新しい時代の「金運」
- Category:神世考察
- Date:2025年05月22日
ここ数日は、無意識に過去の記憶が噴き出してくる現象に遭遇しています。
突然、何十年も忘れていた出来事や光景が思い浮かび、懐かしさと同時に奇妙な違和感を覚えます。
何の前触れもきっかけもなく古い記憶が呼び起こされることで、昔あった場所や人が今どうしているかを調べたくなったりします。
そうして追憶に費やす時間は、意識が過去に向かう限り建設的な思考ができません。
この「懐古志向」の流れは、邪気の一種ではないかと思います。
この邪気はこれまでの殺伐としたエネルギーとは違い、愛着や良い思い出を媒介とするために邪気とは認識しにくいです。
しかし、覚醒を阻害し引き戻すエネルギーに変わりはなく、この邪気は自分の中の過去に対する後悔や、「昔は良かった」という感情に巣食います。
この保守的な邪気は、おそらく集合意識の具象化であり、人々がこれまでの価値観で生きることができなくなったことによる反動形成ではないでしょうか。
つまり、これからの時代を生きる指針が見つからないため、懐古主義の大キャンペーンを張り、古いやり方を再び指標に据えようとしているのだと思います。
つまり、これまでと同じやり方を続けるための同調圧力であり、逆に言えば同じことを続ける以外は新しいことを目標にしない、という意思決定でもあります。
自己模倣と再生産だけを延々と繰り返せば、これまでの物質中心の短絡的な世界を維持し続けられると人々は無意識に思っているのでしょう。
しかし、水槽の中で澱んだ水を循環しているに過ぎないので、いずれ長くは持たないはずです。
この懐古志向の邪気は、劣等感や愛着や憧れなど人の柔らかい心の部分を刺激し、温かい感情を苗床にする分タチが悪いのです。
この擬態した邪気は、優しさを疑いもなく持ち続ける限り古い時代のマインドに押し流す力があります。
何となく心の隙間に入り込まれて、人世のエネルギーに引き戻されてしまった人もいるかもしれません。
神代に上がる人々が出てくる時期に、この種の罠は巧妙な悪意を感じます。
人世に押し戻そうとするエネルギーに触れると、何となく危機感が麻痺した状態になり、この平和で微妙な社会がダラダラと続いて、いずれ世の中がジワジワ良くなっていくのではないか、と錯覚し始めます。
しかし、その平和ボケした感情こそが邪気であり、警戒感を解かれた意識は搾取に疑いもなく浸かり切って抜け出せなくなってくるはずです。
「お金」が万能である時代は未来永劫変わらず、どれほど荒れた世であっても経済の中心にいれば、食うに困らず今まで通りの幸福を手に入れられる、そう思い込むようになってきます。
しかし地球が次元上昇をして、神々が主導権を握る世になるべく動いているのは、そう言った拝金主義と特定の支配階級による帝国主義が役割を終えようとしているからです。
何故この期に及んで、神々がなぜ新しい資本主義社会をわざわざ作る必要があるのか、その理由を考えればこれまでの経済の延長に神々の望む世があるとは思えないでしょう。
これまで人間中心の経済活動が全てだった時代では、各個人が望まなくても人や組織の下で働き、労働力を「お金」に変換して生活をして来ました。
そこでは、自分の意志や才能とは関係なく、他者からの要求に基づき賃金のために取引することを優先し、むしろそのために我欲や信念を捨てるのが望ましいとまでされています。
その文明圏において、お金はあらゆるものを手にすることができる手段である一方、モノやサービスを生み出すために各々が自らの意志とは無関係に使役される構図がありました。
神々は、この仕組みにメスを入れようとしているのだと思います。
お金が中心になる世界においては、各個人の価値観や生き方、発想や個性を型に嵌めることで大衆を扇動し、消費行動をコントロールして来ました。
その仕組みで最も美味い汁を吸うのはごく少数の特権階級だけであり、多くの人々は何の疑いもなく奴隷的使役を強制されているのです。
これから「風の時代」だからと、自由な気風で生きていくことを理想としながら、同時に自分以外の人々は会社や工場で一生働き続け、自分だけがその恩恵を享受し続けられるという発想は矛盾します。
魂の赴くままに自由でありたいと願うのであれば、誰かが奴隷的でいて欲しいと思う心こそ、古い時代のマインドそのものです。
神々は人間が掌握してきた「貨幣」という物質的なエネルギーを、次の時代仕様に変えようとしています。
それは今日の資本主義経済が袋小路に入り、大規模なポンジスキームが横行している現状を見れば、常識的な目で見ても限界だとわかると思います。
世界通貨たる米ドルの崩壊と金の暴騰、そのバランスが壊れた瞬間、金融主体の時代は終焉を迎えることでしょう。
では新しい時代の「お金」とはどんな意味を持つのでしょうか。
