「悪霊」の正体 Category:神世考察 Date:2025年07月25日 楽太郎です。 ここ数日、家庭が少し荒れていました。 父はわりと我良しでマイペースな性格なのですが、ここ数日はまるで人が変わったかのように怒りっぽくなり、同居している母にも当たり散らすようになっていました。 私も特によくわからないことをしながら実家にいるものですから、父の心象が良くないことも知っているのですが、それにしては機嫌が悪すぎるのです。 あまりにも近寄り難いので理由も聞けずにいたのですが、父の後の風呂に入った時、妙な体臭があることに気づきました。 これまであまり嗅いだことのない匂いというか、魚のような生臭さで、汚い水の中に生息していそうな生き物の匂いがしました。 私はこれを嗅いだ瞬間、「人間のものではない」と気がついて、どうやら父の豹変は憑依によるものではないかと考えるようになりました。 だからこの数日はどうにか人知れず父の除霊を試みていたりしたのですが、ようやく問題はそこにないことに気づきました。 というのも、別に父の機嫌が悪いくらいでは慣れたはずなのですが、今回に限っては父と自宅にいる間は首肩が異様に凝るし頭も痛くなってきます。 つまり霊障が激しくなるので、どうも父を中心として邪気が降りかかってきているのです。 だから何とか父を祓えないか色々やってみたのですが、どうやらこの霊障は「巡り」つまりカルマ、因果応報であることがわかりました。 私の話をすると、思春期の頃に父との関係は最悪でした。 当時は反抗期でしたし、私も少しはグレていた部分もあったので父に対する風当たりは相当強かったと思います。 子供ながらにテコでも動かない父の鈍感さには腐心していましたし、全く心が通い合わない親子関係だったので、正直言うと父のことを「呪って」いたのだと思います。 私も母も潜在的に霊能力があるので、そういう人間が人を恨むと呪力も強くなります。 父は根っからカラッとした性格の人なので、ネチネチ腹を立てることはあまりしないはずですし、この種の憑依が起きたのも私たち母子と長年暮らしているうちに憑依体質に変化したのだろうと思います。 父に取り憑いているのは「蛇(オロチ)」の邪霊で、生臭い体臭も爬虫類系の霊による性質だと考えれば辻褄が合います。 それが私が父にかけた呪いとどう関係があるかと言うと、この「蛇」というのは私から発せられた呪いそのものであるということです。 つまり、私が過去に父にかけた呪いが憑依という形で「巡り」となり、私に降りかかってきたのです。 どうもカルマや因果応報としての「巡り」というのは、宇宙法則なので神にも捻じ曲げられません。 いくら神仏を慕い加護を受けていると言えど、宇宙法則が優先されるので言ってみれば「カルマはいかなる守護も貫通する」のだと思います。 だから、最近の霊障が何となく祝詞やお経が通じないのも、自分の放った邪気が自分に戻って来ているだけだとしたら、加護をすり抜けるのも理解できるのです。 私は確かに昔からロクなことをしてこなかったのは認めているので、何が返ってきてもおかしくないな、と思います。 それはとても反省してますし、だから父に与えた呪いが今の自分に返ってくるのもしょうがないと思うしかありません。 おそらく、しばらく経てば父も元に戻るでしょうし、親子関係も自然になると思います。 だから心配はしていないのですが、それまで自分の発した呪いを甘んじて受け続けなければならないという期間を過ごすことになりそうです。 霊的な解説をすると、この「蛇」というのは実在のヘビとは実際に繋がりはないと思います。 生き物としてのヘビは確かに霊性が高いのは事実なのでしょうが、ヘビそのものに悪霊の性質がある訳ではありません。 それで言ったら悪霊の化身とされる「狸」や「狐」も実際に悪い動物になってしまいますが、全くそんなことはないのでイメージが実在の生物に当てられているだけでしょう。 ただし、「蛇的な性格」の死霊がどんどん動物性を増していけば、実際の蛇の霊も取り込んで半妖となっていく場合もあるかも知れません。 大抵の「動物霊」と呼ばれるのは元は人間で、動物的性質と深く感応すれば動物に限りなく近づくこともあるのではないでしょうか。 私がよく引用する「日月神示」にも、邪気邪霊の類として「蛇(オロチ)」「金毛(※狐のこと)」「邪気」と三つの分類が示されています。 以下に写真を示しますが、私が愛用するルノルマンカードには「蛇」「狐」「鼠」のカードがあり、それぞれが日月神示の三分類に対応しています。 ルノルマンで私が占う時にはこれらのカードが危険を知らせるので、身を守る役に立っています。 体感的に邪霊の特性で言うと、「蛇」は憎悪と執着です。 かなり粘着した強めの邪気なので、身体的な攻撃性は高いです。主に腹に留まって長期間悪さをします。かなり感情的な念が強くあまり理屈が通じません。 より本能に近い悪感情を元にしているので、人間的な心を持っておらず、その辺が実に爬虫類的です。 これが「お金」や「名誉」に対する執着と出たら、俗に言う「レプティリアン」みたいな人格になるかもしれません。 「金毛(狐)」は、嫉妬心が強く野心的で、巧妙な悪意を働かせます。 よく「狐に化かされる」と言いますが、金毛は人を欺き誤解させ、時によっては無関係な者同士を同士討ちさせたりします。 おそらく悪霊自身はそれを見て嘲笑っています。それほど悪質なのですが蛇ほど攻撃性は高くなく、どちらかと言えば享楽的です。 