招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「悪」とは何か

楽太郎です。

仏教の世界には「回峰行」という修行があります。
この修行は念仏を唱えながら山々の参拝所を巡り、何十キロに及ぶ踏破を千日行うというものです。

仙台市秋保の慈眼寺の住職であられる塩沼亮潤和尚は、奈良県の金峯山で千日回峰行を達成された大阿闍梨であり、現在は執筆や公演活動などをされています。
塩沼和尚に関する記事からのお話ですが、「悟り」に至る上で最後まで課題となるのが、「人を嫌う気持ち」だそうです。
そして精神的な自由を手にするためには、「忘れきる、捨てきる、許しきる」という手放しが大切であると説かれています。

確かに、自分の感情を手放す時に最も根深い執着が「憎しみ」や「嫌悪」かもしれません。
「否定したい気持ち」とは、ただ単に不利益をもたらす敵対者を排除したい欲望から来るものだけではなく、自分が自分らしく生きるための信念とか、自分を守るために必要な自己保存欲とか、人間が生きる上で備わっている根源的な感情です。

自分が過去にされた嫌なことは、時が経てば別の見方ができて許せるようになったり、忘れてどうでも良くなってくるものです。
しかし、例えば今目の前で人を殴っている光景を見たり、明らかな詐欺の電話を受けたりしたら当然のように腹が立ちます。
この時に自分が当事者になりながら平然と笑って返せるようになるには、相当な精神的成長が必要です。

「悪」とは何か、と考えます。

今の世に蔓延る悪は、大抵は悪の顔をしていません。
往々にして悪とは、バイキンマンのように悪者顔をしてのさばっているのではなく、立派な肩書きと綺麗なイメージで善業をしているように振る舞うものです。
むしろ人に白い目で見られる程度の悪は可愛いものであり、本当の巨悪ほど目に見え難く、むしろ一般的には好意の対象であったりします。

現代におけるその巨悪が何なのかここでは語りませんが、例えを出したいと思います。

ある時、真心のある牛乳屋さんが、美味しい牛乳をたくさんの人に飲んでもらいたいと言い、毎朝無料で牛乳配達を始めました。
その牛乳はとても美味しくて、地域でたちまち評判になり、注文が殺到しました。
ただ無料ではサービスが続けられないので、割安価格で牛乳を定期配達することにしました。
地域住民は安くて美味しい牛乳が毎日飲めるので、とてもありがたがりました。

しかし牛乳屋は儲けに味を占め、次第に配達の値段を上げ始めました。
地域住民は多少の値上げなら致し方ないと思ってしばらく黙ってましたが、徐々に我慢しづらいレベルの価格になってきました。
では安く別の牛乳屋を選ぼうとしますが、その牛乳屋がほぼ業界を独占しており、替えとなるサービスがほとんどありません。

それで値段に不満を抱えながらその牛乳屋の牛乳を飲み続けるか辞めるか、という話になるのですが、特殊製法で作られた牛乳の味に魅了された地域住民は、簡単に牛乳配達を諦めることができません。
牛乳を飲むことを諦めない限り、その牛乳屋の牛乳だけを一生飲み続けることになります。
そして、牛乳の価格はその牛乳屋の言い値です。

これは例え話ですが、心当たりはないでしょうか。
始めは「良い」と思われて人々に受け入れられ広まったのだけど、後々になって欲が出て改悪されていると気づいた時には、代替手段がほぼ存在しない。
自分が諦めれば済む話だけれど、その手段を採用しなければ関わることすらできない。
今の世の中をコントロールしている大体の仕組みは、これと似たようなものです。

こういった形の支配が、支配を支配と思わせない形で私たちの足元に広がっています。
そこには明確な作為と策略が練られているのに、普通に暮らす上では「便利なサービス」だと思って享受しています。
その当たり前と日常の中にある思惑に鈍感であり続ける限り、思惑の中にある悪意にも気づかず、知らずのうちに悪事に加担していたりもするのです。

