招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「神」について

楽太郎です。

本ブログは、もともとスピリチュアルなテーマを扱う目的で開設しました。
私の本業は絵描きですし、言説とはあまり相性の良くない職種であるため、完全に身元を隠してやっていくつもりでした。

しかし去年の年末にインスピレーションを受け、「瀬織津姫命」のイラストを描いてブログに投稿したのをきっかけに、少なくとも本業に関しては明かさなくてはいけなくなりました。
絵描きというのは世間的には花形の職業ですから、本ブログでも長文の記事よりイラストや漫画を掲載した方が上手くいくでしょうし、実際その方が更新を楽しみにされる方も増えると思います。

私も実はそうしたいのも山々で、絵を優先できれば自ずと生活は充実していくはずです。
しかし、私自身は神様のお導きを受けているという自覚はあるので、その優先順位に従えば「絵や漫画は最後尾」になってしまいます。
だから私も正直、苦虫を噛み潰す気分で一つ一つの行動を決めているのですが、自分の創作を最優先にしたい気持ちとお導きの内容との食い違いには、葛藤すら覚えます。

私が優先的にしなければいけないのは、このブログを利用した啓蒙活動と霊的な修行のようです。
本ブログはバズるとか話題になるという枠組みを目的にしておらず、縁ある少人数の方々にインスピレーションを配れたらいいなと思ってやっています。
その縁ある人というのは、おそらく神々が引き寄せた人たちで、そこで起こる気づきに何らかの霊的な意味があるのだと思います。

今は肌感覚でも霊感的にも、世界は重要な局面にあると感じていて、神のお導きを受けるタイプの人というのは時期的に、何らかの霊的なミッションに重点が置かれているのではないでしょうか。
夏至で「精神界」という地球意識の気場が完成し、その稼働が始まっていく中でやはり妨害も苛烈になっていますし、その一つの手段として混乱を誘発するような仕手も激しくなっています。

ライトワーカーにはそのお役目も与えられている時期であり、尚且つ地球の次元上昇に貢献する人たちなので、自分自身の霊的な浄化と成長も同時に促されているように感じます。
だから思うように身動きが取れない時期なのは、霊的なシークエンスが優先されているからで、「今はそういう時期だ」と考えるしかありません。
冷静に考えて、人類と地球の命運を左右する時期にイラストだ漫画だと頭を回す時間は、確かに優先順位は低くなるかもしれません。

私も「お前は何をやっているんだ」と思われているのは、重々承知しているのです。

けれど、この世界は人間が思うよりずっとシンボリックな世界で、言ってみれば「呪術的」なのです。
天界や霊界が地上世界と連動するためには、この世で「現象」というシンボルが動くことによって意味づけが行われ、そのロジックが上の次元に反映していきます。
反対に、天界や霊界から物事が地上に降りる時には、神々に意味づけされたシンボルが地上世界に現象を起こすことで、地上に高次元の意志が反映されます。

つまり、上位世界と地上を繋げるには「儀式」が必要で、それは実際に神棚を拝むとかペンタクルを描くとかいうことだけでなく、霊的に意味づけされた手順を現象化することを意味しています。
その「意味づけ」を与えるのは人間より上位の世界に住まう存在であり、そのロジックは人智を超えているため普通の人間の感性では理解が及ばないでしょう。
ゆえに、側から見ても自分自身からでも、「何をやっているんだ?」という感覚を覚えるのは自然なことで、けれども霊的なトリガーを引かなければ天界の意志は地上に降りてこないので、不思議なことをさせられている気分になるのです。

正直言って、人間として常識人であればあるほど、このナンセンス感に疑義を覚え、耐えられない人もいるでしょう。
そうした「常識人」は人間社会の枠組みに適応しきった人が多いので、その分目に見えるものに思考を委ねる傾向があるように思えます。
それを乗り越えて「目に見えない力」を感じて動くには、やはり常識を捨てなければならない部分もあります。

ここで言う「常識」とは、唯物論を中心とした科学と社会経済の枠組みの思考であり、それがあるから宗教も神秘も胡散臭く見られる原因を作り出してきたと言っても過言ではありません。

現代は、人類史上かつてないほどの「無神論」の時代です。
例えば、昔は河川が氾濫すればどうしようもない災害となったので、祠や神社を建てて神様にお祈りをしていました。
しかし治水技術が発達し、土木工事が機械で行われ完璧な護岸工事がなされることで、神仏に願わずとも人間の力でどうにかできるようになりました。

そうすると、訳の分からないところに立っている古いお社は、土地の無駄だし取り去ってしまおう、となるわけです。
そうして人々の記憶から祭祀の意義は消え去り、意識から神々への祈りは薄れていきました。
受験も恋愛も叶いにくいので神様にお祈りはしますが、スマートデバイスやお金やルックスがあれば人間社会で叶わない願いは殆どありません。

人間が人間に頼れば全ての願望が叶う世の中になったから神は不用となり、目に見えない存在が嘲笑われる世となったのです。
しかし、人間が用を足せれば神の手が必要なくなっただけで、神々の存在が消えるわけではありません。

