招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

スピリチュアルと生き方

楽太郎です。
深夜2時に突然目が覚めて、水を飲んで寝直そうとしたところ、神様から強制アップデートが入りました。

身体が痛いなと感じていた部分が和らぎ、眉間あたりに強い光源を感じました。
真っ暗にしているはずなのに、目を瞑っていても眩しいほどでした。同時に、左耳に高い周波数の耳鳴りを感じました。

私は「あ、来たのか」という感じでしたが、よく考えれば神様とか光の存在は、真正面の上のあたりから来られる印象です。
最近まで生霊と格闘していたのですが、ああいう疾しい存在は首筋や肩を狙って背後から来る感じがします。

確かに自分が神様なら、わざわざ人間の前に姿を現すなら「来てやったぞ」みたいな感じで堂々と正面から降ります。
自分に後ろめたさがある存在は、人の見えないところや弱い部分をついた方が楽なので、背後や足元から絡みついてくるのは理に叶っているように思います。

ともかく、このアップデートは受け取ってすぐ内容がわかるものではなく、必ず後で伏線回収があります。
ただこの夜は神様に叩き起こされたというより、脳が緊張して起きたという感じです。

最近は夢の中で高次元の存在と会話しているらしく、わりと寝ながら頭を使っている感覚です。
以前は人間の集合意識に潜る夢を頻繁に見ていましたが、最近はなくなりました。その代わり脈絡のない象徴的な夢が多くなり、これはこれで面白味はないかな、とは思います。

真夜中でも、救急車のサイレンを2度聴きました。
医療関係の方は大変だろうなと思いますが、この異常な世の雰囲気を感じる人ほど不安でしょう。

よくある「2025年に〇〇が起こる」みたいな情報は、あえて私は見ないようにしています。

例え当たるとしても、予言にありがちな不安産業に加担したくない気持ちもあります。
それはそれで予防意識に繋がるのはいいのかもしれませんが、こういうのは当たらなかった時の責任を誰も取らないのが気になります。
常に言いっぱなしなら、狼少年のように何を言っても構わない状態になるはずです。その点、どうやって信憑性を担保していくつもりなのでしょうか。

私は、その予言がいかに信憑性が高く思えても、無闇に安心感や不安感情を流布する行為が一概に正当化できるとは思えません。
それはスピリチュアル界のインフルエンサーの発言であっても例外なく、安易に鵜呑みにするべきではないと思います。

「権威」は、何かを言えばご自身の影響力で真実味が増してしまいます。
その真贋はともかく、スピリチュアルな世界は三次元世界の情報網と異なるので、自己の内在神や神霊とアクセスする能力があれば、いずれ自分で同じ情報を得られるはずです。

「誰々さんがこう言っていた」のは参考になるかもしれませんが、それを真実性があると思い込み、鵜呑みにするのは三次元的な情報処理だと思います。
私は、「わからないことがわかるようになる」というのも真理追求の面白さだと思っているので、鶴の一声で判明する真実には興味がありません。

スピリチュアルの業界は玉石混交ですが、私は何が良くて何が良くないというジャッジはしないように心がけています。
ただ、いわゆる「神懸かり」的な説話を聞く時には、ある程度の注意はします。

それは別に霊感だけではないのですが、その話を聞いて「人間的に豊かな成長をもたらすか」どうかで判断します。
中途半端な状態で、安心させたり慢心させるようなことを神様がしたがるとは思えません。
不安に関しても同様で、変に脅したり恭順させる言説は不自然に思います。
神仏の世界は無限にある「徳」の階層なので、魂の成長段階として滞留を促すことはないはずです。

その預言がどれほど困難であろうと、人を成長させ内面的に豊かになる道筋を示されている、という解釈が可能ならば、それは神様のお言葉である可能性が高いと思います。

人は、神様のお言葉を意識関係なく受信した時、「それはちょっと」みたいな感じで聞かないフリをしたり、わざと曲解して良いように解釈しがちです。
ただ、それを受けて慢心してしまうのは、悪魔から囁かれたのと同じ状況を作り出してしまうかもしれません。
私の感覚では、神様のお言葉はちょっときついくらいの塩梅でやってきます。それを素直に受け入れられる人は、変化を受け入れ内面的に成長して豊かになっていくと思います。

スピリチュアルは、目に見えないがゆえに反証性がなく、だからこそ真実性よりも「意義」のほうが強いのだと思います。
それを信じることで救いの方向を模索するのが、精神文化たる宗教やスピリチュアルなのではないでしょうか。

近年のスピリチュアルは宇宙的な概念を中心にしながら、宇宙の内在性をフューチャーした高次元の自我にフォーカスが集まっています。
批判するわけではないのですが、宇宙や次元と自我の間にある構成物、言うなれば地域や社会、人々の価値観や制度が省略される傾向にあると思います。
その「自己」と「宇宙」で全てを説明し、中間のものを取り扱わない言説に、私は何となく物足りなさを感じてしまいます。

引き寄せや開運も大事ですが、宇宙と自我の間にある地球的なもの、人工物、国家や社会や地域性に対して、目を向ける意識も大事ではないかと思います。

今、世の中は荒れてきており、引き寄せや開運ではどうにもならないほど、社会的な地殻変動が起きています。
その中でスピリチュアルな力を自分のために使うだけではなく、身の回り以上にこの社会や時代をどうしていくのか、そこで神仏のお力をお借りし、どう世に貢献していくかが大事なのではないかと思います。

自分が高次元存在と繋がっているから救われると思えても、仮に世界のどこかで理不尽に身売りされる子供や、犯罪者に食い物にされる弱者がいて、その世界の地続きにある己の幸福とは一体何なのでしょうか。
私はそれが、人として地球に生まれたことの一つのテーマであると思います。

スピリチュアリズムとは、個人が「気持ち良く生きる」だけではなく、世に暮らす人々が共に気持ち良く生き、神仏や宇宙存在と調和する世界のためにあるのではないでしょうか。
だからこそ、聞き心地の良い言葉だけに耳を傾けず、神様の厳しいお言葉にも頭を垂れ、まず自分が動いて周りを良くしていくことが大切です。

そういう実践を重ねていけば人間は成長し、いつか本当の幸福をつかみ、豊かな生き方ができるのだと思います。
神様は優しいだけの存在ではないかもしれませんが、私たちのそばにいてくださるのです。

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「世直し」の意味

楽太郎です。

今、韓国ではユン大統領の逮捕、カリフォルニア州の山火事、最大限に膨張するテックバブルと、指折り数えるだけで波乱を感じさせる世となりました。

私がこのブログで時事系や社会思想を取り扱わないのは、もうその次元での議論では到底立て直せない段階に来たと感じているからです。
残念な話ですが、この世に一粒の奇跡が起きて、それを皮切りに今まで黒だったものが一気に白くなるということはありえません。

おそらく、一度黒く染まり切って盤をひっくり返すタイミングが来るのではないでしょうか。
神様は、そこから白い石だけで世を敷き詰め直すおつもりのような気がしています。

その予感に対して、これまでのブログを読まれた方なら私には葛藤があったことを理解していただけると思います。
しかし現代を冷静に見回して、骨の髄まで搾取構造への安寧に浸かりきった社会は、もはや人の力ではどうにもならないでしょう。
例え世を生きる上でこれまでの常識が通用しないとわかったところで、どれほど自分の力で自分の生き方を問い直す覚悟を持てるのでしょうか。