ここで言う「お金」とは、貨幣や取引通貨だけのことを指すのではありません。
まさに「富」と同義であり、物質的なエネルギーだけでなく精神的、人との繋がりや信頼などから得られるあらゆる所有物を指します。
つまり、円やドルなどの基軸通貨として流通の形を取らずとも、エネルギーの循環や交換が物理的な現象となって、各々の手元に届くのが新しい時代の「お金」だと思います。
これまでは基軸通貨のドルが世界経済を支配していたからこそ、巨大な帝国主義が大手を振る時代だったと考えられます。
ゆえに、円やドルに代替するあらゆる取引手段での流通が可能になれば、資本による経済的支配のルールからは解放されるはずです。
それは具体的にどんな形になるかわかりませんが、モノとサービスを交換するだけなら当事者が直接取引すれば良いだけですし、貨幣でなくともクーポンやトークンがあれば商業取引は可能です。
あくまで国家経済の支配から逃れた取引が実現すれば良いのであり、要は代替手段が限りなくあればそれに越したことはないという話なのです。
今もそうですが、人間社会では他人からお金をもらうために人に奉仕するという仕組みになっています。
「お金」を得るには人間を富の源に置かなければなりませんでしたが、よく考えれば人から貰わず、人にやってもらわなくても「ゼロ」から作り出すことは可能です。
野菜や穀物にしても、土に種を蒔いて水をやり続けて育つ分にはあまり元手はかかりません。
紙にしろ墨にしろ、自然にあるものを加工すれば自分の手で生み出せるもので、自分で作ることができれば他人からモノを買う必要がなく、あるいは自分の手元にあるモノを人に譲ることもできます。
「ゼロ」からお金を作り出す仕組みに気づけば、「金運」を宝くじやお金持ちとのコネに賭けずともお金は巡ってくるでしょう。
新しい時代の金運とは単一の「貨幣」に特化したものではなく、複合的総合的なもので様々やルートや形態を持って現れてくるものだと思います。
そのプロセスにおいて、お金とは物質次元のことだけではなく、「エネルギーそのもの」だと言っても過言ではありません。
例えば真心を込めた商品があったとして、その付加価値がそのままお金になるわけではなく、愛情がエネルギーとして変換され、そのエネルギーを受け取った人が対価を払いたくなるのが、本来の商業のあり方です。
いくらラベルに「真心こもった」と書いたところで、精神的なエネルギーの交換が行われなければ、人々は相変わらず安くて無機質な工業製品を求めるでしょう。
ただ、作り手の人柄や思い、それ以上に磨かれた技術による高度な作品性がエネルギーとして人々に伝わることで、結果的に商品価値に繋がっていくはずです。
ゆえに、新しい時代において「金運」とは一度エネルギーに変換され、エネルギーの質と量に応じて貨幣価値などの形で具現化されていくでしょう。
その仕組みにおいて、コマーシャリズムの資本力で如何様にでも価値を決められた経済は役割を終えていくはずです。
私の話をするなら、現時点でお金の巡りは非常に悪いです。
その反面、植物を育てるセンスや予知などのスピリチュアル的な能力が目覚めたことで、自分の才能を富に結びつけやすくなりました。
通常の「お金」として縁遠くなりながらも、別の形でお金を稼ぐ手段を幾つも身につけたのです。
自然の恵みが無償であるように、自分の才能に係る知識や技術はタダのものであり、ゆえに無から有を生み出す力こそ本来の「金運」なのかもしれません。
その発想や活力を与えて下さるのは神様であり、神への信仰心こそ金運そのものであると言っても過言ではないと思います。
お金は「目に見えるもの」「人間が持っているもの」だと思うからこそ、この成り立ちを理解することができません。
お金が目に見える形でなければ不安なのもわかりますが、それゆえ目に見えない形のお金を信じれば、本当の金運が巡って来るのかもしれません。
それができる人間はこの世に数少なく、陰徳のような修行を伴うからこそ、この金運を掴める人は限られているはずです。
ただそのような行いほど神様の願いだったり、神々からのお役目であったりするわけで、だからこそ誰にでも手にすることができるわけではないかもしれません。
人間は評価や対価が目に見えてないと、すぐに諦めてしまいます。
ただ、真心のあるやり方はすぐに結果になり難く、それゆえに誰に見られてるかわからなくてもやる、くらいの心構えが必要です。
けれども、こういう直向きなところを、人も神様も注意深く見るものです。
現在の金融が一人歩きする数字の世が改まるならば、健全な商業の時代に戻っていくでしょう。
その時代の「富」は、きちんとエネルギーを循環する能力を持った人々が持つべきでしょうし、そういう善意ある人たちによって新しい世界の経済が築かれていく気がしてなりません。