招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「画霊(えたま)」

楽太郎です。

最近、土の時代に作られたコンテンツの波長に合わなくてなってきました。
私もずっとそう言うのに親しんできて、嫌いになる理由も特にありません。

単純に、私が「面白い」と思う感性が世間とズレ始めているのだと思います。
人々は、もっと感覚的にものを見ていますし、小難しく解釈しなくては読み解けないものをあまり好みません。
今の人は、瞬間的に理解できるものを好む傾向にあるので、私の趣味とは合わないのです。

私も作家の端くれですから、そう言ったコンテンツを作れば喜ぶ人も増えるでしょう。
ただ、それをやったとして自分が納得していなければ、お金や人気のために時間を削っているにすぎません。

働くことで「人の役に立つ」のは、いずれ対価を得られれば役に立ったという証明にはなりません。
確かに、需要があったから供給し、それがお金や評価になって可視化されるのもあるでしょう。
しかし、実際「役に立つ」ことは目に見えづらく、それが精神的なことであればあるほど、顧みられないことでもあります。

例えば、私たちが自動販売機で缶ジュースを買っても、ゴミ箱を設置している場所はあまりありません。
売るだけ売るのは良いとしても、あとのゴミまで責任を取るのはリスクが伴うからです。

タピオカミルクティーが流行っていた頃、ゴミ捨て場が街中になさすぎて、空き缶入れにプラスチックカップが刺さっている光景をよく目にしました。

人は何かを買えばゴミが出ますし、ゴミは捨てたくなるのですが、ゴミを処分するのは手間もお金もかかります。
だからといって、捨てられない場所に無理矢理ゴミを捨てていく人たちもいます。
善意でゴミ捨てをやっていても、自分だけが集中的にリスクを負うので、だんだんバカらしくなってくるのもわかります。

「ものを売る」というのは、それだけで何かの役には立ったことにはなるのですが、売った後の方が実は大切です。
食べたら身体を壊すとか、すぐ壊れる詐欺商品だったとか、壊れた後の修理が不可能とか、「売り上げ」だけを尺度にしていたらこの状況は見えません。

実際、「ゴミを捨てさせてくれる」というだけで、私たちはかなり助かります。消費はさせられるわりには、消費で出るゴミにもコストが生じます。
「役に立つ」とは、往々にして目立たないものですが、なぜか数値で可視化できるものだと人々は思いがちです。

だから、私は売れる、売れないということを軸にして考えることはやめました。
ただ刺さる人には刺さるとか、わかってもらえれば良いというスタンスのものを作ってきました。
ただ、それが絶望的に受け入れられなかっただけで、私が悪いのでも人々が悪いのでもありません。

私は、私の良いと思うことを追求し、表現するのが仕事です。

無理に人様の真似事をして、対価を得るのが仕事であると言い切れないように思います。
とは言え、自分のやり方が今まで以上に通用しない世の中となり、どこを向いて創作するべきかを商売に落とし込むのは至難の業です。

特に絵に関しては、いずれ芸術全般もそうなるかもしれませんが、「人間がやらなくても良い」という評価に差し代わっていく可能性もあります。
絵の微細さ、表現力の豊かさ、描画の正確さ、完成までの早さ、コストの低さで言えば生成AIに人間が勝てる要素が少なすぎるのです。

生成AIがそれだけ優れている、というわけではありません。
世界中の天才クラスのアーティストの作品データを集中学習して、業界トップレベルのクオリティの作品を手前のパソコン一つで合成出力できるようにしただけです。
それどころか、58億もの学習元の作品を評価タグづけし、その膨大なデータを隠れ蓑に権利問題を有耶無耶にしているのです。
そこに権利意識や良識は毛頭ありません。

その上、アーティストが手にするべきロイヤリティを一つとして共有せず、アーティストのビジネスに競合し利益を毀損します。
これを行なっているのは、全く無関係の第三者です。
それでも、お手軽に自分の思う以上の作品を出力できるので、使いたい人はたくさんいます。

この現状に対して「どうかと思う」人々が多いことも知っています。共に活動していたこともありますし、彼らも非常に憤り、嘆かわしく思っていました。
けれど、その良識よりもタダ同然で技術が得られることに人々が流れてしまったのも事実です。

それを後押ししているのは、世界トップシェアの大企業と政府なのですから、どうしようもありません。
残念なことですが、文化芸術の面で相当なダメージが入っていくことは避けられないでしょう。

私も正直、「デジタルイラストは終わった」と思っていました。
クオリティや物量で見れば生成AIに敵わず、それを認めて生成イラストを上描きしているだけの作家もいます。
この業界で、私は真っ当に立ち回れる自信がなくなってしまい、イラストの分野からは離れていました。

ただ、反対に「人間が描くからこそ価値があるのではないか」と考え始めています。

確かに、クオリティの面で言えば生成AIを使うに越したことはないと考える人も多いです。
しかし、権利問題を技術的に抱えた生成AIは、クレジットをつけることができません。

機械学習元の権利者は概ね同意していないはずなので、コピーライトをつけようがないのです。
それだけでなく、「誰が制作したわけではない」ということは、作品にバックボーンがないということです。

よく考えてみましょう。
フランスの現代アーティスト、マルセル・デュシャンが工業製品の便器を逆さまに置いて「泉」という作品を出展した時、そのアート性を担保したのは何でしょうか。
作品の素材自体は、工場で作られた大量生産品です。それを「アート」だと言い切った行為そのものが芸術を意味すると、現代アート界では考えられています。

言語学者のソシュールが提唱した概念に「シニフィエ/シニフィアン」というものがあります。
「シニフィエ」は「意味されるもの」であり、「木」ならば「'木'と呼ばれるもの」を指します。
「シニフィアン」とは「意味する言葉」であり、「'木'と呼ばれるもの」を見た時に「木」と表現する仕組みのことを言います。

