人間に改めさせたくて、神々が世界の変革を行っているのです。

この世界で「善」とされている過剰な奉仕、自己犠牲によって人々の生命力は枯渇しようとしています。
この状況において、人間社会で善とされてきた価値観は見直されるべき時に来ています。
それを疑うことは決して反社会的なことではなく、各々の生命を守る上で大切なことです。

「お金」よりも大事なものを軸にしてものを考え、行動を決める。

生殺与奪の権利を腐敗した人間に委ねるくらいなら、人生の指針を自分の手に取り戻し、あるいは神様に委ねるべきです。
もし心に迷いがあるのなら、今一度神様に手を合わせて祈ってみるのも手だと思います。

「金運」とは、自分の行動の先にあるものです。
神様の恵みが先に来ることはありません。

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歴史から学ぶ

楽太郎です。

先日、「禍事」に関する記事を書きました。
今、日本に大量に外国人が移住している事態を眺めていることしかできず、米は値上がりを続け、その原因も特定されてるのに手の打ちようがないこと、物価は上がり不況は進むのになす術がないこと。
それは嘆いているだけでな何ともならず、さりとて犯人を探しても意味はなく、真の解決はこの状況を真っ直ぐ見つめ、そこから学び行動を起こしていくことにこそあると思います。

禍事とは、本来の仕組みが「曲がる」から起こることです。
真っ直ぐだったものが曲がるのは、曲がるのを悪が助けるから起こり、ただ悪がやらなくても自然に曲がってしまうものだと思います。
悪はその気づきを与える役目を担っているだけであり、実は悪そのものはこの世に必要な働きなのです。

人間は生きていれば生き物を殺し糧を得て、誰かに多少迷惑もかけながら生きています。
その過程で「罪穢れ」は自然と負うものであり、それを拒否して生きることはできません。
どの道人間は、汚れなくては生きていけないものだからです。

だからこそ、私たちは生きているだけで物事を自然に曲げていってしまいます。
自分が真っ直ぐだと思うことも、曲がっていることを気づかせるには外からの注意が必要で、その役目を「悪」と呼びます。
ずっと真っ直ぐであり続けることが不可能である以上、私たち自身の中にも悪が潜み、その悪によってこの世界の歪みに気づくのです。

それこそが一つになって善悪であり、どちらか一方では成立せず、その全てを一つとして認識するからこそ善のあり方も悪のあり方も理解できるのではないでしょうか。
そして、起こる禍事から罪穢れを祓い清める、その浄化は善悪すら洗い流し、本来の純粋なあるべき姿に戻していくことが重要なのだと思います。

その作業を助けてくださるのが神様であり、神様と共に世の中を祓い清めていくことが「神道」です。
今、日本人に必要なのは政党政治に首を突っ込むことでも悪人を探し出して叩き潰すことでもなく、神様の声に耳を傾けることなのではないでしょうか。

「今の日本はおかしい」と、誰もが感じます。

しかし、本当に日本がおかしくなったのは最近でしょうか?
コロナの流行が、と言いますがそれ以前は正常だったのでしょうか?

私たちが知らずのうちにやっていた習慣や、信じてやっていた行動が積み重なって今の現状を作り出しているとしたら?

よく考えてみたいと思います。

今の日本が外国人頼りになったのは、日本人が少子化によって経済が縮小していったからです。
なぜ少子化になったかと言えば、バブル崩壊の皺寄せが現在の中年以下の世代に集中したからです。
戦後、団塊の世代が作り上げた経済至上主義は、この国に物質的な豊かさをもたらした一方、肥大した金融市場のマネーゲームによってバブル崩壊を引き起こしました。

日本がそうして拝金主義の国家となったのは、第二次世界大戦によって国全体が焦土となり、復興するためには「モノづくり」を始めなければならなかったからです。
そして経済成長によって日本は豊かさを取り戻す一方、実態の伴わない金融市場を肥大化させてしまったのです。

日本全土を焼き尽くした第二次世界大戦が起きたのは、世界恐慌や政府内の派閥争いに端を発する社会不安からです。
昭和ならず明治時代から日本があらゆる対外戦争に突入したのは、国家の拡張政策と西欧列強に対する挑戦がありました。
なぜ日本が西欧化し始めたかを思い起こせば、諸外国の脅威があったのも事実ですが、江戸幕府が財政と政治で腐敗しきっていたからこそ時代を変える必要があったのです。

その江戸幕府はたびたび政策や経済の不完全さで飢饉や社会不安を引き起こしながらも約300年間、国家の安寧をもたらしました。
その江戸幕府が誕生したのは、長らく戦乱の時代が続いたからです。
日本に戦国時代が訪れたのは、天皇と幕府を中心とした政治的闘争、そして各国大名の縄張り争いです。

なぜそういった戦乱が起きたかと言えば、国土には農地があり、そこに暮らす農民が働くことで税を国に納め、税が国の力となったからです。
富の所有が権力に変換されると、その力を奪うことが富の拡大に繋がります。
領地の拡大は富の拡大であり、力の拡大を意味します。

田畑の耕作は、日本人の生命を長い間繋いできました。しかし農地の所有は富と比例し、その収穫量が権力となっていきました。
古代に各地方を支配した豪族は、その権力で人々をまとめ守る一方、領地を巡ってたびたび各地に争いを引き起こしました。

その元となった田畑は、日本人がこの国土で安定した暮らしをするために、定住し耕作を続けることで豊かさをもたらしてきました。
日本人の祖先がこの国土で稲作を始めたのは、縄文時代から続く自然に翻弄される生き方ではなく、安定して暮らせる環境に変わっていったからです。

こうして「政治」と日本人のあり方を辿っていけば、「富と所有」が全ての争いの根本にあることに気づきます。
しかし、その富も人々が風見鶏のように自然に翻弄される生活を改め、定住し生活環境を整えていく過程で蓄積されたものであり、富があるから不安定な時代も生きていくことができました。

その中で権力者は、各地方や集落を取りまとめ、治安を司り対外交渉を担う責任者でもあり、社会にとっては必要な存在です。
領地の拡大を志すのも一概に権力欲や富への執着とも言い切れず、暴君なだけでは成立しなかったはずです。

この一連の流れを見て、はっきり「どこが悪かった」と言えるでしょうか?

確かに、明治維新から日本人が西欧的価値観に染まり始め、徐々に日本人らしさを失っていったのもあるでしょう。
しかし外国勢力の脅威があったのも事実であり、弱体化した幕府に日本は守れなかったであろうことも事実です。

それでは、弥生時代に日本人の祖先が稲作を始めなければ良かったのかと言うと、日本人が定住することで繁栄の礎とし、縄文時代のように自然に左右される時代では子孫も繁栄しなかったでしょう。
ただ不安定な生活であったとしても、縄文時代が1万6000年は続いたのも事実です。

稲作が始まって3000年足らずの日本で、ここまで争いや混乱が絶えない歴史が続いてきました。
しかし、その何倍もの悠久の時を「縄文時代」は刻んできたのです。
私たちは、何か大事なものを見落としてはいないでしょうか?

青森県の三内丸山遺跡からは、新潟県の糸魚川から採取された翡翠が出土しています。
他にも土器や装飾品は、中国の遼河文明の影響も見られるそうです。
ロシアのウラジオストクからは、出雲産の黒曜石が発掘されており、縄文時代には日本海沿岸が全て交易路だった可能性が高いのです。

その時代に通貨はおろか、文字も存在しなかったでしょう。
ではどうやってこれだけの流通が可能であったかと言うと、お互いに等価交換を行ってきたからです。

つまり、物々交換をする取引が行われ、そのレートは互いの必要度合いに応じて決まったでしょう。
その交換をより客観的に、公平なルールにするために持ち込んだ概念が「通貨」でした。
通貨、即ちお金はそれ自体は手段に過ぎず、主体は等価交換であって、要は欲しいものが手に入れば通貨は必要なプロセスではなかったはずです。

しかしいつしか「お金」という仕組みが一人歩きして、「富」と結びつくことで「力」となり、人々が資本や富裕層の権力によって使役されるようになりました。
私たちが本当に顧みなければならないのは、「お金」という手段に過ぎないものを目的化し、そのために自身の幸福や国家の安寧を犠牲にしてきたことではないでしょうか?