神様が人間を真っ直ぐに戻そうとお考えなら、その最大の問題は「自分の生き方を自分の頭で考えない」ということだと思います。
それは、人が決めたルートの人生だったり、誰かの価値観や考え方に乗じた生き方であったり、生成AIやネットの情報を信じ込むことだったりするはずです。

これまでの土の時代は、生きるための正解は社会や企業が提供してくれたため、それに便乗しても大して損をしないどころか、楽に生きられるハックになりました。
しかし、近年炙り出された社会問題を鑑みると、その正解そのものが間違いとなる時代に差し掛かっています。

街を歩けば、人々が何をしていてもスマホを見ています。
この世の中で生きる楽しみが希少なのはわかりますが、そのつまらなさをスマホの中で埋めようとしてはいないでしょうか。

その端末の中には一攫千金の夢があったり、マスコミ的娯楽の代替もあったり、まだ見ぬ理解者との繋がりを求める気持ちもわかります。
ただ、そのサービスは企業が用意した箱庭であって、そこにあるのは用意された現実の姿です。

この端末に人生の目的や答えを探しているうちは、自分自身と向き合う時間がどんどん狭まっていってしまいます。
神様が人にもっと自分の人生を生きてもらいたいと願うならば、人間が自分の脳みそをアウトソーシングするのをやめてもらいたいはずです。

人々が自分の人生を何かに頼るのは、そこに「権威」が存在するからです。

大学教授の見解、大企業の宣伝、マスコミの情報、インフルエンサーの発言、プロパガンダ、「皆そう思うはずだ」という錯覚。
その権威に頼ろうとする気持ちは、「寄らば大樹の陰に間違いはない」という妄信から来ています。
しかし、自分の判断を権威に準じるうちは、自分の頭で考えて自分で行動するリスクを取ることができません。

某大手芸能事務所のタレントの相次ぐ不祥事、大企業の腐敗した組織体制など、その問題が表面化して感じるべきなのは、「権威は絶対でなく、永遠に続きはしない」という教訓です。

この問題が「一部だけだ」とか「これをきっかけに良くなる」と思っているうちは、真の問題に向き合うことは難しいでしょう。
真の問題は、権威には栄枯盛衰があり、この世の常識も諸行無常であるからこそ、己の判断で生きていく覚悟があるかどうかだと思います。

それは決して楽ではありません。
自分自身と向き合うことは、これまで依存したり執着することで心のバランスを保っていた物事と距離を取ることだからです。
そこで思考の習慣から離れ、別の角度から自分の生き方や考え方を見直せば、変化せざるを得なくなります。
人間が本当に怖いのは、変化なのです。

私が3年前から生き方を見直し、最も精神的に辛かったのは「過去の反省」です。
自分が絶対に正しいと思い、配慮を失っていた時の記憶ほど、顧みた時の心理的ダメージは大きいです。
それは犯罪を犯した受刑者だけが受ける責苦ではなく、良心と真正面に向き合えば誰もが目を背けたくなるほどの後悔だったりします。

けれども、人は本当に生き直そうとする時、そのプロセスを踏まなくては先に進めません。
できるなら、自分の意志で自己と向き合えば多少はマシですが、強制的に「生き直し」をさせられるとしたら、自我が保てないほどの苦しみになるかもしれません。

ただそれは、これまでの依存的な生き方では難しい世になったため、自らが責任を持って自分の人生を生きようとするならば、避けて通ることはできないはずです。

神様は、ずっとそこを私たちに思い直すよう、様々なシグナルやメッセージを人々に送ってきました。
それを魂の部分で感じ取り、生き直しを始めた人ならまだ浅い傷で済むかもしれません。
しかし、予期しない穴に落ちた時ほど致命傷になります。それが高いところであればあるほど命に関わるはずです。


神様が人々にして欲しいことは、至ってシンプルだと思います。
「自分の人生を楽しく生きろ」と。

そのためには、自分が自分のあり方をしっかり見つめ、よく考える必要があります。
そのことから逃げているうちは、自分自身のことすらよくわからないものです。

けれど、自分に道を指し示す権威はいずれ滅びる。
それを目の当たりにしてからでは遅いと思います。破綻を待つより先に、どんな状況でも生き延びられる自分を作り上げることです。

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神代のビジネスⅡ

楽太郎です。

これから金融経済を中心とした物質文明に、一つの区切りがつくことは、どうやら間違いないようです。
私が想像している「神代」という新しい時代は、神や霊魂という、これまで科学で隅に追いやられた根源的概念が見直され、主軸となっていく時代だと思います。

そこでは、引き続き人間は地球という大地の上で物質を操りながら、これまで以上に目に見えない存在や価値観を尊重する、調和的な世界が到来すると予想します。

この世界に渡るには、「才能」「信仰」の二つの要素が必要であるとされ、神代に渡りたい人々はその導きに従い、各々が試練を経験してきました。

「才能」と「信仰」という両輪が神代に渡るための歯車だとしたら、絶妙にその二つが噛み合っている人は少ないのではないか、と私はずっと実感がありました。

「才能」はあって、技術やセンスを磨いているけれど、目に見えるものしか信じられず「信仰心」がない人。
「信仰心」はあり、神仏に祈りを捧げているけれど、いまいち自分のやりたいことを追求できず、才能を埋もれさせている人。
わりと世に溢れているのは、片輪しか回せないタイプの人ばかりではないか、と常々考えていました。

ともすれば、神代に渡る人は想像以上に多くないのではないか、とうっすら疑念があり、その母数で果たして文明を維持できるのか、具体的に神代の社会構造について頭を巡らせたりしていました。

これに関して、先日私の指針としている方から、お導きがありました。

神様は、もう神代に渡った人々の総数を気にされていないかもしれません。
神代勢は一つのまとまりとして、神のご計画の中で回していく方針であり、人世からのサルベーションはもはや時間切れに近い。

この内容は、神様の温度感を知る上でかなり衝撃的でした。

私の文明観では、全国津々浦々にいる神代に渡った人々がどれだけ集まろうと、文明水準を維持するのは難しいのではないかと思っていました。
しかし、神々にとっての優先順位は「文明の存続」にはないのかもしれません。

神のご計画では、そのうち神代と人世の連結はほぼ切り離され、神代の母数の中でのみ発展させていく方向になるとも考えられますし、いつまでも往来が可能である保証はどこにもありません。

これは、私にとって考えを改めさせるには充分な情報量でした。

私の仮説では、日本神界におられる菩薩は、人の世に残った魂を何らかの形で救済するよう願われ、その道筋を残されるのではないかと考えていました。
衆生救済の慈悲の心は、例え神仏を足蹴にする輩にも覚醒の光を残されるのではないか、と。

人間には自由意志があり、その自由意志には新たな世界の扉を開く自由が保証されているはずだ、と考えていました。

しかし、これはどうやら見当違いのようでした。
神様からすると「今から悔い改めるほど悠長な時間はない」のだと思います。
もはや、神代に渡るか渡らないかの時間切れはもうすぐで、サドンデスや敗者復活戦のような余興はない。
選別が完了したら強制的に篩い分けが始まり、そこで起こる崩壊は、文明の維持を優先して行われるわけではない。

