招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「悪人」の正体

楽太郎です。

昨日、「神の試練を考える」という記事を書いて、「9ヶ月間神様のお役に立つことを考え、頑張ってきた割には何一つ良いことがない」と書きました。
それに泣きっ面に蜂の気分になりつつあって、スマホのバッテリーが劣化しすぎて充電できなくなりました。
まあ、ただの経年劣化なので別に神様のせいではないのですが、AppleCareで毎月580円を支払っているのに、バッテリー保証サービスを受けられる系列店舗が県内に2ヶ所しかなく、しかもどちらも1週間以上予約が取れません。

Appleはまあ、こういう企業なのは前から知ってますが、本当にここまで日本人を舐めていても我が国に莫大なフォロワーがいるのは何とも言えない気持ちになります。
第一、iPhoneの文字入力予測変換に日本慣用漢字ではなく中国語繁体字が上位に出てきますし、文字より先に絵文字が出てくるのもイラッと来ますし、いい加減なんとかならんもんかと常々思っています。

メリケンテックに対する愚痴を溢したらキリがないのでこの辺にしておきますが、海外の企業からすると日本人はこの程度にしか思われていないのが実際なところではないでしょうか。
私は近々、スマホもPCも誰もが使い続けるか悩む事態に陥ると思っているので、特にビッグテックには課金しないように心がけてさえいるのですが、残念ながら代替する製品は世界中見回しても今のところ存在しないので、型落ちのPCにUBUNTUを突っ込むのが席の山ではないかなと思っています。

とにかく「スマホが使えなくなりそう」というのは由々しき事態で、何とかAppleCareのサービスを近いうちに受けられることを願っています。
というか、月々580円を払って無料保証を受けるために電車を乗り継いで遠くの店に行かなければいけない時点で、どうやってもお金を使わなくてはいけないのは腑に落ちません。

私のケチなところが出てしまって、愚痴が止まらず申し訳ないです。
こういう、小さいところのストレスさえどうにもならない現状、神様の「お陰」というのは感じにくいのも現実です。
ただ、神様が加護を与え、いくら導いた上で恩恵や祝福を与えようと、瑣末なストレスまで綺麗さっぱり無くしてあげる道理はなく、そこまで期待するのは甘えなのでしょう。

こういったイカサマが今の世の中には横行していますが、ジワジワと雰囲気が悪くなっていく世の流れも、神々のシナリオの一部だと私は思っています。
世の中がまるで漫画に描いたように極端な悪化を見せれば、さすがにどれほど鈍感な人でも問題意識を持ち始めます。
これまでの人の歴史は、そういった意識による反動が世の中を動かしてきたのです。

そして、「世の中を悪くする人たち」というのも、神々からすれば「世を悪くする」という密命を持った人々なのだろうと思います。
おそらくこの世の「悪」というのは、悪を行うことで現世で利益や願望を実現する代わりに、負のカルマを一身に背負う役割を担っているのではないでしょうか。
だから、今世では何の疑問も反省もなく良い気持ちで一生を終えたとしても、死後の世界や来世ではどうなるかはわかりません。

この世に、もし世の中を良くするために犠牲になる人がいるのなら、彼らは世を悪くするために犠牲になる人たちなのかもしれません。
だから、「悪人だけが得をして、正直者はバカを見る」と思うことも、実は平面的な見方に過ぎないと言えます。
かと言って、「犠牲」という概念が現・幽・神界を通して存在するのかも判断がつかないのですが、私は「悪人」も実は神性が強い傾向があるのではないか、と薄々感じているのです。

聖書的な解釈をすれば、悪魔の王サタンは元々、神に最も近い天使だったルシファーとされ、神性が強かったがゆえに闇堕ちした後はとんでもない悪意の権化となったのです。
私の記憶を顧みれば、中学時代にグレ始めた人は小学校まで良い子だった人も多かったように思いますし、社会人になっても闇堕ちする人は元々真面目な人ばかりでした。
私にもグレていた頃はありましたし、その頃の感覚を思い起こせば、自分の正しいと思う価値観が周りに悉く否定され、自分でも矛盾を感じていたからこそ、その怒りの矛先を探していたのです。

私はいわゆる厄介な人々とも渡り合った経験があるので、「悪人」や「悪意」というものがどういうものかは手に取るようにわかります。
それどころか、つい最近までガチの邪霊や悪魔とやり合っている自覚があったので、「悪」がどういう性質の存在であるかは重々承知していたりします。

その見解に基づけば、彼らは「悪意」を持って「善行」を実践しています。
つまり、他人を貶めたり傷つけて潰したり、社会的地位を剥奪したり人権を叩き壊すのも、破壊や破滅的行為によって自己主張をしたり、「世を変える」という正義に基づいていたりします。
だから、一般的な「善行」という解釈から真逆の行動を彼らは「正義」と思っているだけで、彼ら自身は彼らの世界の「善人」なのです。