「3と7」を取引してイーブンに見せるようなビジネスは、消費者にWIN WINと思わせておきながら実際は向こうの方が遥かに取り分が多いのが特徴です。
それに気づかせないためにサービスを綺麗で公平なものに見せ、作為など存在しない顔をして人々から搾取をし続ける、そんな構図が世に蔓延っています。

この「悪」を悪と思わない人がほとんどです。
むしろそういう世の中なのだから、目鯨を立てる方がおかしい、と。
私は自分の目線ではこれ以上醜悪な仕組みはないと思いますが、他の人々からすれば疑う余地も感じないかもしれません。

これを目の当たりにして、許せるかどうかを自分に問い続けるのは「苦行」とすら感じます。

ただ、悪とはやはり「正義」の対極にある存在であり、それは光と闇のように、どちらか片方が存在するから背反が生まれる性質のものでしょう。
自分を正義だと思うから悪を立てねばならず、向こうも自らを正義だと思うからこちらが悪になり、ゆえに争わなければいけません。
つまり、自分が間違っていると思えば、相手が間違っていても仮に正しくても、敵対する理由にはならないはずです。

「正義」も「悪」も実際には見えないもので、人間が恣意的にレッテルを貼り、色分けするから形となって現れるものです。
目に見えて「憎むべき悪」があるから、色が目につく限り攻撃せざるを得ず、色がある限り平和にならないと考えれば、色をつけたもの全てを排除し滅ぼすことが絶対的な正義となり得ます。
そうして行われてきた人類の過ち、そして今もなお堂々と行われる民族浄化やジェノサイドは、「正義」がこの世に存在するからこそ、力のある正義側に「悪」とされた力なき人々が受ける暴力でもあります。

人間は、「悪」がある限りこの世に平和がなく、悪が存在しない世界こそが善なる完全な世界だとイメージします。
しかし、正義を完遂するには悪を根絶しなければならず、その正義も一方から見れば悪そのものです。
つまり、正義が存在する以上は悪があり、悪が存在する以上は正義を持って戦わねばならず、平和は永久に実現しません。

他人が悪に見えて仕方ない、許せないと思う気持ちがすぐに改められないのが人間です。
嫌いだし腹が立つならお互いに顔を合わせなければ良いだけで、気に入らないなら見ないようにして、それぞれが望む暮らしをし互いに干渉しなければ問題ありません。
しかしなぜか人間は、腹を立てたがり攻撃をしたがり、「棲み分ける」という選択に頭が及びません。
自分が気持ち良く暮らすためには、嫌いなものや憎むべき人がこの世から消え去ってくれないとダメだと思ってしまうのです。

この感情は、自分にはないと言い切れません。
それゆえ、頭ではわかっていても肚の底で綺麗さっぱり割り切るには成長が必要なのです。
確かに自分が傷ついた時、損をした時は誰かのせいにしたくなります。
けれど、そういう時ほど自分に起こった「良くないこと」は悪に結びつけず、自分の生き方を改めるための「気づき」にすることはできないでしょうか。

何か良くないことが起こる時というのは、自分の生き方や他人との関係において、そのままのやり方では上手くいかない、という暗示でもあります。
何か原因があるから起こる凶事は、実際に理由があるから発生するものです。
ゆえに、それに気づいて手放すものを手放す、そうすることは自分を成長させ同じ凶事を引き起こさないための対処法となります。

「悪」を見た時に腹立たしく思うことを、未熟のせいにすれば良いわけでもないと思います。
むしろ「悪」は悪と認識するから気づけるのであり、自分の心にある正義も悪と感ずる心も、人間本来の精神的な働きそのものです。
大事なのは、「悪を責めてはいけない」という無抵抗主義こそが正義だと思うことではありません。

「正義」という概念も、「悪」という概念も、そのものを消し去ることはできません。
できるのは自分が正しいと思い込む心を手放すことであり、相手を悪と決めつける心を手放すことだけです。
それは正義への執着を消すことであり、「悪」を認識し気づきとした上で、悪が気づきを与える存在という以上の意味を持たないということです。