私はこれに気づいた時、自分の見通しの甘さと神様との温度差に驚愕し、考えを改めさせられました。

もし、これまで同様の文明観で生活を維持しようとすれば、働き方や商売の仕方も根本的に見直さなくてはならないでしょう。
かつて、「お金=マネー」を所有しているのは一般大衆でした。マネーを得るためには、大衆に顧客をどれだけ増やせるか、戦略を取りターゲッティングをしなければ、商売として成り立ちませんでした。

そこには、権威的な内向きの「欲望の潮流」があり、その流れを読んで釣糸を垂らす必要がありました。
しかし、この「欲望の潮流」が消失する世界になるならば、これまでのビジネスのあり方が根本的に変わることを意味します。

「金運」はもはや神様たちが握っている、と言われています。
神様は、基本的に人間のロジックでは動かれません。善悪や優劣といった軸ではなく、徳の高さや魂の輝きを神様は重視されます。

私が神様の顔色を伺ってみて感じたのは、もはや「儲け」という、人にとって当たり前の価値観ですら通用しない世界をご計画されているのではないでしょうか。
となれば、人世にアプローチをかけるビジネスはもとより、「儲け」を念頭にしたビジネスプランですら無力化される可能性もあります。

私は個人的に、ここまで神様が文明に深くメスを入れるとは考えていませんでした。
それは「資本主義経済」までも終わることを意味するからです。
資本主義が終われば経済は劇的に変化し、今の街の形すら変わるかもしれません。
神様がそこまでやるとは想像だにしなかった、私はやはり甘かったのだと思います。

神様が金運を支配し、それを神に選ばれし人間に分配なさるとしたら、私たちは神様のご意向を逆算しながら、これからの仕事を考えるべきなのかもしれません。
おそらく、今わずかでも人世に残している商業的アプローチは引き揚げ、神代の市場に振り向けた方が今後の安定に繋がるとも考えられます。

そこでは、「利益」を軸としたビジネスモデルではなく、「貢献」という目に見えない尺度で経済が回っていく仕組みなのかもしれません。
だからこそ、神様は私たちに「才能」と「信仰」が必要だと仰られたのだと思います。

才能があれば、モノに依存しなくても技術で生きていける。信仰があれば、神の声を聞いてどんな時でも生き残れる。

神様がこれまで発してきたメッセージの意味が、一本の線になって見えてきます。
それは高い熱度の意志であり、私はこれをもっとぬるい感覚で捉えようとしていました。
これに気づいた時、戦慄すると同時に覚悟を問われているように感じました。

「今まで通りの生活」が目に見える形で変わっていき、それが目に見えてこないうちは誰もこの温度差に気づかないかもしれません。
しかし、ずっと神様は一貫してこの生き方を提示してこられたのです。

「時間がない。早く準備を終わらせなさい」

神様が私たちに要求しているのは、どうやら一つのようです。

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共食いと意識変化

楽太郎です。

現在、世を浄化する一つの方法として「炙り出し」が行われています。
現象としては事件、スクープ、炎上、暴露などの開示によって、「悪人を人に叩かせる」という構図になっています。

これらは、一見すると良い傾向に思えるかもしれません。
神代に導かれている人は、これらの問題がいかに身近であろうと、たとえ腹立たしくても、まともに受け取って没入するべきではありません。
なぜなら、これは「人が人世で起こしている禍事」であるからです。

俯瞰してみましょう。
ある不祥事があり、その事件の原因は私利私欲や悪徳に溺れた人間が起こす禍事であり、反してそれに自前の正義感を振り翳して怒り、禍事を起こした人間を糾弾する行為もまた禍事です。
この批判者たちは、自分たちが絶対に正しく、間違いなく世直しができていると信じています。

しかし、ある一人の無法者を裁いたところで、世のどの部分が変わったのでしょうか。
この手の不埒な輩が出ないように、いつか本当の意味で世直しができていたら、この禍事のようなことは発生していなかったのではないでしょうか?

私は長年、Twitterをやっていました。
言論を扱うアカウントを運営していたこともあります。経済や政治も社会情勢も、かなり情報を追っていました。
ただ、その活動が実ったという実感はほとんどありません。

SNSをやっていくら正論を吐こうと、いくら共感はされても、その共感が行動に繋がることがほとんどありません。
「大量注文されたパンがキャンセルされたので助けて」みたいな投稿はバズって、パンが無事に売り切れたりもします。
しかし、「マスコミが外国のプロバイダを垂れ流ししている」という事実がいくら白日に晒されようと、一体誰が変革的な行動を起こしたのでしょうか。

あまりに複雑すぎるテーマは、どんなに心が動かされようと人間には解決方法すら思いつきません。
あわよくば、その怒りは140文字に収めて「いいね」がついて共感してもらえば、何となく世の中が前に進んだ気持ちになってはいないでしょうか。
この問題への対処方法が、錯覚だったとしたら?

穿った目で見れば、このガス抜きのシステムすら社会秩序を骨抜きにするように働いていた可能性すらあります。
「世直し」だと思ってやっていた言動は、ただ正義感を発散するためのポルノであって、実際は世の中を1ミリも良くしないどころか、「正しいことをしている」と錯覚している分、世の中を退化させてはいなかったでしょうか。

そして、この叩き合い、潰し合いの世直し行動は、私からすれば「共食い」にしか見えていません。

私がTwitterをやめたのは、Twitterの世界はTwitterの中だけの世界であり、それ以外の数多の世界や数々の現象とは無関係であり続けると確信したからです。
SNSが世の中を変えるきっかけになりはしても、SNSで世の中を変えているわけではないのです。

その微妙なズレがあまりに認識しにくいからこそ、炎上が世直しの一環であるとまだ人々は勘違いをし続けています。

では、本当の意味での世直しとは何かと言えば、「人々の意識変化」に他なりません。

法制化や基盤づくりは、人間の良心の底が割れているから必要になるものです。
昔の日本を思い出して欲しいのですが、家に鍵をかけずに外出したり、野菜の無人販売所に監視カメラがないのは当たり前でした。

「バレなければ何をしてもいい」という浅ましさが、この国や世界をここまで腐敗させたのではないでしょうか。
だからこそ、本当に必要なのは人間が良心を取り戻すということです。

しかし、「良心」は自制心や理性や思いやりとセットなので、欲望を優先することができません。
良心があれば、好き勝手できないのです。ただ、自分中心に「好き勝手やろう」と思ううちは、本当に良心が備わっているとは言えないでしょう。

人間が行うべきなのは、厳罰化でも全監視でもなく、人間本来の倫理観を取り戻すことです。

それは怒りや義憤から生まれるものではありません。
人間が自らを正しいと思えるのは、自らが正しいと思い上がっているからです。
自分は間違っているかもしれない、実は迷惑をかけているかもしれない、そもそも煽動されているだけかもしれない、など。
そういった可能性がありながら、疑念を自らに向けられない理由があるとしたら、「謙虚さ」というバランス感覚を失っているからではないでしょうか。

「自分には他者を蹂躙しても、得する権利がある」と考えた人間が行う謀略で、この世界は狂ってしまいました。
しかし、その横暴はこれまでの世で可能だっただけで、お天道様から許されているわけではありません。

