神統試論【ニ】邪馬台国論・後編
- Category:神話研究
- Date:2025年05月05日
楽太郎です。
前回、「神統試論・一」において日本列島回転説に基づき、邪馬台国畿内説について語りました。
3世紀に西晋で書かれた魏志倭人伝を元に、古代の発音と当時の地政学から割り出した地名から「邪馬台国」の位置を推察しました。
そこでは「邪馬国」と「邪馬台国」は相関関係が曖昧ながらも、奈良盆地周辺から京都、近江付近にあった集落、そして「邪馬台国」が伊勢遺跡であった可能性について論じました。
記事をまとめるために全体的に駆け足にならざるを得なかったのですが、厳密な検討は「試論」では省略せざるを得ないと思います。
従って結論だけを書いていくことになりますので、ご容赦頂きたいです。
さて今回は、「上代日本語」の発音から魏志倭人伝を紐解いていこうと思います。
魏志倭人伝は倭人の発音を当時の中国語話者が聞き取り、漢字に変換した言葉が使われています。
弥生時代後期の日本語は日琉祖語と呼ばれ、現在の日本語とはかなり発音が異なったとされています。
当時の発音から邪馬台国の女王「卑弥呼」に当てはめると、「ヒミホ」に近いとされています。
「卑弥呼」の読み
かなり古いサイトなので一応引用しておくと、上古音のリストから「卑弥呼」の発音を読み解くとこうなるそうです。
卑 pieg pie pi ...pəi ヒ甲
彌 mier mie mi mi ミ甲
呼 hag ho hu hu ホ、でしょう
上古音なら、pieg mier hag
中古音なら、pie mie ho
この記事では、「ヒミホ」に比定できる人物を「記紀」に求めた時、「御穂津姫命」に当たるのではないか、という考察がありますが興味深いです。
これまで「日巫女」と解釈されてきた卑弥呼の名は、「ヒミホ」を漢字に当てた場合に意味合いとしては成立しなくなります。
仮に「日彌穂」と当て字される時、どことなく九州系の官名に近い名になる気がします。
私は個人的に「比売穂」だと思っているのですが、それを述べるのは後日にしたいと思います。
魏志倭人伝を「上古日本語」から読み解くと、五万個の集落とされた「投馬国」は、「おどま」という発音だった可能性があるとされています。
前回、投馬国を「出雲」に比定しましたが、「おどま」と「いずも」の発言としての近似性も一考に値します。
さて、魏志倭人伝の中で「邪馬台国」とする記述に以下の文があります。この記事では、「ヒミホ」に比定できる人物を「記紀」に求めた時、「御穂津姫命」に当たるのではないか、という考察がありますが興味深いです。
これまで「日巫女」と解釈されてきた卑弥呼の名は、「ヒミホ」を漢字に当てた場合に意味合いとしては成立しなくなります。
仮に「日彌穂」と当て字される時、どことなく九州系の官名に近い名になる気がします。
私は個人的に「比売穂」だと思っているのですが、それを述べるのは後日にしたいと思います。
魏志倭人伝を「上古日本語」から読み解くと、五万個の集落とされた「投馬国」は、「おどま」という発音だった可能性があるとされています。
前回、投馬国を「出雲」に比定しましたが、「おどま」と「いずも」の発言としての近似性も一考に値します。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
つまり邪馬台国には「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳鞮」の四人の官がいるとされます。
この「次」というのが序列なのか、代替りを意味しているのかは不明ですが、歴代天皇の和風諡号と対比できるという説があります。
「伊支馬」を「いきま」と呼ぶならば、第十一代垂仁天皇の和風諡号は「活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)」であり、「いきま」とは発音が被る部分があります。
卑弥呼のいた2世紀後半は、天皇制ではなく「ヒメヒコ制」と呼ばれる女性祭祀長と男性大王を二柱とした政治体制であったと思われます。
卑弥呼に夫はなく、弟が女王を支えていたとされており、「伊支馬」という官が男性大王を指し、その名が垂仁天皇の和風諡号に残された可能性もあります。
では「彌馬升」ですが、「彌馬升(みます)は第十代崇神天皇の和風諡号が「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」であり、「みます」と近い発音が見られます。