だからこそ、「犯人探し」なんてのは意味がないのです。

陰謀論的に、特定の少数集団が国家を裏で操り、金融と政治と戦争を牛耳って今の世界を作り出したことが事実だとしても、それを打倒するのが完全な解決ではないはずです。
少なくとも、「お金」というプロセスに人生の選択を委ねない、という決断は自分自身でできることです。
その主体性において、巨大権力に支配された「お金」もまた手段にしか過ぎないのです。

人間が「資本」に執着し始めたのも、近い将来に備えての「蓄え」が即ち「富」となり、その豊かさを持った人は安寧を得て幸福を得られたからです。
蓄えも富も、人間が「所有」を志すのは、生きる上で本質的な権利であり、誰も咎めることができないものです。
しかし、過剰に信仰される「資本」の背後には、あらゆる欲望を実現する「お金」の万能さに心奪われた人々が、その機能のために全てを目的化した結果、世界を「お金」と「暴力」の世界にしてしまったのです。

ただお金はやはり手段に過ぎず、目的があれば手段は選ぶことができるものです。
これまでの社会に起こった問題は、「お金」という概念を巡って引き起こされた問題であり、その認識が正しくなかったことにあります。
つまり、全ては私たち一人ひとりの思想であり価値観であり、生き方の問題だったのです。
それを無視して、世に原因を探して諸悪の根源を見つけ、叩き潰そうとしたところで何も変わらなかったのは当然と言えるのではないでしょうか。

私たちが今、安寧を取り戻し、この国に本来の「日本」を取り戻すには、まず行動よりも先に「お金」以外に目的を定め、自分の生き方を変えていくことなのだと思います。

人間は、世の中や環境が変われば自分も変われると錯覚しがちです。
しかし、自分が変わろうとしなければ環境や時代の変化は煩わしいだけであり、自分の意志が伴わなければ変化も受け入れられません。
ゆえに、私たちがまず最初に見直さなければならないのは「自分自身」です。

まずそこから始めなければ、何も変えることはできないでしょう。
日本を良くする前に自分が変わるところから始めなければ、日本を良くすることはできません。

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なぜ「禍事」が起こるか

楽太郎です。

そろそろ世も煮詰まりきった感はありますが、まだまだこれまで通りのやり方を貫く人々も多いようです。
私は私のやるべきことをやり生きる術を得て、世に貢献していこうという気持ちしかありません。
ゆえに、世の中がどうなっても私のやることは変わりませんし、今更世の人々にどうなって欲しいということもありません。

以前は、悪辣なやり方があまりに横行し、それに気づかず助長する人々、力に怯えて黙認する人々、その無抵抗を良いことに好き勝手する人々、そう言った世の風潮に対して抵抗してきました。
しかし恐ろしいほど共感する人は少なく、どの言葉も足元を掬われて貶されるしかありませんでした。

正義感から来る絶望は、人間社会に対する失望となり、この状況を人間が変えるつもりもないことを理解してしまいました。
だからこそ、この混沌を正常心で生き抜くために、私はスピリチュアルな世界を信じ、神仏にすがる道を選択しました。

「神様なら、この狂った世界を救ってくださる」と信じてここまでやってきました。

私の生業としていたクリエイティブの分野は、コンテンツの過剰な商業化と生成AIの普及によって完全に息ができる状態ではなくなってしまいました。
何十年もキャリアを積んだプロの作品より、廉価で大量生産されるAI生成物の方を、消費者は受け入れるようになってしまったからです。

この風潮に絶望しながら抗い、半ば意地になりながら創作を続けてきました。
しかし、手を止めて少し冷静に考えると、AIが人間の技術や才能を代替し始め、それを受け入れる人が増えたことにも何か意味があるのではないか、と思うようになりました。

自分にとって「最悪」だと思う状況が、わざと最悪の状況に導かれるプロセスが働いているとしたら、最悪な状況にこそ意味があるのかもしれません。

「禍事」が起こるのは、禍事によって世に修正が図られる一つの段階にしか過ぎません。
つまり、「禍事」という迷惑な事象が起きるからこそ、そこから学び解決しようと頭を巡らせ、それを乗り越えた世界によって浄化されるのです。

「禍」という漢字は、古代において卜骨によって占う時、厄災が神の意志で起こることを示しています。
そこにおいては、占卜の結果は人の意思ではどうにもならず、ゆえに神によって引き起こされるものだとされました。

この漢字に「マガ」という言葉を日本人が当てたのは、骨同士の繋がる関節が「曲がる」からです。
世の道理が曲がったことで禍事が起こるとすれば、それは神の意志であり人間は耐えることしかできません。
しかし、「曲げた」のは人間がどこかで曲げる力を加えたからであり、全てが究極的には神の意志であるとしても、人間が自分の手で曲げたことには変わりないのです。

この世界が狂うことで、悪夢のような「禍事」が起こるのは、単に災厄が降りかかっているわけではなく、その原因をどこかで私たちが作り出したからです。
その原因を他人のせいにしたいのが人間ですが、落ち着いて胸に手を当てたら、自分にもその原因に心当たりはないでしょうか。

私は長い間、仕事として創作を続けてきましたが、その土壌には「拝金主義」がありました。
作家は社会的に成功するために、人気を取り注目される方法を模索し、人々の評価や顔色を常に意識してきました。
そうして評価されなければ「意味がない」と割り切り、人の流れる方向に合わせることで成功を手にしようとしてきました。

しかし本来、創作とは自己実現でもあり、それ以上に内的表現と共感のために存在するものだったはずです。
それが他者評価として数字や収益に可視化された時、創作は商業的手段としての意味合いを強めてしまいました。

そうして「精神的表現」と「商業的価値」を分離させた結果、商業化しきった文化は最終的に人間の手を離れ、「AIがあれば人間はいらない」という感覚までもたらすようになってしまいました。
その流れに、私自身が加担してこなかったと言えるのか?
今、自分自身の胸に手を当てて考えています。

今の現実が私の目から「悪に支配された世界」に見えたとしても、その現象が自分に気づきを与えるために引き起こされたものだとしたら?

「禍事」が神の業であろうと人間の過ちであろうと、その出来事と向き合い学ぶことこそが禍事の真の意味であり、その解決に尽力することが禍事を消し去り、世をより良きものにする働きに変えることができます。
「禍事」は決して悪ではなく、悪を知らせるためのシグナルであり、実際に悪は存在せず、曲がったり真っ直ぐになるだけの過程の一部に過ぎないのかもしれません。

あらゆる災厄も悪事も、それ自体が人間からは邪悪で誤謬に満ちたものに見えたとしても、その間違いも一つの正しさであり、間違いを知り学び修正する一連の克服にこそ、本当の「正しさ」があるのではないでしょうか。

だから、「世の中は狂っている」「もうこの世はおしまいだ」と言っているうちは、この現象の一つの側面しか見ていないことになります。
その狂いも間違いも、正しさへ導くための一つの過程なのだとしたら、逃げずに受け止めるべきなのです。

この世界の醜さを憎み、「根こそぎ悪を葬りたい」と思う気持ちもわかります。
しかし、自らの一方的な正義で悪を殲滅させたところで、その行いに後悔や反省はあっても、学びや克服は存在しないでしょう。

悪は「悪」というこの世の摂理において正しい行いをし、正しさとはその断罪ではなく悪からの学びと修正にこそあるのだと思います。
悪はその破滅的なあり方ゆえに、永く存続し続けることが不可能です。
搾取と抑圧を繰り返すことで、不満や反感は募る一方、搾り取れるものはいずれ枯渇するからです。

その自滅も摂理のうちとは言え、その役割を終わらせるには「学びを終えた人々」の働きがなくてはならないのです。
そして、もう二度と同じ過ちを繰り返さないために、教訓を残していくこともまた学びの意味でもあるのでしょう。

だから、この世の中の醜悪さに目鯨を立て、一つ一つに反感を覚えていくことを、私はやめました。
世の中が悪いのは私にも原因があり、その罪滅ぼしはこの困難から学び、より良い世にしていくことです。

ただ、世の中は「正義側の悪」と「悪側の正義」の間で、共喰いに近い凄惨さを見せていくことでしょう。
私たちがするべきなのはその争いを止めることではなく、学び乗り越えていくことです。

罪を憎んで人を憎まずとは言いますが、罪も憎まず人も憎まないのが、徳の高い正義というものだと思います。

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「文化」とは何か

楽太郎です。

「神統試論」の骨子がだいたいまとまりました。
ここ数日はその考察に時間を掛けており、情報量も多く複雑な内容になってしまうと思います。

この論考の基礎を固めるには、「邪馬台国とは何か」まで踏み込んでいかざるを得ませんでした。
その結論がほぼまとまり、そこから日本古代史の大まかな流れ、「記紀」に至る神々と氏族の関連までの道筋が見えてきました。

