招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神様に選ばれなくても

楽太郎です。

神様とのご縁が深まっていくにつれ、街の雰囲気と私の視界の感覚がどんどんズレていっているように感じます。

おそらく、人類の霊的二極化によりポジティブな世界、神代に繋がる道を選んだ人々は、世界の美しさと荒んでいく現状とのギャップに驚いているはずです。

私は実は秋分を越えたあたりで、すでに視界に変化が出始めていました。

景色がプリズムがかってキラキラ見えるのは、目がおかしくなったのだと思っていました。
その頃あたりから、空が異様に近いと感じて、街が特撮映画のミニチュアのように見え始めました。
幸せそうな人たちを見るとなぜか嬉し涙が出て、頭にある理解を超えた心の変化に戸惑いました。

今思えば、その頃には神代に行くための準備が始まっており、もうすでに私には次の世界が見えていたのだと思います。

私の魂は、もう次の地球に渡っていると感じています。
しかし、それは第六感としては実感できても、何の根拠もありません。現実的には何にも変わってないですし、「思い込みだ」と言われたら、反論できないかもしれません。

けれども、この不確かさを信じられるかが、神様のいる世界へ渡れるかの「試練」そのものだと思います。

人間たちの世界を選んだ人々は、この「目には見えないものがある」ということが理解できないからこそ、古い時代に居残ったのでしょう。
神代に渡る人たちは、「目には見えない」不確かなものを感じ、それを信じて行動できるからこそ、物質中心の世界を捨てて新しい世界を選択できたのだと思います。

おそらく、神様は「目に見えない」からこそ、それを利用して私たち人間を試されます。
仮に、誰にも神様が目に見えてはっきり声が聞こえるとしたら、人間は神様に頼りきり神様の言うことだけを聞くでしょう。

それでは人間にとって、魂の成長にはならないはずです。
神様はあえているかいないか微妙なポジションに立ち、人間が自分たちを本当に敬えるのかを常に試されるのだと思います。

ですから、神の存在が不確かだからと言って、その自信のなさから神様を諦め、元いた場所に引き返すべきではありません。
これまでの人間社会にいれば、いずれ文明が存続しようがしまいが、私たちが生きていける世の中ではなくなるはずです。

この悪意に塗れた世界で安寧を得ることに賭けるより、神様のいる新しい世界に希望を求める方が、本当の意味で前向きなことではないでしょうか。

その上で、自分が神様のご加護が受けられているか、そもそも神様のいる世界に導かれているのか、不安な方もおられると思います。
私も、その気持ちは痛いほどわかります。
確かなものは自分の中に求めるしかなく、その確信すら錯覚の可能性もあるからです。

ただ、私たちがなぜ神代を目指すかと言えば、自分だけが救われるためではないはずです。

神様に選ばれた、選ばれないという選択が気になるのは、まだ自分だけが助かりたいと思っているからです。
しかし、神代は神様や神様を慕う人々と協調しながら新しい世界を作っていく時代なので、有り合わせの天国に辿り着けるわけではありません。

神代に渡ることは、神様と一緒にどんな世界を作るのかを考えるということです。

そこで人類が搾取や不平等から解放され、各々が尊重される自由な社会に至るにはどうしたらいいか、神様と同じ目線で神様のために働き、神様が喜ぶ世界を作るにはどうしたらいいか、それを考え行動するからこそ、私たちは神様のお導きを得られます。

従って、自分が神様に選ばれているかどうかは関係なく、結果的に人々が救われ、神様が喜ぶ世界を実現することが神代の道であるはずです。

神様と人間が平和に暮らす世界が、この地球にいずれ完成すれば良いのであって、それは自らの思想と行動の積み重ねで実現しうるものです。

だからこそ、「自分は神様に選ばれていない」不安はあっても、神代のために行動することができれば、誰しもが神代に至れるのだと思います。

なぜなら、人間と神様が喜ぶ世界をイメージする力こそ「神代」そのものであり、問題はそれに対して人智を尽くせるかだけだと思います。

私たちは、もはや世界の行く末や自分の行く道すらも自分たちで決められる瞬間にいます。
だから迷わず、自らの信じる世界を作るために、勇気を持って前に進んで行きましょう。

神様は、おそらくその行動を起こせる人に加護を与えて下さるはずです。

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