神様のところへ
- Category:神人関連
- Date:2025年05月04日
このブログに書くつもりはなかったのですが、先日骨折をしました。
街を歩いていたところ、歩道と地面の間に深い溝があり、そこに足を取られて持っていかれました。
草が伸びていたので、一目ではわからない溝でした。
このことに関して、自分でも深刻に考えませんでしたし、無関心と言えるくらいの心境でした。
しかし骨にヒビが入ったのも事実で、膝をついたためにそこも酷い状態になりました。
ここ数日、動けないこともありずっと大人しくせざるを得なかったのですが、自分を冷静に見つめる時間にはなりました。
なぜこのタイミングで大怪我したのかも、冷静になって考えることができました。
この災難は、原因として邪気とか人災とか、色々なもののせいにはできるかもしれませんが、最終的に災難が降り掛かることを私に許されたのは神様です。
つまり全体的な意味合いがあり、その中で様々な理由があるにすぎません。
だから、何かのせいにするうちは真の意味には辿り着けないのです。
私はこの時、家族と歩いていて少し親族について良くないことを口走っていました。
こういう軽口は私の性格なんですが、その次の瞬間には溝に足を持って行かれていました。
このタイミングの良さから考えると、どう考えても「罰」としか言いようがありませんでした。
また先日、母の愚痴に合わせて父を揶揄する言葉を吐いたところ、意味もなく咽せてしばらく喋ることができなくなりました。
最近、人のことを悪く言ったり神様について悪く考える時ほど、かなりの苦痛を伴う災難に見舞われます。
これが顕著に起こるようになったのはこの数週間で、どうやら私は言動や思考に対して露骨に神様の検閲が入るようになってしまったようなのです。
だから、軽率な悪口や軽口も「罰」の対象になってしまうのだと思います。
人として不自由極まりない状況に追い込まれたように見えて、実はそれだけ神様から強い導きが得られるようになった、とも言えます。
おそらく、私はもう「道を踏み外すことが許されなくなった」のだと思います。
それだけ神様から目をかけて頂いているということですが、これに自覚なく奔放に振る舞えば、骨折なんかでは済まない仕置きが与えられるということです。
人間からしてみれば、これは呪いのようでもあり「悲惨」だと感じるかもしれませんが、神に近づこうとする人間ならこれ以上にありがたいことはないかもしれません。
「そんなことがあるわけがない」と思われるでしょうが、現に私が舐めた真似をすると痛い目に遭う法則が発動し始めたのは事実で、それを気をつける限りは何も起こらないのです。
この現象が私だけに降り掛かっているとしても、それには私固有の事情があるからであり、そこに神様の意志が働いておられるのだとしたら、やはり神の采配なのでしょう。
この現象が私だけに降り掛かっているとしても、それには私固有の事情があるからであり、そこに神様の意志が働いておられるのだとしたら、やはり神の采配なのでしょう。
この怪我をしてから横になっている時間が長く、自分の内面を深く見つめる機会になりました。
いつも、言葉にならない悲しみや抱えていた胸の痛みは、いくら内観してもわからない感情でした。
ただ、最近ようやくその痛みが「孤独感」と繋がっていることに気づきました。
その孤独とは、自分が己の直感に従って行動すればするほど、誰にも理解されない領域に踏み込んでいく予感から生まれるものです。
その直感こそ、天から降りてくるエネルギーであり、インスピレーションという神秘の力です。
それは現実世界においては理不尽で、非合理的に見えてしまうプロセスです。
言葉で一から十まで説明しきれないからこそ、それを自分が行う時、必ずしも人に理解されないことを覚悟しなければなりません。
いつも、言葉にならない悲しみや抱えていた胸の痛みは、いくら内観してもわからない感情でした。
ただ、最近ようやくその痛みが「孤独感」と繋がっていることに気づきました。
その孤独とは、自分が己の直感に従って行動すればするほど、誰にも理解されない領域に踏み込んでいく予感から生まれるものです。
その直感こそ、天から降りてくるエネルギーであり、インスピレーションという神秘の力です。
それは現実世界においては理不尽で、非合理的に見えてしまうプロセスです。
言葉で一から十まで説明しきれないからこそ、それを自分が行う時、必ずしも人に理解されないことを覚悟しなければなりません。
天からインスピレーションが降ろされる時、私には上しか見えていない状態になります。
上に見えているものを目指せば、より孤独になるのも肌で感じてしまうのです。
上に見えているものを目指せば、より孤独になるのも肌で感じてしまうのです。
横や下を見て、人に合わせられなくなることも同時に感じるからです。
この感覚と向き合った時に感じるのが孤独感で、その切なさや不安が私の心を締めつけるのです。
けれど、私にはいつも胸の奥から声が聞こえていました。
この感覚と向き合った時に感じるのが孤独感で、その切なさや不安が私の心を締めつけるのです。
けれど、私にはいつも胸の奥から声が聞こえていました。
「神様のところへ来なさい」と。
直感に従って生きること、神の声に従って生きることは、必ずしも人の意見や価値観に合わせることではないかもしれません。