「邪馬台国」問題は、実はできる限り切り込みたくはないテーマでした。
考古学は、フィールドワークと統計学、発掘調査などを実際に行わなければ研究としては成り立ちません。
しかし歴史学は、言っちゃ悪いですが文献解釈で机上の空論は編み出せてしまう性質のものです。
しかし、古代史は現代建築の地下に眠っている遺物を掘り出さなくては解明できないので、既にある僅かな考古学的資料と残存する希少な文献資料を掛け合わせてようやく見えてきます。

近年の邪馬台国論争は、裏に学閥が存在することもあり、一種の宗教戦争に近い議論になっていました。
「邪馬台国九州説」と「邪馬台国畿内説」の議論において、どちらが歴史的に正しいかは確かに重要です。
しかし、これらの議論の中で、最初に「立場ありき」で結論に結びつける流れが強い印象を受けます。

学問とは、科学のように唯一の理論法則さえ見つければ須らく良いというものではありません。
学問は「知的探究」の過程そのものであり、知的探究こそが本来の目的であるはずです。
日本の大学が基礎研究を疎かにして応用技術にばかり注力するのは、学問というものが「商業化・利権化」してしまった結果でしょう。

ゆえに、こう言った答えの出にくい人文学系の議論は、発展的な議論によって進むだけではなく、あらゆる可能性についても「一理」は認められるべきで、異なる意見を受け入れない風土は学術研究の妨げになるのではないでしょうか。

私が「邪馬台国はここである」と提起することによって、異なる意見も当然出てくるでしょう。
その異論に対してできる限り整合性を持たせられるようなデータも提供していくべきだと思ってますし、建設的な議論もしていく必要はあると思います。

学術的に論証できるレベルまでには、一応体裁は整えられる形にしていきたいと考えています。
あくまで「試論」であり、最初から正解に辿り着けるとは思っていません。
素人なりには健闘したいところですが、つくづく現代の学術は政治的な風土に成り立っているため、窮屈に感じてしまう部分もあります。

考えてみれば「知識」に付随する「権威」は、哲学者のミシェル・フーコーが批判したように「知的権力は真実を領有する」のです。

例えば、「瀬織津姫命」という神道において重要な役割を持つ神が、なぜ同一視される神々が数多に存在しながらその神名だけに日の目が当たらなかったのかを考えると、「記紀」の存在は大きいと思います。

私が考える限りでは、瀬織津姫命は縄文時代から続く河川・淡水の女神であり、その神名も長らく統一されていなかったのではないかと思います。
いわゆる自然神であるため、文化的な背景を持つ祖霊神の系統とは相容れず、それゆえ「記紀」編纂の目的からも外れてしまったと考えられます。

その名を唯一残す「中臣祓詞」は、古代から祭祀を司る中臣一族の宗教理念の中では、どうしても外すことのできなかった神名であるのでしょう。
「祓清め」という神道上の儀礼において、「禊」という概念はコアとなるものであり、それゆえ「水」というテーマも変えることはできなかったのだと思います。

なぜ、この世界を構成する一つの要素である「水」が、「浄化」という概念的な意味合いを持って神格と結びついているのかわかりませんが、その解説が可能なのは国家神道において祭祀を司ってきた中臣氏でしょう。
ただ中臣祓詞も、ある意味では政治的な背景があったことは否定できないかもしれません。

ただし、神社仏閣の由緒も人間の社会や歴史の中で紡がれてきたものであって、例え純粋な真理として認識し解釈することはできなくとも、悠久の時を越えて受け継がれてきた伝統は尊重するべきだと思います。

政治や社会情勢によって物事の定義が変わるのは致し方ないことですが、事において「文化」は常にそういうものです。
世の浮き沈みや矛盾、趨勢を受けて人々の心が揺れ動き、その反動が思想や文化となって現れてくるのだと思います。

しかし近年、学問だけでなく文化も過度に商業化され、商業的なコンテンツだけが文化であると、人々は錯覚するようになりました。
その背後にあるのはマスメディアや企業群です。人々は「流行り」を文化の最前線であると思い込み、業界から仕掛けられたムーブメントを追い求めるようになってしまいました。

そのため、実態として全く流行っていないものもトレンドになり、企業群が流行らせたいバズワードがマスコミを通じて社会現象化する、というルーティンが続いてきました。
しかし、本来の文化とはもっと人々の感情に寄り添ったものであり、自然発生的なもののはずです。
それが作為的に流布されることで、むしろ人々の直感や心理に沿わないコンテンツに文化が依存せざるを得ない状況になってしまったのです。

近年の過剰な懐古主義、リバイバルブームは主な顧客層が高齢化し、その世代を再ターゲットにしたことの現れでしょう。
今は懐かしさで盛り上がったとしても、これからの文化を担う若年層向きには作られていないため、将来的には尻すぼみになっていくのは避けられないと思います。

けれども、短期的な収益や一時的な復刻コンテンツの盛り上がりがあれば、とりあえずムーブメントとしては成立してしまうのです。
産業的基盤の上に置かれた消費習慣と、社会的習俗である「文化」は似て非なるものです。
文化とは数年で枯渇するようなものではなく、本来なら数十年かけて定着し、いずれは「伝統」として無理なく継承されていくものです。

日本人が和紙を使ったり元旦に神社参拝するのも、文化と風習と伝統が噛み合って定着しているからです。
しかし、企業群が手前のサービスを浸透させるために消費者に植え付けた習慣は、人々の心象に寄り添った精神文化とは言えないものです。

ただそれも、長くは続かないと思います。

これからさらに世が荒れ、例えば食糧危機や災害に見舞われ、経済も崩壊して各企業が傾く中、業界に促された「サービスとしての文化」をいつまで人々が求めるか、疑問に感じます。
特に現代の超飽和状態にある娯楽の分野では、そのほとんどが企業体のコンテンツです。

人々が貧しくなり食うに困る状況で、どれほど娯楽を求めるのかを考えると、世にはコンテンツがありすぎるのです。
よく考えられたクリエイターの作品だけではなく、今では生成AIによって粗製乱造されたコンテンツがほぼ無料でバラ撒かれています。
もし本当に生きることに窮する世となった時、人々が変わらずに既存のコンテンツにお金と時間を使い続けるのか、私は甚だ疑問です。

もし、この世にカタストロフが起きたとしたら、人々が思うことが自ずと形になり、その発想や価値観に共感するムーブメントが起こるでしょう。それが「文化」というものです。
70年代のフォークソングブームもヒッピー文化も、当時の混沌とした世相と葛藤と情熱が形になったものだったはずです。
それが、「今ならフォークソングが流行りそう」と企業群が仕掛け、人々が何となくそれに乗るようでは、商業的ムーブメントを使い回しているにすぎません。

私たちが今の時代やこれからの世界に対して、率直に思うことを形にして共有していくことが大切なのではないでしょうか。
そのためには、今ある感情や感覚、違和感や理想にまず気づいていかなくてはなりません。

私たち現代人は、いつしか文化の醸成に必要な心のアンテナを錆びつかせてしまいました。
企業群が発するムーブメントに乗っていれば、それなりに周りと合わせられて楽しかったこともあるでしょう。
ただ、そうやって触覚を騙すことで犠牲にしてきた感覚もあったはずです。

「文化」とは、誰かが考えたことに合わせることから始まるものではなく、自然と惹きつけられ、その価値観を受け入れながら広まっていくものです。
やはり、そこに「心」という本質的な、自然な感覚があるから成り立つものなのではないでしょうか。

私たちは、文化を一つの商業的ジャンルとして食い散らかしていくことに慣れてしまいました。
それでは、文化の根底にある哲学や真髄を深く理解することはできません。
大量消費されるコンテンツの中で自分が心から拠り所にできるものは一握りでしょうし、もっと長い時間をかけて追求するのならば、それに相応しいコンテンツでなければならないはずです。

そういった「心から求めるもの」、それが末長く残るコンテンツになるのではないでしょうか。
もし世が改まるのなら、そういった精神風土をゼロから培っていきたいものです。

私は一当事者として、それくらい普遍的なものを作りたいですし、その精神を大事にして活動していきたいです。
人々の心に、真の「文化」と創造的な空気を呼び戻していく必要があると思います。

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日本人の倫理観

楽太郎です。

昨日の記事では、古代の日本人の死生観から生まれた神道の精神について話しました。
日本人には「罪穢れ」と「祓い清め」の概念があり、その延長に現世利益と神への信仰がありました。

日本人は、世界的に見ても教義的ではない信仰心を持つ珍しい民族であるとされます。
教義がなくても道徳的、宗教的たりうるのは、日本人が脈々と受け継いできた「美的感覚」ではないかと思います。

