招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「神の試練」を考える

楽太郎です。

本ブログ「招神万来」を始めたのが2024年11月26日ですから、ほぼ開始から9ヶ月が経ちました。
総記事数は230本を超えています。ほぼ毎日か2.3日に1本というペースで投稿してきました。
このブログは長文記事が多いですし、さすがに全記事をご覧になられた方はおられないと思いますが、このブログは私の成長の記録となっています。

その中でも、自分の心の葛藤や思索、生き方だけでなく創作における試行錯誤も率直に書き出してきました。
人間としても、スピリチュアリストとしても、成長するタイミングと成長した後の軌跡を辿るには、かなり面白いドキュメンタリーが見れると思います。

大抵、私の文章の傾向がガラッと変わる時は、何らかの壁に打ち当たったり、好転反応で調子が落ちた後に起こっています。
そこで霊的変性が起きたことで、視野が変化して文章の内容も変わってくるのが垣間見えるので、客観的に見れば興味深くもあるでしょう。
当初から一貫しているのは、このブログは「神様との約束」から始まっており、「神様と人を繋げる」というコンセプトを元に、神様のお役に立つべく続けてきました。

普通の人なら、これだけ神徳を積めば何かしら良いことがあってもおかしくないだろう、と思われるかもしれません。
このブログは神様と繋がることができる方を中心にご覧になられていると思うので、わかる方が多い前提でお話ししますが、神様というのはそれほど甘い方々ではありません

普通の人の感覚では、神社に行ってちょっとゴミを拾ったとか、お地蔵さんを綺麗にして差し上げたから何か良いことがあるに違いない、と思われるでしょう。
私が「日月神示」がガチであると思う理由の一つに、「神様はこういうお考えをされる方たちだ」という実感がひしひしと起こるからです。
神示の中に「すぐに来るお陰は神のものではない」と書かれていますが、神様は数十年というスパンで人間をご覧になられるので、1日とか1週間くらいで「ご褒美」を考えるようなスケールの方々でないことは確かです。

だから私は9ヶ月ブログを更新し続けても、何一つ良いことはないどころか、目に見えない形での成長を感じても特にそれ以上のことはありません。
だから、私以外の人が同じことをやったとしても「さっぱり良いことないし、やっぱり神様なんていない」と思い、すぐに辞めてしまうかもしれません。
しかし、人間の価値観と神様の価値観は根本的に違いますし、人間と神様の時間感覚も違えば、「ご褒美」の感覚も全く異なります。

神様は人間ではないから、神様である

まず、神様のお陰を頂こうと思い、神様のお役目を果たそうと思うならば、まずここを抑えておく必要があります。

「神示」の中で、日月神様は「この道に入ってくる者は、始めのうちは苦労する」と仰います。
病気にもなるし、怪我もする。それは、そなたたちの巡りを取ってやっているのだ」と、日月神様は語られます。
私は実際、4月にありえない溝に足を取られて奇跡の骨折をしましたが、まさに日月神示を読み始めて間もなくの頃でした。

普通なら「この神様は疫病神かもしれない、危ないから近寄らないでおこう」と思うのは当然のことです。
しかし、神示にいう「巡り」というのは、仏教的に言えば「負のカルマ」のことだと思います。
日月神様が口酸っぱく「借銭(かりぜに)を無しにせよ」と仰るのは、私たちが他の誰かや環境に対して、知らず知らずのうちに犯している罪や業をそのままに、反省や償いもなく神様の「お陰」を頂こうとするのは、物事の順序としてあり得ないことなのかもしれません。

だから、日月神示を読み始めて「良くないこと」が起こるようになったら、それこそご神徳を頂き始めている証拠とも言えるのです。
私はむしろ、最初に「借り銭」を返すために良くないことが起こることこそ「お陰様」と思っており、なぜなら「負のカルマ」の返済がとんでもなく幸せな時とか、何かと絶好調の時とかに突然起こるよりは、わかるタイミングの時に来た方が「そういうもんだ」と思えるからです。
また、おそらく神様が志ある者には色をつけて、罪状を軽くして償わせて下さっている可能性もあります。