「彌馬獲支」の「獲」をどう読むかと言えば、埼玉県の古墳から出土した稲荷山鉄剣銘文に「獲加多支鹵(わかたける)大王」とあり、「獲」は「わ」と呼ぶことがわかっています。
従って「みまわき」と読めるのですが、この「わき」を「ワケ」と変換すれば、第十二代景行天皇の和風諡号が「オシロワケ(大足彦忍代別)」、第十五代応神天皇が「ホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)」のように、「ワキ(ワケ)」という名が「姓」であったか、その元になった可能性があります。
最後に「奴佳鞮(なかた)」ですが、近い発音に「額田(ぬかた)」があり、飛鳥時代の天武天皇の妃だった「額田王」を連想させます。
額田王は皇族の女性とされ、「采女・巫女」だったのではという説もあります。
「額田」姓に近い姓には朝廷の祭祀を取り仕切った「中臣氏」があり、「奴佳鞮」も祭祀関係の重要人物だった可能性があります。
これらの官は、王ではあるかもしれないが、「女王」ではないという点が特筆すべきだと思います。
「彌馬升」が第十代崇神天皇、「伊支馬」が第十一代垂仁天皇、また「彌馬獲支」「奴佳鞮」の四人が女王卑弥呼に仕えていたとすれば、天皇家の系図にも関係するかもしれません。
「ヒメヒコ制」における「比売(姫)」は、祭祀を司る巫女であったと言います。
古くは縄文時代以前の男女分業制に端を発し、男性が主に狩猟採集、女性が家事や子育てを担当し、それぞれの集団が男性長、女性長を立てたことに由来するとされます。
後に男性長が政治を担当し、女性長が占術や祭祀を執り行ったという説があります。
ヒメヒコ制における巫女は叔母から姪に役割が継承されたとされ、なぜ巫女が婚姻関係を結び子女を継がせるシステムではなかったのかが重要です。
男性長と女性長が夫婦となり子息が生まれれば、どうしても両者の子息が権威を持ってしまいます。
従ってヒメヒコ制においてヒメとヒコは兄弟、あるいは近親者であるケースが多く、ヒメが結婚して子を儲けたとしても、その子もまたヒメヒコ制において分業的政治権を有したはずです。
また巫女は呪術的才能が必要だったこともあり、その兼ね合いもあって独身であることを尊ばれたのかもしれません。
従って卑弥呼に夫がいたかは図りかねますが、独身であったことは理に叶っていると言えます。
卑弥呼の死後、男性王が立ちしばらくの混乱の後に13歳の台与が女王となりますが、卑弥呼が死ぬ間際に子息がいれば後継者はすぐに見つかったはずです。
あるいは死期が予測できるとしたら、すぐにでも後継者は立てられたでしょう。
しかし年齢的に相応しいとは思えない少女が女王に選出される経緯を考えると、卑弥呼に子はいなかったか、少なくとも女性の後継者はいなかったと考えて良いと思います。
私は個人的に魏志倭人伝の人名の「伊支馬」から「市杵島姫命」、「台与」から「豊玉姫命」を連想してしまうのですが、第十一代垂仁天皇が卑弥呼だとする説も気になっており、この考察は後日進めたいと思います。
さて、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の官名も上古音で読み解くと面白いことになってきますが、邪馬台国が畿内にあったという説に基づいて話を進めます。
邪馬台国畿内説にとってネックとなるのは、文明度の低い出土品の多さです。
魏志倭人伝には、邪馬台国は「狗奴国」と戦争をしていたと書かれており、弥生時代後期にはすでに鉄が流通していたことから、戦争の最前線に最先端兵器である鉄器を使用しなくてはおかしい、という話になります。
現に、島根県の荒神谷遺跡では大量の銅剣が打ち捨てられており、鉄器はかなり流通していたと思われます。
当時は対馬を経由して宗像、出雲と通り丹後に至る鉄の日本海交易ルートが確立されていました。
しかし、奈良盆地近辺どころか、畿内の遺跡からはほとんど鉄剣や鉄鏃が発見されていません。
土器としては東海地方の系統が多く、鉄を多く所有していた九州勢力とのバランスを考えると、近畿地方は戦争をするには長閑すぎるのです。
しかし、この時期の日本にはまだ鉄の精錬技術が乏しく、朝鮮半島から鉄はインゴットで輸入され、主にその鍛造・鍛造だけを行っていました。
鉄は青銅に比べて強固ですが比較的希少なため、主に鍬や鋤などの農機具に用いられたと考えられています。