そこでは、他人を欺き陥れて満足したり、誰かを誹謗中傷したり嘲笑するのも、「一汗かいて気持ちがいい」程度の感覚なのです。
その様子を私たちが見れば何ともおぞましく感じますし、その異様さを醜いと感じ、社会的な損失を考えれば彼らを憎む気持ちも湧いてきます。

しかし彼らが純粋に、「善悪」の定義が違うだけの「善人」であるとすれば、極端な意味での「多様性」とも言えるのです。
私が先日のブログで「悪を犯す自由と、悪行を楽しむ自由がある」と書いたのは、その考えに基づきます。
その「悪」がこの世に存在を許されているからこそ、彼らの行いを見て考え反省し、世の中の「悪」を取り締まり、調和の取れた平和な社会にするための意義を悟るのです。

そして、彼らが行う「悪」がこの世の大正解であるはずはなく、調和や均衡を乱して破壊をもたらすことは、いずれ自身の破滅を招きます。
見える場所を手当たり次第に「焼き畑」すれば、どこも不毛な土地になり、いずれ自分が飢えて死にます。
ただ、そうなることを考えられないのが「悪」の限界であり、むしろ彼らを導いて生きられるようにするのが本当の「善」というものではないでしょうか。

「日月神示」には、そのお考えが滔々と述べられており、それが「悪を抱き参らせる」ということです。
悪を滅ぼそうと攻撃すれば、かえって反撃の応酬となり、犠牲への憎しみからどちらか一方が滅びるまでやり尽くすしかなくなります。
しかし、その記憶がまた別の悪意を生み、だからこそ争いの因果は連鎖し続けてきたのです。

ゆえに「善」とは悪を滅することに本質があるのではなく、「悪」という存在を認めた上で共存の道を模索し、まして「悪人」が生きながらえる道を示してあげることです。
そこまで「善」に徹するからこそ、その懐の深さと強さと賢さの前に平伏し、「参りました」と言わせることができます。
私は、これが「悪を抱き参らせる」ということの意味ではないかと思います。

もし「悪人」の本性が「善人」であるとすれば、悪人であればあるほど改心した時の反動は大きいのかもしれません。
私が見てきたヤンキーや性悪人間というのは、やはりどこか繊細で、感受性が豊かだから返って傷つき、自分を大事に思うから反発する力が強くなっていったように思います。
ただ、そういった弱さや疾しさは、闇の存在にとっては恰好の依代となるのです。

凶悪犯罪者ほど、どこか「人間らしさ」を感じない、サイコパス傾向が強いのは、彼らが実際に「人間ではない者」と感応するからであり、極悪人に人間味を感じないのはそういうことだったりします。
だからこそ心の迷いを晴らし、正直に親切であろうとする心持ちというのは、それだけで「魔」を祓い悪を遠ざけるのです。

そして人間に幸運をもたらすのも、「魔」を祓い厄病を寄せつけないために「信仰」というのは大事で、「神も仏もいない」という荒んだ気持ちが闇の存在を惹き入れてしまう要因になってしまいます。
私が思うに、「信仰心」と「善」はセットであり、ただ信仰心とは、必ずしも毎日神棚に手を合わせるようなことを意味しません。
「目に見えない存在や人の心」を大事にする感覚こそ神の心であり、その感覚と繋がっていれば例え儀式を伴わなくても信仰は可能なのです。

そして、「神の心」と繋がっていれば自ずと「善」が何かもわかってきます。
全て「目に見える世界が全て」という荒んだ感覚から悪が始まっており、しかし目に見えない世界を想像するのは、心身共に健康さや余裕が必要だったりします。
ゆえに貧しい人が犯罪に走りやすいのも当然の話で、お腹が減っても神様では満腹にならないからです。

私たちは「悪」を憎むがあまり、「悪」を知ろうとしません。
知らないからこそ先入観が膨張し、ますますあり得ない悪人に見えてしまいます。
けれど、意外と会って話してみたらイメージと違ったり、向こうには向こうの事情があったりするのです。
だから、まず相手を知ろうとする努力なくして、「悪」の真の退治は行えません。

前回の記事にも書きましたが、「悪を犯す自由」とは「間違いを犯す自由」であり、「倒錯する権利」でもあります。
厳密に言えばそれこそ「多様性」であり、多様性を謳う人々が特定の価値観を徹底的に弾圧するのも、多様性の一部として認めなければなりません。
そこで矛盾に歯を食いしばりながら、滔々と正論を吐き続ける胆力があってこそ「善行」は全うできるのであり、絵に描いた勧善懲悪では片手落ちなのです。

また、将来的に悪人が良心と知性に目覚め、自らの行いを省みる自由も権利も保証されなければなりません。
そこまで考えられるほど「善」は大人になる必要があり、懐深く気高くなければならないのです。
そこまで行けば聖人か天使かという印象ですが、実際のところ、そうでもない人間が人の生命を裁いてきたのも現実です。

私たちにとって、「善悪」を定義するものは何なのでしょうか。
そして、「悪人」の幸福はどこまで認められるべきなのでしょうか。

悪が悠々とのさばる時代だからこそ、むしろ私は「善」の側にそう問いかけたいのです。

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