招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

なぜ「禍事」が起こるか

楽太郎です。

そろそろ世も煮詰まりきった感はありますが、まだまだこれまで通りのやり方を貫く人々も多いようです。
私は私のやるべきことをやり生きる術を得て、世に貢献していこうという気持ちしかありません。
ゆえに、世の中がどうなっても私のやることは変わりませんし、今更世の人々にどうなって欲しいということもありません。

以前は、悪辣なやり方があまりに横行し、それに気づかず助長する人々、力に怯えて黙認する人々、その無抵抗を良いことに好き勝手する人々、そう言った世の風潮に対して抵抗してきました。
しかし恐ろしいほど共感する人は少なく、どの言葉も足元を掬われて貶されるしかありませんでした。

正義感から来る絶望は、人間社会に対する失望となり、この状況を人間が変えるつもりもないことを理解してしまいました。
だからこそ、この混沌を正常心で生き抜くために、私はスピリチュアルな世界を信じ、神仏にすがる道を選択しました。

「神様なら、この狂った世界を救ってくださる」と信じてここまでやってきました。

私の生業としていたクリエイティブの分野は、コンテンツの過剰な商業化と生成AIの普及によって完全に息ができる状態ではなくなってしまいました。
何十年もキャリアを積んだプロの作品より、廉価で大量生産されるAI生成物の方を、消費者は受け入れるようになってしまったからです。

この風潮に絶望しながら抗い、半ば意地になりながら創作を続けてきました。
しかし、手を止めて少し冷静に考えると、AIが人間の技術や才能を代替し始め、それを受け入れる人が増えたことにも何か意味があるのではないか、と思うようになりました。

自分にとって「最悪」だと思う状況が、わざと最悪の状況に導かれるプロセスが働いているとしたら、最悪な状況にこそ意味があるのかもしれません。

「禍事」が起こるのは、禍事によって世に修正が図られる一つの段階にしか過ぎません。
つまり、「禍事」という迷惑な事象が起きるからこそ、そこから学び解決しようと頭を巡らせ、それを乗り越えた世界によって浄化されるのです。

「禍」という漢字は、古代において卜骨によって占う時、厄災が神の意志で起こることを示しています。
そこにおいては、占卜の結果は人の意思ではどうにもならず、ゆえに神によって引き起こされるものだとされました。

この漢字に「マガ」という言葉を日本人が当てたのは、骨同士の繋がる関節が「曲がる」からです。
世の道理が曲がったことで禍事が起こるとすれば、それは神の意志であり人間は耐えることしかできません。
しかし、「曲げた」のは人間がどこかで曲げる力を加えたからであり、全てが究極的には神の意志であるとしても、人間が自分の手で曲げたことには変わりないのです。

この世界が狂うことで、悪夢のような「禍事」が起こるのは、単に災厄が降りかかっているわけではなく、その原因をどこかで私たちが作り出したからです。
その原因を他人のせいにしたいのが人間ですが、落ち着いて胸に手を当てたら、自分にもその原因に心当たりはないでしょうか。

私は長い間、仕事として創作を続けてきましたが、その土壌には「拝金主義」がありました。
作家は社会的に成功するために、人気を取り注目される方法を模索し、人々の評価や顔色を常に意識してきました。
そうして評価されなければ「意味がない」と割り切り、人の流れる方向に合わせることで成功を手にしようとしてきました。

しかし本来、創作とは自己実現でもあり、それ以上に内的表現と共感のために存在するものだったはずです。
それが他者評価として数字や収益に可視化された時、創作は商業的手段としての意味合いを強めてしまいました。

そうして「精神的表現」と「商業的価値」を分離させた結果、商業化しきった文化は最終的に人間の手を離れ、「AIがあれば人間はいらない」という感覚までもたらすようになってしまいました。
その流れに、私自身が加担してこなかったと言えるのか?
今、自分自身の胸に手を当てて考えています。

今の現実が私の目から「悪に支配された世界」に見えたとしても、その現象が自分に気づきを与えるために引き起こされたものだとしたら?

「禍事」が神の業であろうと人間の過ちであろうと、その出来事と向き合い学ぶことこそが禍事の真の意味であり、その解決に尽力することが禍事を消し去り、世をより良きものにする働きに変えることができます。
「禍事」は決して悪ではなく、悪を知らせるためのシグナルであり、実際に悪は存在せず、曲がったり真っ直ぐになるだけの過程の一部に過ぎないのかもしれません。

あらゆる災厄も悪事も、それ自体が人間からは邪悪で誤謬に満ちたものに見えたとしても、その間違いも一つの正しさであり、間違いを知り学び修正する一連の克服にこそ、本当の「正しさ」があるのではないでしょうか。

だから、「世の中は狂っている」「もうこの世はおしまいだ」と言っているうちは、この現象の一つの側面しか見ていないことになります。
その狂いも間違いも、正しさへ導くための一つの過程なのだとしたら、逃げずに受け止めるべきなのです。

この世界の醜さを憎み、「根こそぎ悪を葬りたい」と思う気持ちもわかります。
しかし、自らの一方的な正義で悪を殲滅させたところで、その行いに後悔や反省はあっても、学びや克服は存在しないでしょう。

悪は「悪」というこの世の摂理において正しい行いをし、正しさとはその断罪ではなく悪からの学びと修正にこそあるのだと思います。
悪はその破滅的なあり方ゆえに、永く存続し続けることが不可能です。
搾取と抑圧を繰り返すことで、不満や反感は募る一方、搾り取れるものはいずれ枯渇するからです。

その自滅も摂理のうちとは言え、その役割を終わらせるには「学びを終えた人々」の働きがなくてはならないのです。
そして、もう二度と同じ過ちを繰り返さないために、教訓を残していくこともまた学びの意味でもあるのでしょう。

だから、この世の中の醜悪さに目鯨を立て、一つ一つに反感を覚えていくことを、私はやめました。
世の中が悪いのは私にも原因があり、その罪滅ぼしはこの困難から学び、より良い世にしていくことです。

ただ、世の中は「正義側の悪」と「悪側の正義」の間で、共喰いに近い凄惨さを見せていくことでしょう。
私たちがするべきなのはその争いを止めることではなく、学び乗り越えていくことです。

罪を憎んで人を憎まずとは言いますが、罪も憎まず人も憎まないのが、徳の高い正義というものだと思います。

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