希少な鉄を使えるのは全国的に流通量の多かった北九州に顕著で、特に福岡県から熊本県にかけて鉄系武器の出土数が目立ちます。
魏志倭人伝には「倭国大乱」の件があり、佐賀県三津永田遺跡から発掘された古代の他殺遺体からは、鉄鏃が撃ち込まれた状態で発見されています。
島根県の青谷上寺地遺跡では、100名ほどのバラバラ遺体が発見され、大量虐殺の痕跡である可能性が指摘されています。
このように鑑みると、動乱の気配が強いのは北九州を起点に四国、中国地方で、近畿に至って唐古・鍵遺跡が高台に建造されている以外は特に戦乱の空気を感じません。
「倭国大乱」をベースに考えると、この戦争状態が女王卑弥呼の即位によって沈静化する以上、邪馬台国がこれらの武力を押さえつけるのは政治力で何とかなるのか、それにはやはり武力が必要であり故に当時最強だった北九州勢力こそ邪馬台国だったのでは、という話になります。
ただ、この説は「祭祀的権威で統治が完成する」というシステムを疑問視し、「鉄器を使う勢力こそが当時最強だった」という考えに基づくはずです。
では、弥生時代後期の戦争がどのような形だったのかを見ていきたいと思います。
確かに当時、青銅はどちらかと言えば祭祀に用いられ、武器として使用するには脆く、鉄剣とかち合えば忽ち折れてしまったでしょう。
ただ剣とは近接武器であり、半径2メートル以内に同じ近接武器を持った敵がいなくては役に立ちません。
戦国時代の集団戦を考えてみればわかりますが、槍や矛などリーチの長い武器で敵を抑え込めれば、刀を持った兵は近づけなかったのです。
槍や矛に付属する鏃は、突き刺したり引っ掛ける程度なら青銅でも十分な威力だったはずです。
戦国時代の槍は、ほぼ「叩く」攻撃に近かったと言われ、長竿の遠心力で簡単に敵を倒せたでしょう。
鉄剣と槍の近距離戦を前にして、遠距離から弓矢で敵を近づかせなければ接近戦は避けられます。
魏志倭人伝に「倭人は上長下短の弓を使う」とあり、実際に弥生時代から和弓の原型が見られます。
和弓は大型の弓で、長距離かつ威力の強い弓として知られていますが、どうやら当時の造弓技術では人を殺傷するにはある比較的近距離(中距離)である必要があったようです。
しかし矢に使う鏃は、鉄製なら威力も高かったかもしれませんが希少であり、使い捨てる鏃に使うには贅沢かもしれません。
仮に矢先が石でも、相手を仕留められるなら大量消費できる石鏃で構わなかったはずです。
つまり、鉄剣を持って挑んだとしても、青銅製矛、石鏃製弓矢で十分に対抗し得たのではないでしょうか。
従って、鉄器が戦況を大きく左右したのは剣を撃ち合うような乱戦においてであり、集団戦闘としては中長距離戦で決着が着くならば問題なかったはずです。
古墳時代後期においても、九州中部の熊襲が最先端の武装集団とは言えず、それでもヤマト王権の平定を手こずらせたということは、鉄器を持ってしても山野のゲリラ戦闘にはなかなか太刀打ちできなかったかもしれません。
ゆえに鉄系武器が九州、中部地方から夥しく出土するからと言って、それが即戦力差に繋がるとは言えない可能性があります。
現に、青銅器の出土量と石鏃の出土数は近畿地方においても引けを取りません。
かつて大和朝廷を悩ませた東北地方の蝦夷も、アイヌ由来のトリカブト系毒矢を使用し、朝廷側を苦戦させたと言います。
ただし、畿内では特に殺傷されたと思われる人骨の出土数が少なく、やはり戦闘で死傷した事例はあまりなかったのではと言われています。
弥生時代の古代和弓は東大寺正倉院に納められた平安時代の和弓に比べて洗練されておらず、やはり中距離戦で使用することが前提であり、必ずしも殺傷率が高かったとは言えないそうです。
この時代の集団戦闘は主に防衛戦であり、石鏃の弓矢に対して「置き楯」と呼ばれるバリケードに隠れながら矢を射出した形式の戦闘が多く、その場合は殲滅戦のようなものではなく、せいぜい怪我人を出して手打ちにする、という儀礼戦の様相であったとも考えられます。
つまり、倭国大乱では残虐極まる殺戮もあった一方、通常の集団戦闘では石矢を撃ち合うような模擬戦に近い雰囲気があったようです。
考古学的に考えて、畿内に仮定した邪馬台国が「狗奴国」と戦争をするならば、鉄器ではなく石器を利用した緩い戦闘であった可能性があります。
では、邪馬台国に敵対した「狗奴国」とはどう言った国だったのでしょうか。
魏志倭人伝には、邪馬台国の南に狗奴国があるとされています。前回の日本列島回転説で考えれば、「南」とは「東」になります。