例えば虫の声は、日本人以外の民族は「雑音」として脳内で処理するため、どちらかというと音楽的な認識の仕方をするそうです。
しかし日本人は、コウロギの「コロコロ」という鳴き声を聴いて擬音化するように、言語野で認識するようです。

寂れたものに美しさを見出す「侘び寂び」の概念、「赤穂四十七士の討ち入り」に見られる「敗者の美学」など、日本人独特の価値観は美意識に基づくものです。

日本人がそういった豊かな情緒を育んでこれたのは、歴史においてあらゆる権威の下に晒され、ルールや常識に押し潰されても屈さず、どこかで強かさや余裕があり、厳しい現実の中に「無常」の世界を見出してきたからではないでしょうか。

つまり、この世界に「絶対」がないからこそ、お上や偉い人物が決めたことだけが全てではなく、自分の美徳や美意識、あるいは損得勘定でうまく立ち回ってでも、生きていくことに価値を見出してきたのかもしれません。

ゆえに、規則やルールを徹底して遵守することが日本人の倫理観ではなく、むしろ内面としての美的感覚や計算によって「道徳」の合理性を理解してきたのが日本人なのだと思います。

だからこそ、今の世に蔓延る「画一的な多様性」という倫理観、「正しくないものは許されない」という正義感は、日本人には本来馴染まないものです。
しかし今、その価値観を信じきり、その偏狭な道徳心で人を弾圧することが「正しい」と思う日本人が増えてしまいました。

日本民族は、かつて大陸経由で渡ってきた移民が列島にどんどん定住し、渡来してきた人々の文明を取り込みながら発展してきました。
日本人そのものが「多様性」を最も体現した民族であり、なぜ本来の思想を発揮させずに西洋的な「画一的多様性」を受け入れてしまったのでしょうか。

今の政府の政策のように、「全ての外国人を受け入れよう」ということが、即ち多様性を受け入れることを意味しないはずです。
日本の国風を理解しない人々がいくらこの国に住み続けても、「日本」が深く理解されると信じていいのでしょうか。
国家のアイデンティティが揺らぐ今こそ、日本人は自分たちの歴史と民族としての本質を見直し、本来の性質を思い出すべきです。

日本人の宗教観も、長いこと唯物史観に染まったせいで、「神様」という言葉を出しただけで眉間に皺を寄せる人も増えました。
戦後に勃興した新興宗教団体が組織的に如何わしかったり、実際に犯罪やテロまで起こしてしまったのも事実で、伝統的宗教も一緒くたにされて悪印象になってしまったのもあると思います。

しかし今なお日本人は、精神的文化観において柔軟な強かさを維持していると私は考えています。

一般的に、「神様」は遥か遠いところから地上を見下ろしていて、その下には善人が死後に行く「天国」があり、悪人は地球の下にある「地獄」に堕ちて永遠に苦しむ、と考えられています。
よく考えれば、このイメージは宗教的にはめちゃくちゃです。けれども、市井の人々はこの死生観でも何の疑問も抱かず暮らしています。

私は、日本人のこの「宗教観の適当さ」は唯物史観に染まったからではなく、ずっとこういった曖昧な死生観を持ち続けてきたのだと思います。

つまり、これも日本人の「現世利益」の価値観に基づいているとも言えます。
これだけ教義的に曖昧だと、「このままでは死後裁きに合う」ことに戦々恐々とし、わざと窮屈な生き方を選ばないための合理的根拠になり得ています。

かつて日本人は、死んだ人の亡骸を山や海辺の洞窟などに葬っていました。
そして、亡くなった人は見えない遠い場所へ向かい、機会があればいつでも戻って来てくれる、と考えていました。

日本神話では、そこは「黄泉の国」とされます。
「ヨミ」は元々「ヨモ」であったらしく、「ヤマ」の語源と親和性があると言われます。

参考として、「日本語の意外な歴史」というブログの記事をご紹介します。

「山」の語源

私は、古代日本人が死者の霊を招く儀式をする時、「霊を呼ぶところ」という意味合いを込めて「ヨミの国」と称したのではないかと考え、「ヨミ」は「呼び」を意味するのではないか、と仮説を立てていました。
ただ、「呼び」のyoは甲類なので、そうとは言えないようです。

しかし、上記のブログにはこう書かれています。

「口を意味するyom-のような語があったということは、遡れば、穴を意味するyom-のような語があった、下を意味するyom-のような語があったということです。yomo/yomi(黄泉)は「下」を意味していた語と考えてよいでしょう。」

「黄泉の国」の他にも、神話的には「根の国」「底の国」という地下世界の概念があります。
これは世界観としては垂直的な階層のように思われるのですが、伊弉諾命が亡くなった伊奘冉命を追って黄泉の国に行った時、死者の群に襲われて黄泉比良坂に岩を置き、出入り口を封じます。

こうして考えると、日本人はやはり「黄泉の国」も地続きの場所であり、高天原も空間的には上部にあるとしても、決して異次元にある世界ではないように思います。

目に見えない世界が、国や場所のようにフラットな延長線上にある意識は、まさに日本人独特のものです。
神も死者も常に身近にいる、という感覚は「お天道様は見ている」という価値観に繋がり、森羅万象に神を見る「八百万」の精神世界を形づくってきたのだと思います。

これこそ真の多様性に至る考えであり、日本が多神教である所以でもあるでしょう。
ただし、全てを受け入れてきたわけではなく、やはり「まつろわぬ」者たちを封じてきたのも事実です。

しかし、まつろわぬ者たちと言えど、例えばヤマト王権にしろ追従した豪族は和合する道を優先してきたのも歴史が証明します。
先の外国人の移住や多様性などの話題に関しても、互いに理解と協力が可能であるのが前提条件であり、「日本」という国の文化への尊重があるからこそ真の意味で日本に根付くことができます。

けれども、日本人と外国からの住民が、互いに深く理解し合うまでに至っていないのではないでしょうか。
だからこそ、私は拙速すぎる社会的な流れを批判しているのです。

日本の神道は、厳密に言えば宗教ではありません。
宗教なら開祖や教義が存在するものですが、神道にあるのは「伝統」「所作」だけです。
ゆえに、神道は伝統的風俗であるとも言われます。

神前に奏上する祝詞も、文面を事実と照らし合わせれば真実かはわかりません。
けれども形式として、少なくとも1500年以上は受け継がれてきた由緒あるものですし、その権威性は計り知れません。

それでも、日本人は神の教えを聞き、導きを受けて有り難く受け止め、その知恵を子々孫々に伝えて繁栄してきました。
教義を軸にして、「正しいか正しくないか」という考えで神を信じてきたわけではないのです。

日本人は、「神様が今どうお考えであられるのか」を常に考え、察しながらお祀りをしてきました。
神様の顔色を読み間違えると、神の「荒魂」が災いを起こすと考えてきたからです。

実は、そういう「目に見えないものを慮る」という感覚こそ、日本人の倫理観の源泉なのかもしれません。

人間の心は目に見えません。愛情も優しさも幸せも心の豊かさも、目には見えないものです。
しかし、「目には見えないものを慮る」からこそ、人の感情の機微を深いところで感じ取ってきたのが日本人なのではないでしょうか。

私は、日本人がその全てを忘れ去ったと思いません。
ただ心の中に眠っていて、それを思い出す機会がこれまでなかっただけなのだと思います。

日本人に備わった道徳心も美意識も、きっとそうなのだと思います。
幸い、古い時代は壊れようとしています。

新しい時代が始まるのなら、これを機に忘れてしまった日本人らしさ、その良いところを思い出し、今まで以上に良い世の中を作って行けたらいいな、と私は思います。

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「幽界」の消滅について

楽太郎です。

今日は午前2時に目が覚めました。
その時、身体の強張り具合から、久しぶりに邪気を警戒して目覚めたのがわかりました。

そこでハッとして本日付のNYダウ平均を見てみると、1600ドルの回復を見せていました。
これを見て、やはり邪気と金融はリアルタイムで連動していると思いました。

つまり、土の時代の唯物主義、人世の拝金主義は、「投資」という形を取ったエネルギーとして可視化されています。
それゆえ、投資家たちにとっては「お金」というエネルギーが無限に持続し、拡大発展していかなければならないものになっているのです。
その執着のエネルギーは、趨勢と共に邪気を伴い、また「金」の数値化によって目に見える形になっているのだと思います。