人も神も、それについて厳格なルールを作らずにやってきたのは、「謙虚さ」というバランスで秩序を維持してきたからです。
その謙虚さこそ良心の源であり、自分が生み出された、助けられている、生かされている、という「小さきもの」である当たり前の自己認識があるからこそ、謙虚さは人間に本来備わる感覚です。

しかし、その謙虚さを忘れ「法に触れなければ何をやってもいい」という考えに行き着いた時、人間は無限に富と権力を求め、神同然の振る舞いをすることを理想としてしまいました。

そして現在、ここまで膨張した利権を壊す力は人間界にはありません。

私たちは、神様が存在するか、神代が来るかどうかに思いを馳せる以前に、このままの人間中心の文明では遅かれ早かれ、干上がって滅びるはずです。
その人類を救うには神様のお力が必要なのは言うまでもありませんが、最も求められるのは人間の「意識変化」です。

人間の意識変化は現状、難しいことです。
それについて神様も思い悩み、いくら警告しても人間の心にはそれほど届かないようです。

それでも、地球が変化への意志で新しい姿への移行を続ける限り、その上で生きている人間は変わらざるを得ません。
それがわかるまで、人類はどんな形であれ「思い知らされ続ける」のでしょう。

それは一見、悲惨に見えるかもしれません。
ただ、人々が一滴の涙も惜しいと思うならば、今この瞬間から考え直すこと以外にありません。

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神様に選ばれなくても

楽太郎です。

神様とのご縁が深まっていくにつれ、街の雰囲気と私の視界の感覚がどんどんズレていっているように感じます。

おそらく、人類の霊的二極化によりポジティブな世界、神代に繋がる道を選んだ人々は、世界の美しさと荒んでいく現状とのギャップに驚いているはずです。

私は実は秋分を越えたあたりで、すでに視界に変化が出始めていました。

景色がプリズムがかってキラキラ見えるのは、目がおかしくなったのだと思っていました。
その頃あたりから、空が異様に近いと感じて、街が特撮映画のミニチュアのように見え始めました。
幸せそうな人たちを見るとなぜか嬉し涙が出て、頭にある理解を超えた心の変化に戸惑いました。

今思えば、その頃には神代に行くための準備が始まっており、もうすでに私には次の世界が見えていたのだと思います。

私の魂は、もう次の地球に渡っていると感じています。
しかし、それは第六感としては実感できても、何の根拠もありません。現実的には何にも変わってないですし、「思い込みだ」と言われたら、反論できないかもしれません。

けれども、この不確かさを信じられるかが、神様のいる世界へ渡れるかの「試練」そのものだと思います。

人間たちの世界を選んだ人々は、この「目には見えないものがある」ということが理解できないからこそ、古い時代に居残ったのでしょう。
神代に渡る人たちは、「目には見えない」不確かなものを感じ、それを信じて行動できるからこそ、物質中心の世界を捨てて新しい世界を選択できたのだと思います。

おそらく、神様は「目に見えない」からこそ、それを利用して私たち人間を試されます。
仮に、誰にも神様が目に見えてはっきり声が聞こえるとしたら、人間は神様に頼りきり神様の言うことだけを聞くでしょう。

それでは人間にとって、魂の成長にはならないはずです。
神様はあえているかいないか微妙なポジションに立ち、人間が自分たちを本当に敬えるのかを常に試されるのだと思います。

ですから、神の存在が不確かだからと言って、その自信のなさから神様を諦め、元いた場所に引き返すべきではありません。
これまでの人間社会にいれば、いずれ文明が存続しようがしまいが、私たちが生きていける世の中ではなくなるはずです。

この悪意に塗れた世界で安寧を得ることに賭けるより、神様のいる新しい世界に希望を求める方が、本当の意味で前向きなことではないでしょうか。

その上で、自分が神様のご加護が受けられているか、そもそも神様のいる世界に導かれているのか、不安な方もおられると思います。
私も、その気持ちは痛いほどわかります。
確かなものは自分の中に求めるしかなく、その確信すら錯覚の可能性もあるからです。

ただ、私たちがなぜ神代を目指すかと言えば、自分だけが救われるためではないはずです。

神様に選ばれた、選ばれないという選択が気になるのは、まだ自分だけが助かりたいと思っているからです。
しかし、神代は神様や神様を慕う人々と協調しながら新しい世界を作っていく時代なので、有り合わせの天国に辿り着けるわけではありません。

神代に渡ることは、神様と一緒にどんな世界を作るのかを考えるということです。

そこで人類が搾取や不平等から解放され、各々が尊重される自由な社会に至るにはどうしたらいいか、神様と同じ目線で神様のために働き、神様が喜ぶ世界を作るにはどうしたらいいか、それを考え行動するからこそ、私たちは神様のお導きを得られます。

従って、自分が神様に選ばれているかどうかは関係なく、結果的に人々が救われ、神様が喜ぶ世界を実現することが神代の道であるはずです。

神様と人間が平和に暮らす世界が、この地球にいずれ完成すれば良いのであって、それは自らの思想と行動の積み重ねで実現しうるものです。

だからこそ、「自分は神様に選ばれていない」不安はあっても、神代のために行動することができれば、誰しもが神代に至れるのだと思います。

なぜなら、人間と神様が喜ぶ世界をイメージする力こそ「神代」そのものであり、問題はそれに対して人智を尽くせるかだけだと思います。

私たちは、もはや世界の行く末や自分の行く道すらも自分たちで決められる瞬間にいます。
だから迷わず、自らの信じる世界を作るために、勇気を持って前に進んで行きましょう。

神様は、おそらくその行動を起こせる人に加護を与えて下さるはずです。

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心の最後の「ピース」

楽太郎です。

世間では邪気がすごいことになっています。
私はコンビニやスーパーに行くと気分が悪くなりやすいので、人の集まるところに行くのは必要最小限にしています。

邪気による影響を受けるのは、特に私自身のエネルギー循環が悪い時なので、常にチャクラを乱さないための心掛けをしています。
あとは、神様とのご縁を意図して育もうとすることです。特に今は自然界のエネルギーが変動しているので、何らかの加護がなければ生活に支障が出るレベルです。

私は所属意識の問題から第3チャクラが乱れやすかったのですが、「神様の集団」に意識を置くことでエネルギーが整いやすくなりました。
「自分を人間と思い、人間にために行動する」原理から、「自らの神に気づき、神様のために行動する」考え方に意識を移すことで、所属意識が変わりました。

この変化こそ、私の人格における「最後のピース」だったとわかりました。
このピースとは、「神を信じ、神と繋がっている自分の感覚を信じる」ということです。


振り返れば、私の半生は紆余曲折でした。
長い間、自分探しをしてましたし、色々な挑戦もしましたし、様々な勉強をしてきました。

しかしその道程は、外にある真実や答えを探す旅であり、いくら膨大な知識や情報と出会っても、自分自身を確立させるようなマスターピースを手に入れることはできませんでした。

それどころか、信じていた情報が嘘だったり、搾取的システムに誤魔化されているだけだったり、その仕組みが捲れ、時間と共に確かさも削り取られていくのをいくつも目の当たりにしました。