前回、例に挙げた「日本扶桑国之図」ですが、別の古地図である「行基図」には東日本が「毛国」と書かれているものがあります。
「毛国」とはかつて上野国、下野国と言われた群馬県と長野県を跨る国だったとされます。
倭の五王の武が宋に送った上表文には、「東の毛人五十五国を征す」とあり、これは日本アルプスの東側にあった「毛野国」を指します。
ヤマトタケルが熊曾建を討ちに東国征討を行なった際、太平洋沿いの東海道を東進します。
毛国は実際、大和より東国の未知の諸国を指しており、その地は東海道が三関に繋がるまでは倭国の勢力範囲下になかったと考えられます。
実は西日本を支配する邪馬台国にとって、東海以東はほぼ未知の領域であり、また関東の文化圏に統一性があることから、この時代には西日本と東日本の勢力が東西に分断されていた可能性もあります。
それゆえ、古代では三関から東側の「まつろわぬ勢力」を一概に「毛の国」と総称していたのではないでしょうか。
この「毛」というのは、古代日本語の「外(け)」であり、「外の者たち」を指した可能性もあります。
「蝦夷」とは東北地方にいた豪族の阿弖流爲などを連想しますが、関東にいたまつろわぬ勢力もまた「蝦夷」と呼ばれていました。
栃木県日立市にある大甕神社は、甕星香香背男と建葉槌命を主祭神としています。
甕星香香背男(天津甕星)は葦原中国平定に最後まで抵抗した神として知られ、同様の話は建御雷命と建御名方命にも通じます。
そして神武東征と長脛彦との対決、ヤマトタケルが東国征討した熊襲の長の話とも類似しており、甕星香香背男が支配した地は千葉県から福島県までの範囲であったという説もあります。
神道の「大祓詞」には、以下の文があります。
「四方の国中と 大倭日高見の国を安国と定め奉りて」
この「四方の国中」は崇神天皇が北陸、東海、西道、丹波に派遣した四道将軍を連想しますが、この「日高見の国」とは大和から見て東国の蝦夷が済む全域を指したとされています。
これを鑑みるに、やはり「東のまつろわぬ国々=日高見の国」こそ、「毛の国=狗奴国」だったのではないでしょうか。
「日立」とは日の出のことで、「日高」と同意であるとされ、旧漢字の「常陸(ヒタチ)」は、「日高見道(ヒタカミミチ)」の転訛とも考えられてます。
日本書紀によれば、饒速日命が大和に辿り着いた際、この地を「虚空見日本国」と称したそうです。
かつて九州地方にあった「日向」が奈良に移ると、奈良の「日向」から「日の出る方角」の空を見ると、そこには「日高」があります。
つまりヤマト王権が東征するとしたら、最終的に常陸に向かうのは必然であるように思います。
前回、魏志倭人伝にある「不呼国」という国を「不破関」のある岐阜県不破郡周辺に比定しました。
不破関は関ヶ原町にあり、古来から西側勢力と東側勢力の決戦地とされてきました。
古代には三関を境に小競り合いが各地で起き、その緊張状態を「戦争」と表現したのかもしれません。
関ヶ原町のある不破郡には中村平野が存在します。この地域には「不破遺跡」があり、そこからは土器やガラス製品などが発掘されており、農業の痕跡も見られます。
もし軍事衝突が東海以東で置きていたとすれば、邪馬台国があったと私が比定する伊勢遺跡が非武装地帯に近いのも、畿内、奈良周辺が軍事的に穏やかなのも納得できる気がします。
東北地方の平定は平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂の登場まで待たなくてはなりません。
魏志倭人伝の時代は元より、「記紀」成立の奈良時代においても日本列島は未だ、王権によって統一されてはいませんでした。
古代において日本は、細かい単位の国々か集落が幾つもあり、それぞれが分散的な自治を行なっていたと考えられます。
そこでの小競り合いは石器を中心とした半殺傷兵器で、殲滅戦を想定したものではなかったかもしれません。
古代日本の戦争形態が儀礼的・模擬的戦闘であったとしたら、平和的解決が象徴的な理由、特に祭祀による宗教的統一というのは理に叶っているように思います。
ただ卑弥呼擁立以前は、北九州を中心とした動乱があったのも事実でしょう。
それが何らかの理由で治まり、その成功事例を次代女王の台与に引き継ぎ、後の時代には東国もヤマト王権に組み込まれていきました。
この歴史的プロセスこそ、「記紀」に神話として書かれた出来事のプロトタイプだったのではないか、と考えます。
次回からは、古代日本の地政学から「記紀」の歴史を紐解いていきたいと思います。