この「物質至上主義」の思念は、精神世界にとって対立する存在です。
ゆえに、このバブルを無限に拡大する意志を持って、新しい時代の到来を潰そうとしているのです。

ただし、この勢いがこのまま続くとは思いません。
邪気と浄化の拮抗は押しつ戻りつしながら、13日の満月で一旦の区切りを迎えると思います。
今の流れを見ても、「グレートリセット」へのシナリオは進んでいくとしか思えません。
私も邪気を次第に認識できなくなりつつあるので、分岐は近いのかもしれません。

思えば、私の感じてきた邪気には「意志」に近い巧妙さがありました。
以前、生霊攻撃を受けていた時も、生霊を飛ばした女性は悪霊に憑依されているのではないか、と薄々感じていました。
今のこの世界でおかしな人が増えていますが、ほぼ「憑依」によって悪霊の影響を受けた人間から邪気というものは発せられているのだと思います。

スピリチュアル界では、長らく「五次元世界になる」と言われてきました。
そして去る11月20日を持って本格的に冥王星水瓶座時代に突入し、五次元宇宙に「次元上昇(アセンション)」するとされています。

これまでの地球は「四次元」だったとされますが、厳密に言えば「三次元=立体宇宙」に「一次元=時間軸」を加えた概念です。
これまでの「四次元」とは「幽界」を指したそうです。「霊界」が五次元の精神界を指すのならば、「神界」と呼ばれるのは六次元以上の世界になると言います。

この「幽界」とは、実は人間の思念が作り出す低次元の霊界だそうです。
人間が死ぬと「幽霊」になる話も、魂が幽界に渡って高い次元の「霊界」に上がっていくか、まだ人間としての執着が強ければ物質次元の地球に残り続けると言います。
霊界は波長が高いので、低い波長の霊は霊界に上がることができず、ゆえに低次元である地球に干渉してきます。

だいぶ以前から世界で歪な状況が発生し、日本人もその煽りを受けておかしな人も増えました。
「この人は日本人か?」という感想を突き抜けて「本当に人間なのか?」と思う人も見かけるようになりました。

私は長年、憑依で苦しんできましたし邪気の影響をもろに受けてきましたが、これは幽界の霊が人間界に移動し、干渉した結果なのかもしれません。
スピリチュアル界では、「幽界が消滅しつつある」とよく言われます。
低次元の霊がどんどん狭まっていく幽界から逃れるために地球に移行してきたのだとしたら、人々が豹変した説明にもなります。

人間は「分身魂(ワケミタマ)」と呼ばれる神の魂の一部を与えられ、この地球で魂の修行をしてまた霊界に帰っていきます。
人間は死ぬと、半霊半物質の幽界でしばらく過ごし、霊界に上がることになります。
しかし、修行に失敗して物心に囚われた魂は、幽界の中に留まり、同じ波長の霊と集まって想念的空間を作り始めます。

幽界において邪悪な思念を持った魂が集まると、そこは「地獄的」想念の場になります。
そして、この幽界が消滅する、あるいは限りなく縮退してくると、この地獄的想念の場も行き場を無くします。

こうして邪霊が人々に干渉した結果が、今の世ではないでしょうか。
つまり邪心の強い人々は憑依を受けていると言え、その憑依は人々が生きる上で「邪気」を呼んだために起こったのです。

人間は生きる上で「罪穢れ」を蓄積していくことは避けられません。
生命あるものから栄養を摂らなければ生きられませんし、身体は疲労し老廃物も出ます。生きるために欲を出さねばならず、欲を出せば迷惑もかけます。

これを浄化するのが、愛であり神々への信仰でした。
けれども、長らく人々はこの浄化を怠り、心身を欲に塗れさせ物心に溺れてしまいました。
そのため、邪霊の類に魂を乗っ取られる人間が増えました。
そして起こる非情な出来事は、人々が魂のレベルで「穢れ」を纏ったために起こっていることなのです。

おそらく、今後この「憑依者」が物理的に封じられていくことになるだろうと思います。

それがどのような形で起こるのか、私には恐ろしくて書くのも憚られるのですが、いずれ邪霊の類がこの世に干渉できない形にされていくのではないでしょうか。

「幽界」とは、ほぼ人間の思念で作られた霊界であるとも言われます。

地球は三次元から四次元にアセンションしたので、これまでの幽界が地球の霊的階層に置き換わることになります。
「幽界」がなくなることで、人間は死んだらすぐに「霊界=五次元世界」に行くことになるはずです。

つまり、霊界は幽界よりも波長の高い魂しか行くことができないので、四次元の地球が幽界的役割を持ち、幽界的次元の人間が死んですぐに霊界に上がるためには、生きているうちに霊格が高くなければならないのです。

これは、考えれば考えるほど恐ろしいことです。
霊格が低い人間は死んだらどうなるのか、それを憶測であろうと気軽に言及できるものではありません。

世に言う「五次元宇宙(この記事の文脈では四次元」、好んで使う言葉でいうなら「神代」という世界は、この目に見える地球そのものが「霊魂の修行場」になるということです。

そこで修行を放棄した魂は、早い段階でこの世界からパージされるはずです。
それゆえ、因果を知り正しく修行に向き合う魂しか生きていくことができず、輪廻が許されない時代になるのかもしれません。

仮に、悪鬼悪霊の類が幽界の消失によって淘汰され、あるいは質の低い魂が輪廻を絶たれるとしたら、天界の構造改革を日月神示では「大洗濯・大掃除」と表現していたのかもしれません。
そして、邪霊の干渉が人間界に及ばなくなるとしたら、それこそ善良な人々による「弥栄の世」は完成する、ということなのではないでしょうか。

幽界とは、半霊半物質の世界とされているので、自分の思念が具現化しやすい世界です。
良い心持ちであれば良い結果に、悪心を出せば悪い現象となって立ち現れてくるはずです。
その世界では、どう考えても心根の腐った人は生きていけないかもしれません。

特に、人を欺き奪い支配し顧みない、そう言った人々は天がお許しにならず、自らの因果で暗い世界に堕ちていくことになるのではないでしょうか。


今回の記事は、何となく重たい内容になってしまいました。

終わりに、「幽霊はいなくなっていく」という話をしたいと思います。これも、やはりスピリチュアル界ではよく話されていることです。

幽界が消滅すれば、地球に近い波長の次元にいる「幽霊」は、存在することが難しくなるのかもしれません。
10年前あたりから、「戦国時代の亡霊を見なくなった」という噂が立ちましたが、もしかすると古い霊魂から上がっていった可能性もあります。

そう言えば以前、近所の山にハイキングがてら登った時のことを思い出します。
その日、小学生たちがその山の広場に遠足に来ていました。

私は人霊に周波数が合わないらしく、あまり「幽霊」という存在は頑張らなければ認識できません。
墓地とか行っても普通の感覚がしますし、むしろ林や山などで精霊とか自然霊に近い存在はよく感じます。
ですので、日常生活の上で人の気配を持った霊を感じることは稀です。

その時、その方が広場の小学生たちを高台から見下ろしているように感じました。
おそらく、見守っておられたのだと思います。

奇しくも、この山は古戦場になっていた史跡でもあります。
私が高い波長の人霊だと思ったのは、その方がこの土地を見守り、人々を守る守護神のように立たれていたのを感じたからです。

これまで幽界にいた霊魂は、人間の守護神がいる霊界層「五次元」に近づくほど、守護神の格に近くなっていくはずです。
私には、そういった英霊が神様の下で人々や土地を守ってくださるなら、これからの地球はずっと良い場所になるのではないかと思います。
遠い未来、確かに「ミロクの世」が実現するのは決して眉唾な話ではないかもしれません。

しかし、それまでの道が「大峠」です。
覚悟しなければなりません。

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「悪」とは何か

楽太郎です。



近所の公園の桜が、徐々に咲き始めました。
この株はまだ蕾ですが、一部は8分咲きの桜もあります。

今年の桜を眺めていて、何となく違和感があります。花に元気がないというか、生命感をあまり感じません。
去年から冬の間の異常気象を鑑みても、木々としては調子が崩れるのもわかるのですが、なぜか今年の桜はパッと咲いてすぐ散りそうだと思いました。

何故だろうかと考えたのですが、大地のエネルギーが枯渇しているように感じます。
これも理由は考えてわかるものでもありません。ただ、この様子を見ていると今年は野菜や果物の実りはあまり良くないかもしれません。
これは直感にすぎないので、実際にどうなるかはわかりません。

最近、街ゆく人々を観察しながら、めっきり邪気の周波数に合わせることができなくなり、認識しにくくなりました。
それゆえ、「この人はすごい邪気を放ってる」という感想すら抱かなくなりました。
私がこの能力に目覚める前に、目に入る全ての人に感じていた「普通」の感覚です。