けれど、大抵の人はそこまで達観するのは難しいでしょうし、良くないことがあって「神様ありがとうございます」とは到底思えず、信心を辞めてしまうのも痛いほど気持ちがわかります。
しかし、私たち人間に「良いこと・悪いこと」の判断はできても、自分が知らず知らずに行った言動の善悪や意味は、自分には完全に把握できるものではありません。
その価値判断ができるのは神々だけであり、神様が帳面に自分の行いをどう記載するかなど、人間には想像もつかないのです。

だから、数週間どころか数ヶ月、数年単位の信仰で「ご利益」を頂こうとする気持ちが近視的であることは頭に入れておく必要があります。
それでも、すぐに結果が出ずに散々な目に遭いながら、踏まれ続けても信心を持ち続けるのか、そこを神様はご覧になられるのだと思います。
そして、神様からすれば「ご利益」は、人間が思うような成功とか一攫千金だけではなく、おそらく「成長」という面でもたらされることもあるように思います。

実はこの「成長」こそが神様からの最大の「お陰」とも考えられ、その価値は人間にはなかなか推し量ることができません。

私たちが肉体を持つこの世界は、雑多な価値観の人間が行き交うカオスな世界です。
全く価値観も出自も異なる者同士が出会うのですから、思うように行かず衝突も別離も日常茶飯事です。
おそらくこの地上に生まれてくる前の世界、いわゆる「霊界」と呼ばれるところでは、「似た者同士」が集まるコミュニティが世界そのものを形成していて、天と地ほどの差のある人々の交流は起こり得ないがゆえに、比較的平穏なのかもしれません。

しかし、この地上世界では国と同じ規模の資産を持つ人がいて、他方では汚い水を飲むしかない人もおり、親の言う通りに勉強だけをして生きてきた人もいれば、子供の頃から銃を持ち人を殺めてきた人もいます。
そういう雑多な世界では、様々な葛藤や争いがあり、だからこそ人生には「経験」や「学び」があります。

この「学び」というのは、人間が一度生まれてきて得る教訓だけでなく、おそらく死んでから引き継がれていく「財産」にもなり得るのだと思います。
一度きり、自分として生きて得られた体験や知識が死んで消えることなく、来世再来世に引き継がれるからこそ、「悟り」や「徳」こそ財産であり、「恩恵」となり得るのではないでしょうか。

ただ、そんな目に見えない、証明しようのない「ご利益」よりも、生きているうちに目に見える形で良い思いをしたいと思うのは当然です。
だからこそ、「試練」と「成長」という形で神様がお与えになられる「お陰」というのは、それをわかった上で受けられる人ほど優先的にもたらされるように思えます。
つまり、「ツラい」と思ってそのまま逃げたりダメになるような人にはそれなりに、成長を糧にできる人間にはさらなる「成長の機会」をお与えになるのではないでしょうか。

言ってみれば「成長の機会」というのも、普通の人間からすれば「試練」とか「災難」にしか思えず、あまりについてないことばかりだからむしろ呪われているんじゃないかとすら感じてしまいます。
しかし、逆に言えば神様から見て「成長してもらえる」と思うから恩恵をお与えになられるのであり、それはある程度見込まれていると言っても過言ではないでしょう。

私が思うに、「神様はギリギリできるか、できないかわからないことをさせたがるけど、決して無茶は仰らないし、本当の無理はさせない」と感じます。
少し背伸びをさせて成長を促すのが神様のやり方なので、しんどい目に遭遇したとしても、その困難さは「乗り越えられる」と見込まれてると考えて良いかもしれません。
だから、日月神示の日月神様はそういう微妙なラインを突いてくるところが、実に神様らしいというか、「神様ってこういう方だよな」と思う所以でもあります。

