変革の風を起こす
- Category:神世考察
- Date:2025年02月10日
今朝、散歩していたら川に白鳥がいました。
この白鳥は、数年前から一匹でこの川付近に棲みついているようです。
私はその子を見るたび、「寂しくないのだろうか」と思います。
ただ、鳥たちは人間のように遠慮しながら生きる動物ではないので、何の不満もないのかもしれません。
時折、鷺や鴨たちと一緒にいるので、寂しくはないかもしれません。
鳥たちは他の種族でもこうして群れて共存できるのに、肌の色や生まれが違うだけで分かり合えない種族もいるのは、皮肉なことです。
川辺で、鴉が餌を探していました。
鳥たちは、餌を探す行為を「生きるために仕方ない」とは思っていないでしょう。
「生きることは義務だ」と思うような生物は、そもそも長い淘汰の中で生き残ることはできなかったはずです。
人間以外の動物は、自分が生きること自体に目的や喜びを見出し、その行為を面倒くさがることはないでしょう。
しかし、人間は違います。
ものを食べるために、家賃を払うために、やりたくないことをしたり、死なない選択をするために、仕方なく毎日を生きていたりします。
そうやって自分たちの社会を生きづらいものにした結果、子供たちが減り若者たちは活気を失い、自分たちではどうしようもなくなってしまいました。
その穴を埋めるために外国人を呼び込み、日本の文化や国土を投げ売り、日本人は米も満足に食べられなくなっています。
私は、もうこのまま行くところまで行くのだろうな、と静観しています。
この世には、「禍事」が浄化という形で溢れています。
人々はまだ、世の中が選挙一つでひっくり返るとか、アメリカの大統領が諸悪の根源をぶっ潰してくれる、そうすれば全てが良くなると思い込んでいます。
噴出する世の悪事を正義感で叩いていけば、いずれ世の中は正常になり、発展する社会に戻ると信じています。
しかし、私からして見れば、そうならないのも神様のご計画の一部です。
神様は、仏教に「天魔」という概念があるように、悪魔意識を巧みに利用されているように見えます。
日本の新紙幣は、私は始め「持ちたくない」とすら思いました。
あれは、日本人の価値観に背くデザインだと思いますが、あのセンスの悪さが逆にお金に対する執着心を阻害する効果があるかもしれません。
それを狙ったのなら、あえて良くない波動を紙幣に込めたことで、人々の意識は変わざるを得ないはずです。
この場合、日本の金融を牛耳る権力集団の悪意を逆手に取った、神々の奸計であるとも言えます。
同時に、世のスキャンダルはわかりやすい形で炎上します。
大衆は自らの正義感でこの問題を叩きますが、その「正義」も「悪意」も神様は禍事に使っておられるように思います。
そこには、あらゆるタイミングの一致や偶然も関わっているように見え、それらが噛み合うことで社会の禍事が顕在化しているように見えます。
つまり、人間社会で起こる「禍事」は、「悪意」「正義」「偶然」という三つの要素を歯車にして噴出しています。
神様がお力を示される時は、主に自然現象や偶然が多いのですが、時に人間の心も利用されます。
もちろん本人の自由意志でしょうが、そう仕向けることは神様なら可能なはずです。
そうして、人間界の禍事と浄化は、あくまで人間同士の次元で起こし、解決させようとしている気がしてなりません。
これから時代が変わり「神代」になる前提の話をすれば、私は人世の崩壊時には明治維新や戊辰戦争のような内戦もありうるのではないか、とかつては思っていました。
しかし、神様と繋がり神様のお顔を伺う限りは、より文化的かつ合理的なイノベーションによって世を塗り替えていって欲しい、と思われているように思えてなりません。
それは、これからの世に勝海舟や西郷隆盛が必要というより、むしろ福澤諭吉や渋沢栄一のような実業家に世の変革を担ってもらいたいのではないか、と思うのです。
神様のお力なら、自然の力を利用すれば諸悪の根源を物理的に抹殺することは容易でしょう。
しかしそれをしないのは、神の力だけで人の世界を変えることに意味がないからではないでしょうか。
神様は、人間が自分たちの力で変化を起こし、世を立て直すことが必要なプロセスだと考えておられるのだと思います。
人間がどういう世界が新しい世界に相応しいかを考え、その目的のために自分たちで社会を変えていく、その手順を踏まずして神代は訪れないということでしょう。
だから、多少醜い争いや汚行に心が磨り減ろうと、それに目を背けず、人間たちが自分たちで社会をどうしていくかを考えなければならないのだと思います。
今日、アップされた「日月神示」の朗読動画で、興味深い一節がありました。
日月神示・梅の巻「第十八帖」 | シンジツヲツナグ
おそらく著作権侵害には当たらないと思うので、ここに本文を転載します。
第18帖
「自分で自分のしていること分かるまいがな、神がさしているのだから人間の頭では分からん、仕組み通りに使われて身魂の掃除の程度に使われて、使い分けられているのじゃぞ、早く人間心捨てて仕舞って神の申す通りに従って下されよ、それがお主の徳と申すものじゃぞ、一家の為めぞ、国の為めぞ、世界の民の為めだぞ、天地の御為めだぞ、今までに無かったこと今度はするのじゃから、合点出来んのも道理じゃ、道理じゃ、始めは戦いで争で世の建て替えする積りであったが、あまりに曇りひどいから、戦ばかりでは隅々までは掃除出来んから、世界の家々の隅々まで掃除するのじゃから、その掃除中々じゃから、戦許りでないぞ、家の中キチンと食物大切にするのが、開の御用と申してあろうがな、今度の岩戸は、開っぱなしじゃ、褌要らんと申してあろう」
この節に日月神様や日本の神々の温度感が集約されていると思います。
神様は、人間を間引いて世を変えるおつもりというより、命までは取らずとも人間に心を改めて貰えたらそれが何より、と考えておられるのだと思います。
だからこそ、神様は文化的、精神的な面で、平和的に平和な世を作っていって欲しいのだと思います。
神様が私に「闇の勢力と戦え」と仰らない理由の一つであり、それは人々の心の変化で起こせるものだからだと思います。
神代は、神様の愛と人類の友情で繋がる世界であると私は思っています。
だから、心で世の中を変えていく、それが全てではないでしょうか。