「神はいない」と人々は思います。

現に神仏にいくら願掛けをしても叶わないこともあり、いくら善良に生きていても悪魔のような連中に踏み躙られて終わっているではないか、と。
確かにそれは一理ありますし、私もかつてはそう思っていました。
しかし、神とは「人間」ではないので、人の世の価値観や論理をそのまま高次元の存在に当てはめて考えるべきではありません。
神というのは、人間ではないから神なのであり、人間の期待や幻想を叶えるために存在するわけではないのです。

神は、霊能力がある人でも知覚するのは難しいと言われます。
人間が幽界にいる不浄霊や霊界からの存在を感じ取れるのは、地上にある程度近く低い次元に現れるからです。
神々はそれよりも高い次元にある存在なので、人間からしてみればより抽象度が高くなります。

つまり、地上世界と神々との間の次元的な隔たりが大きく、神の波長が高すぎるがゆえに世に現れにくいと言えます。
では、神々がもっと姿を現せば人間は信仰心を持ち神々の言うことを聞くのに、なぜそうなさらないのでしょうか。
私が思うに、神々は人間と隔たる状況をわざと作り出し、あえてそうしているのだと思います。

「神が存在しない」かのように見えれば、神の存在について人々は疑心暗鬼になります。
誰もが確信を持てなくなるのを利用して、逆に神が存在するかしないか判断できない微妙な立場に、むしろ人間を置いているのです。
その環境に置かれた人間は、自分の経験と思考を元に神が存在するかしないか判断しますが、神々はむしろそれをご覧になられているのでしょう。

つまり、それが神々の基本的なスタンスです。
そうして心から神を信じるか、目に見えるものよりも目に見えないものを大切にする心があるのか、人間を試されるのです。
そして、それでもあえて神を信じる者を選り分け、深い信心を持つ者には神の恵みを与えます。

そうするのは、人間という存在が「目に見える世界」への執着から離れ、「目に見えない存在を信じる」というプロセスに至ることが魂の成長であるからです。
つまり、「信仰心を持つ」こと自体が人間として一段上のステージに上がることを意味するのです。
それが人間がこの地上に生まれてくる一つの目的であり、それを身を持って知ることが魂の成長になるのだと思います。

この一連のプロセスは、普通の人間には高度すぎて大抵は理解できません。
そんなことより、新しいゲームを買って遊んでいた方が楽しいですし、お金を稼ぐために頭を巡らせた方が実際に得です。
しかし、なぜ人間がこの世に生まれてきたかと言えば、理不尽なことだらけの地上世界で「人間」としての体験を積み重ねることで「人生」を知るためです。

この世には不遇にも早逝する人もあれば、何の苦労もなく一生遊び倒して死んでいく人もいます。
人間心からすれば不公平に見えますし、不公平であるがゆえに「神も仏もない」と感じます。
それでも、それぞれが一つの人生にテーマがあり、その課題を履修して命を終え、魂はまた次の学びへ向かっていきます。
その本当の意義は、普通の人間から見てわかるものではありません。

これが「輪廻転生」と言われるものです。

そして人生というのは、同じことを繰り返してもあまり長く続きません。
いくら遊び倒していても、怠惰な生活を送っていても時代的にいつか終わりは来ます。
今は社会的に成功していても、いつ転落するかわからず市場も経済も様変わりしていきます。
まだ若いと思っていても、いずれ歳を取り「ああはなりたくないな」と思っていた老いに一歩ずつ近づいていきます。

人間は自分が思う以上に儚く、一生なんてあっという間に終わります。
自分の肉体は永遠に維持したいと思いますが、身体はすぐに衰え傷つき病むもので、基本的に使い捨てられる運命にあります。
その宿命を人間は受け入れがたいがために何とかしようと努力しますが、宇宙の摂理には抗えません。

人間にしろ電化製品にしろ、新しいものは何でも新しいうちは良いのです。
しかし、経年劣化するのは宇宙の法則で、古くなれば壊れて使えなくなっていきます。
ただ、古くなっても変わらない部分があるとしたら、それが本質というものです。
そして、時間と共に味わいが出て、古くても良いのが「本物」です。

現代人はなかなかこの論理に気づかず、納得できないのです。
常に新しいモノ、新しい刺激を求めてそれに時間も興味も使っているからこそ、「不変」というものに気がつきません。
そして「普遍であり不変」であるのが神であるからこそ、儚く移りゆく人間の心には理解が及ばない存在に見えてしまいます。

今の人々は、科学技術とお金があれば何でも願いが叶うと思っています。
しかし、水田に水が張れなくなるほどの今夏の日照りについて、人類としてなす術があるのでしょうか。
そもそも、降雨も山からの湧水も人間の手が一つも及ばないものを、人間は当然の如く享受していながら、自分たちの思うようにはできないという限界に気づいていません。

中国のように日本も降雨ロケットを飛ばして、この夏の日照りを解消するべきなのでしょうか。
こういう時に昔の日本人なら、雨乞いの儀式をして神々にお祈りしてきました。
それで実際に救われてきたからこそ、何万年も「信仰」という文化は絶えなかったのです。

何が変わるべきで、何が変わるべきではないのか。
何を変えるべきで、何を変えてはならないのか。

その答えの先に、神様はいます。

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