招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神様からの「恵み」

楽太郎です。

人生が折り返した、という実感があります。
その瞬間は、おそらく早池峯神社に参拝した日にあります。瀬織津姫様をきちんとお祀りするようになってから、気持ちに芯が通った感じがします。

その変化を如実に感じると同時に、もはや自分が思っていたような存在ではなくなったことも感じます。
頭で考えて習慣を変えたり、気まぐれでは絶対に起こり得ない心の変化です。
胸の奥底にある熱源は、何でもできた、あの若い頃の感覚を思い出させてくれました。

もし、この熱源を「魂」と呼ぶのなら、目には見えない「霊魂」は存在するのでしょう。
自分の真実の姿が霊魂であるとしたら、その延長には神が存在するはずです。


神様は、目には見えません。
写真に写ったり、映像に入る不可思議な現象はあれど、神様が何かに映り込むことはほぼありません。
私には神様が人間の心にだけ現れ、面にお出にならないことは意図的なものではないかと思います。

神様は目には見えない存在ですが、感覚を研ぎ澄ませば感じることは可能です。
ただその感覚はあくまで個人的なもので、客観的に証明することができないからこそ、「疑念」を乗り越えなければ信じることができません。

その「疑念」こそが一つの試練や、修行の過程だとしたらどうでしょうか。

神を信じるには、人間同士が持つ唯物論的な価値観を否定し、目に見えないものを大切にし、人の言葉よりも自分の思想を柱にしていかなくてはなりません。
それは現代を生きる人間にとって、合理的ではありません。
神などおらずお天道様は見ておらず、単純に目に見えるお金と力だけを信じていれば、大して難しく考えなくても楽に生きてこれたからです。

ただ、その考えでは人間は本質的に成長しないのです。
今、世に蔓延る不正や癒着を見れば、そこに人間の未熟さが存在してはいないでしょうか。
「自分さえ良ければいい」という不誠実さが、嘘と虚飾を広げ、その考えに全く無関係な人までも巻き込んで混沌を生み出しているように思えてなりません。

「目に見えないものを信じるのは合理的ではない」と思うこと自体が、この世界の形に合っていないとしたらどうでしょうか。
目に見えないものを知覚する能力を、「神などいない」という考えで置き換えるならば、人間の感覚そのものを否定することにならないでしょうか。

今、世の中で起きている災難の原因はここにあり、「便利さ」というテクノロジーを選び取った人間が、人間本来の内面性を蔑ろにした結果「人間らしさ」を失い、人々が内面的な問題で苦しんでいるように思えるのです。

テクノロジーの便利さがあれば、確かに苦労も減りますし、楽に生きられます。
しかし、だからと言って「楽」が即ち「幸福」とは限らず、「楽」に生きるためにあったお金や地位などの条件は、常に揺れ動く脆いものです。
そう言ったすぐに移りゆくものを信じ、目に見える確かさだけを追い求めた結果、今の混沌とした世では余計に確かさは見えてこないはずです。

もし、今の混乱自体が人々にとって、一人ひとりの試練を意味するとしたらどうでしょうか。
これまで目に見えるものだけを信じてきたからこそ、目に見えるものだけでは現実が成り立たなくなり、その崩壊を見て右往左往します。
その動揺の解決が、「目に見えないものの存在を知る」ことなのだとしたら、人々は一つ学びを得るでしょう。

人間にとってその学びは、一つの災難にしか見えないかもしれません。
しかし、その学びを得て成長した人間は、目で見えるものだけの世界」を捨て、「目で見えないもの」と「目に見えるもの」が混在する新しい世界を発見するはずです。
それこそが世界の真実であり、それゆえ人間は本来の世界観を取り戻すことができるのだと思います。

そのプロセスにおいて、人間は学び終えるまで学びの価値は理解できないはずです。
そして学んだと言えど、必ずしも学びの価値の大きさを理解したとは言えないかもしれません。
しかし、その知恵を得たことで人間はさらに自由な精神を手に入れ、より多様な生き方を選択していけるようになるでしょう。

「知恵」とは情報や知識を超えた、最もシンプルで応用の効く能力です。
テクノロジーがあれば、例えば自分で火を起こしたり暖を取る技術を身につける必要がありません。
しかし知恵があれば、世の中がどれだけ変わっても自分の手で欲しいものを作り出すことができるようになります。
この能力こそが真の「自由」であり、豊かさとも言えるのではないでしょうか。

決して豊かさとは資産にあるのではなく、知恵があるからこそ自由であり、いかなる状況でも生きていける自信が安心となり、その心の平穏は幸福に繋がるのだと思います。
この豊かさを手に入れる手段こそ「知恵」であり、知恵こそが本当の恵みであると言えます。

神様がそれを授けて下さる存在なのだとしたら、神様がお与えになられる試練や学びの機会は、人間には辛くとも素直に受け止め、学ぶに越したことはありません。
目に見えないものを信じず、成長する意志のない者ほど学びから遠ざかり、真の自由や豊かさを手にすることはできないでしょう。

人間は、嫌なことやうまくいかないことがあれば、ただついていないだけだと思いがちですが、その不運の裏には学びの機会があり、神様のお導きがあります。
そこで問題ときちんと向き合い、知恵を得て乗り越えるからこそ、次に同じ問題と出会って苦しむことがありません。
その成長は人間の心を豊かにし、自然と幸せにしてくれるはずです。

だから、今の世で起きている事象に一喜一憂することなく、そこで起きている現象の原因や意味を考え、「何を学ぶか」を考えてみることが大切です。
決して目の前のことに振り回されず、そこで得た気づきを実践し現実に反映させていけば、世の中に芯が通っていくでしょう。

そのためには、まず「目に見えるもの」だけの世界を疑い、「目に見えない世界」を想像することです。
この混沌とした世の中を生きるのも、良くしていくのも実際は難しいことではないのかもしれません。
自分の生き方を、世の中の仕組みをシンプルにするだけで、あらゆる問題は一気に解決していくと私は思います。

その気づきや知恵こそ、神様から頂く一番の恵みなのかもしれません。

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