共食いと意識変化
- Category:神世考察
- Date:2024年12月17日
現在、世を浄化する一つの方法として「炙り出し」が行われています。
現象としては事件、スクープ、炎上、暴露などの開示によって、「悪人を人に叩かせる」という構図になっています。
これらは、一見すると良い傾向に思えるかもしれません。
神代に導かれている人は、これらの問題がいかに身近であろうと、たとえ腹立たしくても、まともに受け取って没入するべきではありません。
なぜなら、これは「人が人世で起こしている禍事」であるからです。
俯瞰してみましょう。
ある不祥事があり、その事件の原因は私利私欲や悪徳に溺れた人間が起こす禍事であり、反してそれに自前の正義感を振り翳して怒り、禍事を起こした人間を糾弾する行為もまた禍事です。
この批判者たちは、自分たちが絶対に正しく、間違いなく世直しができていると信じています。
しかし、ある一人の無法者を裁いたところで、世のどの部分が変わったのでしょうか。
この手の不埒な輩が出ないように、いつか本当の意味で世直しができていたら、この禍事のようなことは発生していなかったのではないでしょうか?
私は長年、Twitterをやっていました。
言論を扱うアカウントを運営していたこともあります。経済や政治も社会情勢も、かなり情報を追っていました。
ただ、その活動が実ったという実感はほとんどありません。
SNSをやっていくら正論を吐こうと、いくら共感はされても、その共感が行動に繋がることがほとんどありません。
「大量注文されたパンがキャンセルされたので助けて」みたいな投稿はバズって、パンが無事に売り切れたりもします。
しかし、「マスコミが外国のプロバイダを垂れ流ししている」という事実がいくら白日に晒されようと、一体誰が変革的な行動を起こしたのでしょうか。
あまりに複雑すぎるテーマは、どんなに心が動かされようと人間には解決方法すら思いつきません。
あわよくば、その怒りは140文字に収めて「いいね」がついて共感してもらえば、何となく世の中が前に進んだ気持ちになってはいないでしょうか。
この問題への対処方法が、錯覚だったとしたら?
穿った目で見れば、このガス抜きのシステムすら社会秩序を骨抜きにするように働いていた可能性すらあります。
「世直し」だと思ってやっていた言動は、ただ正義感を発散するためのポルノであって、実際は世の中を1ミリも良くしないどころか、「正しいことをしている」と錯覚している分、世の中を退化させてはいなかったでしょうか。
そして、この叩き合い、潰し合いの世直し行動は、私からすれば「共食い」にしか見えていません。
私がTwitterをやめたのは、Twitterの世界はTwitterの中だけの世界であり、それ以外の数多の世界や数々の現象とは無関係であり続けると確信したからです。
SNSが世の中を変えるきっかけになりはしても、SNSで世の中を変えているわけではないのです。
その微妙なズレがあまりに認識しにくいからこそ、炎上が世直しの一環であるとまだ人々は勘違いをし続けています。
では、本当の意味での世直しとは何かと言えば、「人々の意識変化」に他なりません。
法制化や基盤づくりは、人間の良心の底が割れているから必要になるものです。
昔の日本を思い出して欲しいのですが、家に鍵をかけずに外出したり、野菜の無人販売所に監視カメラがないのは当たり前でした。
「バレなければ何をしてもいい」という浅ましさが、この国や世界をここまで腐敗させたのではないでしょうか。
だからこそ、本当に必要なのは人間が良心を取り戻すということです。
しかし、「良心」は自制心や理性や思いやりとセットなので、欲望を優先することができません。
良心があれば、好き勝手できないのです。ただ、自分中心に「好き勝手やろう」と思ううちは、本当に良心が備わっているとは言えないでしょう。
人間が行うべきなのは、厳罰化でも全監視でもなく、人間本来の倫理観を取り戻すことです。
それは怒りや義憤から生まれるものではありません。
人間が自らを正しいと思えるのは、自らが正しいと思い上がっているからです。
自分は間違っているかもしれない、実は迷惑をかけているかもしれない、そもそも煽動されているだけかもしれない、など。
そういった可能性がありながら、疑念を自らに向けられない理由があるとしたら、「謙虚さ」というバランス感覚を失っているからではないでしょうか。
「自分には他者を蹂躙しても、得する権利がある」と考えた人間が行う謀略で、この世界は狂ってしまいました。
しかし、その横暴はこれまでの世で可能だっただけで、お天道様から許されているわけではありません。
人も神も、それについて厳格なルールを作らずにやってきたのは、「謙虚さ」というバランスで秩序を維持してきたからです。
その謙虚さこそ良心の源であり、自分が生み出された、助けられている、生かされている、という「小さきもの」である当たり前の自己認識があるからこそ、謙虚さは人間に本来備わる感覚です。
しかし、その謙虚さを忘れ「法に触れなければ何をやってもいい」という考えに行き着いた時、人間は無限に富と権力を求め、神同然の振る舞いをすることを理想としてしまいました。
そして現在、ここまで膨張した利権を壊す力は人間界にはありません。
私たちは、神様が存在するか、神代が来るかどうかに思いを馳せる以前に、このままの人間中心の文明では遅かれ早かれ、干上がって滅びるはずです。
その人類を救うには神様のお力が必要なのは言うまでもありませんが、最も求められるのは人間の「意識変化」です。
人間の意識変化は現状、難しいことです。
それについて神様も思い悩み、いくら警告しても人間の心にはそれほど届かないようです。
それでも、地球が変化への意志で新しい姿への移行を続ける限り、その上で生きている人間は変わらざるを得ません。
それがわかるまで、人類はどんな形であれ「思い知らされ続ける」のでしょう。
それは一見、悲惨に見えるかもしれません。
ただ、人々が一滴の涙も惜しいと思うならば、今この瞬間から考え直すこと以外にありません。