そして気づいたのは、「真実を外に求めることはできない」ということです。

肩書きのある誰かが言っていた、信頼するその人がやっていた、仮にその他者が自分の信じた通りの人でないとわかれば、その知識は疑わしいものにならざるを得ません。

外側にあるものがブレたら、それを取り入れた自分の内側がブレてしまいます。
だから、本当に心に芯を持つには、確信を100%自分の内側に求める以外にありません

私にとって、この欠けた部分に必要なのは、「神」でした。
それは名前のある特定の神ではなく、八百万として感じる漠然とした超常的存在であり、概念そのものとしての神です。

この神は、少なくとも私には見えたり聞こえたりするわけではありません。
ただエネルギーとして感じますし、そのエネルギーからインスピレーションやメッセージを受け取ることができます。

この感覚は、自分の内側に求める以外にありません。神様がいるのかいないのか、神様を信じられるのか、という問題も、全て自分の心の中で起こります。

神を信じる時、同時に信じているのは私自身の感覚であり、魂です。
つまり、自分自身を信じるからこそ神様を信じられるのです。
これが私にとって、深い部分にある自信のなさ、何となく欠けていると感じる部分を、ぴったり埋め合わせるものだとわかりました。


おそらく大抵の人が、心に「信仰」を置くべき場所に、お金や名誉や、異性や家族など、何らかのコンテンツを置いてしまっています。

現代人はそれが当たり前で、欠如感を埋め合わせるにはある程度楽しくもあり刺激的で、何の疑問も感じない人も多いでしょう。

しかし、そうして依存できるものは誰かが作ったものであり、いずれ古くなり、壊れるか終わる時が必ず来ます。
そうなった時に、現代人は心の拠り所を探すためにまた別のコンテンツを探す旅に出ます。

ただ、そこに「真の信仰」を置けば、そんな長い回り道をする必要がありません。
最終的に、自分を信じ神様を信じることで漠然とした不安は薄まり、神様のメッセージを受け取るならば、余計な心配を増やすこともありません。

「神を信じる」ことは、己の感覚を信じることなので、しっかり自分自身を見つめ、より真っ直ぐに生きる覚悟が必要です。
それは現代人には難しいことでしょうが、この道が見えていなければコンテンツの穴を別のコンテンツで埋め合わせる、という悪循環が延々と続いてしまいます。

今、この能力が多くの人々に求められています。
これがわかれば本当に楽になれるのですが、ここに気づくには捨てるべきものが多いはずです。
しかし、この課題をどうにかしなければ、誰もが神代に渡ることはできません。

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「神代」の作り方

楽太郎です。

今朝もまた、集合意識的な夢を見ました。
私が見る夢は、象徴的なほんわかした夢はほとんどなくて、別の現実の世界で行動するようなリアルな夢ばかりです。

私は他人に対してあまり興味はなく、極端に言えば一人でも全く違和感なく生活できるタイプです。
それでもなぜ人間の集合意識に近いところにまだ意識を置いているのかと言えば、私が一介のクリエイターであり、心の深い部分で人間のために創作をしているからです。

心の奥では、やはり「人々が変わって欲しい」と思っているし、「救われて欲しい」とも「私に共感して欲しい」とも思っています。

しかし、それが叶わないことはわかっています。
私にとって創作とは、祈りそのものです。

人々が私を歓迎しないのも知っています。
私に対して、人々は反感や無関心を向けますし、無意識では神代なんて作って欲しくないと思っています。
しかも集まって邪気を私に向け、まとわりつきます。

私は彼らを忌避するように神様が促しているのは知っていますが、それでも何となく憎みきれないのです。
彼らの本心は「変化への恐怖」です。
変わりたくないからこそ、同類で集まって強がり、閉じた世界を作り出して籠もろうとするのです。

遊び暮らしている大富豪も、政府に繋がる大企業のCEOも、例え思い通りのことができても、神代を止めるためにできるのは、せいぜい邪気を飛ばすか、利権を振り翳すことくらいです。

その攻撃を受け続けた私にとって、人間が何億と集まってこの程度の霊障しか及ぼせないのも不思議ですが、神様のお力とは比較にならぬほど微々たるものに違いありません。

私は表現者として、人のために創作してきましたし、おそらくこれからも人々のために創作をしていくことでしょう。
私がいくら人々から疎まれる存在であろうと、共感する人に自らの表現を届けるのが私の使命です。

時々、これほど邪険に扱われながら、なぜ自分は人間のために尽くそうとしているのか、疑問に思う時があります。

神代を作るために「人の役に立つ」ことが、古い時代の慣習やシステムを使い回し、古い人々の価値観に合わせていることに葛藤がありました。
それは結局、古い時代を引き伸ばしかねないのでは?と思う部分もあったからです。

ただ、私たちに与えられた「お役目」は、神様によってオーダーされたものであることを忘れてはいけません
それは決して人間社会を救うためのものではなく、神様のために行うことでもあります。

神様と神代を作るということは、「神様にとって住み心地のよい世界」を作るということです。

ですから、私たちが人間の方だけを向いてお役目を果たすのは、そもそも筋が違うのです。
何かをしてあげる対象が人間だったとしても、その行為を願っているのは神様だからです。

私たち神代を作るために動く人々、現人神になる人たちは、神様のために行動し、神様のために神代を作ることを任された者たちです。

だからこそ、私たちは人間が助かるように、導かれるように、何らかの施しをしていくことになるのでしょう。
ただ、それは神様の願いであり、私たちは結果的に神様の願いを叶えることが本当の任務なのです。

それは人間のためであるように見えても、それ以上の意義が存在することを意味します。
そして、神様のために行う一連の実践は、直接的に神代の実現に繋がっていくのだと思います。

「神代」は見えない世界にあるのではなく、外の世界に作り出すものでもなく、私たちの心にある世界が「神代」そのものです。

言ってみれば、私自身、あなた自身が「神代」であり、神代を現すことは、神代を自分自身で体現することです。
それは多くの人々にとって、これからの時代の「手本」となりうるものとなり、手本を見て同じように生きる人が広まれば、そこで神代が広がっていくはずです。

神代は、遠い存在の何かを引っ張り出してくるものではなく、完全無欠の私たちの理想を、神様と一緒に形にしていくだけの作業です。
だから、特に難しいことではありません。

「神様から受けた熱いインスピレーションで行動し、人々を喜ばせ、神様を誰よりも喜ばせる」

そんなシンプルな行動原理で可能なのですから、あとは好き勝手やれば良いだけです。神様はおそらく、その完成を楽しみに見守っておられるでしょう。

「神様と共に生きる世界」は、かつて日本人が森羅万象に神を見て、石や山を崇め、死者を神とし、神社を奉り、仏像を各地に建立し、隣人のように近い関係で持ちつ持たれつあった、かつての時代にあります。

神様に何かをしていただくということは、神様に対して人間も何かをして差し上げることです。
この単純な互恵関係が復活するだけで、今の世は朗らかな世界に変わっていくでしょう。

私たちはお役目を、人間だけのために使っている気持ちでいるのは勿体ないです。
その行為を高いところで見ておられる神様が、より喜ぶことを志せば、私たちの努力も喜ばしいものになっていくに違いありません。

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「できない」を活かす

楽太郎です。

ここ数日、私自身のエネルギーが安定してきました。
先週は好転反応の時期が続き、エネルギーが乱れているところに邪気が入り込んで、本当に混乱していました。

しかし神様の手助けによってトラウマが浄化され、自我の統合が進み、また神様の所属に意識を移すことでエネルギーが安定しやすくなり、邪気の影響もだいぶ受けにくくなりました。