だから私としては外出もしやすくなりましたし、人間に対して違和感も感じづらくなりました。
しかし、やはり人々と自分には圧倒的にズレを感じる部分もあります。

東日本大震災の時、私は仙台のビルの一室で罹災しました。
あの時は正直死ぬかと思いましたが、とりあえず非常口から降りて下の公園に避難しました。
その公園では、皆が焦って着の身着のままで出てきたので薄着の人もいました。

3月11日、小雪が舞っている中、私たちは怯えながら途方に暮れました。
しかし、同じビルに入っていた会社の人々が何となくヘラヘラしているのを見て、私は「大変なことになったのに、何故笑っていられるんだ?」と思いました。
そして私たちが集団で避難しようと動き始めた時、彼らは半壊のビルの中へ、業務を再開するために戻って行きました。

人は急激な変化が起こった時、正常バイアスが働いて逆におかしな行動を取ることがあります。
震災によって人々が混乱する中、変化を受け入れられず何をすれば良いのかわからなくなった彼らは、さっきまでやっていたいつもの行動を選択することで、安心しようとしたに違いありません。

けれど、建物は事実上の半壊状態であり、その時にはすでに大規模停電が発生していたはずです。
彼らがその後どうしたかはわかりませんが、公園でもう炊き出しの準備を始める人もいて、色々な人がいると思いました。

今、街ゆく人々から感じるのは、その震災時の違和感です。
非常事態だし危機感を感じて動くべきなのに、わざと変わらない行動を選択し、安心しようとしているように見えます。
中途半端に戯けたり、怒ってみたりして行き場のない感情を発散させて、腑に落ちたフリをしているのではないでしょうか。

多くの人は、私の方がおかしいだろうと言うかもしれません。
焦りはあるけど何をしたらいいかわからないし、ジタバタしたところでしょうがない、という感覚なのでしょう。

ただ、私には人々が半壊したビルに戻っていった会社員を想起させて、何となく不気味に感じるのです。

思えば、あの震災が日本の岐路でした。
あの辺りからデマが説得力を持ち始め、日本の腐敗が一気に進行し、少しずつ日本人が正常な感覚を失っていきました。
時代に変化のトリガーがあるとするなら、新型コロナの流行と同じくらい、東日本大震災は日本人の霊格に強い影響を与える出来事でした。

そこには得体の知れぬ大きなシナリオがあり、そのシークエンスの一つだったのかもしれません。
厳密には良いとか悪いとかではないのでしょうが、果たして、あの頃日本人は正しい判断をしたのでしょうか。

今の世は良くない、というのは誰しも感じます。
しかし、今の世の混乱は「禍事」という形で、これまでの人の世のカルマの積み重ねによってもたらされたもののはずです。
自分が気持ち良く生きてきた暮らしの裏には、負の責任はずっと累積し続けてきたのです。

それは少しずつ、気づかないレベルで進んできたからこそ、誰もが「自分は関係ない」と思えました。
けれど、今こうしてその因果が顕在化している時、見て見ぬふりをすることはさらに罪を積み上げることになります。

そのカルマを解消しない限り、人と世を改めることはできず、人と世を改めることがカルマの解消になるのです。
ゆえに、今の世を見渡して疑問を持ち、問題をしっかり直視し、例え自分が全てを変えることはできなくても自分を変え、それによって行動を変えていく、それが世界を変えていく第一歩になるはずです。

世の中には巨悪があり諸悪の根源で、彼らを打ち倒さなければ平和も安寧もない、と考えるのは正しくもあるのですが、それでは平和も安寧も実現しません。

「悪」とは、悪というこの世に必要な因果を背負っているだけの人々にすぎません。
悪が犯す罪、罪によって生じる災いや禍事も、この世を糺すために世を乱す役目を持っているのです。

私たちが「彼らは間違っている」と思い、糾弾し世を糺していくことも社会にとって重要なことです。
しかし履き違えてはならないのは、間違っていることをしている人々は、「間違ったことを正しく行っている」のであり、それも天の道理の下では必要なことだということです。

岡本天明翁が書き記した「日月神示」において、「悪とは我よしの事ぞ(青葉の巻・第八帖)」とあります。

私は「日月神示」はどうやら本物らしい、と認めざるを得ません。
今の状況をここまで的確に説明するテキストは、スピリチュアリストの文章でもあまりありません。
そして、私自身この書を降ろされた神様とのご縁も感じるのです。

「黄金の巻第五巻・第九十七帖」にある一文を紹介します。

「悪も神の御働きと申すもの、悪(あく)憎むこと悪じゃ、善を憎むより尚悪い、何故に分からんのか、弥栄と言う事は歩(ほ)一歩づつ喜び増して行く事ぞ」

同・第九十六帖。

「善と悪との動きを心得なされよ、悪は悪ならず、悪(あく)憎にくむが悪、神の理(みち)は弥栄えぞ」

「日月の巻・第九帖」ではこう書かれています。

「何事も持ちつ持たれつであるぞ、神ばかりではならず、人ばかりではならずと申してあろうが、善一筋の世と申しても今の臣民の言っている様な善ばかりの世ではないぞ、悪(ア九)でない悪とあなない(融合)ているのだぞ、このお道はあなない(融合)の道ぞ

日月神示では、悪とはこの世の働きにおける一つの側面であり、善は悪(ア九)を改心させ和合することで「弥栄の世」となると説かれています。
悪を滅して世を糺すために「三千世界の大洗濯=大峠=神と悪神の戦争」が起こっているとされますが、その目的は「悪の改心」であるとのことです。

このように、悪とは必要悪であり、世界のめぐり(因果)の中では「陰」であるとされます。

私たち人間は、悪を滅ぼすためには悪を根こそぎジェノサイドしなければならないと考えます。
そう考えるから、「浄化すべき対象」を選択し、選択できなければ手当たり次第に殺戮をしなければなりません。

こうして起こっているのが戦争です。
しかし、弥栄の世に至るために必要なのは「あなない(助ける)」であると日月神示では説かれています。

「弥栄の世」は「ミロクの世」とも呼ばれますが、弥勒菩薩とは遥か未来、人を慈悲によって救済する仏であります。
この「あなない」とはまさしく「慈悲」であり、例え世界を混乱させたのが悪神であろうと、神の目的は「悪の救済」に他ならないということです。

私たち日本人は今、「あいつが悪い、これが諸悪の根源だ」と問題探しに躍起になっています。
かくいう私もそうです。それらしき原因がわかれば、そこに世を悪くした責任をなすりつけ、自分はさも問題がなかったかのような顔をします。

しかし、本当に一から十まで悪人だけが悪の権化であり、悪事の責任があるのでしょうか。
無碍の人々がその悪を支え、悪事の一端に力を貸したことは本当になかったのでしょうか。
そのことを深く、反省すべき時にいます。

その罪に心当たりがあれば、私たちはこの世界を荒らした責任に対して、反省して後片付けをし、元に戻していく必要があります。
それが、神様がお造りになられた地球という星に対する、人間の責任なのです。

何をしたらいいかわからない、それは皆そうです。
何もできないかもしれない、それも同じです。

しかし、こういう時こそ神様に手を合わせ、とりあえず反省するところから始めてみたらどうでしょうか。
きっと神様はその心持ちを認め、ヒントを与えてくださるに違いありません。

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「神代」のルール

楽太郎です。

今は、「待つのが仕事」だと思っています。
春分明けでエネルギーが高まり、新しいことも始めたのですが、ガクッと動けなくなって久しいです。

おそらくこれは、4月13日の満月を境にまたガラッと変わると思います。
見たところ、このエネルギーの変化は様々な障害や抵抗として顕在化しているようです。
その正体は邪気だったり好転反応だったり色々するようですが、その人それぞれに浄化すべきテーマとして現れているのかもしれません。

私は、過去のトラウマとか後悔の念なんかがブワッと出てくることがあり、強烈なエネルギーが身体を巡ることもあれば、完全にエネルギーが停止して息が詰まったり、不安定な状態にあります。
さすがに病気も疑うのですが、こういう謎の愁訴感はだいたい霊的なものなので、一種の変容が来ているのだと思います。

こう言ったエネルギーの切り替えに起こる不調は、去年の冬至から事あるごとに来てはしばらく身動きが取れない、というのを繰り返してきました。
よく考えれば、この半年くらいはほぼ浄化と好転反応に専念してきたと言えるくらい、魂の変容を優先しています。

その行程はまさに修行と呼ぶに相応しく、自分の人間的な部分を削ぎ落としては新しい自分に変わっていくプロセスそのものでした。
周りから見れば、どんどんダメになっていくように見えてると思いますが、なぜか私は磨きがかけられている実感しかない、という不可思議な状況です。