つまり、デュシャンの「泉」は、シニフィエとしては「工業製品を逆さにした便座」ですが、シニフィアンとしては「デュシャンが'泉'として表現したもの」になります。
ここで優先されるのは、むしろシニフィアンの方だということです。

仮に、デュシャンの「泉」が屁理屈だと思われていたら、この作品にまつわる逸話は美術史には残っていないはずです。
この現象がアートを定義する上で本質的な指摘だったからこそ、今日も議題に登るのです。

何が言いたいかというと、「誰が描いたかわからない、バックボーンのない作品」は、「シニフィアンが希薄」なのです。

シニフィエは、シニフィエ単体でも鑑賞に耐えうるものです。例えば、車窓から見える景色も意味を知った上で眺めるものではありません。
しかし、車窓から見える景色が、日本三景の松島だったり富士山だとわかれば、印象も意味合いも変わります。

仮に画像生成AIで出力されたランジェリー姿の美女も、名のあるキャラクターの二次創作であろうとシニフィエ単体として成立します。
例えば、二次創作キャラのランジェリー姿を有名絵師がコラボとして描いた、というのであれば話題性は桁違いでしょう。

生成AIは、この「意味合い」という手順をすっ飛ばして、技術や成果だけを手前のものにしようという企みでしかありません。
だから、権利やクレジットや棲み分けを異常なほど避けながら発展してきました。
ゆえに責任の所在を曖昧にし、オリジナルの表現に背乗りし、オリジナルを騙ることでしか正当化できなかったのです。

「シニフィエ/シニフィアン」とは、人間の基本的な認識能力、コミュニケーションの仕組みを指すだけでなく、さらに世界に対するスタンスにも当てはまります。

日本人にとって「シニフィエ/シニフィアン」が最も大きく顕れているのは、「万物に神が宿る」という精神や「九十九神」という概念に見て取れます。
また、古くから「音霊(オトダマ)」「言霊(コトダマ)」という概念を信じてきました。

「良いものには良いものが宿る」
「悪いものは悪いものを引き寄せる」

そういった価値観があるからこそ、「験担ぎ」や「縁起」という風習を大事にしてきたのです。

現代の日本人はだいぶこの感覚を忘れてしまい、ネットでならと不埒な行動を晒し、口汚い言葉を平気で使いがちです。
炎上しなければ良くて、バレなければ何も問題ないと思っています。

しかし、そう思っているのが現代人だけだとしたらどうでしょうか?

スピリチュアルの世界では常識となっている「引き寄せの法則」が起こるとすれば、自分の発した悪態が巡り巡って自分の元に返ってくることになります。
シニフィアンを希薄な状態のまま放置し、軽視し続けることは即ち「音霊言霊の軽視」であり、言葉や意味を粗末に扱えば、古くから日本人が起こると考えていた災厄を招くことになりはしないでしょうか。

現代のシニフィエ過大の状態は、視覚優位の世界であって、バランスが悪い印象を受けます。
誰も言葉を当てはめて考えようとせず、意味を与えて考えないから、現象の裏に背景があることに思い至りません。

言葉は、それ自体に「権利」はありません。
「ありがとう」という言葉は様々な人が自由に使えるありふれたものですが、自分がある場できちんと発すれば、特別な「ありがとう」になります。

それは誰かにとっても、記憶に残る「ありがとう」かもしれません。
これが「音霊言霊」であり、言葉そのものとしてはありふれているのですが、自分がある時に心から発するからこそ、かけがえのない言葉になります。

これは「言葉」だけではないのかもしれません。
ピアノだって、ショパンやバッハを弾く人は数え切れなくとも、その人にしか出せない音色があります。
音楽も理論で言えば、コード進行も楽器も出尽くしていて、それでも新しい音楽は作られ続けています。そもそも、作り手が一人ひとり違います。

大事なのは、「誰がどういう経緯で、どういった過程でこれを生み出したか」なのです。

絵だって、技術的に見れば生成AIに太刀打ちできないように見えます。
しかし、自分で研鑽を積みながらアイデアを具現化して人に伝える、そのプロセスの方が遥かに大切なのではないでしょうか。

「音霊言霊」があるように、人間が描いた絵にも「画霊(エタマ)」が宿り、その表出に本当の価値があり、真の目的を見い出すべきなのかもしれません。

現代人は、利益こそ究極の目標になってしまいました。
何かを得られなければ、何かをする価値がないと考えがちです。お金にならなければ無駄だし、評価されなければ動機にする意味もないと。
そう考えた結果、誰もが自分の足元しか見ていない偏狭な世の中にしてしまったのではないでしょうか。

しかし、本来の目的とは、自分の魂のうちにあるものです。
その魂から発せられる表現が音霊言霊となり、人の魂に伝わるのだと思います。
その「霊(タマ)」は、おそらく人間の行うあらゆる行為に宿るもので、それが芸術活動なら尚更でしょう。

今こそ、生産性や単純な品質でものを測るより、もっと違う尺度でものを見る習慣を身につけるべきかもしれません。
それによって、おかしくなった産業のあり方にも距離を取り、自分だけでもあるべき形に戻していけば、少なくとも間違ったことはしないで済みます。

今、それをするのは理不尽なほど顧みられないかもしれません。
その時、人間が数万年かけて大事にしてきたものにこそ、本当に大切なものがあることを思い出したいと思います。

いくら自分が理解されなくとも、私は自分のやり方を曲げるつもりはありません。
私は、絵に「画霊」を込めて創作を続けたいと思います。

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