自我の統合において、これまで生きてきた人間社会での常識、思い込み、思考的習慣、そういった人格を構成する部分がネックとなり、魂やハイアーセルフとの繋がりを遮断していました。

私の心にこびりついていた後悔、劣等感、執着心、自分に嵌めた枷のような考えが、私自身の可能性をずいぶん縛っていたように思います。

「できない」「自分はダメだ」という気持ちは、自分にかけた呪いそのものでした。

「できないから、できるようにならなきゃ」
「自分はダメだから、もっと頑張らなきゃ」
そうやって自分で作った輪の上をグルグル回り続け、さっぱり前に進まない状態を作り出していました。

ただ、この「できない」「ダメだ」というのも、人間社会のルールの中で、他者と比較することで外部から与えられる評価であり、自分自身を比較から外してしまえば、私はできない人間ではないしダメでもないのです。

私たちはこれまで、個人が幸せになる上で非効率的な価値観を与えられ、その歯車の上でうまくやろうとするから、幸せが遠のく生き方ばかりをしてきたのだと思います。

大人気バンド「サカナクション」の山口一郎さんは、現在うつ病の治療中ですが、音楽活動などをマイペースで進められています。
山口さんは、TVアニメ「チ。」のOPテーマを担当されていますが、未完成曲とのことです。

山口さんは自身のYouTubeチャンネルで、「葛藤をあえて見せていく、それが自分にとって新しい表現の形だ」と仰っていました。

私は、これは実に風の時代とか、神代の考え方だなと思いました。

土の時代は、産業の時代でした。
利益を最大限に得るためには、高品質の完成品が求められました。人々は完全無欠であるものを求め、ヒット商品のためにあらゆる非人間的努力が当たり前の世界でした。

これが風の時代に変わり、個人の自由や精神性が主軸となっていくならば、結果よりも「プロセス」が重視される時代になるはずです。
その上で、ストーリーや文脈が大きな意味を持ち、完成度よりも感動がメインになっていくのではないでしょうか。

そうであるなら、「葛藤」もドラマの一つになりうるはずです。
その意味で、「できない」とか「弱さ」や「障壁」などネガティブな要素も、プロセスの一部として魅力的なスパイスになるに違いありません。

これまで、そういった不完全性は、「ダサい」とか「良くない」とか言われてきた部分でした。
しかし、人々の個が尊重され、各自が自由に気高く生きていける時代は、完全性の制約を破った先にあるはずです。

だから、私も「できない」とか「性格に偏りがある」とか人に欠点だと言われるところはたくさんありますが、その欠点をプロセスの一部にしたり、開き直ってアクセントにしてみたり、ポジティブに生きるならいくらでも変換できるものです。

これからの時代は、他者の評価軸を絶対視して自分を変えようとするのではなく、もっと柔軟に自分を相対化しながら、他者も社会も相対化していければ、緩い調和の世界になっていくのではないでしょうか。

古い時代の世のあり方に傷ついたのは私だけでなく、ボロボロになって苦しみ沈んでいく人たちを数えきれないほど見てきました。

人間が幸せに生きられる弥栄の世を作ることは、かつての苦しみを間違いとして残すのではなく、教訓や救いに変えることでもあると思うのです。

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自分の心に答えを求める

楽太郎です。

最近、特にインフルエンサーやメディアの裏側や正体が暴露されて、その言説を取り巻く信憑性が揺らいできました。

これに関しては私も実感しています。
以前は日本の保守論陣のロジックの正しさを確信していましたが、それにも次第に疑問が湧き、距離を取って別の論点に触れてみると、その正しさにも一応納得がいくのですが、どの論理も相互に矛盾があり違和感を覚えます。

特に、スピリチュアルと時事を同時に扱っているインフルエンサーの話を聞くと、背後に神霊がいらっしゃるという頭があるので、余計に後光が差して正しく聞こえてきたりもします。
ただ、距離を置いて遠目に見てみると、その人物すら信用していい人物との直感は得られない、そういう人はかなり多い印象です。

岡本天明氏に降りた日月神示では、末世はあらゆる神がかりが蔓延ると語られていました。

今は、スピリチュアルでさえも真偽があやふやな状態であり、しかも情報の世界はビジネスに染まっているので、はっきり言って罠だらけです。
玉石混交の真実の中で、本当にダイヤの原石が存在しているのかすら疑わしい世界です。

以前、私が意識の所属問題で第3チャクラをやられている時、ネックになっていたのは「一般社会人しての意識」でした。
私たちが長年この人間社会を生き抜く上で身につけた常識は、神様の世界の道理とは若干違うものなので、古い価値観を持ち越したまま神代に渡ろうとすると、どうやらその手放しを促されるようなのです。

未だに、私の心の中でも「誰それがこう言っていた」「誰がやることだから良いはずだ」という先入観はありますが、そういうものがどんどん捲れて本質を現すたびに、自分を形成する外部的要素が全く当てにならないことに気づいてしまうのです。

今は特に、世界中がそのデトックスの真っ最中なので、何であれば絶対安心というものは存在しないでしょう。

だからこそ、いくら当たり前だと思うようなことでも、一旦疑ってみたり、距離を取ってみたりして、「そうじゃないかもしれない」というポジションでものを見るのは重要なのかもしれません。

誰が何を言ったかを正しいかどうか考える前に、魂の部分でどう受け取ったか、直感ではどう感じているのか、そのことに目を向ける方が、後に自分を救うことになるはずです。

私たちの魂は神のワケミタマですが、ワケミタマが繋がるのは根源なる神、いわゆるワンネスです。
つまり私たち一人一人は全知全能の神様との繋がりを生まれ持っているので、己の魂との繋がりを高めれば高めるほど、万物の本質に気づく能力は鋭くなっていきます。

だからこそ、真実を外に求め、外の世界に神を探すよりも、自分の内なる神と対話することの方が間違いはないでしょう。

しかし、それは自分にしかわからないことで、誰にも確かめようのないことです。
ただ、証拠がないからこそ、常に自分の内側に確信を求めていくしかありません。

神様が人間の目に見えず、形として常に顕現することなく、いるかいないかわからない状態であり続けるのは、人間にとって「目に見えないものを信じる」ことが一つの到達点であるからだと思います。

だからこそ、聖書のヨブ記のように身の破滅をもたらされても、神を信じきれるのかについてわざと神様は試されたりもするのです。

ただ現代の人々は、目に見える形で神様がテレビに出て、インタビューでも受けてくれなければ信じないかもしれません。
いや、それこそ胡散臭いと思いますが、私はどっちにしろ目に見えない方が美しいと感じます。

今は、あらゆる人の言葉を聞きに行くより、自分の内面に潜った方が大切なことがわかるかもしれません。
そして、あらゆる情報に触れた時、その感じ方を自分に問いかけてみた方がはっきりした答えになると私は思います。

惑わされることが多い時期だけに、自分軸をしっかり持ちたいところです。

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神代を阻むエネルギー

楽太郎です。

本日2本目の投稿になりますが、緊急かなと思ったので書きます。

今日、何となく朝からイラつきと緊張があり、普段の自分と違う感覚がありました。
昨日、色々変化があって頑張りすぎたので、疲れたかな?くらいに考え、緩いペースでやっていました。