おそらく、時代はもう「神代」が到来しているので、これまでの人間のルールと神様の世界でのルールにおける、推奨すべき生き方が違うからだと思います。

これまでの人世では、人に使われたり人を使う立場に徹することで対価を得て、それが成功の道でした。
しかし、神様が君臨する治世では、神の求めに応じられる者、魂の輝きで才能を発揮する者が恵みを得るというシステムなのだと思います。

これから、現在の「マネー」がどれほど価値を持ち続けるのかは不明です。
しかし、円やドルの通貨価値がどうなろうと、商業取引に用いられる貨幣が例え「貝殻」や「クーポン」であっても、実質的に価値のあるものと交換できれば経済は成立します。
要は、「実質的に価値のあるもの」が確実にトレードできればビジネスは成立するので、本質的に価値のある商品が手に入る方が遥かに重要です。

今の世の中でも良いのですが、謳い文句や印象だけで「価値がある」と思われているモノは限りなくあります。
それらは世界にモノが溢れ、基本的需要が満たされているからこそ付加価値で持て囃されてきました。
しかし、人々が困窮し、食うに困るとか生活すらままならなくなるならば、付加価値がなく安く基本的機能を満たせるものを求めるでしょう。

その上で、「本物」とはやはり粗製乱造できない、しっかりと精巧に作られたモノであり、長持ちする良品であることが多いのです。
それを作るのは熟練された技術だったり、ノウハウに裏打ちされた才能であったりするわけです。
「本物」は小手先のアイデアでは再現できないからこそ、貨幣自体に価値がない時代には遥かに重要な性質になってくるでしょう。

神の治世では、その才能こそ一人ひとりに与えられた「分身霊(ワケミタマ)」の発露であり、その能力は神の力であるからこそ、人の役に立てるものです。
「分身霊」は今、私たち全ての人の魂に存在します。だからこそ、誰もがきちんと魂を磨けば、才能という神の力を発揮することができるのです。

しかし、これまでの物質中心の時代は、わざと「魂など存在しない」ということにしなければなりませんでした。
魂が存在する、ということは霊的な現象の先に「神」の存在を認めるということです。
「神」が存在すれば、人間が神のように振る舞い、人間界の頂点にいることは許されません。

人間界の頂点にいる者は、思いつきや欲望ひとつで下の人間たちを思うように使うことができました。
下々に命じてある人種を迫害したり、戦争を起こしたり、人間のエネルギーを一極に集めて自分のものにすることもできたのです。

しかし、神が存在すれば、その行動は神に仇なすことになります。
ゆえに必死で「神など存在しない」と証明する必要がありました。目に見えない存在を迷信化し、全ての宗教を眉唾物として扱い、人間の感覚そのものを即物的なものに結びつけてきました。

そうすることで、人々は「目に見える世界」だけが現実であり、その世界だけを信じるようになったのです。
目に見える物質的な世界は、一元的で「お金とモノさえあれば安心して生きられる」というシンプルな世界でした。
幸福も自由も、お金を得る条件さえ揃えれば実現し、人の心もその条件で何とでもなると人々は考えるようになりました。

ある程度は、それで満足して幸せを感じられた人も多かったでしょう。
しかし、目に見えないものを否定することで成立した世界観は、徐々に歪みを見せるようになってきました。

「心」という人間に備わる器官を軽視することで、精神的なものより物質を優先し、理不尽なほど合理的に求められる利益のために、人々は本来の「人間らしさ」を失っていったのです。

それでも、この世を支配する人間からすれば知ったことではないのです。
心を病もうが荒廃しようが、その混迷を利用して金儲けができるからです。
病気になれば薬が売れ病院が流行り、迷う人が増えれば詐欺や悪どい宗教が盛んになり、アルコールやドラッグが捌けます。
そして、戦争になれば気に食わない民族を合理的にジェノサイドし、武器や兵器は飛ぶように売れます。

それが、これまでの「人世」でした。
人間がシンプルに「お金やモノ」だけを信じて生きていれば、そのことだけを考えて暮らせた分、人々は楽に生きられたのです。
いくら頭を使って生きていても、根本的に「自分とは何か、何をして生きていくべきか」を顧みずにいられる以上、人間として本質的な問題を直視しなくて済むからです。

ただし、その時代はもうすでに終わりました。
これから、その物質的な世界は経済の崩壊という形を持って切り崩されていくでしょう。
新しい時代においては、人間の考えるルールよりも、天界のルールが優先されます。

天界のルールとは、因果をもたらすものが人間ではなく、神や霊的存在であるということです。

これまでは、有力者に気に入られるとか、有名大学の肩書きや大企業のコネなど、人間社会の道理が大きな力を持っていました。
力のある人間は、お金や暴力や、有利な条件を振りかざせば因果すら捻じ曲げることができました。

ただし、スピリチュアルな存在が因果を握ることは、人間の身勝手なロジックが通用しなくなることを意味します。
あくまで高次元の存在によって中身が審査され、その結果が現実に跳ね返ってくるということです。

このルールは、人間にとって信じがたいほど残酷なものに映るはずです。
自分が頭で考えて努力したとしても、その成否は上位の存在が決めるのですから全く勝手が違います。
だからこそ、多くの人々は無意識下でその計画に反対し、神代の実現を阻み続けてきたのです。

その感情は邪気となり、邪気は具現化して様々な災いをこの世界にもたらしています。
地震、火災、台風、異常気象、凶悪犯罪、社会の混乱、そう言った災禍は人間の邪気が物質的、霊的にもたらしてきた現象と言えます。

それでも、人間は目を逸らし続けていたのです。
人間を作ったのは神々であり、人間も神の一部であり、そうである以上は神々に逆らって勝利することはできません。
ゆえに、人世は終わっていくしかありません。

そして、その次には神が支配する時代が訪れます。

今の人々にとって、それは全く異質であり受け容れ難いものでしょう。
しかし、権力を持った歪な人間の意志に従う世は終わり、各個人が自立して自由を選択していく時代になっていきます。

因果は神が決めるので、「正直さ」だけが重要になります。
良い心持ちであれば良い結果に、悪い心持ちなら悪い結果になり、ゆえに各々が自分自身を見つめなければ何も進まないでしょう。
悪いところは反省し改善する、そうすることで神の承認を得て、良い循環に戻っていきます。

その世の中では、人を欺いたり搾取するような行為は、いずれ身を滅ぼすはずです。
だからこそ、神代は「弥栄の世」であり、好循環のもの以外は淘汰されていくでしょう。

その世界では、たかだか数百年で絶滅の危機にある人間の作った時代よりも、遥かに悠久の歴史を刻めるように思えます。
日本の縄文時代が1万6千年以上続き、絶えることがなかったのは人々が野蛮で未開だったからではありません。
自分の運命を神に預け、自然と共に生き、恵みを子々孫々まで継承してきたからです。

今こそ、私たち日本人はこの境地に立ち返る時です。
このまま、人間本来の意識を忘れたまま滅ぶべきではありません。

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日本の復権

楽太郎です。

アメリカ経済が崩壊の兆候を見せ始めています。

私のような経済素人でも、関税を高めたら国内供給への締めつけに繋がることくらいわかります。
インフレ下においていくら企業を国内に呼び戻したとしても、海外から製材を輸入しなければ製造ができないので物価高は解消されません。
しかも、報復関税でアメリカの製品も輸出できず、クレジットカードの延滞率が過去最高の国民に消費を下支えする体力はありません。
このままでは、どう考えても最悪の悪循環に陥ります。

アメリカはNYダウとS&P500の数値を見ていると史上最強の経済に思えますが、これはアメリカの悲惨すぎる実態経済を誤魔化し、世界中からマネーを呼び込むために作られた芝居です。
数値を出すたびに修正を繰り返すFRBが、果たしてどれほど真実の数字を出しているのでしょうか。
中国なら鉛筆を舐めるが、アメリカのような先進国がやるはずがない、という根拠はどこにもありません。

好景気に映るアメリカの経済指標を実態が反映しているのか、専門の調査機関しか知り得ないはずです。
果たして、アメリカのインテリジェンスにどこまで白が存在するのか、私は疑わしいです。

マグニフィセント7が主導する生成AIも、所詮は大量の電力と環境資源を消費し、数年しか持たない非効率な処理装置を全世界にばら撒き、荒稼ぎするためのロジックです。
実際、生成AIは完全に赤字産業ですが、投機商品として魅力的だから資金が集まるだけです。