SNSとかで人を釣って楽しんでいる系の人のイメージに近いです。実際、この手の憑依にかかって世を掻き回しているインフルエンサーは多いと思います。 この悪霊は肩首周りから頭部に感じやすいです。後頭架筋あたりを狙ってより内部に入って来ようとします。 ルノルマンの「鼠」に関しては、ほぼ霊体としての実態はないか弱すぎて形を成していないケースが多いのではないでしょうか。私はそのまま「邪気」と読んでいます。 「邪気」とは、陽気陰気とあるように攻撃性が高い負の念です。これは悪霊に限らず残留思念や気場にも現れて、人々の感情を「何か嫌な気持ち」に誘います。 その「嫌な気持ち」に引っ張られて、人間は妙な反応を起こすようになります。 その場所を避けたり、人を嫌って非難したり、虐めたり喧嘩を売ったりしたくなるため、このエネルギーの影響を知らずのうちに受けている人が多い印象です。 「鼠」と出るくらいなので、チーズをちょこちょこ齧るようにエネルギーを少しずつ奪っていきます。 大意は感じないのですが、小さな搾取も重なれば損害になってくるので、やはり対応はしなければなりません。 私にとって邪気は肌で感じることが殆どで、主に身体現象として現れます。 手足の痺れや肩凝り、頭痛や冷や汗などの症状になりやすいので、私はずっと病気持ちなのだと思っていました。 これらの邪気が好き勝手に動き回るには、唯物史観の世はさぞかし居心地が良かっただろうなと思います。 お釈迦様が悟りをお開きになる直前、「第六天魔王」という仏魔が誘惑をして悟りを妨げたと言います。 仏教には「天魔」という概念があり、仏道に試練を与える存在として「魔」が定義されており、世にある邪悪や欲望は悟りの境地に強く立ちはだかるからこそ、より強い信心に至るのだと教えます。 私はこの考えこそ「日月神示」にも示されている「悪」の定義そのものであり、全てが全宇宙を支配する大神の一存であるからこそ悪も必要なものとして存在しており、善一方では成り立たず、それゆえに「善と悪とのあなない(和合)」が必要であると説きます。 私たちは邪気邪霊の類は消し去ろうとしますし、悪もこの世から滅ぼせば平和になると考えます。 しかし、悪は「必要悪」だから宇宙の秩序の一部として存在するのであり、決して憎むべき存在だからこの世の悪を糺す必要があるのではないと思います。 日月神示の中では、「悪が表に出るのが良くないのだ」と言います。 確かに、指定暴力団が芸能界や繁華街などで融通を効かせる分には「龍が如く」の世界だと思えますが、メディア系企業と手を組んで仕掛けるようになってくると、世の中の露悪性は一気に高まるでしょう。 今の日本も世界も、社会の露悪性の高さは皆薄々わかっているのだけれど、そこに資本と権力が集中するから誰もが黙って従わざるを得ない世の中になっているのです。 悪が表でも裏でも、融通を効かせまくっているから問題になるのだと思います。 ちょっと危険な話が続きましたが、そろそろまとめます。 私が思春期の頃に父にかけた呪いは、「蛇」の様相を呈して私に返ってきました。 呪いとはカルマであり、自分が招いた因果応報であるので信仰も加護も素通りします。 それは甘んじて受けるしかなく、ただ自分が反省し懺悔する以外には早く消し去る方法はありません。 こう言った邪気邪霊が私に襲いくるのは、一重に私の心に同じ火種があるからです。 火種も煙も外にあるものだと思いがちですし、実際に外でこれらの現象はよく見られるので自分の中にはないと錯覚します。 ただ火のあるところに煙は立たず、自分の火種と外にある火種が同じ系統のものだからこそ、自分の心にも煙が立ち、火種も煙も外部の延焼を呼びます。 自分の中に蛇や狐や鼠の心があるからこそ、彼らがやって来ます。 従って、その火種を綺麗に消し去れば煙も立たず、心の中にある蛇穴も獣道も塞いでしまえば入って来れません。 これが「自己浄化」であり、神道で言う「祓い清め」であります。 「祓い」とは、「神様に邪気や邪念を取り去って頂く」ものであるとされ、外部的な働きになります。 一方「清め」とは内部的な働きであり、自分で行うものとされます。 身体は自分で洗わなければ綺麗にならないように、自分で心を禊がなければ浄化できないのです。 ゆえに「祓い清め」というのは、神職さんに大麻を振ってもらうだけでは成就しません。 この真の「祓い清め」を、現代では誰もが行おうとせず、自分で自分を清めなくなってしまいました。 一人一人が邪気邪念を祓い清めなくなったことで、その悪感情は伝染して世に蔓延していきました。 おそらく、その一端が今の世に現れているのだと思います。 世に罪穢れが満ち、神々の祓いも願われなければ行われないものであるが故に、自然現象の中での浄化作用では追いつかなくなったのです。 だからこそ、祓いを神様にお願いするだけでなく、自分で自分を清める努力も必要です。 私だけでなく、誰もが自分で自分の汚したものは拭き取り、出したゴミはきちんと片付けなければなりません。 それは面倒くさくて自分が汚したことに後悔もするのですが、それと向き合わなければ負のカルマという借金をチャラにはできません。 貯金は借金を残したまま蓄えることができないように、おそらくカルマも幸運もそういうものなのだと思います。 悪いカルマを返済し終えた暁には、きちんと良いカルマが蓄積される仕組みなのだと思います。 それがわかる以上は、涙を流してでもコツコツ返していくしかありません。 PR