ただ、やはり違和感があり、特に霊感と繋がりづらくなっていて左脳が働きすぎている、という感覚です。
あたかも、土の時代に長らくあった感覚に戻った感じでした。

あまりに魂や神様との繋がりが難しいので、とりあえず気分転換のためにウォーキングに行くと、やはり自然にいらっしゃる神霊にはちゃんと繋がれましたし、メッセージやご様子も伺えました。

それで少しは霊感が戻ったのですが、そのあと買い出しに出かけ、初めに飲食店に入ってからだんだん感覚が曇り始め、近くのお客さんにイラついて気が散るようになってきました。(なお、そのお客さんは決して迷惑をかけるような方ではありません。)

なんかおかしいなと思って、スーパーに入ってしばらくしたら、腹部の緊張が激しくなり、食べた直後だったので気分が悪くなって、しばらくじっと休みました。
家に帰ったらどっと疲れて、午後はほとんど動けませんでした。

これはちょっと不自然な体調の崩し方で、邪気が原因だとしても新しいパターンだな、と思いました。

確かに、最近コンビニに入るだけで感情が曇ってくるというか、なんでこんなに疲れるんだろう、と思っていたのですが、人が集まる密集度と多さが関係し、その係数が高ければ高いほど具合が悪くなる確率が高いことに気がつきました。

あまり意識したくなかったのですが、これは集合意識にアクセスすることで受け取ってる邪気だとわかりました。

ただ、それにしては自分の魂の部分での邪気の浄化も鈍いのです。
特に今日は神様と繋がりにくいのでどうしようもなく、無駄に悶々と過ごしていました。

昨日、私は新しい自我の関わり方を見つけ、ほぼ一日冴えている状態でした。
ただ、一晩寝てから全くその感覚がなくなってしまい、なぜだろうかと考えていました。

ふと思い出したのは、昨晩見た夢です。

というか、ここ数日はずっと似たような夢を見ていました。
それは、旅行する夢というか、街中や観光地を歩き回ったり交通機関に乗って移動したりする夢です。

昨日は特に鮮明で、市場に展示されている商品の一つ一つの特徴も、売り場の人の顔すらも細部までリアルに覚えていられるような夢です。
それを何時間も見ている感覚があって、朝起きた時には全く寝た感じがなく、右手が痺れていました。

この右手は、ずっと握りしめていたようで、目覚めた瞬間にビリビリに痺れていることに気づきました。

私は右手を使う仕事をしているので、才能を司る右手には、よく邪気が溜まります。
その時は、痺れて最悪の場合動かなくなるので、塩で揉んで水で洗い流す、ということを以前はよくしていました。

ちなみに、この「右手に邪気が溜まる」という現象は、はっきり神代に渡ったと自覚できた日からパッタリ感じなくなりました。
こうなるのは、単純に私が霊媒体質だからという理由ですが、空間的な邪気が身体に溜まるのはほぼ無縁になったはずでした。
しかし、寝てる間に握りしめていた右手と夢の内容、今日一日の不調、何か関係あるのではと疑わざるを得ませんでした。

ある霊能者によると、人は寝てる間に集合意識に魂が繋がるそうです。
その集合意識はおそらく、今は邪気の巣窟になっており、特に集合意識に村八分にされている神代勢が触れると、エネルギーバランスが崩れやすくなります。

私が言う「具現化した邪気」は邪念で動く人間の発する気を指していますが、これを祓うために神代に渡りたい人たちは、社会的に色々と工夫してきたはずです。
それは邪気が才能やお役目を妨害するために働くからで、似たような働きを集合意識、集合的無意識の邪気は私たちに与えてきます。

私が体験したのは、昨日の覚醒状態を覚醒前の状態に引き戻すような作用が、夢にあった可能性があるということです。

つまり、眠ることで集合意識にアクセスすると、その邪気が精神に悪影響を及ぼす可能性があるのです。
これは自分でも信じがたい推論なので、下手に不安を広げることはなるべく慎重に結論づけたいところですが、私の身体に起こった変化を分析すると、こう考えると一本筋が通ります。

今、古い土の時代が未来永劫続くことを選んだ人たちの集合意識、集合的無意識は、露骨に邪気となって改革への意識に反抗してくるように思えてなりません。
確かに、神様の側に立って古い秩序を破壊する人たちは、古い秩序を維持したい人たちにとってテロリスト同然であり、敵でしかないはずです。

しかし、私たちからすると古い秩序は、このまま維持してもどうせ壊れるか滅びるまで衰退するしかないもので、もうすでに限界が見えています。
だから「壊してあげる」くらいの気持ちでいるのが神様たちだと思います。

もし集合意識がここまでするようになったのなら、もう仲良くすることもできなさそうです。
少なくとも私がゆっくり眠るために、その邪念は集合意識から消えてもらうしかありません。

これは私の推論にすぎないのですが、こういう可能性もある、ということで注意喚起をさせていただきました。

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コミュニティとお役目について

楽太郎です。

最近、現実世界で「似た者同士の引き寄せ」がの力が強まっているのを実感しています。

三次元世界で繋がる人たちはより強固に、神代のコミュニティに属する人たちも、より核心的になってきているように思います。
しかし同時に、「近いけれど縁は遠い」ような人からも距離ができ始めています。
そして、神代側も三次元側も、より共感性の高いコミュニティに収斂しているように見えます。

私の場合は、これまで「神代を作るために、このコミュニティと今後関わっていくんだろうな」という出会いも、何となく不一致な部分から距離が離れていっています。
どうやら神様たちの中で「こいつは神代のために単独で動いてもらった方がよい」と判断されているらしく、コミュニティとの関係が一方的にバツバツ切られていっています。
これも神様のご意志なんだろうと思い、コミュニティに属さなければ、という気持ちが出たり焦ってはいませんが、少し寂しい思いです。

今、神代を目指す人たちの中で、コミュニティに属する予兆がありながらも、何となくしっくりきていなかったり、なぜか離れていくのを感じてしまう方がいるかもしれません。
これに関しては、全く焦る必要はないと思います。

きっとタイミングの方が重要で、自分に条件が揃うか、他者や環境に条件が整うのを待つ必要があるだけで、いずれ神様がご神縁でバッチリ結びつける時が来るはずです。

例えば、これから神の求めに応じるのは、既存の何かが壊れるタイミングかもしれませんし、新しく何かを作る必要がある時かもしれません。
そのタイミングが何なのか、何がきっかけになって求めが生じるのか、それはその時が近づいてみないとわからないはずです。

ですから、今はその準備期間だと思って、必要な準備を神様のお導きで進めていけばいいのだと思います。

今、自分は才能を発揮していない、神様からはっきりしたお役目を与えられている自信がない、それをこなせている気がしない、という方もおられるかもしれません。

かく言う私もそうです。神様からは「そのまま続けなさい」というメッセージは定期的に受け取っているのですが、結果に繋がっている気は全くしません。

しかし、おそらく今は「やること、前に進むこと」の方が大事なのだろうと思います。

現人神というより神様の選抜に関わらず、「神と人の意思の調和」によって神代は作られるものであり、結果的に神代に繋がれば良いのではないでしょうか。

その調和は、神代の波動を何らかの形でこの世に投影していく、その一つ一つの小さな行動自体に意味があるのではないかと私は考えています。

例えば、「他人が使ったコップ」と「新品のコップ」は、モノとしての機能が同じでも付加された情報が異なり、それによって価値が違います。
つまり「神代の波動が一つ増える前の世界」と「神代の波動が一つ増えた後の世界」では世界の情報量が変わり、その変化が神代の実現に繋がっていくのではないかと私は思います。

