招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

愛と感情の歯車

楽太郎です。
今回は、「感情」についての話をします。

私は昔から、集団行動が苦手でした。
別にそれは私が周りに合わせられないから、という理由だけではありません。
多人数の中にいると、色々な念や気を浴びることがストレスになり、緊張して混乱したり疲れてしまったりしたからです。
よく考えれば、私は幼少の頃から少人数に溶け込むのは平気でも、幼稚園がすごく苦手でした。
その頃から頭痛持ちで、騒がしい群衆と関わることにいつも不快感を抱えてました。

私は今になったからよくわかるのですが、それは霊感、霊媒体質によるもので、外部のエネルギーの影響、言うなれば邪気を受けすぎるのだと思います。

若い頃はそれを「弱さ」だと信じ込んで、気合いと根性が全ての業界で叩き上げを経験しましたが、最終的に心身が壊れてしまいました。
結局、それはどうにもならない感受性であったと気づくまで、恐ろしいほど時間がかかりました。

今でも、街を歩けば負のエネルギーを拾ってしまいます。
特に今は、街の沈み方が異常です。
良い気分で外出しても、街の重苦しい気を受けて落ち込んで帰ってくることもしばしばです。
人が歩かなくなった地元の街を見ていると、昔の賑やかな風景を思い出し、「どうしてこうなったのか」と知らずのうちに考えてしまいます。

その感情は、何だかんだ言ってこの街が好きだったからです。
頭では仕方がないとわかっていても、まだ心の奥底では納得ができないのです。
人の暗い念や重苦しい気を受けるのは、私が感じすぎる以上に、人の苦しむ姿や落ち込む姿を見ると共感してしまい、周波数が噛み合ってしまうからです。

これまでHSPとして生きてきましたが、他人をあえて見ないとか、他人のことをわざと考えないようにすることで、多感さを埋め合わせていました。
けれどその生き方では四面楚歌に追い込まれるだけで、結局は自分らしくあろうとするなら、この多感さを受け入れなければなりませんでした。

今改めて思うのは、感受性に蓋をすることはできても、性質を変えることはできないということです。
そう感じてしまうのは仕方ないし、その感じ方のせいで不安になったり怒りを覚えたとしても、それも仕方のないことです。

感じやすいという性質を変えることはできないとしても、感覚から湧き上がる感情を何とかすることはできます。
感情は自分の意志で抑えることも、考え方や捉え方を変えることで感情そのものを変えることもできます。
それは簡単なことではありませんが、自分の素直な感覚を否定せずにうまく生きていくには、その方法を取るしかないと思います。

私が不安や怒りに押し流されそうになるとき、自分のロジックも妄想的になっていることに気づきます。
「今、自分はすごく感情的だ」と思うだけでも、今の状態を俯瞰して見ることができます。

大抵、人間の感情が揺さぶられる時は、自分の思い込みが揺さぶられた時です。
以外と、怒りや不安の根底にあるのは、現実を受け入れられない悲しみであったり、愛情を感じていたゆえの悲しみであったりもします。

私は人間の感情は全て、「喜び」と「悲しみ」という原始的な感情から派生したものだと考えています。
悲しいと感じる出来事に呼応して、防衛反応として不安になったり怒りを覚えたりするのだと思います。
同時に、喜びは自分が生きていく上で有利になる、人から認められたり報酬を受けたり、美味しいものを食べたり笑ったり、生を加速させるために湧き上がる感情です。

この喜びをもたらすものこそ、「愛」だと思います。
神々や自然がもたらす恵みも愛と言えますが、人が自らの生を尊重され、思いやりを受けて大事に生きていける、その環境を媒介にするのが愛ではないでしょうか。

ただ、愛は単なる感情だと誤解されがちです。
私が考えるには、愛には水属性以外のエレメントも必要で、火、土、風、水、全てのエレメントがバランス良く整わなければ回ることができません。

火が強ければ情熱が空回り、
水が強ければ感情に溺れ、
風が強ければ理を押しつけ、
土が強ければ形にこだわる。

正しく愛を伝えるには、自分自身が自立しており、また他者も独立した存在として尊重できなければなりません。
感情的に依存した関係では、愛の歯車はうまく回らないのだと思います。

この世に不安になる事件や争い事が絶えないのは、人々がこの愛の仕組みを理解できていないからではないでしょうか。
「好き」というだけでは、愛情は表現できません。
相手を思いやるには、相手のことを知り考えるだけの知性がなければ、きちんと伝えることが難しいと思います。

現代人は精神的なこと、形而上学的なテーマに関してほぼ考えてこなかったと言っていいと思います。
だから、心理学で仕組みがわかっても、他人に共感することができない人が増えました。
人間とは何か、心とは何か、それがあやふやなまま社会の仕組みが壊れていく今日に至り、人生の目的や人間関係の在り方を見つめ直すべき時に来たからこそ、多くの人が混乱し始めているのではないでしょうか。

いくら不安や怒りを共有したところで、現実の歯車を回さなければ何一つ解決はしません。
自分たちが恐慌をポルノグラフィティにするよりも先に、もっとやるべきことや気づくべきことがあります。

私は、それがまず「他人に気づくこと」だと思います。
自分に与えられた恵みや愛情への気づきも、自分以外のものに目を向けなければ気づくことができません。
そして、自分がこれまで依存していたことを知り、そこから自立しようと意を決し、他者を独立した存在として思いやる。
こうして初めて、愛の歯車が動き始めるのだと思います。


かく言う私も、それができているとは言えません。
人に気持ちが依存しているからこそ、反省すべきこともあります。
けれど誰もが修行中なのですから、これからうまくやればいいのです。

感情的なのは人間であるがゆえだし、感情的だからと言って恥ずかしいわけでもなく、それでポカしても暖かく笑える世の中であれば、誰も傷つかないのです。
この世がそんな平和で呑気な雰囲気になればいいな、と私は思います。

拍手