人々は「AIが考えている」と思いたいようですが、あれは全世界のネットから情報を集積し、巨大なデータベースからパターンを引っ張り出しているに過ぎません。
その論法で世界中の富裕層を欺き、資金をアメリカ国内のIT企業に吸収させているのです。

ロシアウクライナ戦争の真の目的は、ロシアに戦争をさせることで、次世代戦争の雛形となるべきAI兵器の技術を完成させ、既存の軍事産業をアップデートさせることでしょう。
アメリカは資金供与を渋る芝居をみせながら、ウクライナに無人兵器を開発してもらう口実を作っているにすぎません。
プーチン大統領はどこまでアメリカの肩を持っているかはわかりませんが、前線から兵を引かないことでウクライナのAI兵器の完成に協力しているように見えます。

中国は、台湾侵攻を外交カードに使ってアメリカ、及び西側諸国に圧をかけています。
しかし、その挑発が逆に近隣諸国へアメリカの影響を強める効果をもたらすとしたらどうでしょうか。

中国が戦争を始めると宣言することで台湾の軍事調達はアメリカ主導となります。
そして、AI兵器に欠かせない半導体産業はアメリカの軍事産業と一連托生になるわけです。
その緊張が続く限り、日本を始めとしてアメリカ産兵器の調達が進み、その利益はアメリカの軍事産業が手にすることになります。

中国もロシアも、アメリカと敵対しているように見えますが、緊張状態だからこそ生じる必要悪があります。
お互いが弱みを握り合う中で、裏で強調路線を共有することで現在の不安定さを均衡させているとしか思えません。

特に産業として軍事と製薬とIT以外に稼ぎ頭のないアメリカは、国体と帝国的支配を維持し続けるために、次世代戦争の覇権も掌握する必要があります。
その覇権を維持したいのは、実はアメリカ自身ではなくアメリカの支配階級を影で操るユダヤロビーでしょう。
彼らは、アメリカ政府が「ロビー活動規制法」なるもので献金によって利権を拡大する政治を戦後から行なってきました。
その仕組みを牛耳っているのは、間違いなくイスラエルの侵攻を支持しているグループです。

これらの金融を支配する集団は、思想的なバックボーンを持たない選民意識の強い人々です。
ゆえに、民主主義や社会主義がどうなろうと知ったことではないのです。
大事なのは金であり、そのシステムを維持するのが至高の目的でしょう。
だからこそ、数多の国家や民族が解体されても、それすら利益の手段にしてしまうのです。

トランプ大統領はマスクなどDSの息のかかった微妙な連中を抱き込んでおかしくなったようにも見えますが、いずれにせよ現状ではトランプ大統領は「グレートリセット」のトリガーを引くでしょう。
彼が本気でアメリカを救おうとしているとしても、妄想の中で破滅を招いているにしても、近い将来に彼が汚名を被ることは決まっている気がしてなりません。

これらは、少し世の中を俯瞰すればわかることです。
皆が現文明はこれからも発展を続けていく、次はAIによる地上のユートピアが実現する、アメリカは復活し、再び覇権を握ると思っているからこそ、崩壊というビジョンを想像することができないでしょう。

今でもほとんどの人々は、総理大臣が交代したら日本は多少マシになるとか、トランプ大統領が国内のDSを倒してくれたらまだ立ち直れると思っています。
よしんば、コロナ前のような景気に戻り、外国人を移住させてでも右肩上がりの経済が復活すると信じています。

しかし、残念ながらそれは夢に終わるでしょう。
それが露と消えることを想像できないくらいには、人々は新しい時代を受け入れ、生き方や考え方を変えたくないのです。


先日、馴染みのラーメン屋に行きました。
ラーメンと餃子のセットからライスが外され、ライスが有料50円になり、セットが100円値上がりしていました。
スーパーでお弁当を買った時は、テーブルに置けないくらい歪な形の容器で、ご飯を持ち上げてみたところエゲツない上底の工夫を見せられました。

物価高だから仕方ない、と今は思えるでしょうが、企業の収益が不況ゆえに目減りし、従業員の給料は上がらず、それでも日常品や食料が値上がりしていけば、生活以外にお金を使えなくなります。
外食産業も、利用機会が減れば当然収益は減ります。企業倒産が増えれば、職を失った人々は余計に消費を絞ります。
不況になれば、求人は減り人々は職に溢れ始めます。そして、どうにか資金を回収しようとあの手この手でグレーなことを仕掛ける業者も増えるでしょう。

人々は薄々勘づいているのではないでしょうか。

日本の企業も良心的というか、安心できるレベルの商売をするところもめっきり減ってきています。
大企業と言えど、平気で消費者を欺きます。寡占企業だから多少のクレームでは動きませんし、居直ったところで消費者に代替手段がないから手出しができないことも知っているのです。
その大企業も、人々の生活インフラの一部になっているから身動きが取れません。
ゆえに、供給者と消費者の双方が牽制し合い、先細りの流れを止めることができないのです。

一次産業や流通の業界は人手不足で喘いでいて、経済を支える大動脈にこそ酸素が回っていません。
そして、平常時にこれだけ経済活動が脆弱化しているのに、恐慌と災害に見舞われたらどうなるのでしょうか。
私には、嫌な予感しかしません。

ただ、私には神様の思い描くシナリオが読める気がします。

この状況で日本がユダヤ支配の資本構造を脱し、新たな経済システムをもつ社会体制を確立するならば、恐慌後に荒廃しきった資本国家群を出し抜くことが可能です。

その頃には、世界は凄惨な混乱状態にあるはずです。そこで日本が新しい文明の代替システムを提案することで、世界はその姿勢に追随することになります。
その時、縄文時代より連綿と続く「雛形の国」は、真の姿を世界に見せることになるでしょう。

そのための立て直しが、今日本に求められています。

日本人は明治維新以降、西欧列強に追随するべく帝国主義を採用しました。
しかし、その拡張主義は大東亜共栄圏という名目で他国を侵略し、結局は大戦によって敗北し、今度はアメリカ主導の帝国主義の傘下となりました。

資本主義的な競争原理を組み込んだ社会は、特に明治以降の科学的思考の普及によって、人心よりも物質的な豊かさを求める方向に突き進みました。
大量生産大量消費の時代、祖先が大事にしてきた土地を日本人は易々と現金化し、挙げ句の果てに国土を外国人に売却する世となりました。

この即物的な思考が、我が国の停滞をもたらしたと言っても過言ではありません。
拝金主義を極めた結果、人々は自由もルールも奪われて、弱肉強食の世界に疲弊しきったのです。
そしてこの流れを止めない限り、日本の収奪と衰退は終わることがありません。

日本の縄文時代は1万6千年続いたとされます。
人々は、「原始時代だからそれくらい続く」と思うでしょうが、青森県の三内丸山遺跡は少なくとも5千年前の集落で、その頃には日本国内の海洋交通が確立されていたとされます。
下手すると、2千年前のヤマト政権による日本国の成立以前に、日本人は列島を縦断してネットワークを形成していた可能性が高いのです。

日本人は巨石や山全体を御神体とし、目に見えない存在を自然に見て暮らしてきました。
自然と調和するあり方で荒れ狂う河川を整備し、水のない土地には灌漑を引き込み、植樹して林業を発展させ、豊かな国土からの恵みを代々に渡って享受してきました。

その日本人が、建国して数百年足らずの外国の文明を踏襲し、この数十年で国土の形を著しく変貌させました。
自然環境を「資源」という視点で利益に変換し、再循環を拒む文明のやり方は、もはや全世界的に立ち行かなくなっています。
だから今こそ、口先でも絵空事でもない「環境にやさしい」やり方を取り入れるべきです。

江戸時代には、イギリスが文明国として覇権を握りながら排水設備が未熟な時代に、我が国には上下水道のシステムが確立していました。
自然と共存しながら、安全に暮らす土地作りを実現し、その豊かさを維持する知恵が日本にはすでにあったのです。

その知恵を復活させることは、大量消費に裏づけされた社会システムを代替することに繋がるでしょう。
それを実現するには、現在の大量消費システムの上に築かれている、私たちの生活の仕組みを見直す必要があります。
それはとてつもなく覚悟を伴うことです。
これまでのやり方を捨てることを、人々は極端に嫌うでしょう。

しかし、どの道このままでは欧米諸国と共に沈み、やり方を変えなければ日本人がこの列島に安心して住めなくなる日も来るはずです。
その日、世界で最も歴史のある国「日本」は終わりを迎えます。

それを止めるために、私たちが本気で立ち上がらなければならない時が来ました。
そしてこれが、この国におられる神々のご意向、そして命をかけて国土を守ってきたご先祖様たちの願いではないでしょうか。

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