目の前にはない、理想や概念としての「悪」を滅ぼそうとするなら、地球上を飛び回ってまだ見ぬ巨悪を倒すために殺戮を続けなくてはならないでしょう。
そこまでしなくても、地球は広いので自分が気の合う人たちと同じ土地で暮らせば良いだけの話です。
この理屈が通じない人たちに対しても、ただ単に自分が棲み分けて国境線を引けば済みます。

もし向こうが国境を越えて攻撃してくるなら、その時に正々堂々と迎え撃てばいいでしょう。
中途半端に「平和主義」を謳い、無抵抗こそ美学のように死に花を咲かせると、今の日本のように外国人が何をしても言い返せない国になってしまいます。
それでは社会はおろか、自分も大切な人も守りきることはできません。

悪とは気づきを与えてくれる凶事の象徴に過ぎず、悪意はせいぜい自分が得をするとか、人を破滅に陥れるとか、そういった目的しかありません。
つまり、高い理想を理性的に構築することを善とするなら、悪はその妨害を目的にすることしかできません。
悪意は応じるから応酬をせざるを得なくなりますが、それは悪意に対して悪意を返すから起こります。
ゆえに悪意に対抗するには、厳しい態度と善意だけが有効です。

暗く澱んだ感情は、明快で筋が通り、思いやりのある気持ちを最も苦手とします。
明確な悪意に対して、敵対しないという態度は相手を骨抜きにすることでしょう。
それは決して戦いを放棄するということではなく、悪意に対する戦い方は不戦的だという意味です。
悪の排除に目鯨を立てるよりも、理想を実現するために善業を重ねる方がよほど前向きですし、実際それ以外に世の中を良くする方法があるのでしょうか。

罪を憎まず人を憎まず」の精神こそ、悪を受け入れ正義を手放すことに繋がります。
ただ、人々がこの意識に至るまでは長い道のりかもしれません。

最後に、「悟り」について語りたいと思います。

冒頭で取り上げた「千日回峰行」ですが、天台宗の比叡山が本家です。
比叡山の千日回峰行は7年間続けられ、1日30キロの山々の礼拝所を念仏を唱えながら巡り、それを800日続けた後に100日間を60キロ、最終段階である100日間に1日84キロを踏破し、最後の日々は睡眠時間2時間、14時間に渡る回峰行となるそうです。

この厳しい修行を終えた満行者は歴代で51名しかいません。
その厳しい荒行の歴史に名を残す大阿闍梨に、「正井観順」というお坊さんがおられました。
この方は千日回峰行を一度ならず2555日間続けられ、回峰行中に倒れ亡くなられたそうです。

観順和尚は明治から大正にかけての方で、元は津軽の豪農の家で生まれ、自身も豪商として活躍されていました。
しかし自身が協力した選挙での不正や、親戚との金銭トラブルなどに嫌気が差し、当時最大の海難事故であった瓊江丸殉死者の霊を弔ったことを機に、本格的に仏門に入られました。
ただ、宗門では比較的高齢で経歴が浅かったこともあり、厳しい修行に臨もうと回峰行の真髄に目覚めていかれました。

冒頭にご紹介した塩沼和尚は厳しい修行が即ち悟りに至るのではないと説かれていますが、無心に山を巡り念仏を唱え仏と心を一つにすることは、生きながら煩悩を手放す行為そのものであり、悟りの実践なのではないかと思います。
つまり観順和尚は、回峰行の中にこそ悟りを見出されたのかもしれません。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、人間の欲は備わっているものであり、煩悩自体を消し去ることはできないと悟られました。
欲や煩悩は「悪」と誤解されがちですが、その悪の要素を取り去ってしまうと人間としての心も手放すことになります。
しかし、人間が人間である以上、捨てられるのはこだわりや執着だけであり、概念や感情そのものまで捨て去ることはできないのです。

従って、「悟り」とは惑わない心そのものであり、その心における許しこそが悟りと言えるのではないでしょうか。
だからこそ、異なる意見を持つ者と出会って平常心でいるのは難しく、ただそこで無闇に争わず、相手を許す心苦しさの中にこそ成長があり、気づきや「悟り」への道があるのかもしれません。

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