神様を偲んで Category:神世考察 Date:2025年02月18日 楽太郎です。 仏教には、「他力本願」という言葉があります。 現代人はこれを、よく「他人任せ」という意味で使います。 浄土真宗的な説明をすると、阿弥陀如来様の願いは人々の救済そのものなので、自分の力によって救われようとするのでなく、阿弥陀如来様のお力を信じることで皆救われよう、という教えです。 反対に、「神頼み」という言葉があります。 これは、普段から神仏を敬う気もなく崇拝する習慣もないのに、困った時だけ神様に頼ったりお願いする、という様を指すそうです。 「他力本願」と「神頼み」、現代人の解釈と本来の意味がほぼ逆になっている、興味深い言葉だと思います。 神社に参拝に行くと、神社の作法がめちゃくちゃな人をよく見かけます。 作法を知らないだけならまだしも、神様に対する礼儀というか、尊敬の念すらないのではないかと思う人もいます。 神様に感謝するとか、神様のお導きを受けたいとかではなく、もっとお金が入りますようにとか、恋人ができますようにとか、好き勝手に願掛けする人ばかりではないでしょうか。 今年の元日、地元の神社に参拝に行きましたが、人々の邪気が境内に滞っていて気分が悪くなりました。 私が思うに、人々の邪念が濃すぎて神様たちの浄化が追いついていないのかもしれません。 近所の小さなお社に参拝するついで、邪気を持ち帰って浄化したりしていますが、しばらく行かないと邪気がずいぶん重たくなります。 そのお社があるのはたぶん霊地ではないため、神様の浄化が追いつかず邪気が溜まりやすくなっているのだと思います。 色々な霊能者の方が言っているように、私も「神様の力が弱まっている」と感じます。 ただ、地球レベルで言えば神様の持つ権限は日増しに大きくなっているようです。 しかし実感で言うなら、神様のご神気は強くなっているとは言えません。 ものすごく主観で話をすると、「神様がやる気をなくしている」ようにも取れるのですが、いずれ現象としては邪気邪念の類が野ざらしになっています。 おそらくこの気の滞りが、街のどんよりとした空気感とか、人々の気力の喪失などに影響しているように思えます。 神社で受けるご神気も、微弱なのもそうですが日によって全くなかったりします。 それでは参拝ついでに自分が霊気を補充することもできないので、最近は自宅の神棚をしっかりお祀りして、神様とのご縁を強くすることに専念しています。 毎朝神棚に3種類の祝詞を奏上しています。 始めに「禊祓詞(天津祝詞)を唱えてから、ニ拝二拍し「神棚祝詞」「ひふみ祝詞」を唱え、ご挨拶をして一拝します。 この儀式をすると不思議と気持ちに筋が通るので、効果は的面に感じます。 「禊祓詞」を読んで、気づいたことがあります。 国生みの祖神である伊弉諾命が「禊祓」における主役であり、その命を受けて瀬織津姫命などの祓戸大神が禍事、罪穢れを祓い清めする役割を担っています。 神道の目的は「人間の罪穢れを祓うことで世を清浄にする」ことであるとされます。 つまり、日本の神々は「邪気を祓う」という役割を持ち、罪穢れが祓われた清浄な世こそ弥栄となり、人々が本来の正しい生き方ができる、という考え方のようです。 仏教が「煩悩」から解脱し、悟りを開くことで浄土に至るという考え方にも通じるものがあります。 これは、近年の新興宗教のように「信じる者しか救われない」とか「救われるためにはこれをやらなければならない」という教えとは一線を画すものです。 神道には教義がありませんし、祝詞も「神様に感謝する際の定型文」でしかなく、ほぼ心の持ちように全てがあるような気がします。 この「心の持ちよう」は、現代人が最も苦手とすることではないでしょうか。 「頭で思っている分には自由」 「バレなければ何をしても良い」 「悪いのは全部他人のせい」 こういう考えが、神様からお見通しだとしたらどうでしょうか? その心で神前に立てば、神様に本心を曝け出すことがどういうことかわかるのでしょうか? 「お天道様は見ている」とは言いますが、まずお天道様の存在を信じていれば、言動は元より心の隅々までお天道様に見られていることを自覚せねばなりません。 心の弱さや未熟さを神様がご覧になられていると思うからこそ、自分の足りなさを恥じ、謙虚になることを覚え反省と感謝をしながら生きていけるのです。 その生き方が「神道」そのものであり、日本人がずっと繋いできた人生の知恵なのではないでしょうか。 人間はやはり完璧にはなれないので、どうやっても過ちは起こりますし、罪や穢れも生じます。 それでも人々が一生懸命生きようとするからこそ、神様が「その努力を認めて、少し力を貸してやろう」と思われるのかもしれません。 しかし自堕落な生活を改める気はなく、神社にお賽銭も入れたし宝くじが当たるに違いない、と思うような人に神様がご加護をお与えになるでしょうか。 私がいくら徳の高い神様でも、そんな無駄なことはしたくはありません。 それならきちんと手順を踏んで努力する人の願いを、優先的に叶えたいと思います。 だからこそ、最近は神社でも神様が奥に引っ込んでいらっしゃるのかもしれません。 神様の気持ちを慮ることはおろか、神様の存在自体を疑っている人の都合の良い願いを聞くほど、神様は人間に尽くす立場の方々とは思えません。 現代人は、ここの部分を大きく勘違いしています。 神様はこの地球に太古からおられ、数十万年前に人類を生み出してからは、ご先祖様と土地を長い間守ってこられた大いなる存在です。 それが生まれて数十年の、人間の利益ばかりを気にする存在だと思うのは虫が良すぎるというものです。 今世に禍事が蔓延り、人々は自らの邪気で自家中毒を起こしています。 そうなってしまったのは、人間たちが自分たちで「罪穢れ」を自浄することを怠り、神仏を足蹴にしてきた結果なのではないでしょうか。 厳しいことを言うようですが、だから現状は「自業自得」としか思えない、というのが正直なところです。 この地球は「資源の塊」であり、地球は人間が豊かになるために存在する「モノ」で、地球で一番優れた存在が「人間」である、と思い上がってはいなかったでしょうか。 強い言い方になってしまいますが、私もその人間の一人ですし、反省すべき点も懺悔してもどうしようもない部分もあります。 ただ、「神様はどうお感じになるだろうか」と思い巡らすのも大切なことで、はるか昔のご先祖様はそれを慮り、お社を建てたり感謝の祭りをしたり、時には生贄だって差し出してきたのです。 その思いを受け継がずして、この島国の土地で「日本人」と名乗ることができるのでしょうか。 私は、それでもこの国の人々を信じていますし、いずれ目が覚めて大切なものを思い出してくれる日を心待ちにしています。 神様もきっとそれをお望みでしょうし、今起きていることもおそらく、その「伏線」ではないでしょうか。 これから少しでも上手に暮らしていきたいのであれば、神様を敬いながら自分自身を見つめ直すことかもしれません。 それでも神様はきっと、そういう人には目をかけて下さると思います。 PR