そして、本当の意味での「幸福」というのも、神様と人間では全く定義が違っていて、南国のリゾート地で悠々自適に暮らすような夢を人間は理想としますが、神々からするとその人なりの「魂の充実のさせ方」に合った生き方こそ、真の幸福と考えておられるように思うのです。
だから、自分の幻想としての幸福を求める限り、神様のご用意なされた幸福を感覚的に受け取れないこともあるのかもしれません。

とかく私たちは人間の社会しか知らず、数十年しか生きない私たちの考えや価値観と、悠久の時を眺めて来られた神々との考えや価値観が異なるのは当然のことです。
私が最近思うのは「悪」と人間が呼ぶ存在も、神々からして見れば決して憎むべき対象でないのも、何となくわかる気がするのです。

私たち人間は失敗を恐れますし、迷惑をかけた人を責め、過ちを犯したことを後悔します。
それを「悪」とする私たちは、「悪」を憎むから「悪行」を退け、その行いを忌避して社会をルールで縛ります。
神示には「大神が許すからこそ、悪は世に存在する」と語られます。

例えば、人を陥れて自分だけが得をし、それをひけらかす人をまさに「悪」と思いますが、長いスパンで見れば決して「得している」とは言い切れないかもしれません。
仮に今世で満足して一生を終えたとしても、死んだ後の世界は存在しないと誰も言い切ることができないばかりか、そのカルマを背負って次の世に渡ればどうなるかも人間に予想することはできません。

また、仮に知らずのうちに犯した罪や過ちも「学び」という一つのプロセスなのだとしたら、「過ち」というのはむしろ前向きなことであり、失敗し間違いを犯すから得られる学びがあります。
だから、この宇宙において「過ち」とは「間違いを犯す自由」そのものであり、その自由を憎むべきでも忌避するべきでもなく、「成長」の上では必要なプロセスなのでしょう。

その意味で「悪」とは、「悪を犯す自由」であり、「悪行を楽しむ自由」なのです。
例えそれが凄惨でも醜い行いであっても、宇宙的なスケールで捉えれば時間と次元を超えた「学び」がそこに用意されており、その出来事に遭遇してどう考え、どう動くかは私たち次第です。
そして、私たちにそれをとかく結論づけることは、今世においてほぼ不可能です。

私が最近思うのは、この世界を作られた神が本当に「禁止」したいものはこの宇宙にすでに存在せず、これからも誕生することがないとすれば、今あるこの凄惨さはどう考えればよいのか、ということです。
ただ、もしこの世界が本当に「映し世」であり、真の世界が肉体を離れた世界にあるのだとしたら、この世界で起こる現象も人間の行いも、二次的な意味しか持たないのかもしれません。

おそらく、それを人間の頭で考えたり、第六感をフルに働かせたとしても、決して知り得るものではないのでしょう。
だとしたら、私たちにできるのは今この目の前で起きた現実が「どういった意味を持つのか」をひたすら思索し続けるしかなく、全ての事象に意味があるのだとしたら、その一つ一つに何かしらの兆候を見つけることしかありません。

例えそれが完全に把握しきることはできないにしても、私たち人間はそこに神を見て、神のご意志を読み取ることでしか、真実と向き合うことはできないのだと思います。
「どうせわからないから知らなくて良い」とタカを括るのではなく、それを真っ直ぐに見つめるから「学び」や「成長」はもたらされるのではないでしょうか。

普通の人にとって、そこまで考えるのは敷居が高いと感じられるはずです。

けれど、神様はそれを無理に押しつけることはなく、その人それぞれに応じて、少し難しい課題を少しずつお与えになられているように思います。
もし神様に目をかけて頂いているのなら、「これは神様が何を伝えたいのだろう」と思い馳せてみた時、そこから新たな学びがあるに違いありません。

もし何か災難やついていないことがあった時には、落ち込んだり神様を逆恨みする前に、その意味を冷静に見つめてみることも大切だと、私は思います。
神様の指し示す道は決して楽ではないですが、ただ苦しいだけでないのも不思議なものです。

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