ですから、「役に立っている、立っていない」というのは、人間側では判断しようのないことかもしれません。
あるいは、神様の側に立つ人が幸せで、ニコニコ笑いながら暮らしているだけで、神代の波動を発し続けている可能性もあります。

何が正しく何が間違っている、というのに拘らず、最終的にどんな世界が神代なのかを考え、神様からメッセージを受け取り、その結果に繋がっていく行動をしていけば良いのだと思います。

ですから、焦る必要はありません。
例え目の前が真っ暗でも、どんどん人が離れていっても、神様の求めを知り神様のご意思を信じていけば、間違いはありません。
神様はその覚悟を定期的にお試しになられますが、その答えを間違えないことが最も重要なことだと思います。

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神代のビジネス

楽太郎です。

先日、3日以上に渡って生じた好転反応によって、私のハートチャクラが開きやすくなった話をしました。

この働きには瀬織津姫様との関係がきっかけにあり、瀬織津姫様は浄化の神様であらせられますので、私の心のトラウマを祓い清め、邪念で見えなくなっていた私自身の心の闇と、心を閉ざすロックと向き合う状況を作っていただけました。

瀬織津姫様は、伊勢神宮で祭祀されている形によれば、天照皇大神様の荒御魂であらせられるそうです。

記紀的な説明をすれば、伊弉諾様が亡くなられた伊奘冉様を思って黄泉の国に下られた際、大勢の亡霊に襲われて黄泉比良坂から逃げ帰り、やれやれと思った伊弉諾様は中の瀬で禊をされました。

その時に八十禍津日神と大禍津日神の二柱が垢から生まれ、同じ禊の最中に三貴子、天照皇大神と素戔嗚、月読の三柱がお生まれになりました。
江戸時代の国学者、本居宣長によると八十禍津日神は瀬織津姫と同一視され、八十禍津日神は天照皇大神の天岩戸隠れをした際に起きた災い、天岩戸開きによる浄化は瀬織津姫の働きによるものだそうです。

つまり、和御魂の天照皇大神、荒御魂の瀬織津姫、八十禍津日神は同一の神格であらせられるということです。

この話をしたのは、私が瀬織津姫様のご加護によって心の浄化が起きた際、私自身の問題が過去の因縁めいた失敗と如実に向き合わざるを得なくなったことは、八十禍津日神様の災い、つまり天岩戸隠れに喩えられるのではないかと思ったからです。

天岩戸が開かれる時、天照皇大神様が姿を現し、私の問題は須く解決に向かうはずです。その浄化の働きを助けて下さっているのが、瀬織津姫様ではないかと私は考えています。

私の心にとっての天照皇大神様の光とは、才能を持って人に愛を与え、幸せにしていくことだと思います。

しかし、私は全く才能の上で今まであまり受け入れられてこなかったというか、開き直って挑戦的なことをしてきたせいもあって、わりと私のキャリアは受難そのものでした。

ただ、この浄化と解放の中で、私が人様から受け入れられないことで心にかけた封印は、愛の表現に向かうことで解かれる、というメッセージを受けているのかもしれません。

今は商売がうまくいかないのは当たり前

今、まさに神代をこれから作っていこうという段階にあって、まだ古い土の時代の社会や経済は、壊れきってはいません。
この崩壊は、まさに八十禍津日神様の起こす災禍のお力であり、崩壊しきらなければ瀬織津姫様の浄化のお仕事も捗らず、天照皇大神様が姿を現すこともままならないでしょう。

その移行期にあって、魂の修行をしている最中の私たちは、古い時代のやり方をある程度続けながら収入を得ています。

それは心苦しいことではありますが、まだ新しい時代の経済の形が見えていませんし、それも今の形が壊れきらないと作ることすら難しいので、手も足も出ないのは仕方のないことです。
正直な話、これからの世は「どこまで壊れるかわからない」ので、下手に挑戦すると取り越し苦労になる可能性もあります。

だから今は、というよりあと数年は、堅牢なビジネスプランを立てるのは難しいかもしれません。
その都度その都度、臨機応変に人に対して必要なものを提供し、あるいは協力して必要なものを作っていく、ということになると思います。

そうであれば、誰もが一旦、自らの働き方や稼ぎ方を見直すことになるのでしょうから、今は手元に何も持たず、何も築き上げることができていなくても、スタートラインに立つのだから不自然なことではない、とも言えます。

「あいつは俺よりうまくやってる」という比較対象も壊れることすらあるのですから、過去の失敗や劣等感を引きずって、「自分にはできない」という思い込みを持ち続ける必要もなくなるということです。

神代のビジネスに必要なもの



神代は、おそらく現在の大投資家や資本家が政治家と共謀し、経済を作るシステムと全く違う形になるでしょうから、企業の権威やネットワークもどこまで信頼性を担保できるのか、本当に未知数です。

その意味で、ビジネスのあり方が根本的に見直されていくはずです。

ただ、大昔から歴史を通して商売は、「欲しいと思う人に自らサービスを提供し、対価を得る」という基本的な構造があるので、結論としては「人の役に立つことをしていれば生きていける」のは変わりありません。

私は下手にうまくやろうと思い、わざと人に迎合することをやってきましたし、かと言ってウケないならと開き直って好き勝手やってきましたが、どちらもうまくいきませんでした。
ただ、それでも世の中を明るくしたいとか、人を幸せな気分にしたいとか、そういう思いはあったつもりです。
問題は、それをダイレクトに人に伝わるような形になっていないことだったかもしれません。

「人の役に立つ」のは単純ですが、その塩梅が難しく、「人の役に立ってない」現実も正しく直視する必要があり、お節介をしていればいいというものでもないのです。
けれども、「人を幸せにしたい、愛を伝えたい」思いからの行為は、おそらくあり余ることはないでしょう。

それが少人数であろうと、例え一人であろうと、仮に自分一人であっても、誰かが自分が行った仕事で救われることの方が、大儲けするよりも大事なことなのかもしれません。

これまでの時代で、稼げない人は役立たずとか、儲けが少ない人は無能とか、そんな目で見られるのも気が引けるので、商売は利益を上げるために何でもするのが常識でした。
ただ、これからはもう少しやり方を選んでいい時代になるのだと思います。

例え大収益を得ずとも回っていく経済になるのなら、最も回るのは思いやりやコミュニケーションのはずです。
その上で人に役に立つ方法は何か、改めて考えてみるには良い機会なのかもしれません。

自分の才能は役に立たないかもしれないとか、そもそも才能なんてないかもしれないという気持ちは一旦置いておいて、それでも自分の好きなことや得意なことで、誰かを笑顔にすることを考えていればいいのだと思います。

今、特に新しいことを頑張って始めなくてもいいのかもしれません。
ただ、「才能を使って人の役に立つ」ことの具体的な方法を、手探りで編み出していく段階なのでしょう。

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