もしかすると、この目に見える世界にはいずれ共感できる人間がいなくなる可能性すらあります。
もしかすると、この目に見える世界にはいずれ共感できる人間がいなくなる可能性すらあります。
目に見える世界で孤独になっていく不安。ただ、その不安を手放していくのも神の道だとしたら、この孤独こそが正しい道なのでしょう。
「真」とは何かを考えます。
「真(ま)」とは「天(ま)」であり、この世界が映し世だとしたら真実の世界は天にあります。
「誠」とは「天事(まこと)」であり、天の意志を地(物事)に降ろすことです。
そこに偽りがあれば、誠とは呼べません。
「真」を知るには「学ぶ」必要がありますが、学びとは「天做(まなら)う」ことであり、天の意志を実践し、習熟していくことです。
「真」とは「天」であるのだから、慧眼を得て真実を見るとは、天をこの目で見ることでもあります。
これこそが「神の目」であり、神の目で世を見て生きていく限り、人間の目線には合わせられないことを悟らなければなりません。
その道はおそらく、誰にも理解されず顧みられない生き方になるでしょう。
その不安や葛藤は、確かに人間である以上は苦しみとなるはずです。
しかし、なぜその課題が私の前に現れたのかと言えば、これからの時代は人間が神の次元へ踏み出していくことが可能になったからだと思います。
しかし、なぜその課題が私の前に現れたのかと言えば、これからの時代は人間が神の次元へ踏み出していくことが可能になったからだと思います。
つまり、誰もが神に近づくことができる時代になったのです。
それがこの世界に起きた、次元上昇の真の意味なのではないでしょうか。
人が生きながら神になる世界は、これまでの世界の次元では特定の人を除き、ほぼ不可能だったでしょう。
地球の次元が天界に近づいたことで、人間が手を伸ばせば神様と手を繋げる時代が来たのかもしれません。
神に近づく道とは、即ち「徳を積むこと」です。
この世界が沈んでいけば行くほど、「徳」は積みやすくなり徳の価値も相対的に上がるでしょう。
地球の次元が天界に近づいたことで、人間が手を伸ばせば神様と手を繋げる時代が来たのかもしれません。
神に近づく道とは、即ち「徳を積むこと」です。
この世界が沈んでいけば行くほど、「徳」は積みやすくなり徳の価値も相対的に上がるでしょう。
もし人類がこのまま存続し、どうしようもなく汚された地球だけが残されたらどうなるでしょうか。
汚物が堆積したエベレスト、海底に沈むマイクロプラスチック、ゴミが果てしなく漂う海域、誰も手をつけられないスペースデブリ、放射能を垂れ流す廃原発炉、重金属汚染とソーラーパネルの山、誰も住むことができない廃墟ビル群。
今の世界が崩壊したら放置されるであろう負の遺産は、一体誰がどうしていくのでしょうか。
正直、それを元の地球に戻していくのは誰の得にもならないことでしょう。
しかし、おそらく人類はこれから数百年かけて、その後始末をしていくことになるはずです。
それは必ずしも、得にはならないかもしれません。
ただ神の求めに応じ、地球のため世界のために働いていく善業は、己の徳を高めていくチャンスです。
得はしないけれど、徳になることこそ誰もやってこなかった行いのはずです。
人の役に立たないことはやってもしょうがないと言われるのは、仕方のないことです。
しかし真の徳、「陰徳」の価値はなかなか人間にはわからないかもしれません。
陰徳が何なのか、それすら簡単には理解されないことでしょう。
陰徳の修行を受け入れられる人間はごく僅かだからこそ、私にその機会が与えられたことは誇りに思っていいのかもしれません。
誰からも「間違っている」と言われたとしても、自分の魂と繋がって得られた意志は、その人にとってそれ以上に正しい道はないのだと思います。
「間違い」もまた「正しさ」であり、そこで学びを得ることが真の正しさなのでしょう。
誰がどう感じたとしても、それぞれの学びこそが宿命であり、その宿命こそが魂に与えられた役割なのだと思います。
誰からも「間違っている」と言われたとしても、自分の魂と繋がって得られた意志は、その人にとってそれ以上に正しい道はないのだと思います。
「間違い」もまた「正しさ」であり、そこで学びを得ることが真の正しさなのでしょう。
誰がどう感じたとしても、それぞれの学びこそが宿命であり、その宿命こそが魂に与えられた役割なのだと思います。
私には、こういうメッセージが聞こえています。
「それこそが本当の神の道。
あなたはその道を歩むことができる。
あなたはその道を歩むことができる。
あなたは、この道を歩むために生まれてきた。」
これ以上ないほどに人として持つべきものを手放し、ここまで来て人間として生きることをやめ、神の道を歩みはじめる。
それは人間として生まれてきて、人間として幸せになることより、神に与えられた魂としてより誇るべき喜びに至れるのだとしたら、この世界に生まれてきた冥利に尽きるというものです。
スピリチュアルの世界では、次元上昇したことで5次元の域まで魂を向上させれば、来世には神の住まう6次元に上がることができるそうです。
どうやら、神様の世界にも「結婚」というものがあるらしいことを最近知りました。
私が今世、何をするために生まれてきたのか、少しずつ見えてきた気がします。